目の前の自然の、自分だけの意味を問いつつ
新十津川の丸太小屋に独りで住む老人を、若い写真家が時々訪れて写真と実話で描いた『庭とエスキース』という本を読んでいた。ちょっと不思議な気もする本だが、著者が老人と向き合う姿勢が、わたしが勇払原野の自然に向き合うスタンスとよく似ていて、その意味を考えていた。得体のしれないやや変わった老人が語る世間や農業や自給自足や理想は割とあるつぶやきでもあるので驚かないのだが、それが若いクリエーターにとっては興味津々なのであった。 この構図は、わたしがこの辺なら、あるいは北海道なら結構あちこちにある林や原野を、さも意味ありげに語り綴る行為にそっくりだ。それがどうも自分だけに意味がありそうで、あるいは自分だけが人一倍高く関心を寄せているようだ。これはある種、小さな悟りに近い。なぜなら、おかげで安心して眼前の森羅万象に向き合えるようになったから。そして悟りでもないと、かくも納得して付き合えないと思うからだ。普遍的な真実などとは無縁な世界、いわゆる正真正銘の思い込みに違いない。だがそれでよい。しかもそれがよい。 |
「老人と沼」、さまざまの風景 2025/07/01 tue くもり時々晴れ 29℃ ![]() ![]() ![]() 先日刈り払い時になくしてしまった高価な補聴器を、朝から金属探知機を使って「探索」した。しかし2時間弱の慎重な努力は報われず、反応するのは落葉や地面に埋もれたコーラの空き缶や腐食した缶詰ばかりだった。 金属探知機を草むらにかざしている間に、2グループ5人の中高年男女が岸辺にやってきてすぐ湖面から声が聞こえた。船出したジュンサイ採りの人たちだった。その段取りのよさとスピード、通いなれた熟練者の技である。そのうちのひとり(上の写真)は淡々と作業を始めて、話しかけるいとまのなかったが、どこか話を聞いてみたい気がした。この光景は、まるで「老人と沼」と題した祈りのような静穏。沼は、ヘミングウェイの大洋とは真逆の陰々滅滅たる世界のようだが、東洋的でこれもいい。 折からの猛暑で、昼頃には小屋に戻ったが、そこはますますフタリシズカの群落が広がる別世界であった。「フタリシズカは残す」と決めてから、まったくその通りとなった。そこでわたしは小屋の外で読書にいそしんだ。静かで虫もおらず温度は木陰で適温だった。リードで書いた『庭とエスキース』の老人ではないが、ひとりのこの環境は色々なことを学ばせる。静穏はここにもある。 思えば歳相応か、スタミナ切れ 2025/7/5 sat くもり 29℃ ![]() ![]() ![]() ささみちフットパスの刈り払いに2時間弱かかった。途中3回休んだが、どうも体力、持久力とも大幅ダウンしたと痛感する。これでは刈り払いも引退が近いか、と思い浮かんだがいまのところ後継する人がいない、それじゃ駄目だと打ち消した。幸い、蚊がいないから作業はスタミナと温度との戦いだけだ。 小屋に戻って休んでから、次回手掛ける防腐のための廃油塗りの段取りを始める。まずベランダの基礎部分の腐れを新しい丸太で入れ替える必要があって、実際どの程度腐れているのか掘ってみた。見ると全部が崩れる寸前で辛うじて土で固められていた。約30年、木材とは実によくもつものだと感心する。 ![]() ![]() 平木沼アクセスの補聴器探索は、金属探知機を使っての今日が3回目、それ以前は這いつくばって手先で探索を2日したからもう5回目になる。ブザーが反応するのは相変わらず空き缶、缶詰、鉄板、釘、また補聴器と見まごうのはドングリと甲虫の羽ばかり。発芽したドングリと多種の毛虫にこれだけあったのは珍しい。 また這いつくばって林道をこれほど歩いたのは初めてだが、おかげで朽ちていく落ち葉の様子を掌で感じとったのも初である。例年は丁度お盆のころに落ち葉が土に還り黒い地面が見えてくるのだが、落ち葉はもう切れ切れになってまさに朽ちなんとしていた。紅葉して新たに落ちる、いわゆる新生「落ち葉」の2か月前に前年の落ち葉が解け終わるのである。生命とつながる土を一体として感じる珍しい体験だった。 しかし、残念ながら高齢者にとって一か月分の年金相当額もする補聴器はもう断念せざるを得ない。腹が立つので、このまま残った左の補聴器だけで間に合わせられないか、これはメーカーの検査結果もあわせ要検討となる。正直、痛しかゆしで、聴力の減退は、即、認知能力と関係していて認知症を進めてしまいかねないから、聞こえなくてもいい、なんて呑気に嘯いていられないのである。 ベランダの基礎修理へ 2025/07/09 wed 快晴 29℃ ![]() 新会員 yamaoka 氏から自走式草刈り機を借り受けることになって、薪ヤードでwada さん立会いの下で引渡しと試運転。 農業をやめた方の農業用器具はコモンズのフィールド作業で重宝するものがいっぱいある。折角のコネクションなので遠慮なく借用したい。地域の環境活動というのは基本は持ち寄りと借用だ。 試運転の終わったその足で平木沼のアクセス路で補聴器探索6回目、今回は再度金属探知機と磁石の双方を携えて、いわば最後の捜索。猛暑のなかで昼過ぎまで粘ったが、やはり新たな発見はなかった。 小屋は先日積んだ薪が倒れていてガッカリ。今度は崩壊しないようちょっとした工夫をして結構堅牢に仕上がった。今日の本命の仕事はベランダの基礎部掘り起こし。左右とも掘り下げて電動ドリルで接合部分を外したら当然グラグラとなったが、カラマツ丸太を45cmに切断してあてがい、次回用のスタンバイとした。いよいよ廃油塗布である。 裏山、あるいは里山の山仕事は実に気楽だ。発見が多く、工夫のし甲斐もある。先日読み終えた『庭とエスキース』の弁造さんのように、コツコツ、最後まで小屋周りと林を庭のようにケアするのである。まるで息をするように手仕事を繰り出すのである。 小屋の普請 2025/07/12 SAT くもり 22℃ ![]() 廃油を使った防腐処理をまずはベランダのみ終えた。階段の手すりの基礎は30年近く持ちこたえたカラマツ丸太を掘り返して新しいものに替えた。次回はテラスも全面廃油をぬる予定だが、この廃油が最も長持ちし効果も高く感じる。しかも無料で分けてくれる方が複数いらっしゃる。 ![]() 木造の建物というのは耐久性に対して「さすが」と唸る時がある反面、腐朽という特性が悩みの種である。平成9年建築のこのカラマツログハウスもご多聞にもれず。水分が多ければ容易にボロボロになり事実、ベランダの基礎も蟻に食われて惨憺たる状況だ。しかしその処置としてはノウハウが身に着けばつぎはぎでやっていける、というのが木材の強みだ。これもフレキシブル、というのか、とにかく融通無碍である。 ![]() ![]() 小屋入口の看板(上左)も当時はもっとしっかりしてお気に入りの薪のオブジェだった。それが今、単なる腐った薪のくず山に変わった。腐朽して土に還る木材、そしてその集合である林の象徴として、最後まで見届けるのも方法のようにも思う。こわしたり寄せ集めたり再び動かしながら整形もチャレンジしてみたい。このままにしようか、別のデザインにしようか大いに迷うところだ。大きな風景のストーリーがまだ描けていない。 フットパス(上右)は今、急速に落ち葉が解け始めている。いつもはお盆のころの風景が今年は1か月前倒しで進んでいるような気がする。そんななか、この落ち葉の中でモソモソと動いて目立つのがヒラタシデムシである。フットパスの落ち葉腐朽を仕切るスカベンジャーと見た。さらに今年は自宅に運んだ薪にチャイロヒラタカミキリという小さなカミキリが大量に発生していてスズメたちの餌になってていた。シジュウカラではなくスズメが薪小屋の薪の間に入り込むのである。 眼前に展開されるあまり目に見えない小さな生き物の観察は、それだけでも日常を忘れるが維持管理の視点に立てば、人間はエンドレスで付き合わなければならない。しかし、守り手がいなくなり数年もすれば、修理不能の重症になって廃棄処分になるのは世の常だ。まあ、それも仕方がない、それが自然だ、と割り切れば気持ちも平穏のままでいられる。山川草木、鳥獣虫魚の混然一体の中には動きが絶えず、退屈はない。 一帯のシンボルは何か 2025/07/17 thu 雨のち曇り 27℃ ![]() テラスの廃油塗布は、2日前からの雨でさすがに無理ではあったが一日延ばしたこの日も、10時過ぎに本降りのような雨が降ったため、丸太小屋で『田園とイギリス人』を読んで小一時間を過ごした。肌寒さを感じたので梯子にかけていた羽毛服を着たせいか、気持ちが良くてそのまま少し居眠りもしたようだ。 雨が上がって、前回ベランダから下に降ろしていたフットパス用のポールや椅子、そして重い焚き火用ドラムをべランダ上に戻した。ドラムは40か50kgもあって、ひとりで持ち上げるのは至難だったがアルミの梯子を使ったりして30分ほどかけて引きずりながら元の位置に据えることができた。 その作業のさなかに、胴の長いハチのような昆虫が死んだ青虫を運び上げ、15cm程離れた穴の中に引きずり込んだのを観察した。デジカメのピント調整にてこずって画像にはできなかったが、なんとも手はずの良い、よく編集された動画のようだった。 胴体の長いハチ、という言葉で検索すると出てきたのが、ヒメコンボウヤセバチ。ジガバチ科ジガバチ属、45mmと長く、穴に引きずり込むのが特徴とある。恐らくこれに近い。一応ここにメモしておくことにした。 だが、すぐあとに大きな羽音を立ててやってきたカナブン(上の写真)はよく観察できた。これも先日のシデムシと同様、落ち葉の下にすぐもぐろうとする。それにしてもなんという色だろう。 ![]() そんな観察の後、林道から小屋に入る角のサインをどうしようか思案しながら、腐った薪材を手トビで動かしてみる。腐った材を一掃して新しいサインを立てるのは簡単だが、折角なのだから朽ちた材を活用してなにかできないか。 クリの厚板は年季も出てきたのでもったいないし、朽ちた薪材は、雑木林を象徴するナレノハテではないか…。できればシンボルのようなものをここにセットしたい…。 などと考えながら手トビを動かしているうち、上のような形になった。白樺は白い皮だけが強固で内部はグズグズだから、今にも崩れそうであったが、もう少し使える。こんな時に、厚板を支えるレンガブロックという人工物が頼もしい。朽ちるものと腐れないものの対比をもう少しうまくやれないものか、工夫してみよう。レンガの數を倍に増やしただけでもいいかもしれない。 こんなことをしているころ、つた森山林の北で体長2mの熊が目撃されていたようだ。小屋の前の林道に足跡は確認できなかったから同じ静川でもここは来ていないのだろう。前後で目撃通報はないから、安平川の河川敷を利用しているのだろうか。 山川草木、鳥獣虫魚が混然一体。その陰にバクテリアたちがいることも見逃せない 北海道の森を眺め走る 2025/7/20sun-23wed 快晴、猛暑 ![]() 年に少なくとも一度は北海道を巡って森を眺めることにしている。 今年は山仲間が持つ十勝清水のヒュッテを皮きりに、屈斜路湖の、遅すぎるFly-Fishng に向かった。学生時代から半世紀も過ぎ後期高齢者に近づくと、自ずと人生を俯瞰することもできるし共有する思い出も多く、話題には事欠かない。翌日の朝、初めてお互いの健康と病の話しになったというのも、集った数人が70を超えてなお、何らかのことに現役で取り組んでいる証しだろうか。普通のおじさんたちは、病気自慢が近況紹介で先に来る。 ![]() ![]() 屈斜路湖のFFは、7月中旬でもモンカゲロウが飛ぶという話をもとに、先に決まっていた清水ヒュッテのプランに便乗させたのだったが、気温33℃前後では無理だったようだ。7/21宿を5時に出たときは気温が25℃ほどだったが、湖岸の仁伏(にぶし)の森の地先では水温が27,8℃、ライズなし。冷水を好むアメマスが移動する棚(層)はもっと深いはずだ。次回のFFは6月にしようと早々に諦めて、せめてもの記念撮影。仁伏の森は結構大木が残っていて、湖に張り出したカシワのようなナラは、特に迫力があった。しかし湖岸一帯は、ところどころに私有地が虫食い状で存在していて、権利関係の看板が乱立している。 ちなみに、わたしが湖岸に入ったところからは、つり人が使ってできたらしい踏み分けがあったので、次回また来るときの目安が出来た。7/20川湯温泉にある環境省のビジターセンターを訪れてフットパスを歩いてみたが、アブが多いので退散。チラ見したアカエゾマツの林は久々の出会いだった。 ![]() FFを切り上げて宿の精算を済ませるとき、20年ほど前に泊った、露天風呂の床が玉砂利の旅館のことを聞いたところ、ここではなく廃業した屈斜路湖ホテルらしかった。林の踏査の間に見つけたタモギタケを調理場に見せたら天婦羅にあげて出してくれた思い出がある。 美幌峠も33℃あった。家族にこの涼し気な眺望の画像を送ったら「どこ?」と飛びついてきた。峠を下った美幌町はこの時37℃という北海道で最高の気温を記録していた。 ![]() 初めての街、陸別。陸別開拓の始祖・関寛斎はオランダ海軍の軍医・ポンぺ・フォン・メーデルフォルトに師事して西洋医学を学び、戊辰戦争では政府軍の軍医となって従軍した。後には徳島で医療を営むのだが、70歳を過ぎて北海道開拓を志し、73歳でここ陸別の開拓を始めるのである。街の中心部にある関寛斎記念館は、このあたりの経緯を詳細に丁寧に展示され、郷土の偉人をたたえるという眼差しがあふれている。この点、萩市の博物館の吉田松陰の扱いと似ていた。(上は記念館のエントランス・アプローチ) 訪問者記帳のノートを開いてみると、半分は本州以西のひとだった。わたしも正確に知ったのは司馬遼太郎の『胡蝶の夢』で、それ以前は聞き流すだけだった。芋づる式に思い出したのが、だいぶ前にベトナムに旅行した時に陸別の商工会の方と一緒になり、その時も関翁の話しがちょっと出た気がする。「みなさんあまり知らないが関寛斎という人が開拓を始めた土地で…」というようなニュアンスで、時あたかも、朝の連続テレビ小説「あおぞら」が終わって間もなくだった。 ![]() ![]() 7/22 の2時過ぎにチェックインしてから、関翁の開拓したという斗満(とまむ)地区に行ってみた。今はきれいに耕作されて往時をしのぶ由もないが、100年前の開拓時代の様子を彷彿とさせる林や防風林は残されている。夫妻が埋葬された土地までは車をおいて、上右の「やちだもの家」(現地の展示室)からは草ぼうぼうの道を草かき分けながら進んだ。 医療系で要職を与えられながら辞退し徳島にこもって困窮民にあつい地域の医療に40年近く取り組んだ。70歳で北海道開拓に挑んでから、開拓地の総面積は数千ヘクタールに達している。次男又一は札幌農学校に進んで開拓に従事するのだが、翁とは運営上で意見が合わず、財産分与でももめたという。翁の方は自死するのだった。 今回の旅行での最大のひらめきは、『人間、最大級のチャレンジは「開拓」ではないだろうか』ということ。 それゆえにヘンリー・デービッド・ソローの『森の生活』は米国の古典の一つであり続ける。『独りだけのウィルダー ネス』(リチャード・プローンネク著)は、アラスカ の森の生活16カ月の記録であり、荒々しい自然と戦い 抜いた50歳の男は英雄として迎えられた。開拓に挑む際のスタートは森の伐採だ。そして孤立無援、孤独との戦い。やがて耕作を始めて軌道に乗るには10年単位の年月がいる。おそらく数世代かかるのだろう。このブログ冒頭のヒュッテも500坪の広さの耕作放棄地で林地に変わっているが、様相は開拓の時代に似る。そこには規模も時代も違うがチャレンジ・スピリットという共通点がある。 ヒュッテで一晩を暮らし、斗満の開拓地を見るにつけ、住むためにはまず森林の開放に挑まなくてはならない。居住まう環境はまず林の征伐(樹木は何も悪事をしていないが)が不可欠で、人の力が林の保育、修景にいたってイヤシロチに近づけることができる。この間、優に数十年を要するが、向きあっている相手環境のステージによって、手始めの営為が異なってくる。これはやったひとでないとスケール感が湧かないかもしれない。 開拓のような状況に踏み込む意思、チャレンジを改めて思い直す800kmの一筆ツアーだった。 |
暑さと湿度でストップ 2025/07/26 SAT 小雨のち曇り 26℃ 道東への旅行で10日ぶりの小屋番となった。やっと普段通りの気温に戻ったがこの数日は35℃前後で、エアコンがなければたいへんだった。小屋では、リーフレット(使用後落ち葉をかけるトイレ)までの残りの林道を刈り払って、入口のサインは余ったブロックと煉瓦で上に持ち上げた。これだけでTシャツを交換。 暑さで何もやる気が起きない。廃油をぬろうと思っていたテラスはまだ濡れているしテーブルの防腐処理も延期だ。テラスは幸い蚊もいないし暑くない。読書に当てる。2時過ぎ、遠浅の作業場によって、oyama,tomi-k,urabe,naka-s の面々と歓談、書類引継ぎして帰宅。 画像なし。 |