生成りの声を聞く

プロローグ

精神科医しおり先生との往復メール


林とこころUの勉強会を設計するにあたって、実はこんなやりとりを精神科医のしおり先生と交わしていました。読んでみると、勉強会で目指したいところの輪郭がみえているので、先生の了解を得て、「プロローグ」として掲載することにしました。(本文では先生と呼ぶべきところを「さん」としてあります)

2007/06/04

草苅 さん

 その後いかがされていますか?本日は用件ではないメールです。森とこころに関するこの頃の雑感です。

 草苅さんの周囲にアエラのこと(*AERANO.25掲載記事「森林セラピー事業の奇怪」)に関してなにかお話されている方はいますか? アエラのことはどのように収束するのか私にはわかりませんが、セラピー基地にこだわらず、森作りにいそしむ団体ができればいいなと、素人ながらに思います。セラピー基地の認定さえ受ければ万端なんて考える自治体が少なくなることになれば、と思います。

 しかし、日本人はこういった話にあまりにも慣れすぎ、怒ることもないのかもしれなせん。昨日ドイツでサミットを控えるなかで、今のグロバリゼーションは貧富の格差を広げるのみ、と大規模なデモがおこりましたが、日本人は、矛盾、不条理、といったものに寛容すぎるのかもしれないですね。「ああまたか」と。

  そして私が森林に感じるものは、やはり神様なのですね。つまり森林は教会のような機能をもつということですね。これは、もはや効果とか機能いう言葉はふさわしくもないですね。森、人が何かに帰依する気持ちになるもの、その人の人生の最高の表現(これは、富や名声でなく、そのひとが美しくある、という意味で)ができることを支える存在である、と思うのです。その人がその人で精一杯という意味です。みなが同じ目標を達成しなくても、もちろんいいのですよね。私の悲しみ、喪失に森林は意味を与えて、わたしの人生を受け入れてくれたのです。

 知人がメールで素敵なお話を紹介してくれました。

 【 ある時、アマゾンの森が燃えていた。

 大きくて強い動物たちはわれさきにと逃げていった。

 しかしクリキンディ(金の鳥)と呼ばれる小さいハチドリだ

けが、そこに残った。

 そして、 口ばしに1滴ずつ水を含んでは、飛んでいって燃

えている森の上に落とした。

 また戻ってきては、水滴を持ってゆく。

 それを繰り返すハチドリを見て、 大きくて強い動物たちは、

馬鹿にして笑った。

 「そんなことをして、森の火が消える とでも思っているのか」

 ハチドリはこう答えた。

 「私は、 私にできることを しているの」】


 全ては、今、出来ることから始まる。 

 すこし、話が冗長になってしまいました。何か今が人生の転換期、振り返る時期であるように想い、「死」に向かっている自分を意識して、神妙になっている気がします。

 では、15日にはよろしく、お願いいたします。

                                しおり


2007/06/05

しおりさん

そういえば、アエラの話以来ですね。メールをいただいたあの日、アエラを買って、関係者にファックスで送りました。緑資源の記事にあわせて農水省批判にあやかる記事ではないかとか、いろいろ感想が出てきました。 

森林についての基本的なわたしの立場は、しおりさんに近いと思います。そんなわけで今回先生が寄せてくれたメール「雑感」は、わたしにとって一種の涼風のようでした。ほんのちょっと、林に感謝のまなざしがあれば、アフォーダンスのステージがぐぐっと近づいてくる、という感じがします。そこにやはり、おおきな自然神が居るようです。

今朝は、4時に起きて仕事のメモをして、しおりさんのメールを携帯で読み、それからとても深い冥想を味わいました。あ、関係ないか(笑い  いやいや、実はあるのですよ。朝、起きがけに生きてることに自然と感謝できる日はとてもいい冥想が出来るし、一日の充実度が高いと思っています。結局、わたしにとって胸膨らむいいメールだった、ってことですね。

わたしもこのハチドリの話は聞いたことがあります。仕事や成果ではなくて、生まれてきた自分の能力の中で精一杯努める、わたしなら日常の生活や務めの中で修行する、ということが大事ですよね。林道の草を刈る、なんて仕事は、だから至福の時間になるのですねえ。

ps:ざわっとする追伸。先週の土曜日は刈り払いの今シーズン初日で、ダニ3匹でした。一つは30分後、耳の後ろ、2匹目はスーパー銭湯の湯船でお尻、最後は夜寝る前になんと、首。その間90度のサウナに数回入りました。が、もろともせず、ですよ。うち、首とお尻は化膿して腫れてしまいました。あなどれず!(こんなことでプロジェクトにひるまないでね(笑い

草苅


2007/06/05

草苅 さん

 早速のお返事ありがとうございます。草苅さんのメールを読んで、以前から気になっていて、いつか尋ねてみたかったことを書きたくなりましたのでお許しを。

 それは、森林生態系ひらたくいうと、森林の営みは、禅のようではないか?ということです。先日リタさんの出家、リタさんは「天心」さんになりましたが、に立ち会った返りに、古坂老子から、本を一冊いただきました。それは「澤木興道老子のことば」という本なのですが、それを読んでいると、禅は自然の調和から生まれたのだな、と思いました。もちろん人間もその自然の一部ですが。

 「天地も施し、空気も施し、水も施し、植物も施し、動物も施し、人間も施す  。−施しあい。われわれはこの布施しあう中にのみ、生きておる。

 ありがたいと思うても、思わいでも、そうなのである」

 「仏とは自分自身のことである。自分自身が仏になるより他に、仏と言うものはな  い」 

 森のすべての営みに仏性が備わっていて、綺麗な世界も、どろどろした世界も渾然一体で、でも総体としては簡素で美しい。本当にそう思うのです。

 ダニの情報ありがとうございます。これも自然の一部です。どんなにしたって、コントロールできないこと、人知を超えた事象はありますから。なにもかもコントロールできなければ、と言う発想自体がおごっているのかもしれないですね。なんていってしまうとみもふたも、ありませんけれど。

                               しおり


2007/06/06

しおりさん

わたしは禅のことはちゃんと勉強したことがないのでわかりませんが、大体先生がお感じのところは察していると自分では思います。

感謝と懺悔の気持ちを内奥にもちながら、自他一如の気持ちを抱くことは自分へのこだわりを捨てて森羅万象と一体だという、願望につながっているだろうと思います。

でもなかなか、自他一如、あまり好きではない人や悪人とも一体であるという思いは、どう整理するのか。私の場合はどうも、人はみな、自分を支えているかけがえのない根本的な良心=「仏性」を持ち合わせている、外の生き物たちには仏性はないかも知れないが、やはり同じ生命と本能が与えられている。その一点で生き物とつながり自然とも結ばれることが出来る、一体(ひとつながり)なのだ、と思えます。

ただ、この「仏性」が自分に宿っていることに気づけないのです。だれの内奥にも宿り、必ず前向きで肯定的で建設的なメッセージを出すこの仏性に気づくことができれば、人はそんなに悩んだりする必要がない。ほどほどがわかる…。

自己内観が成功すると、人は元気になれる、その場はどこでも可能だけれど一体で支えられるという至福まで望むなら、それは林、樹木のそばだと思います。自己内観で仏性に出会う、そうして丹田の意味もわかる…。

ここはやってみないとわからない、というあたりが面白いですね。理屈ではない、体験しないとわからない。そして、人間のこころは容易にマヒするから、毎日心がけて実践しなければならない…。そこにわたしの修行があります。

どうやらしおりさんは、観音様になろうとしておられるのではないか、と思います。わたしは、人としての身の回りも少し荒れた自然も手入れしてイヤシロチにしたい。結局似たようなことかも知れませんね。

ブッダの教えは、人に「仏になりなさい」、仏を目指せといっている、と梅原猛氏は言っていますがこれはずしりときます。わたしは冥想の最中に、林になりなさい、という啓示を受けたことがあります。

なんか、仏道を目指すもののような会話になってきますねえ(笑い

草苅


2007/06/07

草苅さん

 お返事ありがとうございます。このメールのやりとりも、もくろんでいる勉強会「森とスピリチュアリティへ」のステップとなっていて、すでに森の入っていく道を歩き始めている気がして、楽しくおもいます。

 禅のことはもちろん私も良く分かりません(笑)。さらに観音様になろうなどということも考えていませんので、御安心下さい(笑)。ただ、森を人に語る時に自分を明らかにしておきたい、と思っています。

 私自身は、森林を健康のために「利用」ということではなくて、究極は森は教えをもっているので、自分で行って自分で戻ってきてください。ということを伝えたいだけなのかもしれないと思うようになりました。そして森の教えが、わたしが、あさはかにも「禅」のようである、と考えたのです。

 同じ老師の言葉です

 よう

 「禅は無心になることでしょ」なんて言いおる

 −無心になんてしぬまでならんわい

 座禅してよくなるとおもうておる

 そうじゃないよしあしを忘れるのが座禅じゃ


 禅の教えにはしばしば、森林のなかで、気付くことが沢山書かれています。

 

 花も人も山も水も

 すべてのものがみなことごとく

 説法しているではないか

 森を見て自分を知ることができるような気がするのです。でもそれは自分で知るしかないので、だから、森に入ってもらうけれど、私には「あとはどうぞお一人で」という立場になってしまうのです。

 先住民族のビジョン・クエストをご存知ですか?大切なことについて示唆をえるために、森に出かけて一夜体験する。そこでの体験を導師にお話して、解釈をする。こんなことを考えていると「森林療法とは何ぞや?」となってくるのです。

 きっと一般向けの健康増進・癒し的部分と、「秘儀」があって、私は不遜にも秘儀について関心があるのです。

草苅さんはいかがですか?秘儀といっても大それたものでもなく、最も自然なものと思うのですが、語ったり教えにしたりすると、いかがわしくなるのかもしれません。

 7月からの研究会は可能ですか?また考えておいてください。

                                 しおり


2007/06/07

しおりさん

結局は、その人が行動を起こさないと始まらないというのは、実感です。実践が伴って、各々の気づきになる。各々の気づきは手取り足取りになることもあり、そこにはビジネス化されたのもありますね。

ピジョン・クエストはやったことはありませんけど、簡単そうに思っていました。しかし、究極に近い状態ほど、神秘の声が聞こえるとすれば、難行苦行のすえに達するトランス状態に、飢えなどで近づくのかなあ、と。ブラインドウォークでまったく見えない状態にして歩くだけ全身の感覚が蘇りますが、夜の林は第六巻感まで目覚めさます。

示唆を得る、のでしょうね。植物との自他一如の感覚があるような一定の深さの冥想時に、「雑念OKよ」の声をかけて、ある懸案を自分に投げてみるのですが、まあ、実に納まりのいい答えが返ってくるのをよく体験します。

答えは自分がすでに持っている。これは般若心経とも通ずるような気もします。

自己開発なのかなあ。まだまだ、まだまだ開発できる余地があるのを感じます。そうして自己を発見していく営み、やっぱり観音様とか、菩薩への道のまねごとでもしようとしているのかな、と思うことがあるのです。仏性というものは自然とそこへ導いていくのではないか。そのためには、自分の仏性に気づき、自覚しておいた方がいい。

秘技への関心ですが、それがあるからピジョン・クエストじゃないですが、群れないで独りで林と向き合うようにしているのだと思いますね、自分は。

で、7月の研究会はね、先日、どうしようかと冥想時に問いかけたのです(ホント・笑い)。答えは「まず4人でOK」というものでした。しおりさん、Sさん、Tさん、そしてわたし。これに、合気道のOさん、などを入れたい。てな感じです。

初回はポロト湖で。アイヌ関係者もご参加になったりすればなおさら面白い会になります。

草苅


2007/06/10

草苅 さん

 ビジョン・クエストという考え方は、アミニズムと結びついているのかもしれません。先住民といわれる人は、そして日本でも自然の精霊の存在をきちんと知っていたと思います。頭で理解していたのではなく、感じて、確信していたのだと、思います。その存在と自分たちが大きな輪の中でひとつだと感じることがとても大切だったのでしょう。

 自然との調和をとりもどすことの大切さを、そして人が無意識にその調和を望んでいることを、今の森林療法のブームは教えてくれているのかもしれません。

 草苅さんたちとの研究会では、その大切さを皆が自分のことばで、忌憚なく表現できるといいなと思います。学会や研究会では、その真髄を踏まえてどのようにわかりやすく、あるいはその場の共通の言葉の中に、真髄を表現できるか考えればよいようにも思いました。

 私は福井のつぶれそうな禅寺で思ったのですが、そこの和尚様はさして難しい言葉を使うわけでもなく、生活を簡素に、自然の恵みに感謝しながら生きているのですが、その態度になんと教えの多いことかと思ってしまうのです。

 さて、7月は後半が都合がいいのですが、いつにしましょうか?

 最後になりましたが、本当によい機会を作ってくださってありがとうございます。

しおり


2007/06/11

しおりさん

日曜日、辻井達一先生ご一行をフットパスに案内しながら、自己紹介。

「わたしは樹木や林とこころがどうつながるのか、作業しながら耳を澄ましてメモをする実験をしています」とっさにしゃべったことですが、スタンスを再認識しました。

ただ、ブッダや禅の書き物の中に、樹木や林という博物学的な具象がほとんど出てこないのではないかと思います。具体的なモノでなく、雰囲気とか風土の空間とか、丸ごとを相手にしているような気がしてそこにわたしは何故か、という疑問を感じ取っています。

和尚さんの言葉や高僧の言は、即物的な実体験の積み重ねのさきに紡ぎ出される言葉なのか、あるいは環境が出しているメッセージを離れて見て取ることですましているのか、ここが、アイヌを含めたアニミズムとずいぶんと違って見えます。わたしはアニミズムに寄っているかも知れません。(笑い  でもそこに、救いは明確にあります。

7月28日土曜日午後の線で第1回はセットしてみましょうか?

草苅




2007/06/11

草苅さん

 なんだか面白いメールのやり取りになってわくわくしています。

 まず現実的なところで、28日午後がもしかすると、北海道に戻ってくるのが遅れるかもしれないのですが、29日午後はまずいでしょうか?

 ところで、仏教と禅あるいは樹木に関してのお話はなるほどそうだなと思います。自分は仏教には素養がないのですが。ただ私の印象に残っているところは、森林インストラクターの講義で、継続可能な林業についての広義だったか、「森林生態系は輪廻転生そのもの」という話がありました。それが理屈をとくこともなく、とても深い教えを自然がもっていることに気付きはじめた最初です。

 それから、インドのビハール州にあるブッダガヤーには、ブッダが瞑想に座ったとされるその場所に今でもインド菩提樹の木が茂っています。元の木は枯れて何度か植え替えられ、現在の木は、1885年に植え替えられたものだそうです。釈迦誕生のムユウジュ(無憂樹)、入滅のサラの木(沙羅の木)とともに、インドボダイジュは、悟りの木として仏教の三大聖樹とされていますから、悟りを開かれた仏陀その人にとっては樹木は大きな意味があったかもしれません。

 私の父が言っていたことで、自分で確かめてもいないので恐縮ですが、「開祖仏陀、キリストは天才であったのだろうと、ただ弟子がその教えを言い伝えて行くうちに教義の解釈をめぐって対立したり、教条主義的になっていったり、そこで真の教えとは異なる理屈が展開しているかもしれない」と。

 仏陀が木の精霊から、啓示を受けていたのかもしれませんね。私にはわかりませんが。きっと木と瞑想される草苅さんのほうがこのあたりはなにか実感がおありかもしれませんね。

 宗教の本をまじめに紐解いてみようかという気になってきました。
 それでこんな記事もみつけました。上田篤さんという方の記事です。

『日本の庭園で一番大事なものは何かご存知ですか?

それは「蹲踞(つくばい)」です。

茶室には露地があり、蹲踞があり、水がある。なぜ水かというと、そこがカミサマの依代(よりしろ)だからです。つまり水は、カミサマが乗り移ってくる場として必要なんですね。

日本の仏教で庭園造りに熱心なのは臨済宗ですが、そこのお坊さんは「臨済宗では仏像をつくらない」と言います。「滝の流れるせせらぎの音が、お釈迦様の説法です」と言う。庭が仏像だというわけです。

奈良の南都六宗は国家鎮護のお寺ですから、今でも行くとみなさん仏像を拝みます。ところが、京都には禅宗系の寺が多いためか、みんな庭を見に来る。そういう庭の中心にあるのが水のせせらぎなんですね。庭園は基本的には小自然ですが、日本の庭園にはよく見ると中自然的な要素が多い。

さらに道元の曹洞宗になると庭さえも否定して、「大自然こそが仏様」というぐらいです。

それでは、そのようなカミサマの依代としての庭の原型はどこにあるのか。神社に行くと白洲がありますね。あれが実は庭の原型なんです。

森の中にカミサマがいらっしゃるわけですが、それを神社の白洲にお呼びする。そのとき、虫や他の動物が来ないように、その場を生きものが嫌う真っ白な色にしてしまうわけです。そうして清浄にしてカミサマが降りてくるというのが、庭のおこりです。

では、そのカミサマとは何か。

これは、いろいろな説があるでしょうが、日本人は基本的に太陽、そして火をカミサマと思っている。日本人の信仰はマナイズムです。

マナ(※)を、日本語では「玉(たま)」と呼びますが、魂ではありません。魂は虫でも持っていて、こそういう魂を尊ぶのはアニミズムといいます。アニミズムは自然界のすべての事物は魂をもっているという世界観で、マナイズムとは違います。マナは「強力な力」です。それに人々は憧れる。それが日本文化の基本的な在り方なんです。』

アニミズム的発想は日本人の根底に脈々と流れ続けてきて、インド産中国経由の禅宗もこのような発想になるのかと、不思議にもおもいました。

とにもかくにもまだまだ浅学の私です。是非皆様との交流で、なにかを感じ取れたらいいと思います。理屈ではきっと理解できないと思いますので。

刺激的な問題提起をありがとうございます。

   しおり


2007/06/12

しおりさん

あら、もう4往復目ですよ。(笑い

お互い、くつろいで最も興味のあるジャンルの話を、リフレッシュしながら、書いている証拠です。あれこれ記憶も感性も呼び起こしながらなんでしょうか、無理なくゆったり進んでいますね。

まず、実務的な話で、7月は29日の日曜日午後の線でおふれを出してみましょう。

さて、私のながらくの疑問に近づいてきました。(笑い

>仏陀が木の精霊から、啓示を受けていたのかもしれませんね。

ブッダは樹木のそばで啓示を受けたのでしょうか?それは過大評価ではないのでしょうか?樹木はあくまで環境と雰囲気、空気なのではないか?スピリチャルな方へバイアスを掛けはするが、自らメッセージは出さないのではないのか?…

簡単にいえば、冥想は深くするが、啓示はあくまで内側から出てくる…、その深い自己内観を樹木や林が誘発する、樹木や林の実力をその辺に留めたい気が、今の私にはします。そう考えた方がわたしと林の関係も読み解くことができるし、人々を林に誘う意味もわかりやすい…。

実はもう15年も前に、ブッダガヤに比較的近い北インドをツアーしたことがあります。休もうかなあ、と思って大きな日陰を探すとそれは往々にして菩提樹(ピパール)なのですが、現地人は、「そこへいくのはやめた方がいい」と言います。

「どうして?」「糞だらけだから」。

そうなんですよ。人の憩いの場はシバ神の化身にとっても待望の場だったのです。だから、なおさらわたしは樹木を深読みしなくなったのかも知れません。

3年ほど前、サライがブッダの生地巡りみたいなグラビアを特集したときも、ああ、やっぱりあのような北インドだ、と、半分がっかり、半分膝を打つ思いをしたのでした。

またネパールのジョムソン街道でも菩提樹のしたがしばしば人のたむろするほこらがあったりして、よく休みました。バニヤン・ツリーなども威風堂々なので、スピリチャルな匂いは伝わってくるのですが、もう樹木のほとんどは切られて貧相なものしかなかったような気もしました。

>日本人の信仰はマナイズムです。

強さの象徴ですか。上田篤は仕事の関係でいくつか読みました。マナイズムの話は記憶にありませんでした。むしろ正反対のことですが、松岡正剛の「フラジャイル」弱さからの出発〜という本を読んでいました。下記はわたしが関係するSNSに書いたわたしのレビューです。

**********************

「博覧強記のヒトである。と思いつつ読み進むと荒俣宏と親交があるみたいだっ た。

弱さ、はかなさ、断片…。

<「弱さ」は「強さ」の欠如ではない。「弱さ」というそれ自体の特長をもった劇的でピアニッシモな現象なのである。部分でしかないようなのに、時に全体をおびやかし、相対に抵抗する透明な微細力を持っている…>

メソメソと生きてきたのだなあと思っているわたしには、目の覚める下りが一杯。なよなよにも意味があるじゃないかあ、と。

わたしのブログは「林のアジール」というのだけど、「アジールの発祥は弱者の発祥の起源である」とあるのを見つけたとき、そのつながりが妙にうれしかった。

林は現代の人々がしばしば逃げ込むべき場なのだ。そこに実はアフォーダンスが潜む、…ように思う。

***********************

あ、昼休みが終わりました。またいずれ。(^_^)v

草苅



2007/06/25(メール送信に失敗して書き直されたメール)

草苅さん

  本日北海道に戻ってまいりました。だんだん気温差にからだがついていくことができず、つまりは夏ばてしております。

>ブッダは樹木のそばで啓示を受けたのでしょうか?それは過大評価ではないので
>しょうか?樹木はあくまで環境と雰囲気、空気なのではないか?スピリチャルな
>方へバイアスを掛けはするが、自らメッセージは出さないのではないのか?…

草苅さん御自身の体験はいかがですか、唐松はどのような働きですか?私は実体験がありませんから、人の話しか紹介できませんが、屋外で瞑想すると、自然のエネルギーに支えられてとても瞑想しやすいとききました。道場で瞑想すると自分のエネルギーを人に与える、自分をどんどん出さなくてはいけないけれど、自然の中だと多くのスピリチュアルな助けが得られると。同じような話を二人から聞きました。

>簡単にいえば、冥想は深くするが、啓示はあくまで内側から出てくる…、
>その深い自己内観を樹木や林が誘発する、そこに留めたい気が今の私には
>します。そう考えた方がわたしと林の関係も読み解くことができるし、人々を
>
林に誘う意味もわかりやすい…。

啓示のでどころは内と外の調和ですかね。ビジョンクエストは森の精霊に啓示を頂いて(具体的には、森の精霊が見せてくれる夢や、神秘体験を題材にするそうですが)、導き手が解釈するので、自然も私たちにメッセージを送っているかもしれないです。しかしこういうメッセージを受け取るには、自分を浄化し無にして神様が降りてくださるのをまつしかないのかもしれないです。

>**********************

>「博覧強記のヒトである。と思いつつ読み進むと荒俣宏と親交があるみたいだった。
>弱さ、はかなさ、断片…。

><「弱さ」は「強さ」の欠如ではない。「弱さ」というそれ自体の特長をもった劇的でピアニッシモな現象なのである。部分でしかないようなのに、時に全体をおびやかし、相対に抵抗する透明な微細力を持っている…>

>ソメソと生きてきたのだなあと思っているわたしには、目の覚める下りが一杯。
>なよなよにも意味があるじゃないかあ、と。
>
わたしのブログは「林のアジール」というのだけど、「アジールの発祥は弱者の発祥
>の起源である」とあるのを見つけたとき、そのつながりが妙にうれしかった。
>
林は現代の人々がしばしば逃げ込むべき場なのだ。そこに実はアフォーダンスが潜む、…ように思う。

>***********************  

そういえば、例の出家したドイツ人のリタさんが本を一冊贈ってくれました、道元禅師の略歴、ことばが書かれているのですが、そのようなことよりも、この人が幼くして両親をなくし、不遇であることが書かれていて、あることを思い出したのです。キリストも私生児、ブッダも継母に育てられ、つまりは愛情への希求が強かった、そしてその強い希求が昇華され、愛をとく宗教として結実すると呼んだことがあります。道元も然り。

つまりは、左脳だけではどうしようもない世界、大変な不幸な体験は、おのずと右脳を活性化し、イマジネーションを駆使して自分の存在の意味を練り上げていく。弱いことは、人の認識能力に作用して、多様な価値観を生み自分の体験を合理化、正当化していこうとする。ヘレン・ケラーの言葉で好きなものがありますが、「ひとつの扉が閉じると、新しい扉がひらく。ただ多くの場合その扉をみていないだけ」弱くあることは、「勝ち組、負け組み」的な視野をもっと広げていく、人間が過酷な環境に適応していくためのすべですね。

そんな連想をしました。森は私たちに様々なものをアフォードする。私たちは森にいくと創造力を刺激される。そんなことを考えました。

それではまた。このメールが無事届きますように。

                                 しおり


2007/06/26

しおりさん

Sさんのメールでは、病院で夏風邪が猛威をふるっているとか。しおりさんも稚内から岡山まで移動されるから、体調が崩れるのも無理ありません。養生に心がけてくださいますように。

でも、しおりさんは今心身ともエネルギッシュに、かつプロアクティブに動いている最中だからオーラがでてますよ。

わたしは仕事以外のおつきあいが次第次第にふくれあがって、これもまあ、運命かなとお手伝いをしています。世間への恩返しみたいなものですね。「自分の周りをイヤシロチにするプロジェクト」ですが(笑い)、これって結構、人の生きる道かもしれません。和顔悦色施を心がけつつ。

旭川でも勉強会開くという話は、それもいいなあ、と左記のメールを読んでいましたので違和感なしです。恐縮されることはありません。7月29日の白老の勉強会は、岩見沢のTさんが是非に、と参加されますので、かつてのコアメンバーはほぼ集まりました。まあ、人数にはこだわらずまいりましょう。そして移動しましょう。

草苅さん御自身の体験はいかがですか、唐松はどのような働きですか?私は実
>体験が
ありませんから、人の話しか紹介できませんが、屋外で瞑想すると、自
>然のエネル
ギーに支えられてとても瞑想しやすいとききました。道場で瞑想すると自分の
>エネル
ギーを人に与える、自分をどんどん出さなくてはいけないけれど、自然
>の中だと多く
のスピリチュアルな助けが得られると。同じような話を二人から
>聞きました。

この下りを拝見しつつ、わたしは気持ちのよい林の中の冥想を思い出しました。葉ずれの音、風や鳥や虫の音、光、すべてがわたしに染み入ってきて、つながっている感覚。幸せ感覚の極致といえるあの感覚は南ドイツのBW(バートウェーリスホーフェン)でも毎日感じていましたし、意外にも郷里の実家の仏壇の前でも、似たような感じがあります。

>啓示のでどころは内と外の調和ですかね。ビジョンクエストは森の精霊に啓示
>を頂い
て(具体的には、森の精霊が見せてくれる夢や、神秘体験を題材にする
>そうです
が、)導き手が解釈するので、自然も私たちにメッセージを送ってい
>るかもしれにで
す。しかしこういうメッセージを受け取るには、自分を浄化し
>無にして神様が降りて
くださるのをまつしかないのかもしれないです。

わたしという存在が透明になったときに内側からいろいろな素晴らしいメッセージが湧いてくる状態をいつもしっかり覚えていますが、ドロガメさんのように擬人化して精霊との対話におきかえることもできそうです。ただ、外にも表現することを考えると、ちょっとまだ勇気が湧かないのです(笑い   コナラさん、コナラさん…てまだ書けない…。

フィンランド人が樹木と語る、というのも、自分と木の間に精霊を介在させるわけですね。スコットランドの最北の話である「フィンドホーンの軌跡」を読むと、そこに出てくるのは精霊を通じてキャベツなどの野菜の栽培に不可欠な栄養診断のようでした。ガーデニングのうまい人をgreen thumb と呼びますが、篤林家もある種、通底するものではないでしょうか。こころに茶目っ気(ゆとり)があると、精霊は顔を出してくれるのかな、と思ったことがありましたが、どうもまだそこにたどり着けない。

> つまりは、左脳だけではどうしようもない世界、大変な不幸な体験は、おのずと右脳
> を活性化し、イマジネーションを駆使して自分の存在の意味を練り上げていく。弱い
> ことは、人の認識能力に作用して、多様な価値観を生み自分の体験を合理化、正当化
>
していこうとする。ヘレン・ケラーの言葉で好きなものがありますが、「ひとつの扉
> が閉じると、新しい扉がひらく。ただ多くの場合その扉をみていないだけ」弱くある
> ことは、「勝ち組、負け組み」
>
的な視野をもっと広げていく、人間が過酷な環境に適応していくためのすべですね。

なるほどね。まさに「老い」も閉じる扉のひとつですね。それをひしひしと感じるこの頃です。そして一方で間違いなく、開こうとする扉があり、それが人としての成就とか成熟にしっかりつながっています。吉本隆明が「超人間」と呼ぶ状態というのがそこの行き先とか道筋にあるような気がします。

霊魂はしっかりと、しかも磨きを掛けて成長していく一方で、身体的に老いさらばえていく自分も見えている。「死」とはその節目なのでしょうか。

> 森は私たちに様々なものをアフォードする。私たちは森にいくと創造力を刺激される。

当面わたしは「森は自分を映すかがみだ」と思って観察をしていこうと思います。林になりなさい、という啓示はそこにつながっていくようです。ではまた。

草苅


2007/6/27

草苅さん

 人数にこだわらないことは、心から賛成です。なんせ、精霊のお話などは怪しすぎますものね。でも白状しますが(笑)、私は精霊を信じているのです。間違いなく存在しておられます。

 自分としてはこの集まりの目的は、自然を畏怖し愛する心を皆さんと共有できたら、ただ素直に自然を感じること、かもしれません。おかしな宗教団体と間違われない程度に、おもいっきりはみ出していきたいと思います。

 自然は、私の亡き夫に死を受け入れることを、教えてくれ、私には喪失を受け入れることを教えてくれました。

 弱きものに愛ある世界をおしえてくれました。ただの修行無常の理ではあるのですが、そこには愛がありました。 私の森林への思いは、感謝が動機付けです。これを忘れるといけないな、といつも襟を正します。            しおり


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