2010年の下調べから、2011年初夏の旅行まで


スイスは、日本人のかなり多くがいつしか憧れる、美しい国。山々と牧野のその光景は、画像として子供のころから親しんだものだ。変な話だが、北海道の千歳空港のJR駅には、10年ほど前まで、北海道の風景写真に混じって、何割かがスイスの風景写真が飾られていた、そんな笑えない話があるほど。 

しかしそのスイスについてわたしたちは、美しさの裏側の実情など驚くほど情報を持っていない。無知である。国連に加盟していないし、EUの一員でもない、もちろんユーロが機軸ではない、そして永世中立をうたい徴兵制度が生きている。また、スイスの銀行は世界の富豪や怪しいマネーにとって安全で守秘が保てる預け先として重宝がられているらしい。 

さて、日本。国益という言葉も影が薄いこの国にいると、自分や家族や肉親や職場や地域は、侵されるという危険を感じることがない。身の危険といえば、天災と、不運にも凶悪事件に巻き込まれることなどが思い浮かぶ。しかし、この頃は、政府は国のハンドリングを誤っていると普通の国民が断言するほど、不安になることがままある。政治家が外国の特定国を国益よりも優先しているような、おもねりでないかといぶかるような言動まで耳にする。 

国益はどこへいったのだろうか。ここ数年、わたし(わたしたち)は、そう考えることが急に増えたのではないか。近年急激に進んだように見えるグローバリゼーションとよばれるものとどこかでつながっているのだろう。そんなとき、スイスという国はとても気になる。国の守りでもしかり、風土をビジネスにする観光という仕組みもそうだ。個人的には、若いときにかぶれたアルピニズムというもののひとつの雄も、ここだった。

以下、折々のネット上の発信とそれに対するご教示を交えて、スイスという国の実像がわたしに見えてきた過程を紹介したうえで、3章目で、今年2011年の6月末から巡った先の画像とメモを載せたい。1章は「スイス、国のあり様」、2章は「スイスの牧野(アルプ)とコモンズ」、そして3章が「スイスの旅日記」である。


■スイス、国のあり様

2010年2月16日、わたしは運営に関わっている北海道の地域SNS「どっとねっと」に載せた下記のような日記を投稿した(内容一部変更、一部削除)。 

日記へのわたしの書き込み

「「黒いスイス」、これは通勤のJR車内で飛ばし読みしながら、今朝読み終えた本の題名です。福原直樹著、新潮新書。スイスの岩にはいつか登るぞ~と思っているうちに、歳をとって体力なし。もうアルピニズムのエネルギーが失せ、ウラヤマニストになりはてました。(^_^;) その代わりにコモンズとしての「アルプ」に興味をもち、Hさんからは、砂川の神社訴訟の日記の内容のやり取りで、ラディカルな宗教集団メノナイトおよびアーミッシュがスイスや南西ドイツあたりで始まったとお聞きしたのをきっかけに、これはもっとスイスを知らねば、と手にしたものでした。(中略)

題名からご想像できたでしょうか、そう、美しい理想の国スイスの、美しくない部分を暴こうという本です。日本人としては知っているようで驚くほど知らない不思議な国ですから、ちょっと別の扉を開けて裏口から訪問するようなアプローチにしてみたわけです。で、このもくろみは悪くなかったみたい。

本に書かれたロマ族(ジプシー)の子供の誘拐、ナチスへの傾斜と協力など、痛ましい事件が横たわっており、おや、とまず思い始めます。スイスのイメージは先ずうるわしいアルプスと山々なのでしたから、へええ、という感じが一番にしました。歴史的事実に疎く、グローバルな感覚も欠如したわたしのぼんやりしていたスイスのイメージはちょっと緊張感にかわりました。そしてどこか、この国に最も欠けたものをこの国は持っている…。
(以下、略)」

スイスのリアリティ

これに対して、日本を代表する有名な私大の元教授で、かつてスイスにお住まいだったHさんから、驚くほどリアルで懇切な下記のようなコメントを頂きました。スイスを知る上でも、またわたしが抱いている今の日本への問題意識に対して的確にインスパイヤさせてくれるものでした。あまりにもったいない論説ですので、公開されたコメントとはいえ、事後、お許しを得ることにしてとりあえず転載させてもらいましょう。 

「「美しい理想の国」は、人間という生き物の世界には存在しないと考えるのがまともだと思います。国家の存在理由は、「国民の生命と財産の保護」であるというのが「近代国家」ですから、その為には何でもやることになります。かかってこられても絶体に負けない自信さえあれば(米国のように)、国連決議などなくても、他の国に軍隊を進めることもします。

スイスは、自らを「平和主義の国家」であるといったことは一度もありません。スイスの中立を守る為ならあらゆる手段に訴えるとは、繰り返し言っておりますが。ある友人の歴史学者は、『スイスは平和を享受しているが、それは我々が平和主義者ではないからだ。スイスの平和は、むしろ絶対的中立を守る努力の結果だ』と言います。ただし、スイスは自国から外国に対して戦争をしかけることは絶体にしないと宣言し、軍隊の装備も徹底的に『防衛』用に成っています。空軍が爆撃機を備えていないのもその一例です。

この点で、福原直樹(毎日新聞元スイス駐在員)さんは、間違ったのではないでしょうか。東西対立の冷戦期、ヨーロッパでは第三次世界大戦は避けがたいと確信していました。そうなれば、核兵器による戦争になることもヨーロッパ中の人々が予想していました。ドイツなどでも、家庭用の核シェルターの販売が一般紙の広告にでていました。

多分日本では感じられていなかった『世界核戦争の危機』にたいして、小中立国スイスはどうすればいいのか? 

答えは一つです。それは、スイスの国防政策が常にそうであったように、スイスを攻撃した国に’対しては、二度とスイスを攻撃しようという気を起こさせないほどのインパクトを与えるように反撃するということです。

福原記者は、何年か前の毎日新聞の原爆記念日の号に、スイスでインタビューした退役将校の話として、平和国家スイスは、実は400発の核弾頭を製造する計画を持っていたと、大きく報道していました。

しかし、これは、日本のジャーナリズムが主観的に思い描いてみせた「美しい理想国家」像が幻であったことを知った驚きの表現に過ぎないのであって、スイス人ならそんなことを知っていた人は結構いた筈ですし、まさにそのため(スイスの中立を絶体に犯させないため)に税金を払っているわけですから、驚きもしないでしょう。

ほんの半世紀近く前までは、スイスの周囲の国々は、ヒグマやオオカミみたいな攻撃的な国家群でしたから、中立を守る小国は、ハリネズミのように武装し、あらゆる知恵(多くの悪知恵を含む!)をしぼって、周りの国々を脅しておかなければ成らなかったのです。

1960年代の初めにスイスを訪れた時は、スイスは第二次世界大戦時中の高度防衛態勢をいつでも発動できるような状態にありました。東西冷戦の時代で、ソビエト連邦を始めとするワルシャワ条約機構の脅威が存在したからです。人口600万程度の小国が、軍事訓練を受けた150万人の兵隊を動員できる体制を維持していました。周囲の国からスイス国内に通じる道路にはTNT火薬が埋設されていて、道路を横切る3列の黄色いガラスの蓋が不気味でした。外国軍の国境侵犯と同時に、国境の道路を中央指令所から一斉に爆破して、機甲師団の進入を妨げる目的だったそうです。

現在でも、スイス軍の兵員動員規模は、約40万名。アルプス山地全域に多数の秘密飛行場があって、戦闘機(最近まではF-15)が分散配置されているし、主要道路の要所要所は、巧妙に隠ぺいされた砲座から大砲や重機関銃が常時照準を定めている、と言う具合です。
なにしろ、ジェット戦闘機でアルプスの谷間をジグザグに飛びぬける訓練を続けていますので、侵攻してくる外国空軍は、蜂の巣に飛び込んだような状態になるでしょう。戦車隊はドイツのレオパルドを装備し、その数はフランス陸軍のそれとほぼ同じ、火砲の数は3倍以上だそうです。

ザンクトゴットハルト山塊を始め、アルプスの山中には、スイス軍が、2年間、一切外部からの補給なしで戦闘を継続できる要塞施設が造られ、兵器工場、病院、倉庫などが完備されているし、住民の全体を収容できる核シェルターが各市町村につくられています(入り口は公衆電話ボックスのように作ってある)。地下の中央病院施設を、麻薬患者の治療用に利用しているところもあります。つまり、平和ないまの時代でも、いつでも機能するように維持管理されているという事です。

スイスは、さまざまなやり方で、外国の資産を銀行に預かっていますが、それは、一端スイスが外国から戦争を仕掛けられると、世界中の国々が、自国の資産を守る為に、スイスの味方に成って、攻撃者をたたかざるを得ないようにするための戦略だという人もいます。

ハリネズミの針は痛そうだし、毒もあるかも、ですが、普通に旅行している分には、ハリネズミの針はほとんど見えません。」


目からウロコのスイス

リアルに紹介されたスイスの裏側に、絶句します。そしてわたし。 

「Hさん、

戯れ言のようになってしまったわたしのレビューに、この著作を越えるレスを頂き恐縮&感謝です。スイスと日本の架け橋になるあるジャーナルの編集に携わって来られたHさんならではの、よそでは見ることのできない解説記事だと拝読しました。また、目からウロコです。(モウ、ナンマイ、トレタカ

>国家の存在理由は、「国民の生命と財産の保護」であるというのが「近代国家」ですから、>その為には何でもやることになります。

早朝、のっけから眠気の飛ぶセンテンスがどんどん目に入ってきました。近代国家といいますか、いかにそもそもの国家観が希薄な緊張感のない日々を送っているか、痛感させられます。とりあえずは幸せなことではありますが。

>東西対立の冷戦期、ヨーロッパでは第三次世界大戦は避けがたいと確信していました。そ>うなれば、核兵器による戦争になることもヨーロッパ中の人々が予想していました。ドイ>ツなどでも、家庭用の核シェルターの販売が一般紙の広告にでていました。

ヘルシンキで核シェルターの地下トンネルに入りました。もう、無用の長物になってからですが、地域熱供給の配管だけが不気味に置かれていました。ちょっと冗談も言えない、未経験の世界を感じました。その時、極地近くに発生するオゾン層破壊が免疫不全の原因になる、という認識を初めて聞き、北欧各国の環境に対する危機意識も自分を守るための選択だと、肉迫するものがありました。地球の気候変動を半分ビジネス気分で割り切って教条主義を語るのとはまったく違う姿勢でした。竹下元首相は、地球環境のイニシアチブを語るインタビューで、片手にタバコを持ちながらのポーズの写真を出していましたが、そんなちぐはぐさとは無縁な世界を思わせました。真実味がまるで違う。

>主要道路の要所要所は、巧妙に隠ぺいされた砲座から大砲や重機関銃が常時照準を定めて>いる、と言う具合です。

ガーン!この事実を知れば、また、国を守る、国民、わたしたちを守ることの緊張が走ります。

>なにしろ、ジェット戦闘機でアルプスの谷間をジグザグに飛びぬける訓練を続けています>ので、侵攻してくる外国空軍は、蜂の巣に飛び込んだような状態になるでしょう。

「風の谷のナウシカ」の世界ですね。NATO軍の演習だったでしょうか、斜面に墜落したとき、実はとんでもないところを飛んでいることを知らされました。

>世界中の国々が、自国の資産を守る為に、スイスの味方に成って、攻撃者をたたかざるを>得ないようにするための戦略だという人もいます。

なんと!こういう身構え方もあった…。(絶句

>普通に旅行している分には、ハリネズミの針はほとんど見えません。

著者もそのことは肯定しています。まさに普通に旅行するときには、隠蔽された砲座など探したりはしないつもりです。どうも著者は、単純な日本的ドグマ、例えば核は悪であるみたいな、そのあたりに反応するだろう読者をあてにしたのではないか、と思います。しかし、このような対置のなかで、スイス国民の選んだ、選ばざるを得なかった国家戦略と社会を理解していきたいと思います。

森田安一著『物語 スイスの歴史』から。

「ヨーロッパの中央に位置するスイスはユニークな国である。風光明媚な観光地として知られる一方、国民皆兵の永世中立国でもある。多言語・多文化の連邦国家で、各カントン(州)の自治権が強い。中央集権化に対する国民の反発は根深く、国連や、EUにも加盟していない。こうした強烈な個性はどのようにして形作られたのか。内部分裂の機器と侵略の脅威にさらされつづけた歴史を紐解き、この国に息づく独立心の源を探る。」 


■スイス、牧野(アルプ)とコモンズ


実は、上の日記を載せる前の2010年1月19日の「どっとねっと」に、こんな日記をアップしていました。 

「コモンズの勉強をしている間に、スイスなどのきれいな牧野「アルプ」も典型的なコモンズ(共有地)だというのがみえてきたのですが、どうも実像がみえません。で、今年の春にでも、かつてはアルピニストだった夫婦連れ立ってスイスに行こうか、などと語っていたところでした。

そこへ昨夜、NHK・BSがアルプの特集をやっており、かなり概要を知りました。放映されたアルプは、7家族150頭ほどの牛をそのアルプに放牧しているようでした。アルプの上部は岩山ですから、雪解けと一緒に牧野には岩や石がずり落ちてきて放置すると岩山になってしまうのだそうです。だから牛1頭に付き10時間の整理義務があり、子供たちは、この岩の片づけや、乳しぼりを手伝っていました。子等はそこで大人になるのだそうです。

美しいアルプはメンテナンスの成果であることは、心温まることです。子供らが麓からあがってきてひと夏、そこで嬉々として手伝う光景は羨ましくなるものでした。

この辺のお話はHさんにいろいろ教えて欲しいところです.(^_^;) 」
 

これに対してHさんからはすぐ下記のようなレスをいただきました。

人間が手を触れなくても、そのままで、美しく、優しくいやしてくれるような自然は、あり得ない

「take(わたしのハンドルネーム)さんが書いていられるように、こういうスイスの農村地帯での伝統的な決まりというのは、皆の生活がかかっているだけに、合理性と重厚な重みを持っていて、成文法に書いてあることがらよりも、実効的な力を持っているようです。似たような性質の、伝統的な約定に基づいた社会的(共同体的)な約束事は、彼方此方で見受けます。

>美しいアルプはメンテナンスの成果であることは、心温まることです。

人間が手を触れなくても、そのままで、美しく、優しくいやしてくれるような自然は、あり得ないと、彼らは確信してますね。但し、自然を壊さないように手を入れ続けること、が肝心であるようです。

一例として、スイスは、外国に電力を輸出しているのですが、国の広さからすれば厖大な能力のある発電所は、スイスの中を旅して歩いていてもほとんどお目にかかりません。ほとんどが水力発電所なのですが、自然の景観を損ねないように地下に建設されているのです。そう言うスイスには、ヤワヤワな、それなりに心地よい環境で育った人間としては中々住み着けないと思っています。

しかし、一小国が、潜在的には凶暴な大国(ヨーロッパ!)に取り囲まれながら、今日まで生き長らえてきた上での、こうした社会的な強靭さ、国家制度の上を行くような共同体の強さ、そして、小国なりのさまざまな知恵、には、あまり生き方が上手いとは言えない、比較的大きなこの国の人間としては、敬意を感じているわけです。」 

それに対するわたしのお礼の返事。  

「Hさん

>そう言うスイスには、ヤワヤワな、それなりに心地よい環境で育った
>人間としては中々住み着けないと思っています。

はあ?、「住み付けない」。なんだか、連想が始まります。

>一小国が、潜在的には凶暴な大国(ヨーロッパ!)に取り囲まれながら、今日まで生き長>らえてきた上での、こうした社会的な強靭さ、国家制度の上を行くような共同体の強さ、>そして、小国なりのさまざまな知恵、には、あまり生き方が上手いとは言えない、比較的>大きなこの国の人間としては、敬意を感じているわけです

しなやかな感性をもたずば理解できない国勢かと感じいります。特に「国家制度の上を行くような共同体の強さ」、これはどう理解したらいいのでしょうか。

頭を一巡りさせて想起するのは、西日本の各地、京都の美山町や四国や九州の各地で見聞した、地域の「振興協議会」に残された住民自治ではないか、と思いました。

これは地域の結束を呼ぶものとして、いったんGHQにつぶされたとききますが、どっこい、隠して復活させたのだと2,3のところで聞きました。それにしても、国家制度を超えたコミュティ、しばし考えさせられます。」

そしてHさんから。 

スイス連邦と慣習法

「スイスの国名表記は、ラテン語ではConfederatio Helveticaであり、フランス語、イタリア語、そしてロマンシュ語でも、ラテン語のconfedertio (統合の度合いの強い連邦)に由来する表記を使っています(何しろスイスには四つの民族と四つの言葉があり、それぞれが国語ですから、計4種類の国名表記があることになります)、もっとも、国民の7割を占めるドイツ語圏の『国語』つまりドイツ語では、Schweizerische Eidgenossenschaftと表記され、その意味は、『スイス誓約者同盟』で、それは、13世紀末に、シュヴィーツ(Schwyz)を中心に、三つの村が、ハプスブルク家の無法な徴税を拒否して武装蜂起し、勝利して今日のスイスの原形となる政治的な連合体を造り、其処に周辺地域から『加盟』した民族的・地域的構成単位によって、今日のスイス連邦が出来ているという歴史に由来します。

近代的なスイス『連邦』は、歴史的実態としての『誓約者同盟』のあとに出来た、新しい法的形態なので、昔からの『不文律』を、憲法にも明文化して記載していなかった、つまり、大昔からの共同体の実践的原則が、連邦の実定法としての憲法の上位に立っているという事例が幾つかあるのです。スイス連邦憲法の慣習法的成分と見ることも出来そうです。

たとえば、7名の『連邦委員(内閣を構成する)』のうち、ドイツ語圏出身者は4名を越えてなならない、事になっていますが、法律的にはどこにも書いてありません。あるいは、スイス人は、国内のすべての地方で自分の選択した国語を話す権利を有するが、各地方の公的機関との通信はその地方の国語で行われなければならない(それ以外はすべて個人の自由と責任)、ということも、どこにも文言では書かれていない大原則です。それ以外にも、探せばまだそのような、「国家権力による規定の上位に立つ共同体の歴史的原則」がみつかるとおもいます。

スイスでは、法律には書いてないけれども、このばあいは、A ではなく、B のようにする、というようなことは、色々あるのに、それはいちいち言葉で言わず、書き表しもしない。インサイダーには自明の沈黙知みたいなものが際立って多い社会だという印象です。」 

そしてわたし。 

「>大昔からの共同体の実践的原則が、連邦の実定法としての憲法の上位に立っているとい>う事例が幾つかあるのです。

>「国家権力による規定の上位に立つ共同体の歴史的原則」がみつかるとおもいます。

Hさんの以上のご指摘あたりだけでも、自分が(あるいは日本人の多くと読み替えてもよさそうですが)いかにスイスという国を、産業と、観光と、歴史的断片の一部でしか関わってこなかったか、と思い知ります。

慣習法が先にある、というのはたとえば北欧の国々で、万人権として他人の土地に自由に入ってよいアクセス権、friluftslowen がのちのち憲法で保障された国民の権利になったことを連想させました。

>このばあいは、A ではなく、B のようにする、というようなことは、色々あるのに、それ>はいちいち言葉で言わず、書き表しもしない。インサイダーには自明の沈黙知みたいなも>のが際立って多い社会だという印象です。

興味深いお話です。ありがとうございます。あらためて、Hさんから頂いたHさんのジャーナルもひもといてみようと思います。」 

再び、わたしからHさんへ 

「H さんの、

>「国家権力による規定の上位に立つ共同体の歴史的原則」がみつかるとおもいます。

が、あらためて、とても色々なことを考えさせます。国家とはなんなのか、そこまでいかずとも行政とはなんなのか。以前訪問した関西の小さな自治体は、住民自治の組織が出来上がっていて、その構成をみると自治体という組織は単なる行政サービスを行うだけで、議会などは要らないのではないか、と思わせるものでした。

その住民自治は熟度が高いために、行政はその自治体をモデルにしていろいろな施策のリトマス試験紙にし、結果的にうまくいくのでますます新しい施策のモデル地区にする、という循環にありました。

ちかぢか、訪問する中国地方のあるNPOは集落の20戸ぐらいが全員NPOで、集落の土地を共有にして集団で管理し、このままでは集落の存続が危ないので集落で農村休暇型のビジネスを展開している、というところです。

制度が先にあってわたしたちの生活を良くも悪しくも守り制限しているのですが、Hさんのお話しや、上のエピソードなどは、「課題や思い先行」で制度があとを追ってくるという逆ルートかと思います。

まず意志ありきで、思いの方向に未来は始まっていると考えれば、社会やコミュニティはそれ自体が壮大な「ライフワーク」(こう呼ぶのも変ですが、言い得て妙)だという発想が湧いてきます。歴史や枠組はあとからできてくるんだ…。こういう立ち位置は、なかなか新鮮です。いままでは、なにかに洗脳されて思いこみをしていたかもしれないなあ、と思うほどです。」
 

さらに、わたし。 

「>『日本とスイスは共に島国である - 日本は海の中の島であり、スイス
>は山々の海の>中の島である』という一文があって、スイス人と日本人
>は、遠く離れた、全く異なっ>た文化を持っているように見えながら、感受
>性や行動のし方に、沢山の共通性を持って>いると書いていたことを思い
>出しました。

やはりそういう見方がずっとあったのですね。残念ながら身近なところでスイス人にお会いしたことがありません。スイスの観光地は今も日本人だらけだといいますが。

>それが、今の日本ではすっかり逆転されていて、法律を新しく制定する
>ことによって、生活のし方がどんどん新しくされてしまうような気がして
>おります。

地域のことを考えていくときに、どう制度や施策を利用するかというのが今日的な勝ち組の体制なんですが、どうもよくみると、その源泉にソーシャルキャピタルが横たわっている、と見ています。今回のこのお話しはそこにコミットしているのではないか、と。」

それにHさんから。 

ソーシャル・キャピタルのもうひとつの見方

「>その源泉にソーシャルキャピタルが横たわっている、「ソーシャルキャピタル」という言葉の意味を、自然発生的な、比較的頻度の高い人間関係、社会的な繋がり、『人間的な信頼』に基づいた交流、連帯が日常的に社会生活の中にあること、と理解しますが、日本語で言う『団結』ではないし、形式的な義務感とも違う、中々言い難い「靭帯」のような関係性が実在していることをスイスにいると感じます。

このスイス的「ソーシャルキャピタル」のコアの部分を煮詰めて行くと、オオカミとヒグマの群れのようであった周辺諸国に対して「中立主義」を盾にして自主独立を維持してきた「小さなハリネズミ国家」の、中々表には出難い、強固な防衛反応の源泉に逢着するような気がします。

ごく最近、「ミナレット建設禁止」のイニシアティブが国民投票で可決され、スイス政府を狼狽させ、また、ヨーロッパのみならず世界的に波紋を巻き起こしたことも、その一端であったのではないかと思います。

その一方で、自国内に四つの国語を持っていて、複数の国語を自由に使いこなす人が多いということと関係しているのかもしれませんが、政治的・文化的な国境を、第三者から見るといとも簡単に飛び越えて、異質な文化・文明に入って行く能力を持った人が多いことも目に付きます。

スイスの強力な社会的連帯(個人的な好き嫌いの感情から相対的に独立している行動原理のようです)は、逆説的にスイス人の言葉、文化、国境を越えた向こう側の世界に没入し、ほとんど其処の人間になってしまうが、スイス人であることを止めないし、スイスとの関係をきることがない、そう言う静からグロバリゼーションのエネルギー源になっているような印象を受けます。

例えば、スイスか、日本かという「あれかこれかの関係」ではなく、「違い」を認識しながらも自由にかつ徹底的に生きている(例えば、一般の日本人以上に日本的なものに没入する)という行動のし方です。

小さい国土、高い人口密度の国に、四つの互いに相当はっきり違った文化を持ちながら、その中で自由に活動する、そう言う生活スタイルを国外に広げると、以下の例にあげたような、一種の「異文化スーパーマン/スーパーウーマン」が出現しやすいのかもしれません。

成人してから習い覚えた日本語で小説を発表し、「いちげんさん」が芥川賞候補にもなり、映画化されたたDavid Zoppetti(ダヴィッド・ソッペティ) は、その一例です。

個人的な、知り合いの中でも、Philippe A. Neeser(フィリップ・ニーザー)という人は、30年以上日本に住んでいて、スイスの製薬会社の顧問弁護士であった人ですが、茶道と仏教(禅)の研鑽を積み、茶道では宗匠であり、2008年暮れには、日本とスイスの文化交流の功績にたいして日本国の勲章(旭日中綬章)を授けられています。実業の世界を離れていらい、京都の外れに庵をもち、もっぱら茶道と禅の生活を送っているそうです。

さらに、大阪学院大学教授(比較音楽学)である、Silvain Guignard (シルヴァン・ギニャール)は、在日26年。筑前琵琶の名人(人間国宝)であった故山崎旭萃に師事してプロの琵琶奏者となった人です。元来は、チューリヒの音楽学校でピアノを専攻し、ピアノ教師の資格を得た後、チューリヒ大学で音楽学を専攻、ショパンのワルツをテーマにして博士号を取得。日本の伝統音楽に興味を持ち、文部省の奨学金をえて大阪大学に留学したのが始まりですが、その後、筑前琵琶最大の流派である橘会で師範の資格を得て「旭西」の名をもっています。

スイス人の在外生活者は60万人に及び、スイスには彼らの為の専門のラジオ放送局(長波)があります。一方スイスの人口約700万人の20%〜25%が外国籍です。一般に、外国人の人口比率が5%を上回ると、社会的な葛藤が起こるようになると言われていますが、この経験則はスイスにはあまり当てはまらないようです。」

 

地域SNSのおかげで、スイスに抱いていた稚拙なイメージが世界史の中のスイスイメージと重なるくらいに成長しました。このやり取りを見、時にコメントもしていた参加メンバーから、「どっとねっと」は集合知を形成している、とコメントが出たのもうなづけます。Hさんに感謝します


■スイスの旅日記(メモと画像)

前置き
2011年の6月下旬から、10日ほどスイスを旅しました。岩登りをした人間なら、長く憧れをいだく国、スイス。年男の節目もあるし、歩けるうちに、という思いもあったのですが、足腰は大分後退しているので、クライミングは断念しました。

電車で昇ってしまう山々。それも今回最も高いところは3,800mを越しました。息ゼーゼーになるそんなところになぜ、かくも大勢の人が観光に来るのか。ひとつはインフラ。100年ほど前、トンネル技術を駆使して開通させたアイガーのトンネルなど。箱根の元になった山岳鉄道や登山電車によるアクセサビリティ。
 もうひとつは、高山が代表する展望観、自然観。高山には当然高山植物の広がるカムイミンタラがあるわけで、それを苦しまずに手に入れることができる…。特に、高い山々という神々の所業に唖然とするひと時。

これ(地方独自の風土)がこんなに、人をひきつけるということを人々や特に北海道の行政はあまり気づいていない。国が悪い、道が悪いと地域振興の不手際を他人のせいにしまいがち。スイスは、その点で大分違うようでした。ひょっとすると、知床や阿寒になぜ人が惹きよせられるのか、そこをしっかり見据えないとどうも道庁の観光行政を超えられない、とわたしは密かに思っています。観光の根っこは、伊勢神宮来訪者数年間2,000万人という数字が示すような、根源的動機。祈らずにはいられない日常の人間性に動機がある。そこにコミットしなくては持続的な観光にならない。裏返すと、そこにコミットできればシーズは広がる…。

ちなみに、スイスの山に登る料金は高い。グリンデルバルトから巡るユングフラウの登山電車は往­­復16,000円、ブリエンツの展望台の登山電車は往復7,000円。しかし上にはきれいな水洗トイレとおいしい料理を出すレストランが完備されているのでした。以下、画像を組み合わせた観光の旅行メモ。 


 ▲6/23 thu 曇り @札幌~東京~成田 

東京にいる娘と、食事など3つのお店いと浅草の演芸をたっぷり楽しんで、午後9時40分の急行で浅草から成田へ向かった。ホテルは11時ころ。早割りで航空運賃9,700円と宿泊7,000円程度、それには1,800円の朝食とトランクの輸送費も入っているから激安だ。 

▲6/24 fri くもり @成田~チューリヒ~サンモリッツ 

5時半おきでヨガ、8時のバスで第1ターミナル南ウイングの阪急交通社のカウンターへ。21人の参加者はすべて中高年、まとまり第一だ。そして添乗員のいるツアーは超楽チン。9時50分から搭乗手続きで、10時半の離陸。スイスエアライン161便。機内で、時計をふたつ購入。

 1回目の食事はビーフとソバ、焼きうどんの2種。2回目はピラフ。その間におにぎりがでた。パーツの一番前の席だったので、体が動かせるし足を伸ばせる。機内ではラッキーだった。「ちきりん」のエッセー、「スイスの歴史」を読む。

3時半ころ、バスでチューチヒ発、金曜午後の渋滞に突入して、チューリヒ脱出にロス。その後、5時間ほどのバスの旅となる。牧場というか牧野と林はまるで南ドイツの景観街道とそっくりだが山が高く、森が深いのが大分違う。ヨーロッパトウヒとカラマツが見える。林業のあともあるので見飽きない、興味は尽きない。今、国は、森林・林業再生プランを掲げ、ドイツ、スイス、オーストリアの林業を手本にしている。山々は褶曲山脈という造山活動を彷彿とさせる光景だ。林床の植物はまるでお花畑で、それは翌日、森林限界を超えても続いていた。ユリア湖、ユリアパスが印象に残る。

サンモリッツの近くで、silbvaplanaという素晴らしいパワースポットのような保養地があった。スイスの感動は初日から始まった。4つ星のステファニィホテル泊。


▲6/25 sat 晴れのち雨 サンモリッツ~ベルニナ線ティラーノ~サンモリッツ

 

疲労のきわみと思いきや4時半起床。ヨガをする前にホテルの窓から湖の向こうのモルゲンロートを見る。パソコンのコードを借りてメールチェック。朝食に頼んだはずの朝食の弁当ができてなくて、添乗員はあたふたする。ベルニナ鉄道に乗るための早出だ。結果、あわててレストランで朝食をかっ込むことになった。とてもおいしいパンだった。スイスのパンがまずい、なんて信用できなくなる。

7時10分、歩いて駅へ。ベルニナ線に乗って30分、モンテラッチュ駅で降りて氷河へ。V字谷の川原のような中を1時間、帰り40分。人気のあるハイキングコースのようだ。初めての氷河に向かって上り、末端で引き返した。壮大な光景。カラマツとトウヒ、アカマツの林が、登るにつれ、柳、ヤシャブシ、シンパク、など氾濫原の草花や潅木に置き換わる。末端は1,900m弱、そこに2010のマークがあった。昨年の氷河の末端だという。そこから現在はもう100m以上交代している。途中に1950年、1940年、という末端のプレートが記録されているので、温暖化によってか、氷河が交代しているのが手に取るようにわかる。川原植生、V字谷の森林が目新しい。


道すがら、21人のメンバーの何人かと話す。11人のコーラスグループは、7人が70歳以上の元気な方々だという。奥さんは宮古の方。ご主人は私より先に定年になった方。今回はじめて持参したウォーキングポールは快適だ。股関節の痛むわたしが全体重を乗せることができる。上りしなに苦しい思いをしたが、かなり肩が動くので気持ちよい。82になるという茨城の方は、歩くのも難儀の様子。皆に遅れて「写真を撮る間もない」と懸命に息を切っていたが、帰り、一緒に戻ろうと声をかけておいて抜いた。最終的には添乗員のIさんが時間になって連れて戻ったが、途中、追いついたわたしとYさんと3人で記念写真を撮った。

ベルニナ線にのってイタリアのティラーノへ。途中の氷河、景観が圧巻なため、右へ左へとカメラを向ける。圧巻の山岳風景だ。お花畑と氷河、そして建物が織り成すものは、やはりスイスならではのもの。当然とはいえ、絵葉書とはまた別のスケール感がある。

ティラーノはスイスの国がとんがってイタリアに這い言った形のところ。国境から30分ほど。サンジェンの条約締結で、税関などのチェックはなくなったという。

レストランはマカロニの前菜、白身魚のムニエル、デザートだった。キリンにお勤めのご夫婦と同席。わたしだけ、前菜のマカロニを全部食べた。どこへ旅行に行ったか、今回はどうして選んだか、など、問わず語りに聞く。

田舎のフットパスを歩く高齢者、マウンテンバイクとサイクリングの若者の光景がまぶしい。こんなことができるのだ。わたしの視点は、北海道の資源とその活用、北海道らしいライフスタイルの追及ということになるだろうが、そのプロトタイプがここにあると思う。15時半、ディアポレッチャ駅からロープウェイで展望台に。ロープウェイで展望台に行くとアイスハンマーをもった若いクライマーの男女が大勢いる。アウトドアが実にかっこいい。

しかし3,000mは息が切れる。ミルクココアを飲む。ピッツ・ベルニナなど3つの山が見えるはずが、あいにく霧のなかだ。ヘリコプターが一機、飛んでいくのをみると、光景はかなり大きいスケールだとやっとわかる。列車から、今日はこれで、ベルニナ氷河、パリュー氷河など三大氷河をみたのだという。

ガイドのIさんの説明では、農業を大事にして、農産物は高くてもいい、農民は国の元になる景観を整え、観光の基礎をつくってくれるからという合意形成がスイスにはあるという。岩山だらけ高山に牛を放すという粗放な酪農が垣間見えた。山岳観光は山岳景観と道roadだ。特に軌道のインフラは行き届いている。列車は音も静かで風景の鑑賞にあう。お花畑だらけ、そこに多くのフットパスが見える。気宇壮大の展望台と峠はフットパスの独壇場だ。線路脇や道路沿線で、恐らく一番草を刈るトラクターと農家の人を多数見た。欧州特有の大きな手鎌で刈る男女も見た。若い女性も混じる。家族総出という草の重要性をかいま見る。
サイクリングは多くのパーティとあった。列車でマウンテンバイクなどを運べることはこのスポーツを支える意味が大きい。日本との違いを想像しつつ見る。林業もしっかりされていて土場をいくつか見た。貨車に詰まれたものも少なくない。

買出しにCOOPに行ってみたが土曜日ですでにしまっていた。断念して部屋でメールの整理をする。やっとニフティでメールがつながって北海道の息子に安否を聞く。わたしはあまり英語を使わないでいたが、思い直してこれからはいこうか、という気になる。全体の雰囲気は大体わかってきた。

夜は少しはなれたレストランでYさん夫妻と同席になった。奥さんが宮古出身と聞いて親近感わく。いろいろなところを旅行していらっしゃるようだ。モンゴルの話しなどを聞く。料理はトマトクリームスープ、ポテト・spinach・ポーク、それとヨーグルトのスイーツ。

リゾート地、地元の客、資源は考えさせられる。確立された仕組みにいたる年月と歴史。素人がすぐやれる生業などないが、積み上げというそれを、北海道の社会はどこにどの程度しているのか。疲れはあまり感じない。10時に就寝。

*シェンゲン:スイスやイタリアなど各国移動の協定地・ルクセンブルグのシェンゲン



▲6月26日 晴れ サンモリッツ~氷河特急・マイエンフェルト(ハイジ)~ツエルマット

サンモリッツ3日目の朝、家内と湖畔を散歩。湖のほとりでシングルの競艇用ボートを準備する初老の男性に声をかけると、夏は毎朝のように乗るらしい。高級なボートだ。サンモリッツは1928年と1948年に冬季オリンピックを開催。今回めぐる山岳リゾートのうちではもっともグレードが高いようだ。メインの通りにはグッチなどの高級ブティックが並ぶ。5つ星ホテルは3,4軒ある。

10時3分発の氷河特急に乗る。マハラジャがのる専用列車の様相である。車掌にエレーナさんという女性が付いた。昨日の山はボルタレッチ山と知る。ランドバッサー橋の撮影に向けて左右の渓谷を撮影する練習をする。山並みの斜面、谷底に道と住居などがあるセット風景が続く。斜面は森林と牧場。アルプスとは「森と山と野の花、水、牧場+暮らし、北海道は森とヒグマとササと花、繁殖力旺盛な自然…。

エレーナさんに聞くと、ベルニナ線の経営はレイティッシュバーン鉄道、氷河特急は、レイティッシュとマッターホルン・ゴットランド鉄道の共同運行だという。

フォルダーラインとヒンターラインの合流点を通過、両河川の色が違う。目立つのは、砂利採りと水力発電と送電線。

「アルプスの少女ハイジ」はヨハンナ・スピリが創作した架空の話し、おじいさん、ペーター君、セントバーナード、その場所をマイエンフェルトに作る。物語は足の悪いクララのお相手でフランクフルトへ主人公が行く話。宮崎駿夫のアニメでさらにメジャーか。今はテーマパーク状態、やや「北の国から」に似ている。アニメの光景に出てくる原風景が確かにある。スピリは夫と長男を隠した主婦で、子供を慰める小編を書いた。裕福な家庭に生まれたスピリは、教会のボランティアとして書かれた作品の初版は名前を出さないものだった。アルルの小屋が舞台、スイスのイメージが作られたようだ。彼女は「アルプの仲の生活が世界で一番幸せな生き方」とハイジに言わせる。

スイスの歴史、Iさんバージョンを要約したのが下記。…4万年前ケルト人が住み始め、ローマ時代に「ヘルベチア人」と呼ばれるようになる。紀元前1,000年ころ、古代ローマ帝国支配、中世申請ローマ帝国とハプスブルグ家、1291年8月1日、ウッターバルテンの??、これが国シュバイツの起源になる。16世紀、フランスに戦争で敗れ、やがて外国と戦わない路線を選ぶ。17世紀は傭兵の派遣で財なす。また宗教改革の中心地でもあった。永世中立の防衛戦略。55歳まで兵隊としての訓練を受ける義務、銃を所持する。1970年以降、住宅に核バリアを設ける制度。…

スイスの風景を考えると、天然の山と地形の資質にあわせ、丈の低い牧草とそれを刈る農業との組み合わせが、園芸的行為になっている。英国もそうだが、農業従事者は国土のガーデナーという訳で、そのことに国民的合意もある。斜面に見えるアルプの小屋は草置き場だろうか。好天のこの日は子供も総出で草集めをしている。太陽を浴びてノースリーブ姿も見える。氷河特急の峠が1980年にトンネルになった。アンデルマットという、氷河特急の中継地は昔の宿場町。ローヌ氷河も後退していた。そこでキャップを購入。
 

ワイスホルン4,500mをみた。白いややとんがった山だ。やはりワイスホルンにちょっと似る。ツェルマット着は午後9時前。ひとつ手前の駅でバスを降りスーツケースを積んで列車に乗り換える。トリオの楽団がいるにぎやかなレストランでビールとワインで遅い夕食。8時半ころまではしっかり明るいので、9時の夕食は変でないが、さすが疲れる。あ~あ、という感じを抱くのがちょっと申し訳ない。


▲6月27日 晴れ @ツェルマット  マッターホルンを堪能

朝、3時半のモーニングコールで4時集合。登山電車、ロープウェイ、ゴンドラを乗り継いでロートホルン展望台へ。箱根の原形か。アプト式の、斜めの乗り物である。

この山岳リゾートをみていると、交通アクセスのインフラのほかに観光インフラというものがクローズアップされてくる。綾町長がいう立地学を思い出す。土地のポテンシャルを知り戦略的シナリオを立て実行に移していく…。

マッターホルンに陽が射し始める。5時前後、気温は5,6度か。台湾人と思しきグループがいるが白人はいない。異形の高山、氷河は非日常の天然素材マッターホルンと連山、じっくり堪能。7時50分まで、ワイスホルンを1枚、マッターホルンを半分スケッチする。

中間駅で降りて野の花トレッキング、ガイドはじゅんこさん。標高差34mを2時間で往復。ワイヤレスマイクで名前を後ろへつなぎながら行くが、やがて名前を実物があわなくなる。名前などどうでもいいという人もいる。ウサギギク、エーデルワイス、エンチアン、ビオラ、ヘラオオバコ、バンダイソウ、などなど。逆さマッターホルンの池までいって、戻る。

外人の家族連れも車道を池へ向かっている。それにしても快晴では熱い。

じゅんこさんに聞いたこと。…このマチの今の人口は約5700人、年間観光客200万人泊、うちスイス人34%、日本人6%、上位は英国、ドイツ。リピーターが3分の2。彼女はツェルマット在住の有名な観光カリスマ・山田桂一郎氏の一番弟子だという。バイオマス発電の取り組みなどを聞いたら、ここは水力発電の小さなダムがふたつあり、十分とのこと。彼女は環境省関係のエコの取り組みにも関係しているもよう。

昼食は駅のそばのレストランでジャーマンポテト風を美味しくいただく。その足でマチを案内してもらう。木造の建物のヒンター●●シュトラッセへ。ネズミ返しが大げさな純角材組工法である。

  

アプト式で途中駅3つほどを過ぎてゴグナート展望台へ。ホテルもある。白人は3,000mで背中むき出しにして身体を焼いている。マッターホルンより氷河の迫力を堪能する場所だ。それはちょっとすごいものがある。絵を描くどころではない。そして氷河は今のわたしには描けない。下りにパンタグラフの事故あり。また、添乗員のIさんにいろいろ海外のこと、勤務のシフトのこと、観光の趨勢などきく。

疲れがたまってきた。家内はcoopでビール2本を購入したが、sans alcoholとある。ゆずのバブをいれて入浴し、洗濯する。夕食後の8時過ぎ、二人散策。裏の川沿いにマッターホルンの格好のスケッチポイントを見つける。そこからはギャラリーを気にせず絵が描けそう。昼のビールが効いて来たのか、昨日買った赤ワインに手が出ない。サロンパスを塗ってねる。夜9時前だ。




▲6月28日 火曜日 快晴 30度 ツェルマット~ジュネーブ~シャモニー

いよいよ旅は後半。3時半に起床、雑務の写真整理と旅日記をすますと、もう残り時間がない。ヨガの時間が取れなかった。部屋がマッターホルンの見える唯一の角地だったので、昨日洗濯物を干したベランダでラフなスケッチを一枚描いた。

8時半、駅に出発してテッシュで新しいバスに乗る。ドライバーは大柄なピーターさん。トイレタイムを頻繁に入れてくれるツアーはありがたい。バスは一昨日来た道を戻って途中から西に向かう。最初のストップのあたりで、セントバーナードの話が出た。セントバーナード峠は、交通の要衝で冬場など、遭難者が出た。セントバーナード犬というのはそこで人命救助をしていた犬だが、もとはそこでホスピスをしていた聖バーナードにちなんだものらしい。セントバーナード犬は、今も世界的人気があり、子犬は1匹16万円程度で取引されるという。

レマン湖がみえてくる。大きさは琵琶湖くらいか。湖につきでたシオン城で下りる。釣り人のいる桟橋にでると、なにやら小魚を釣り上げている。ブルーギルのように見えるので聞くと、なんかよくわからない返事だった。つげの垣根があり、猫のおしっこのにおいがする潅木なんだというと、猫対策に町内会で取り組んでいる、Bさんが「ほんとだ」とびっくりしている。モントルーでの昼食は中華だった。バスから5分ほど歩くが、高級リゾート地のモントルーはスイスというより、かなりアメリカナイズされた景観で、ごちゃごちゃしている。

酒家は野菜の多い料理だったので大いに喜ばれた。最初の春雨のスープもかなり好評だった。スタッフは全員中国人のようだった。帰り道、マルシェ広場を取って湖岸へ。銅像かとおもったものは実はパントマイム風の大道芸で、コインを置くと動いてみせてウインクするのだった。モントルーはスイス初のホテル、避暑地で、ヨーロッパの貴族が集まったという。機械工も一緒にきて、それがスイスの精密機械産業の元になった。また、傭兵派遣の支払いはスイスフランだった。それを現地で預け本国へ送金する必要から、スイスの金融機関が生まれた、という。

モントルーからさらにジュネーブよりのラヴォー地区のぶどう畑を見学。2007年に世界遺産に指定された模様。レマン湖の照り返しを利用した一大ブドウ山地で、取り組みや町並みすべてが注目されている。坂の上のブドウ畑のまんなかに立ってみる。炎天下で作業は大変そうだが、こんな手作業の産物を1ボトル、安いものを500円ほどでどうして手に入るのか、不思議だ。

ジュネーブは、国際機関のある一帯から中心部へ入る。ローヌ川の右岸から左岸に入り、宗教改革の彫像を見てから湖岸に下りる。ジェットが25mの噴水をあげてランドマークになっている。公園では警察官が巡回して「すり」の摘発をしていた。いろいろな人種がいた。煩雑な雑踏。明日から小学校は夏休みとかで、親が車で迎えに来ていた。公園の水辺では若い女性たちが水着になっていた。

シャモニーに近づくと針峰群が目に入り、ガストン・レビュファの「星に伸ばされたザイル」を思い出した。モンブランが見え始める。6時、シャモニーについてレストランへ。谷の真っ只中である。上空にはいくつかのパラパントが浮かんでいる。ビールと赤ワインで、サラダ、とんかつ、エクレア。

歩行者天国を歩いてホテルへ20分。フランス的なのか、どこか、庶民風でパンクっぽい。タトゥと鼻ピアスの若者も結構目にした。なんでもありのスポーツリゾートか。スイスとはちょっと違う。ホテル・アルピナは部屋からモンブランが見える。インターネットの無線ランが自分のPCでも有料で、つっけんどんな受付と2回確認交渉をして、添乗員Iさんにも電話で聞いて諦め、6ユーロの24時間のコースを受付で申し込んで、IDを獲得。

赤ワインはここであけた。息子にメールして後、「どっと」にレスして、あとは明朝、旅日記を書く。腰(股関節)はかなり不調。2日とも、朝のアサナをできなかったせいと、座りっぱなしの結果か。30度の猛暑、シャモニーは荒れるという情報もものかわ、長袖シャツは不正解だった。

~~~北海道の地域SNS「どっとねっと」への寄稿初回~~~
「24日からスイスに来ています。ネパールやインドの山々とはまた違って都会風に調理された料理のよう。さまざまなビジネスがあり、それを農業も支え、そのおかげで国土が美的になり、そこに感動する人々はリピーターになる、そんな感じでしょうか。若いときにはなかなかこれなかった場所です。

一枚目:イタリアに向かうベルニナ線からみた氷河。裾野はどこも広大な野の花の群落。
2枚目:標高2000m以上のハイランドをマッターホルンをみながら高山植物のフットパスを歩く。風がなく暑い。もちろん、こんな日ばかりでなく女性の現地ガイドによると今年一番の好天だといっていました。
3枚目:スイスからちょっとフランスにはいった山岳リゾート・シャモニー。部屋からはモンブランが一望できる
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▲6月29日 水曜日 晴れ シャモニー・エギーユ・ド・ミディ展望台~ベルン~グリンデルバルト

3時半ころおきて朝のヨガ・アーサナと瞑想、そして旅日誌。「どっとねっと」へのレス。山形へさくらんぼが届いたという息子のメールに、実家への電話を頼んだがその返事を読む。万端、上手くいっているという。写真の整理とデジカメの充電を済ます。

8時10分、朝ごはんはバラエティに富んでいた。特にパン。随分多くのパンを選んで食べ過ぎた。9時出発、9時半にエギーユ駅着。1,000mのシャモニーからてっぺんは3,800m、そこから4,600mのモンブランとグランドジョラスなどを見る。遠くにマッターホルン。150kmほど向こうのような感じ。気温5度、ちょっとふらふらする。階段も上ったが、息が切れそうになる。

欧州でもっとも標高の高いモンブランがすぐ目の前にあり、ミディから東にはガストン・レビュファの「星に伸ばされたザイル」の針峰群がある。雪面を大勢の登山者グループが動いている。グランドジョラスとマッターホルン、それと7月1日にいくアイガーで、三大北壁をすべて目にすることになる。

昼食は日本食「巽」。鮭の焼いたもの。ノルウェイ産というからアトランティックサーモンだろうか。働いていた日本人女性にきくと、シャモニーにおける日本料理は、日本におけるフランス料理と一緒とか。連日、外人客で一杯と言う。

チーズで有名なグリエールのパーキングショップで250gのチーズを買う。きったばかりの簡易包装だったので真空パックしてもらうツモリだったが、すでにパックされたものがあった。店員に案内してもらう。

ベルンの旧市街地で大聖堂、時計の提示のからくり仕掛けを見る。旧市街はピロティが6kmあり、地域が買い物に使う店。地下もある。外壁はハイイロに統一されており、市民は内装を自由に変えられる。2000年に、世界文化遺産に指定。くま公園。ベルンの名前を決めるとき、○侯が一番早く取れたのがクマだったことにちなむ。ベルンは連邦の首都だが、それらしい建築は連邦議会のみ。しかし、マチはとても古風でしっかりした印象。トラムが走り、歩行者も多い。市場は酢漬け屋さんから八百屋、チーズやさんと庶民生活に直結の模様。

インターラーケンはユングフラウ地域の中心。みやげ物店で小一時間すごし7時に民族ショーをやるレストランに。ヨーデルとホルンを中心に、スイスらしい演奏を聴く。おばさん、おじさんで、参加型のショーだ。ダンスに客席からよばれ、打楽器演奏も10人ぐらいがステージに行き、わたしはホルンにでて、音がでなかった。とんだ引き立たせ役になってしまった。ホテルに9時半着、荷物を整理してシャワーを浴びると11時半だった。

スイスにあって北海道にない地域のしかけ
1.歴史と国際性
古代ローマの時代から、諸外国の支配を受けて現在あり。永世中立の前の、傭兵派遣など往来とビジネスと外貨獲得の歴史。地域(州)の主権。欧州の貴族が集まる風光明媚。避暑地の位置づけ。
2.酪農業が国土を守ると同時に風景のガーデナーになっている、その合意。北海道の水田も、深川などで顕著。→ 展望台運動、ビューポイントのベンチ運動、沿道森林保育運動が必要
3.スポーツが活発

若い人が多いせいか、登山、自転車、パラパントなど、野外のアクティビティが目立つ。高齢者、家族の散策も多い。外に出る。

4.自然保護
お花畑の鉄道、斜面くりぬきの鉄道、自然の中にロープウェイなど、将来の基幹となる施設、レストラン、駅、宿泊施設。グレードをそろえたもの。
5.ガイド
バスの運転手がくわしい、この地ならではの情報提供。

6.観光立国として一丸、クラスター
ぶどう酒、ブドウ畑、世界文化遺産、ガイド制度



▲6月30日 木曜日 曇り ユングフラウヨッホ

4時半、起床。股関節の痛みはひどい。今日はストレッチを十分してコルセットもしよう。

7時半、朝のレストランはもうおお賑わいで盛り上がっていた。そこで美味しいパンを食べる。8時45分にホテル発、歩いてユングフラウ鉄道の駅に向かう。10分ほど。ラクト式と呼ばれる登山電車だが、箱根のスイッチバックは山岳鉄道というらしい。霧の中をぐんぐん上り、EIGARWANDへ。WANDは窓、そこで来た壁の壁面のすごさを見る。5分の待ち合わせの時間にこうして窓を見ること都合2回、そして頂上3400mへ。頂上の直前、青空が見えて、電車は雲の上に出た模様で、駅の窓越しに山を見た人から歓声が上がる。展望台から見えるのは左にメンヒ、右にユングフラウ、その間にアルプス一の氷河が眼下に見える。
   
アイガーグレッチャー駅からクラインシャイデン駅まではガイド付でお花畑の中を下る。霧の中だが、わたしはこれでよかったと思う。高山植物に専念できた。山の姿など一度見ておけば、とりあえず十分。花の方も名前はどうでもよくなった。科の見当が大体つけば、それで十分で名前を覚える必要などない。槙有恒がかつてアイガーの東稜を登頂した後、かれが100万円を寄付した。そのお金は稜線に小屋を建てたそうで、それが登山者の増加によってこの場所にヘリコプターで移築されたもの。その小屋に寄った。当時も、ちょっとした偉業だったと思わせる。一時間半ほどで下の駅に着いて、2時過ぎに遅い昼食。

登山電車の中では、添乗員のIさんがおばさんたちの質問攻めにあっていた。彼女はすまなそうに、会社の指令によって今日もお土産屋さんに案内せざるを得ないという。わたしは店に一緒に入り割引券をもらってすぐホテルに帰り、スケッチを広げてみる。残念ながら、カメラ画像に詳細は記録されておらず、着彩は不可能と知り、断念した。



▲7月1日 金曜日 晴れ時々曇り18℃ グリンデルバルト~ロートホルン~ブリエンツ~ルツェルン

夜中にすっぱい胃液が出てきて下痢をする。3回ほどトイレに行って収まる。食べすぎ飲みすぎ、いくつになってもこれで後悔することがある。困ったものだ。5時におきてヨガ、冥想。あいかわらず腰の調子は非常に悪く、体重が股関節にかかること自体がまずいようだ。必ず痛みがくる。

6時10分前からアイガーが顔を出し始める。雲の切れ間の写真を撮る。朝食は、外人日本人含めて満員状態。

8時半、ロートホルンの登山電車に乗るためブリエンスへ。往復で7,000円らしい。ディーゼル車で押し上げるもの。窓は全開できる。250%の斜度を上っていく。アルプと放牧場を延々とぬって頂上駅。手違いで11時に昼食。わさび菜入りのサラダ、タラのフライとタルタルソース、アイス。

頂上へ歩いて15分2,350mのロートホルンへ。下ってブリエンスの町を歩いてみる。木組みの民家が特徴的。アイガーなどは結局顔を出さなかった。

ルツエルンでカペル橋、瀕死のライオン記念碑、旧市街を見る。ホテルに行く前に1時間できたので、面々は町で買い物、わたしはカペラ広場でストレッチと青年寄宿舎のメモをしながら家族コーラスを聞き、のちおじさんバンドのレトロな演奏を聴く。パレスホテルは五つ星、湖のほとりで一泊5万円とか。

午後6時半、バスでレストランへ戻る。明日は帰国の途につく。早々にスーツケースを20kgに収める。




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