生成りの声を聞く
第9回勉強会
2008/05/18 SUN 13:30--16:30
自然と「こころ」を読み解く環境哲学
足踏みの意味 森と冥想をテーマとした語り合いは、たしか、6,7回目あたりにひとつのヤマ場があった。しかし、さっと通り過ぎるには深みがありすぎるのではないか、との声を内外に感じて、しばらくそのまわりの周辺事項をぽつぽつと拾いながら余韻を味わっていよう、また想起するかもしれない森と冥想のことをそのつど反芻しよう、そんな雰囲気できたと思う。わたし自身、DVDで新しいヨガのレッスンを始めたり、気功を自在に駆使して治療してくれる整体師を紹介されてからだの歪みを直してもらったり、心と身体の移ろいを感じる時間も多々持てた。もとより心身の観察は個人的なことに違いないが、人に共通する気づきも多く含むから、プライベートを通り越してとても興味深い。個人を突き抜けて人類の悩み、ゆがみにつながっていくのだ、と今なら理解できる。 パワーストーンが 整体師から、ご自分で作った不思議なパワーセラミックをお土産にともらった翌日、瀧澤さんから、スピリチャルに造詣の深い友人に作ってもらったという不可思議なブレスレットをいただいた。スピリチャルなご友人の祈りのようなものが込められているという。わたしはありがたく頂いた。「左手にはめてください」と製作者のメモに書いてあった。ガーデンクオーツ、ホークスアイ(鷹目石)、ラブラドライトの3種を組み合わせたものだと書いてある。 ガーデンクオーツは石の中にコケのようなものが含まれていて、一見、ボタニカルガーデンの世界に見えなくもない。シャーマンクリスタルとされ、魔術的効果により、願い事がかなうらしい。そしてガーデンニング好きな人や林業や農業に関わる人のお守りになるという。山仕事で危険な目にあったり腰を痛めたりするわたしには救いの神になる。きっと瀧澤さんの気遣いではないかと思う。ホークスアイは俯瞰的な視点と冷静さを与えてくれ、研究者や観察眼を必要とする人に最適なクリスタルだという。早朝の冥想に適している、という説明を読むとうれしくなる。一方、ラブラドライトは宇宙や未来の智慧を伝える石として近年注目されるパワーストーンだという。相手の意思や次の行動が、手に取るようにわかるようになるはず、とメモにはある。そして、「これより、あらゆる事柄が関連性を持って動き始める…」。 成就の構図とながれ 不思議なことだけれど、最後のくだりは、わたしが50歳を越えた頃から、感謝を込めて述懐してきたことである。それまでのささやかな営為とか、自分には恵まれすぎるネットワークが、ひとつずつ、ぐんぐんとつながり始め、勝手に成就に向かっていってくれるような折にふれたバースト、日々の転機。それは実際によく起きた。そのことで感謝で胸が膨らむ思いを、随分味わわせてもらった。これはきっとそのことと同じことを指しているのだと思うが、このグッズはさらにそれを高めてくれるのだろうか…。 そんな思いを懐きながら、2008年の5月1日は始まったのだが、わたしには、それ以来、新しい転機のようなものが内発的に起こってきたのをなんとなく記憶している。外部環境はほとんど変化はないのだが、気持ちひとつという、その気持ちが「しなやかに」発想するのだ。発想がしなやかになると、人は随分生き易い。こうでなければならない、などという窮屈な思いをちょいと超えて、流れの中に今を見て取れる。中国の言葉で言う、「随流去(ずいりゅうこ)」。 そしてこの、腕に輪をはめてからの日々に現れた変化はなにか、と超俯瞰的にみると、それは恐らく日々に「信仰」のような、あるいは「プチ修行」のような姿勢が濃くなった、といえるかもしれない。では何を信仰しているのか。・・・・明快な答えはないが、土地の神々へ帰依。風土のなかで、ひっそりと人の役にたって生きたい、というなんとも変わり映えのない話に落ち着く。 環境哲学の不在 また、前段が長くなった。この日の勉強会は、U病院の会議室を借り、新しく札幌のSさんが参加した。特にテーマは決めなかったので、わたしは最近気になっている「環境哲学」を取り上げた。捕鯨問題の一連の顛末、地球温暖化防止の動きなど、流れを読むにも国のアクションの裏表をみるのにも、この底流れをもっと知らないと読みきれないと感じていたからだ。その、ちょうどいい提示を、森岡正博氏がしている。それで、 @「ディープエコロジーの環境哲学」〜その意義と限界〜 http://www.lifestudies.org/jp/deep02.htm A「生命観を問いなおす」〜エコロジーから脳死まで〜 ちくま新書 のコピーを用意した。そのほかに、いずれのために B新井満役著 自由訳「般若心経」 も持ってきた。@→Aは森岡氏のつながりであるが、Aは後半で、興味深い梅原猛氏の菩薩行批判があるのである。Bは、もう一度読んでみると勉強会のテーマであるスピリチャリティと冥想に関わる部分が散見されること、それと梅原氏の仏教をリエゾンできないか、という魂胆である。 自然事象への気づきにどんな意味があるのか 白状すると、この勉強会記録をレポートするのが、とっても楽しい反面、採録するのが物理的にも能力的にも結構つらくなりつつある。既に、独断と偏見も許してね、と公言しつつ楽な方法で来たのだが、ここへ来てますますつらくなってきた。だから、もうサワリを書くだけで許してもらうことにしようと思う。キーワードが散らばれば十分、そう決めてしまうと気が楽になった。 @で森岡氏はこう書いた。 「前中略…自然界すべてには「神秘的エネルギー」があまねく満ちており、宇宙は多様な形態をとった1個のエネルギー事象であるが、古代人はそれに気づくことで創造神話を生み出し、その神話が多くの文化を生み出した。そして、諸文化のなかに見られる儀礼は、コミュニティによって必要とされるエネルギーを維持し、チャネリングするための主要な道具であった。 ところが、近代になって状況が変化する。それまで人類が維持してきた社会把握、たとえば「自然の季節的リズム」や「心的エネルギー」などへの眼差しが失われ、その代わりに究極的な目的実現のための一直線的な時間観念が出現した。そして産業社会が到来した。 しかし環境危機に直面した今、求められているのは、エコロジカル・プロセスの神秘的側面をもっと適切な形で表現することである…。」 付随的に周辺状況を書けば、森岡氏は、結果的に批判する「ディープエコロジー」も「梅原氏」をもとても高く評価して、好みから言えば大好きな存在なんだということがひしひしと伝わってくる。ただロジックを、こころを援用してたどって行くと、違うのではないか、ほかから聞こえる反論も最もな部分はここだ、というように明示してみせる。わたしは森岡氏の見取り図なら自分のイメージを重ねることが出来る。彼の文章を選んだのはそんな理由だった。こういう総合的な見取り図が日本に不在だと思う。 で、わたしたちは「古代人の気づき」というところにひっかかった。正岡正剛の「花鳥風月は土地の景気をつかむアンテナだった」という言葉を思い出すと言うと、そういえば、と漁師の観天望気とか、修験道の護摩行は感性を開いて行くようだ、とか、武田信玄の川中島の際の、地元農民による霧の発生予測だとか、マニュアル化されない「暗黙知」の話になった。Sさんは、概念を言葉にした途端、整理されたこととして急に意味発信が止まったり感性が閉じたりはしないだろうか、という。この話は尽きそうもなかった。こんな風に、科学を脇において仮説や空想を述べ合う、ということは実はあまりない。だから、このような少人数の何でもOKの雑談は、「話のリゾート」のように気持ちはほころぶ。 わたしは人の持って生まれた感性には、自らを律する魂とか仏性がある、と思いたい。もしそうなら、そう思えるシチュエーションに早晩届くような仕組みを構築することが出来れば社会は良い方向に向かうことが可能だ…。しかし、それはそうならない。瀧澤さんは、だから犯罪に再犯がある、とちょっと暗い顔で言った。加害者と被害者の今日の気になる言動などもエピソードとして出てくる。「加害者を極刑にして欲しい」という声はよく聞く社会になってきたのだ。悔悛することもなく、したがって同情の余地もない犯罪を犯すヒトのこころ。家庭という社会もコミュニティという社会もいろいろ問題をはらんで進むのだろうが、そこに生まれるほころび、誤りをカバーしたり、コーティングしたりするのが、実は「文化」なんだ、などと互いにうなづいたあたりで、この件はなんとなく終わった。Aの生命観とBの般若心経は次回へ。 自然を敬うこころと北欧 瀧澤さんは、閑話休題としながら北欧、特にスウェーデンとフィンランドの自然観と教育についてのメモを用意された。実際は全体の話の中でつながって挿入されたのだが、そのコンテンツだけを最後に紹介しておこう。スウェーデンでは当面の経済より自然と一体の生活を大切にするという合意があり、経済も堅調で、自然と人間生活の調和は当然としている。フィンランドでも森の妖精の存在が一般に信じられているように、教育でも実生活でも自然の繋がりが深い。自然からの恵みには絶えず感謝を忘れない。瀧澤さんによると、フィンランドの小学生の年間平均授業時間は815時間であるのに対して、日本はゆとり教育撤廃後の平均が955時間、それに塾250時間を足すと1205時間になるという。それなのに、フィンランドの教育の方が学力が世界一になっている、というわけである。なぜか。テーマは以前もしたので省略するが、自然の中で見につける集中力、柔らかい感性などがじわじわと効いているのは創造に難くない。瀧澤さんが最後に引用した、ガイアシンフォニーの龍村仁監督の次のメッセージで本稿を閉じよう。 …「自分はここにいて、世界は自分の外にある」と意識し始めたとき、人(ヒト)は人間になった。その意識が人間と自然を隔て始めたと同時に、自分を以下占めている大自然の底知れない不思議に気づき、それを畏怖し敬い、感謝するという「霊性」を育んだのだ。自分の生命が、自分以外のあらゆる存在とのつながりの中で活かされている、という気づきは必然的に「他人を思いやる心」を生む。 「人間の究極の本性は慈悲と利他の心である ダライ・ラマ」 |