〜より親密蜜な関係をもとめて〜
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時々の試み樹林気功は樹木の気に着目し、木から気をもらう。樹木は天と地の気を混ぜ合わせて人間 が利用しやすい気を作るのだという。混元の気と呼ばれる。わたしは「ポスト森林浴」に 向かってからいつもこの樹林気功という概念から離れられない。しかし、これが樹林気功 だという確信もまだもてない。だから、時々はこうやって独り向き合ってみるのである。 呼吸法など身体学で昨今注目の斉藤孝氏は、樹林気功はどうもよくわからないのでやめち ゃった、とどこかでもらしていた。また、ある方はかつて樹林気功に手を染めたが雑音が 多くてやめてしまった、という。「よしよし、それならば…」、そんな気持ちもないわけで はない。なにしろ、週末のある時間は間違いなく個別の樹木らと付き合うのだから。
伊勢神宮のスギだったり そう考えるようになったのも、伐採という行為をするようになってからだ。個々の樹木と 否応なく対峙することになったから、樹木の表情というのをよく見るようになったことと 深い関係がある。また、イメージとして、ある樹木と自分を重ねたりなりきったりするこ とは割りと簡単に出来るようになった。風に揺れてみたり、枝をリスや野鳥に遊ばせたり もする。相手は伊勢神宮のスギの大木だったり(これが一番気持ちいい)、郷里の山形の 実家にあったクスノキだったり、ログハウス前のカラマツ、中央公園のハルニレ、つたも りのクルミだったりと、その日ごとに対象を変えるのだ。
大木は気持ちがいいともかく、大木は気持ちがいい。より大きくなるにつれ樹木は表情を明確にする。地に根 をおろす。根をおろしたかどうかは、幹や枝振りをみればわかる。これは多くの樹木を移 植してきた経験でわかるようになったことだ。だから、土地に根をおろした樹木をおろそ かにしてはいけない。理由があって伐るときはそれなりの意を尽くさなければならない。 樹林気功のまねごとは、少なくとも自分の心身と環境との間を感覚として重ね合わせるこ とに繋げた。これらのことを言葉に表すこと、わかってもらうことはちょっとむずかしい。