晴林雨読願望
take /草苅 健のホームページ

 



勇払原野のコナラ主体の雑木林。ここは中下層をウシコロシの黄色が占めている

一燈照隅
雑木林だより

 新里山からの日常発信

地域活動15年の歩みとこれから

 勇払原野の風土を共有する

  

●コンテンツ一覧
●日々の迷想 2023 & 2024 & 2025
2021
first upload: Nov. 29 , 1998
last upload: Dec 05,
2025

日々の迷想

■12/05 歌に見る庶民の共感 42

風の道ここよと庭の落ち葉かな   福島市・Tさん
…上手な観察だなあ、と称賛の声がでそう。確かにこんな風景に会う。これを歌う方の透明な心まで想像した。落ち葉の季節が終わって、これからは粉雪が道しるべかも。

詠めばまた自虐の句なりうそ寒し   栃木県・Aさん
…何か、悔いることでもあっての自虐か。消しても消しても思いが湧いてしまうこともある。もうコントロールができない。でもこう謳ってしまってやっと忘却か。表出するカタルシス。

一日を空っぽにして鷹見あぐ   水戸市・Kさん
…なかなか空っぽにできないものです。よし、今日は鷹の観察だあ、と室蘭のマスイチ展望台で鷹を見に行ったことを思い出した。しかし、小屋の鳥見でも空っぽになるような気がする。要は見ることに集中か?

世界中旅した果ての松手入れ   伊賀市・Fさん
…世界を見てきたけれど、天職はこれだなと松の剪定に励む。雄大な経験の「果て」、行きつくというのは幸せだ。あとは一心不乱に打ち込める。この心境はいい。「都会生活したあとに」田舎に帰る、というのもあり。

わずかなる嬉しきことの今日ありて瓶ビール買う帰りの途で   仙台市・Tさん
…ワインだったり美味しい日本酒だったり、おいしい焼き鳥だったり。そんなことってある。この場合は、いつもの缶ビールでなく瓶にしたのがミソか。たしかに瓶はおいしいが、コンビニでは見かけないような。

歯、目、耳とそれぞれ部品とりかえてどの位持つかこの本体が   下野市・Kさん
…年配者特有の事情なり。しかし心臓まで取り換えるなんてのは、ルール違反ということになる。ひとつずつポンコツになって、脳細胞も劣化して。こうして本体の実情を客観視できれば、きっと静かに往生できるのではないか。

ガラス戸をすすんではとまる雨滴なり停戦のあとの空爆を知る   生駒市・Tさん
…パレスチナもウクライナも終わりが見えない。止まったかに見えてまた動き出すから、フォローする側もニュースをスルーしそうになるのである。それにしても内乱やテロや暴力沙汰は終わりがない。人類とは困ったもの。

湯舟とは温もりそして泣く場所と知りたる孫のこのごろ長湯   鴨川市・Hさん
…なんとも可愛そうで、可愛くて、どうしたの、と今にも声をかけそうな描写。作者はきっといい頃合いに声をかけるのだろう、遠くから見守って。お孫さんも自分でしか解決できないから、と涙を見せないのだ。

民のため民が作った民藝を分厚いガラス越しに見る民   大野城市・Nさん
…わたしも柳宗悦氏の民藝にめざめ、神宮外苑そばの日本民藝館を訪れたことがあった。庶民の生活に根ざした手づくりの数々、たしかに宝物のように見えた。ただ民藝の北限は青森。蝦夷地は民藝が生れる前に近代の文化がドドーっと入り込んだせいか。

■12/04 長文、長口舌の戒め

どうもこの頃の文章が長い。言い訳がましい。しゃべりも長い、と思う時がある。そんな持ち時間への無頓着はボケの兆候である。要領よく手短に表現するのは容易ではないが、気を付けよう。

■12/03 根返りの処理記念



根返り木は根がついているから、倒れて掛かり木になっても生きている。フットパスを歩く都度それをみていながら数年先送りして放置してきた。それを2025年秋についに意を決して伐倒、整理を始めた。この11月から仕事の合間合間に付近の掛かり木、枯死木も一緒に片づけて来たから、林道の両側に目立つ掛かり木は保安林とカラマツをのぞいてなくなった。雑木林修景は、目配り、手配り、気配りだが、少なからず危険で手のかかる根返りの伐倒処理は、小さなイベントだ。その切り株には今年自分のサインをすることにした。

■12/02 マタタビ酒(40年熟成)



床下収納庫を片づけていた家人が、「これ、捨てていいの~?」と大声で聞くので見てみると、約40年前に仕込んだマタタビ酒だった。錦大沼産である。大切に部屋に持ち込んでなめてみたが、しっかりとした酒の風味があり、やや薬用酒っぽくなっている。いつものビールやワイン、日本酒とは美味しさの尺度が違う。マタタビ酒の効能は、疲労回復、滋養強壮、冷え性、腰痛、精神安定、などに良いと言われており、薬膳酒扱い。エッセイストの小川糸さんは白ワインとブレンドしているとか。使い道を思案している間にまた10年ほどが経ちそうだ。

■12/01の① 女性というジェンダーとソーシャルキャピタル

先月の末、当ホームページは27周年を迎えた。開設当初は、マイクロソフトの word に含まれている機能を使って、時には慣れない html という言語を交えながら、 I T 音痴にもかかわらず恐る恐る始めたものだった。もう随分遠い昔の話のように感じる。

昨日、そのホームぺージの「日々の迷想」のアーカイブのページで、10/11~10/25 の分が抜けていることに気づいた。文章を切り張りし移動したり編集したりしている間に消えてしまったのである。そんなミスが時々あるのをいつもだましながらやっているが、その中に、女性というジェンダーがもっている宝のようなもの、おしゃべりの中に玉石混交のように含まれている社会に貢献する「つながり」を産む言葉、それから地域力を下支えする情報ネットワークのようなものについて、ややリキを込めて書いたことを思い出した。しかしそれをどうしても再現することが出来ない。

それはSNSの研究で道北の女性らとのやり取りで学んだことや、先日の松江で知った循環バスの女性ガイドのアドリブ説明における語りかけの意味、さらに数年前に奄美群島を旅した際の各島の素晴らしい3名の女性ガイドのことどであった。地域に真正面にコミットし続ける様子にこちらが大いに励まされ、こころのなかでエールを送りながら少し胸を熱くしたことなど、忘れられない体験になっていたからである。それらはとても地味であるけれども、地域力とか社会関係資本(ソーシャルキャピタル)と称されるジャンルにあると思われた。

今般の女性総理誕生やその周辺で強力なブレーンを務める女性らの存在も、同じ地平にありその敷衍したかたちというべきか、あるいは女性というジェンダー特質の当然の帰結現象として表れてきているように見える。いつかこれらと結び付けてもう一度考えてみたいと思っていた。

しかし今、こうして思い出して書いていても、約ひと月以上前のホカホカの感想とはどうしても似てにつかない。勢いや熱がなく到底再現できない。だから、最もホットな感性のうちに日々書きとどめておく、という意味はわたしにはどうしても必要なようだ。軽度の認知症なのか、どんどん忘れるのだ。したがって何かを整理して考えるときにホットなうちのメモが不可欠になっている。

●12/1 の② ホームぺージ考、追記

(ついでにホームページについて特に記録しておくと…。)

同時にホームぺージの周回を振り返りつつ、消えてしまった何日分かのわずかなメモを惜しんで、大袈裟に喪失感を感じている自分が歳相応で、しかもちょっと可笑しい。ホームぺージの意味は変遷をして、まさにホームページと呼ぶにふさわしい記憶の保存箱のような役割をするようになったのである。特にこれまでの「地域活動15年」と冠したページには、それ以前も含めた勇払原野の「林遍歴」をレポートや報道記録を含めてストックしているので、自宅キャビネットのようであり、自分にとって大きな安心となっている。

さらに「雑木林&庭づくり研究室」というホームぺージの27年は、ローカルな風土にどっぷりと漬かり、狭い領域に入り浸ったからこそ見える世界を、稚拙なタッチであれとにかく文字化してきた。その画像と文字記録が誰にとって有用かと言えば、他でもない自分であった。ホームページは老いていく作者を無言で支える個人秘書、あるいは自らは語らないいわば口の重たいA I のように働くことを知った。

■11/30  『パレオマニア』、池澤夏樹

この作家の言葉選びにほれぼれするときが多い。表現に輝きと天才的自由さがある。この本(2004年、集英社)は大英博物館を足掛かりに、世界各地の博物館や遺跡を巡るのだが、博覧強記ぶりに目を見張るとともに、世界の地理と歴史をつないでしまうスケール感が心地よい。しかものっけから箴言のようなフレーズを目にする。

「…(あれから5000年が経ったが…)でも人の精神の基本形は変わっていない。現に自分はシュメールの美術を見て、美しいと思えたわけだから。こういうものを作った奴は随分得意だっただろうし、それはつまりその時そいつが幸福だったということだ。王様が褒めてくれたとか、自分の評判が上がったとか、そういう俗な理由からではなく、美しいものを作った、自分が満足するものを作ったというだけで幸福。」
「大事なのは幸福であることだ。大事なのはよく生きることだ。現代の社会は長く生きることは保証してくれるが、しかし中身は空っぽじゃないか。不幸の元を退治すれば人は幸福になると単純に信じている。生きることへの積極性がまるでない。…」

弥生人は来なかった、文化だけが伝わった。(アイルランド、ウェールズ、スコットランドには)ケルト人などいなかった、われわれは強いケルト人の子孫だ、という必要があった、…などと目からうろこの新説、仮説、自説が転がっていて、こちらの未熟な歴史眼を刺激してくれる。読書とは得難い、うれしいものだとしみじみ思うのである。

■11/29 小春日和



それにしても、と思う。林には小屋番と並行した山仕事をするために来るのだが、わたしは「居る」だけでも十分だし、かつては冥想用だったテラスにボンヤリ座っているだけで心は満たされる。風景を創る、というミッションの意義深さに促されて少しだけ仕事を動かすが、作業よりやはり「居る」ことそのものの方が意味が大きい。自分にとって、毎年同じ風景がめぐるここが、心身をリフレッシュするリゾートなのだった。

生気がよみがえるような気がするのは、きっと胸が膨らむからだろう。胸いっぱいに雑木林の空気を吸い込むのだから、今はほぼ誰も口にしなくなったマイナスイオンが満ちていればそのおかげも見逃せないだろう。そうしてきっと元気になって家路につくことになる。雑木林に居て、あるいは山仕事をしたその日は、「夕餉のお酒がとりわけおいしい」。これはまた稿を改めて。

■11/28 カササギの飛来で

今月の初め、米大リーグのワールドシリーズ決勝戦9回のギリギリのときだった。家人と二人息を殺して画面を見つめているとき、出窓の前にあるオンコのてっぺんにカカサギが飛んできて止まった。わたしは瞬間的に「勝った~」と叫んでいた。カカサギは戦いの縁起物で「勝ち鳥」とされていると聞いていたからだ。そして結果は、なんと叫んだ2,3秒後、相手打者は内野ゴロを打ち(詳細は忘れた)ダブルプレーか何かで、ドジャーズが決戦を勝利したのだった。

このごろなにか、勘のようなものがあたることがある。基本、幸運に恵まれているように思う。いや思うことにしている。ひらめくというか、祈りが伝わるというのか。祈って流れが変わるものなら、諸々についてもっと祈っていたいとも思うのだが、なんなのだろう。言霊というものもある。志し発した方向にしか進まない、だからまず志せ、という。

こんなこともあった。令和7年正月2日の夜中、隣が火事になってわが家に消火活動の水がかかる夢を見たのだが、なんと夜が明けた朝7時ころに火災報知器の音が聞こえ、出てみると裏のアパートの老女の部屋から煙が出て火事騒ぎになったのである。すんでのところで住人は消防士に運び出されたのだが、水をかぶった部屋は2か月近く、リフォームの業者が出入りしていた。


11/27 歴史の裏側に横たわるもの

井沢元彦著『怨霊の日本史』を読んだ。けっして教科書に堂々と乗るような説や文脈ではないが、歴史学者や学会に認められたストーリだけでは読み切れない裏を、想像を働かせて書かれているので、こちらもその気で向き合ったためか気楽に読み進めた。

思えば、『源氏物語』やその時代のものには怨霊やそれを払う加持祈祷が頻繁に出てきて、それが当時のスーパーテクノロジーだったことがなんとなくわかる。陰陽師らは近年の阪神淡路大震災の断層と神社の建立位置との照合などで地磁気の感性で説明されていたのを、わたしは科学の匂いがあると思っていた。未だ科学されていないだけだ。

「怨霊」に焦点を当てたこの本は、恨みが祟りとなってその後の流れを左右した例がいくつか取り上げられ、大国主の尊と出雲大社から始まる。菅原道真、後鳥羽上皇など、皇統にまつわるものがメインだが、「ばけばけ」のラフカディオ・ハーンの怪談物も庶民版の怨霊説だろうと思う。日本人に限られるのかはわからないが、人の持つエネルギーの第一はねたみ、うらみだ、と聞いたが人間の本質を考えさせられる。


■11/26 山仕事の危険



裏ページにあたる「雑木林だより132」にはこのところ、大きな2,3本の根返り木処理の顛末と盗難事件を書いている。雑木林とか里山といえば、のどかで好々爺がのんびり枝拾いなどをしている図が似つかわしいが、整った風景を維持するためには実際は逃げられない仕事もままある。ひとりならではの不安や、他人に迷惑をかけられないという緊張もあるので、内心はいろいろな思いが交錯する。そんなこころの襞を見つめるというのも得難い体験というべきかもしれない。



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