目の前の自然の、自分だけの意味を問いつつ

NO.131
2025/07/02

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苫東コモンズ 地域活動15年の歩みとこれから


新十津川の丸太小屋に独りで住む老人を、若い写真家が時々訪れて写真と実話で描いた『庭とエスキース』という本を読んでいた。ちょっと不思議な気もする本だが、著者が老人と向き合う姿勢が、わたしが勇払原野の自然に向き合うスタンスとよく似ていて、その意味を考えていた。得体のしれないやや変わった老人が語る世間や農業や自給自足や理想は割とあるつぶやきでもあるので驚かないのだが、それが若いクリエーターにとっては興味津々なのであった。

この構図は、わたしがこの辺なら、あるいは北海道なら結構あちこちにある林や原野を、さも意味ありげに語り綴る行為にそっくりだ。それがどうも自分だけに意味がありそうで、あるいは自分だけが人一倍高く関心を寄せているようだ。これはある種、小さな悟りに近い。なぜなら、おかげで安心して眼前の森羅万象に向き合えるようになったから。そして悟りでもないと、かくも納得して付き合えないと思うからだ。普遍的な真実などとは無縁な世界、いわゆる正真正銘の思い込みに違いない。だがそれでよい。しかもそれがよい。



「老人と沼」、さまざまの風景

2025/07/01 tue くもり時々晴れ 29℃





先日刈り払い時になくしてしまった高価な補聴器を、朝から金属探知機を使って「探索」した。しかし2時間弱の慎重な努力は報われず、反応するのは落葉や地面に埋もれたコーラの空き缶や腐食した缶詰ばかりだった。

金属探知機を草むらにかざしている間に、2グループ5人の中高年男女が岸辺にやってきてすぐ湖面から声が聞こえた。船出したジュンサイ採りの人たちだった。その段取りのよさとスピード、通いなれた熟練者の技である。そのうちのひとり(上の写真)は淡々と作業を始めて、話しかけるいとまのなかったが、どこか話を聞いてみたい気がした。この光景は、まるで「老人と沼」と題した祈りのような静穏。沼は、ヘミングウェイの大洋とは真逆の陰々滅滅たる世界のようだが、東洋的でこれもいい。

折からの猛暑で、昼頃には小屋に戻ったが、そこはますますフタリシズカの群落が広がる別世界であった。「フタリシズカは残す」と決めてから、まったくその通りとなった。そこでわたしは小屋の外で読書にいそしんだ。静かで虫もおらず温度は木陰で適温だった。リードで書いた『庭とエスキース』の老人ではないが、ひとりのこの環境は色々なことを学ばせる。静穏はここにもある。