vol.6


自宅から最も近いみどり A

豊川の裏山

苫小牧であまり居場所のない雑木林。この裏山は前回のこもれびの道とは
まったく違う散歩の世界。修行と瞑想も可能なくらい、やや厳か。
そこに、里山ができつつある。里山は人によって創られる。
里山はやはり農業と仲がいい。


マチと林の位置関係                        苫小牧と言うところは7〜8000年前は海だったところにマチができている。海の水 位があがって千歳の美々あたりまで海だった縄文海進と呼ばれるころ、わたしの家のある あたりは海の底だった。そして、当時の陸地は海岸段丘を形成する。現在の標高で20m 以上あたりが当時から陸地であり、海岸段丘の上の縁あたりでは、遺跡が発掘されるわけ だ。                                家を出て北を望む。正面の緑がここでいう裏山。  苫小牧はマチの多くが、東西に伸びる旧海岸線、つまり海岸段丘の下のかつては湿原だ ったと思われる地盤にのっかっている。海岸段丘のへりから上部は、たいていの場合、林 になっていてこれが支笏湖や札幌の水瓶・豊平峡までつながっている。だから、里山的と 言っても奥山にしっかりとつながっている大森林地帯のはずれ、と言える。だから、当然 ながらヒグマが出没する可能性をもっているし、実際、たまにやってきて射殺される。  マチは背中に林を背負う                            身近な緑の話をするのに、ちょっと長いイントロを挟んでしまったけれど、「苫小牧の マチは背中に雑木林を背負っている」ということである。この雑木林が実はとても素敵な 資質をもっているのだけれど、あんまり地元では評価が高くない、というかゼロに近い。 自然が、とか、貴重なとかいろいろ話される人は多いが、実体験として背中の山とつきあ い、独自の自然観をもっている人にあまり出会ったことがない。自然はいつのまにか教育 や情報で得る概念になってしまったのだった。                     マチの土地利用を規定する都市計画の用途地域は、この海岸段丘の下で線引きがなされ、 部分的に袋状の住宅開発が数十ha規模で行われている。今のところ一部だが、これがい くつか増えていって「くし状」のでこぼこになったら、一気に用途地域に編入してマチを 拡大する、…なんてことが実は都市計画がとってきた従来の手法のようだ。虫食い的に林 を開いてやがてドバーっと、というやり方。まあ、これが苫小牧で行われるかは解らない が、保安林などの法律上の制限林でないから、不可能ではない。            まずは林へ                                     豊川の裏山(以下、裏山)は小学校の北に隣接する。ところどころ、ゴルフ場があった り小さな分譲地があったりするが、緩やかな傾斜の広葉樹の林が、西は白老と登別の方へ 東は王子製紙の山林、市の公園、北大演習林などを経て千歳の方へ続く。裏山は、自宅か ら300m、約7分で着く。縁の10mほどの幅は王子製紙の上水管が埋設されており、 地面は近所の人たちが家庭菜園として区分けして利用している。         両側が家庭菜園。廃物利用で進められる。ここが事実上の林の入り口。 大根やねぎ、キクやダリアなど盆のお花なども。  二月ぶりに訪れた裏山は、まず一段とにぎやかになった菜園に迎えられた。囲いに漁網 をはって、菜園の中にはキクやグラジオラスのようないわゆる盆花と野菜が植えられてい る。林に入る入り口は、明暗がはっきりしていてどこか厳かな気分にさせる。中に入ると とても暗い。今、入り口の畑を利用している人とあって立ち話をする。「80歳になるけ ど、元気なうちはやろうと思って」と元気がよい。水がないから、今朝は自転車に焼酎の ペットボトル5,6本をくくりつけてきた。                      海岸で拾った流木やいろいろながらくたを置いているので、ゴミ捨て場的に見えるが、 やはり使い道のある道具なんだと解ってくる。地面がほれてわきに肥料袋が置いてあるの は、林道を走る雨水を分流して小さなたまりを作ろうというもの。隣は、よく見ると落ち 葉から堆肥を作っている。もうふた山ができあがっている。肥料は自まかないしてるの、 と聞くと「化学肥料も使うよ」。林道沿いは丁寧に落ち葉が集められて、ササも刈られて いる。                                      1年もの、2年ものの、落ち葉を原料とした堆肥。 里山が作られていた                              おやおや、と思う。これは、いわゆる里山の原型だ。北海道では、田畑と雑木林の本格 的な有機物のやりとりが発生して時間を経ないうちに、燃料革命と化学肥料が世に現れて 人と林が作る里山が誕生しなかったと言われている。しかし、ここには、小さな家庭菜園 が雑木林と隣接していたために、里山的利用が始まり、実際、里山的景観ができている。 雨が林道を走るとき、右の方に集めて貯める。  苫東に小さなログハウスを建てて行くようになったころ、わたしは、小屋の周りが見る 見る里山になっていくことを身をもって知った。建物のような「よりしろ」ができると、 人が集う。人はそこで少しずつ活動を広げる。キノコのほだ場を作ったり、ピザがまを作 ったり、駐車場ができたり、テラスを設けたり、小屋に日が射さないからといって伐りす かしたり、薪を積んで薪割りスペースを設けたり、サクラの老木にもっと長生きしてもら っていい花を咲かしてもらうために周りの競合する木を伐採したり…。こんな風な積み重 ねが、いつのまにか、とても人くさいスペースを創り出してきたのだった。これなら憩え る…。                                      落ち葉が集められている。林床がすっきりしている。もちろん、ゴミはない。  里山が作られるということは、これからのマチと林を考えるときに覚えておきたいこと だ。ここには、たくさんの手仕事が待っていて、子供たちにもできることがいっぱいある し、もちろん大人が関わっても何日もかかる手仕事がある。なにより、風景が変わってい くのである。それも、手つかずだった頃、どこか奥山的な恐ろしさもあった一帯が、やさ しく変身するのである。だから、散歩にはもってこいだ。公共の緑地はこの点、施設偏重 型と言ってもいいくらい、いろいろなセットを用意してくれるが、人の方の根元的なニー ズというのをほとんど斟酌しない。人々はそのすき間で、行政に頼らず、なにか身の丈に あった自己実現を果たす。                               都市の里山は不動産として揺れる                       この辺でなんか落ち着かなくなる。林の縁を所有している人たちは民間の人が多いのだ。 だから、いつでも売買は行われるだろうし、実際、苫小牧で最も美しい雑木林と伏流水の 原始河川・有珠の沢の一帯がゴルフ場用地に買収され、その後計画が破綻し土地は別の法 人に移っている。                                  都市に隣接した里山は不動産として流動するのである。これはものすごく落ち着きが悪 い。市民の評価も行政のそれもなくほとんど無視された状態だから、林とか里山といって も偶然そこにあるだけで、いつまでも存在するという保証はどこにもないのである。そう すると、「身近な自然」とか「身近な緑」を確保しようとするには、巨大なお金を使って 自ら所有するか、法律や条例で利用を制限するかである。トラストとして市民が拠出する こともあろうし、なんらかの制限緑地にしていく道もある。              どこで合意ができるか                               従来の自然保護は、時代の大きな流れを受けて、貴重な自然をそこここに残すことに成 功した。研究者の協力も得ながら、各地の自然保護運動はさまざまな案件で勝利を納めた と言える。だが、身近な緑はどうだろう。第一、身近なところに緑が必要だという声がな い。したがって、どのレベルの緑が必要かもまったく考えられていない。だから、緑=ク マとの共生もやむなし、と漠然と思いこんでいる人もたくさんいると思う。クマと住まね ばならないのでは、自然や緑は要らない、会いたいときにこちらから会いに行く、となる かも知れない。                                  道は送電線の見回り用などと交差しながら奥の有珠の沢へ続く。  ここが違う。緑には人工的造園のようなものから、奥山の野生生物が安心して暮らせる ゾーンまでグラデーションがあっていいのだ。身の回りには、ヤチダモの人工林のような ものでも緑の代償になりうるし、もっとしっかりした糸井公園のような造園もあるのだ。 気持ちのいい、歩きたくなる緑はこれからの大きなテーマなのだが、今、身近な緑の中を 散歩するのは気持ちがいい、もっと欲しい、という合意づくりのスタートラインあたりに いるようだ。                                   と、ぽかんと空地に出る。土取り跡地だ。林が残る保証はないと知る。  これは自然保護の関わりとは似ているようでかなり違う。「わたしにとって」という本 音が必要だ。そこに「緑の気持ちよさがわかる感性」がないと始まらない。感性は芽生え るまで待っているしかない。いくつかのモデル的緑を訪れ、体験し、憧れが生まれたとき ポスト自然保護の新しい「身近なみどり運動」がうねり始める。あるフランス人は、親が 子供を林に連れ出すだけでいいという。では、その親はどうだ。今、そこにいると思う。              雑木林の丘の上はこんな展望。2km向こうは海。 我が家は中央右にあり、左右の緑のベルトは木漏れ日の道。

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