生成りの声を聞く
第4回勉強会@白老のポロト湖 07/10/28
森にはなにひとつ無駄がない
2週間前の会場使用の電話申し込みにて。 「あのお、先日使わせて頂いた草苅と申します。周辺を散策した後、2時間程度、フロア で勉強会をさせてもらいたいんですが、申し込みできますでしょうか?」 実際にこのような内容の会話になった。7月末の一回目の時に、受付不在のため挨拶ができないままに始まり、勉強会が延々と3時間ほど続いたのが心証を悪くし尾を引いた。電話予約したときに「予約はできない」と言われ、当日伺うとたまたま受付は不在だったのである。それで形のうえでは「無断」で長時間居座り、かつ、聞き耳をたてるとなにやら精神世界や仏教のような話をしている、とんでもないやつらだ…、こんなことになっていた可能性がある。だから、今回は前回の反省を込めてできるだけ丁寧に、かつお詫びもかねて小さな菓子折を持参したのだった。 宗教か、と聞かれて「いえいえ」と逃げざるを得ないのはちょっとみっともないのだが、森林とスピリチャリティだとか霊性だとか説明しても、かえって火に油を注ぐようなものだという判断がある。ことほど左様に霊性の扱いは微妙だと思っている。また、浮き世にはこういった小さなトラブルは数多ある。小さな地雷を踏まないよう、目配り気配りをするのがわたしは結果的に賢明だと悟って、できるだけそうしているのである。 【Hさんのまとめ】 以下、H氏の寺田寅彦引用文(「日本人の自然観」)だ。 「日本は西欧の文明諸国と比べて特殊な環境による支配を受けており、その最大のものが地震、津波、台風による脅威である。そのため数千年来の災禍の経験は、環境の複雑な変化に対応する防災上の優れた知恵を日本人の中に養成することに役立ってきた。その知恵のひとつとして自然の驚異の奥行きと神秘の深さに対する鋭い感覚が磨き上げられた。自然に逆らう代わりに自然に対して従順になり、自然を師として学ぶ態度が生まれ、その結果日本における科学の独自の発達が促された。西欧の科学は自然を人間の力で克服しようとする努力の中で発達したが、日本の科学は自然に対する反逆を断念し、自然に順応するための経験的な知識を蓄積することで形成された。そこに日本人の「民族的な知恵」が凝結しているのであり、日本人の学問の独自性があるのである…。」 「科学」に話を持って行くのが科学者たる寺田の真骨頂である。この部分に勿論異論があるわけはないのだが、科学ではなく「こころ」のジャンルから書くとすれば、日本人が身につけた自然への従順さとは「自然の顔色をうかがう」生活態度だったとも言えないだろうか。これが花鳥風月に「気」を伺うこころにつながったのだと思うのだ。 森には 何一つ無駄がない 植物も 動物も 微生物も みんなつらなっている 一生懸命生きている 一種の生き物が 森を支配することがないように 神の定めた調和の世界だ 森には美もあり愛もある 激しい闘いもある だが ウソがない 【ブッダと菩提樹のこと】 最近わたしは長年の疑問に答えてくれそうな本を見つけた。その疑問とは、ブッダが樹木の下で悟りを得たのは何故だろうか、ということ。樹木が啓示したのか、樹木はただの環境だったのか。その答えを示してくれたのはJ・ブロス著「世界樹木神話」だ。本の中身に入る前に、この勉強会を始めるに当たってしおり先生と交信した序盤を再録してみよう。こんな投げかけをして、プロローグのようなことになったのだった。楽しい丁々発止だった。 ・・・・・・・・・・ ブッダは樹木のそばで啓示を受けたのでしょうか?それは過大評価ではないのでしょうか?樹木はあくまで環境と雰囲気、空気なのではないか?スピリチャルな方へバイアスを掛けはするが、自らメッセージは出さないのではないのか?… 簡単にいえば、冥想は深くするが、啓示はあくまで内側から出てくる…、その深い自己内観を樹木や林が誘発する、樹木や林の実力をその辺に留めたい気が、今の私にはします。そう考えた方がわたしと林の関係も読み解くことができるし、人々を林に誘う意味もわかりやすい…。 ・・・・・・・・・・・ その疑問に直接ブロスは答えてはくれないが、次のようなことを言う。 「苦悩し、移ろいやすい無常な存在である己を捨て、宇宙全体と再びひとつになったブッダは、もはや宇宙樹と切り離せるものではなく、「その樹に胎臓されていた」。シャカムニのはるか以前から、ヒンドゥー教の信仰では、樹木に近づきそれと触れあうだけで、眠っている前世の記憶が目覚めるとされていた。人は樹木を通じてこの世に生まれてきたのであり、自己の起源を再び見いだしたのも、また、それを再発見したことによって不死に達することができたのも樹木を通してである。ブッダはしたがって、「宇宙樹の姿そのもので表されるのが最も真実に即しているのである。しかも、地中の扇のような根、ほっそりした幹、そして大きく広がった葉むらは、天啓と悟りのプロセス、そして精神的変容に必要な潜在的エネルギーを集め、集中させるプロセスそのものの完璧な表象である…」。 このインド菩提樹について、「ネパール・インドの聖なる植物」(J・C マジュプリア)によると、こうである。 「神聖な植物の中でも、このインドボダイジュはきわだった存在である。この木にはヒンドゥーの主要三神、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァがすむという。この木の永遠性、不朽性は人々の好むところであるが、なるほどとうなづける…」「釈尊は、完全な悟りを得る決意をもってこの木の下に、東を向いて座したと言われている。それから七日の間、そのボーディ・ドルマ(悟りの木)の木陰に座しつづけ、悟りの無常の喜びにひたったという」。 ブッダが座ったこの樹木は、神々が棲む特別の木であり、元来、近づき触れるだけで前世の記憶が蘇るとされていたのである。そして無意識の世界で強い霊力の働く樹木だったのである。霊力というものは環境のかぼそいメッセージより遙かに強烈であり、啓示よりずっとエネルギーがある。この言葉のまえには、ちょっと沈黙してしまうのだ。さらに、 「インドボダイジュは宗教的にひじょうに重要な木である。人を裁きにかける場合、不正と虚偽を避け、公正な裁判を行うためにこのインドボダイジュの下で裁判をしていた地方は少なくない。この木の下では、人はその呪いを恐れてあえてウソをつくことができなかった」「この木は知恵と悟りの木である。この木の涼しい木陰は人に生気を与える。この木がサンスクリット語でアシュヴァッタと呼ばれるのは、この木がその地にしっかりと立っていることを意味し、その根が地に深く入り込んでいることを表している。自然の状態では、インドボダイジュは老木になっても、なかなか枯死することはない」。 ううむ、これは凄いことになってきた。 「一方この木には、魔物、化け物が棲むとも信じられている。カトマンズ盆地にはこのビッパル(インドボダイジュ)の木に棲む魔物の名のもとに、この木に食物を備える週間がある」「チベットでは、この木は天国と地上を結ぶ橋であるとみなされ、また徳の高い霊が休み留まると考えられている」。 北インドを旅したとき、暑さに休みたくなって草地の向こうにそびえるビッパル(現地人はピパルと呼んだように聞こえた)の日陰に行こうとしたら現地人が止めた方がいいと言ったのは、そこが牛の糞だらけであろうことのほかに、こんな魔性の意味もあったのかも知れない。当時のスケッチブックに、一枚のビッパルが挟んであり、肉厚なためやや黒ずんでしまったそれは、なにか、独特なオーラを放っているように見えることと、どこか関連があろうか。 【スピリチャリティとはなにか、その科学的定義について】 最後の資料は、しおり先生から。先生は、スピリチャリティがともすると測れないない情念だけの世界で語られてしまうことを少し心配されて、科学的な定義や区分も入れ込もうとされているようだ。今回の資料も慶応大学の樫尾直樹助教授のコラム「いまなぜスピリチャリティか?」に焦点をあてた短いものだった。霊性を言葉で完璧に述べ始めようとすると、段々難しい言葉になっていき、自分でも迷路に入り込むからそれはやめて、樫尾さんの文章でもっともインパクトのあった箇所についてだけコメントしておこう。 スピリチャルという言葉が多用されるようになった初動は医療の世界が始まりだったというのである。末期ガンなどの終末医療では身体的苦痛はモルヒネなどの投与を行う。また、寂しさ、孤独、恐怖などこころは、家族や友人、知人などによってしばしば癒される。そして残るのが、自分の人生が何のためにあったのか、生きていく意味はあるだろうか、などという根源的問いかけ。このような「人生の実存的な意味をめぐる苦痛」をスピリチャル・ペインと呼ばれる。まさに魂の痛みである。このような、「実存性」と、個を越えた「超越性」、他人を優先する「利他性」、そして大自然とつながって生きているという「全体性」、この4つの要素でスピリチャリティは構成されている、と樫尾さんは整理する。 そしてスピリチャリティが今これほどもてはやされる背景として、 @近代文明の問題性の気づき という社会的文化的理由があるという。こうやって、科学や哲学の言葉を借りると、スピリチャリティのいくつかの面が整理されてくる。しおり先生の意図もこのような積み重ねで達せられていくだろうと思う。 【魂の痛み】 スピリチャル・ペインでわたしはふたつのことを思い出す。ひとつは、山好きやオケラの人たちが集った札幌の居酒屋のオーナー(わたしたちは親しみをこめて○○のおばさんと呼んでいた)が、亡くなる一年ほど前、介護にあたっていた娘Kさんに聞いた言葉だ。おばさんはKさんにとって、もう生きる希望のようなものが失われたように見えたようだった。「そういう母を何と言って励ますこともできないの。もう無力よ」と顔を曇らせるのだった。70歳を過ぎる頃からネパールや中国などにでかけ、パステルなどの絵も始められ、それをお店で展示したりと最後まで好奇心と進取の構えだったのに、とその最後を思った。 もうひとつは家内の父、わたしにとっての岳父である。亡くなる2,3ヶ月ほど前、家内と子供等を連れて病院に見舞いにいった。義父は娘をみて、「おお、桃子(わたしの長女の名)、大きくなったなあ」と言った。そして、数分後、「誰だったっけ」と力なく脇の者に聞いた。そのとき表情は悲しそうな顔に急変し、涙を流した。もう言葉すくなであった。自分の身体の欲求や状態にとても忠実に食事や運動や睡眠をした人だから、末期を自ら受け止めていた節がある。 いずれ、自分もきっとたどるであろう魂の痛み、魂が涙する時間。そんな日々は誰にも間違いなく訪れる。 |