生成りの声を聞く

第2回勉強会@白老ポロト湖

まず、足で立つ実感

外丹霊動功の実践で気づく「森林と霊性」


1回目の感想を述べ合う】

森林と霊性の勉強会を始めるとっかかりに、気功に再び出会えて導きをいただけたのは本当に幸運だった。わたしは、新岡さんに習った外丹霊動功を時間があるつど試してみた。そして、面白いことに気づいた。そのことを、わたしの「雑木林だより」の8月18日の日記に書いた。その一部を以下にコピー。

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729日の「林とスピリチャリティ」の勉強会で習った気功「外丹霊動功」を瞑想テラスで始めた。新岡先生によれば40分ほどがお勧めらしいが、私はまだ最大で30分しか経験していない。途中で飽きてくるのだ。しかし今日、雑木林の冥想テラスで行った外丹霊動功の気持ちよさは抜群だった。土のにおいに囲まれていることもあるだろうか。

前回もそうだけど、わたしはやり始めて10分ほどで左の肩甲骨の内側がむず痛くなる。そうして膝を揺する動作をちょっと離れて左腕をぶらぶらさせることに集中する。膝はややゆすったままだ。こうすると、肩甲骨がほぐれてきてとっても気持ちがいい。しばらくしてまた、膝ゆすりに戻る。体はよくリラックスする。心の変化をたどるならば、前回もその前もそうだったが、これをやると喜怒哀楽の「怒」が前に出てくるようだ。その「怒」の意味を考えてみた。「怒」はもっと正確にいうと、わたし本来の「気難しさ」ではないかと思えてくる。日常、わたしは自分の「気難しさ」を封印しているのではないか、と思いついたのだ。

「気難しさ」は往々にして「不快」を生むから、わたしを随分「生きにくく」してきた正体であることは知っていた。だから、わたしはこれを、きっと血液型A型のような気働きとソツのない対応をすることで封印し、ともすると「不適応」になってしまう自分を抑えたのだ。持ち前のB型的な部分は、アートやプロデュースの時だけ開封するのである。これはわたし風のヒュウマンスキルなのかもしれない。わたしの血液型をA型と見る方が大半で、その見立てにわたしがしばしば内心本気で喜んだのはそれがスキルの成功の証に思えたからだ。ちなみに、血液型と性格は、本人が念入りに矯正しなければ、つまり「生成り」であれば、他人から見て結構当てることが出来るとわたしは思っている。

さて、外丹霊動功は恐らく、体のリラックスと同時にこころの封印をも剥がし、わたしはしばし、「生成り」の自分に戻る。ただ、それがいいことなのか、どうなのか。ことごとく、不快を感じてしまうならそれはマイナスではないか。もし、なにかプラス面を探すとすれば、深層で自分の心身がどういう感じ方をしているかを垣間見ることが出来ることである。それを冷静に観察する。と、その、突き放してみているのはだれか。それは真我。…そういう構図かもしれない。そうすると、外丹霊動功は心身をリラックスさせ、真我と出会う営みということになる。真我と結ばれるなら、それは「ヨガ」の語源と一緒である。

こういう心とからだの在りようを、そのまま受け入れているこの林。歩きながら、林はやっぱり「日常の避難所」「お休みどころ」「充電空間」である。「隠れ家」「エルミタージュ」(兵士の隠れ家という意味とか)、そしてそれは人の弱さ・なよなよメソメソのフラジャイル性を受け入れる「アジール」なのだ。しみじみそう思えた。

どうも、外丹霊動功のせいかB型的な独断が増長して、断定的な言い回しになってしまった。そういう自分を観察している。そしてまもなくその癖(ヘキ)を封印しよう。まもなく、人里へでるから。(笑い

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われながら、心身のこういった実験と観察はつくづく興味深いものだと思う。こんなことをしおり先生にメールすると、目を見張るような返信を頂いた。概略、下記。


興味深い体験談をありがとうございます。深層心理に働きかける、あるいは霊性に働きかけるワークは、人を随分揺るがしますね。こうして外丹霊動功に出会ったのも、それを始めたのも、そしてそこで何か気付きを得るのも、意味やストーリーがあるのかもしれないです。この世に偶然はないといいますから。すべてのことが何らかの形でメッセージを与えているといいますから。

草苅さんのように、瞑想をしているかただと、真我あるいはハイヤーセルフとつながることを常に感じ取れるのだと思いますから、不快さの意味や、不快を通して天が送ってきたメッセージを読み取られることと思います。こうして考えて見ると、いろいろな困難は、「そろそろ次のステージに行きますか」という示唆ですね。まさに。

…草苅さんのように、日ごろから、瞑想をしていることは、あるいは自己を深めて高めていることは大切なのですね。…自分を解放するためには、自分を真我でとらえることは不可欠なことなのだと思います。自分のうちにある様々な要素に気付くこと、特に一見否定的に思える部分に目をむけることは、既にその時点で、その部分が手の内にあるということですものね。

否認や抑圧をしていると、必ず何か別の形で、押さえつけられてものは首をもたげてきます。わかりませんが、ものの本には真我というものは、中立できで、よいも悪いも判断せず、ただ愛情をもって自分をみつめているとききます。自然とか森にもそういう要素があるのかもしれないですね。…


2回目勉強会でさらなる実践】

こんな外丹霊動功に関するやり取りを経て、第2回の勉強会は、外丹霊動功など気功を実際に新岡さんに実地でさらに習えるチャンスをもらった。白老にて、林さん、白井さん、新岡先生とわたしの4人。急遽、さまざまな都合で少数精鋭の4人になったが、少数で行うイベントは実は実りが多く、それをリリースできるHPなどの媒体をもっていればむしろその方が密度が濃くて喜ばれる。今回はまさにそれだった。
 
8月26日の13時、ポロト湖のセンターに三々五々集まって前回の感想など興味ある話をしている間に、全員揃って奥の広場に行く。気功一般の心構えを学び外丹霊動功を20分したあと、川べりの林を散歩する。20分ほどで戻ってから、肩甲骨の運動をしばし。前後左右300回をすべし、と聞いて驚く。馬歩沖拳もしばし。エクセサイズのあと、広場のテーブルで歓談。話題は尽きない。

森林と霊性。新岡さんとともにポロトの林のなかで気功をしている間に、気功による解放は、森林と自らの霊性を近づける大いなる糸口になる、という確信を持つことが出来た。これは手ごたえのある収穫だ。頭や理性とは大分違う。体まるごとで悟るのだ。



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