生成りの声を聞く
第10回勉強会
2008/06/22 SUN 13:30--17:00
新貧困社会からホ・オポノポノへ
たそがれのままで 今回は10回目。札幌から新しく田口さんとごとうさんが参加されて結構にぎやかな雰囲気となった。四角いテーブルにパラリと座って、 「さて、電気は?」 とわたし。蛍光灯の明かりをつけないで始まった。くしくもこの日はたそがれの話で盛り上がることになる。しっかりしたスピーカーが健在のこの会は、いつもあちこちのわき道にそれながら、しっかりと得がたいエピソードを拾ってくる。が、今回はまた格別だった。触発される語りあい、そんな機会だったといえる。 確か、岩登りは冥想だ、なんて話から始まったと思う。あの、終わってからのリフレッシュ度合いは今思えば、やはり冥想の爽快感に似ている。沢登りも異常に疲れないが、鈴木さんはあれも緊張のせいだろうか、という。わたしは、危なくない札幌の木挽沢や発寒川でも疲れないから、むしろマイナスイオンではないだろうか、と言ってから、あ、あの足元の岩を滑らないように気をつけるあの無意識の緊張が確かにある、あれが集中させるんだと思い直した。しかし思い出すのは、愛媛県側の、四万十川源流に近い「森の国ホテル」。沢沿いに10kmのフットパスがあり、疲れないという評判だという。大量のマイナスイオンも測定されているが、気功師が訪れて言うには、「気場」だ、と。森と沢の風景だけでも癒やしがあるようなところだった。さて、それはさておき。 吉本隆明の「蟹工船と新貧困社会」 7月号の文芸春秋に吉本が同名の文を書いており、その最後で、「言葉の本質は沈黙」であり、そのことを徹底的に考えること、「僕が若い人に言えるとしたらそれしかない」と断言している。そのくだりを紹介した。そして、そのことをふたつのソーシャルネットに書いたら、若いある女性の方は自分を含む若い世代はほとんど反射的にしかモノを考えない人が多い、とレスしてきたこと、また、ある英国に住む女性の方は、若い人たちはまずテレビを消すことが始めるのがよい、とおっしゃったことを付け足した。さらにわたしは、「明かりを消してたそがれを味わうといい」と書き足したことも告げた。まずそのことを話題に会話が進んだ。 子供たちの心を考える。子供たちも妙なストレス社会に無理やり付き合わされており、遊びの場の変遷と勉強への強制の中に身を置いている。そしてテレビとゲームなど、身の回りはお寒い環境だ、と相成る。瀧澤さんは、近年、横浜の身の周りの自然の遊び場が800分の1になったらしいというエピソードを語った。わたしたちの世代の前後はまだ、小川や原野や里山など、自然の遊び場しかなかったから、そこで年上、年下の子等とともに、小さな創意工夫を交えて遊んだものだ。そこには小さな小さな社会があり、遊びを伝承していたかもしれない。少なくとも小学生の時から勉強漬けなどということはなかった。林さんは子供は遊ぶのが仕事だ、とおっしゃる。思えば、そんな付き合いの中で心が育まれてきたのだ。 今の子供たちは、我慢することや物事をあたため成長させる力が極端に弱いというが、対象に向き合う力がそもそも弱いのだ、とどなたかが指摘した。対象としっかり向き合うという時間は、普通そこに沈黙があるのだが、その沈黙に耐えられないのだというのである。沈黙に耐える。それはある意味では、「しなやかに」向き合うことだ。わたしなどの世代以前は、自然と付き合うことでいつの間にか、このしなやかさを獲得してきたのかもしれないね、とわたしたちは頷いた。ひょっとして、多様な森羅万象と向き合うことで、多様な価値観のにおいでも嗅いできたのだろうか。 若者は自分がとてもかわいいのだ、という話もよく聞く。わたしはこれが良くわからない。自分がかわいいということと、自分を受け入れるということはどう違うのか。あるがままの自分を受容できる人間は、こころに安心を感じるはずだから、社会にはなにかプラスの影響が出てくるところだが、どうもその反対に向かっているように見える。それは、親が子供をかわいい、と思う同じ意味での「かわいい」なのだろうか。 子供は、親が成績の悪い自分を嫌うのだと思っており、事実、親は子のためと称して、勉強に追い立てる。つまずいて勉強の上位戦線から離脱すると、親の愛情から見放されたと判断して、スピンアウトして行く。「しなやかに」生きていける能力こそ、人間として幸せな性質なのだが、その辺の価値観はなかなか今日日、注目されない分野になっており、伝えることも難しい。そこは愛情というようなものとペアでないと感じ取ることが出来ないかもしれない。ごとうさんは親や周囲の愛情という土壌のなかで初めて耐えるということが出来るのだ、とわかりやすく話した。そのあと、「雑木林&庭づくり研究室」の掲示板にこう補足された。 「生命を宿しているものには必ずエネルギーが存在し、エネルギーが見えない糸のように 愛情。家族愛、郷土愛、祖国愛、人類愛、そんな風に愛の世界は広がるが、先ず、家族なのだ、家族愛が核なのだ、という気がする。 ホ・オポノポノについて コミュニティのなかで、100人に一人の割合で瞑想をする人がいると、コミュニティが変って行く、という話をしたとき、瀧澤さんがハワイのホ・オポノポノの話をされた。触法精神障害者施設(法に触れた人が精神障害を理由に不起訴、減刑、あるいは無罪になった人のことが入る)全員を、誰ひとり診察せずに癒やした人の話である。あとでインターネットで検索してみると、昨年あたりにブログで紹介されてきた逸話らしい。で、どのような方法で治したのか。元のブログにはこう書かれていた。 …「私はただ『ごめんなさい(I'm sorry)』と『愛しています(I love you)』を何度も何度も言い続けていただけです」と彼は話した。 自分の中の何が足りなかったから、この人たちがこういう境遇になったのか…。このようなスタンスにたって祈るわけである。祈ると変わる人が多いという。祈るとはなんであろうか。わたしは、「祈る言葉」が言葉のほうに人を導くからだと思う。プラスの言葉を使うと人はその方に自然と行くようになる。 鈴木さんは、仕事の立場で、怒りの電話をしてくる人たちの相手をしてきたという。「なるほど」、そして、「はい」、と怒りの言葉を聴きながら、いわば怒りを受け止めている間に、相手は観念するというか怒りが段々納まってくるのだという。そのとき、鈴木さんは、電話を受けながら何で自分がこんな役回りをするのだろうという覚めた自分を意識しているという。だから、受け止めていられるのだと思われる。受け止められている間に、自己治癒して行くのだという。 *ホ・オポノポノはこの文末にブログによって伝えられている原文をコピーしておきます。 般若心経の真髄は 鈴木さんの話から、今度は前回、扱うことが出来なかった新井満の『般若心経』へ話は移った。わたしの聞きかじりによれば、仏教は徹底的に人の悩みの解決の手引きを教えるものであり、般若心経はその最たるものであるとされるが、その基本は、「悩み、それはこころに忍び寄った幻だ、思い過ごしだ」というのだ。条件反射的に起きるわたしたちの心身の動きによって発生するもので、実在するものでない、だから、…と説く。その具体的な方法として、四諦八正道という具体的マニュアルもある。鈴木さんのように、もう一人の自分がする条件反射を観察していれば、人は客観的に場を見ることができるのだ、と。 で、わたしは、般若心経の最後、ギャーテーギャーテーハラギャーテー…というくだりの理解が最も興味がある。これから彼岸へいこうというのか、もう彼岸にいる、とみるか。わたしたちはもう彼岸にいる、総てが与えられているわたしたちはこれでいいのだ、という立ち位置は、日々、不安のなかで生きる現代人や若者にとって、大変な救いであると思う。あなたはちゃんと役割をもってこの世に生まれた、だからあなたの存在によって大きな流れができている、あなたはあなたしか出来ない役割を演じるためにこの世に生まれてきた…。 「苦の生起である」ことの気づき、そして、ギャーテー…の理解、わたしはこのふたつで大きな気づきを得た、ということを記してこの話は閉じよう。 たそがれの理解 先般、疏水サミットという大きなシンポジウムにスピーカーとして参加し、農と林の境界の山辺の話をする機会を得た。その際にあれこれシナリオを思い描いているうちに、松岡正剛の『フラジャイル』に再び出会い、たそがれとフラジリティについて思いを馳せることが出来た。また同じ頃、石城先生のお宅をお邪魔したときに、高橋義人氏の『ドイツ人のこころ』を紹介されて、早速読んでみた。その中に、ドイツ人はたそがれ時に急に無言になる、それはドイツ人がたそがれの欝っぽいニュアンスに惹かれるからだという部分を見つけた。ドイツ人の森好きはなぜか、と疑問を持ってきたわたしはここで膝をうった。山辺は、明から暗への移ろいゾーン、トワイライトゾーンで、林の中へ入りこめばいつでもたそがれ的不安定な光線を味わうことが出来る、だからドイツ人は森好きで山辺のフットパスに人気があるのだ、とまあ、牽強付会もいいところの一人合点をしたのだ。 そしてこの下の図を描いた。勉強会を採録するのに疲れてきたので、細かいことはもう述べるのは止めるが、この図にたどり着いたわたし的変遷はとても意味があったとひとり評価する。この話をしたら、鈴木さん始め、結構興味を示してくれた。いずれ、気が向いたときにもう一度考えてみたい。 山辺の特性試論 とりあえず今日は、参加された方々の活発なご発言に感謝しつつ終わる。 *ホ・オポノポノのコピー 二年前に、ハワイに住む一人のセラピストの話を聞いた。その人は触法精神障害者(訳注:刑法罰に問われたものの、精神障害を理由に不起訴、減刑、あるいは無罪となった人のこと)の病棟に収容されていた人たち全員を、誰一人診察することなく癒したそうだ。その心理学者は患者のカルテを読み、自分がどのようにしてその人の病気を創りだしたのかを理解するために、自分の内側を見たのだそうだ。彼が自分自身を改善するにつれて、患者も改善したという。 |