晴林雨読願望
take /草苅 健のホームページ

 


勇払原野のコナラ主体の雑木林。ここは中下層をウシコロシの黄色が占めている

一燈照隅
雑木林だより

 新里山からの日常発信

地域活動15年の歩みとこれから

 勇払原野の風土を共有する

  

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●日々の迷想 2023 & 2024 & 2025
2021
first upload: Nov. 29 , 1998
last upload: Aug 23 ,
2025

日々の迷想

■8/23 木彫りの看板製作



今年、静川の小屋(雑木林センター)の残る仕事は、エントランスの看板と煙突掃除、それと最後の刈り払い。看板は今日、本格的にノミを使って彫り始めた。借り物の9本のノミのうち使えるのは2本、あとは娘の小学校時代の彫刻刀、それと今回買い増しした小さな丸ノミ。素材は、椅子に使っていた4mほどのカラマツ板材。11時から3時まで、休みなくノミ仕事に熱中した。彫りにあと2日、塗りと丸太への取付など完成まで3,4日は掛かりそうだが、こういう手仕事は頭が空っぽになるかといえば、そうでもなく、ガラクタのような想念がめぐることが多い。客観視すれば、結構つまらないことに不平不満を持ったり思い悩んでいたりする。

■8/22 去るものは日々に疎し

心に響く格言は多く、歳とともにその重みは変わる。言葉の重みはさすがである。近年、「去るものは日々に疎し」というありふれたフレーズにうなずくことが多い。70歳を越えれば、もうさよならが先行するのは当然だが、縁というものが薄くなった方々とはひとえに遠くなるばかりで、それもやむなしの気持ちになる。自然だと納得するから後悔もない。反面、価値観や考え方を分かち合うという僅かな方々が残る。無理がない自然体。歳をとるというのもいいものである、と思えるもの悲しさがこもる小さな悟り。

■8/21 オクラを焼く



オクラは焼いて食べるのが一番、というレシピを見たのでやってみた。ん~、ネバネバを消した新しい食感である。見た目もよろしい。酒を欲しくなる見栄えだ。

この夏は、お隣からキュウリを良くもらう。居間のガラス戸をご主人か奥さんがトントンと叩いてくれるのである。生きが良くて生でいただくのに一番。時々太くなりすぎるのが難点だが、葉っぱの陰で見落とすのだという。

Nさんからは昨日、無農薬の新玉ねぎ、ピーマン、ニンニク、ゴウヤ、トマトのアイコをいただいた。冷凍だがイカも生きのいいものを安く手に入るし生のサンマは一匹200円以下で手に入るようになった。こんな折、地物野菜のとれたての季節感はなにより一番だ。

■8/20 猛暑の中の変化

お盆を過ぎてなお猛暑は終わる気配がない。例年なら、雑木林にそろそろ蚊が出始める頃で、9月になれば赤とんぼが飛んできてたくさん蚊を食べてくれ、などと願ったものだ。ただ、ドロノキの葉が落ち始め、ハルニレの街路樹が少し黄ばんできた。原野の道ばたにはススキが見え始めた。確かな秋のサインである。

この、ほんの少しずつの身の回りの変化が、大雨ごとに大きく急展開する。その大雨がふたつきた。この微妙な変わりように注意を払って秋を待つ。季節変化の観察というのは齢を重ねることとシンクロして気持ちを休める。ひとりの人間が大きな流れの中にあるという自覚が自然の中のリズムと足並みをあわせるからだろうか。

■8/19 放談

夕方、Hさんの店に買い物がてら、ソファに座りいつものように放談になる。情報通のHさんにあわせ、こちらも政治、行政に対してやや正論めかした批評と犬の遠吠えのような言葉をもろもろ動員して溜飲を下げる。卑近なヒグマ対応から、首相の座のしがみつき、帰化人政治家、K参議院議員の熾烈な発言の応援など話のネタに事欠かないが、日本のかじ取りを巡る憂国の思いともただの雑言ともつかない、正真正銘、オヤジの雑談である。

科学的なネット情報にも詳しいHさんは、先日のカムチャッカ地震でもっとも被害を被ったのは、震源地に近いロシアの原子力潜水艦の停泊地(湾)だったと、衛星画像を写して自説を展開した。ほぼ100%ネットから得た情報を、自分のメガネに合わせぶつけ合うこういうやり取りは、間違いもあり新発見もありだが、ホットで極めて今風である。巷の時事放談、まさに片田舎のジジホーダンであるが、意外に真実がこもっているように思う。

■8/18 SNSの功罪

もう20年も前になるだろうか。多くに使われていた電子メールにウイルスが付着させられ、こんなことならメールは使い物にならない、やめようという人も出ていた。ややして、色々なSNS、たとえばmixi などが登場し、わたしは「どっとねっと」という地域SNSを立ち上げ10年間、管理人になった。過疎化する北海道の地域で課題解決のネットワーク化が出来ないかという地域活性化策の社会実験であった。結果は、善意のコミュニティは創れることや地域の役に立てることもわかって将来が少し見えた。ただ背後には人間の性(さが)にもとづくいくつかの難問、課題があることもわかった。

今日のSNSの現状は、その懸念された課題の悪い部分が特に肥大化して、匿名の誹謗中傷、嘘の情報、バランスを欠いた意見の記述などは普通になった。スルーすればよいわけだが、それも面倒になって削除や逃避も必要手段に変わって来た。近年は、高齢者に向けた詐欺やフィッシングなどで金銭をだまし取る詐欺が国際化して、個人が賢くなるほか自衛手段がなくなった。

ここで判明しつつある重大な事実は、人間性悪説だ。善意で営まれる日本の市民の、ガードの甘さ、人の好さに付け込んだ詐欺である。騙される方が悪い、これは隣国などでは常識とされる世渡り術らしいが、日本でも蔓延している。。絶えず押し寄せる悪意の波を日々かいくぐらねばならないというのは、かなり面倒ではある。しかし、上手に使えたらそれに越したことはない。もう日常に不可欠のツールになったからだ。このジレンマはさていつまで続くのか。

■8/17 森づくりに集う人たち



隣町で環境保全林の保育修景に取り組むという。その参考に苫東方式の森づくりのレクを受けたいと、朝8時半に小屋に集合して、ガイダンスののち質疑と意見交換をした。10時過ぎ、育林コンペ、大島山林の作業地を巡って、町の予定地に。実地を積んできた若いメンバーが一定の問題意識を持って志向する森づくりを語るのは、楽しくこちらもいろいろためになる。そしてこれは希望の種を含んでいる。

■8/16 分離帯や緑道などの雑草の刈り払いはやめたのか

生活空間にある公共施設分、たとえば道路の中央分離帯歩、道のヘリ、緑道のインターロッキングなどは8月のお盆過ぎになっても草ボーボーだ。道庁や市など公共が雑草を刈るのをやめたとしか思えない。できれば美しい、せめて見苦しくないマチに住みたいのだが、雑草を押さえるのはその第一歩、最低限の維持管理であろうに。

一方、個人の庭は管理された公共空間とジグソーパズルのピースの如く、受け皿と組み合わさって快適なマチが出来上がるのに、すでにスタートが崩れている気がする。それでなくても町内は人の住まなくなった空き家が増え、かつての庭にススキやヨモギが生えているところも珍しくないのだ。世間は初期の建設、創るのには熱心でも、放置すれば廃屋となり高齢化すればその後の維持には手が回らない。

これは生活空間のインフラが、公共から与えられたのか、自らの意思で街づくりに参画してきたのか、そもそも論に遡る。事実ラドバーンの街区の庭がきれいなガーデナーのいるエリアではおそらくその篤志家の声掛けだと思われる草取りや緑化が出来ていて、そこだけが別天地であった。残念なことにわたしの家のそばに緑道などはないので歩道の縁石の草抜き程度になるが、どうももどかしいところだ。こういう時、そもそも土地は誰のものなのか、という問いかけをしてみると面白い。利己から利他へ、という動きでもいい、もう少し自由な発想が生れボランティア的に美化に向かえる人も出よう。

というのは、快適なマチに住みたい、きれいな身近な林に出かけたい、こんな動機がわたしたちには今、きわめて薄いとしか思えない。醜いものに慣れてしまうのは人の性(さが)。おそらくこの環境に慣れてしまい、もっと快適なマチに住みたいという願望を持っていたことすら忘れてしまうのである。この感性を鈍麻させないために、写真でも映像でもいい、実物ならもっといい、洗練されたものを見ておきたい。そうしてあずましさの感性を日頃から磨いておきたいものだがこれが意外とむずかしい。自分で動け、働きかけよ、とならば、さらにずっと難問だ。

■8/15 明治とつながる初体験、『みみずのたわごと』など

陸別で開拓に取り組んでいた関寛斎翁(当時78歳)が武蔵野の徳冨蘆花宅を尋ね、「無人境はなくなるから遊びに来い」と誘ったのは明治41年、これに応え蘆花が妻子と陸別に出かけたのが明治43年、翁は80歳、蘆花42歳だった。明治という時代がどれほど遠いのか近いのかピンとこなかったが、ここで一変した。わたしの父親が確か明治43年か44年の生まれだったのである。

陸別の資料館で『関寛斎』という冊子を買い込んで年譜を読み、それと並行して徳冨蘆花の『みみずのたわごと』(著者名は健次郎)の「過去帖」にある寛斎翁という見出しの記述30p余りを読んだ。国木田独歩の『空知川のほとり』と同様、文豪と称される人の紀行文はさすが胸躍る。開拓が始まって程ないころの北海道の自然や集落、そして暮らしが、彷彿とし読者の感情をかき立てる。自然や人を描くのに、今なら画像や動画というところだが、活字の描写のなんと意味発信性がなんと高いことか。画像ならどう感じるか見る側に自由があるが、言葉は調理を経てストンと心(肚)に収まってしまうのである。

また陸別の翁の開拓地・斗満(とまむ)では翁は蘆花の妻子などを引き連れ10里近い道のりを歩いた。そして道すがら山また山が重なる秋の朝日の風景を愛で、ふたりは「恍惚として見入った」とある。「うき事にひさしく耐うる人あらば、共に眺めんキトウスの月」と翁は謳った。自然と助けあいながら生きる人ならではの述懐か。

■8/14 近くのラドバーンにて



ラドバーンの続編。理想的なまちづくりを追うのは文明の証。ニュージーランドのクライストチャーチで初めてラドバーンの街並みをみて、理想の実現に向かう人類のエネルギーを感じた。英国のレッチワースでも実験都市と称する挑戦を肌で感じた。北海道では江別の大麻団地とここ苫小牧のしらかば町で歩車分離に主眼をおいたラドバーンの住宅地開発がなされた(写真)。広場の花壇には恐らく住民が花を植え、歩道との境界はかつて細長い家庭菜園が手入れされていたが、公共用地の私的利用にあたるとかで残念ながら禁止されたようだ。

奥は3ヘクタールほどの近隣公園がある。テニスコートなどのほか樹林地にはフットパスとパークゴルフの施設が備えられている。似て非なるもの、というのは簡単だが、彼我の都市計画制度の違いがあるから、住みやすいまちづくりの実験例が聞こえなくなったことの方が心配だ。なにせ、昨今は新設より取り壊しの方が多いのだ。

■8/13 30度の林を歩く



夏はまだまだ続く。雑木林センターは30℃、丸太小屋の室内が26℃だった。昼過ぎ、大鎌と枝拾いの杖をもってフットパスに入る。6月末の刈り払いが功を奏して、あらためて刈る必要がない。お盆を過ぎれば草は伸びないのが常だからもう放置してもいいようだ。この陽ざしの強さに、例年、草は萌え控えるのがありがたい。。

■8/10  『出ふるさと記』(池内紀著)を読む

故郷とはなんだったのか。友人、知己、縁者、世話になった人が多かった割に明るい甘い思い出はあまりない。そんな故郷を脱出して来た身には、池内紀著のこの本は、帯にある「ひとはみな、「ふるさと」を出てその人になる」というセンテンスに立ち止まる。選ばれた12人は文人ゆえか破天荒な生き方をしたと一般に見られている人。私生児、漂流物、引揚者、記録係、笑い虫、逃走、彷徨、家出、うろつき、などと、描いた文人ひとりひとりに修飾の冠がつく。「世捨て」は最終章・深沢七郎につけられた。

健康のため毎日小時間だけ弦を引く自分には、深沢のギター弾きの系譜が特に面白かった。中学生の時に深沢が2階で弾いていると、通りの軒下に人々がたたずんで聞いていた、という。25歳での新進ギタリストデビューのプログラムもみた。アルベニスのグラナダやタレルガなどを含む演奏会用の組み立てで、プロを志していたことを了解する。

これらのことをぜ~んぶひっくるめて、故郷、ふるさととは、巣であり、ゆりかごであり、一方では逃げ出す本拠地…。それでいいんだな、結局、甘えて振り出しに戻るような、ふるさととはそんな場だ。ただし戻るのはこころの思い出だけで、生身の身体はどこか遠くの遠隔地にあるもの、かもしれない。悲喜こもごも、そして時に凄惨な「出ふるさと」のエピソードは、それが人の人生、それでいいんだよという肯定的な響きもあった。

■8/9 広島、長崎、そして終戦記念日へ



歴史の本を読むようになって以降、上京する際には早朝などの時間を選んで靖国神社の参拝をするようになった。驚いたことは、色々な経過をくぐって日本では決してメジャーとは言えないとは思っていた当神社に、かくも大勢の日本人が日々朝昼晩問わず訪れていることだった。日本人の本当の姿を見たような新鮮さも感じた。日本人の真心はここにある…、これは大きな感動だった。大人だけでなく、小学生低学年の子供たちすら鳥居に向かって丁寧にお辞儀して通学するのである。近年なら、明らかに外国人と思しき人の割合がグンと多くなった。

境内では、東京裁判で唯一日本を弁護する正論を述べたインドのパール博士の碑と、太平洋戦争の歴史を紹介する記念館には必ず行くことにしている。記念館にはいつも新しい発見がある。広島と長崎の原爆のメモリアルな施設も、少なくとももう一、二度は訪問し、慰霊したいと思っている。

今日の早朝には、月刊「正論」の「私の戦後80年談話」特集に続いて元空将の織田邦男氏の寄稿を読んだ。メディアが火をつけた中韓との歴史戦の経緯についても言及していた。中韓にとっては、これを使えば日本に謝らせる外交カードになるとわかってしまった。そして歴史戦の偏向はこの日本のメディアがリードする。そのメディアを信じる日本国民のある部分はこのままリードされ続けるのか、この迷妄から脱するのは当面不可能なのか。

「国に準じた英霊に対し、国民が尊崇の念を表し、感謝し、平和を誓うのは世界の常識である。米国ではアーリントン墓地に、韓国ではソウル国立墓地に、フランスでは凱旋門の無名戦士の墓に、国家のリーダーが国民を代表して参拝する。…(しかし不幸にも=筆者補足)、日本だけが違う」 と氏は書く。適正に表出された安倍元首相の70年談話が、偏狭な自説に拘泥する現首相によって、歴史戦を仕掛ける他国が願うような形で上書きされることのないよう、見守っているところである。国会議員の開明、行動、メディアの扱い、勢力バランスやいかに。

■8/7 今日はもう立秋

もう秋が恋しいと思う頃8/6、やはり本州では記録的な最高気温41.8℃を記録した。立秋とはそのような時節だという。そんな季節感を味わいながら、Garden City レッチワースの画像を探してみた。9/17/2012とある。


小さな博物館の芝生にはもう落ち葉が目立ち、花々は黄昏てきていた。


歩車分離の街区形成と背中合わせの広い緑地・緑道はラドバーンの特徴だと思う。街区のとおりにあった博物館の裏手は写真のような緑地で舗装されたフットパスが縫っている。大木も灌木も手ごろに配されて、日本人が心地よく感じるキャンパスタイプの緑の空間が広がっていた。画像右側に博物館のある通りがあって、この緑地を挟んで対称をなすように同じような通りができている。つまり住宅の裏側が広い公園になっている。

■8/6 「田園とイギリス人」(小泉章夫著 NHK Books)を読む

イギリスといえば美しい田園とフットパスを歩いた記憶がよみがえる。この本は、風景、森、道、庭など興味のあるほとんどを英文学や数々の蘊蓄で繋いで回想を促してくれて、読後感がとてもよかった。忘れていたロビンフッドの逸話など、現在の溢れるような数多の情報よりはるかに脳と感性を刺激した。数日を過ごしたロンドンの西のブリストルがよく出てきたのも好印象だった。こんな風に旅をなぞることのできるエッセー風回想録はもうけものだ。

ちなみに北海道の身の回りの自然、特に森の在り方を考えるとき、イギリス人の自然観、歴史としばしば近代文明の先達として比較したものだが、とりわけ庶民の緑に対する希求が産業革命後の労働環境にきっかけがあったという歴史的事実は、現代人のストレスと考え併せてみるときに興味深い。わたし個人は日々が林や緑とともにあるようなものだが、多くの日本人は身の周りに緑などなくても生きていける、と考えているかもしれない。繁茂する日本の自然は決して快適ではないからだ。その点、英国の緑は、働く人々が歴史的に勝ち取ったという切実さがなにより日本と違う。なくては生きていけないというのである。

ハワードの設計した実験的な田園都市レッチ・ワース、そこでみたラドバーン方式の美しい住区整備、ウィンブルドンの広大なコモンやパーク、領主の森林がコモンズとして解放されたというロンドン郊外のエッピングフォレストなど、わたしたちが身近にほしい緑のモデルのような場所がふんだんにある英国、そしてその由緒が田園の歴史にあるので、都市と緑に関心のある人は英国の田園に一目おくのではないかと思う。この本はそのあたりの経緯を生活者と旅人の目線でやさしく紹介している。




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