生成りの声を聞く

第1回勉強会@白老ポロト湖

森林あるいは自然とスピリチャリティ


はじめに

また、心踊る勉強会が始まった。人生、死ぬまで勉強であり、ある種、修行のようでもあるけれども、楽しく語りながらの勉強はそうあるわけではない。林とこころに関する勉強会のパート2のテーマは「森林とスピリチャリティ」。いよいよ霊性に踏み込むのだ。これは瀧澤先生とずっと語り合ってきた課題であり、パート1でも通奏低音のように響いていた伏線であった。思えば、パート1のころ、苫東の小屋で4人だけの勉強会をしたとき、暗い室内でせんべいやお茶をいただきながら、延々と憑依とかなにか怪しい話をして妙に晴れ晴れしく散会したことを思い出した。そう、あまり大勢の前で話すべきでない秘話に、生成りの語りの真髄が見える。瀧澤先生は精神医療の面で、森林のスピリチャリティについて注目されてさまざまな蓄積もしてきた方である。まず、瀧澤先生に1回目の口火を切ってもらうことになった。参加者は、パート1の中心メンバー4人に札幌の林さん、白老の新岡さんの6人。

気功から始まる

わたしは札幌の林さんを白老の駅でお迎えしてすぐ、遊歩百選に選ばれているポロト湖の遊歩道を案内した。道新のツアーをはじめ、ずいぶん人の出入りがあったが、緑の濃い林は、静かで、蚊のいない気温21度の快適さ。栗の花が咲き、オオウバユリが暗がりで光り、マタタビの実が膨らみ始めていた。

 1時過ぎから三々五々集まり始め、定刻前に、気功の先生・新岡さんが簡単な気功を紹介してくれた。実に自然にそうなった。資料は『気功で天の気を盗む』のなかの「宇宙のエネルギーを取り込んで生きる法」というかなり刺激的なもので、丹田呼吸などについてわかりやすく書いてある。新岡さんは馬歩冲拳(まほちゅうけん)という武術に由来する気のめぐらし方と、外丹霊動功(がいたんれいどうこう)のイントロを伝授してくれた。勉強会の前に、まず気功のレッスンと相成ったのである。わたしにとってはこのうえない。瀧澤さんもことのほか熱心に動作を繰り返している。わたしはといえば、貧乏ゆすりのような外丹霊動功をしっぱなしで、「ゆすりながら勉強会をしましょうか?」などと本気で考えていた。

なぜスピリチャリティか

イントロとしてはとても十分すぎるものだった。前回のコアメンバーだった白井さんが見えて勉強会を開始。簡単に経緯と今後の進め方を告げて、勉強会の様子と内容の一部は、HPでわたしの思ったままのメモを記録していくことをまずお話した。瀧澤先生が今回用意してくれたのが表題で、A4全5p。瀧澤さんの資料はさすがに科学者らしく、スピリチャリティの今日的位置を、WHO(世界保健機関)の憲章前文における健康の定義のやり取り経過でなぞってから、徐々に本題に入るようになっていた。まず、「霊性」「スピリチャリティ」「魂」「霊魂」など類似する言葉の数々を互いに咀嚼しながら、ウォーミングアップである。WHOの健康の定義で、健康が身体、精神、社会的福祉に加え、「霊的」な健康があるという部分に争点があるのだが、結末はともかく、すでに霊的な悩み、痛みは現実化し人々のニーズはよく整理されないままビジネスライクにも変形されテレビに登場し本も売れ、一方ではスピリチャル・コンベンション(略してスピコン)が全国各地で開催されている。今とても有名な江原氏の一種の霊的なセラピーがなぜ人気が高いかについて、臨済宗の僧侶である玄侑宗久氏がいろいろ考察している。そのなかで江原氏のアプローチが英国心霊術のいろはにとてもよく似ていると述べている。つまり、そこには先発のメソッドがあるということだ。

瀧澤さんはホスピスのなかにスピリチャル・ペインを癒やすという段階があるのだという。大切な人に囲まれている状況を想起したりすることで病状が改善されていったり、植物人間状態の高齢者が孫など肉親の祈りで軌跡的に意識が戻ったりした実話も思い出した。また、英国の動物園で象が大暴れして手に負えなくなったとき、一人の紳士がやってきてオリの中の象になにやら語りかけると、象は納まって涙を流し始めた。突然の変化にどうしたのだと動物園の者が聞くと、インドに滞在していたときに象使いが象の魂を癒やす特別な呪文のようなものを唱えるのを知っていたので試したのだ、ということだった。魂は、時に荒れ傷つき弱り、それを何らかの形で癒やしていく対処法が、やはりどこかにあるということである。それもずっと以前からだ。

自然に癒やされるとは

前段でこうして頭の再整理をしながら縷々書き連ねていると、勉強会のメモにもならないので、今回はやり取りの詳細は勘弁してもらって要所のみ記して終わりにしよう。きっとこんなメモで終わるかもしれないがそれもご容赦願おう。

次にテーマは「なぜ傷ついた人ほど、病んだ人ほど自然への感受性が豊かになり、そして自然に癒やされるのか」。いきなり本題になった。先生は、今、種々のエビデンスを積み上げる要素分析ではなく、哲学的全体を伴った自然が傷病老死に面した人をいかに癒やしうるかを考察しようとしている。

自然が心身に及ぼすいろいろな効果は、近年精神神経免疫学の分野などで急速に進んでわたしも関心を寄せていたのだが、せせらぎの音を聞かせると被験者のストレスホルモンが減少したとか、血圧が下がったとか、そこにスズムシの声も合わせるとどうだとか、林の散策をするとどうしたとか、結局、追いかけているうちにうんざりしてしまって、今、あまり興味もなくなってしまった。なぜか、と考えているうちに答えはすぐに見つかった。それはわたしたちの心身そのものが、実験のはるか前の現実を体験しているのであり、実験はわたしたちの心身の未科学領域を単に後追いしているに過ぎないからだ。そして、わたしたちの心身が、自然が心身に利くことを、どうやら無意識に感づいているからではないか。だからなのか、わたしの周りには「どんなもんですかねえ」という表情をする方が少なくない。

自然の存在が人に及ぼす影響について、先生はいくつか列挙した。いずれも、足をとめてもっと議論したいキーワードだが、その中のひとつ、「生命を生み出した母体・究極の帰属感(究極の基本的信頼感)・包容力」にわたしは目を留めた。風土とつながる幸福である。宇宙という言葉の実感がなかなかないために、わたしは風土と置き換えるのだが、わたしの冥想の体験から言っても、自分と真我がかさなり、かさなった自分がさらに土地の神「産土(うぶすな)」あるいは宇宙とつながる世界が、どうも人が体験したい最高の境地なのだと思える。それがここでいう「究極の帰属感」だと思われる。しかし、これは、とかく麻痺してしまう人の心に打ち勝ちつつ、一人だけの日々の実践のなかでしかたどり着けない。ちょうど忙しい文明の対極にあるような関係にも見える。

自然が心に響く

今わたしは、勉強会の議論を採録しているのではないようだ。書かれた言葉、各人から語られた言葉を思い起こしつつ、自分の頭にある自分の課題をすばやく再構築しようとしているようだ。だからやり取りの採録を期待された読者には申し訳ないけれど、どうぞそのつもりで見て欲しいと思う。

瀧澤さんのメモは自然が心に響きやすい状態に注目して、いくつかの文献をピックアップし紹介している。スティーブン・R・コヴィーンの『7つの習慣』から「(右脳の活性化)・・人生の大きなショックを受ける出来事は、視野を広げる転機になる。試練により、私たちは一歩身を引いて自分の人生をみつめ、そして人生のもっとも重要な質問を自分に投げかける。「何が本当に大事なのだろうか」「なぜ今これをしているのだろうか」と」。病気など深刻な事態は右脳を活性化させる。ヘレンケラーが、五感のひとつを失うたびに、どこか、もうひとつの扉が開いた、という彼女の言葉に通ずるものだ。これに比べ左脳は経済の量の多寡を気にして、勝ち組負け組みに区分するパートだという。

私自身も40歳のころ、心臓神経症とかパニック症と言われる面倒な病に冒され、うつうつと仕事をしながら5年の間、心身と向き合った経験がある。そのとき、病気のこころを知った。深刻な病になると人のこころは、2ランクほど謙虚になり「知足」を知り、周りにこころから感謝しそれまでの傲慢な自分を懺悔するのである。そんなとき、わたしはよく、林を歩き藪をこいでいた。林に包まれていた。別に励まされもしないが、ただ休ませてくれたようだ。病気はメッセージである。病気になる前にメッセージは出ているのだが、人は転ぶ前に杖を突くことがあまりできない。病気はこころと体がアンバランスになったときに発生する。人のこころは清くまっすぐであることなんて所詮無理だと思うのだが、そうであれば、病気は得がたい方向転換を促す説教、生き方に関する神の声、といえなくもない。そう、神の声、それが内から発せられるというのが肝心なところだ。

神谷美恵子著「生きがいについて」

今回の勉強会の資料について、聞き読み語っている間に、瀧澤さんが用意されたテキストは、当分の間下敷きにしていこうと思うようになった。キーワードが濃密であり、これを23時間で消費するような真似をしてはいけないと思うのだ。考え抜かれた、体験の末にひねり出され言葉の、それも魂のようなそれを、流し読みしてはならない、そういう戒めが沸いてきた。それから時間がたってもう一度読んでみて、初回の勉強会の言葉として、神谷さんの下記の部分(上記、みすず書房刊)を、記念として書き写しておこう。これに尽きる気がする。

「自然こそ人を生み出した母体であり、いついかなるときにでも傷ついた人を迎え、慰め、癒やすものであった。それをいわば本能的に知っているからこそ、昔から悩む人、孤独な人、はじき出された人みな自然のふところに帰っていった。聖人たちも人生について悩んだとき、皆自然の中に一人退いたのである。自然には内、外もなく出る出されるもないからである。」

「・・・・・足場を失い、ひとり中にもがいているつもりでも、その自分を大地はしっかりと下からうけとめて支えていてくれていたのだ。そして自然は、他人のように色々言わないで、黙って受け入れ、手を差し伸べ、包んでくれる。みじめなまま、支離滅裂なまま、ありのままでそこに身を投げ出していることができる。血を流している人にとってこれは何と言う開放であろうか。そうして、自然の中でじっと傷の癒えるのを待っているうちには、木立の蔭から、空の星から、山の峰から声がささやいてくることもある。自然の声は、社会の声、人の声よりも、人間の本当の姿について深い啓示を与えうる。なぜならば社会は人間が自分の小さな知恵で人工的につくったものであるから、人間が自然から与えられているもろもろの良いものを歪め、損なっていることが多い。社会を離れて自然に帰るとき、そのときにのみ人間は本来の人間性に帰ることができるというルソーのあの主張は、基本的に正しいに違いない。少なくとも深い悩みのなかにある人は、どんな書物によるよりも、どんな人の言葉によるよりも、自然のなかに素直に身を投げ出すことによって、自然のもつ癒やしの力〜それは彼の内にも外にも働いている〜によって癒やされ、新しい力を回復するのである。」


ああ、写経のような時間だった。合掌して、今回を閉じたい。

2007/08/05 18:00


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