2006年 更新時のメッセージ 


■新年明けましておめでとうございます。里山風の「手自然」を創っていくことは、ヒトを元気にするイヤシロチづくりでもあることがわかってきました。気持ちのよい環境と世間(コミュニティ)を求めそこに向かうことは実は同じ目的であることもわかっています。そこへ至るために埋めなくてはいけない隙間は気が遠くなるほどあるのだけれど、今年も少しでも多くの汗を流していたい‥‥。時代の中にひとつでもふたつでもプラスの芽をみつけたいという人々の思いがわずかでも成就する年にできないものか。地域で、そして各々の場で。06/01/01

■左の肩甲骨の内側の力を抜くと、力みが消えて体が柔らかくなる。立ったまま、全身の力を抜こうとすると、バランスのいいフニャフニャの体になる。しかし、こころはそううまくならないもの。ただ、からだの自然体へのチャンネルを覚えて上手に行き来すると、こころもそれに近づくことが出来る。今年は林の中でもっと自然体でいることの入り口を探してみよう。06/01/08

■オフィス労働者は股関節が固まる(これはわたしの勝手な仮説)。腰とか股関節は体の中心でありかつ酷使している現状を日々反省しつつ、状態の改善に努力と観察を継続中。昨日、股関節には歩くスキーやクロカンがいいことを発見。健康、リラックス、養生‥。自分の身体に観察の目を向けると自分で自分のドクターになりそうだ。1/15

■よく雪が降る。降れば降るだけ春への期待が強まるのがわかる。この降りが春への折り返しだ、と思い始めるこの頃です。小屋の室温はたいていマイナス10℃ほどの冷凍庫状態になっている。先日、外はマイナス4℃だったので、外気を取り込んで小屋を温めた。これは寒冷地ならではの発想だなあと苦笑い。熊本の友人からみずみずしいデコポンが届いた。向こうはもう梅でも咲く頃だろうか? 1/22  

■冬の森の散歩は心躍る。大雪の翌日、快晴の研究林にいくと、中高年の方々を中心に散策する風景に出会う。幌内川をせき止めた清水の池はマガモでにぎわい、樹木園の、餌が

豊富な場所にはヤマガラなどの野鳥が群れなしていた。人もその辺にそっと身を近づけ得がたい野性と共生する現実を振りむく。冬の森、凍てつく林。しかし生命感は満ち満ちており、わたしは呼吸がうんと深くなる。2/5 

■冬の風景に惹かれるのはなぜか。これは恐らく、降り積もった雪が、林に介在する大き

な樹木以外の全てを雪の下に隠してしまい、広大な「地」(ground)を創ってしまうからだ。そして樹木は自己主張の強い「図」(figure)になる。わたしはこれを20代をかけて巡った数多の山スキーで体感した。それは個人的な森林美学の実習ツアーでもあった。樹木というオブジェと肉薄するなら冬に限る。2/12

■     新年になってから、林が実はセラピストなんだ、という話を3回こなした。北海道のグ

リーンコーディネーター制度で講師派遣をされるのだが、苫小牧を手始めに釧路、そして先日は躍進著しい自治体・北広島市。苫東のフィールドを紹介してから、森づくりを志しておられる方々や行政の方々を対象に森林ボランティアの現状のようなことをお話した後、林が身近なセラピストであった、という点をゴールに話し込んでいくのだけれど、なかなかすとんと落ちない。釧路は大失敗、北広島はすーっと進んだ。特に北広島市では実に多くの方々から質問を受けた。それがいずれも核心をついたもので驚かされた。2/26

■その釧路で、市役所で緑地関係のセクションで課長さんをしておられるKさんに春採湖

を案内していただいた。ここも実に多くの市民の方々が真冬の、霧氷咲く中を散策をしていた。林の層は厚くなく、海岸段丘の斜面緑地と湖面なのだが、その斜面の植生のバラエティーがすごそうだ。Kさんは、ここのバラエティーの維持と、その対極にある園地化との間(はざま)で、選択的管理、除草サイクルなど、実にきめ細かい管理メニューをイメージし、地道に提案している。わたしも経験のあることだから、むずかしさと必要性はとてもよくわかる。ここには合意形成までの小さくても果敢な闘いのようなものがある。公務員がんばれ、とエールを送りたい。

■モバイルを購入した。10年ほどまえ、薄型のノートパソコン・2ギガのバイオを買ったときには25万円もしたのに今や40ギガで10万円もしない。当時、まわりがパソコンの話に花が咲いていた時に、当方はあまり興味を示さないでいたのが何かのきっかけで目覚め、レポートづくりなどに不可欠なものとなり、ホームページをつくりやがてブログやソーシャルネットへと進んだ。その各々の機能に時代を拓く要素も嗅ぎ取る。もっとも心強く思うのは、この情報でつながっていれば、どこででも仕事が出来るのではないかと感じること。だが、実現はしていない。いずれはそうしたいところ。3/5

■北国に多いという冬季うつ病は2万ルクス程度の明るい部屋にある時間をすごすことで治癒することができるという。今日、快晴の雑木林で雪の照り返しを浴びて山仕事をしている時に、そんなことを思い出した。思えばヘルシンキの2月は、重たそうな雪雲が空低くアタマを抑え、ムンクではないがなにか叫びたくなりそうだった。ところが、北国の雪の残る早春は、一転して心をウキウキさせる明るさに満ちる。日が長くなり、雪の照り返しがも列に強くなるという二つのベクトルが今最高に強い。光は希望。木を切りながら、そんなことを思った。3/12

■自分が住む地域の「まちづくり」や「景観」に関わることは究極の道楽、醍醐味である。大きくはない自治体やコミュニティの、小さくともある部分にしっかりと関わりをもて支え支えられているという実感は、生きていることの証明でもあり、幸せの実体であると言えばいささかオーバーだけどかなり近いと思う。いわばローカルな現実を突き抜けていくところに、普遍的な問題解決の鍵があるからだ。13日の週は、長野と山梨のいくつかのマチで伺った地域経営、地域おこしのヒアリングでも、やはり同じような感慨をもった。地域個々のテーマに、存分に人生をかける土地の人、そしてよその人。地域を離れ、都市に向かう流れに、生き様が逆提案をしている。雇用も生み出す地域のパワーと、それを飲み込んでしまいそうな経済と社会。拮抗するバランスと綱引きは息を呑んで聞くドラマのようだった。3/18

■その長野では森林セラピーの取り組みが活発である。しっかりと練り上げられたストーリー性としくみが出来ている。いろいろな関係者の知恵を集めた形跡と歴史的なものや風土資源の支えもある。ここでも地域資源の料理方法が問われる。知恵比べ、地域間競争という緊迫感が生まれるがそこでもやはり

■やや難聴気味である間に、多少人の話が聞き取れなくとも気にならなくなった。そうしている間に、こんどは意味がわからなくとも平気になって、追求しなくなった。これがまずかった。「わかったふり」。これは脳を著しく退化させる。わからないことにぐいぐい入り込んでいく集中力、統一心がなくなれば、「どうでもいい」状態はすごく近い。難聴は気楽だが、ボケにつながる。目が悪いと活字を見るのが苦痛だ。両方をうまく解決するためにラジオを購入。耳からしっかり聞いてみよう。なんちゅうこった!  4/8

■林と付き合いながら、今の自分の状況は「ひきこもり」の一種だと考えてきた。雑木林と一対一で真剣にやり取りすれば自ずとこの状態に行き着かざるを得なかったのであるが、これはとても自然だった。グループがあるわけでもないし定期的なイベントがあるわけでもなく、存続の義務もなくあっけらかんとしてさびしくもない。ほぼひとりで、林のあるいったいを手自然として維持しているだけ。「引きこもらないと見えない世界」に興味が尽きない。 4/9

■産土の記録=4月23日?省略

■積極心とは人事を尽くして天命を待つ心だと、沖正弘氏は書いている。気張らず、やすらぎと寛容をもった全力投球のこころ。しなやかに生きてみたいものだと考えてきたわたしは、この積極心という言葉に強く意味を感じる。ヨガの第7段階では積極心を養え、という。この積極心というのが、林の手入れとか林の中の静かな散策の時間に妙に親和性が高いと感じる。林はやはり自省、自己内観、宗教性の重要な入り口を開いているのだと思う。こう書けば、驚かれるかもしれないが林の手入れのこころを素直になぞると、こういう感想が生まれてくるのである。これはかつて自分では予想もしなかった世界である。

■3月の末に「北の森林と健康ネットワーク」が設立されて、いよいよ動き出す。

■5月の末から英国のフットパスを歩いてきた。写真やテレビ画面等で見慣れたつもりの風景だが、実際の丘のうねり、土の感触、空気のにおいをともなった全体の風土感は、やはり現場で、2本の足と目でしか確かめようがないことがわかった。そして、人。正直、英国人がこんなにフレンドリーだとは思ってもいなかったから、大変驚いてしまった。そしてそれがなんとなく民度の熟成、発酵からきていることに気づいた。その延長線に、入念な議論を積み重ねたのがフットパスである。人々が、自分にとって、(林の)フットパスが必要だ、というコンセンサスが生まれるとき日本の人々の顔が変る。それは遠くないかもしれない。時代はひとびとのささやかな学習によって少しずつ対極の方へぶれようとしている。

■スウェーデンの駐日大使の講演を聞いた。少子化社会を政策によって克服したとされるスウェーデンだが、それは1970年代に打った政策が実ったものらしい。30年前だ。意見交換では安心して子供が生めるようになったのは1993年頃からだということもわかった。大使はいう、「日本もいずれそうなる。悲観していない」。そういえば、日本で近年問題となった「寝かせきり老人」。福祉先進国とされるデンマークの30年前の姿だという話もきいたことがある。このようなスパンで時代をみたい。

■フットパスのササを刈り払う。右、左、右、左という眼球運動はPTSDに有効だというし、危険な刈り払い作業は刈り払う部分に全神経を集中させる。燃料がきれるまでの数十分、このまま無念無想。これは動的な冥想に他ならない。手自然をつくる里山の作業は冥想の時間。

■登別温泉の林の散策コースを試し歩きしました。明治時代の開湯だから歴史も古く、最

も長く古い散策コースには札所のようにお地蔵さんがたくさん祀られており、まるで信州

にでも行った様な気分。泊まったオーベルジュはジャグジーやサウナのない静かに源泉だ

けが沸いて出る温泉でした。部屋は豪華ではありませんが窓越しは緑の斜面を独り占めで

きる額縁のような風景を独り占めできました。洗練された女性スタッフにサーブされた洋

風の料理はひとしお。林と温泉と食が一体となった保養地スタイルに、これから日本の観

光地だけでなく自治体そのものが競争しながら大きく傾斜していきますが、ここはその伝

統をうまく活用した従来型の延長モデルかも。そつのない若い人のサーブがそこに思い出

を織り込む仕掛けも感受しました。Nプロデューサーの眼力に脱帽。7/17

■ぬか付けの床を作った。もっと野菜に近づいた食生活をしようと思い立ったこと、発酵

系の食物が中高年の身体が求めるという説を読んだからだ。そう思ったときからいつかや

ろうと思って頃合を見ていた。玄米からの精米機を買ったために「ぬか」が発生するのが

実は裏の大きな理由。で、リサイクルして使うぬかをネットで読んだマニュアルどおりに

仕込んだ。昆布、にんじん、大根の葉っぱなど。冷蔵庫に残っていたオクラも入れた。こ

の手作業の充実、この快感、この生命感のつながり。

■札幌方面は逃げ場のない太陽がさんさんと降り注ぎ、ちょっといたたまれなかった。そ

して恵庭、千歳、さらに南下すると遠くに、おお、雲が見えた。太平洋沿岸に霧が出てい

るのだ。よしよし、それでなくては。と、苫小牧のわが家あたりに来ると、気温は26、27

度から22度まで下がった。どうだ、この快適さ。霧や曇りの光線の柔らかさは、緑を濡ら

し引き立たせる。そして霧、雲は天然の日傘。自然度が高いと、アスファルトの照り返し

がないから無茶な温度上昇は緩和される。エアコンで生活温度を管理するのはそろそろ止

めにしよう。そこで、居住地の北進。この観点でじわじわと都心離れが進んでいくと、北

の過疎地の問題は少しずつ改善される。都市からの自立。人々の創造性が試される。7/30

■小屋の外は32度。わずかに風がある林の道を今日も淡々と刈り込む行為は、もう媚薬のようなものとしかいいようがない。ガソリンが切れて戻ってくると、作業着のワイシャツは汗で重たくなっていた。薪のうえにゾウムシや得体の知れない小さな虫がのそのそと張っている。窓には蝶がいる。スズメバチも迷い込んできた。客人が来て外で立ち話をしていると腕にちくりと痛みを感じて、見ると2ミリにも満たない珍しいブヨ。猛烈なかゆみに襲われ今は直径3センチほどに膨れ上がっている。コナラは土用芽を出して真夏の新緑。原野は、サビタの花が白く染めている。英国のサンザシの白い風景に似ている。猛暑の今、生き物たちの声が聞こえそうだ。

■哲学者・内山節さんの「  」を読んでいる。地域の、小さな点のよう土地と結ばれながらグローバリゼーションとは反対側に身をおく、また、おかざるを得ない存在。その土地と結ばれながらの暮らしや仕事の中に生きるさまざまな知恵。これに触れるには情報や都会の社交ではない、風土の中にいなければならない。わたしは、若いころ山登りにあけくれたが、アルピニスト的な山行をこなしながら、こころは辻まことのいうウラヤマニストだった。低山、平地の山に日常的心身を遊ばせるのだ。内山さんと辻まことの二人の間で、このごろ静かに産土(うぶすな)の息遣いに耳を傾けている。

■駒沢高校がまた勝った。冷や冷やするが、本当に強い。

■森林医学という厚い本が出た。医学と森林の両側からうまくアプローチされた集大成と言える。いつのまにか、森林が効きそうだというデータがそろっており活用方法も具体的に示されている。だが、巻末の方である有名な方が、都市に暮らすものが緑に飢えている、と判を押したようなことを書いておられる。しや、違うと思うのだ。飢えていることを感じる感性が曇ってきている、という

■週末は低気圧で大荒れになった。これで秋は急速に深まり、寒さがやってくるだろう。風で唸る雑木林の小屋で、たっぷりと変ろうとする秋を味わう。そのことに特に意味はないが、万物とともに生きているという実感がする。川は鮭の産卵が営まれており、夜半、マガンたちの渡りで鳴きかわす声が聞こえる。エゾシカの移動も少し活発なようだ。季節は、巡る、めぐる。と、小屋のベランダには、煙突から薪の煙が回ってきてここの雑木林の寿命と薪としての循環を思い起こす。季節の螺旋回転、命の誕生と風化、秋は人を宗教家にする。10/8

■刻々と秋が深まってくるのがわかる。ウルシ以外の紅葉はまだ見るほどのものは少ないが、たとえば、春、天婦羅にしていただいたコシアブラは、おぼろな紅葉ならぬ「白葉」を始めた。もうすぐ、アルビノのような白い葉になる。フットパスではカラ類の群飛に出会う。秋遅く、種を越えて集いあい仲良く枝を渡り歩く。小屋の脇のピザ釜では日向で子連れのカナヘビ家族が張っていた。新調した薪ストーブは今のところ小一時間で室温を20度まで上昇させ、ゆっくり蓄熱するので薪は数本で足りる。生き物たちとシェアする身近な林、そこでの謙虚な学び。せめて週末だけの減速生活。10/14

■10月22日、道北下川町で開催された森林療法のフォーラムで森林療法研究家の上原巌さ

んと心療内科クリニック院長で森林療法に実際に取り組んでいる降矢英成さんとご一緒の

鼎談をさせてもらった。都市公園から里山、奥山、そして森林浴からもっとディープな冥

想ちかくまで、森林の付き合い方はさまざまであることを改めて痛感し、今のわたしのポ

ジションがよく見えた。どのステージを自分は好んでいるのか、休まるのか、元気がでる

のか、そういう感性で意識的に目を向けてみて発見することが、これからの林とこころの

テーマだと思う。「林とこころ」は偶然たどり着いた拙著のタイトルだったが、そのちぐは

ぐなネーミングに、ちょっと意味がある、と思い始めた。10/24

■用務で知床を訪問した。若いころのルシャ川、サシルイ川などの沢登り、知床岬での滞

在、カラフトマスのフィッシングなど、つながりはあり折々訪れてはいたが、50台半ばの

今回は、およそ見え方が違っていた。ヒグマやシカにも出あったのだが、知床はそのよう

な野生生物が出現する視覚の世界の奥に存在する地霊(ゲニウス・ロキ)が、ぎんぎんと

わたしの心に感応するのだ。わたしの魂が、風土のにおい、形に震えるのだ。ヒグマをは

じめとする野生生物は風土の全容をわかりやすく見せてくれるドラマの単なる登場人物である。思えば、日本の世界遺産、屋久島、白神山地、熊野古道はやはりかなりスピリチャ

ルである。なかでも知床は野生生物の世界と厳しい自然環境のコンパクトな包みである。

10/29

■薪ストーブの煙突掃除をする。冬本番になってから、ストーブの吸い込みがおかしくなって煙突掃除をする羽目になったことがあるが、あれは気分を損なうこと夥しい。そこは正しく雪の前に。そしてその直前に、山ノ神に参拝した。いよいよ、この冬の山仕事、林の手入れを始めるからだ。新しい季節を迎えるための儀式がひとつひとつ、粛々と進む。11/11

■今年の山仕事をはじめた。その初日、遠来の客が2組。不思議な縁が結ぶ宴となった。

うれしい小春日和だった。11/19

■先週末、長老も山仕事を始めたようだ。わたしは今季2回目はまだならし運転。昼、女

性のお客様が見えて、薪ストーブ歓談。こういう臨機応変のいい加減さ(きままな適当さ

)もこの山仕事のいいところ。人との出会いは何よりだから。林も小屋も薪ストーブも喜

んでいるようだ。11/26

■わけもなく感謝したい日。その感性を持続したまま雑木林にいくと、ものみな、美しく見えた。この不思議な心の動き。この「こころ」はコントロールができる。現代の病理はへの取り組みはここから始まるのではないか。12/02

■道南の上ノ国町にお邪魔した。感激でした。町長の日常の取り組み全般に、新しい時代

の首長さんのスタイルを見ました。また、滲むまちの歴史。公共建築のデザイン性の質の

高さにも目を見張りました。道の駅「もんじゅ」はイヤシロチ。エージングの年輪につれ、

これから大きな注目を得ると思います。12/10

■山仕事は遅々として進まない。けれども、風景は変わっている。ツルと枯れ木を片付け

ているだけで、間伐による材が出るまでにいかない。ただただ、雑木林の代謝を促す風景

の修景。こころ踊る時間ではあります。

■思考能力が停滞したまま。これは感性の問題だ。どうすればマンネリの魔の手から逃れ、

豊かな感性を持ち続けられるのだろう。大局観と今への集中。コツを思いついては忘れて

行く。12/17

■昨日もアカシヤを伐った。荒れた風に見えるあたりはたいていアカシヤの群落で、枯れ

ているものも多く、ツルが絡んでとなりの木にも徐々に。まさにインベーダーのごとく。

しかしすごいものだ、枯れていても腐っていない。チェンソーを入れているうちに、マメ

科特有のにおいがわかるようになった。12/23

■徒労とも思える枯死木やツルのからんだ林の整理がやっと終わった。あまりに仕事が進まないので焦燥感まででてきましたが、やってよかったなあ、と実感。空間が晴れやかにかわり、壁を乗り越えた風。べそを書いていた暗い表情の林が、今は笑い始めた感じがあります。気持ちのよいイヤシロチの林は人の手で作ることができる、という確信。手自然と言い換えられるそれは、奉仕が支えるしかないが、そこには恵みがあり褒美が待っています。それをモーリーの12月号に書きました。12/30