晴林雨読願望
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勇払原野のコナラ主体の雑木林。ここは中下層をウシコロシの黄色が占めている

一燈照隅
雑木林だより

 新里山からの日常発信

地域活動15年の歩みとこれから

 勇払原野の風土を共有する

  

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●日々の迷想 2023 & 2024 & 2025
2021
first upload: Nov. 29 , 1998
last upload: Nov 28,
2025

日々の迷想

■11/28 カササギの飛来で

今月の初め、米大リーグのワールドシリーズ決勝戦9回のギリギリのときだった。家人と二人息を殺して画面を見つめているとき、出窓の前にあるオンコのてっぺんにカカサギが飛んできて止まった。わたしは瞬間的に「勝った~」と叫んでいた。カカサギは戦いの縁起物で「勝ち鳥」とされていると聞いていたからだ。そして結果は、なんと叫んだ2,3秒後、相手打者は内野ゴロを打ち(詳細は忘れた)ダブルプレーか何かで、ドジャーズが決戦を勝利したのだった。

このごろなにか、勘のようなものがあたることがある。基本、幸運に恵まれているように思う。いや思うことにしている。ひらめくというか、祈りが伝わるというのか。祈って流れが変わるものなら、諸々についてもっと祈っていたいとも思うのだが、なんなのだろう。言霊というものもある。志し発した方向にしか進まない、だからまず志せ、という。

こんなこともあった。令和7年正月2日の夜中、隣が火事になってわが家に消火活動の水がかかる夢を見たのだが、なんと夜が明けた朝7時ころに火災報知器の音が聞こえ、出てみると裏のアパートの老女の部屋から煙が出て火事騒ぎになったのである。すんでのところで住人は消防士に運び出されたのだが、水をかぶった部屋は2か月近く、リフォームの業者が出入りしていた。


11/27 歴史の裏側に横たわるもの

井沢元彦著『怨霊の日本史』を読んだ。けっして教科書に堂々と乗るような説や文脈ではないが、歴史学者や学会に認められたストーリだけでは読み切れない裏を、想像を働かせて書かれているので、こちらもその気で向き合ったためか気楽に読み進めた。

思えば、『源氏物語』やその時代のものには怨霊やそれを払う加持祈祷が頻繁に出てきて、それが当時のスーパーテクノロジーだったことがなんとなくわかる。陰陽師らは近年の阪神淡路大震災の断層と神社の建立位置との照合などで地磁気の感性で説明されていたのを、わたしは科学の匂いがあると思っていた。未だ科学されていないだけだ。

「怨霊」に焦点を当てたこの本は、恨みが祟りとなってその後の流れを左右した例がいくつか取り上げられ、大国主の尊と出雲大社から始まる。菅原道真、後鳥羽上皇など、皇統にまつわるものがメインだが、「ばけばけ」のラフカディオ・ハーンの怪談物も庶民版の怨霊説だろうと思う。日本人に限られるのかはわからないが、人の持つエネルギーの第一はねたみ、うらみだ、と聞いたが人間の本質を考えさせられる。


■11/26 山仕事の危険



裏ページにあたる「雑木林だより132」にはこのところ、大きな2,3本の根返り木処理の顛末と盗難事件を書いている。雑木林とか里山といえば、のどかで好々爺がのんびり枝拾いなどをしている図が似つかわしいが、整った風景を維持するためには実際は逃げられない仕事もままある。ひとりならではの不安や、他人に迷惑をかけられないという緊張もあるので、内心はいろいろな思いが交錯する。そんなこころの襞を見つめるというのも得難い体験というべきかもしれない。

■11/25 歌にみる庶民の共感 41

苫小牧は一時雪が降った後いつも通りの長い晩秋に入ったかのようだ。夕べ遅くは遠くで白鳥の渡りか、鳴く声が聞こえた。季節は常に色濃く日常にあって話題に事欠かないが、語る相手はこの「共感」だけの呟きにになりかねない。今回も俳句のみ。

伝えたき言葉と人を失くし秋  東京都・Sさん
…やはりこの投稿者のようなことが良く起こる。この寂しさは格別だろう。共感がなかれば人生はあまりにもつまらない。ナンデモナイ会話をできる幸せというのがある。

鶴折るは祈りか悔いか夜半の秋   吹田市・Hさん
…選者は「眠られず…」と想像を書いていたが、その方が句の情感は確かに増す。夜半のひとりだけの営み。ますます眠れなくなる。祈りや悔いに疲れた頃にやっと寝に着く…。

担任も雁瘡(がんそう)物理学を説く   京都市・Nさん
…先生は生徒に後ろから観察されている。首筋か、バレバレだ。慢性の湿疹は実に治らないのである。ドクガ、帯状疱疹と並行して治らない皮膚の病を当方も引きずる。

草相撲里の山川みな四股名    四街道市・Sさん
…これは愉快。落語家の名前とか、そんなものにも使えるかも。しかし昨今、気軽に呼べる里の山川が身の周りになくなる。アニメのキャラクターなどに代わるのはやめてほしいところ。

おおよそで生きる余生や秋うらら   川口市・Wさん
…実にこの感覚や、良し。ぎすぎすとせちがらく理屈っぽいのはスルーしたい。おおよそで生きるのは理想だが、現実はなかなか許してくれない。特につれあいなど。

爽やかや眼のゴミとりし母の舌   川崎市・Kさん
…思い出した。幼少のころ、母親に数回とってもらった。なめてもらう、というのは動物のよくやることだが、効き目は抜群で母親にしてもらったことのうちで上位だ。

■11/24 殺し窓で始まったステージ



もう2,3年すると築30年を迎える小さくて質素な丸太小屋。今年は、かつてなく人がくるようになった。それというのも近年はわたし自身が年間100日近く通い、10年前より小屋内外の手入れ、整頓ができるようになったことが背景にあるようだ。苫東コモンズのメンバーの協力も得て、ログハウスの丸太に防腐剤を塗り、写真のように採光の窓を造ったのも大きい。ただ開け閉めが出来ない、いわゆる殺し窓だが、窓辺の明かりは本を読んだりものを書いたり思索するには最適だ。森づくりと山、walking 関係を主とした500冊ほどの蔵書もそろって、まあ、いわば表向きのお膳立てはできた。そんな中、この殺し窓から見る四季の雑木林風景もわたしは好きである。このようなシニアワーク、シニアライフのステージ変化は、この殺し窓が象徴しているような気がしている。

■11/23 古都の食



先日訪れた奈良の食といえば、わたしは「柿の葉寿司」である。あんな海のない県で、鮭や鯖の美味しい寿司を作って見せることと、それを可能にした柿の葉にも注目する。新鮮な魚に対するあこがれはいかばかりだったか。そんなことを考えながら、冷凍であっても機会があれば食してみる。岐阜の朴葉みそもしかり。宿によっては、朴葉みそがメインの料理だったりするから驚いた。わたしは八戸のトロ〆鯖をつかって朴葉寿司をつくったことがある。我ながら絶品だった。いずれも葉っぱの香りと殺菌作用が働いている。

それから、干し柿。丁寧に天干しした干し柿は予約から2週間以上かかるというので、手持ちのお土産にならずネット予約になったが、到着日を想定して奈良で買った絵はがきを明日送り先に出す。この手間暇も旅の余禄。

■11/22 間伐材の横取り

一昨昨日に、やや苦労して片づけた、太く長い材がなくなっていた。普段、盗難など悪意のある世間に無縁だったので驚いた。初めてではないが、やはりショックだ。明日、予定を変更して防犯カメラの設置に向かう。設置の看板も立て、予防体制を図るつもり。


■11/21 寒さ、冷たさ、暗さ、そして落ち葉

一日が最も短い冬至まで1か月。朝6時でも暗く、午後4時を過ぎれば暮れる。そして外は寒く、時に手は冷たい。嫌がっていた暑さも悪くなかった、などとふと思うこの頃だ。俳句の季語に関する書物を読んでいると、季節の色、風、温度、植物などもろもろの風物、そのこだわりに実に驚く。それが古今和歌集あたりから延々と述べられる。これは繊細な季節の移ろいと密接に触れながら人々が生きてきた証である。雑木林に目を向けると、なぜか、落ち葉の量が例年より少なくないか。興味は尽きない。

■11/20 歌に見る庶民の共感 40  (読売新聞・月曜日の歌壇俳壇を参照しています)

「共感」を選び出し書くのは、至福のひとときである。静かに時のすぎるのを待つだけの身には、日々、淡々とした時間が過ぎるはずなのだけれど、予定、と心に誓ったとたん、それは負担に代わっていく。その負担感覚を超えるための訓練を実施中。

鶴折るは祈りか悔いか夜半の秋   吹田市・Hさん
‥折る。その営みの静謐、たたずまい、それだけでまるで祈り的世界だ。ツルを折る時間はまさに世界を創るマジナイのような行為。

伝えたき言葉と人を失くし秋   東京都・Sさん
‥人は次第次第に関係を失していくらしい。そして孤独を味わうようになっていく、のは普通の歩みだが、哀しみばかりがいいのではない。関係性は紡ぐしかないかも。

担任も雁瘡(がんがさ)物理学を説く   京都市・Nさん
‥皮膚病とはまさに恐ろしき完治しない日常病。そうか、先生もだったか、作者の発見の歓びが伝わる。同病を体験する筆者も、同胞を得た喜びあり。

草相撲里の山川みな四股名   四街道市・Sさん
‥よくぞ書いてくださった。田舎相撲の真骨頂。そう、地方には川も山も里も名前があるのだ。その四股名。と言いつつ、現在の力士で思いつくのは、熱海富士、美らノ海、湘南の海、あたりか。

■11/19 タヌキの死

今年の1月、小屋のベランダの下に設置した動物用センサーに、タヌキが映って、置き去りにしていた死んだタヌキを食べ始めた。コリコリという音まで出して、衝撃的シーンだったが、11/15 再びベランダの下に死骸のようなものを見つけ、今日、処理した。きっと、またタヌキかその他の獣が処理するだろうと思うが、この食物の連鎖のようなものの理解というか観念というか、現在の生活環境の中ではなかなかストンと理解できない。

わたしたちは完全にそのような食物連鎖の中にいない。いわば、都市の文明生活いうものが生き物の連環の中に存在していないからかもしれない。小屋の周りには「まほろばコース」というルートを命名しているが、「まほろば」といういわれも実は、その木立にひっそりと囲まれたそこが、手負いのシカにとって最後の息を引き取るのにふさわしい死に場所だったと感じたことに始まる。最後は静かな、何者にも犯されない場所を選ぶということか。小さな雑木林で展開される野生たちのプロフィール、その向き合い方をわたしはまだ知らない。

■11/18 琵琶湖疏水



開拓と文明、文明と森林、開発と自然。これらに対する関心は依然薄れていない。文明の及ばない静かな大地・北海道が動き出して開拓がはじまり、やがて開発と呼ばれる急速なインフラが進んでまだ100年余り、一方の京都は都が置かれて1000年余り、明治維新の遷都で京都は寂れにさびれ「キツネやタヌキの棲み処となった」と言われた。没落する京都を再興するための府知事の施策は柱の一つが琵琶湖疏水だった。水力発電による市電の運行、産業おこしだったが、その疏水の土木工事を日本人だけの技術で仕上げようとした。選任された主任技術者は21歳だった。

何度か京都を訪れているうちにいつかこの疏水を下る遊覧船に乗ってみたいと思っていたのが、たまたま空席があり滑り込みセーフ。11/13、揺れる船の小一時間の疏水下りを体験した。なんとも一口で歴史比較などできるわけがないが、時間の重みというのが少しわかる。

地下鉄東西線琵琶湖浜大津行きに乗り、乗り換えてスタート地点の三井寺へ。琵琶湖へは歩いて5,6分の場所だった。舟の終点は山科。素晴らしい遊歩道から毘沙門天にお参りしてから叡山電車で鞍馬寺に向かった。


■11/17 正しく歩く訓練を始める

散歩時のウォーキングポール、階段投降時の手すり、これらの補助具は時に要注意だと知った。腰あたりがすっかりこれに頼ってしまって、バランス感覚も衰えてしまっているようだ。そもそも人の身体は衰えるものだが、しかし油断すると生身の体は反応をさぼり、甘えるようになる。そもそも人間の歩行というのは、四つ足動物と違って、転ぶのを防ぐように足を出して歩くのだ、と聞いてわかった。極めて微妙な平衡感覚の上に成り立っていたのだ。少しつらいが、あらためて正しい歩行姿勢を心掛けることにした。健常者にはなかなかわからない世界である。

■11/16 森に満る氣を浴びて



先週は月曜から金曜までの5日間、古都をめぐった。昨年秋の奈良・山の辺の道の北ルートがまだ残っていたこと、琵琶湖疏水というインフラへの興味、そしてパワースポットと一部で噂の高い鞍馬寺、貴船神社が目当てだった。

鞍馬寺から貴船神社への峠を挟む山道は、原生林と称される部分も含んで、じつに鬱蒼とした修験道のような厳かな山道で、パワー(氣)とはこの雰囲気を指すのだと知った。写真は貴船神社奥宮。貴船とは「氣生根」の意で、大地のエネルギーである水と森に囲まれた場所という意味らしい。郷里の最上川の支流のそのまた支流の、鮒やナマズを釣っていた川が貴船川という名前だったので、実はこの言葉の意味にも関心があった。景観構成が、静川の雑木林の冥想テラスあたりにちょっと似ているのも内心大きな驚きだった。



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