草苅健の2000年の庭=活字のガーデニング

庭からの発信 '00

このページは、従来、グリーンサムクラブの年報に投稿してきた
草苅個人の庭にまつわる小文です。2000年の反省と新シーズ
ンへの展望など。



《庭が好きな人、林が好きな人》

「ガーデニングのおばさんたちのエネルギーは特別よ〜!」。
 12年の9月、あるシンポジウムの打ち合わせのために、女性環境デザイナーNさんらと
札幌のホテルで会った時のNさんのフレーズ。シンポのテーマは「里山と市民参加」で、全
国では近年、この「里山」がみどり系でもっとも注目される分野になってきました。NPOも活
発で草の根ボランティアも企業の支援も底堅いうねりがあるジャンル。このテーマに沿ったパ
ネリストがわたしを含め数人集ったというわけです。
 
わたしが地方都市でガーデニングの会に関係していることが誰かの紹介で座に広がり、その
コメントとして上のカッコ書きが登場した訳でした。現場状況としては、最後の「よ〜」に
力が入っており、ガーデニングおばさんについては特記すべき体験を豊富にお持ちのような、
そんなニュアンスでした。花のガーデニングは道内に限らず、むしろ日本全国を席巻して
(ように見える?)そのブームのボルテージは発刊される関連書籍・雑誌の種類に反映され
ているようにも感じられます。そして全国のガーデニングの担い手に共通することは、女性
が中心であることと、元気のいい中年・熟年女性(いわゆる、おばさんと愛称)が多いこと。

 一方、テーマの里山、そちらはどうなのか。正直なところ、ガーデニングに比べると林は
結構暗いのではないか、話の中にそんな発言も出てきました。まあ、そうかなあ、なるほど、
なんてぼんやり話の成り行きを眺めていました。アタマの中には、ガーデニングで元気の
いい方たちの顔が浮かび、林の方で会う人たちの顔も並んで浮かんできて、だが、待てよ、
どっちも元気いいぞお!、と気づきました。
 
 確かに、森を歩くのが国民の趣味のひとつともなっているドイツでは、「哲人は森から
出る」と言われるように、森の散策は思考、内観の重要なステージです。知人はドイツに住ん
でいたとき、相談があるとやってきたドイツ人に「森へ行って話そう」と誘われたと言います。
個人的な経験から言っても、林の中では「特に群れない」「単独も少なくない」「多弁でない」
「静かである」ことが多いため、人間を明るい、と、暗い、に分類すると、決して明るい
イメージに見えてこないのは一理あります。
 
 けれども、今度はガーデナーとしてのわたしの経験からすると、ガーデニングもある時間帯は
とても内省的、内観的と言えるのですね、これが。苗づくりの作業や早朝の花がら摘みなど、
思い起こすとたいていの作業は一人で静かに進めるものであり、自分との対話のシーンは
かなりあって、ガーデニングの本当の魅力の半分はその営みにあると言ってもいい。
 
 では、どうしてガーデニングが元気印に見えてくるのか。これはガーデニングが持っている
「社交性」に起因しますね。庭は、自分のためにと思って始めても、基本的なところで庭の
風景が外に向かっていれば社会とのつながりは必然的に発生してしまう。そしてこのこと、
つまり程度の差はあれ、社会や他人とつながることを厭わない人々を中心に、今日の
ガーデニングが進んでいると言えるでしょう。また、その方々がブームを明るく気丈に
支えているのではないか。

 「ガーデニングは多分に社交界的な側面を持っている…」。これは、巷間、言い習わせられて
いる物言いでは決してありませんけれど、少なくとも日本ではあたっているのではないかなと
思えてきます。とりわけ、「マチづくりをサポートする個人レベルの有力なアクション」と
位置づけられるようになった今日は、どうしてもついて回る欠かせない側面になっていると
言えます。

 ただ、ガーデニングは、日当たりのいい社交界の面と、一人の静かな至福の時間をもてると
いう二面性が特徴的と言えるし、その間を行ったり来たりする、ある意味では衣装を替えない
まま、役柄を移動する、そんな忙しさを内包(何か、難しそうないい方!!)しているんです
ね。

 蛇足だけど、わたしの関わる庭と林、ジェンダーとしてはどちらがどう親和性があるかと
問われれば、散歩など楽しみの側面では互角、作業からみると花の庭は女性、植木や林は男性、
デザインでは…、といろいろ楽しい「こじつけ」ができます。もっと根本的なところでは、
庭仕事は日常的にできるが林の作業は週末にしかできないために、男と女の棲み分けが発生して
しまうとも言えます。そして意外と差が大きいのは自己内観の深度。林が「異日常」的世界で
ある分だけ、「転地による気晴らし」によって骨太な緑の時間が流れると考えられます。
それは日常的なライフスタイルから一歩踏み込んで、泥臭い生き様としての緑体験に
近いみたい。

《美しさの原理と園芸のマニュアル》

 クライストチャーチの庭を見ていたとき、同じ素材を使いながらどうしてこうも見え方が
違うのかと立ち止まったことがありました。特に何でもない花壇の存在感と見せ方にとても
いいセンスを感じたからでした。さすが歴史の差かな、と思いたいところですが、よく見て
いると具体的な部分では比較的知られた美の原理を応用しているのがわかります。花壇や庭
づくりにそんな原理がさりげなく埋め込んであるあたりがやはり「園芸の歴史」なのかも
しれません。

 クライストチャーチで立ち止まったその庭は、道路に面したB&Bの小さな花壇でした。
玄関の左右を同じ形の植え込みがあり、同じパターンの飾りでした。通りの反対側からもよく
見えてとてもインパクトのあるパープルガーデンでした。
 心地よく見えたのは、「花の繰り返し」(リフレイン)。ロベリアともう一種の白い花
(ありふれたものですが忘れてしまいました)が淡々と繰り返されているもの。これが玄関の
中央を軸にして「左右対称」(シンメトリー)になっている訳です。個人の庭でも、芝を囲む
前面の縁取りは、アリッサムの紫と白のリフレイン、あるいは、ベゴニアの赤と白、などと
言うように、もっと遊びたいところを我慢して我慢してじっと繰り返すという仕組みが見えます。

 クライストチャーチのガーデンコンテストでは、芝の審査の際は、芝のエッジがとても重要だ
と言います。文字通り、「縁(エッジ)」の扱いは景観の上でもキーワードのひとつになるもので、
それを庭に当てはめてきたのだと思います。鋭利な刃物で切ったようにすぱっと縁がそろっており、
公共の花壇では芝の縁の部分がすぱっと切れ落ち溝になっていました。エッジの芝の根を切る
専用の刃物(スコップみたいで先が平たい)もありました。こんな風に見ていくと、庭づくりの
いろいろな原理をどれだけポケットに詰め込んでいるのかは、自分の庭でデスプレィするときの
大きな味方。はっきり言ってちょっとマニュアルっぽいかも知れないのですが、ま、それはこの
際おいとくことにしましょう。

 そう思っていた矢先、同じ町内のIさんの庭でこのリフレインを発見しました。大通りに面した
その場所は従来、歩道の縁を借り、塀をも利用して手の込んだ飾りをしておられたものですが、
長い単調な延長を持て余しているような状態に見えました。それが2000年は一新されていました。

 それらを一口で言うと、大小サイズをそろえた10個以上のコンテナに、同じサイズの
コンテナごと同じ素材を使ってそれらを規則正しく交互に配列したもの、と表現されます。
もちろん、いずれのコンテナももりもりで、ガザニアなどすこし大ぶりの種類も盛り込んでありました。
色と形の心地よいリフレイン。ここにも、テクニックを確実に自分のものにした人がいました。

《2000年の実験 〜苦痛の庭づくりからの脱出〜》

 勤務の態様が変わってから、今年も、庭は次第に負担となり重圧となって煩わしさが先に来る
ようになってしまいました。物事の優先順位をつけて動き始めると、庭に優先順位を高くせねば、
と考えてしまうそのことが居心地の悪い原因でした。

 なぜ「せねば」なのか。理由のひとつ、それは庭が公道に開けているからです。塀を低くする
運動が展開され、あるいは敷地が小さくなったこともあって、新興住宅地で塀はなくなりつつ
ありますが、そのおかげで「すててこ」で庭に出ることができないとか、洗濯物が丸見えになる、
などの弊害?も顕在化してきました。

 そして、花の庭づくりの重圧。一度飾ってしまったあとのフォローのことですが、社会への
ある種のメッセージでもあった「花の庭づくり」の宿命でもあります。でもそこは考えようで、
割り切ってしまえばあまり気にならないかも知れないし、手のかからないパターンへ替えて行く
しかない!そんな手抜きや省力化も、いまや苦痛をともなう庭づくりからの唯一の脱出策だ!
っとまあ、そんな気分でシーズンは緩やかにぐずぐずと始まりはしました。

 公道に直近の部分は、こぼれ種のアリッサムなどの「ズラシ」(実生を脇へ移植する苗づくり)
で対応。芝は公園芝の張り替え。それからささやかな実験はインパチェンス。インパチェンスのコ
ンテナやハンギングバスケットは、当初から割と簡単にコツがつかめましたが、どうも露地の
あの立体的な盛り上がりは作ったことがありません。アムステルダムのフロリアードで見た
インパの長い花壇は、並木のように(ちょっとオーバーかな?)立体的で驚きましたし、
地元の苫小牧信用金庫のとある花壇でもとにかく立体的な仕上がりが見えます。

 で、わたしはあれをやったことがない。あれは一応やっておくべきだ。今年はアレを実験して
みようと相成ったのですが、植え付け1ヶ月後の7月中旬でも、いっこうにはかばかしくありません。
根を掘り返してみると、伸びは悪くなさそう。とすれば…、肥料だ!基本的な元肥も一応やっている
のだけれどきっと肥料が不足しているのだ!考えてみると、露地であるための肥料の流亡や浸透も
考えなければいけない。それからは肥料作戦に変更しました。こまめにせっせとマグアンプや
なにやらをインパの顔色をみてあげ始めたところ、お盆前頃、まずその効果が見えてきました。
効果が見え始めるとあとは瞬く間に盛り上がっていきました。めでたしめでたしです。

 さて、2001年。2000年の様々な反省、いくつかの現実的な壁、これらを一緒くたにして
新しい解決策はなにか。それも後ろ向きではつまらないので、「超・前向きの正しい手抜き」、
これに邁進し秘策をねらねば、とまた新たなプレッシャーを自分にかけてしまっているわたし。
「苦痛の庭づくりからの脱出」を言いふらしながら実は、「苦痛の庭づくりという蛸壺」に
入り込んでいくのでありました。あああ…、何というこっちゃ…。

《これから本格化する庭のタイプ゚》

 花の庭づくりのブームは進化しました。花数を増やし飾り立てることで上り詰めた峠を、
こんどは、最も落ち着きのいいレベルまで花を減らして、その分を緑でバランスをとり補完する。
2000年のグリーンサマア選びにおいて、「花」にこだわらず、かつ、塀の中外にも縛られないで、
「たっぷり緑」の「快適・お庭」を探してみると、本当になごむ庭はどんな風なお庭かが、このように
歴然としてきました。そこで果たす花の役割というものもあらためて見えてきたと言えます。

 とりわけ、日本庭園がわずかな量の花々ととても相性がいいという例が随所で見られたことは
これからのトレンドを示す快い発見でした。また、日本庭園は、プロ・アマ問わず、言ってみれば
庭師の世界。この庭師こそ、広い意味で Green ThumbあるいはGreen Thumberと呼ぶにふさわしい
ものです。そして美しい快適な庭は、おおむね垣根の管理レベルに現れます。垣根の手入れが行き
届いた庭に、石やこけ、松、ツツジ、シャクナゲ、モミジ、…。わたしの本心は、森づくりの手練れも
庭師も同じ Green Thumb であるというものです。緑の魂と対話できるかどうか、その
コミュニケーション力が備わっているかどうか、そこが大事なところ。 

 足下の日本庭園をもう一度見直し、そのバリエーションのなかに最も居心地のいいスペースを
創造するといえば、とても夢のあるテーマにもなります。「花のGreen Thumber」 から
庭のGreen Thumber」へ、というかけ声を発してみるとき、色合いの変わったステージも
顔を出してきます。こんな庭への重心移動は、町内、コミュニティにおける緑のニーズを
次第に変容させていくだろうと思います。
2001/jan 6