生成りの声を聞く

第3回勉強会@苫小牧アイビーセンター


スピリチャリティと出会う冥想」


いよいよ3回目の勉強会。7月、8月のイントロは外丹霊動功を中心にした足慣らしに、結果的に
なって、わたしにとってはとても意味のある経験になった。極端にいえば、林とこころを感じる
うえで、ひとつの開眼につながったともいえるほどだ。開眼とは、からだのリラックスと同時に
感性が目覚めていく心身の仕組みに改めて気づいたことである。林が「こころ」にこんな時代の
今こそ不可欠であること、それなのにその感性がしばしば閉ざされていること、そこには場の提
供や場づくり、基礎的な誘導なども必要であることを思えば、自立的に心身の変化を見て取れ、
林への視線も変えそうなこのエクセサイズは通過点として、偶然にしては出来すぎだ。

冥想の深さ

勉強会は今日もただなんとなく始まった。最初は、外丹霊動功をしてますか、などとその後の経
過を参加者お互いで話したが、しばしば実践しているというのはわたしだけだった。個人的には
ある種の気功をしてから朝の冥想を行うと深い冥想に入れるような気がするのだが、しおり先生
の知人は、沖縄の石垣島ではとても「豊かな」冥想が出来ると語っていたという。沖縄はわたし
たちにとって一種独特な響きのある土地だが、経済的豊かさとはうらはらに幸福そうな地域社会
の横顔がみえている。豊かな冥想が出来る石垣島という表現は、いい得て妙だった。なんとなく
バリ島を連想した。

冥想の場所では、長野県で宿泊したあちこちの朝を思い出す。いつも、冥想の深さに驚くのだ。
もうひとつは実家の仏壇の前。長野という土地、風土と、郷里のような先祖のことを感じる環境
というのが、魂のなにかに良い作用をしているのだろうか。

人生という舞台と霊性

林とこころの深層を見ていこうというこの勉強会では、霊性との出会いの取っ掛かりがいる。今
日は、その入り口にはわかりやすいのではないかと思うあるHPからの資料を用意した。人が生
まれて生きて死ぬ一連の状態をひとつの舞台と考えて、その前中後に神や霊がどういうポジショ
ンにあるのか、という「
spirit」という小文。わたしたち一人一人が舞台俳優である。スポット
ライトの当たる舞台のそでにはたくさんの
spiritがいて、スピリチャル・ガイド(指導霊)から
呼ばれた
spiritは二つに分かれて一つは舞台のほうへ、もうひとつはガーディアン・スピリット
(守護霊)になって観客席の上の方へ移動するという。舞台のせり上がりに行った
spiritはある日、
生命を得て赤ちゃんとして登場する。

ガーディアン・スピリットは人生の多くの場面でわたしたちに声をかけるのだが、舞台下の雑音
で聞こえないし、スポットライトのまぶしさでガーディアン・スピリットやスピリチャル・ガイド
が見えない。そういう舞台なのだということも忘れている、というのだ。わたしは、この話が、
とても出来ていると思った。そしてこの「人生劇場」という小文では、役者について下のような
簡単な説明がある。スピリットは舞台の裏方を務める。

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公演場所=この世「人生劇場」

演目=競争社会

主演=○○

助演=両親・あなたの友人・医者・社会人多数・通行人多数

裏方=@スピリット(魂)

…目に見えない霊的存在でいたずら者も多い。

指導霊に呼ばれて守護霊となる。仏教では阿修羅など天部の神々。

   Aガーディアン・スピリット(守護霊)

    …あなたを見守るもう一人のあなた。演出家。仏教では真我。

Bスピリチャル・ガイド(指導霊)…あるべき世界を指し示す高級霊。舞台監督。

…仏教では観自在菩薩などの菩薩たち。

Cハイヤーセルフ(宇宙神)

…劇場主兼スポンサー。仏教では梵または毘慮遮那仏。

========

わたしたちは、この霊の種類で立ち止まりこれからのウォーミングアップをした。諸説が
あり、あまり厳密に定義が出来ない。高級な霊、低級な霊、転生などの話しになってくる
と、体系化が難しくて今は手に負えない。言葉の存在に今は気をとめて、ややしたらもう
少し具体的に向き合うことになるだろう。ただ、わたしたち舞台役者は、舞台のまぶしい
スポットライトと、舞台下で大声でしゃべっている
spiritの声にさえぎられて、指導霊や守
護霊の声や姿を見たり聞いたりできないという表現はとってもわかりやすい。だから、冥
想や呼吸や感性の磨き方などがあると理解できるからだ。

自分の中にある答え

白井さんは面白い言葉をご存知だ。いい霊、悪い霊からの話の続きだったと思う。「重ね
て4つ」。江戸時代だったか、不倫した者たち
(男女)は重ねて胴体を切られても文句は言
えないという、どこかイスラムの「目には目を」に似たおきてのような不文律があって、
その戒律に従って自らを抑えてきた。人間は本来、このように戒律によって他律的に生き
るようにできているのだろうか、そんな投げかけだったと思う。

わたしはもうひとつの資料に関連することが記載されていたことを思い出して、示した。
それは「ハイヤーセルフからの言葉」というもので、何人かの方々が聞いたハイヤーセル
フの声がたくさん3、
4行ずつ書かれたものだ。その中に、『外側からの刺激にとらわれ
ないでもっと自分の内面に目を向けて自分の内側から響いてくる声に耳を傾けなさい。自
分の内側から 必ず声が聞こえます。答えを外側ばかりに求めないで、自分の中に答えが
あることに気づきなさい』というものだ。恐らく、これはだれでもが持ちながら見えない
さまざまな霊のような存在の声をさしているのだろうと思うが、わたしはもっと簡単に、
総ての人に宿る「とっておきの良心」みたいなもの、つまり「仏性(ぶっしょう)」では
ないかと考える。

わたしたちはこれになかなか出会えない。日常は、こころは常にあるいはしばしば上ず
っており、内面を見ることなどほとんどないし、そんな訓練も受けておらず習慣もない。
これを可能にするのが、冥想だと思う。そしてそれに至るステップが呼吸である。

森の中の冥想

しおり先生は森林それ自体が冥想ではないか、とおっしゃる。そんなことをメモした簡単
なペーパーを元に話がまた始まった。ラテン語のspiritus とは呼吸のことだという。森
林環境では、通常の何かの目的のための「指向的集中」ではなくて、指向的集中を一休み
させ「感応性集中力」に変わるという。ここで無意識のうちに集中力が引き出される。確
かに、森の中では一種独特の耳の澄まし方だったりする。時にはもののけへの感性みたい
なものだったりする。森へ入ることは、「癒やしだけではなくて覚醒もともなう」という
わけだ。

こころのざわつきを静め、自分のこころに気づき、正しい精神集中へ…。しおり先生の
メモはそう続く。その根っこのところには、冥想がある。冥想によって、見えなかった
霊性(スピリチャリティ)が見えてくる。あるいは感じるようになる。そしてそこの鍵
は「呼吸」である。森で呼吸する意味はここにでてくる。冥想は難しいと考えられがち
だが、冥想は呼吸法だとまず簡単に理解してもいいとわたしは思う。

これからどこへ

こうして終わりの時刻に近づいた。森林とスピリチャリティの勉強会としては、今日は核
心部分をぐるぐると巡ったことになる。では、森や林は、どんな側面をもち人々のこころ
にどんな作用をしてきたのか。森林と宗教、地霊との関係、それからわたしは人の逃避地
「アジール」という側面もいずれ見ていきたい。そこにはきっとこころや霊性に関わる部
分が潜んでいるはずだ。また、今読んでいる「昔話に見る山の霊力」にも興味深いテーマ
がたくさんつぎ込まれている。いずれ、これらもゆっくり紐解いてみたい。



(こうやってメモを作るには力量不足を痛感する。体系化が出来ていない。なにがどう
わかっていないかすら混乱している。もっと勉強せねば、欲張らずに。−後記−)



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