樹林気功的な樹木づきあい

〜より親密蜜な関係をもとめて〜


つたもり山林にて
つたもり山林の広場で、小一時間、樹木相手に深呼吸をしてすごした。つたもり山林とい うのは間伐の現場の南東1.5kmほどのところにある苫東の緑の中心である。いや、あ ったというべきか。苫東は緑地への視線がトーンダウンしたからだ。平成19年にそこで 全国植樹会が行われることになって別の注目を浴び始めている。            さて、そのつたもり山林の入り口広場は、もとの所有者である蔦森春明さんの住居と小屋 があったところで、屋敷林としてコナラやヤチダモ、クルミの大木が残され、トドマツと カラマツの造林木も直径60cmほどになる。下草が抑えられ地面が平らで陽光もそそぐ から、わたしはここで樹林気功の真似をよくする。別に気功を習ったわけではないわたし には所詮真似事でしかないのだが、個別の樹木と向き合ったり背中合わせになったりして 一心同体になったつもりで深い呼吸を繰り返すのである。              

時々の試み
樹林気功は樹木の気に着目し、木から気をもらう。樹木は天と地の気を混ぜ合わせて人間 が利用しやすい気を作るのだという。混元の気と呼ばれる。わたしは「ポスト森林浴」に 向かってからいつもこの樹林気功という概念から離れられない。しかし、これが樹林気功 だという確信もまだもてない。だから、時々はこうやって独り向き合ってみるのである。 呼吸法など身体学で昨今注目の斉藤孝氏は、樹林気功はどうもよくわからないのでやめち ゃった、とどこかでもらしていた。また、ある方はかつて樹林気功に手を染めたが雑音が 多くてやめてしまった、という。「よしよし、それならば…」、そんな気持ちもないわけで はない。なにしろ、週末のある時間は間違いなく個別の樹木らと付き合うのだから。  
伊勢神宮のスギだったり

そう考えるようになったのも、伐採という行為をするようになってからだ。個々の樹木と
否応なく対峙することになったから、樹木の表情というのをよく見るようになったことと
深い関係がある。また、イメージとして、ある樹木と自分を重ねたりなりきったりするこ
とは割りと簡単に出来るようになった。風に揺れてみたり、枝をリスや野鳥に遊ばせたり
もする。相手は伊勢神宮のスギの大木だったり(これが一番気持ちいい)、郷里の山形の
実家にあったクスノキだったり、ログハウス前のカラマツ、中央公園のハルニレ、つたも
りのクルミだったりと、その日ごとに対象を変えるのだ。                
大木は気持ちがいい
ともかく、大木は気持ちがいい。より大きくなるにつれ樹木は表情を明確にする。地に根 をおろす。根をおろしたかどうかは、幹や枝振りをみればわかる。これは多くの樹木を移 植してきた経験でわかるようになったことだ。だから、土地に根をおろした樹木をおろそ かにしてはいけない。理由があって伐るときはそれなりの意を尽くさなければならない。 樹林気功のまねごとは、少なくとも自分の心身と環境との間を感覚として重ね合わせるこ とに繋げた。これらのことを言葉に表すこと、わかってもらうことはちょっとむずかしい。