生成りの声を聞く

第6回勉強会@苫小牧市豊川コミセン 08/01/26 sat 13:30--17:00



林は冥想である



大テーマに取り組む

6回目の勉強会はついに「林と冥想」という大テーマに挑むことになった。これは瀧澤さんとわたしの間の懸案でもあり、お互いちょっと違ったアプローチをしていた。だから、時々意見交換するのがとてつもなく楽しかった。しかし、このテーマはズッシリと重たい。ただ、「林そのものが冥想である」かどうかは、なかなか説明の要る話のようでありながら、その実、実体験を援用してみると、すんなり納得できる面もある。そこに科学的なデータはなくエピソードとしてあるだけである。それがどうなのか。冥想や冥想を体系付ける元のヨガの世界は、個人的なエピソードの累積を哲学編と実践編に編み込んだものだと思う。

だが、そこに科学が、トップランナーとして追いかけたい宝が見えると瀧澤先生の資料が紹介している。瀧澤さんは昨今、森林は瞑想そのものではないかといい、わたしはその真意を想像はしても真意になかなかたどり着けないでいた。わたしはむしろそこまで凝縮するのをためらいつつ、林は冥想に結ぶ「場」「環境」ではないか、とブッダのことなどを頭に描きつつ考えていたのだった。


子供の医療とメンタルヘルス

瀧澤さんは12pに及ぶ資料「森林という瞑想」を持参された。書き出しは北大の研究調査で、小学4年から中学1年の児童生徒700人あまりの面接診断データで、うつ病と躁うつ病の有病率が4.2%で、中学一年に限ると10.7%だったこと。ちなみに大人は5%、米国の思春期の子供たちは二人に一人がこのような病気を持っているということ…。

フィンランドとの比較も興味深い。OECDの学力調査では目下フィンランドがトップだが、一般には国を挙げて教育に取り組んでいるシステムに焦点が集まり、日本の文科省や教育界も仕組み論争にやっきである。瀧澤さんは余談として、フィンランドの子供たちが、ゲームなどに夢中にならず冬でもシュラフで野外の昼寝をしているなど、自然の中のアクティビティに注目しているようだ。ADHD(注意欠陥多動性障害)の子供たちが、自然の中で行動が落ち着いたり衝動的な行動が減るという研究報告をよくご覧になっているからだと思う。

「子供に瞑想ですか?」。わたしは前回お会いしたときに、そんな質問をした。今回、瀧澤さんは、この質問の答えとして米国の環境心理学の研究を紹介してくれた。森の中で子供を遊ばせるほかに、子供の集中力を改善するために瞑想の指導が始められているというのである。瀧澤さんはこう書く。「自然は子供の発達にとても重要で、知的発達、情緒の発達、社会性の発達、冷静さの発達、身体機能の発達総てに大切な役割を演じているということが、ほぼ社会通念として受け入れられようになりました。子供のこころの問題から、学力の向上にいたるまで、自然環境は脚光を浴び、今まさに救世主のような扱いです。しかし、それはとりもなおさず、人が自然と離れすぎた弊害をここで見つめなおしているということになるかもしれません」。学力の向上?これなら日本の文科省や教育界は森林プログラムを作るかもしれない。

森の第3の利用へ

これに対して林さんは、「これから森の第3の利用に注目したい、と提言している」とおっしゃった。第3の利用。いい言葉と思う。実際、瀧澤先生の病院で昨年から手がけている、患者さんと林を近づけるプロジェクトが順調に進んで患者さんが林の中に「こころの癒やしの場」を持ち始めたという。わたしたちが創ったささやかなフットパスを、今も毎日歩いてくれるファンもいるのだという。これはうれしい話であるばかりか、こころと林の関係を読み解く、本格的な第3の利用の好例だと思う。そして、わたしが手がけてきた、和みの林を創る作業や仕上がりを、「手自然」と読んで欲しいとわたしは提案したのだった。ちなみにこの取り組みは、来る3月の日本森林学会にUさんがわたしたちも連名で名を連ねて報告することになっている。

このあと、資料は瞑想と集中力についてあり、いよいよ、難解な瞑想の話に入る。アメリカ先住民族の霊的な通過儀礼「ビジョン・クエスト」のこと、先生に「林の究極は?」と聞かれてお答えした「アジール」のこと、ディープエコロジーとライフスタイルのこと、瞑想の定義、瞑想の心身への効果、などを整理して説明された。医学的な部分は安藤治著「瞑想の精神医学」を基にしている。わたしも読んだ1993年の力作で、「なぜ今瞑想なのか」とか「瞑想はセラピーなのか」など、実にわくわくする章立てになっているものだ。

冥想を考える

わたしはこのタイトルのペーパーなど4枚を用意した。かつて熱心に熟読した龍村修氏がその著作で、「冥」と「瞑」を使い分けて、「冥=計り知れないほど広くて深い」「冥想による広くて深い直観的な智慧なしには、人間存在についての基本的問題の答えは得られない」としたうえで、冥想とは釈尊がいう生活全体が冥想法という考え方があり、とらわれ、はからいこだわりを浄化する生活法だという見方を紹介した。そして冥想の段階を次のように示した。

 こころを一点にとめ集中 → 放下 →自他一如(三昧) → 宇宙との一体感

林とこのフローを照合すると、最初の集中につながっていくと思う。「今ここ」に集中して行くのである。

ここから以降は、瞑想を「冥想」と記述しながら、勉強会の「言葉選び(ことえり)」を楽しみながら書いた「雑木林だより47」につなごう。


「雑木林だより47」1/26の日記から

林は冥想なのか  

大雪のあとで、雑木林には入れない。セダンで入り込むための許容積雪は25cmほどだから、雑木林はどうもそれを超えている。万が一、入り込めたとしても、はまるのは芽に見えている。脱出に半日費やすなどは避けたい。さらに、エゾシカの猟が閉じたから、RVに乗ったハンターももう来ない。したがって轍がない。で、今日は出かけないほうがいい…。うまく出来たもので、今日26日は「林とこころU」の勉強会のヤマ場。「林は冥想である」という提言を瀧澤さんがし、わたしは冥想のあれこれをちょっと整理し、どこの部分を林が代替できているのか、を語り合った。

出応えはズシリ。瀧澤さんもわたしも整理途上だが、参加者と意見を交わしている間に、わたしはここ数ヶ月思い描いてきたテーマの答えについて、温めてきた芽がホンワカとふくらみ、大きな気づきに達していた。つまり、

冥想で人は内側に羅針盤を得る気づきで人が変わる社会やコミュニティが進化する

この「冥想で内側に羅針盤を得る」と言う段階は「内観」状態と言えるが、「林の環境」が時に内観を誘導するのである。そこに働くのが実は「林が持つ霊性(スピリチャリティ)」なのだ。林が本来持っている霊性が、磁場のように内観を誘うのである。この、普段なじみのない霊性に一人で出会うと、人はしばしば拒絶したい恐怖感を覚える。だから、林と付き合うイントロの部分は数人やグループで訪れるのがいいのである。そうして、「未知」を「既知」に変えると、自然はぐんと近くなり心を開放できる。ヨガなどでいう「放下」である。


また、こうも言える。林は普段なじみのない人にとって、一種、おどろおどろしい場である。物の怪のようなものを感じるから、藪の中でゴソと物音がしたり、梢が音を立てたりしただけで、コワイモノを連想して、五感は研ぎ澄まされる。と、この状態ですでに日常を引きずった自分は居ない。物の怪にリアルタイムで反応している自分が居るだけである。あくまで「今、ここ」に集中している。無になっている。ここで内観がスパークする。「あ、今、物の怪を感じているわたしは誰だろう」。

無になっている、というのはロック・クライミングにそっくりだ。ロックは足の指先、手の指先を使って少なくとも3点で確保しないと岩から落ちるので、全神経を集中して登りつめるのだが、登りつめたそのあとには妙な清浄感があるのだ。恐らく、「今、ここ」の典型として、「我」が消えているからだと思う。それほど、リフレッシュされる。ということは、わたしたちはそれほど日常の荷物を背負って生きているという裏返しかもしれない。

そこで、わたし的結論。

「だから、社会は身近なところに親しみやすい緑(樹木のある公園やさとやま)を持たなければならない」。そうすることによって、人は内観の契機を得、自分が本来持っていた良心というものに出会う。良心は、わたしたちのさまざまな欲望や邪心を正しく導くから、社会は落ち着き進化しようとする。

そして現実の社会は、内観で正しい道に気づきながらもそれでも、小さな成功と度重なる失敗の連続、さらに反省の繰り返しだったのではないか。社会犯罪、病、不正、争いなどはこの、ほんのちょっとした環境が獲得されていたのかどうか、人がそのような「場」(アジール)を持ちえたのかどうかに、しっかりと裏打ちされてきたのではないか。そのつっかえ棒(緑)もなくなったとき、社会はマイナスのスパイラルに入る…。

このほんのちょっとしたもの。現代人が「そんなもの、なくたって十分豊かに生きていける」と内心うそぶいているもの。それが実は「霊性を備えた林」ではなかったのか…。冥想はそこにかかっている。冥想の行き着く先の「三昧」。宇宙と一体であるという感覚の途中駅に、「林」はあるのだと思う。

勉強会は最後に、天外伺朗氏の瞑想のCDを聞きながら、30分ほど瞑想した。なんとなく、勉強会はあたらしい段階に進むかなあ、という気がしてきた。


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