| 晴林雨読願望 take /草苅 健のホームページ ![]() ![]() 勇払原野のコナラ主体の雑木林。ここは中下層をウシコロシの黄色が占めている |
| 一燈照隅 雑木林だより 新里山からの日常発信 |
地域活動15年の歩みとこれから 勇払原野の風土を共有する |
| ●コンテンツ一覧 ●日々の迷想 2023 & 2024 & 2025 2021 |
first upload: Nov. 29 , 1998 last upload: Oct 21 ,2026 |
| 日々迷想 ■10/21 小茄子と鉄瓶 ![]() 郷里山形は東根市の小茄子を入手した。時節柄、嫁に食わすな、とされたあの秋茄子である。添付されていた粉末と、今ではプロと自他ともに認める家人の漬け方との競演が展開した。一晩漬けた1回目は添付の濃厚な調味、2回目以降は家人のあっさり目に軍配が上がった。旅行土産にもらったのはやはり郷里の鋳物で、燗酒用の鉄瓶。たっぷり2合は入る。これは間もなく薪ストーブを焚き始めたころに、今年のお焚き初めを祝って使ってみよう。 ■10/20 地球温暖化とヒグマ 昨日のNHKスペシャルは知床のヒグマを追った特集だった。ヒグマという生き物を真ん中に置きながら地球温暖化が背景として大きく存在し、直感的にその原因が産業活動よりももっと根の深い地球環境にあると思われた。そう思わせる映像とコンテンツだった。かつてアラスカ大学の赤祖父教授が、深いところの低温の海水がどう移動するかにかかわるという説を唱えておられたが、それに近いのではないか。地球の大きな変動のひとこまに、人も野生動物も翻弄され、現実対応を迫られる。それでいてホメオスタシス(恒常性)が保たれる。チャールズ・ラブロック博士のガイア理論は確かそんなことを描いていた。「眼高視低」という言葉をどこかで聞いた覚えがある。現実と未来のこんな見方を指しているのだろうか。 ■10/19 高齢で引退する理由 前から分かっていたことだが、理解力、判断力が次第に低下して今は格段に落ちている。一昨日、ある契約について打ち合わせをしながら確信に至った。入り組んだ規則、制度、大きなものでは法律などの理解で、的確なジャッジが不可能になりつつある、という自覚が湧くのである。 自ら色々な社会的関りから身を引いていくというのは、高齢になったものの自然だ。だから80代でもカクシャクと仕事をされている方々は驚異だ。90代などは超人である。読書はその点、理解などできていなくてもだれにも迷惑はかけないで済む個人的な営みだから、安心な世界を作ることができる。安住の場だ。この気づきは諦めであり希望でもある。 ■10/18 秋が深まる ![]() 朝夕、時刻を問わずガンと白鳥の渡りの声が近く遠く聞こえる。今朝は200羽ほどの大編隊が頭上を南下した。編隊にやや遅れた2羽が列に入る際に、列を開けてくれていたのが微笑ましかった。なにか、合図を送っているのだろうか。 小屋では年1回の総会が開かれた。テラスわきにはクリタケが出た。初めてみる人が多く何のキノコか聞かれたが、歯ごたえは良いが味は特長なし、と答えるとさすがに採って食べようとした人はいなさそうだった。ハナイグチがわずかに採られていた。ヤマモミジが色づいた。あと10日当たりに紅葉のピークは来るか。 ■10/17 因果不明の世界とAIと鳥 Eメールが使われだして間もなく、コンピューターウイルスが蔓延して使い物にならないのでは、などと敬遠する人も出た。昨今は最初から悪意のある詐欺まがいの迷惑メールも増えて、携帯電話も知らない番号には出ないのが当たり前になっている。おとといからあるSNSのアカウントが乗っ取られたようで使えなくなった。なんだか、AIが悪の手口まで教えてくれるとかで、ウンザリだ。これでは留まるところがない。 昨日の国会参院予算委員会の終了後、総理は、底意地の悪そうな質問と意見を繰り返して互いにやりあった野党委員のところに笑顔で歩み寄り、双方手を取り合うように会話していた。なんだか下手な芝居の舞台裏のようでげんなりした。悪いものを見た。 そして一転、今朝、遠くに渡り鳥の声がする。やがて北の方から50羽ほどの編隊がやってきた。すかさず200羽近い大編隊が上空を海へ向かっていった。昨日来、なんだか嫌なものを見、感じてきたことがこの編隊の光景で束の間ふっとかき消された。目と喉の消毒をしてもらったようだ。ずいぶんと単純な気分転換である。 ■10/16 林と庭 今朝は10度近くまで気温が下がり、さすがに家の中も外も寒いと感じた。外は9℃、居間は19℃だった。いよいよである。陽が差すようになってから庭に出てみると、あのヒメクロホウジャクが来ていた。来てすぐひと当たり花弁をめぐって間もなく、隣の庭に移っていった。まるで偵察のようである。あと10日足らずで霜が降りるはずだから、いよいよ花の季節も終盤である。かれらはこれからどうするのだろうか。 と、昨日は庭のお客さん、一昨日は林にお客さんが来た。主宰するホームページ名が林と庭だから、偶然の一致であろうか、わたしもあと10日余りで後期高齢者だからいい記念である。二つの訪問とも好印象を持ってくれたのもすこし胸を膨らませた。庭に来た若い女性はベランダの椅子で用務をこなしつつ薪や庭の花を見おろして思い出に残る、とつぶやいた。コモンズの林で半日を費やしたお客さんからは、別れ際に新年のセミナーの講師を打診され、今朝、事務局に正式に日程と承諾の返事を出した。北海道で言うアスマシイ、気持ちのいい庭と林を創っていくことは動ける間の目標だから励ましをいただいたと勝手に思っている。 ■10/15 土砂降り直後に山の人、訪問 ![]() 札幌の森林ボランティアグループが朝10時に訪問。土砂降りの大雨がやや下火になったころだったが、小一時間は小屋の中でガイダンスと質疑と意見交換。11時からささみちフットパスを歩いて戻るころには晴れてきた。ほぼわたしより高齢の山の人ばかり。話もざっくばらん、しかも経験豊富。育林コンペに寄り、そば哲で昼食後、大島山林の薪ヤード、小径のショートコースを歩く。 ■10/14 花の庭の5か月 ![]() 6月から表に出したハンギングやコンテナがもう10月の半ばまできた。花弁も葉もかなり落としてスカスカになりつつあるけれども、ほとんど追肥もせず、台風などで物置に避難移動もすることなくほぼ5か月が過ぎるとは幸運というしかない。雨が降らない日は毎朝ほうきで花柄や落ち葉を拾う日課もあと少しで終わる。 ■10/13 自然と風土へのこだわり 野生の動植物が中心の自然に比較的関心が強い当方だが、世間ではどうかといえば人それぞれで、うんちくを傾ける人もいればまったく無頓着な人まで千差万別だ。大雑把に言えば、あるべき論として一般に言われるほど庶民はいわゆる自然とか緑に関心はさほど高くない。高くはないが、迷ったり悩んだり病に苦しんだり、ふとした時に自然風土、森羅万象に助けられることがあって見直されることもある、というところか。 それを環境といえば、ちょっと理屈っぽくなって社会性が問われてくる。保護運動などに至っては主義主張の一種の戦いである。自然風土に限って言えば、科学的な側面とあわせ、情緒に近く古くから俳壇歌壇にもよく歌われる特長がある。万葉集や源氏物語では春夏秋冬、この素材と描写と思い入れなくしては存在しえなかったと思われるほどだ。そして人々は自然に対する特別な感性、第6感を持ち合わせていたようだ。現代は、日常的には自然など身近になくても生きていけるが、付かず離れず包まれていたい、そんな存在か。少なくとも、身の周りで日々役に立つ相手ではない。便利な都市こそ住みやすい。 当方は片田舎で半自然のような世界にこだわって人生終盤にきたというのだから、所詮たいしたことはない。今は、なんとか野生の小鳥を手に載せたい。餌で野鳥をおびき寄せ、春までには巣箱を作ろうかと思う。ふと復古調の懐古趣味のような、まさに超個人的な偏った好みのようである。掘り下げてみればきっと幼少時の体験にたどり着くのではないか。 これまでも自然と風土にとけ込み和むことは普段から限りなくあったが、だからと言って大切さを訴えるような気持ちにはなれない。生きがいとも違う。繁盛も衰退も自然といういい加減さが根っこにあるような気がする。養老さんの自然観は、そんなことも考えさせる。 ■10/12 養老さんの自然観 自然と文明間の悩み事を俯瞰する大局を語らせると、養老孟氏の声には耳を傾けさせる重みがあるようだ。you tube をみると養老さんのそんなキーセンテンスをキャッチにした、いくつものシリーズが見える。 話はちょっと横にそれるけれども、「君は自然相手でいいね」とわたしに言ったのは出向してきて上司だった道庁の幹部の方であったが、役所の行政規則、あるいは議会、そして特に人を相手にするのは大変でうんざりだと顔は語っていた。養老さんは自分がこうして達観していられるのは実は自然が相手だからだという。いつまでも生きていられない人間にとって生老病死は「自然」であり、氏の悟りに似たオリジナルアイデアは、虫をはじめ死体などもろもろの「自然」とむきあってきたせいだとほのめかす。 わたしが言われた自然と養老さんの自然はもちろん微妙に違う世界だが、すべての変化をそうあるものとして受け入れるという気持ちは底通するものがあるように思う。そもそも変化を危機とみなしその対応を心配するから不安になり慌ただしくなるのであり、自然を相手にしていれば相応の覚悟が生まれると養老さんは言うのである。 世の中が、都市に人口が集中し地方が敬遠され過疎が進み始めたころ、氏は国民全体で参勤交代をすればよい、と提言して驚かれたことがあった。田舎に住んで、ときどきはじっくりと自然と付き合えばモノの見方は変わるよ、と言っていた。答えはまだまだ出てこない。 ■10/11 ついに餌台にエサを撒く ![]() 北の森カフェの鳥見エリアに、ついに餌を置いた。ゴールは小鳥たちの手載せだが、そこをスタートから観察するためにトレイル・カメラをそばに移設した。これから、アニマル・ソルトを据え、紅葉のころに脂身を吊るしたら完成だ。さて、どうなるか。 ■10/10 山菜を京料理のようにいただくとは ![]() 9/01の書き込み「旬を味わう「糸暦」」の続きで、郷里山形の出羽屋の山菜おせちを頼んでみようかと話題になってネットでスタンバイしていたら、予約解禁後の10分余りで完売になった。それではという次善の策というのか穴埋めというのか、この本を買うことになった。 読み進めた結果、ずっと手元に置きたい一冊であることがわかり、読み進まないで途中で本を閉じて「仕舞った」。もう少し余韻を楽しむ時間を伸ばしたい。また、これまで春秋と地域のふんだんな山菜を頂いてきて、それはそれでいいのだが、それらがまるで馬食といえるほど雑な味わい方だったように恐れ入ってしまうのである。 料理の数は約100、これからは山菜との向き合い方をただすような時に改めて開くことにしようと思わされた。それほど上品な食文化の高みに達していて、作品中の言葉では「京料理」のごとし、と表現されていた。写真も聞き取りもプロの手になったさすがの一冊で、郷里のこんな存在を見聞するにつけほんわりと誇らしい気分がする。と同時に、郷里から北にそびえていた月山のゆったりした容姿を思い出すのである。 ■10/9 夏目漱石著『こころ』を読む 実に久々読んだ小説は『こころ』だった。が、なぜ久々と感じるのか、ちょっと分からなかった。きっと日常は「こころ」と遠く離れた、ドライな生活を送っている、そのせいだろうと推測が付く。『こころ』が描いているのは近現代人の西洋的自我の目覚めというのかもしれないが、漱石はそんな明治の悩みを代表している、という評論もかつて仄聞した覚えがある。小説は心のひだを余すことなく描く、読者はその一行一行を追いながら心理をトレースする。その極めて人間的なスピードが、日常の情報過多生活にはなくなっていたのではなかろうか。 過日、ラジオの朗読で林芙美子著『浮雲』を15分ずつ70回聞いた時も、やはり忘れていたものに出会った感があった。エゴイズム、嫉妬、数々の欲望、それに伴う倫理と迷い、そして描かれる世界は、じめじめ、陰湿、まるで人間であることが嫌になるような、どちらかといえば暗い絵を見せられる。まさに悩める人、のようにである。 いつの間にか、これらから遠く離れている令和のわたしの日常ができあがっている、ということがわかる。時代のせいか、そこに歳のせいもあるようで区別しがたい。ほぼ半世紀ぶりに読んだわけだが、この50年という失敗だらけで脂っこい、人生の濃い部分をくぐった前と後では、ずいぶんと『こころ』の印象が違うものである。 ■10/8 秋晴れの日の出にて ![]() 今日も快晴だ。南へ車で5分、海岸に出てみる。朝5時45分、薄い雲からの日の出だった。それにしてもおびただしい流木が護岸の頭まで打ち上げられていて、歩行者も自転車も跨いで通っている。散歩中の年配者は、漁師さんのようななまりで「昨日の昼、台風のあおりだ」と教えてくれた。27号ははるか東方を過ぎたが、そのうねりはここまで及んだと、当たり前のような口調だった。今年一番の秋晴れだったのに。 ■10/7 小鳥たちには普遍的な力がある 雑木林の小屋に鳥のスペースを創ろうと思い立ってから、いろいろと思案する間に、これはひとつの「世界」ではないだろうかと思うに至った。ちょうど昨日の「日々迷想」を書いた後、森林公園に出向いたのだが、大きな池の周りでも老若男女が鴨たちにエサをやったりして和んでいる。その風景は独特の癒しにも見える。そうしたついでに20年前に、まだ手載せができたころの画像を探してみると、わたしのドキドキや案内した人たちの感動の声を思い出した。画像は2007年12月のもの。やはりそこには現実からすこし離れた独特の「世界」があるように思う。 ■10/6 75歳からの挑戦 ![]() 今年から小鳥を手載せする「禁じられた遊び」に取り組んでみようと思う。薪の自賄いの目標年次の80歳までに何とかこぎつけたい。半世紀前は市内で手載せができる場があり、来苫のネーチャー派の客人のおもてなしのコースにしていた。自宅の餌台は事情で継続できず、代替の手載せ実現は断念した。そこではたと思い付いたのが雑木林の小屋の前だった。雑木林だより136にも書いたが、「この世の中で最も美しくもっとも心優しいものは野鳥たちである」。この原点に、素直にかつ忠実に戻ってみたい。写真奥は止まり木兼人工の藪、コシアブラ製。 ■10/5 攻める養生 ~片足立ちの改善を通じて~ 歩行がふらついておかしい理由の一つとして、そもそも片足立ちができなくなっていることに気付いた。特に左がほぼできないのだが、左足が外反母趾であることに一因がある。山仕事で根っこに躓きボキッと音がした20年以上前の靭帯損傷の後遺症だった。ネットのアドバイスによれば重心移動の動きをマスターすればよくなるというご託宣が耳に入ったので、このひと月、朝ヨガでストレッチをした後に重心移動を1,2分し、それを毎日数回続けていたのである。そうしたら、あら不思議、左足でも数秒間かそれ以上片足立ちができるようになった。足裏の筋肉が動き感覚がすこし戻りつつあるのもわかる。ついでに言えば、右の足先だけグーチョキパーができなかったのだが、この2,3年毎朝のストレッチ時に欠かさず動かしているうちに、左右とも同時に脳の命令が届いて動くようになった。 身体全体のことを言えば、70歳で股関節を手術で人工物にする前後から、痛む周辺をいたわりすぎて次第に体幹が衰えた実感があるので、まずできるだけ歩くことから始め、今夏からはジムで簡単なトレーニングを開始した。少し痛める程度の訓練をしないと体はなまる、という以前からの後悔と反省からである。かつて坐骨神経痛で朝に立ち上がれない日々を経験をしたときは、しびれる神経を指で見つけ揉んだためにかえって炎症を起こしたことがあったが、それを契機に改善したという成功体験も忘れられない。医学的には瞑(めん)眩反応というのだと医者に教えられた。 以来、攻めてみる、というのが癖になりつつある。固まって曲がらないなら曲げてみる、歩きたくないなら無理して歩いてみる。生半可な知識で思い込む癖は相変わらず治らないが、そもそも主治医は自分でしかあり得ない。次々とやってくる不調や不具合は、自分と対話しながら養生して行くしかない。 この頃は深夜におなかが膨らんで眠れない日が3週間近く続いたが、2年前診断を受けた逆流性胃腸炎が食べすぎが原因だったように、食事の量は減った今はさらに胃の消化能力が落ちて、消化しきれない食物が腸に入るためと推察された。これを腸内細菌がしきりに分解する結果、膨満感が生まれるらしい。このような食べすぎは食事中に満腹感が起こらないことに起因するようだが、これは脳軟化症の症状なんだとか。なんだかまた恐ろしい症状になってきた。 ■10/4 江藤淳氏の身辺雑話 『閉ざされた言語空間』から氏のエッセイ『西御門雑記』に飛んだ。読み応えのある評論、歴史感で緊張感を味わったあとに、氏の人となりが伝わる箸休め的な本だった。といっても日本社会と自らの仕事への堅固な視座はある程度維持したままだが、居住する地域社会への批評家らしい視線が心地よかった。 定期刊行物に掲載された原稿だから、たくさんの読者のうちの誰かが間違いなく読む。評判も良くさらに継続を促されて、そのために日ごろ気づいたことを記憶して書き記しておく。身辺雑話と割り切った記事の収集の楽しみも伺われる。どこか当方の拙文にも似たところもあると言えば傲慢に過ぎるが、こちらは読まれるあてなど特になく、もとより社会への発信の意図もない、個人的な読書メモ代わりの雑記に過ぎない。しかもそれに満足している。 ただ、氏の雑記を読みながら、書き留めておく身辺雑話というのは、実はそれだけでも愉しいものであることは確かのように思えた。人によっては時に共有され普遍的な書くカタルシス、表出する快感というものも内在するような気がする。 ■10/3 薪ストーブの初焚き ![]() 小屋のベランダは16℃、室温は8℃だった。恐らく外気は5℃以下に下がったのではないか。ホオノキやハリギリなど大きめの葉はすでに茶色に色を変えてフットパスに敷き詰められていて、ツタウルシだけは真っ赤に紅葉し始めた。いよいよ、秋本番だ。雁の渡り、キノコ、そしてやがては雪虫。毎年同じことが繰り返されるが、人はその微妙な違いを口にしながら気持ちをだんだんと冬モードに切り替えていく。 ■10/2 小鳥の本読み、3冊同時進行 この世の中で最も美しく最もこころ優しいものは野鳥たちである…。中西悟道著『定本 野鳥記 全8巻』の紹介センテンスである。この秋から、雑木林の小屋で野鳥の手載せを試みるにあたって、あらためて決意を確かめるために手元に置いて読み始めた一冊だ。確か小学校6年の時、全巻を読んで野鳥の世界に目覚めたような気がする。それも生態学風でも生物学風でもなく小鳥の声を聴き分けたり手に載せるというごくごく単純な小鳥への願望であった。 鳥も豊富な田舎生まれだったから、純粋に野鳥に惹かれ、やがて野鳥の会にも入会したが、支部はそのころすでに開発反対の自然保護運動の団体に変貌しており、肌感覚がどうも合わない。例会には出ないで会誌を読むだけの会員を数年つづけたことがあった。日本の野鳥の生態、研究、随筆などをまとめた『全集 日本野鳥記』全12巻の1冊目も図書館で借りた。そこへ家人が持っていた沢野ひとし著『鳥のいる空』も併せて読み始めてみた。これがいずれも面白い。どれか一冊と絞らず、このまま3冊ずるずると行くことにした。 心のどこかで、2026年秋からの野鳥手載せの試みを何者かが応援してくれているような予感がする。しかし、雑木林が単純なほうが再生林であるためか、野鳥の種類や頭数が特に多いわけではないので、旧演習林のように簡単ではないことを覚悟しなければならない。中西翁のごとく、静かに工夫しながら、長年の野鳥への思いを糧に励むこととしたい。 ■10/1 煙の存在感 ひとりの静かな雑木林の時間にひときわ存在感のあるのが「焚火の煙」。大げさに言えば、これがあればちっとも寂しくはない。いや、いつも寂しくはないのだから「ちょっとだけ心強い」というところか。沢登りでの沢の中やキャンプでの焚火も格別だが、何でもない、枝を焚くだけのシンプル焚火も捨てがたい。焚火という林の掃除である。 ■9/30 クロホウジャク、見参 ![]() 9/29 の昼前、近所の年配の奥さんと花談義をしていたら、もう花の季節は終わりというこの時に、ここ7,8年来訪を待ち望んでいたハチドリのような昆虫「クロホウジャク」がインパチェンスに飛んできた。だが、かつて庭にもっと花が多かった若い時期に、盛夏にはしばしば訪れていたものより小ぶりである。ヒメクロホウジャクかと後でわかった。 それにしてももう9月も終わりで、間もなく花弁は散り始める。奥さんとも「あと2週間で庭の花も終わりますね」、などとちょうど話していたばかりだった。しかしなにより、忘れず来てくれたことがうれしい。ふたりでしばし見とれてしまった。ご近所が静かに花談義をしてくれるのも有り難い風景に違いない。 (飛来した時スマホを持ちあわせず、画像はネットから拝借。シャコのようなしっぽが印象的だった) |