魂が喜ぶ林 林を見る 雑木林の間伐作業を通じてわたしが見てきたモノの実態は、割合から言うとマスとしての 林としてとらえる場合が3割、ひとつひとつの樹木として交流する時間7割程度で「木を 見て山を見ず」の表現を借りれば「木を見て時々山(林)も見る」となる。つまり、仕事 始めに林の全体を見て、個々の樹木相手に素性など見ながら作業を繰り返し、区切りがつ くと、歩いてみて林全体の納まりを見る。そして再び、個々の樹木を相手に作業を続ける といった具合だ。  これは主として晩秋から冬、そして早春までの間伐の適期、寒冷な期間の話と言える。 では、春から夏そして秋という、一般に緑とつきあいやすそうな時期はどうか、と思い起 こしてみると、個々の樹木とのやりとりがぐんと減り、風景として大きくとらえることが 実に多いことに気がついた。気づきのきっかけになったのは、道づくりである。ササを刈 るだけで道ができる仕掛けを発見して、里山化したログハウスの周りに数百mの管理と散 策用の道を開設したのである。  道づくりで発見したもうひとつの小さなうれしい原理は、林の中の大木を目指してブッ シュカッターを刈り進むとルートの不必要なぶれが少なく、ササに隠れた切り株も少ない ことである。それから実はもう一つ、比較的大きな樹木にとても近づきやすくなることで ある。その時、夏場に林の個々の樹木とのつきあいが冬の作業時に比べとても少ないこと に感づいたのである。そればかりか、樹木のかたまり、つまり林として視覚的に見ている 間は「雰囲気」や「気持ちよさ」という漠然とした情緒であるのに対して、木の幹をなで 肌をみつめて苔やはげかかる樹皮、せわしなく上り下りするアリ、さらに見上げて朽ちた 力枝、分岐した枝ぶり、枝先の伸び具合、葉の茂り具合、とみていくとそれは風景ではな く、自然という顔や体を見ているのに等しい。直径が7,80cmもあるヤチダモの大木 やコナラの木に対面しているときは、もう偉大な山と握手しているみたいな感じだ。 魂が喜ぶ  自分のからだも自然であり、向き合っている木も地面に根をはった自然。その隣りも違 った個性の自然で、それもこれも全部包み込んだ風土も大気も自然で、わたしという自我 がすむからだはその大きな自然の中で生かされている。そしてわたしが向き合った一本の 木が個性をもった自然の形だと感じ見るようになってきた。ゆったりした気持ちでひとり 幹から枝先へと見上げていくと「ああ、あなたとこんな風につきあっているのは地球上で わたししかいない、よろしく」という場が確実に生まれるようになる。ここだけに存在す る固有の交流というわけだ。だけど周りに居並ぶすべての木々とこうしてつきあったらこ りゃ大変なことになる、と直感もする。ただそれが大地、自然、宇宙というのを感じ取る ときの近道のようだ、という予感がする。  そんなことを考えながら開設した小道を歩き、わたしのフィールドでいう大木の幾本か に手で触れながら深呼吸を繰り返していると、林にやってきてほっとする「なごみ」の情 緒とはまた異質のものをからだの中に生まれるのに気づく。うまくは言い表せないが、元 気みたいなもの。日によっては、林に入るときと林を抜け出て家路につくときで、ずいぶ ん気分が違う、元気をもらった、充実したとはっきり実感するときもある。これをエネル ギーとかパワーと呼ぶのも方法だが、ここではつましく元気と呼んでおこう。この元気と いうものをわたしのこころの深い部分で喜んでいるのがわかる。おそらくその喜んでいる 主体が、わたしの魂ではないか、と思う。  魂のような心の深い部分が喜ぶことをもっと平易にいってしまえば、からだが気持ちい いと感じることと言い換えることができるのではないか。この気持ちよさには林や木々に よってもたらされたものだ。ところがこんな気分になれる林というのは、どこにでも存在 するわけではないようだ。少なくとも明るい(暗くない)、ごみごみしていない見通しの いい、ツルがからんでおらず倒木もない、林床もスッキリしている、恐怖感がないなど、 そんな場所である。 カラマツ林にて  14年の11月から、フィールドにしているログハウスの近くのカラマツ林1haを借 りて間伐を開始した。38年生の林で結構混んでいて林縁部は広葉樹が混じり始めている。 毎週末通い始めて危険でもある重労働を黙々とこなしているうちに、どうにか予定の時期 まで終える目途もできてきた。そんな作業が続いた12月の下旬、作業をしていて「あ、 わたしの体とこころが喜んでいる」と感じる。体とこころはかなり客観的な意識であり、 大げさにいってしまえば魂のレベルが喜んでいるようなのだ。林の手入れをしているこの 時間がとても充実しているだけでなく、ここの空気を吸っていることそのものも、わたし とともにいて自然につながっている魂が、にこにこしている。作業を初めて一時間、わた しはそれをはっきりと実感する。このような手入れで、林は人のこころに入り込めるよう に変身を計ることができるのだ。これはランドスケープの創造なんて言葉も該当するが、 わたしはオーソドックスに現代の森林美学の世界だとしておきたい。  こんな作業をずうっと続けて、なつかしさの漂う里山の風景が生まれてきた昨今は特に この一連の風景になごむのだが、作業そのものへのこころの反応の方も強烈だ。なぜ、充 実感があるのか。その理由として、風景がかわっていく達成感というのをまずあげなけれ ばいけないが、もっと踏み込んで言うとすれば、間伐した後の木々が喜ぶように感じるの である。混み合ってそよ風が吹くだけで枝先がふれあう状態ではお互いの枝先が枯れ始め るのだが、これは樹木にとって明らかなストレスである。実際、込みすぎて枝がふれあう コナラの木は、伐採をしてみると芯に黒い腐れが入り始めていたから、早晩枯れるのであ る。こうして競争の結果勝負ありと見える大きな方を残していくのが今のわたしの間伐だ が、空間をとってあげると林が若返りのエネルギーを出し始めるように感じるのだ。もち ろん、ぐるぐる巻きになった蔓を切り離すときもそうだ。喜ばれていると感じるから、そ ちらからも気持ちよさがやってくる。そのとき、わたしのなかにすむ高い自我のようなも の(魂というべきか)も喜ぶ。そのように感じる。 林における祈り 一方、林の手入れという作業の性格がら、わたしは毎冬たくさんの木を切るが、「祈り」 で「わびといいわけ」をして気持ちは整理されているようだ。シーズンはじめ1本目にチ ェンソーを入れる時、12月の山の神の参拝の時、そして日常的にも「雑木林全体を末永 く生かすために少しずついただきます」と祈る。これは反芻してメッセージを出している。 そして、迷わない。切り株が残れば広葉樹は必ず新しいエネルギーで萌芽するという事実 と確信が裏で支えているのは見逃せない。転生する樹木のさがに、雑木林の手入れはなり たっているわけだ。  へんなエピソードだが、人には本来仏心があるのか、林の手入れを作業担当の人にして もらうと、目標の本数より遙かに少な目に仕上がってしまうのが常だ。心を鬼にしないと 理論的に効果のある間伐にならないのだ。林がこわれないように、本来、人は控えめに行 動するのだと思う。 注)画像は白老・ポロト湖のフットパス関係

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