晴林雨読願望
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勇払原野のコナラ主体の雑木林。ここは中下層をウシコロシの黄色が占めている

一燈照隅
雑木林だより

 新里山からの日常発信

地域活動15年の歩みとこれから

 勇払原野の風土を共有する

  

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●日々の迷想 2023 & 2024 & 2025
2021
first upload: Nov. 29 , 1998
last upload: Dec 20,
2025

日々迷想

■12/20 今年出会った畏敬の大木



年の瀬は一年を振り返るいい時間だ。ふと、今年出会った大木は、と思い出すと、やはり京都は鞍馬寺の門前にそびえるこの杉である。樹齢800年、樹高53mと書かれていた。山道をたどり小さな峠を越えて参拝した貴船神社とともに忘れられない光景であった。

■12/19 秀逸!!今朝の時事川柳

「よみうり時事川柳」が面白かった。以下一部。

この次は漢字を返せと言われそう
…笑った~。それにしても報復が嘘と見当はずればかり。世界中の嫌われ者になるのは仕方がないと言われる。一帯一路からの離脱や貿易相手国変更で各国はリスク回避に成功している。国連でも即反論、良し。
勝ち目なくやめるのやめたガソリン車
…一連の地球温暖化対策は何だったのか、だ。メガソーラーもそうだし、そもそもディーゼル車廃止あたりが発端か。EV車がCO2対策になどならないのは自明だったのに。原発もヨーロッパがまず「やめるのやめた」。
悪意ある「吊り目」には目が吊り上がる
…あれはかの国では有名な人気キャラクターの服装と態度だ、と事情通の話し。あそこまで、するか?という恥の上塗りの始まりだった。
やる気見せ素振りで終わらす削減案
…あれよあれよと進みそうで、まさか、と見た国民は多いはず。そんな簡単でいいのですか、と。

(川柳はよく時事問題を見ていないとわからないことが多い。NHKの「ぼやき川柳」は、その点身近でやさしいかも。)

■12/18 新しい練習曲に挑む

10代の終わりから20代前半にかけて使っていたクラシックギターのカルカッシの練習曲集を久しぶりに開いている。これまで使っていた別の2冊の楽曲集が少しマンネリしたように感じるからでもあるが、それでも現在中級からやや上級クラスの小品30曲程度はレパートリーとしてあるので、その感覚を維持するために義務的に弾くことが多くなってしまった。

一方、今なら you tube で演奏を聴けるから、見知らぬ楽譜を自分のものにするのは昔とは比較にならないほど容易になって練習がぐんと身近になっているのだが、新しい曲にチャレンジするのはもう確かに面倒ではある。ギシギシと心のブレーキがかかるのだ。

が、反面、新局面を開くウキウキ感は否定できない。誰にも迷惑をかけない内なる冒険である。チャレンジ特有のもやっとした不安とワクワク感、この歳にしては意外といいものかもしれない。このごろは、毎日の練習が嫌で毎日辛うじて少なくとも30分はギターを持つが、そこに新しい練習曲や小品が加わり愉しみとなって1時間以上も没頭する、なんてこともまたあるかもしれない。雪のため山仕事をしばし休もうとしているこの時期こそ、その適期か。

■12/17 寄贈図書のリストづくり

先日来、梅田安治先生から頂いた書籍を、雑木林センターのライブラリーであらためてリストにしている。今回のリスト化作業で、先生の読書遍歴のようなものを垣間見る思いだった。さらに、わたしが興味を覚えそうなジャンルに絞って贈与してくれたせいか、いずれも手に取って読みたくなるものがそろっている。この2年の間にもすでに20から30冊はすでに読み終えた。

そうして僭越ながら先生とは波長がかさなりやすいものを覚えるのだが、しかし、なぜ先生がわたしのような出来損ないを学科も違うにもかかわらず目をかけて下さったのかは、実は今もってよくわからない。田園、里山、雑木林、景観、そして西洋の歴史文化、というキーワードを共有していたからか。得難い、身近な先達だったと今もって感謝しかない。


■12/16 最近の国会中継

真偽のほどはわからないけれども、最近は若い女性も国会中継を見るという。最近というのは高市首相になってからという意味だが、たしかに政治の風景は変わったのではないか。そして自分事として国の行く末を見るようになったのではないか。やはり首相が率いるチームのスピード感に現れるように、閣僚の主だった人たちの舌鋒が心地よい。広く深い知識に裏打ちされた政策の意味は実のところかなり難しいが、その緊張度合いは伝わる。是々非々、闘う姿勢はあっても時にはちょっと笑いが出るようなやり取りもみられたり、緊張の中に少しだけユーモアを感じさせることがある。

質の低い、イデオロギーの角度をもたせた質問者の見解も、SNSの前では丸裸にされ、丸見えといえるだろう。ラジオとTVの中継だけではわからない分は、こうしてSNSが構図をよくサポートしてくれる。この過渡期ともいえる2025年末とこれからしばらくを、後年、歴史にどう刻まれるか。

今年の12月になって、南京大虐殺という文字を目にすることが多くなったが、昨今の若い人たちは義務教育で教えられたかもしれない事件を、でっちあげられた「まがいもの」だったと気づかされた人もきっと少なくないのではないか。戦後80年、日本は遅すぎた再出発をしている。今年がリターンのはしりになれば幸いだ。

■12/15 ホッと一息、万感こみあげるメロディ


竹内まりあの名曲のひとつとされる「駅」、web を転々としているとふと耳に入った。AIのボサノババージョン、そして駅前のサックス、どうして何だが目が潤んでしまうのかはわからないけれども、琴線というものにふれるのだろう。「人生の扉」もそうだったが、彼女の作る歌には心の緊張をほどかせる妙薬がひそむようだ。

■12/14 断捨離

日本の年中行事の「煤払い」は12月13日の昨日。いよいよ新年を迎える準備始動である。おとといはお風呂の大掃除でドアを外し水あかを丁寧に落とした。今日は断捨離として、本、雑誌、書類を束ねて処分の準備をした。同窓会名簿の扱いに困ったが、行政の紙ごみ収集車に出せば、焼却場に車を寄せてザアーっと捨てるだけらしいから、念のため表紙をはがし、冊子を少しばらして廃棄にすることとした。

去るものは日々に疎し、懐かしい冊子はもちろん、思い出も時とともに遠のいていく。人生は出会いと別れの繰り返しというが、わたしは一度出会えば別れる時は滅多にこない、と思ってきた田舎者で、一方大きな組織に属する方々はそこがとてもクールで、年賀状のやりとりもしない人が多かった。ちなみに断捨離はなかなか進まず、明日も半分楽しみながら、捨てる作業。身辺を整頓するのは林の修景と同じく、イヤシロチを創る営みである。

■12/13 スズメの記憶

あまり良くないとは知りながら昨シーズンまで静かに野鳥の餌を庭で用意していた。ベランダに堂々と餌台を据えているのは近所の眼が心配だと家人が言うので、それ以後はレンギョウの藪の下に雑に播いていた。餌は野鳥用にミックスされたもので野鳥保護連盟の認定か何かと書いてあった。ヒマワリとかアワなどの雑穀だが、ひとつだけスズメたちが食べないものが混じっていた。

余りに鳥たちが集まってくるので、家人のプレッシャーもあって今年はやめたのだが、夜明けのころ外に出るとスズメたちは毎朝、うるさいほど餌をねだるように囀るのである。鳩もくる。先ほどはシジュウカラがレンギョウの枝に来ていた。

そこで疑問が湧く。スズメたちには昨年までの餌の記憶があるのか。カラスは餌と場所を一年くらいは記憶していると読んだことがあるから、あるいはそうかもしれない。しかし、薪小屋にもスズメだけでなくシジュウカラもヤマガラも、時にはアカゲラまでやってくるから、薪小屋の虫漁りは記憶ではなく、眼ではないのか。この春はいやに薪の間に野鳥が入ってもぐると思って調べてみたら、ヒラタカミキリらしい小さな昆虫が大発生していたのだった。

■12/12 英国式自然の楽しみ方
梅田先生が生前に寄贈してくれた本の中に、英国の農業や自然、いわゆるカントリーものや制度を扱ったものが多く含まれている。先生が農的空間を景観として見ていくときのひとつのモデルとして英国を念頭に置かれていることがわかる。

この一連の中には、フットパスやコモンズも含まれるわけだが、表題の題名のこの本は、これらの外にフライフィッシングも組み込まれており、さらにガーデニングやバードウォッチングも写真とともに紹介されていて、まさにわたしの長い楽しみとしてきた趣味と大いに重なるものだった。

保管してあった雑木林センターのライブラリーで見つけたときたまたま手にした時の歓びは一入(ひとしお)だった。そして今、例によってできるだけ読み過ぎないように、少しずつ少しずつめくっている。

描かれている内容の多くがわたしが実際に現地で見てきたものや本で読んで見知った事柄も多分にあるから格段の親近感があるが、それにしても英国人が歴史的に自然に傾けた民族としての慧眼のようなものには唸らされる。

そして碩学の先生が、農業土木の研究の一画に、こういった英国の文化的な伝統にもしっかり取り組んでおられたという足どりを偲ぶことができた。合掌

■12/11 肯定感への憧れ    
*今日から「日々の迷想」を端的に「日々迷想」にタイトルを変更します。

山仲間のOB会誌に投稿するという、同期の原稿を拝見した。そしてちょっと感動した。というのは、50年近く前の数々の山行の回顧が、折々のエピソードを交えながら、実に明るい輝きを失わず描かれていたからである。まるで、サムエル・ウルマンのあの青春の詩のように、気持ちひとつで年はとらない、という実践さながらである。それを今も続けているという証とみてとれる。回顧があのことわざのようなフレーズをふと思い出させた。

彼は何故こう描くことが可能なのか。本人にもメールで感想を送ったが、恐らくは彼の「肯定感」である。ひとつひとつにプラスのとらえ方を疑わず、次の行動につなげる。マイナーな雑念に絡まれたままのわたしにはとても羨ましい身の処し方である。肯定感…。実は時々、もうそろそろ後悔はほどほどにして、出来れば忘れて、「肯定」側に舵を切るべきではないか、と思い始めたところだったのである。ところがそれは一朝一夕にはできないようなのだ。

■12/10 山仕事の運動量は意外



ナラの木を倒したあと、右に傾いたシラカバをクサビで逆の左に倒す作業にかかって、やや難儀した。最後は隣の木の二股にしっかりと掛かり木になってしまい宙ぶらりんとなったものの、ひとりの一馬力牽引ではやはりどうにもならず、断念。枝片付けなどをしながらだが、こんな山仕事でもスマホの万歩計では歩行距離は3.4km。ちょこまかと歩かざるを得ないから、まあ、そんなものだろうか。そんな歩きとチェンソー駆使はジムで負荷をかけるよりはるかに健康的なような気がする。こうみえて、安全伐倒は頭も使い、いわゆる気働きがある。

■12/09 震度5弱、結構な揺れ

昨夜は眠りばなにぐらッと来た。結構な揺れで、本棚の本や壁にもたせた鏡などが落ちた程度で済んだが、最も気がかりなのは薪ストーブだった。急いで階下に降りたころは揺れが少し静まっていてホッとしたが、玄関に積んでいた薪棚は全部倒れていて、玄関ドアが空かなかった。明日は、遠浅の薪ヤードと雑木林センターの薪棚が崩れていないか、見なければ。なにひとつ、人任せにできない「薪」という代物、この暮らしとの一体性が魅力といえば魅力。

■12/08 森信三先生の予言

まさか、と内心思いながら哲学者・森信三先生の生前の予言「日本は2025年再び甦る兆しを見せるであろう」を記憶していた。そして2025年10月、女性総理が誕生してひと月余り、日本再生の兆しとはこれだったのかと思い当たる。総理だけでなく、ブレーンの仕事も早く、チーム全体が力強く活躍している。まるで、この数年は何だったのか、の思いで日本という国と政治をこれまでにない期待を込めて注視している国民はきっと多いだろう。

折も折、C国は我が国の安全保障のプレゼンスに異を唱え、制裁を発動し世界に向けたプロバガンダを始めたが、歴史認識の発信や国連等への対応で、結果的に裏目に出て立て続けにボロを出し続けるという失態を見せている。そもそも香港の一国二制度という約束を自ら反故にした時点で、自由主義陣営のルールにのっとらない国柄を見せつけられ、台湾は対応を変えたことを、国際社会もよくウオッチしている。

森信三先生の予言が当たっていれば、日本は歴史的な足枷を融かし文化的な維新の時を迎えるのではないか。わたしなど庶民もいささか緊張の面持ちで国内外の情報に耳を傾けているこの頃である。

■12/07 いよいよ二十四節気の「大雪(たいせつ)」

勇払原野の季節巡りは奇妙に二十四節気に重なる。今日はちょうど「大雪」を迎えたが、まとまった降雪はここにはまだない。例年は一月に入ってからが多く、その分、山仕事がはかどった。ただ、雪が積もったら山仕事などしないで、薪ストーブのそばでみかんでも食べながら本を読むというような生活でもいいのではないかと思えてきた。季節に逆らわず、季節に合わせて。

■12/06 山の神の参拝



正式な神事にはやや早いコモンズの山の神参拝。午前はひとりで静川のつた森山林(上左)。暴れたナラのご神木がいかにも、と威風をさらしている。午後2時、ウッディーズの面々と大島山林のドロノキに手を合わせ安全を祈願する。注連縄、台、お神酒など一式、それぞれの分担もよろしくつつがなく終了。雪の量も手ごろだが、落ち葉の下はもう霜柱。



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