生成りの声を聞く

第12回勉強会

2008/08/31 SUN 13:30--17:00




"ふたたび、スピリチャリティを定義する


「森に癒やされ、森を育む」

12回目の勉強会。最近は植苗病院の会議室をお借りして勉強会を続けている。札幌からの方が3,4人ということがあったので、好都合なのである。結局、何年かやってきたうちで最も多い回数が、雑木林の小屋、次に白老、そして病院が4,5回目にあたるから、いずれ、病院にて開催するのが通例になるかもしれない。精神科病院の会議室でスピリチャリティや林とこころのの勉強会をすることにまったく違和感がない理由は、ここが雑木林のフットパスを持っているからだと思う。この雑木林に一週間ほど前からヒグマが出ているようで猟友会が出動しているという連絡が前日瀧澤先生から来ていた。

そんなヒグマの生息・移動エリアの真ん中にある病院の精神医療の取り組みが、近く医学専門雑誌で紹介される。わたしもフィールド作りの担い手の一人としてインタビューを受けていたので、その初稿が昨日伝送されてきたのだ。グラビアが多く、メッセージが伝わるいい企画である。「森に癒やされ、森を育む」というのが特集のタイトルである。

わたしと林さんはJR植苗駅で早めに落ち合ったので、久々に、わたしが大好きな植苗の田園フットパスを乗用車で案内した。JRの沿線というのは、土地利用がほとんど固まっているので長い年月の間土地の改変がない。土地の改変がないところは、土地の落ち着きが違う。植生が繁茂するか、刈られるか、枯れるかの変化だけで、土地に安心感が残るのである。だから、線路の管理道路はフットパスとして歩いてみてもいいのだと思う。もちろん、沿線の農道と田園景観そのものもゆったりしている。

スピリチャリティとは何か

やはり、スピリチャリティとは何か、ということは今もってよくわからない。瀧澤先生もしばしば定義に関する資料を出されたのだが、その人の定義する概念を越える別の部分がどうしても残る。WHOが定義するものにとりあえずはしておこう、というのもちょっとおかしい。健康の概念に霊性を入れるかどうかの議論は決着がついたかどうかはわからない(進展があったというメモを何かで見たが不明)が、それはそれとして置くしかない。ただ、なにか霊的な癒やしを日常、あるいは林で、あるいは冥想で、体験するのであればそれはそれとして関心を寄せておきたい。わたしは自然の持つ霊性、こころに棲む霊性に、実体験として付き合っていくために、民話や民俗学、ヨガや冥想の実践に関するものはよく読む。そちらからスピリチャリティを見るのである。医療の現場では、この「霊性」を取り込まないと心身の病気の根本的治癒に至らないからこの分野に踏み込まざるを得ないのだとは思う。わたしはどちらかというと、人間のこころのバランスを、病気になる前の日常においてどうとることが出来るのか、林はそれにどう影響するのか、ということだけに執拗に執着しているようだ。

瀧澤先生が今回用意してくれた資料は、「スピリチャルケア学序説」、著者は窪寺俊之氏。勉強会のあと早速買い求めて著者の略歴を読むと、神学を学びチャプレン(病院の牧師さん)を経験され、これからますますニーズが増すはずの「宗教介護」を専門にしている。例によって詳細は省いてしまうが、著者は随所でスピリチャリティとは何か、を繰り返し述べている。「そもそも」、そして鈴木大拙や梅原猛、山折哲雄ら各氏の霊性の考え方なども紹介しながら、最後はスピリチャルケアの実践、チャプレンへの道へとつながっている。

目に付くことが随所にある。ただ、キリスト、神との関係で描かれる部分も少なくないので立ち止まることも多いのだが、たとえばこのような、どの宗教という偏りではない普遍的な記述に出会う。「人は日常生活で、自己実現、欲望の達成、社会的名声の獲得などを目的にして生きている。しかし、死の接近によって、それらのものが不可能になったときには、人は精神的なもので、かつ周りの事情によって変わらず、自分の人生に意味を与えてくれるものを求める。より内的意味が必要になる。このような内的意味が、死による存在の消滅よりも大きなものになるとき、それは究極的意味をもつといえる。生きることの究極的意味を人は必要としている」。

スピリチャリティは「機能」

そして、スピリチャリティとは機能だという。「スピリチャリティとは、人生の危機に直面して「人間らしく」「自分らしく」いきるための「存在の枠組み」「自己同一性」が失われたときに、それらのものを自分の外の超越的なものに求めたり、あるいは自分の内面の究極的なものに求める機能である」。スピリチャリティとは先祖のことである、とタオイストは言うかもしれない。わたしはそれもとてもストンと来る。この「機能」である、といわれるのもなるほどと思える。内的核に当たる部分にアクセスするこころの仕組みのようにも思うからだ。アクセスする「そのもの」を本当はスピリチャリティと呼びたい気がする。

その点、著者はこうも書いている。「スピリチャリティは、宗教のように組織・教義・礼典・教祖を持たないので、非常に主観的、個人的で自由さを持っている。どちらも魂の必要にかかわるものであるが、宗教に比べてスピリチャリティは規制力をもたないので、現代人には好まれる傾向がある。スピリチャリティも宗教性も魂の癒やしに関わり、人間存在を支えるものであるが、スピリチャリティが個人的体験にとどまるのに対して、宗教は社会的制度の一部になる傾向を持っている」。宗教と極めて近いが、個人的体験をいう…、自由な癒やしをもたらす新宗教ということになる…。宗教が持っていた魂の癒やしの力のことをスピリチャリティと呼ぶようになったということが出来る。

スピリチャリティとは「仏性」

さらに「日本人のスピリチャリティは、自然、文化、歴史、風習などの影響を強く受けていて、信じる対象や内容は明確でないが、人生を支え、慰め、方向性を与えるものである」。意味の深い言葉と随所で出会う。日本人は、自然や人間関係に強い影響を受け、複合的であると強調しているが、自然は階層として基層をなして、次の階層に人間関係がスピリチャリティ形成の要因になっているという。そして、「受容的な両親に育てられた人は、自己意識も柔軟でかつ、自分を受け入れやすい傾向がある。人間関係の中で自己や人生を受け入れるための能力が養われるからである」という。

ソニーでAIBO製作に関わった天外伺朗氏にわたしは冥想のメソッドで示唆を受けたが、氏はスピリチャリティは仏性であると書いている。「心理学者ユングは、多くの精神病者とのかかわりの中から、あらゆる人間は既存の宗教とは無関係に宗教性をそなえている、と論じた。つまり、宗教があるから宗教性が生じるのではなく、人間が本来持っている宗教性をかたちにしたのが宗教なのだ。スピリチャリティとは、その宗教性のことである。仏教でいう「仏性(ぶっしょう=誰もが持っている仏になる可能性)と、ほぼ同じだ」。「すべての宗教はスピリチャリティに根ざしている。その意味では、それをわざわざ別の言葉で表現しなければならないというところに、既存の組織宗教の大問題が潜んでいる」。スピリチャリティとは仏性のことである、というのは、今まで知った定義の中では一番ピンと来る。仏性はすべての人に備わっている「ピカピカの良心」である。仏性は内観の結果たどり着くことが出来、人それぞれの羅針盤のように道を示してくれるのだが、ハイテンションションな日常に漬かっているとなかなかたどり着くことができないのだ。

自然のスピリチャリティ

天外伺朗氏はつぎのように定義する。「(スピリチャリティとは)誰でも心の底の方では、自我を超えた絶対的な自然の力、あるいは宇宙のはからいに対してほのかな憧憬を必ず描いている。その自然な感覚に基づいて、自分の言動や人生そのものを律する傾向を、英語でスピリチャリティという――」。宗教とスピリチャリティは違う、と意識した上でこれを読むとまた違って見える。

「スピリチャルケア学序説」の著者は、自然が見せるスピリチャリティはその不変性にあると示唆しながら、ケアの方法をこう書いている。「死によって断絶される生命は、死を迎える人には残酷に映る。しかし、一方で、変わりなく存在し、季節ごとに姿を変える自然の営みは、確かにひとつの法則性、恒常性、不変性を示している。このような自然の普遍性に心の目が開かれると、今まで気づかないでいた新たな視点から自分を見るようになる。スピリチャルケアとは、単に自然の中に患者を連れて行くというだけではない。自然のもつ不変性や恒常性に目が向くよう援助し、自分の生命もその法則の中に位置づけられていることに気づくようにケアすることである」。


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