晴林雨読願望
take /草苅 健のホームページ

 



勇払原野のコナラ主体の雑木林。ここは中下層をウシコロシの黄色が占めている

一燈照隅
雑木林だより

 新里山からの日常発信

地域活動15年の歩みとこれから

 勇払原野の風土を共有する

  

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●日々の迷想 2023 & 2024 & 2025
2021
first upload: Nov. 29 , 1998
last upload: Apr 28 ,2026

日々迷想

■4/28 「ニュースな日々」とイラン戦争の行方

新聞はお悔やみランと川柳とBS番組と若干のコラム、そして4コマ漫画を中心に見て、タイトルを流し読みして30分で終わるようになった。朝は起きがけの夜明けの瞑想で始まり、7時のNHKラジオの気象概況とニュースを聞きながらヨガのストレッチも大事な朝の日課となって30年もたつ。

これで一日のアタリをとってから、晴林雨読の読書体制に入り、晴れれば林か庭へ、雨なら迷わず読書に落ち着く。いずれの場合も夕方からはビール片手にSNSや you tube の時間となる。こちらで番組を飛び跳ねるように選びながら世間をつかむに値すると思われるジャーナリストや学者の意見に耳をそばだてる。合間には月刊誌2冊を交互に呼んで心の肥やしと政治ネタのアンテナについたホコリをとる。人生初めて単純な構成の一日だ。

もう仕事で段取りを考えたり気をもむようなことはなくなって、しかも、思考力も判断力も大幅に鈍ってきたおかげで、シンプルで穏やかに一日が仕上がるのだろう。日ごろから確実にボケているという自覚も増えた。ただ、日本の行く末は気が抜けないから情報は入れていこうという気持ちだけはある。

また、自分の一生というものをいつも反省を加え時には行動を断罪し総括しながら日々を送ることになった。こんな風にしている間に、トランプの「2週間の停戦延長」の意味と収束がほの見えてきたりする。しかし明らかな情報過多である。そしてそこにはかなりの嘘情報が混在している。信じるに値するものを見定めるのがこれほど大変な時代はかつてあったのだろうか。

■4/27 吉里吉里の山火事と勇払原野火災

岩手県大槌町の山火事が連日トップニュースだ。井上ひさし氏の小説でも有名になったその吉里吉里の杉林を見たことがある。手入れがされていない込んだ杉人工林の林床は、風呂やかまどで焚き付けによく使う杉の枯れ葉がじゅうたんのように敷き詰められていた。その焚き付けに火が付くのだから火は広がるのは当然である。杉林の林床など日本全国似たようなものだから、山火事の可能性はどこも秘めていることになる。

近年心配になるのが勇払原野の火災だ。かつてハスカップ摘みが盛んだったころ、原野の泥炭にタバコの火が移り毎年のように仕事を中断しての消火活動に従事したものだ。今、不幸にもハスカップ自生地のハスカップは衰退し踏み込む人もいなくなったおかげで原野火災はないが、原野のヨシや泥炭は、吉里吉里の杉枯れ葉と同様、燃え始めたら止まらない。燃やす人と燃えるモノがそろえばいつでも原野火災は起きる。

昨年、勇払川の岸辺で春先に焚火をしているグループを見かけた。山火事も天災になっていて、忘れたころに来るとは古来の金言である。自分が燃やす人にならないよう、どこかで啓蒙活動が行われていればよいが、後の祭り、のパターンだろうか。

■4/26 家人と「藪出し」始める



レンタカー・タウンエーストラックで小屋周りと薪ヤードを4往復。あと2,3台分が残っている。暖房用薪の自給自足はもう一人でやろうなんてやせ我慢はやめて、ヘルプモードを惜しまず出す。藪出しから薪積み、薪運びの工程は女性にも手伝ってもらえる。たまの山仕事は癒しになるはずなので、逆有償で助っ人を頼みたいくらいだが甘いだろうか。

■4/25 75歳以上に医療は不要

こんなキャッチをみて発信源を見ると、あの木村もりよ氏だった。以前から彼女の出演する you tube は時々見てきたが、このたびまとまったページを見て納得した。ほぼ1時間もので、彼女の来歴がわかり医療界の仕組みやコロナのからくりも赤裸々に描かれている。厚労省界の戦う人だった。人生、かくありたしと思わせるところあり。

そのなかで、夕方5時ころから大好きなビールを飲み始めること、を目下の大切な日課とし、人生最大の楽しみは好きな人と飲み食いして語ること、という点はまさに「わが意を得たり」である。わが意を得るという出会いは、人生の強力な支援にあたる。いろいろな人生を垣間見るという出会い、実に面白いものだ。

■4/24 今年の気象の傾向

季節の変化は行ったり来たりで中々大きな区切りらしいものが見えない。が、ふと傾向なら感じる時がある。例えば、風。今年は霧は多くないが風の吹く日が多いようだ。樽前山の雪解けによる雪形を比べると寒暖の大きな差がわかるだろうけれど、記録はとっていないので残念ながら比べようがない。しかし、庭仕事を畑仕事するのに霜が降りなくなってからという目安で、何となく雪形を見てきた人は周りには何人かいて、わたしも気にしてはいた。その伝で行くと、4月の下旬に差し掛かったばかりなのに、もう5月の花の準備をしたころのような模様に見える。雪が少なかったせいもあるのだろうか。

比較的明瞭なのは花暦。コブシは4月末の記憶があるがもう満開である。かつて苫小牧のサクラの開花は連休明けだったが、今年は5月頭あたりで見られるのではないか。それを裏付けるように、わたし的観察では雑木林の林道の落ち葉がもうかなり分解を始めている。林道が水たまりがなく乾いている。これは近年まれにみる現象だ。データなどまったくない、いい加減な季節観察だが、このテキトーさでよい。なにせ、自然はかなり複雑に作用しあうから人間の予測など、所詮当たらずとも遠からずで、常に一面的でぼんやりしているものだ。確かなのは目当ての山菜がいつ採りごろか、そこにひとつの焦点がある。

と、そのあと線路沿いを散歩していると、荒れ地の中にノビタキのつがいが何かをしきりについばんでいた。そうか、季節といえばつい植物に目が行ってしまっていたが、確かにガン、白鳥の渡りのように、ノビタキやヒバリのような小さな鳥たちの到来も季節の象徴的なサインだった。

■4/23 今年一番の山菜は「コゴミ」



山仕事の帰り、いつもの年なら大きくなってから気付いて採り損なっていたコゴミを今日は手ごろな時期に手にすることができた。数日前、樽前浜のボーフーもまだだったし、アイヌネギは来週にとってあるので、2026年最初の山菜はコゴミである。この山菜の葉っぱのようなひだの淡い緑と茎の部分の深緑は実に美しい。かつて早春のコゴミは4月の支笏湖湖岸でのフライフィッシングの帰りの土産でたっぷりとったものだが、その後どうなっただろうか。

今日も鰹節を削ってマヨネーズと醤油で味付けしようと思っていたところ、家人からツナマヨにして、とリクエストが来た。そうなんだ、シーチキンとよく合うんだよね。


■4/22 移民における国情の違い

このまま外国人労働者を受け入れては大変なことになると危機感を抱いている日本人は決して少なくない。技能実習制度の進展で知らず知らず定着してしまったかのような人手不足を補う施策が、実質的な移民政策に発展してしまい、今や外国人だからこその問題を各地で発生している。また将来的に決して国益にならない。

この数十年の間の欧州の流れを見ても、例えばフランスなどは通常のフランス人が嫌がるような仕事を、二級市民として受け入れた移民に従事させるという実情があった。そして今や欧州各国は移民政策の失敗に頭を悩ませ苦戦している。そのはるか以前では、移民で国が成り立たせた米国、カナダ、オーストラリアが存在し、多様な民族が集まり寛容な社会が形成された。近年バイデン大統領時代のリベラル派が唱えた「多文化共生」は、このような移民国家において当然持つべき規範だった。

しかし日本はどうか。島国日本は日本人の伝統の中で国を運営して国をつくりあげ曲折を経て文化と伝統を築き上げ今日に至った。よその国から入国する外国人は、外国人の文化を丸ごと持ち込んでコミュニティを創るような多文化共生ではなく、日本の慣習や文化に「同化」するという形をとったし、これからもそうあるべきだ。わたしたちが外国にってするように、「郷に入ったら郷に従え」である。

かつて故石原慎太郎氏は新聞のコラムで、日本では移民の心配をあまりしなくてもいいのではないか、日本人は外国人を地域にうまく溶け込ませることに長けた民族だから、という主旨のことを語っていて、わたしはその当時、おやっと思ったものだ。今思えば、氏の論旨は、この「同化」を念頭に置いたものだったと理解される。当時日本人は、外国人が日本の伝統に同化するものと見ていたのかもしれない。

典型的な例とされる、母国が土葬が習慣だから土葬を認めろ、というような主張とは相反するのである。この問題は国の根幹にかかわる大問題であり、極めて政治的にまさに政治家が先頭に立って入国と滞在の各ステージにおいて政策として早く解決しなければならないと思う。もちろん、国外退去、強制送還も含めてである。

■4/21 八幡大菩薩の謎

八幡様というのは何となく神社だと感じていた。それが時々、八幡大菩薩と表現されるのを見聞きしてきて腑に落ちないできた。この謎が今日の読書で霧が晴れた。

仏教と神道の併存を認知する有名な「本地垂迹(ほんぢすいじゃく)説」が鍵である。奈良か平安時代のころか。「日本の神々は本来、仏や菩薩が主上級裁のために仮の姿をとって現れた」、とする一種の解釈である。この歴史はすでに1000年以上とされるのはぼんやりと知っていた。しかし先月訪れた宇佐神宮は八幡様の本山であり神社であるのに、しばしばそこに菩薩がつい呼ばれるのが不可解だったのである。神道なのか、仏教なのか。

これは明治のあの大荒れの価値転換時期に如実になった。「神武天皇の時代の「祭政一致の制」に復帰するとの宣言に伴い、…外国渡来の宗教である仏教は拒否され、迫害されるまでになった」。あの廃仏毀釈の余波である。

日本文明の大変革期、明治維新。その顛末を米国人の目で追う『明治天皇』の著作に詳細に記された歴史の意味は歴史劣等生のわたしには汲めど尽きない。ただ、ではわかりやすく説明せよ、と言われれば言葉ももどかしい世界であることも確かだ。有名になった竹田恒泰氏の『国史教科書』(合格版)の索引にも出てこない。伝えにくい、伝わりにくい史実でもある。

■4/20 小さな庭の今年のイメージどうする

南側の街路に面した小さな庭は道路から丸見えでごまかしがきかないので、いささかガーデニング風な装いをしようと、植込みのコンテナと物置の壁などにハンギングバスケットを吊るすなどして体裁を整えてきた。小さなスペースではどうやっても限界があるだけに、世間にどう向き合ったらいいのかと毎年少し悩むところ。ただ駐車スペースが一つ分空いているので、昨年はここに小さく薪を積んでその周りにコンテナを置いた。今年はそこを薪のスイス積みで円形を形どろうかと思案したが、寸法を考えるとそれは無理だと分かった。

安い草花で霜が降るまでモリモリに咲かせるというだけが取り柄の一年草の庭だが、町内や通る人に welcom のメッセージを出せればよい。もう花飾りは辞めるというのも選択肢だったが、薪づくりと同様に体が動くうちは現役で行こうと肚を決めた。そうしたら大きく迷うことはなくなった。薪が終わって花へ。今年は楽しく悩んでいる。

■4/19 薪づくりで季節が回る



修景間伐の選木に始まる林の扱いは、最後にストーブで薪を焚くことで完結する。その間、現代では思いもよらない、気の遠くなるような手間、換言すると「限りない時間の無駄」のような営みが求められ、その山仕事の必然に従順に従って1年という季節が終わる。しかし本人に時間の無駄感覚がないどころか、むしろしたたかに手ごたえを感じている。そんな山仕事の終点は自宅に薪を積み終えて終わるが、シーズンの終わり、新しいスタートはどうやら新緑のころにあるようだ。小屋のコブシのふくらみが目立つから、新緑は今年は少し早まるかもしれない。画像は4/18の土曜日、月曜4/20には小屋の前の玉切りを終えそうだ。

■4/18 「晩年は宇宙とだけ会話せよ」

中村天風師の言葉。人間、世間のもろもろのことはもういい、言葉は力である、エネルギーであることを心して宇宙とだけ会話せよ。励まされる。

■4/17 『探検家の日々本本(ひびぼんぼん)』を読んで

角幡唯介著。1976年北海道空知生まれの探検家、ノンフィクション作家。大変な読書家で英語なら原書で読んでいる節がある。先日、北海道版のNHK番組でヒグマ問題について自然保護を超えた文明の様式のような点から興味深いコメントをしていた。ハンターでもある。太陽の上らない冬の北極圏を2回旅行した人といえば、覚えのある人もいるかもしれないが、北海道ではあまり知られていないのではないか。

ぐいぐいと引き込まれる筆致は素晴らしい。読書遍歴と自分の探検に対する思いと経験を交えて輝くような言葉で語る。筆安め、いや箸休めのように「読書日記」がはさまれている。「日々本本」のタイトルはわたしの晴林雨読の「日々迷想」と少しだけ文字が重なるが、中身の濃さはまるで違う。ヒマラヤがすでに探検のジャンルでなくなってから探検は方向が変わった。そんな中で、植村直己氏亡き後、山以外の探検は多種になった。最近苫小牧で講演する石川直樹氏やこの角幡氏も探検ニューワールドの新星だった。「だった」ではなく、これからの文明発言、作家活動を期待される存在だ。先日のNHK番組を見て、これから自然や野生との向き合い方について注目される発信をすると確信した。

■4/16 樽前浜、もう一度

天気予報は快晴、北東の風で久々に絶好の日和と踏んで、朝7時頃、樽前浜に着いた。渚は確かに北東の風でフォローに近いが、今度は強風に近く波頭は逆巻く風でしぶきが飛んでいた。海の釣りは日本海のアメマスでも、いつもこんな風になかなか絶好の状況にはならず、うまい具合にいくのは10回に一度程だった。そんな日、日本海では岩ノリ採りなどした。




だから、こういうことには慣れているので「待てば海路の日和あり」である。流木に腰を掛けて輝く海面と向き合っているだけでも、わたしには十分である。フライフィッシングというのは海や川や湖と出会い、付き合うひとつのきっかけのようなもので、ここの風土に包まれている感覚だけで実は幸福感がある。海、原野、林、いずれでもよい。人生、いたるところに青山あり、自然のふんだんな土地には、産土の神が時々だがちょっとだけ香りを立ててくれる。地方に住む最大の恵みはそこにある。

■4/15 国民の保健のためという保安林が

この1週間、小屋の隣のカラマツ保安林で修景作業をするための前さばきにあたるやり取りをした。土地所有者との現地立会や自治体との手続き関係の対応である。国民の保健のためという保安林が、保安林という罰則のある厳しい制約のためにかえって何も手入れをされないで放置されてしまい、国民の保健とは裏腹のケガレチになってしまうのは皮肉である。

今回行う枯損木や風倒木の処理は手続きが要らないことは森林法を読めばわかる。条文や規則を読み込んでいれば結論にたどり着くのだが、手続きなしでやっていい、とわかるようには書いていない。実はわかりにくい。暗に勝手に何もするなと言っているに等しい。そんなわけで、数年前にも道庁の担当課に問い合わせて不要ということを確認して修景作業をしてきたものであった。森林法違反などと世間を騒がせたくないからである。

今回わざわざ話を蒸し返すように手続きを行政等に改めて問うたのは、来月下旬、NPOの会員総出で作業をするために景観が急変するためである。急に林の様子が変わると、保安林の場合は往々にして市民から行政に通報が行ったりするのである。転ばぬ先の杖のような、些細なことだが準備をしてみた。里山景観の瞬く間の改善が楽しみである。

■4/14 樽前浜にて



風向風速の予報アプリ windy では今朝はゆるい西風と表示されていたので、ゆっくり出かけてみると、もうすでに結構なアゲインストの風に代わっていた。サクラマスのライズはなし。これでは海に向かってロッドを振るのはつらい。ツーハンドロッドのフライをはずし、折角だから久しぶりのキャスティングの練習に切り替えた。

画像は砂浜と海だけになったけれども背中側の樽前山は、ここが海に最も近いところで迫っている。その山はもう雪が半分近く消えて春の顔をしている。ただ浜ボーフーはまだだった。

話はそれるが、最近、 face book にはダブルハンドで優雅にキャスティングする画像投稿が多い。それもすべて白人のようだ。そういえば、映画「リバー・ランズ・スルー・イット (A River Runs Through It)」では主人公のブラッド・ピットが芸術的とまで言えそうな優雅なループラインを見せていた(しかしロッドはシングルだったかも)。ダブルハンドはフライラインをかなり自由自在に扱えるので、ループラインの美しさを競って、釣果は二の次になるというのもうなずける。投稿画像はキャスティングの画像がほとんどで魚はかかっていない。今日のわたしもまあ、そんな気分に近いが、もともと釣果はさほど期待していない。15分で着く前浜で海に向かっているだけでも結構満足できる。

しかし次回は怠慢しないでセオリー通り風の穏やかな朝早めの時間に出かけてこよう。

■4/13 ちょっとした不具合直しも心地よい達成感あり

つまらないことでもうれしいことがあるものだ。更新したホームページや画像をサーバーに転送する仕組みがこのところ不具合で時間を要していたのを、ちょっと思いついて別のアプリに替えてみることにしたら、まあ、不具合はうまく改善できた。うれしい。スマホやPCなどは不具合とトライアンドエラーのデパートのようなものだし、家電製品やウォシュレットやボイラー、石油ストーブまで、メンテナンスは不具合との掛け合い漫才のようだ。次から次と終わりがない。こちらは昨今ほぼ時間があるから焦らず慌てず向きあうから、イライラもせずたいていは解決策が見つかる。

これが心地よい達成感が伴うことをこの頃は強く自覚するようになった。ある意味、生身の人間関係の方がはるかに補正が効かない。この頃は去る者は日々に疎し、という意味がひしひしとわかるようになった。荀子の言葉とされる、将(おく)ラズ逆(むか)エズ應ジテ而シテ蔵(ぞう)セズ(去る者は追わず、来るものはことさら迎えようとせず、だれかれとなく同じに応接して、しかも心にとめることをしない)という箴言のファンは多いようだ。しかしこれが難しい。



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