【岩見沢にて】
5回目の今回は、初めて岩見沢で開催した。佐藤さんが苫小牧や白老まで毎回岩見沢から
おいでになっていることのお返しもこめたものだ。しおり先生の東京のお友達・とも子さ
んも参加。苫小牧駅で白井さんを拾い、ホテルでしおりさん、とも子さんをピックアップ
して4人、雪のない師走の国道234号を一路北へ100km。9時発で10時半に着いた。道す
がらの車中、驚くほど話は尽きない。結局、往復と勉強会を入れた8時間、考えたり笑っ
たり、会話は途絶えなかった。
【知的障害を持つ方々と森の活用】
最初に佐藤さんが、知的障害をもった方々に対して森林を活用するプログラムについて、
簡単なレポートをもとに話した。公有林は健常者だけでなく、老若男女、障害のあるなし
に関わらず広く使ってもらおうという公共の命題に応えた研究であり、医療効果を云々す
るためのものではない。延べ700人に及ぶ参加者との活動を経て見えてきたコミュニケー
ションの分析結果が紹介された。知的障害者を林に案内する際に、言葉を発することが少
ない方々とどうコミュにケーションをとればいいのか、という基本的な課題がよこたわ
っているようだ。
障害の大小が個々人で違うから、反応もその成果もおのずと変わってくるが、ある参加
者と案内者との会話例がていねいにそのまま再現されているその直裁なフレーズにわたし
はジンと来た。林とこころの関係を探るこの勉強会にとっては、林がこころに及ぼしてい
る力が見えてくるにつれ、この研究の目的のように、林で広く楽しくどう過ごしてもらえ
るか、という探求は大きな意味をもつ。知的障害を持つ方々とのコミュニケーションは垣
間見ることがあまり出来ないケースだけに、はっと気づくものがあった。
話は時々色々な横道に入った。障害を持っていたが時刻表を丸ごと暗記できる特技を見
込まれた青年が、交通関係の会社に就職して、時刻表を読むのがつらい高齢者に対して肉
声で即応えてくれるサービスが大人気で重宝されている話には驚いた。フランスでの生活
が長かったとも子さんとは野外活動で汚れる話に及び、フランス人がこの汚れに対してか
なり無頓着である話をされた。フランスパンを無造作につかんで歩く話が代表するように
、フランス人が非常によく林を歩くこともリアルに再現してくれた。潔癖さはしばしば人
と林の関係に楔を差すのだ。いろいろなものが居て、汚れることもあることを認めてしま
うと、林への壁は低くなり、入り口の扉が見えてくる。この潔癖願望への対応は今後重要
な要検討事項である。
【森の宗教】
札幌の林さんは山折哲雄著「鎮守の森は泣いている」と梅原猛著「森の思想が人類を救う」
のコピーを配布してくれた。山折氏のこの本はひととおり読んだはずなのだが、今回、
「宗教介護」という言葉を見落としていたことに気づいた。いろいろな介護が生まれてき
たがもっと大切な介護がある、それは宗教介護だ、と氏はいう。「…この重要な問題につ
いて、今のところ政府も自治体も民間の業者も、目をつぶったまま知らぬ顔の半兵衛を決
め込んでいる。しかしわたしは、老人介護の究極の問題は、この「宗教介護」の中にこそ
横たわっていると思っています。「宗教介護」という問題意識が欠如した老人介護は、魂
の抜けた、単なる制度だけの介護ではないでしょうか」。
宗教という言葉にアレルギーを持つ人が少なくない今日、宗教介護という言葉を使うこ
とに抵抗があるかもしれないが、わたしも、文明の発達と利便とは裏腹に、日本人が心の
ケアをとんと忘れていると危惧してきた。高名な先人や、近くでは松下幸之助のような方
々が、心の置き方を勉強したり師事したりしてきたことにわたしは注目する。人間の心は
元来弱く、不安定で、汚れやすい。山折氏は、だから、「心の介護」が居るのだと主張し
ているようだ。わたしは最初、力を失った「宗教」を介護することかと思っていたが、そ
うではなかったのだ。
さまざまな個性をもった羅漢の和の社会が21世紀に必要なのだという梅原氏は、今地球
上で起きている数多の争いを収めていく鍵だと繰り返し述べてきた。そして氏は日本の仏
教は森の宗教に変化してきたという。日本の仏教で一番はやった密教の神様は大日如来=
太陽であり、次の浄土教は山川草木悉皆成仏、全部成仏するというように、人間中心から
森の宗教に変化したと述べる。「…結局、森の宗教の思想は、生きとし生けるものはすべ
て共通の生命で生きている、そして生きとし生けるものはすべて成仏することが出来ると
いう考え方だと最近思うようになりました。…(人間も)みんな生きとし生けるものは、
生と死の間を循環している」。この辺はあらためて静に考えて見たい。
白井さんは、英国のある博物館で発見した広島で被爆した際の茶碗の展示物から話を起
こした。釉薬が放射能でとけたその茶碗の脇の説明に○○○万人の死亡者数を「成果」と
して記述しているその視点の差に愕然としたのだった。そして近年発刊されたばかりのパ
ール・バックの「神の火を制御せよ」のなかに、そのような傲慢なアングロサクソン的視
点と反対側の反省を見て取るのだった。さすがに白井さんは、「ヨブ記38章」をに目を通
して仮説を立てながら、それに対して参加者みんなで行きつ戻りつした。キリストの神の
認識については少し時間をかけて勉強してみようとあいなった。
【林の中では魂と魂が対話できる】
わたしは「林におけるややスピリチャルな気づきのメモ」と加島祥造氏の「タオにつなが
る」のコピーを用意していたが、もう終了15分前だった。これは、しおり先生が「林は
冥想そのもの」という話をちかぢか用意すると踏んでの前段である。しおりさんとは、林は
スピリチャリティにどう影響するのかをテーマにして、静かに議論してきたのだが、これ
が、わたしはわたしなりに、先生は先生の流儀で煮詰まってきたのである。そこを意見
交換してみたいのだ。
わたしは、メモに基づいて手短に要約してお話した。実はかねがね自分が実験台となった
営みの最中に気づいてきた事柄を、こんな形にまとめてみたのは初めてだった。わたしは
樹木が気づきを持ってくるのではなく、その環境を用意するだけだと理解したい、と言ってき
た。その後、インド・ネパールの樹木の本に出会って、ボダイジュは霊力をもちその下で人は
ウソを言えない、という重要なキーワードをつかんだ。そのことがわたしの無意識を刺激し
た。話では先ず、下のような無意識の図を示した。これは龍村修氏の図を簡単に示したもの
で、冥想に入る前にわたしがしばしば大好きな樹木になる「たんとう功」でやるイメージで
ある。その一番下にはあまねく存在するだろう宇宙意識が置かれている。
意 識
無 意 識
集団の無意識(祖先)
人類始まって以来の心
哺乳類と共通の心
爬虫類と共通の心
両生類と共通の心
魚類(前脊椎動物)と共通の心
無脊椎動物と共通の心
植物と共通の心
菌類と共通の心
すべての生命と共通の心
すべての物質と共通の心
宇宙意識層
*龍村修「生き方としてのヨガ」から
時間がないのでメモは3番目にしぼってお話した。それは、「雑木林で対談している
とき、相手の魂と語っていると実感する体験がよくあること。わたしの魂と相手の魂が
じかに裸で語っていること」。林は人を魂のレベルで語らせるのではないか、というこ
とである。このまとめのメモを書いているときに、偶然わたしは発見したのだった。無
意識がいくつか対談を記憶していたのだった。これで格段にわかりやすくなった。
加島氏はパーソナリティの原型・ペルソナ(個人)とは語源が「仮面」であり、人は
この仮面をつけて社会における競争と自己保全に向かうという。しかし、ウソをつかな
い環境=林にあっては人は仮面を脱ぎ世間の属性を脇において、本来の自分に戻り、内
観することが出来る。この仕組みを知っているならば、人は必要なときに林に出かけ、
心のケアをすることが出来る。さらに、身近にすぐ林がなければ、人は冥想でもその境
地に達することも出来る。
林が本来の自分に戻らせることが出来るのは、林は、弱くなよなよとした、壊れやす
い存在、即ちフラジャイルな自分を受け入れるからだ。そう林は、隠れ家、アジールな
んだと思うのだ。ピアニッシモな自分、強くなくてもいい自分、それでオーケーだ…。
林で魂は、そう自分にささやいてくれるのだ。無意識に下った折、わたしは幼少の折、家
裏の薬師様の所にあるクスノキにのぼり、ものがなしい日々をクスノキと共に過ごして
いたことに思い当たった。クスノキはわたしのアジールであり、祖父母のような存在だ
ったと、今なら言える。
わたしは駆け足でそのような意味を語った。そうしてしおり先生にバトンタッチ、
先生も数分で次回に橋渡しして終わった。次回、「林は冥想である」、という本題に
踏み込む。
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