生成りの声を聞く

第7回勉強会@ウトナイ湖サンクチュアリ
2008/03/09 SUN 13:30--16:30



林とスピリチャリティを整理する





ちょっと立ち止まる

前回の、勉強会6回目では「林と冥想」を正面から捉えてみた。「林とこころU」の勉強会としては大きな山場へ上りあがった、といえるテーマだった。だから、ここのところはもっともっと立ち止まって縦から横から斜めから議論して見たいところだと思われた。できればずっとこの辺に居たい気もするし、たえず戻って来たい気もする。それで今回は別にテーマを持たずに、林や冥想やスピリチャリティに関することで振り返ってみようということにした。

勉強会開催前日の8日に、メンバーである白老の白井さんから本州へ転勤になったため急遽でられなくなったとメールが来た。出られないということより、勉強会の主要なメンバーが一人減るということにさびしさを感じた。白井さんからは、会場のウトナイネーチャーセンターの入り口をグーグルアースであたりをつけたと連絡がきたりしていたので、なおさらポッカリ穴が開いた感があった。そのネーチャーセンターでは2階の屋根裏を勉強会場に借りた。うまくいけばマガン・ヒシクイがねぐらに戻る大スペクタクルに出会えるかもしれない、そんな思いがあった。チーフレンジャーに聴くと、去年のピークは36日、約7万羽がいた、ということだった。それを見れるのではないか、という期待はむなしく、湖面のほとんどは氷だった。

こんな風に転々と会場を変えるのも板についてきた。渡り鳥のウトナイ、紅葉のポロト湖、初冬の岩見沢など、である。生々流転という言葉を思い起こす。

人はなぜ林に行かなくなったのか

人と林の間に、どうも近年(あるいは実は昔からそうなのかも知れないが)壁があるのではないか、それは何(なぜ)なのか、というのがずっと気になっている。緑化の技術者というのがわたしの社会人のスタートで、その前後の景観の勉強などを総合してもやはり林に向かう人が少なく圧倒的に多くが身近な緑など別になくても生きていけるというのは本音であると思う。そううそぶく世の中になったために、実は社会の変調が生まれたとわたしは密かに考える。もし仮定というか独断に満ちたこの見立てが正しければ、そうなった理由もいくつかは考えられて、結構あたっていると思い始めた。つまり必然性があってのことだと見えるのである。たとえば、理由のひとつは「身近なところに緑や林がない」。これは街づくり、もっと大きく制度上のことをいえば、町の中にどう緑を配置するかという都市計画のレベルである。人々の希求の反映とも言える。身近に緑がなければ、人は緑の恵みにも気づかないし、歩くこともしない。たまに登山などで森に触れる程度だ。しかし登山を趣味にする人は一部だ。

また、行きたくなる緑がない、という現実もあるだろう。気持ちが休まるような樹木配置でなかったり、広場とのバランスなどもある。向こうを見通せるかどうか、という安心感が生まれるかどうかも大きい。そして、その緑が倒れた木やブッシュや込みすぎなどで、よくいう「荒れた緑」になっていないか。このあたりが、クリアされていないと、今、あってもなくてもあまり気にならない、という傾向のなかでは人と緑がくっつくわけがない。釧路の愛国緑地や苫小牧の日新・豊川をむすぶ「こもれびの道」は、人工の細いグリーンベルトだが、そんな存在でも身近にあれば人々はこよなく散策を愛する、という見本である。しかしわたしなら、もっと本格的な幅やまとまり、深さを求めたい。

そしてもうひとつの理由「おどろおどろしさ」

上で述べたのは、林や緑全般への「アクセス」と「質」である。それと、あまり大きな声ではいえないが、理由の裏側(こういう言い方がそもそも正しいか疑問だが)には、樹木や林がもっているある特性があるのではないかと思う。メンタルな部分に影響をもつ「おどろおどろしさ」とか霊的なものである。林の中で、自分のこころの成長を見てきたわたしは、樹木や林が発する霊的なメッセージを否定しない。いやむしろ、それは自分の中の霊性と呼応していて会話しているように思える。呼応ではなく、何でも受け入れてしまう林が、わたしの霊性をただ映すだけであり、わたしの霊性が鏡になって向こう側にも見えているだけかもしれない。

こんなことをまじめに考えるようになったのは、「街路樹があまり受け入れられないのはそれが霊的だからではないか」という説に出会ったのがきっかけだった。人々に街路樹が本当に受け入れられていないかどうかは判断に困るし、街路樹は実際にファンもいる。また、国内でよく見かける若い街路樹には霊的なものを感じることがなかったから、この説にすぐさま賛成することはできなかったが、樹木に霊性があるという一般論は立ち止まって考えてもいい、と思うようになった。霊性の定義もあやふやなまま過ぎたが、鈴木大拙の「日本的霊性」とか梅原猛の「日本の霊性」を読んだり、地霊に関する著作も読みながら、樹木や林、あるいは土地のもつ霊性というものをゆっくり考察してきたのである。

梅原猛によると鈴木大拙が霊性という言葉を使ったのは、「精神」ということばが戦時中国家主義によって汚されたからだということから見れば、「霊性」は「精神」にかなり近いと考えてもいいようだ。しかし、霊性という言葉には、無意識の世界という含みをもったり、叙述されにくいものだったりするのではないかと思う。

さいわい、わたしの山仕事も小屋の生活も基本的にひとりで行うものだし、寝泊りで夜の時間も少なくないために、わたしの心身に対して林の方からどのようなメッセージが出されているのか、五感をそちらに向けることはできた。そして多少、敏感でいられた。やはりそれは、精神という言葉で簡単に呼ぶものとは異質であると思う。やはり霊性と呼応すると表現したほうがぴったりする。

「山辺」のこと

「林とスピリチャリティ」(勉強会では最初からこの言葉を使ってきた)をもう一度ふりかえってみるつもりで、わたしは今回「林の中の冥想と林の霊力について」というペーパーをつくった。わたしのスピリチャリティとは、こころのもっとも深い部分に語りかけるもの、としておこう。わたし側にあるのは、おそらく本当の自分、そして相手方で呼応するのは相手のスピリチャリティである。それが樹木だったり林だったりする。スピリチャリティ=霊性として、わたしは霊性という言葉を使おうと思う。

前置きが長すぎたが、前提をはっきりしておかなくてはいけないと思ったからだ。ただ、わたしの話は至極簡単である。田んぼなど田園地帯と林の接する境界部分はしばしば「山辺(やまのべ)」と呼ばれるが、その空間が持つ雰囲気に「あっち」と「こっち」という遠近をこえた質的な違い、どちらかといえば彼我、対岸とこちら、というほどの違和感がないか、ということである。そして、そこに「おどろおどろしい」ような霊性の存在をわたしは少し感じるのだが、参加のみなさんはどうか、というものである。

まず、山辺の定義というか見方を、樋口忠彦「日本の景観」からひろってみた。樋口は、山辺の景観を「背後の山は心理的な安定感をもたらし、前方の平地は、人が生活して行くための場を提供する」「山辺は、日本の最も安定した生活環境(=生息地)の型」だという。樋口は景観を語るとき、しばしばこの「生きられる景観」という言葉を使い、生活・生息するのに適していることを瞬時に見抜くことが出来ることを景観が象徴するのだという。このポジションを敷衍して行く先に、ヨーロッパの、道に面したカフェテラスがあると位置づけ、山辺の伝統的景観を心地よい街づくりにも応用できるとしている。

樋口は山の中の景観までここでは論述していないが、「あっち」と「こっち」でかなり異なる部分を列記してみよう。

田んぼ=こっち

林=あっち

収穫は一年
人的管理
平坦
明るい

伐採まで数十年以上
自然力、放置可能
斜面
暗い

 

山辺の向こうにある「おどろおどろしさ」

この山辺が、しばしばゴミ捨て場にされている。土地利用の境界部の山側の方に、ごみは廃棄される。しばしば不在地主が多く田園地帯の農家のようにいつも管理し看視している人がいないのが、林側の実態である。それは収穫や利用するまで数十年以上かかること、それまで放置しても壊滅的にならない、という理由が横たわっている。そしてなおかつ、収穫しようにも木材の価格が安く収穫に掛かる作業費が高いから、収穫も手入れもできないという現実がある。

それで、風倒木や枯れ木の混じった暗い林が出来上がる。林はケガレチのような雰囲気になる。また、込みすぎた林は見通しが利かないので不安を呼び覚ます。何が出てくるかわからない。ヒグマにでもであったらどうしよう。あるいはなにか訳のわからないモノノケのようなものにでもでくわすことはないか…。人は独りではもちろん、複数でもこんな林に行こうという気はしない。山辺の向こうは実はそんな風に変遷してきた。暗い混んだ林は人を招き寄せることが出来ない。人が棲める空間であるはずの山辺がケガレチの境界になっているのである。

「おどろおどろしさ」は解放できる

わたしは今、「手入れされた林や大木が、本来的に霊性を宿っている」ということを考えるつもりだったが、その話をすすめる前に、「手入れされていない林はおどろおどろしさだけが生まれて人の気をそぐ」という単純なことをせっせと書いているだけようだ。しかしこれは本題のずっと前の話ということになる。どうも今回の勉強会の内容を整理しているうちに、わたし自身の問題意識が片付いてきているようでもある。本来の「手入れされた林や大木が、本来的に霊性を宿っている」という部分は、しかし、わたしの手に負える世界ではないという予感がする。ここは「ネパール・インドの聖なる植物」(T.C.マジュプリア)や「昔話にみる山の霊力」(狩野敏次)などに任せて、おいおいさらに勉強して行くことにしてしまおう。民俗学にもますます惹かれている。

わたしが技術者としてもっとも手を貸すべきことは、林が本来もっている心地よい部分をどう引き出しどう見せて行くことができるか、その様なガーデナー的な行為であろうと思う。どうも、そこに視点をおいていたほうがよさそうだ。人が歩きたくなるような気持ちの良い林を創造するのは伝承できる「技術」であるから、そこを押さえて「ケガレチの境界」と劣化してしまった山辺の復活を実践するのである。「おどろおどろしさ」を解いてみせる技術、それは「手自然作業」である。手自然作業によって出来上がるのが「理想の新しい里山」ということになる。これを実現するために再構築しなければならないのが、土地の所有と利用の新しいシステムである、ということはわかっている。この関係性を解決し、今はやりの「新たな公」のようなものが存在して初めて、解放された林が地域にできあがってくるだろう。この道筋もかなり遠いように見えるが、まずネットワークによって、「手自然作業をしたい人」と「して欲しい人」、そして「そこで憩いたい人」を結ぶことである。それはそう難しくはない。

スピリチャリティとスピリチャリズム

瀧澤先生は、「森林とスピリチャリティ」というペーパーを用意し、スピリチャリティとスピリチャリズムを整理してくれた。確かに、これまで厳密に定義をしないまま話をしてきた部分があり、お互いの持っている捕らえ方に微妙な差異が生まれ始めていたかもしれない。少なくとも、わたしが考えている樹木や林の霊性と先生のスピリチャリティとは大分違う。瀧澤先生は、森林とスピリチャリティを考える基礎には、「森林は生きる力を育む場」というような、精神医学に関連する立脚点がある。それに今話題にしているキーワードとなる言葉(スピリチャリティ、冥想、霊性、魂、精神)の定義はむずかしい。わかっているつもりで使い込んできた言葉の定義を改めて聴かれて、立ち止まってしまうことはよくある。哲学的な奥のありそうな概念ほど、往々にして簡略化されて出回るから始末が悪い。新しい言葉はなおさらだ。林のスピリチャリティもここへきて、はて、なんだったのだろう、という状況にあった。先生はそこを整理して見せるべく、坂井祐円氏の「スピリチャリティの概念構造について」とインターネットで公開されているスピリチャリズムの資料を提示された。いずれも興味深い内容だが、ここでは前者についてのみ見てみる。

スピリチャリティの問題と概念構造

筆者は冒頭、スピリチャリティの概念規定が難しいために多義的多層的に使われ始めて、統一的な見方が難しくなっていると書いている。研究動向のひとつはニューエージや精神世界のもので、この関係者はスピリチャリティを宗教を超克している概念だという。もうひとつは心理相談やターミナルケアに代表される分野で、こちらはスピリチャリティを宗教とは区別された有り様だとしており、いずれも宗教をスポイルしているかのように見える。筆者は、宗教側が「それは誤解だ」という前に、宗教が前提としてきた設定について再考してみようというのだ。これはおそらく、これまでの勉強会で林さんが山折哲夫氏の言葉として引用される「宗教の賞味期限が過ぎた」という表現と表裏をなすことだと思われる。また、別の言い方をすると、宗教は人々の生身の生き方に対してなんら有効な助けを提供できないできた構造というか、社会とのかかわりのなさを露呈しているのだと思う。人々はそんな宗教に救いを求めることはせず、あいまいなスピリチャリティに助けを求めたのである。

しかし、実際はどうなのであろう。不治の病に冒され死期を迎えた知人らが、最終的に仏教の書籍を求めているのを知ったとき、人は宗教によって明らかに精神的な介護を受けていると思ったものだ。宗教による介護。これは宗教に本来的に課されていた大命題であり、潜在的に最もニーズがある分野ではないだろうか。

スピリチャリティ概念のプロセス・モデル

スピリチャリティとは何か。それは自分とは何かという自己同一性である…。資料はそう読めてくる。筆者はこの概念の構造を明らかにするために、心の内面に起き上がる情動的変化の記述描写を元に、とてもわかりやすい次のようなモデルを提示している。

@人生における危機的状況(苦難・災難・喪失体験など)の到来

A従来の生き方(人生観・価値観・世界観など)の揺らぎ
 =アイデンティティ(自我意識)の解体

B不安・恐怖・懐疑・不条理感・無力感・虚無感・罪悪感…などの発生

C自己の存在根拠への問い(「私は何のために生きているのか?」「なぜ私は苦しまなければならないのか?」…など)=スピリチャリティの覚醒

D超越性の探求(深層の自己への気づき、絶対他者・生命の根源への啓け)
 =スピリチャリティの表象

E新しいアイデンティティの形成と受容、世界観・価値観の変容
 =スピリチャリティの実現

 

このうちCからEのプロセスがスピリチャリティ概念の基本構造だというのである。Cは林などでも体験することが出来るし、病と出会って自己内観するときにも体験するだろう。Dは、ハイヤーセルフや宇宙観で、冥想でたどり着くこともできる。Eは自分らしさの発見であり、これを受けて「自分らしく生きる」ことが可能になるだろう。このように見ると、スピリチャリティとは、アイデンティティだということになる。筆者はさらにこころの二層構造に触れている。仮面をかぶり社会の中で生きる自分は自己実現のスピリチャリティがあり、身体・生命・宇宙との繋がりの中に見えるもう一人の自分というスピリチャリティである。

あとがき(まとめを終えて)

いささか長い記述となったが、書きながら自分の頭を整理することとなった。このままでは次回も次々回もこの手の整理をする必要があると思う。総てはそこに帰結するのではないかとすら思える。林と冥想、林とスピリチャリティ、このいずれもの繋がりの中に、現代社会の変調を方向転換するための鍵が眠っているように思う。ていねいにフォローしていきたいと思うこと切である。


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