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2025年、日々の迷想


■5/30 居場所を得る意味と光景



今年も5月の末になって小さな庭を飾る花の苗を植えた。わたしの花飾りは珍種やデザインを極めることなく、ただただ凡庸にモリモリにするだけである。その種の持っている本質を十分に発揮していくのをじっと見守るという楽しみである。不思議なもので、花屋さんでまとまった数量の苗を買って数日庭で慣らしてから、わたし流のレシピで用土と元肥と肥料を配合して水をやると、2日後には写真のような勢いを得た表情が見て取れる。まるで、これから数か月咲き誇ってみせるよ、という覚悟というのか居場所を得た安心のメッセージというのだろうか、その短い時間で表情を変える経過をしかと見逃さない。思えば、季節というのはこうしたサインの連続のことではないだろうか。

■5/28 歌にみる庶民の共感 33

ここのところニュースが庶民っぽいと思ったら、それは米(こめ)の話しだったから。インタビューされる庶民も選び抜かれた庶民っぽい答えをしている。ニュースは親族殺人、移民の暴力、SNSに喧伝される嘘情報、困った話は高齢者の詐欺被害。よくもまあ1000万円以上の大金をやすやすと盗られるものだ、といいながらこちらも偽メールに引っかかりそうになるから他人のことはいえない。しっかり頑張ろう、われら庶民連合!

◎天井の木目を見つつさまざまの思いは古(ふ)りぬ家もわが身も   竹原市 Oさん
…眠れない夜や風邪で寝込んだ日など、あかず眺めていた天井の模様。しみじみ自分とはだれか、ふと考える、そしてどこからか将来どうなるんだろうというちょっとした不安。と、今の部屋を見渡すと、壁や天井には情緒を刺激する模様などない。

◎履歴書を間違えぬよう書いている間違いだらけの人生なのに   熊本市・Nさん
…自分のことかと膝を打って改めて共感。人生、間違いだらけと突き放すと、しかし、やや開き直って落ち着ける。もう残り少ないはずなのに、あの時はこうすればよかった、と後悔をやめていない。ひとつ確かなことは、もう悔やんでも戻らないこと。そうは知っていても、折に触れ湧いてくる後悔。だから、自信をもって明朗な言葉で考えを述べる人をまぶしく感じる。

◎倒れぬよう幾度もたしかめ八尺の脚立に桃の花摘みをする   山梨市・Tさん
…目に浮かぶ光景と心配り。高齢になればもう脚立や梯子はご法度なのだが、雪下ろしや果樹の世話はそうもいかない。だから何度も確かめためらいつつ登るのである。わたしにも二回り近い歳の差のある兄から果樹が届いていた。脚立の光景を想像しながらお礼の電話をするのである。わたしも来週は脚立に乗って、オンコとレンギョウの刈込みが待っている。準備をして、自己責任だ。

◎毎日がフェイクニュースに漬かりいてだれも笑わぬエイプリルフール  宇部市・Kさん
…右と書けばだれかがすかさず左という。上と下、効果ありとなし、善と悪。身近なところではコロナワクチンは効果があったのかなかったのか、害はなかったのかあったのか、未だにはっきりしないが、思えばそんなことの繰り返しだ。オーソリティーは正解を出してほしい。が、一体どっちなのだという疑問の結論は、自分で出すしかないのはつらい。正解を聞いて信じるというわけにはいかないものか。

◎野の卓に老夫婦いて助六の輪ゴム外せば春静かなり   東京都・Aさん
…何と懐かしい田園風景、と想像したら東京の方だった。イメージされるのはおとぎ話のような光景である。助六寿司が効いている。野の卓の周りはタンポポが咲き桜の花びらが散っているのか。

■5/25 トキシラズ VS サクラマス

魚屋さんの店頭にトキシラズが出てきた。「世界のサーモンの中で最もおいしいのは苫小牧沖のトキシラズ」というグルメの評判をわたしはずっと信じており、最寄りの店頭に並べば、高すぎない限りシーズン中何度か食することにしている。実のところ、いつも苫小牧沖というわけにはいかず、時には釧路沖、昨日は様似産だった。家人が寄った店の人は、トキソラズとサクラマスを比べつつ、今日のものならサクラマスの方が脂が乗っているようだと言ったらしく、家人は食べ比べるべく切り身をひとつずつ買って夜は楽しいサケマスの宴と相成った。今回は身の柔らかいサクラマスの方が甘く味わい深いようだった。

■5/23 丸太運びを終える



小屋周りの徐間伐で里山的風景はこの30年足らずで着実に様相を変えた。しかも今年の新緑は一日ごと深みを増している。1年分の薪を確保するのにやはり1週間がかりという歩掛は妥当なような気がする。ひとりでたった1週間で冬の燃料が賄えるなら、驚異的でないか。今季は量が少し増えたために薪割りと薪運びに計2日を別に要したが、林からヤードへ丸太を運び出せばもう一段落である。晩秋から春先までの山仕事を、時間の無駄と見るか収穫とみるか。写真は今季最終便9往復目

■5/22 今年は普請の年か、人生の晩期はそもそもが普請か

なんとか身の周りをこぎれいに、安心で幸せな状況を創っておきたい…。こう思って手を打っているうちに、その行為を一言でいえば何なのかを考えた。メンテナンス、ケアという横文字が浮かんだが、先日の物置補修の作業を思い起こして「普請」なる言葉が落ち着きがいいように思える。おのれの身体も含め、身の周りも普請を要するものばかりである。昨日は静川の雑木林ケアセンターのベランダで防腐処理の段取りをした際に、基礎の丸太が何本も腐って揺れるのを発見した。屋根の雨覆いも腐っている。これは本格的な普請が必要だと、結構なまとまりのノルマ感覚が生れた。これもじっくり付き合わねばと思う。こうしてキーボードを打っているパソコンもOSもそろそろ入れ替えを待っている。

■5/20  病気自慢からボケ自慢

人生は70歳から、などとやせ我慢のような妄言をはいても、身体能力、理解力、判断力などは確実に落ちてきた。とくに基礎部分の認知能力は顕著で、これが聴力の衰えが大きく作用しているようだ。補聴器を付けるのが面倒になって、まあ聞こえないことは関知しないことにしよう、という無精をかこっていたら「これじゃあ、ボケる」と自分で警告のシグナルがともった。ドラマのつぶやきはもちろん、会話のキーワードを軽々と聞き漏らすから必死になって聞き耳を立てなければ世間からどんどん遠ざかるのである。

その点、アナウンサーの発声は素晴らしい。会話の語句の一言一言に音量の差がなく、すーっとすべての語句が明瞭に聞こえる。やはりプロだと関心するがこれを一般に求めるのは不可能だ。しかし確かに難聴からボケは始まる。正確に言えば難聴の「放置」から、だろう。70歳を過ぎる頃から、友人知人らと病気自慢を始めると話が長くなるようになったが、ボケも同様、大なり小なり高齢者に共通する症状だが、実は笑いごとですまない。笑ってとぼけてこらえているだけだ。老いとはそういうもの、悄然と受け入れよ、というが凡人は不安と安心、悲観と楽観を行ったり来たりし続ける。

■5/17 ハスカップ自生地探検隊



探鳥会の後、有志で出かけたハスカップ自生地は、乾燥化など驚くような現状だった。ホザキシモツケの繁茂に行く手を阻まれながら、これでは市民のハスカップ摘みも阻まれている、と想像された。かつては薮漕ぎを得意にした山男のわたしがウンザリする状態である。昨年は単身で薮の突破を期して進んだが敗退し、今年は多勢を頼んで踏査してみたが志半ばで戻ることになった。写真は、そんなヤブを突き抜けてたどり着いた、ちょっとなつかしいオアシスであった。

これまでいつも思ってきたのだが、こんな風に郷土の風土を代表するハスカップにたいして、実際に現場に足をおいて関心を寄せる「後見人」のような人びとは一体どれくらいいるのだろうか。いなくてもいいのか。わたしもかなりいい加減な付き合いしかしていないかもしれないが、風土と住民のあり方、あるべき方向というのは断言できるものがわたしにはない。従来の自然保護運動とは違うなにかであるべきだが、その具体像がわたしにはまだ見えていない。発信する組織のようなものがやはり必要なのか。

■5/15 断捨離とデスクの整頓



長い休暇の間に豊川町の実家の食器棚や洗面所などひととおり断捨離した長女の最後のターゲットはわたしのデスクとあいなった。ニレの集成材の厚い一枚板を特注して作ったシンプルな机だが、雑多なものが積み上がっていて、わたしにはとても便利で重宝なスペースだったが、家人や娘には不評だった。やったことはデスク整頓と言えるが実質的な気分は断捨離に近い。いわく運気があがるという前評判を作業を見、手伝っていて実感した。

わたしも断捨離のようなことをまったくしていない訳ではないのだが、重点的に本気でするのは限定的で、庭と里山の雑木林、それとたまに車、そして今年はようやく物置に着手したばかりだった。つまるところ、断捨離とは胸の膨らむ空間を創ることである。つまりイヤシロチである。身近な机、居間、庭、隣近所、家庭、コミュニティ、所属する組織やグループと対象は限りなく広がる。人間関係まで含めばその難しさがわかるというもの。したがって、近年のわたしはイヤシロチ創造が人それぞれの抱える人生の目的ではないか、とさえ考えるようになった。

■5/12 新緑のはじまりに



待ちに待った春の到来。目とこころの保養に、雑木林を歩く。3代にわたって手入れされた若い林(林道左)はなんとも清々しい。育林コンペのスタートエリアの1代めは平成9年から苫小牧のレクリエーション協会、2代目は12年からしばらくの間をわたし、3代目は25年からoyama さん。



家人と娘の3人で、大島山林でスドキ、静川小屋譜方面に移ってコシアブラ。2025年春の山菜ピークがついに来た。長い休暇を終えてビル街に戻る心境はわたしにはわからないが、今年は山菜採りと料理を楽しみ、薪仕事に打ち込んでくれ、家の断捨離を進めてくれた。ちょっと申訳ないほど手伝ってくれたので、わたしにも新鮮な2週間だった。


■5/9 自宅薪の搬入と薪積みという手仕事の意味



連休の晴れの日を利用して今年の薪の準備をほぼ完了した。単純な手仕事を安全に着実にこなしながら、頭を空っぽにする営みはいいなあ、とあらためて思う。娘や家人との語らいも増える。「晴林雨読」の実践でもあるから、晴れた日のいい光景だけが頭に残る。

■5/7 連休は薪づくり

今日は4月下旬から続く山仕事、薪づくりの骨休め。家人と娘が手伝ってくれるムードが自然に出来上がっているのはうれしいが、娘にはせっかくの連休を、父親の薪仕事に使ってしまい申し訳ないという気持ちもある。ただ、心のどこかにデスクワークや映像現場での仕事に従事する東京の日常では、結構なのリフレッシュにもなるはず、というわたしの勝手な思い込みと甘えもある。研究林での山アソビや山登り、キャンプ、カヌーなど、アウトドアのたしなみは幼少のころからさせてきた(いや、親の趣味につき合わせてきた)から野外は嫌いではなさそうだ。家人の方は昔、山おんなだった(今や都会志向で、デパート巡りなどは大好きだ)。それに一般に言われることだが意外と山仕事、林の散歩、薪割り、薪積みは心を癒すのである。本当のところの精神医学的効果はわからないが、非日常的な環境のもとで繰り返しの多い単純作業を、桜咲く広い緑のヤードでできたことは何かの思い出になってくれればよいな、と思う。そういえば、と思い出して去年の連休の「雑木林だより」を開いたら、まあ、似たようなことをしていた。

■5/6 歴史の中の北海道風景

明治期以前の日本の歴史を眺め渡すと、その中心は近畿であったり九州であったり、15世紀以降にようやく関東あたりが顔を出すような感じで、わが北海道ははるか遠くに人口密度の極めて低い未開地という歴史的位置にある。この歳になって、ようやく実像のようなものがぼんやりと感じ始めた感がある。先日、武光誠著『渡来人とは何者だったか』を読んでいた時など、朝鮮半島を経由する大陸との文化と人の往来を俯瞰するうちに、その変化の速さ、滅亡と存続のスピードに振り回されて訳が分からないほどで、かえって混沌としてしまった。武力集団や豪族あるいは国家という観点に立てば、北海道は霞の向こうであるが、蝦夷地を別の視点でみれば別の歴史ストーリーもあり得よう。幕末明治に至って、ロシアの侵略に備えた国防意識のようなものが芽生えて対応が始めるが、しかしその後の開拓から開発に至る150年は激動の変化を遂げることは、わずか1世紀の間に500万の人口を数えた世界史の稀有な事実を想っても夢のようでピンとこない。日本という国家はここに至って薩長土肥の維新活躍集団が、縦横に活躍するのだが、これも試行錯誤のイキアタリバッタリのヒヤヒヤもののようだったことも時の緊急性を偲ばせる。あまり格好のいい話ではなかった。

■5/4 旅の願望



旅は最小限の荷物しか持たないために所有物を切り離すことになり、そして自分の言葉を単純化することになり、かつ様々な人間関係を生ずるために自分を変化させる、のだという。なるほど、それは旅の魅力の一面を端的に言い表している。さらに旅先にはパワーアップする風景やモノもある。高い山、広大な海や川、巨木、巨岩は、古来、神々しいものの代表である。特に巨岩は地質年代の遠い時間が神々の依り代を感じさせるのだろうか。近くでは支笏湖の苔の洞門が隠れた人気スポットだった。

今日新聞の歌壇で読んだ「磐座(いわくら)に降りくる神に囀れる」という俳句に、広島厳島神社の弥山(2016 写真右)の大岩や沖縄の斎場御嶽(2011 セーファーウタキ=左)を思い出した。異界のような存在に驚嘆して我を忘れた。いずれも再訪したいパワースポットである。と同時に、股関節痛で登れなかった熊野古道のゴトビキ岩が頭に浮かんだ。是非動けるうちにリベンジしたいと心に誓ったのだが、家族はみんなやめておいた方がいいと冷たい。秋には奈良の山の辺の道の北ルート(昨秋は南ルート35km)を歩くので、桜井市の磐座(いわくら)神社を拝みたいと思っている。旅への期待、その期待そのものが生きるうえで大きな希望と励みなっている。

■5/2 浜ボーフウ



先日、帰省したばかりの長女と家人とで前浜に浜ボーフウ採りに出かけた。4月半ばには見つけられなかったのに、小さいものでももう左の写真ほどになっていた。畳1,2畳の広さに群生しているところもあるなどから推して、地域の人は浜ボーフウをもう食していないのかもしれない。40数年前、泊りに来た義父に写真右のように酢味噌あえにしてご馳走したことがあった。日本海沿いの岩内の人だったが浜ボーフウは初めて食べたといい、「うまいもんだな」とちょっとお世辞のように感想を語ったのを思い出した。舌の肥えた長女は「うまい!」とひと声。小一時間ボーフウを採った後は、海岸から山に向かいついでにアイヌネギもひと掴み採った。すき焼き用の牛肉が用意してあり「アイヌネギの肉巻き」にする、と彼女は言っていたのだが出てきた料理はシンプルでとても上品な「アイヌネギの牛肉炒め」だった。材料を見て方針変更したのだという。素朴に炒めただけで双方のうまみが良く出ていた。

■4/30 偉大なる林、生える木、そして木材や薪

物置の床と足回りの一部が腐ってしまい、基礎を持ち上げてちょっとしたリフォームを施した。腐れの原因は物置の壁に掛けたハンギングバスケットへの水やりだった。確かに実に長い年月、6月から10月上旬まであふれるほど水をやったので水浸しになったのは事実だが、乾くものと信じていたのが無知だった。だが逆の方に考えれば、水の処理を間違わなければ35年を優に無傷でこなせるわけだ。



静川のカラマツログは28年経過で途中15年ほど前にログエンドの処理をして昨年は防腐剤を塗ったので、あと30年以上はいけるだろう。昨年、法隆寺を参観した折、南大門の千数百年前の太い支柱の根元がつぎはぎされていて、学芸員のような宿の専属ガイドによると、地面に触れる部分だけ腐ったので集成材のように継ぎ足してあるという。確かに陶器の金継ぎのように宮大工の腕によるのか、精巧に補強されていた。

木の生えた林は美しく四季を彩り、生える木は適宜利用され、木材となれば処理を誤らねば1000年ももつ。万が一倒れて腐った場合はバクテリアに分解され、土に還る。その途中、薪として熱をとれば貴重な暖房となって二酸化炭素となって大気に戻る。林や木や木材との日常的な付き合いを改めて振り返ることとなった2025年の冬から春。薪ストーブの小道具類を物置に仕舞った。明日から5月、春モードに代えていこう。

■4/28 人生相談

実に様々な悩み相談である。お悔やみ欄とともに、毎朝読むのを欠かせなくなった。今や重点的に目を通す個人的なポイント。新聞紙面内の位置づけにおいてこの人生相談はいつの間にか急上昇してきたのである。その一方で政治や行政、経済の記事の重みランクが少しずつ下がった。世間から少しずつフェードアウトする歳のせいだろうか。それとも、政治や国際関係などはネットですませているからだろうか。

ところで新聞の相談で意外と多いのは夫婦、兄弟、親子という家族間の問題である。好きで一緒になった夫婦間の乖離もすごい。当然ながら離婚が増え、子供たちの犠牲はむごい。お互いの人格を無視したような事例に果たして自分なら耐えられるだろうか、と自問するときもある。横暴な夫がおしとやかで従順な妻の性格を蹂躙する…、人格破壊もでてくるのである。その逆もある。夫と妻、親と子、兄弟姉妹同士が、折り合いよく付き合うのはかくも難しいものかと溜息が出る。確かに、一度ひびが入ってしまった関係は戻りにくいから、お互いどう身を立てておくかが決め手になる。

恐らく、修養という言葉が縁遠くなった今日、この手の揉め事は減ることはなく増える一方だろう。挙句、裁判沙汰になって、事件発生時に罪を犯した側のこころの状態を調べるのに膨大な時間をかけるようなって久しいが、多くの人が病んでいると言えばそもそもことごとく病んでいると言わざるを得ない。

人の生きる道というのは、意識して求めていないとたどり着かない。明治期前の家制度というのも窮屈ではあったが秩序ではあった。英語のhomeを家庭と訳した明治後、変遷があり、今日の夫婦別姓の議論に繋がっている。大東亜戦争後、GHQは忌まわしく強い日本を崩壊させるためには家という仕組みをこわすために「核家族」を埋め込む必要があると考えた、とどこかで読んだ。親子だけがすむユニットを想定して集合団地の歴史は出来上がった。かつて人としての十全の感性は、基本ユニットとしての多世代同居の家で育まれた、ということか。残念ながらそこに自由はなかったということだろう。わたしたちの悩みは根深い。さて、どうするニッポン。



■4/26 アイヌネギの一番パンチのある食べ方はやはり生(なま)





4/12の浜ボーフー、4/17 の川エビは収穫なしだったから、2025年の山海の珍味第一弾は4/20のアイヌネギと相成った。文字通り、里山に群生している最も手頃な時期。車を降りてすぐで5分も摘めばもう十分である。雑木林とこの群生をみて、見るからに元気になりそうと感じられた方は、正常である。

昨年の醤油漬けがまだひと瓶冷蔵庫にあったのでためしに朝に食してみると、新鮮さは意外にほとんど変わらず、きわめて美味のままでこれは意外だった。これは元気がでる…、ような気がする。ちなみにこの日収穫したアイヌネギは、生、ゆで、炒めの3種類を試してみると、やはりアイヌネギらしい味わいは3時間ほど醤油につけた生(なま)であった(下の写真左)。

残りは刻んでひき肉と合わせ2日寝かして20個の餃子にした。新得だったかの産品にニラを具にした冷凍食品「宝永の餃子」があるが、それに優るとも劣らない。家人と二人だから食後の口臭は誰にはばかることなく食することができるが、家人は翌日会合があるとかで、数個で止めていた。

今日は久々の好天だったから山仕事を休み昼前までTさんと物置を仕上げた。そのあと単身荷物を物置に戻し終えたら午後一時を回っていた。結構疲れたので今日も先日漬けたアイヌネギをいただこうかと思う。夕方、ためこんでしまった「もう要らないもの」を市のゴミセンターに捨てたら、気分が一新した。

■4/24 物置の補修

昨年は屋根の葺き替え、台所の水道栓交換、下水道の修理など、不可欠な自宅メンテを少しずつ進めた。家を維持するのには色々補修はあるものだ。この春は、エアコンを装備し、薪小屋に薪を運び込む前には隣り合わせの物置の修理に着手した。ウッドクラフトのプロ・Tさんに頼み、そのアシスタントとして動いている。Tさんは腐れは部分的でほとんどは大丈夫使える、という。今日のふたりの作業の中で、ファサードの壁材の腐れは、どうも花のハンギングバスケットの水やりが原因のようだとわかった。さて今年はハンギングをどうしようか?水に漬からないようにHBを飾るにはどうする?やめるか?黒っぽい物置の板壁と薪とのコンビネーションで4,5か月モリモリに生きるHBは、わたしのメッセージでもある。やっぱりやろうか?

昨日は床を剥ぎ根太を補強し、今日は床材を二重に張替える準備、これも明日は完成できそうだ。こうして眼前の懸案をひとつずつ克服していく。これもまたちょっとした醍醐味だ。これがすめば、自宅へ薪を運びこみ、すぐさま、林に残った丸太をヤードに運び出して、薪割り薪積みが待つ。春の営み、本番だ。が、あいにく天候が落ち着かず時々雨が降る。

■4/22 風土は本当に人心を方向づけるか

藤沢周平の手記を読んでいる。氏の『白き瓶 小説長塚節』を読んだ時もなぜか親和性が高い感性だと勝手に感じてきたが、『藤沢周平 遺された手帳』で確信に変わった。まるで寒さで固くなった心を温もりで融かすような雰囲気があった。しかし、それは万民が持つ感想かと問われれば、否である。地域固有の民謡への共感のような、郷土・山形の風土につちかわれた、貧しさとまじめさと、つましさなど諸々の、どちらかというともの悲しさにも通ずる因習のようなものの共有だ。自分を殺して生きざるを得ない、近親縁者に忖度しながら生きねばならない風土にちかいだろうか。「出る釘は打たれる」というのがわたしの土地の戒めとしてよく口にされたのだった。

『…手帳』は娘の遠藤展子氏によるが、実の娘だけに父・藤沢の心のひだを実に良くほどいてみせ、小説家として独り立ちしていく、遅咲きの父の足取りを描いていくのだが、手帳に書かれた本音のその描写が時に痛々しくわたしの琴線に響く。そうして読み進むうちに、上に書いた寒さで固くなったわたし自身の感性が再生したような思いがした。「詩人の方が文学的に純粋かもしれない」「詩人は”表れない”ことを前提にしないと書けない」「(詩は)知的で情熱的な作業だから」などとも書いている。これはわかるような気がする。そしてもうひとつ、藤沢周平氏は血液型がB型だとわかった。科学的根拠はわからないが、これはある、とうれしくなった。

ともかくいつのまにか寒さで固まっていた塊を、藤沢周平の手帳は融かしてくれたようだ。それによってわたしが郷里の桎梏を紐解くことをしないで来たある種の我慢が、一挙に決壊して思い出の洪水となった。そのおかげで、生活と人間関係の絶望的な貧困と歪みを正しく認識することとなった。とりまく桎梏とは家庭、世間、そして土地の風土であるが、自然はあくまで無言で囲むだけだった。近年まれにみる読書収穫である。

■4/20 メール誤配信で予期せぬ功名

おとといの夜、新入会者へのガイダンスのようなメールを出した際、どうやら personal-deffalt というアドレスのフォルダーごと誤って送ってしまったようで、送信直後から誤配信ではないかと通知が相次いだ。1番手は旭川のYさん、2番手は米国のMさんだった。100件以上に訂正を出すのもどうかと考え、通知してくれた方にその都度お詫びの挨拶をすることにした。怪我の功名というのだろうか、久々のメールが一杯届き、思いがけず旧交を温めることとなった。中には、携帯である用件を話したかったが当方の携帯番号を忘れてできなかったという方もいらしたが、わたしの誤配信のメールの末尾に幸い携帯番号入りの署名があるのを見つけて、さっそく連絡をくれた方もいた。これが結構大切な、愉しみなやり取りができて、手間をかけてしまった方々には申し訳ないけれども、むしろ幸運だったような思いが残った。災い転じて…、か、不幸中の幸いか、怪我の功名か、など古来の言い回しが頭に浮かんだが、何が適当かはわからない。ただこういうことでまた縁が再生することがあるなあ、と思った。

■4/18 雑木林から丸太を運び出す




ようやく丸太を運び出す。Sさんの軽トラ、スズキ・キャリーを借りて。フットパスや林床には切り株もあるので慎重に運転。ヤードまで片道7kmしかないが、3往復しかできなかった。あと5往復は必要だ。来年秋以降に使う薪だから、ゆっくり行こう。薪ストーブライフを伐るところから始めると、とにかく仕事が次から次とある。



林から厚真の田園地帯にでると、正面には真っ白い雪を抱いた日高ポロシリ岳と北トッタベツ岳のピラミッドが見えた。田園風景にももう緑が見え始めた。田園地帯の境界にはシカ柵がしっかり張り巡らされているが、秋まき小麦畑だろうか、エゾシカの群れがふたつ、悠然と草を食んでいた。境界の高さ2mの防シカネットと、農地の電気牧柵の両方をを越えて。

■4
/16 ネパールのスケッチ



札幌の社会人山岳会の重鎮でもあった故/ima - tomo さんからいただいた 昨年の年賀状は、震える指で手書きされた私信と、奥さまの挨拶が添えられて、まさにお別れのような、しかし、九つの病を背負った自分のように希望を失わないでがんばれよ、とい年寄り予備軍への激励の手紙でもあった。

何度か読み返したのでハードデスクの脇のよく見えるポジションにおいていた。昨日自分の終末をどのようにこなしていくかちょっと思案した時にもう一度開いてみた。1998年のガネッシュ・ヒマールのトレッキングで描かれたF8見開きのスケッチを印刷した2号サイズの絵がはいっていて、いつもは年賀状にプリントしていたものだ。が、これには年賀状じまいのように、生きている証に送ります、と書かれている。ちょうど、『藤沢周平 遺された手帳』を読んでいた時だったので、もの悲しさを帯びた人生の波長がわたしの琴線を揺らしていたためか、今回の読み返しはこれまでと違った心持で味わうこととなった。

ima-tomo さんとは組織的には別につながりもなく、山やオケラの人などが集う居酒屋で知り合い、その後、山や自然ばかりでなく生き方の師範のような付き合いをしていただいて半世紀を過ぎていた。孤高にも見える姿勢に、まわりにファンがいた。わたしは淡彩スケッチでも密かに私淑していて、坂本直行さんや安野光雅氏などプロと並ぶ当方のお手本だった。そういえば、札幌近郊の山や道東の春国岱などにふたりでスケッチ旅行に出かけたこともあった。今なら、歌(短歌)の薫陶も受けておきたかったと悔やまれる。亡くなる数か月前には受話器ごしで元気な病気自慢を聞いたばかりだった。生かされていることに感謝し遺された人生は大事に生きよう、それも前向きに、と静かに決意する再読だった。

■4/14 老いては、妻にも従う

福祉国家としてつとに有名だったスウェーデンの大使か大臣が日本での講演で、「日本は福祉資源が豊かでうらやましい」と語ったことがある。もう20年以上前の話と記憶するが、当時、「福祉資源」は何を意味するのか、そしてやがて日本も深刻な介護の世界に至ることなどに、まったくピンと来てはいなかった。ところがこの頃は、高齢となった親たちの認知症や不調や介護で、たいがいは息子、娘など子らが主役となり、あるいは兄弟姉妹が中心になって世話をするケースが身の周りで目立ってきた。公的支援の前か並行してか、かつてスウェーデンの人が言った「福祉資源」がしっかりと効いているのだ。

わたしの世代もまったく他人事ではなく現実の話になった。子供たちの世話にはなるべくならないで終末を迎えたいという希望を、少し親の責任として考えている方も多いだろう。なにせ、若いころのように体が動かず頭の回転も落ち記憶も判断力も低下を自覚するようになると、目覚めの時など、漠然とした不安が湧くこともある。女性はその点、平均寿命も長いから元気でしっかりしていることが多いだろう。わたしなどもう諦めている。認知症なんか病気じゃない、自然だ、「老いてはアンタに従うよ、頼むぞ」。そんな声掛けは近い。

■4/12 海岸を歩く




人というものはたまには山を仰ぎ、海と向き合うのが良いと思う。大いに気分が変わり、つかの間、気宇壮大となる。昨年の自家製生物暦を見ると、このころ、浜ボーフーを食べ、川エビを採っていた。今朝は山仕事の前に弁天と浜厚真の海岸と砂浜を歩き、山仕事を終えた夕方に川で川エビの準備をした。あいにく、弁天の浜は嵐と護岸工事だろうか、砂浜が変形していた。自然の海と川は、よくこういうことがおこる。(写真奥は日高)

■4/10 これが「氣」というものか

「氣」を学んでいたころ、敏感な熟達者は氣を発する樹木のそばに来ると、掌がむずがゆくなると言われていた。いつのまにかわたしも微妙な氣を感じるようになったが、今朝未明、掌が無性にむずがゆくなったので額にかざしたり掌をあわせたりしたところ、いわゆる氣を発しているようだった。熱による赤外線的なものかと思って体温計で計ると35.2度の平熱だった。 

■4/09 雑木林の一番花咲く




夏には歯を落とすナニワズである。茶褐色の落ち葉の中で、黄色は実に良く目立つ。雪解けが早かったせいで、未だかまだかと待ったが、なんのことはなく開花日は平年並みだった。しかし、新緑までは1か月以上ある。

この冬は、昨年の11月から12月にかけて折角準備した丸太が全数盗難にあったので、3月からさらにもう1シーズン分の除間伐作業を行ったが、それも今日で終わった。念のため、監視カメラをヤブの中にセットした。

■4/08 歴史本の頭休めに「文士の料理店」など

司馬遼太郎氏の歴史ものは概して長編が多いが、今読みさしている『飛ぶが如く』全6巻はとりわけとても長く感じる。事件が盛りだくさんの明治維新前後の、豊富なアクターの氏素性、気質感情まで網羅し、しかも主人公を転々とする描き方だから、人物の系譜は追跡不能になってしまった。その点、「源氏物語」はまだ巻ごとに系譜図があったので参考にして整理できたが、『翔ぶ…』ではそれはもうお手上げだった。それがあと2巻も残っている。

そんな折、勝目梓著『俳句の森を散歩する』と、鷹羽狩行著『名所で名句』は、いわば箸休めの休息となった。しかし、それが嵐山光三郎著『文士の料理店(レストラン)』にいたって、ああこのジャンルの違いは「勉強」と「娯楽」程の差があるなあと痛感した。「文芸の愉しみ」だ。ではアソビなのかと言えばそうではない。『文士…』は文士らの日常をすこしだけ踏み込んで普段知りえない裏話も描いて見せているし、描かれた幾人かの文士は、著者嵐山が編集者として会い、共に食事をしたり、会わずともレストランに赴いて実食していて、かつわたしなど趣味で料理を作る側にもちゃんと料理のツボがヒントとして提供される。

と、先ほどはこの著書の中の水上勉の項を読んでいたのだが、とりわけ自家菜園の禅食を書いた『土を喰らう』の文字を見て、こちらの頭の中には今、山野に出始めるフキノトウと北寄貝のかき揚げや、今週から取り掛かる川エビ、来週には出かけるつもりのアイヌネギと海岸の浜ボーフーなどが次々とが浮かんできて、なにやら読書どころではなくなってきたのだった。


■4/06 雑木林の掃除、もしくはガーデニング




昨日の山仕事の後に、小屋周りを見渡すと…。里山というのは時間をかければこんな風景になる。理想とする空間、風景を創っていくというのは人生の喜びでなくてなんであろう。



■4/04 映画に登場する風景の楽しみ


あまり映画を見ることはないのは、つい感情移入してしまい現実にひきずってしまうからだと思う。暗い映画なら暗く、明るいものならそれなりにいいが、怖いものは恐怖で落ち込むくらいに、考えただけでも恐ろしい。

にもかかわらず、先日は役所広司主演の映画を二本比較的続けて観た。NETFLIX だったかの『銀河鉄道の父』と『PARFECT DAYS』である。いずれもたしかに楽しめた。毎日連続する現実から遠く離れた所へ旅する気分で、これは見だしたら止められないだろうなと思う反面、どこか嘘くさい作り物に、なかば、引いてみている自分がいる。

ただ、登場してくる風景は別だ。『PARFECT DAYS』ではTOKYO TOILET の公園の木立、『銀河鉄道の父』では岐阜で撮影されたという田園風景である。これにはしばし魅了された。風景と言えば、英国のTV番組とされる『THE CROWN』はすごい。英国にはよくもまあ、こんな風景があるモノだというくらいに、現在の英国の田園風景と宮殿が出てくる。なんだか、映画はストーリーでなく風景を見ているだけではないか、と自問するときがある。

■4/02 高齢者ふたりで




早春の雑木林は曇り空だった。手間のかかりそうな根がえりした掛かり木の処理だったので、wada 先輩の助っ人を頼んでウインチで引っ張った。いつもひとりでする山の仕事だが、語り合いの時間もまた格別だ。

■2025/4/01 山仕事の一風景



コモンズの公式ホームぺージを年度末に若い方へバトンタッチしたあと、旧ページはわたしの15年の地域活動のアーカイブとしてリフォームし、数日前だいたい体裁が整った。その最後に、近年思い出の写真というのを半分遊びがてらリンクさせた。大きめの画像をサムネイルでつなげたので、従来のスケッチブック紹介と同じようなツクリになっている。写真はその中の一枚で、2023年3月、根返りしたハルニレ大木の処理に向かうメンバーの後ろ姿である。巨大で危険なモンスターに挑む勇者のような風景でもある。奇しくも山仕事の危険と非日常性を表現できていると我ながら思う。

■3
/29 雑木林の接客用セット



テラスの雪も林床も、完全に雪が消えた。おもてなししたい、林の風景がこのまま約2か月続く。

■3/27 歌に見る市民の共感 32

このところ、俳句の本を楽しく読んでいる。勝目梓著『俳句の森を散歩する』と、鷹羽狩行著『決定版 名所で名句』である。季節と場面を想起するだけでも、気分は見知らぬ土地と風物に飛んでいく。その合間に古い芥川賞作家の芝木好子さん(1914~1991)の『華やぐとき』を開いている。芝木さんの文章は実にこなれていて人情描写は淡々と押さえを感じる反面、町の風物の表現は美しく情調豊かでいつまでもその雰囲気に浸っていたいと思わせる引力を感じる。と思いつつ、ここ1か月余りの読売歌壇俳壇からわたしの共感を。

◎わづかづつ治る腰痛春を待つ  牛久市・Nさん
…気持ち、わかる~、という方は多いはず。腰痛や五十肩はいつの間にか治る。春を待つ、という気分そのものだ。先月初めて五十肩に悩まされたが、それは真夜中の高い枕でする読書でスマホ首になっているせいと気が付いて、運動で対処して改善した。待ちの姿勢を一歩超えて、ひとつ賢くなった。

◎目鼻立ちキリリとすまし冬木立  東大阪市・Kさん
…キリリは冬木立に実にぴったりした言葉選び。高村光太郎の詩に、きっぱりと冬が来た、という主旨の好きな表現がある。それもキリリと謳っていたように思う。たしか、光太郎は父親像を比喩していたかと思う。

◎このふきのとうじゃないってまだあるく  館林市・Mさん
…大量に食べるものではないから、かようにより形のいいものを探すということはよくある。そしてどんどんと思いがけない遠くに至る。山菜や川や海の収穫に共通する。だから当然歩くのは苦にならないのだ。

◎朝刊を小脇に仰ぐ冬の星  藤沢市・ I さん
…冬は星がきれい。夜中トイレに起きた際、暗い部屋から星を眺めると、運が良ければ流れ星すらくっきり見える。朝の新聞、冬なら暗いうちに配達どころか、このあたりは三時前につく。早起きは三文の得だが、家人の誰も起きていない、ひとりの時間というのも、もうけものだ。

◎掛魚まつり漁師の肩に春の風  にかほ市・Sさん
…俳句は季語に限らず、むずかしく非日常的な言葉が多く、漢和辞典、国語辞典、スマホの世話になる。掛魚も読めなくてしらべると「かけよ」だった。秋田の金浦(このうら)で漁師が氏神様にお供えする魚、寒鱈だという。まだ見ぬ知らない新しい世界を垣間見るのだ。

◎岩手広島久留米より友の来て歌会始まる生きてゆくべし  市川市・Yさん
…生きてゆくべし。この決意が生れる付き合いは人生の冥利だ。七〇を過ぎて、にぎやかな社交はもう敬遠して辞退しているが、その分、一対一の個人づきあいは、ちょっと積極的にしようと決め、メールや絵葉書、時には携帯でコンタクトをとったりする。失礼さえなければそれもゆるされよう、と。

◎貧ゆゑにうそをいくつもつきし事許され給え除夜の鐘聞く  高崎市・Yさん
…吾のことかと二度読んだ。この歌を読んでしばらく、自分がいかに貧しい生活をして来たかが頭を離れず、色々なことを思い出した。それもこれも、貧しさがもとだった。中でも仕送りのない学生生活は今になってみれば、無鉄砲だった。自分だけでない、という寄宿舎生活の環境に励まされた。しかし、それで正解だった、そのおかげで今日がある。

◎仮の世に仮の住まいのあるごとく冬の蝸牛の殻のからっぽ  宮崎市・Nさん
…今が仮の世、とまだ悟れないが、土地や住まいというのは仮のものだ、というのは実体験できている。土地や自然は誰のものかという、大きな命題にもつながる。自然を観察している間に、このような気づき、悟りに至る。実に共感できる世界だ。

■3/25 年ごとの気象の違いについて

昨年の「雑木林だより」を見ていてわかったことは、雪解けが一か月早いということで、つまり、積雪が今年はまるで少なかったということのようだ。ナニワズの開花が見られないと書いたが、実は昨年だって雪解けの4月半ばあたりに顔を出しているのだから、わたしの早合点で何もいぶかしがることはなかったのだ。従って、林道も水溜まりも少ない…。異常気象という喧伝が身に染みているのか、どうもおかしい、という方にバイアスをかけるようだ。これは反省せねば。そもそも、冬の間中、セダンで小屋にアクセスできたのはここ30年近くで初めてだったのだから、推して知るべしであった。昨夜も、夜中にガンの渡る声が聞こえた。

■3/22 早春の画像二枚



卒業と旅立ちの季節である。3/22 は朝一番に林道補修、午後はNPOの代表理事として最後の理事会。いささか旅立ちの気分アリ。



この林は約80歳、若い林に更新するために更新するために伐った。ナラなどは切り株から萌芽を出して再生し、周囲からドングリも落ちて世代が代る。若返るために伐るのである。



ペティナイフは、近年よく料理番組に顔を出す売れっ子「伝説の家政婦・タサン志麻さん」が万能のように使っている。洋食の世界では大きな牛刀とこのペティナイフで足りるという話も聞く。到着早々使ってみたところ、実に良く切れる。大きさも手ごろでよく手になじむ。本体23cm、刃渡り12cmで両刃のようだ。このままいけば、すべてをこれで通してしまう可能性もある。だが、大型の魚をさばくには、やはり別にしている出刃包丁を使うだろうし、大きめの野菜や大根などは持ち重みのある菜切り包丁を使いたい。大工さんのノミやカンナではないが、用途によって使い分ける楽しみも格別だから。


■3/21 吉野ケ里遺跡にて



おととい、待望の吉野ケ里遺跡を巡った。BC4世紀からAD3世紀の弥生時代のうち、ここは1800年前の遺跡という。苫東と同様、工業団地造成にともなう事前の埋蔵文化財調査で発見されたことも親近感がある。苫東は静川の縄文の環濠遺跡は雑木林の小屋から1kmも離れていないが、あの縄文遺跡も火力発電所の灰捨て場建設の途次に見つかったのだった。

道路や橋、団地など宅地開発等が行われないと、我々の住む地域の歴史が明らかにならないとは皮肉のようでもあり残念なことでもある。瀬川拓郎氏の書籍などを読むにつけ、厚真などはどれほど未知の歴史が秘められているかわからないという思いを強くする。

ただ日本の歴史を紐解きながら本州以南の古墳やこういった遺跡、奈良や京都などの古刹名刹や名所を巡る旅は、やっとたどり着いた人生のおまけのようであり、かけがえのないご褒美のようでもある。日本に生まれて本当に良かったとおもう時間である。古代の時間にしばしどっぷりと漬かる。

■3/16 雑木林ファンの来訪



早春の林に 3/15 午後、お客さんが来てフットパスを案内。3/14 に書いた中野さんのエッセーに通じる風土への共感を追体験した。

■3/14 読む愉しみ、書く楽しみ

「愉しみ」という言葉は、豊かな心情や精神的な満足感を強調する傾向がある、という。数日前から、だいぶ昔に白老の中野嘉陽(よしはる)さんにある会合でいただいた『木守りの心』を開いて再度2,3編ずつ読んでいる。2004年から苫小牧民報の「ゆのみ」に掲載されたコラムで、1年分26編が収められている。自然エッセーであるが、同じような風土をかなり親近感のある感性で綴ってあるので、かぐわしい香りある文章となっていてまさに「愉しみ」と表現するにふさわしい作品だ。10歳以上年上の大先輩、できればわたしもこんな格調高い文を書けたらよいと憧れる。もしそれを書けたらエンジョイの意味が濃いわたしの書く「楽しみ」がもう少し深みが出ようというもの。自然と風土をどう見て、どう感じ、どう昇華していくのか、自然エッセーへの興味は尽きない。

■03/12 コナラとわたしは73歳



今日は作業の合間に、わたしと同い年(満73歳)の立派できれいなコナラと出会い、ツーショットをセルフで撮った。


■3/11 今季最後の焚き付けか



窓から陽ざしが差し込む日は、もう薪ストーブを焚かなくて済むようになった。
丁度、ストックしていた大小の焚き付けが残り少なくなっていたので、今季最後になるのかな、などと考えながらベランダで焚き付け作りをした。かなり細いものも作ったので、これだけあれば、新聞の上にこれを5,6本載せ、小さめの薪を置けば十分火はついて持続できるだろう。もうあまり、暖房のために構えたくないのだ。冬の終わりころのいつもの願望である。

遠くでガンの声が聞こえたので見上げると、風にもまれながら編隊がふたつ見えた。先鋭隊であろうか、そうか、もう3月半ばだもの。

■3/10 ペティナイフ



包丁は比較的いいものを心掛け、だいたい2か月に一度の割合で菜切包丁を含む普通サイズ3本を研ぐ。しかしその際一緒にやる果物ナイフ2本が研いでも研いでも一向に切れない。なぜかそれをずっと我慢してきたが、このたび思い立ってこれらをお役御免にして通販でペティナイフを買った。新潟は三条市の「ただふさ」。

■3/08 早春の空あおぐ



数日前の伐倒の際に掛かり木にしてしまった木を片づけ
た後に仰いだ空は、開放感があふれて見えた。それまで雪が消えかけ春がすぐそこまで来ていたのに、啓蟄の3月5日、苫小牧は翌日にかけて大雪に見舞われた。しかし、おそらくこれが最後だ。これからは、駆け足で春に向かうだろうから、来週はナニワズの花芽が見られるのではないか。

一方、今年はどういう訳か林道に水たまりが出来ない年だ。十分寒かったのに土壌凍結がない、と見た。この30年近く、小屋まで車で行けたのは初めてだったことなど、少し変わった冬だったのではないか。植生や害虫など、夏にどんな影響が出るだろうか。

■3/06 豆鼓(トウチ)を使って



素人料理というのは和洋中を問わず、できることならプロや本場の味に近づけたい、と内心は思っている。簡単そうなマーボー豆腐にしろ、山椒ではなく「花椒」にすると、実は四川風のそれらしくなる。中華の調味料も、甜麺醤や豆腐乳(フールー)のほか干しエビや干しシイタケを仲間入りさせるだけで、ぐんと味が変わる。紹興酒や日本酒もしっかりと役割がある。

五目焼きそばを作る際にはオーソドックスにカキ油や豆鼓醤を使っていたが、先日は豆鼓醤の代わりに原形をとどめる豆状態の「豆鼓(トウチ)」を入手したので水で戻し小さなすり鉢でつぶして用いたところ、風味も色も俄然プロっぽくなった。

今日の晩酌は、家人のつくった料理のほか、晩酌のつまみに冷凍イカで、ショウガ味のイカ焼きでビールを飲み始めるところ。これの言わずと知れたコツは、焼きすぎないこととショウガを惜しまないこと。イカの皮のおいしさが良くわかる。イカはいつもながら本当にエライ!鶏肉は豆板醤とニンニクをメインにして少し甘く焼くつもり。 

■3/04 地域活動15年の歩みとこれから

2024年度で苫東コモンズの世話役と代表をおりるのを契機に、わたしの研究室HPの入れ子になっていたNPOの公式ページを会の担当に任せて分離独立してもらった。そして新しくなった当方のもとのページのタイトルが標記である。コモンズのルールや今年の春から初夏にかけての風土の恵み探訪予定などを書き込み、ともに愉しみたい同朋も募った。また、個人的に関わった出版関係から3件紹介したが、その中のひとつにこれ以上のヨイショはないだろうと思えるレビューが見つかったので、感謝を込め「記念」にリンクさせた。ホームぺージ「雑木林&庭づくり研究室」は2025年の春、再スタートになりそうだ。

■3/02 春のような陽ざしと雪解けと



小屋裏の林はもうこんなに雪解けが進んでいる。このエリアが木が少し空いている関係もあるが、それにしてももう春一番のナニワズや山菜が顔を出しそうな気配だ。2月中旬から自宅にはもうほとんど雪がないという寡雪の年だったとはいえ、真冬でも小屋までマイカーで来れたのは30年近くの間で初めてだ。

2年分の薪を用意しなければならないという、不測の事態だったから林道が冬中通れたのは運が良かった。この日(3/1)2日目にしてほぼ、年明けに被った盗難分を補充確保できた。
週2,3日のj除間伐と薪づくりという自賄いの山仕事が生活の柱になっている(晴林雨読)ので、日常の雑務や読書がそのすき間で、実に着々と小刻みにくこなされる。シニア・ライフはそこに病院通いや旧交を温める交信なども加わるからかつて予想しなかったことだが結構退屈しない。そこに、この雪解けである。せかされない様、マイペースを守ろう。

■2/25 『ぼけますから、よろしく…』

信友直子さんの『あの世でも仲良く暮らそうや』(文芸春秋)を読書の合間に楽しみながら少しずつ読んでいる。読書の忙中閑あり、みたいに。今104歳の父親の母の介護や近所づきあいを見守る娘がドキュメントとして広島弁で温かく描いている。認知症と高齢者の微笑ましい見方の一つとして励まされた。というか、老いてボケることの「普通さ」加減がとても良く描かれている。表題は、著者の作った映画のタイトル。ボケながら介護する、される、両親を描いたもの。youtube や Netflix などどこかでみれないだろうか。

■2/23 立ち上げから15年余り経って



地域活動の節目がきた。先日のコモンズ運営の集まりで、わたしは15年にわたる世話役の責任から開放されたと個人的には考えている。あとは形式的に年度末の役員会で事務手続きを完了するだけとなった。57歳で立ち上げるまえの2年間は関係方面にヒアリングをして設立の可能性を探っていたし、札幌の森林組合に努めるAさんとはそのさらに前に山仕事を始めていたから、ざっと20年ということになる。少しずつフェードアウトするように、責任や束縛から離れていくのは一つの希望であり、活力であり、寂しさなどはない。あわせて心配もないのは、どうせ一代で終わって解散しても悔いはないと肚に決めていたせいだろう。というのも、新しい世代と動機や目的を本当に共有することなどできないことなど普通ならば自明だからだ。もし解散しないで続けられたらもうけもの、若い者たちの手柄だ。

春からは写真にある小屋の看板を直したり新人の風土ウォッチャーと対応したり、小屋番として、また「あくつライブラリー」館長として、伸び伸びと楽しいことをしていこうと思う。

■2/21 さつまいものサラダ

ゆうべはいただいた安平産のさつまいもでサラダを作った。大きな芋だったので、3分の1は先週、イカの天婦羅を作る時の脇役にしたが、どうしてどうして良かった。次の3分の一は薪ストーブのオキにくべておいしくいただいた。昨夜はその残り。皮のところが黒ずんで傷んでいたのでそいでみたら、こじんまりとした丁度良い大きさになった。それほど大きかったのである。ゆでるよりも薪ストーブで焼き芋にした方が甘くなるので40分、蒸し焼きにしてからフォークでつぶした。バターで玉ねぎを炒め、ヨーグルト、カレー粉、マヨネーズなどを足して味を調えたら、デザートのような甘いサラダになった。料理はたのしい。家人が用意した新聞のレシピ切り抜きを元にした。

■2/19 早春の林を歩く



2月も半ばになると、林は大きく春に傾く。昨日は24節気の「雨水」、そして間もなく「啓蟄」となる。林を歩くにはもうサングラスが必携で、そのまぶしすぎる陽光が、こころを少し浮き立たせる。雑木林を歩くなら、今である。

■2/17 ジャズを聴く耳


(写真@大島山林は本文と関係ありませんが、何かつながりはあるかも Feb 8/2025)

大量の楽曲が盛られたSDカードを数年前に山仲間からもらって、その中のひとつ、ジャズをジャンルを問わず自動車の運転中に、結構な音量で聞いている。そのうちにわかったことは、ジャズそのものが遊びに近いということである。演奏の技法は錬磨やセンスが必要だが、内容は、アソビである。いつだったかプロのジャズマン(キーボード)と会話した時に、彼は「しょせん、たかがジャズですから」と言い放っていたことが、最近よく理解できる。音楽は感じればよいと割り切って、今朝はモーツァルトのクラリネット協奏曲K622を聞いた。良く説明できないが、ジャズとクラシック、聞く耳あるいは気分?がちょっと違うのではないか。わたしはクラシックギターをかじってきたせいか、楽譜がちらつくのである。ジャズはその点、基本ラインを守りつつテクを駆使して即興でいく。

■2/15 山小屋のカスタマイズ



遠浅で、スノーモービルによる雪道のトレースをしてから小屋へ。小屋では次年度用の丸太が盗難にあったため、再度除間伐の選木をした。まったく予定外の仕事になるが、意外と怒りは低い。山仕事の必然的な理由ができたことが少しうれしいらしい(内心)。小屋の室温はー4℃からプラス18℃まで上がった。小屋には最低必要なものがそろい、ひとりかふたりでボソボソ語ったりするには丁度良い雰囲気が出てきた。もちろん、メインは作業の資材置き場の小屋「雑木林ケアセンター」としてだが。

■2/13 身体の不具合や病の対処法

70歳を過ぎる頃から医師に診てもらう機会が多くなったが、高齢者に多い脊髄や頸椎では必ずしも治癒するわけでもなく、時として病名も漠としたものになる。不定愁訴もそのあたりで生まれる。そこで友人知人問わず高齢者の病気自慢ネットワークとネット情報が結構役立つ。通常の場合、うまくいけば医師は病名を下すが、たいていの場合は確実な治し方までアドバイス出来ない。そこで、クローズアップされるのがこの情報収集だった。聞けば周りではみなさんがそんな感じだ。

考えてみると症状や不具合の詳細は本人しか知らない。自分の体が当の現場だから、どんな症状にどんな対応があっているのか、自分で情報収集するのが得策だということが、年寄りの多くはわかって来たのである。これは素人判断と言われようが究極の方法であり、やはり自分が自分の主治医となって納得するしかない。

3週間前に急に右肩があがらなくなり、五〇肩と脳梗塞を勝手に疑って医者にかかろうかと思っていた。そこへ家人が二冊の本を借りてきてくれたので早速読んでみたら、どうも二年前に診断された頸椎ヘルニアが悪化した可能性が最も強く疑われた。そういえば数か月前から、未明の時刻から床の中で枕を高くして読書する習慣が続いていた。俗にスマホ首とも言われるストレートネックである。これだ、と思い当たりこの指南書が示すように日常生活では時々顎をひき姿勢を正し、枕をしないで寝る方法もとりいれたところ、次第に改善して開始五日目にして腕が少し上がるようになった。快挙と呼ぶべき久々の成功事例である。日同じくして、下半身の貨幣状湿疹がようやく下火になってかゆみが軽減したため、半年ぶりに軟膏の塗布をやめた。不具合との付き合い方、なんとなくわかってきたような気がする。こんなことで希望が湧いてくるから不思議だ。

■2/11 歌にみる庶民の共感 31

毎週月曜日に掲載される読売新聞の歌壇俳壇、これを毎朝10作品程度を小さな声を出しながら読み上げる。できるだけ感性のレベルをハイにしているつもりだが、どうしてもついていけない、不明のものも多い。そういう時は恐らく読み間違いかもしれないな、と思いながらよしとして次へ進む。特に躓いて調べることの多いのが俳句だ。知らない季語、むつかしい言葉がなんと多いことかと未だに驚くが、調べるとその言葉の裏に日本のこころの深みが見える。

◎世界一やさしい温度計だろうひたいにふれる母のひたいは  新宮市・Oさん
…思わず幼いころの母の看病を思い出す人もいるだろう。まさに、の思いだ。何者にも勝る母親の本能的看病。母性と呼んでしまえば冷たすぎる、きずなを感じた瞬間だろう。

◎小説の残り数ページ日本酒を味わうようにちびりちびりと  白井市・Kさん
…あんなに長いと思った小説がようやく終わると思ってホッとする反面、ストーリーを振り返りながらスピードはスローダウンする。余韻、味わい、反芻。日本酒党のわたしだから、よくわかる。実はいつまでも飲み続けたい、つまり対話をしたいのだが、そうもいかず…。

◎差し障りなきやりとりは足ることは無けれど人を傷つけもせず   岡山市・I さん
…基本、傷つくかもしれないスレスレのやり取りでないと満足できない、人と付き合った気がしない…、しかし、そうはしないジレンマが滲む。わたしなど後悔ばかりして来た。二十歳前後のクラブ活動や集団生活はそんなこんなごった煮だった。懐かしいが、もうしないように心掛けて久しい。このごろ若者は、そのずっと手前で立ち止まるらしい。賢明であり、淋しくもある。

◎認知症病む弟の目はやさしくて芋分け呉れし昔のままに   大阪市・Sさん
…病む側と見守る兄の目。きっと「どちらさまでしょうか?」などと聞かれたこともある、そんな光景を想像した。そう聞く当人は困った泣きそうな顔をするのだ。自分ではどうしようもない。体もこころも、明日は我が身だ。いたわるこころ、大事にしたい。

◎草の名をよく識(し)る我と鳥の名をよく識る妹たまにランチす   安中市・Tさん
…知るは楽しみなり、という。知ろうとする傾きが明日につながる。知識は先があって引っ張る。その周りには感性が満ちている。感性を語り合うランチもあるだろう。自然を膨大な知識や情報で理解しようとする傾向が世の中では強いが、わたしはあるころからか森羅万象を花鳥風月のアンテナで感じたくなった。霊魂も信じる。

◎咳の子がごめんなさいと目で言えり   対馬市・Sさん
…いいな、この気遣い、きっと常識のあるやさしい両親に育てられた。日本人のこころ、良識を感じる。

◎読む程に酌み交わしたくなる賀状   茅ヶ崎市・Sさん
…ついこの前に感じた自分の経験そっくり。年賀状じまいの年齢はとうに過ぎたのに、このスレスレの時期にいただく賀状や寒中見舞いに、こちらも丹精込めて近況などしたためる。出来れば携帯でコンタクトとろうか、と。お別れはいつでもできる、細々と続けることもできる、どちらを選ぶか。

◎息白くして先生に口ごたえ   
川崎市・Oさん
…今回のラストは、絵に浮かぶ微笑ましい光景。小学校1年生あたりのボーズの小生意気な様子が白い息でホーフツ。時代を超えてアルアル。立春を過ぎてもうすぐ気温は緩む。そんなこともふと連想した。

■2/08 除間伐の現場にて



午前中、エゾシカの死体を見、共喰いのタヌキの躯を片づけたので、口直しに午後、苫東ウッディーズの面々が作業している除間伐の現地に出向いた。まさに、清め、であろう。冬の雑木林は、凛としていて精神も正される。

■2/06 氷都と呼ばれたマチで

ネピア・アイスアリーナで行われたアイスホッケー女子五輪予選、スマイル・ジャパン対フランスをBSで観戦して、そのあまりのレベルアップには本当に驚いた。わたしが職場のアイスホッケーチームでゴールキーパーをしていたころ、出来立ての女子チームが入れ替わりで練習をしていたのを下手くそだなあ、などと笑いながらよくみていたから、つい比較してしまうのだ。スティック裁き、ドリブル、パス回し、シュート力、そしてタフさなど、往時とは5歳児と大人ほどの差がある。7対1という快勝もうれしい。

苫小牧に赴任したころは町内の公園に町内会の父兄が水を撒いて造った小さなスケートリンクがいたるところにあって子供らは幼子も器用に滑っていた。沼でワカサギが釣れる頃だと思う。土までが凍り雪があまり降らない土地だからこその風物詩だ。湿原のマチだから、たいてい水溜まりのような沼があって、天然のスケートリンクがあったようだ。ミュンヘンオリンピックの全日本チームが、市内の沼のリンクで合宿した、なんていう古いニュースを見たような気がする。この風土にあって、この競技、あるいは遊びと言える。環境は色々なものを制約し、方向を固め、地方色がでる。

■2/04 ホンモノの刺激



毎日30分から1時間、クラシックギターの練習を心掛けている。古希を迎えた頃に高価な補聴器を付けるようになり、お店で特に難聴気味の高音も聞こえるチャンネルをセットしてもらい演奏時に切り替えるようにしたら、音がとてもきれいになって練習に弾みがついたのだった。ところが調子に乗って昨年スマホで録音してみたら、これがひどかった。プチュプチュ音が多すぎて目立ち、もうギターなんか止めようかと落ち込んでしまったが、気を取り直してレパートリーとなる数10曲の演奏レベルをなんとか維持すべく、多少は難行のように取り組んだ。困ったことに今度は実は時々めげそうになるのである。いささかつらいから、逃げたい。

それでも、去年から取り組んでいる難曲が、ギター界のMozart と呼ばれるフェルナンド・ソルの ESTUDIO 17番。一日の練習の後半、指の動きが良くなったころに弾く。昨日、YOU TUBE でプロのこの曲の演奏を聴いてみたら、なるほど、やはりすごい。実にいい曲だ。美しい。こうしてたまに刺激を受ければまた少し前進できる。人間、どうしても低きに流れ妥協するらしい。わたしもすぐ楽な方に行こうとするが、本物の刺激なるものを鞭か飴玉のように使い分けるとたしかに継続の力を得る。75歳あたりでもう一度動画か録音にチャレンジしてみたい。それまであと1年半しかない。できるだろうか。

■2/02 県人気質

司馬遼太郎の歴史小説を読んでいると、土地土地の気質や藩ごとの訓えのようなものが出ていて実に興味深い。特に藩校のあった歴史あるところ、例えば長州や水戸藩、熊本や薩摩など、学生時代以降に出会った個性派を思い出しながら、なるほどと思い始めた。風土よりも藩の伝統、巷でどんな習慣があったのか、教育を受けたか、土地の気風はどうだったかが大きいように見える。明治維新のころに活躍し歴史に残る人たちが、薩長土肥に偏っていて他は埋もれたように出てこない藩も多いが、司馬小説は時々その埋もれた藩の師弟がひょっこり出てきて、司馬氏が丁寧に気質批評をすることがある。ああいうのも実に面白いと思う。


■1/30 人付き合いからの距離

「よくこれだけ大勢の若者たちを束ねられますね」と、20年以上前の育林コンペの集いで年上の人に言われたことがあった。それ以後も、それらしい評価をもらったこともあったが、いずれもボランティア活動についてだった。関係者の思いはバラバラだから、何かあるテーマに偶然収束した場になったことがあったのだろう。熱があってのことである。まとめる、束ねるということでいえば、思えば中学、高校、大学とクラブ活動にどっぷりつかり、学生時代はごった煮のような人のるつぼの寄宿舎生活だったことなどから、陰でまとめたりするのが好きだったのかも知れない。権威などとはもともと無縁だから、まとまっていく場の雰囲気というものもあったのだろうと思う。確かに、束ができジンと来るうれしい場というものが生れたこともあった。

とりわけ山のクラブは遭難騒ぎなどもしたから関係性は嫌が応にも濃密だった。だから時には言動が相手を傷つけそうな議論もしばしばあった。むしろお互いがそんな議論も辞さないという風があったが、若さゆえの直進、ピュアさだったかもしれない。。わたし個人は社会人になってからも本業のかたわら、いつも何かの地域活動を立ち上げて関わり、時には牽引していたような気がするが、たいていは10年もすると疲れが出てきて、そこに組織のほころびもあって見切りをつけたものだった。ほころびは粘り強くケアする寛容さとやさしさがないと繕うのが難しい。付き合いの濃淡は当然ながら人それぞれで、なかなか、うまく長くはいかないものである。

振り返れば凝りもせずグダグダと色々な世話役をしたが、しかし、さすがに70歳を過ぎる頃から、群れざるを得ない地域活動はもう卒業してもいいかな、という気持ちが強くなった。人生の終焉に近づき「ひとり」が独特の意味を持ち始めたことに加え、「ひとりでいたい」という本音に抗しがたくなってきたのだ。それに、知らず知らずのうちにだんだん、こちらがわがままになったりして周りの人たちに迷惑をかけていないとも限らない。これは人として避けねばならない。

それだけでない。身体があちこち故障しだして周りに合わせて同じスピードで動くことができなくなった。結果、群れ状態から必然的に離脱せざるを得なくなった。心身共に、戦線離脱が余儀なくなったと言える。

高齢になったものの諸々の過度な発言は、老害とも揶揄される。それは、世代交代という美しい言葉で言い換えられると、コトは軟着陸したかに見えるが、世代交代というのは実は意外と難しいものだ。生業や利害、損得が絡む場合は継続は動機になり得るが、ピュアな地域ボラの部分は、創設のモチーフが途切れやすいから一世代で終わっても無理はない。と、これはずっと以前から達観していた。それでも、人間そのものも、人生もともに複雑に絡み合い、だからこそ面白いのだし、そこを楽しめる寛容さがないと務まらない。束ねるなんて、そう見えるだけで内実はバラバラだったが、人と付き合いこそ、実に面白いのだから、それで十分、つかず離れず、結構だと思う。以上、このごろの自省を込めて。

■1/28 星空観察

このところ快晴が続いて星空がきれいだ。数日前は見とれて眠ってしまうところだった。凍死は恥ずかしいからやめてね、と家人は言うが、意外と寒くて目が覚めるから泥酔でもしなければそんな心配はまず要らないものだ。せいぜい風邪をひく程度だ。

この頃は夜8時過ぎには南にオリオン座が現れ冬の大三角形もなるほどと思わせる迫力を感じる。三角形の内部に星がなくて真っ暗であるところが素晴らしい。このような星空を見ているとご褒美のように突然現れるのが流れ星である。昨年は確か15か16、出会った。正直言って、子供のようにうれしい。

嬉しいと言えば朝の日の出前の東の空。うっすらと赤みを帯びた、昨日今日なら6時半前頃からの風景。まだ隣近所から人の気配などしないころだ。雀に餌を播くためにパジャマにダウンジャケットなどを羽織って出るときの、冷気。雀のはしゃぎ。昨朝の朝6時は、南に糸のような三日月が浮かんでいた。あれほど細ければ、お月さんだと気づかない人もいるだろう。2月のフィンランドに行った折、暗い雲が低く垂れこめて病気になりそうだった。「ムンクの叫び」を思い出すほどだった。その点、星空、快晴の朝マズメ、季節を問わず喜びと感謝のこころを引き出す。

■1/26 丸太の盗難とタヌキの共食い

トレイルカメラによるシカのねぐら観察が一段落したと思ったら、小屋の前の丸太が盗難にあった。そこで、バチが当たるからやめなさいよ、と段ボールに当方のメッセージを書いてガンタッカーで取り付けてみた。カメラを、野生動物観察から盗難監視に切り替えた途端、案の定、またやってきて雪の中から掘り上げて残していった丸太を、しっかりと盗っていった。

林に入り込む車はバッチリ動画カメラに収まったのは良かったが、そのあとに入っていた動画は、ベランダ下に出入りしていたタヌキの永眠と、それを食べにきた身近なタヌキによる共食いの姿だった。人間の世界で言えば、身内だろう。いやはや、参った。



勇払原野の定点観測をこの小屋周辺で初めて約半世紀になった。この小さなエリアとは言え、実に色々なドラマを見せてもらった。自然との共生とはこういうことをも含むから、ある時期からこの関係と感覚を悟ってしまい、市街地と自然環境の境界はかなり好ましく思えるようになった、というか、自然への単純な憧れは消えた。本当の自然は、本当に好きな人が行き住めばいい、と。

■1/22 寒中見舞い

楽しみながらひとりずつ顔を思い浮かべて書く寒中見舞いは格別である。恐らくこれで一区切りかと思われる1枚を今日出した。この方からは「これで年賀じまいにする」という年賀が数年前にきたから出さずにいたら、毎年、思いのたけをいっぱい書いて寒中見舞いを下さるのである。気持ちはよくわかる。義務的に追い立てられるのがいやなのだ。年明けに、ゆっくりと義理ではない方々に一筆、と言いつつ一杯書いて出す。こんな後出しの新年のあいさつは、高齢者ならではの楽しみ方ではないだろうか。ひととの関係性など、もうケセラセラ、といういい加減さもいい。 

■1/20 老後の一人住まいをどう生きるか

季節は今日の大寒で折り返すのだろうか。昨日からの暖気で、雪はまたほとんど解けてしまった。ひょっとして一月末までまとまった積雪のない年になるのか。そしてこのまま春に向かうのか?まさかそんなことはない、と思うけど、そう思わせる苫小牧のこのごろ。

正月2日の朝7時過ぎ、うちの台所から3,4mしか離れていない、まさに目の前の独居老人のアパートの換気扇からボヤで真っ黒な煙が出た。やがて窓サッシを外したところからも黒煙が出始め、放水も始まった。その直前、酸素マスクをした消防士に、「歩けないおばあさんが一人で住んでいます!」と大声で教えたら隊員は意を決して飛び込んでいって、おばあさんの悲鳴のような声が聞こえて間もなく、無事運び出された。元旦の夜から朝にかけ隣が焼ける夢を見たから、まさに正夢だったのである。

そんな年明けだったが、「月刊ひらく」を見ると苫小牧の高齢者ひとり世帯は17,910世帯、夫婦世帯は11,479世帯と、なんと独居の方が多いらしい(2022年)。町内で家族の代わりをする人も高齢化したり、行政もそこまではとても手が出ないから、備えがなかったら実に目の前真っ暗の高齢社会になってしまう。ついわが足元を見つめてみるのだった。はたしてうちは本当に大丈夫か、と。

実は先日も、隣町で独居老人のクレーマーにあることが元で理不尽な因縁を付けられ、独居老人のこころに思いを致したばかりだった。行政の支援も拒絶し、キレて孤立する人のようだった。今、わたしたちのコミュニティには、歩けなくなった人、認知症がかった方、難病にかかった方、もろもろ枚挙にいとまがない。人さまざま、上手に老いて死ぬのも楽でない。上でリンクした坂村真民の言葉のようにいかないものか。

■1/18 エゾシカを動画でキャッチ(コモンズを野生と共有)



ライオンは寝ている、という曲があったと思う。その言い回しを借りれば、今回の感知カメラでは「エゾシカは寝ていない」ことがわかった。真夜中にしきりに何か食べている。トレイルカメラは生き生きとした野生を完全に盗撮?していて興味深い。本当に小屋周りをねぐらにしていないのか、まだ結論はだせないが降雪後までもう少し観察したい。YOUTUBE にアップした動画はこちら


■1/16 「ひとり」の哲学

山折哲雄著の本書は現代の精神病理を解き明かすうえでも、示唆的な論考があった。かねてからいくつかの著作で、西洋的自我(西洋流の「個人」)と日本古来の、例えば親鸞や道元の「ひとり」とを比べる論考は興味深かったが、実はよくわからないことが依然として多かった。ただ、夏目漱石や石川啄木の屈折が、この個の認識と把握に由来するというところは、明治期の歴史ものを続けざまに読んでいるせいか、少しわかるような気がしてきた。

また、ハイデッガーやデカルトの唱える「個や自我」と、日本人の「こころ」の間に、やはり、そこはかとない違いがあることに気づいた。拙著のタイトルを『林とこころ』(2004年)とひらがなで決めたことに、ちょっとホッとした。「心」と「こころ」は違うと山折氏は書いていて、簡単に言ってしまうと「こころ」は煩悩系、「心」は観念世界を志向する信ずる中国由来の心ととしている。この辺は日本という歴史と精神を考えるときにとても興味深い。

■1/14 日本の伝統的家族を崩壊させるWGIPの洗脳と浸透、そしてその先にあるもの

これまでも何度か書いてきた、米占領軍GHQ の WGIP (WAR GUILTY INFORMATION PROGRAM)。今や、静かに議論の舞台にのぼっている夫婦別姓法案や、すでに成案となったLGBT法案の、その根っこを探ると、マルクス・レーニンらが描いた「自由と平等」に由来するようだ。既存の秩序という悪しき因習が根源で人々が解放されないから、家族や社会の仕組み、国の在り方を一度壊滅して壊してやり直す、というのが基本原理。そこに向かう力は「造反有理」とした毛沢東の思想に象徴されるように、平等になった人々は国家・党の基ではじめて平等になれる、とした。リベラルな人たちに大いに支持されている。

激しく抵抗した太平洋戦争の日本の、恐るべき戦闘の執念の根は、神国日本という根強い国の見方、儒教に根付いた倫理観、歴史観、先祖崇拝などバックボーンになる精神性があると見た占領軍GHQが、日本がこれらの精神を捨てとことん自虐的となって壊滅するよう仕組んだのがこのWGIPの戦略だった。教育制度も指導者層も官僚大学の要人20万人を切り、憲法まで変えた。

しかしもう遠い話だ、戦後80年だよ、などと思っていたら、GHQの呪縛は効きすぎて今もなお、すべて平等、個人の権利、自由などの声(ポリティカリー・コレクトネス)のもと、LGBT法案が通り、夫婦別姓の問題が取りざたされている今にしっかり繋がっている。これらは家族の在り方に関わっており、つまるところ日本人のこころの根源的な在り方に繋がっている。ここを誤ると、親子のきずななどは分断され、男女夫婦はバラバラになり、結果、コミュニティや社会が不安定に傾きやがて崩壊する…。実はもうかなり進行していたのだ。

結末まで予想はできないが、今の流れはそんな風にとらえられないか。江戸時代まで強固に守られたかに見えた身分制度や家長制度のほか、儒教に支えられたであろう長幼の序など、先祖を敬い目上の人たちの考えを大事にした(押しつぶされそうになりながらもがいた)のは、大戦の執拗な戦闘意識を支えた精神風土として徹底的につぶす、なくすとの考えが先のプルグラムだった。これがしっかりとまだ生きている、と感じられ指摘することができるとは驚きだ。身の周りの色々な事柄と関連させて考えてみたときに、思い当たることがこんなにあるのかと。

日本史上の最も大きな革命的出来事から150年余り、何とも命名しがたい苦悶の時代にいるようだ。そういう実感は強まっている。

■1/12 居残った白鳥



小屋の帰りに厚真の田んぼを見るとハクチョウの群れが畔に沿って並んでいて、一瞬目を疑った。地元の人に聞くと、秋まき小麦の芽を食べているのだという。農家には立派な農業被害だが、風土watcher の当方としては、申訳ないけれどもそれはそれで珍しい正月明けの風景に見えた。居続けるのか、雪が降り積もれば南下するのか。日高山脈のはるか前の丘もまだ雪をかぶっていない。珍しい1月の光景かもしれない。

■1/10 ハスカップ・サンクチュアリ



「明日」という日は「今日」の続きなのに、新年というのはどこか前と違う抱負のようなものを抱かせ、夢も見る。とてもいい時間であり、わたしの場合、抱いた抱負のうちかなりのものは現実のものになっているようだ。というより、実現のハードルが低い出来そうなものを夢の枠に入れ予定に組み込んでいるからだろう。今年は数ある抱負の中に、ハスカップ自生地の扱いがあった。

■1/08 司馬遼太郎著『胡蝶の夢』全5巻を読んで

明治の初めにかけての西洋医学の導入期を、尊王攘夷派と佐幕派の対立、オランダ人など西洋人と日本人の考え方の落差と共感、各藩の制度と人びとの気質、そこに独特の身分制度を絡め、維新前後のあわただしさ、命がけの確執などが目まぐるしく展開した労作だった。その分、時代の感覚というものが大いに感じられたが、270ページものが5巻となればさすがに結構な長さだ。時々、ふと「源氏物語」を思い出しながら読んだ。当然、登場人物の多様、大人数は関係図を思い描かねばついていけないのも「源氏」と同じであった。

それにしても著者の下調べは想像を絶する膨大なものだったろう。全体を通じて顔を出す蘭学(医学、工学、兵学、航海学)の中に、オランダの「市民社会のにおい」を嗅ぎつつ、医学は殿様や藩主など上位の者が独占するものではなく「公」である、という主張は日本人医者にはとてつもないカルチャーショックでなかなか理解できなかった。黒沢監督の「赤ひげ」につながるものだ。

また日本の伝統的な諸技芸が秘伝や「…道」にしたがるのに対し、「世間に公開する」という作法の違いには個人的にすこし納得するところもあった。わたしがフライフィッシングを始めた時、ある人が「どうして日本古来のテンカラ釣りをしないのか」と詰問するように聞いたことがあった。答えは簡単で、古来のテンカラの入門書は当時目につかなかったのに英米のフライフィッシングの教書は、より取り見取り状態だったのである。

司馬さんはあとがきに書いている。「(かれらは)社会という巨大な、容易に動きようもない無名の生命体の上にとまったかすかな胡蝶(蠅でもよい)に過ぎないのではないか」、と。風雲急を告げる時代の先端で蠢いた彼ら、いわば国士が身分制度を越えた農民上りが多かったようだ。そんなかれらが胡蝶なら、現代の市井の市民などどう表現すればいいのだろう。やはり容易に踏みつぶされて命を絶える昆虫だろうか。

■1/06 自分でやる楽しみ、その背後にある「減速生活」気分

「米国やカナダでは D I Y が普通で家だって自分で建てるんだ」と聞いて驚いたことがあった。現在では隆盛を誇るホームセンター産業ができ始めるころだから、もう半世紀も前の、日本上陸したばかりの新トレンドだったのではないだろうか。その前後、丸太小屋づくりがブームになって、わたしもログビルダーの講習を受けてダグラスファーの丸太小屋を数人で建てたことがある。当時はアウトドアの男の夢は丸太小屋だった。さらに小さなカラマツバス停も作って今も残っているが、その時はほとんど、ひとりだった。仕事との両立が難しくみんな去ったのだ。そのログビルの前後にチェンソーワークを覚えたので、その後の林の保育に必要な樹木の伐採技術に割とスムーズに入ることができた。

リタイヤした後、このなんでも自分でやる、という習慣が割とスムーズに抵抗がなくなったが、心の動きをたどって気づいたのは、D I Y の世界が「減速生活」、英語でいうダウンシフターの生き方、と表現するとしっくりいくことだ。庭仕事、畑仕事、そして山仕事はそれに通ずるものがある。時間に追われない、マイペースでできる、そしてかつてと大違いなのは YOU TUBE というかなり多種多様のハウツー動画があってハウツーを自分で習得できることだ。料理は素材を入力すると付き合いきれないくらいのレシピが出てくる。下手したら、自分の体の不調など、医者に聞くよりネットであたりを付ける方がしっくりいく、ということもあるくらいだ。

身近なことでは、年末にはカタログの取説を見ながらお風呂のバスタブ脇のエプロンを外して、大量の水アカ落としをした。また、昨日今日は読書の合間に、アルミのブラインドのコードが切れそうになったのを修理しようと試みており、現在、WEB で部品や交換方法を調べているところだ。生活に必要なたいがいを自分でやる、あるいは周りの手伝いを得てやる、というのは今の貨幣経済やサービスの仕組みを古い方へ引き戻す感じだが、そこに助け合いやコミュニティ存続のオーソドックスな知恵が潜んでいるように思う。

■1/03 庶民感覚

年賀状じまいの賀状が増える一方で、一筆書きのメッセージが入れ込まれた賀状の割合が増えた。その中にK先輩の「専門家より庶民感覚の方が正しいのではないでしょうか」という一文を発見。これは慶事である。丁度、自然や環境認識の点でそんなことを考えていて、雑木林だより129のリードに書いたばかりだった。自然や環境を根拠の不確かな数値やバイアスでとらえるのではなく、勘あるいは感性でとらえるのもあながち間違っていない。松岡正剛がいう「花鳥風月」というアンテナで掴むのだ。

それに加え、ドクターたちの診断とは裏腹に、体の不具合が知らぬ間に改善している部位と症状がある。これは不遜なことだが、本当の医者、あるいはケアマネージャーは自分しかいないという思いもあながち間違っていないような気がする。かと思えば、先般の大腸憩室炎診断の若い女医さんは、血液検査の数値とわたしの既往症の情報をもとに実に明快な養生の処方箋を出してくれた。まったく久々の納得。そんなこともある。

■2025/01/01
太平洋からの初日の出、献上  明けましておめでとうございます。”



朝、6時40分、まずめ時に目を覚ますと天窓から見える上空は意外にも晴れていた。これはひょっとして行けるかもしれない…。パジャマ姿にダウンコートだけ羽織ってまず車の雪を撥ねて、南へ1km余りの有明海岸へ。そこは、市民が海岸の堤防で列をなして並んでいた。かつて見たこともない光景であり、人びとはこれほど新しい年に希望を託すのかと、少しジンと来てしまった。国内も世界の情勢も、混迷と戦乱に悩む時代は過去にもあったにせよ、世界中が近年ほどうれしくない情報を共有したことはなかっただろう。「今年こそ争いのないいい年にしよう」、年はじめに初日の出を見ながら自然と誓いを立てた人も多いのではないか。 





2024年、日々の迷想
2023年、・・・・
2022年、・・・・・