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2022年、日々の迷想
■12/30 山宿の雑木自然 昨年の早春、この山宿を訪れた時、谷の対岸に生える雑然とした林に妙に親しみを覚えたが、その際の感想として北欧の人が「(整然とした)森の民」だとすれば、北海道人と自称する自分などはどう呼べばいいのか、と自らに問いかけていた。今になれば、この雑然とした樹林に強い親しみを感じることから、「雑木自然の民」、という呼び名が思い浮かんだ。植生のシンプルなるがゆえに美しく見える森と、多種多様な植物が繁茂していく日本の森。生えては枯れる繰り返しを続けて混然一体となっている様は、自分が人工の構築物にいるから、尚更に悪くない存在に感じるのか。それともこのような、やや仏教的ともいえる森羅万象を受け入れるDNAが宿っているのか。ちょっと不思議な感覚にも感じられる。 その山宿も一旦外の通りに出てみると、聞こえてくる言葉はほとんどが中国語風だった。恐ろしい感染の再来にならなければ良いが、と不安がよぎった。 2022年の年の瀬となりました。いつもお訪問、ありがとうございます。どうぞ良いお年をお迎えになりますよう。 ■12/27 藤沢周平が語らせるセリフ 年末年始の休みモードになって(実はいつもと同じなのだが)、横になって読めそうな本を読みたくなり、藤沢周平の文庫本を手にした。「・・・が痛恨事として胸に残ってはいるが、人間の一生には山もあれば谷もあり、このぐらいの不しあわせがあって晩年をむかえることが出来ればよしとすべきなのか・・・」、主人公の布施孫左衛門がそう一人ごつくだりに目が留まった。よろず、自分の仕事人生はどうだったのかと重ね合わせることがままあるからか、生来、自己否定癖が強いせいか、古希を超えてから穏やかで至福の日々が続く幸運に感謝する裏側で、相変わらず来し方がこれで良かったのか自問自責する日がある。これでは余りに居心地が悪いから、無意識に折り合いを求めているのだろうと思うのだが、今朝、これはわたしの「業」というものなのかと思い至った。であれば、当分あるいは末期まで付き合わざるを得ない・・・。小説とは本来こんな風に自分との対話を喚起するものなのか。郷里山形の藤沢周平と思えば肩の力が抜けてますます自省モードにもなってくるのか。このところ、こんな迷想が止まらない。 ■12/25 冬至、クリスマス、大晦日、そして新年へ おとといは、ついに、冬至でした。陽のめぐりは早いように感じます。そしてクリスマス、これから年越しへと進みますが、家人と二人だけなら、クリスマスよりも冬至が来て雪が降ったことの方が、こころに刻まれます。不思議なもので、この頃になると、今年を振り返って、来年はこうしよう、あれもしたい、あそこに旅行しよう、などと夢の懸け橋ができてきます。年を越すのは、昆虫の脱皮のようですが、人間はどっこいそう簡単に捨てきれない反省や汚点も残すのがミソ。こうして煩悩と後悔に打ちのめされて人生は終えるんだ、それでいいのだとある賢者は言います。そういう意見には心底ホッとするわたしです。 ■12/22 名著『薪を焚く』を紐解く 「薪を焚くということが暖をとる以上のなにかであることを悟った日を、私はありありと思い出せる。・・・」という書き出しで始まるこの本(ラーシュ・ミッティング著・朝田千恵訳『薪を焚く』)は、わたしの周りの薪人(まきびと)にはかなり読まれている名著だ。開いてみるたびにヒントがあり、心に浮かぶ思いがある。 学生時代の山小屋の管理人を含めると、薪ストーブにかかわった年数は半世紀になるが、それは当然、生活の中の薪などではなかった。たまの、非日常の世界だった。それが生活の中の不可欠のライフラインに変わると、北欧の彼らのように薪を焚くというひとつの行為が、風土を科学する精神に裏付けられていたことを痛感するようになった。おそらく、北海道開拓150年の歴史は、温かく暮らすという生活文化に結晶するのが遅かったうえに、石炭や石油電気利用の暮らしに一足飛びに薪の時代を素通りしていたせいだろうか。わたしたちには我慢という精神文化が根強く、アメニティ快適さ追求という望みは贅沢とみなされたからか。 しかし、だいぶ前から広葉樹林の保育を先行させつつ結果的にゆっくりと薪ストーブライフに軟着陸してみると、「薪はエコだ」「とにかく熱量の高い薪が欲しい」というような、いわば嗜好の域を超えて、身の回りの環境と自分の関わりのなかではじめて、薪が辛うじて生まれてくることに実感が伴うようになった。土地所有者との折り合いやコミュニティ的な生産の仕組みなど、社会との付き合い方、もっといえば円満な人間関係も見過ごせないのである。 これらの点で、『薪を焚く』は北国生活の先輩格として、わたし(たち)に多くのアドバイスをしているようだ。今日開いたページ(上左)の写真の脚注にはこうある。「原木はあまりにも長く森に放置しないことー始めの頃に乾燥がうまく進まないと、カビやそのほかの菌類が発生し、のちに乾燥環境をよくしたところで、質の悪い薪になる・・・」、そしてそこには赤い太いペンで線が引かれている。これはここ何年か勇払原野の現場で繰り返し痛感してきたことだったからだ。 こういう追体験を他の例に探すと、それは北海道人の山菜のレパートリーに似ているように思う。青森や岩手の人はキノコやほかの山菜についても選択眼が幅広く調理の経験も多様なような気がするのだ。そうこうしているうちに到達したわたしの気づきは、北海道の薪生活も山菜食も、風土を科学するという一点ではまだまだ開拓期にあるのではないかということだった。試みに、それを21世紀のフロンティアと小さな声で呼んでみると、まあまあ、明るく元気が出るような気がするから、我ながらおかしい。 ■12/19 里山の雑木林に森の文庫生まれる abe-b さんから寄贈された森林と林業技術系の書籍を、ya-taro さんが製作したオリジナル本棚に収めた。小屋は、ラーニング・コモンズのようなICT設備や広いスペースもないが、静かな学びと思索の共有空間の様相を呈してきた。詳しくは雑木林だより120の12/19 へ。 ■12/18 人と雑木林のコラボが手自然の風景を創り出す 年の瀬の山仕事で、除間伐木の選木をして巡る。一本一本の樹木と出会いながら、実は山を見る楽しみがある。根雪になる前の最後の日かな、と思っていたら本当にそうなった。落ち葉浄土の上に人の手入れの跡がほの見える風景をアズマシイと思えるのは幸せである。 ■11/09 立冬直後の凍えるトーク 静川の小屋で柳田良蔵先生と里山とコモンズの話しをした。小春日和の無風のオープンテラスも、3時間も座っていれば体が震えてくる。しかし、苫東コモンズの里山創出が極めて北海道らしく、実践モデルとしては意外と稀有な存在であることなどを深く認識している人は少ないなかで、柳田先生は苫東コモンズに関心をもち良き理解者だと、わたしは感謝している。縦から横から、色々な視点で話をふられ、こちらも先生の博識を訊ねて、あっという間の語り合いだった。国木田独歩の空知川訪問を読み解くきっかけをもらった。 ■11/7 ブラタモリの苫小牧描写 24節気の季節感覚は北海道に実によく合う、といつも勝手に感心している。それが今日はもう「立冬」である。先月下旬の「霜降」から約2週間、ついでそろそろ雪が降り始める「小雪」、いよいよ冬近しで、薪ストーブが快適になって来た。 先週末のブラタモリは、苫小牧だった。苫小牧という土地のメディアの描き方は、滅多にインフラの開発を褒めたりはせず、自然を破壊する、国主導の、などという切り口であり、例えば10年近く前だったかの「鶴瓶に乾杯」では、NHKは苫小牧に悪意があるのではないかというほどの仕上がりで、心ある市民は憤慨したものだ。 それが今回のブラタモリでは、支笏湖の水と港の掘り込みの歴史を知って、女性のアシスタントに「苫小牧はポテンシャルがあったんですね」とまとめになる感想を言わせた(強制ではないにしろカットしなかった、という意味で)。よくぞ、言ったものだ。タモリもインフラの積み重ねを淡々、粛々とケレン味なく受け止めているように見えた。 わたしもこの5月に、掘り込みの港を久々に目の当たりにして、先人の先見の明と、継続する不屈の精神が、経済も社会も盛り立ててきたことを痛感し再確認したばかりだった。先日、近畿地方を旅行した折には、港に日本を代表する企業が立ち並び、ある内陸のテクノパークでは車窓から延々と続く企業群を見て、あらためて土地の歴史と地域の総力みたいなものを感じた。北海道には歴史的にインフラが乏しく、自然が優っている。「企業は公害をまき散らし、貴重な自然をないがしろにし、農民から土地を奪う」というストーリーがまかりとおってきたが、ブラタモリの視点はそこを飄々としてとおり抜け、実に気持ちが良かった。身近なメディアが描く北海道は日本標準ではない、ということは認識する必要がないか。 ■11/6 オンコ薪 今朝は、薪ストーブの焚き付けに、隣家がオンコを片づけた際にできたという枝を使ってみた。他の焚き付けと混ぜてあるから、決して多くない量なのだが、ものすごくパチパチ爆ぜた。異形の薪や、色々な樹種を燃やしてみるのは望むところだからこれまで使ってきたが、これは経験のない爆ぜ方だ。 となると、migitaさんからもらって、先日割って自宅に運んだオンコの薪(写真)は、どうなるのだろう。ガラス扉が壊れるほど爆ぜることはないと思うが、少なくとも扉を開けておくと火の粉が飛んで床のフローリングを焼いてしまいかねない。たった1,2cmの太さの枝がこれでは先が思いやられる。2,3年乾燥させてからの話しだが…。 ■11/3 人付き合い リタイヤ後はおのずと人との付き合いは減る。それに輪をかけるように、自分のやってきたことに時々嫌悪感が湧いて、もう世間に顔を出すようなことを止めようという意識が働いている。年始の挨拶も控えめにし色々な会合にも顔を出すのはやめた。そんなところに先日歳を一つ加えたことのアナウンスをSNSが勝手にしてくれたものだから、このやや儀礼的なものも含めて人付き合いが復活した。そのなかに、いつまでも続けたい、こころ温まる付き合いが紛れ込んでいることを知った。本当の友達なんてそうそういないものだ、と誰かが言っていたが、例え束の間でも、わずかでも、人生を意気に感じるような関係は欲しいし大事にしなければならない。加えてそれは待つのではなく積極的に発信することで関係を育てることになる。内向きは和みにつながるが、外に出る、関係を育む意味を教えられた。 ■11/2 コナラの赤に見惚れる 昨日の現場で、最後のオンコ薪を運んだあとに。 ■11/01 佐藤春夫『日本の風景』を読んで 財団でお世話になった役員の方に、ある日、この一冊をいただいた。わたしが景観や風土などについて書いた文章を何かで読まれてのご厚意だったようだ。ちょっとだけ読んで、あとはリタイヤしてからとしまっておいたのをやっと本格的に紐解いて、この名のある昔の作家、あるいは詩人の文章に思わず魅了されてしまった。そのうえ余りにも、情景や心象を彷彿とさせるから、なかなか読み進めない。かぐわしいのである。そのうち、無理やり読んでは大事なものを見過ごしてしまいそうだと気づいて、机に置いて気が向いたときなどに少しずつ開こうと決めた。本には譲ってくれた方の真摯な書き込みもところどころにあるから、きっと文学青年だったに違いない。また、井伏鱒二とか太宰治とか、文豪の手になる作品が実にすらすらと意味を理解しつつ読めてしまう不思議さに、あらためて気付くことが多い。意味発信力を強く持ち、流れるような文体には心底驚いてしまう。これが筆のチカラというものだろうか。ふだんから、twitter とかSNS、ネットニュースなどで、メモのような文章ばかり読んでいるせいもあって、なおさらそのギャップにたじろいでいるのではないか、と思い当たった。優れた文章は、やはりチカラがある。 ■10/30ムキタケのフカヒレ風 先日のキノコの料理結果。 エノキタケ少々とやや多めのムキタケは、ていねいに昆布で出汁を採ってからお吸い物にして味わった。残りのムキタケはさてどうしよう?と思案の結果、フカヒレ風に仕上げるとよい、というレシピを見つけ、それにした。一回ゆでこぼしてから冷ました方が味が良く出るらしいので試してみると、なるほど、これがムキタケの本当の味か、と思われるものに気付いた。スープはやや黄色を帯びる。鳥ガラスープの素を加え、片栗粉でとろみをつけて出来上がり。 この春は、スドキの茎が空洞であることを思い出して空心菜のように中華の炒め物にしたのと動機は近い。 ■10/26 待望のエノキタケに出会う ちょっとした山仕事のあと、大島山林の一番長いフットパスを一周した。道すがらめぼしいキノコには出会わなかったが、週末作業の段取りをしていた木の足元に、待望のエノキタケを見つけた。これですよ、これ~。 昨日は栗をたくさんいただいたので、薪ストーブのオキとオーブンで加熱し、食べ比べた。 ■10/24 初霜が降りた朝に 24節気の霜降の翌朝、ねらい済ましたように霜が降り、日の出と同時にパラパラと屋根に着いた氷が落ちてきた。外に出てコンテナの花の様子を観察していると、今度は空の彼方から白鳥の声。昨日からは、渡り鳥の高度がずいぶん高いので、フォーカス力の落ちた目には焦点の合わせ方が難しくなって、数秒遅れてようやくV字編隊が見えてきた。早起きは三文の得だ。 ■10/22 雑木林のオープンデッキでNPOの総会、そしてその周りでは 13回目の総会のあと、落ち葉で隠れたフットパスを探しながらあたりを歩いてみる。コシアブラは今年も白い妖精として林の中にいくつも姿を見せる。古典的な妖艶さ、というのだろうか。「枕草子」の清少納言などは、これをどううたったのだろうか。 ■10/21 へばりながら頑張る人の話 人間学を学ぶ月刊誌「致知」11月号に掲載されている、病気の患者と命がけで向き合う二人の脳神経外科医の対談を読んだ。一人は旭川の医局におられたころ、テレビか何かでお見受けした、いわゆる カリスマ医師と呼ばれた方である。医療への熱い思いと、しかし平坦ではなかった中での仕事のやりようは傾聴に値するばかりでなく、どこか崇高さの漂う気合のようなものが伝わってきて、気持ちが洗われる思いだ。努力をするものにのみ神の啓示がある、などという会話のやり取りには、怠惰な日常に傾斜しやすい人間の性に対して喝が入れられたような気にもなる。当方は主だった仕事人生が終わった立場にいるが、仕事において自分はどうだったかと振り返って、忸怩たる思いにも駆られた。ここやあそこあたりはもっともっとやりようがあった…などと。 ■10/19 紅葉直前の森カフェ 静川のオープンテラスのテーブルにピンクのメッシュのクロスをかけて、昼食代わりのココアを飲んだ。この1週間は、晴れた日は昼夜を問わず白鳥やガンが「鳴き飛び渡る」日が続く。室内の防音は十分なのに、彼らの鳴き声で目を覚ますのである。丁度、家の真上あたりを通過するからだ。雑木林の上空も、ガンが飛んでいたが、梢にはカラ類がにぎやかだ。こんなところに、秋の深まりを感じる。里山的に手のかかった林は、それ自体が人を癒す力があって、振り返ると肩の力が抜けているのに気付いた。にわか仕立ての森カフェは、癒しの世界のちょっとした入口になる。 ■10/18 木材の寿命と多用途性 数日家を留守にして戻った翌朝、ついに外気温は4℃を示していました。今年二度目の薪ストーブ点火ですが、もう手放せないかもしれません。薪は十分にあるので、憂うことは何もありませんが、煙が出ていないか、燃やし方のどの段階ならより煙が出るか、3次燃焼にしたらどうかなど、家の中と外を行ったり来たりして確かめます。これは毎年のことです。 旅先で左のような木の台を見つけました。釣る瓶井戸の、桶を置く台で、木材の固いところを残し、やわらかい部分が削げ落ちています。経年劣化とでも呼ぶのでしょうか。エージングなどと言う人もいますが、これなどは自然のみごとな造形であり、人間で言えば顔の皺でしょうか。思えば、ことごとく木や木製品に囲まれて生活が成り立っています。この多様途の樹木、人の心まで癒すのだからすごい。昨夜は精神科医のT先生としばし歓談。森林のセラピーの話しに入りかけたところで、医療用務が入り中断。続きはまた。 ■10/13 白鳥が渡る朝、薪ストーブの初焚き 昨日はまずハンギングバスケットの花々を片づけた。ハンギング定番のインパチエンス(写真左)は、おびただしい花弁を散らすので、一日2,3回はほうきを持って掃いて回ったが、これももう終わりだ。ベランダの中の養生場所から表舞台に吊り下げて100日あまり、一度の追肥もせずにモリモリにほこってくれた。家の前を散歩するマチの人とも随分言葉を交わしたから、風景もそうだがちょっと寂しくなる(写真右)。 そうして今朝は、薪ストーブの今季の初焚き。よく乾いた「雑木薪」は実に快調にもえ、ややして外へ出ると、煙はなく、ちょどその時、白鳥の小さな群れが声を交わしながら南西方向に飛んでいくのが見えた。季節がダイナミックに代わろうとしている。 ■10/9 再び研究林にて フォーラムの翌朝、講師の齋藤さん夫妻と苫小牧研究林の熊ノ沢で丸半日キノコ探索に興じる。毎年食べなれたキノコの大群には出会わなかったが、それでも十分楽しい。お日柄も最高だった。写真は林道の昼餉。 ■10/7 北大研究林を歩く 久々に熊ノ沢林道を歩いた。次の日曜日、キノコのお客さんが見えるので、案内の下見である。苫東コモンズの雑木林の現場は前の日の10/8 フォーラムの午前中にめぐる予定。この2,3日でキノコの状況はどう変わるか? ■10/5 ニュースレター第30号 去る9月27日に表記ニュースレターを配信しました。経営破たんする前の会社の幹部の方おふたりに、いつもどおり郵送でお送りしたところ、早速お礼がてらのご一報をいただいてしばしの懇談となった。苫東の草創期にご苦労された方々だから、プロジェクトの変遷を温かい目で見守ってくれていて、苫東コモンズという緑地管理のしくみにも関心を寄せてくれてきた。このような古いOBの方々は、コモンズの母体となる動きを始めたころに10万から数十万円のご厚志をいただいていて、それら浄財はNPOに引き継いでからも手を付けないで温存している。レターに描くトピックは、どれも草創期の礎の上にあるから情報の共有はいとも簡単で、ついつい話しに花が咲いてしまう。コモンズの今日をバックアップしてくれる、とても有難い応援団である。 ■10/2 サケとサクラマスの遡上 一昨日、白老の川に行ってみるとカメラをもった数人に声をかけられた。北海道人にもあまり知られていない小さな川なのに、サケの遡上を見たくて来たのだ、という。確かにサケの群れが遡上する風景は、魂を震わせる。ヒグマやエゾシカやオジロワシとの遭遇と似て、北海道の自然の魅力の原点でもある。 一人は三重県からの年配者で、この1か月道内を車で旅行し明日フェリーで帰るのだという。川底にはポツンポツンとホッチャレはいたが、群れの遡上は眼前にはなかった。しかし旅人は、是非、サケの遡上を見たい風情だった。その三重の方は対岸に渡ってフットパスを歩いて下流にいき、背中の赤い大きな魚の群れを見た、と嬉しそうに戻って来た。となればサケではなく、まだサクラマスなのだろう。こちらもちょっとうれしくなってそう話した。早ければお盆過ぎには遡上が始まることがあり、ヤマメは急に釣りにくくなるのである。 わたしは運動とリハビリがてら、石を飛び飛びさらにヤマメのポイントを移動した。近くでは70歳以上と思しき男性が、林道奥の川べりで焚火しつつバーベキューをつついていた。あまりに孤独を愛するのか、挨拶も返さない不愛想なオヤジで、その陰気さで風景がなにか貧弱に見えてきてしまった。 ■9/30 GHQの洗脳 先日ネット番組を見ていると、若い女性言論人が「5年前までGHQの洗脳にかかっていることに気づけなかった」と語っていた。かくいうわたしも日本の歴史を本気で紐解くまではそうだった。ある先輩に歴史認識を問うと、もう脳の中の情報を入れ替えるのは面倒くさい、と言っていた。恐らくそれは正直な本音だと思う。また敬愛する年配の方と楽しいお酒を飲んでいるさなか、南京大虐殺の話しに及んで、氏が本気で信じているのを知って唖然としたこともあった。朝日の本多勝一の『中国の旅』の反日ルポルタージュが発端であることは知る人ぞ知る事実である。 今回の安倍元総理の国葬に当たっては、世論がいかにメディアに誘導され歪曲化されているかが明白になって、その点で大変興味深かった。それを見ている国民の多くが信じ込んでいることに自ら気付いたり、その誤りと背後を支配するものの影を感じ取った人も少なからずいたのではないか。黙々と、10kmに及んだという追悼の列に並んだ人々と、騒いでいた150人?(500人?日本野鳥の会調べ)というバランスを意図的に変えて見せたことだけでもカラクリは露呈され、一目瞭然だった。しかし、この病はいつまで続くのか、まったく予断を許さない。GHQの占領と洗脳から70年余り、当の米国もここまで効くとは実は予想もしなかった、とか。きっと日本人は何につけまじめなのが影響しているのか。 ■9/28 秋の雲と薪棚の風景 俳句の季語に多い秋の雲。そんな空に出会った。筋雲だろうか。途中の沿道のお店前で、スマホをかざしているご婦人がいたのでなんだろうと反対側を見ると、この雲があった。スマホのおかげで、庶民はフォトグラファーの卵と化す。先日は隣のおばさんが庭で大きくなったヒマワリを撮っていた。お孫さんにでも送るのだろうか。秋の雲と紅葉前の雑木林、そしてもうすぐ枯れる草と薪の4つの要素が創る光景。歌心があれば、あれもこれも、ひとつ俳句でも、の気分だった。 ■9/25 いよいよ千秋楽 本場所の大相撲はどこか違う。平幕力士が天皇賜杯をめざしてしのぎを削るという、それだけではないものがある。どうもそれは、コロナがやや下火になって十分なけいこをするようになった、久々の状況変化が背景にあるようだ。呼応するように、歓声やどよめきが戻ってきつつある。これほど違うものか、と目を見張る。今日は誰が優勝しても祝杯を挙げねば、というのが正直な相撲ファンの心境でないだろうか。 ■9/22 朝まずめの風景 人が起き始める前の闇から、夜が明け始める時間は格別の神秘的な時間です。朝4時、外は快晴のはず、とそっとブラインドを開けてみたら、なんと正面にオリオン座、左にシリウス、さらに西には細い下弦の月が控えめに覗いていました。真上には火星が瞬いているはず。おお、これはラッキー、と窓辺に椅子を寄せてそのまま南の空の星々を眺めることに。なににもせかされない、こんな時間は、かつて経験したことのない穏やかさと和みを吹き込みます。 ■9/21 朝、石油ストーブの暖に頼る このたびの台風が近寄るころから、急に北風が入り込んで、今朝は8℃まで気温が下がった。先週は打ち水をしていたのに、今日はこの秋初めての石油ストーブ。こんな時、高齢者は我慢せず、文明に頼ってよい、と決めている。それにしても秋分の日の前に、ストーブを点火したような記憶が、実はなくて、それはたいてい体育の日だった。明日は急遽、申し込んでいた煙突掃除の連絡が入った。いよいよ、である。 ■9/20 台風の肩透かし 今季二つ目の台風来訪ニュースに、天気図と被害情報などをにらみながら、9/19午後、ハンギングバスケットやコンテナの移動を、家人と二人ですました。今年は専一の11号に続き2回目の移動だ。狭い物置や玄関内部に大きな鉢も入れるから、ちょっとした仕事になるし、花はいつもそれなりにダメージを受ける。案の定というか残念ながらというか、台風の進路は南へ下げながら減衰し、今日の午前10過ぎにやや強い北風が吹いただけで終わった。家が壊れるような強い風、とか熱帯のような猛暑が襲う本州や九州などでは、西洋起源の軟弱な草花を春から秋まで楽しむなどというのは所詮植え替え覚悟でないと不可能だ。台風一過では、いつもそんな北海道の風土をありがたく思う。 ■9/17 ログハウスのリフォーム オジサンたちのマンパワーはすごい。ガラス窓のはめ込みを早々に終えて、ロフトの片付け、煙突掃除まで終えてしまった。小屋は一挙に洋風のたたずまいに変わった。ほとんどが間に合わせでできている、というのも肩が凝らなくてよい。作業用燃料のにおいもするが、それも悪くない。さていよいよ、新しいヒュッテんレーベンがスタートする。詳細は「雑木林だより119」を。 ■9/15 ドングリは豊作、カツラの匂いは今日も不明 清々しい秋晴れが続くので、雑木林に行ってみた。林には乾燥したボリボリがひとつ。一方、林道にはおびただしいドングリが落ちている。特に、ミズナラ。コナラに比べればはるかに粒が大きいから、食べる方は願ってもないだろうけれど、幸い、ヒグマの気配はなかった。同じドングリでも、ミズナラとコナラで成り年が違うこともあるのだろうか。 カツラが匂っているという本州の少し前の情報を聞いたので、思い出して遠浅のカツラのもとに出向いてみた。葉っぱはもうかなり落ちている。わたしの嗅覚はかなり良いのだが、どうも識別した記憶がないのである。だれかがキャラメルの匂い、と表現していたが、さて、数種類の、悪くはない匂いのうちどれなんだ?結局、わからなかった。匂いの識別は難しいのだ。見えず、聞こえず、味わえず、しかし恐らくこれだろうという見当がついた。 ■9/13 歌に見る庶民の共感 14 内憂外患、この頃の世相は、激動の時代を思わせるものばかりです。識者とかコメンテーターはメディアという舞台で、様々なことを言いますが、どうもいまひとつ無責任で信用できないし、SNSなどで過激にも見える言葉を投げつけるエラそうな方々もいかがなものかと見ている。その点、歌に見る市井の人々の短い言葉は短い分だけ、鑑賞する側の心象を反映する鏡になるのでしょうか、すとんと落ちる明言を見ます。 ◎てぬぐひの母の一日稲の花 津市・Nさん …稲の花というから猛暑のさなか、母親はかいがいしく働く(かつて働いていた、と回想?)そばにあった日本手ぬぐい。庭や料理や家事をするために、わたしのポケットにもいつも日本手ぬぐいがある。吸湿性、肌触り、簡単に洗えて干せる。「てぬぐひ」がもろもろを彷彿とさせる。 ◎キャラメルの匂い桂の夏落葉 東京都・Kさん …情景が浮かぶ、匂いも。と言いつつ、幾度となくカツラの木を愛でているのにカツラの芳香を識別できない。他では優れた嗅覚を持っているのに。今週、あらためてカツラの木の下に出向くつもり。 ◎カブト虫が動かないと三歳児が持ってきたのは「家庭の医学」 堺市・Nさん …思わず笑ってから、待てよ、出来過ぎていないか?と立ち止まる。家族の不調時に誰かがすかさずこの本を持ち出した光景を三歳児が強烈に記憶していたのかも・・・。 ◎今はまだしゃべれるさかい言うとくわ 世話んなったな仲良うくらせ 葛城市・Kさん …終活用にメモしておこう。そういえばお世話になった先生がいまわの際で、「今の体制でがんばって!きっと大丈夫うまくいくから」とおっしゃった。迷いの多かった自分はどんなに励まされたことか。先生はその二日後に旅立たれた。人生最後のメッセージの力、わたしは信じるし最大の発信力だとも。 ■9/11 手術から1周年、生活の質QOLは明らかに向上 人工股関節の手術から1年がたち、先週末に担当の女医さんから一年後の定期検診を受けた。 ドクター 「その後、どうです?」 わたし 「お陰様で、QOLは痛みが出る前にほぼ戻りつつあります」 まさに感謝の万感を込めてこう申し上げた。やってよかった。大げさに言えば、チタンとセラミックの股関節を埋め込んで、再生リバースの心境である。ドクターはわたしのヨガ・アサナのエクセサイズを脱臼予防の観点からいつも心配してくれるが、危ないポーズはとりませんから、とお伝えして、レントゲン写真を見ながら問診は5分ほどで終わった。 ■9/7 SNSの功罪 今や個人にも社会にも欠かせないものとなった観のあるソーシャル・ネットワーッキング・サービス、いわゆるSNSですが、先日、竹田恒泰氏は「SNSで悪い方向にいっている」と語っていました。もちろん、プラスも評価してのことですが、匿名の誹謗中傷などは留まるところを知りませんし、1人で沢山のアカウントを持って、まるで多数であるかに見せかける手法なども後を絶たないようです。昨今の都内などでは、noisy-minority 少数のやかましい人たちが、まるで大勢かのように見せかけて大声でデモするようなことが多くなったようです。それを、視聴率を上げたいマスコミが一定のバイアスでこぞって報道する。これで世論操作ができるわけです。実は大勢の肯定派は声を挙げていないから、あたかも日本中が反対者で占められているような絵ができあがります。 いまから20年近く前に、mixi というコミュニケーションツールが出始めた頃、SNSが人口減少化の進む北海道の各地で「地域力を向上させることができるか」というテーマで社会実験を行って、約10年、管理人を引き受けましたが、あの経験で言えば、現状は竹田氏の主張は、わたしも残念ながら賛成せざるを得ません。匿名だと、人は他人をそしることが気にならなくなり、首相であれ皇室であれ横並びのような言動も可能になりました。そんな発信することで、人間は情緒が揺れ人品が卑しく尊大になるのが常ですが、確かにSNSはその傾向を一気に加速させたようです。 ■9/5 山仕事、庭仕事、関連する雑務、そして読書、料理の楽しみ やりたいこと、すべきことを些細なものまで拾い上げてくまなくこなしていこうとすると、70を過ぎても結構忙しい。いや、一向にヒマにならない、というべきか。勤め人時代と違い、かなり余裕をもってのスケジュールだから融通が利くので重荷でない。次々と湧いてくる雑務も「楽しい」と数回呪文を掛ければ、たしかに恵まれたものだと思えてくる。誰にも迷惑を掛けず、かつ、誰にも余計なほどの気を使わなくてよい。さらにもう昔のことはどうにもならないから後悔しない、ということにすれば「人生は70から」とまた謳歌したくなる。明るく前向きに生きたいものだ。 ■9/3 山小屋のリフォームに着手 いよいよ、雑木林ケアセンターのリフォームに乗り出した。センターは平成9年に厚真産のカラマツを使用して建設した、小さいが一応はログハウスだ。棟上げをしたのは苫東が破たんしてわたしが札幌勤務になるちょうど1年前で、築25年になる。ここにはわたしの周りの多くの雑木林ファンや山仲間が寝泊まりし、焚火や薪ストーブを見ながら、林や山や人生を語ったものだ。平木沼緑地を管理観察し育林コンペの拠点にするのが狙いだったが、奇しくも、のっぺらぼうで放置された雑木の山が人の往来によっていつのまにか「里山」に変化してきた。それを平成22年にNPO苫東コモンズを設立した際に、NPOが周囲の里山景観とともに管理を担うことにしたものだ。 実は、丸太の腐朽をストップさせるためにベランダに屋根をかけたために室内がとても暗くなった。それを見過ごしてほったらかしにしてきたが、我慢の限界に来た。それで窓をひとつ増やすことにしたのだが、ついでに、床に座る方式を椅子モードに替え、作業小屋兼物置になっていたものを、いわゆる山小屋生活、山仲間風に気取って言えばちょっとしゃれたヒュッテンレーベンができるようなアズマシサを持たせたい。リフォームついでの再活用、といったところか。 ログハウスには倒壊防止のためにダボや通しボルトが縦に打たれているものだが、その位置がわからないと丸太の壁をぶち抜くことができない。そのため鉄板や裏地センサーなども導入してひとりコツコツと調べていたがどうもらちが明かず、つてをたどって設計図を探してもらってようやく概略をつかみ、いよいよ、壁をぶち抜く今日になった。大小二つのログハウスを手掛けてきた当方だが、ぶち抜く採寸、レベル取りなどの段取りをしてとっかかりを手を付けただけで、メインのチェンソーワークは若手の urabe さんに任せた。壁をぶち抜く、というのは実際のところ結構ドラマチックな儀式なのだ。また、難しく考えずいくらでもごまかせるというのがログビルの隠れた愉しみだが、 urabe さんは結構器用に形にまとめてくれた。このプロジェクト、まだまだ、先が長い。 ■9/1 ままならない世の中と国益 かねて仕事でお世話になっていたS先生から久々のコンタクトがあり、何かと思えば外国人の土地買収について資料の問い合わせだった。日頃から、かくもむしばまれているのに、国の防御態勢がユルユルであるのは、防衛や安全保障と同じで、平和に慣れた国民の緊張感のなさも背景にあるのだろう。外国人による土地買収もそれと同じで、外国人が自由に国土を買える先進国などはないし、アジア各国でも禁止されていると聞く。領土の消滅だ。現状では北海道の田園地帯に行けば、「土地買います」の看板も目立つ。脱炭素の掛け声と買い取り制度で広まった電気の買い取り制度のおかげでソーラー施設が蔓延しているが、底地は誰のものか知れたものではないという。 外国人土地法という法律もあるにはあるがザル法のままと指摘されて久しい。国益はどこへ行ったのだろう。国を守りを誰に託せばいいのか。このごろは政治家も行政もその場しのぎの事なかれに見えてきて、はなはだ不安が募る。日本が危ない、と強烈に感じるようになってしまった。 ■8/28 いよいよ結実の季節に本格突入 ハンギングバスケットの花々が今月に入ってたくさんの実をつけるようになっています。こちらガーデナーは10月の中旬までモリモリのまま花期を引き延ばすべく、できるだけ実をつける前に花を摘み、実も採るように、せっせとハンギングやコンテナを観察して回ります。 そこをご近所の方々が通るので、自然と花談義が始まります。こんなに丸く大きくモリモリにはなかなかできない、と経験したことのあるおばさんたちはおっしゃいます。時にはヨーロッパの花飾りの話をされる方もいます。町内の人たちと風土を共有する感覚、というのでしょうか、なかなか、心温まるひと時です。 ■8/25 白老の河原で拾った日本のグラス系の試み 数日前、白老の川でフライで小さなヤマメと遊んでいるとき、同行していた家人が、庭に使えそうな手ごろなヨシを見つけました。ガーデニングでよく使われるヨーロッパ系のグラスです。ガーデニングでは、「グラスとは一般的にイネ科やカヤツリグサ科の草で細長い葉や色が特長で、装飾的な演出ができるので「オーナメントグラス」と呼ばれています。ススキやパンパスグラスなどはよく使われてきました」とされ、どこか舶来のバタ臭さが、庭の雰囲気を変えます。 では、イネ科ヨシ属のジャパニーズ・グラスはどうか。 ん~ん、余りに見慣れているせいか、あの物珍しさはありません。というか、はるか離れたところの風土で培われた目新しさというものが出てきません。ススキも束ねてツボに挿してみましたが、いまひとつ。かつて、ススキで大きなリースを作り玄関ドアに掛けてみましたが、ちょっと難しかったのを思い出します。穂が早々に開いて飛んでしまうのも難の一つでした。。 ■8/23 処暑 おととい、雑木林でこの冬の薪ストーブ用焚き付けを集めている光景に出会い、気持ちはもう思い切り夏から秋に傾斜しつつあります。 現場ではようやく薪積みや刈り払いが終わるか終わらないか、というまだそんな頃合いですが、奇しくも今日は、暑さの峠とされる24節気の「処暑」。 相も変らぬ気象災害もさることながら、一日一日、戦争や政治や数々の事件が目白押しの夏だったような気がします。 白老の海の宿に行ってきました。身近な人に病気が絶えなかったり喧嘩や争いごとが続いたりする生活はできるだけ早く脱出したいし、できれば、元気の出る人や場所に出会いたいものです。 自称「パワースポットの旅人」のわたしは、訳のわからないチカラがもらえるところに赴くことに出費を厭いませんが、白老の海の宿も間違いなくそのひとつ。いわゆる太平洋というオーシャンビューにたっぷり浸るだけのロケーションに、地元の野菜や海のものを食することができ、感性と味覚の両方から少しチカラを補ってもらえる、そう考えて部屋や風呂から時間があればひたすら海を眺めます。このスポットは詩人・茨木のり子の海の詩が壁に書として描かれているプライベートブースで、風景を独り占めできる個室。若い人には人気のスポットのようです。 ■8/22 国のプロジェクトと住民の争点 紙の街の小さな新聞『ひらく』に連載されてるコラムで、元苫小牧市副市長・中野裕隆さんは、千歳川放水路計画で振り回された酪農家などに国はちゃんと謝罪したのだろうか、と問いかけている。先祖から引き継いで、美沢一帯の風景と風土に惚れ込んでいた酪農家に突然降ってわいたプロジェクト。国の大きなプロジェクトなら、大車輪で動くから小さな住民の声など届くわけもないし、国側の担当者も高飛車だったりすると聞く。市町村なら、街路樹が日陰をつくるから伐ってほしいと苦情がでれば伐らざるを得ない現状との開きは大きい。壮大なインフラのプロジェクトにこの手の話はつきものだが、美沢という地名も象徴する「風土」に思いを込めた酪農家の声に、重たく、かつ新鮮な動機を感じた。身の回りの多くの反対運動の根拠は、自然度、希少性、貴重種の有無など自然環境が主役だったからでもある。河川改修のコンセンサスの醸成に100年以上かかっているという欧州の「熟議」のエピソードをふと思い出した。 ■8/20 世界遺産の神社 朝からの雨で、雑木林に行くのは明日に回して、朝から『世界遺産の神社』(神宮館著)を読んでいる。今となってみると、希望の旅行先は風光明媚な場所でかつ、神社仏閣が中心になって来た。そこに奥の深い日本の歴史があって人々の生活や言葉とともに土地特有の食にも深い感銘を受けて北海道に戻るのが常になった。この本で紹介されている七社のうち4か所は訪問したが、福岡の宗像神社や京都の下鴨神社など、まだまだ有名な古刹に出かけなければならない。そう考えると、これらの未知を探訪するために、もっと足腰を鍛え胃も元気でいなければならない、という意欲が湧いてくる。 ■8/18 また雨が降る前に そろそろ早いアキアジが遡上を始める。そうすると渓流においてヤマメの出は悪くなる。一方、長らく続いた大雨による出水で、川のヤマメのポイントはしばしばシャッフルされて意外と釣果があがることがある。そんな思惑とともに、また昼からは雨が降るという予報を勘案すると、今日が今季初で最後の絶好のチャンスという結論に達して、ちょいの間、白老へ出かけた。 水温は14℃だから温度が下がり過ぎて魚の活性は低い。この時期は20℃以上あることが多く、さすがの大雨だったのだな、と事情を思い起こした。 それにしてもさすが白老の川だ、濁りがない。10時に川へ入り、11時前に上がった、その小一時間のFFで、手のひらサイズのヤマメを二つ、わたしはいつもどおりこれで十分満足だ。10cm前後のヤマメがかなり泳いでいるのが見えるから、魚はやはり結構散らばったのではないか。 ウェーダーをはいて石の上を漕いでいると、正直言って今にも転倒しそうになるから、バランス感覚や足腰状態は思ったより悪い。もう昔のようなフライの遊びはできないけれど、こうやって気を付けて過ごせば、なんとか転ばないでいられる。これは小さな発見だ。実は、川のフライもそろそろお別れの時期かと観念仕掛けていたのである。 小さなシンコヤマメでも楽しむため、フライのタックルは、ロッドがUEDAのスーパーパルサー#2、フライはカディスとバイビジブルの14番あたり、ティペットは6X。ここならまだFFが楽しめる。なにせ、車を降りて10mのところで釣っているのだから。今季初めての白老フライ行、この調子なら今季もう一度くらいいけそうだ。 ■8/16 日本人の森林観と柳田国男『山の人生』 偶然出会った秀逸の力作『山の人生』。文語体も多く、なれない言い回しに二度読みし、一日10ページ余りを読み進むのがやっとだった。 しかし、なんとなく懸案の読み解きができたような感じ。わたしたちの山や森に抱くイメージのもとは、このような民話や言い伝えの中にこそ凝縮され、脳裡のどこかにDNAとして眠って伝わっているんだろうなあ、と推測された。 今はむき出しにされている精神を病む人々にだって、こんな逃げ場あればどうなっていたのだろう。それに日本人は森林の実像というものに段々遠ざかっていないだろうか。 ■8/13 歌に見る庶民の共感 13 俳句を詠むようになってから、よくモノを見、メモするようになった、とどなたかが言っていました。そもそも句を詠む、歌を創るというのは自分以外の方との共感を意図し発信することが前提だとすれば、当ブログのこのシリーズは絵にかいたような共感メッセージか。 ◎ムンバイより暑しと聞けばなお暑し 川口市・Kさん …かつて暑さの象徴と言えば、漠然とした熱帯よりインドだった。初めてインドはデリーに行ったときの夕方、38℃の熱風にさすがと思ったが、そのあと行ったムンバイは海のそばだったせいか、少しカラッと感じた。このごろ、本州はあのインドより暑く、熱帯雨林より雨が多い。 ◎為すことの全て終活草を引く 前橋市・Tさん …庭の草を抜く作務のイメージが、仏道の小さな悟りを思い起こさせ立ち止まって読んだ。いつ、本格的な終活体制に入るか、古希を過ぎればだれしもが考えるだろう。そんな覚悟をしつつ、人生最大の収穫期である白秋期のプランも芽生える。忘却とともにそろそろ自分を許して放とうと寛容になって。 ◎ゆったりと来て王者めく黒揚羽 千歳市・Tさん …これは言える。今日も先日もわずかな晴れ間にやってくるのは黄色いアゲハ。その点、カラスアゲハはひと味違う。確かに風格がある。そしてこのあたりではある日突然、カラスアゲハが何頭もやってくる。庭で花を育てるとこのような光景に出会えるのも特典の一つだが、もうひとつインパチエンスにはハチドリのようにホバリングして蜜を吸うクロホウジャクという蛾がやってくる。年に一二度、これが楽しみ。 ◎電車でも先に取りたい角の席オセロみたいに挟まれぬよう 横浜市・Yさん …20年以上札幌への長距離通勤をしたので身に染みて感じる。快適度は5割増す。これが高じて特急列車はバッグで席取りが横行して、先客が一人で2席をとるのが常態化してしまっていて、大いに困ったものだ。 ◎ひととおりの恥をかいたという人にいくとおりものやさしさをみる 国立市・Tさん …悔い改めるべきことのオンパレードだったわたしの来し方だから、このような歌に癒されてしまう。もしこの歌のように優しくはなれないとしたら、せめて、人のミスにはいいよいいよと寛容でいたい。が、もう謝っても仕方がないことばかりだが、有難いことに記憶にカスミがかかり始めるのだ。実に勝手でいい加減な話だけれども、神様仏様の采配と考え、仕方がないと諦める。。 ■8/12 ラジオ体操 残暑お見舞い申し上げます。 子供たちに交じって朝のラジオ体操をしてみました。どうもテンポがついていけない。わたしより数年先輩の方からのメールでも、「意外とハードだと気付いた」というつぶやきをお聞きしましたが、まさに然り。特に第2体操などは今急にと言われてもハード過ぎる。それでも、人工股関節手術をした一年前までに比べれば、雲泥の開きがあります。身体機能が回復する喜び、感謝は忘れないようにしようと思います。 数日前、立秋の声を聴きました。本州各地の方々には申し訳ないような適温に、勝手に秋の兆しを感じているこの頃です。 ■8/6 ボサノバに本格的に乗り出す 半世紀以上前の高校時代にボサノバに出会い、遠回りながらクラシックギターを始めた。勤め人となり子供ができたころから長く中断していたのを、リタイヤしてから少しずつクラシックギターを再開して、今や学生時代より上達しているような気がする。そこで一念発起して、本格的に本命だったボサノバに精を出すことにした。札幌の青年寄宿舎時代の舎生たちは、わたしの下手なボサノバ風のつぶやきを聞かされて迷惑したはずだが、今回は you tube でいい先生が見つかったので、なんとかいけそうだ。久々に胸が躍った。 ■8/4 林を庭のように扱う 霧の晴れ間に大島山林に出かけて、林の散策におけるお休みどころの仕上げをして来た。仕上げと言っても、椅子やテーブル、それとベンチが居心地のいいように周りを刈り払っただけだが、これをするかしないかでは、天地の差がある。一方は月見草やスイバの雑草、片やはオオバコがびっしり生えていた。 ■8/1 『手仕事の日本』を読んで 6/30の迷想に書いた『民藝の日本』に続いて、同じ著者・柳宗悦のこの本を読んだ。歴史学者の熊倉功夫は「・・・(柳は)そうした日常の道具の美しさを指摘した最初の人物であった。そして美に輝く日常の道具を民衆的工芸の立場から「民藝」と名付けた。これは新しい美の発見であり、新しい美の創造であった。民藝の思想こそ、近代日本が生んだ普遍性をもつ数少ない思想のひとつ・・」と解説している。この、身の丈の庶民の実用のモノと評価に、今まで感じたことのない地鳴りのような感動を覚えた。『手仕事の日本』は手仕事の全国案内マップのようなものであるが、特に東北に多くのページが割かれ、郷里山形の民藝が数多く紹介されていることもうれしい発見であると同時に、独自の民藝を生むほど、中央の文明から隔絶された地勢にあったことを思い起こさせた。 ■7/30 これまでで一番大きい 刈り払いをしている苫小牧市静川のログハウス脇の林道に、大きな足跡があった。おそらく、かつてない大きさだ。あってみたい気もする。 ■7/28 十分な条件下で花々を育てると 今年も短い花の季節がやってきた。北海道の花期は6月中旬ころから霜が降りる10月下旬までの約4か月だが、日本では珍しく春に植えた西洋起源の1年草が霜までずっと咲き続けさせることができる。春、十分な量と質の化学肥料と元肥を埋め込むことによって、手間いらずにほぼ勝手にモリモリに育つのを眺めるのは格別である。一粒の種から大きな大根や白菜を育てるのと基本は一緒だが、花は鑑賞、野菜は食がついて来る。 生き物は人間も含めて、育つに足る十分な環境を与えてお互いに信頼関係ができれば、実に伸び伸びと育つという見本のようなものだ。しかし、我が家の子育てでは決してそうはいかず失敗の連続だったように思い出す。逆にもしも勝手にたくましく育ってもらうことができたのならば、親としてラッキーだったとしか言いようがない。人を育てるのは花や野菜のようにはいかなかった。だから「あとは自分で育ってくれ」というメッセージをだしている。 ところで、華やかな花たちは、くすんだ薪棚と結構好対照をなしておさまりが良い。6月中頃、直径25cm程のハンギングバスケットが今、40cmを超えて、お盆ころには70cmくらいになる。各々の能力いっぱいに咲き誇るそのさまを見るのが楽しみで、毎年、ガーデニングのトレンドから外れて、飽きもせず、まったく古いタイプの花飾りを続けている。野菜づくりもきっとそうだと思うが、関わる植物が伸び伸び喜んでいるようなのは、まさに至福のイヤシロチの世界で、裏返せば世間へのメッセージでもある。庭や林におけるわたしの目標はこのあたりだと思っている。 ■7/26 生活ヨガ 20年前に読んだ龍村修著『生き方としてのヨガ』を読み直している。龍村さんは映画監督・龍村仁さんの弟で、ヨガの師匠は沖正弘師。生活ヨガという求道スタイルは沖氏の教えである。朝、起きがけに呼吸や洗心に思いをいたし体をゆっくりゆるめ、ややしてこの本の数ページを読んで一日が始まる。人はほおっておくと、感謝や下座や奉仕の心を忘れてしまう。そこにクサビを打つように、生活の中のヨガで心身を律する、というわけである。ヨガは不立文字とされ、言葉で覚えるのではなく実践でしか体得できないという。龍村氏は沖正弘師から、30年はモノは書かずに修行に励め、と教えられ実行したという。慢心せずに死ぬまでたゆまず励む、というのは終わりのない積極心の発露である。自分の今を修行の位置にある、と思い込ませることで凡人の背筋がピンと伸びるらしい。 ■7/24 庭の花が盛り上がってきて 一日の最高気温が25℃前後になり、霧と雨が続いてあまり快適な日々とはいいがたい。しかし、林の緑は濃く、旺盛に成長しているぞ~、という「気」が満ちている。庭のコンテナやハンギングの花々も、日に日にモリモリになっているのがわかる。生き物にとっては十分満足できる環境なのだろう。昨日訪れた本田山林は、すでにキノコの大饗宴が始まっていた。生き物の本当に好む環境とは、熱帯雨林、つまり rain-forest と呼ばれ象徴する「高温多湿」なのだろうと思えてくる。 ■7/21 英国式庭園で目を養生 イコロの森で、MICHIKO展を見る。色紙による不思議な世界が醸し出されている。イコロは本場に負けないイングリッシュガーデンとして評価も高いが、右下の写真のように、ガーデンを切り盛りするガーデナーやスタッフ、経営者の継続に頭が下がる思いで、いつも見るのである。この植苗地区が炭焼きのメッカだったことにちなんで、創立の初代社長Sさんは、当時の地元の古老を探し出し炭焼きを始めたのだが、わたしの部屋には、その炭のオブジェというか、まじないのようなモノがいくつか残っている。ひと箱約3千円の、決して安いものではなかったが、場の気を浄化するものとして、当時何人かの知人・友人に贈った。しかし、「これ、何にするの?」という正直で素直な問い合わせがきて、簡単に説明ができないために言葉に詰まったことを思い出した。Sさんはそんなシュールな世界も好きで、このギャラリーは、新月伐採で製材された木材でできているはずだ。まじないの炭は、新月伐採のそれと似て、しゃべるのが実にもどかしい。(-_-;) ■7/19 脳のトレーニングなるもの 脳は衰えるという医学の教えは、いい年になれば、「言われなくたってわかる」、とほざくようになるもの。60前後からそれとなく自覚症状もあるから、脳トレのメニュウを探していて年明けころに出会ったのが「数独」、ナンプレだった。正直に言えば、わざとアプロ―チしないで来た。それを、ある月刊誌の巻末のそれから始めて、今は中級の、16分あたりを目標とするレベルをこなしている。そうこうしている間に、脳トレは習慣化してしまい、朝から早々に手掛けないと気持ちが悪いことになった。それに、トレーニングと割り切って向き合えば、プラス面は意外に多いとわかった。悠々自適もいいけれども、色々なアンテナを伸ばし、衰退に身を任せることなく、アグレッシブに方向を変えた方が良い、ということが、な~んとなくわかって来た。数独、この発見と自覚は、結構大きいような気がする。 ■7/17 林の中では、薪は土に還る 薪づくり作業を一段落して、山仕事の半分は当分平木沼緑地に移動する。うまくいけば、3年放置したフットパスを完全復活させ、室内が暗いログハウスに灯り採りの窓を増設したい。そんな里山景観維持をイメージしながら一帯の片づけをしていると、入口のサインを積んだ古い薪が先々週の風で崩れ落ち、半端にしたままだったことを思い出して応急処置をした。 入口サインと言っても、要らなくなった薪を積んで、栗の木の厚い板にNPO名を書き込んだだけのものだが、薪は見事に腐って一部はボロボロに崩れた。林の中に野積みした薪は、たちどころにしてこのように腐敗する。カビやバクテリアの棲み処となるのであろう。だから、適度な湿度と陽光を得られる雑木林は、生き物の楽園なのだろう。遠浅のヤードとここではそれ程の立地環境の差がある。材を抜き取るところ、薪にして干すところ、木材を腐らせ土に還すところ、その微妙な差が地続きになって使い分けるのが面白い。 7/13 歌に見る庶民の共感 12 戦争も経済不況も安全保障も、今日この頃の絵にかいたような不安材料ですが、そこへ安倍元首相の暗殺テロまで起きてしまいました。日本の歴史に誇りを持てず否定する人も多くいるようで、このままでは日本は滅びる、と警鐘を鳴らす識者も出ています。ところで、庶民は今日も、足元の生活を見つめます。合掌 ◎山里の観音堂は訪ふ人の少なけれども掃かれてありぬ (青森 Sさん) …里山の大木に注連縄を取りつけるときに、天から覚悟を聞かれた。あとあとまで、周りの薮の手入れや草刈りができるのか、と。人はあまり来ないのだけれど、どうやら荒らさないでいる。この冬は、この大木に枝が触れていた木を念願かなって伐らせてもらい薪にした。神の座はいつも掃き清めておきたい。理想は伊勢神宮のようにありたいがこれはかなわない ◎この人はわたしの事が嫌いだと気付いたときに楽になりたり (狭山市 Oさん) …人は人と離れられるとわかった時、ああ良かったと安堵する時もある。うらがえせば、なんとか取りなして仲良くしようという圧力を人は感じているのだ。なかなか言えない心のひだだが、よくぞ短歌で。 ◎認知症とんと縁なき米寿母むしりし草を図鑑で調ぶ (埼玉 Kさん) …お見事、かくありたいもの。脳の体操と好奇心。簡単そうでもこれがなかなか難しい。しかし、この衰えに逆行して難行を働き、きしむ脳と体に、すこし快感を覚えるようになった。 ◎雀より小さくなりてあの母が「しんどいよお」とぽつりと言えり (垂水市 Iさん) …偶然、母もの、ふるさとバージョンが続いた。親になってわかる親心、古希すぎて見える人生、ふるさとも受け入れつつ。 ■7/10 江之浦測候所の世界 日曜美術館が「江之浦測候所」を特集していた。何とも不思議な世界を、制作者の杉本博司氏の解説を聞きながら、2年前の訪問の時に感じた不思議な印象がよりリアルにイメージされる。解説は、まるで膝を叩くような話しばかりで、波長が合う感じ。自分の位置を知るのがアートである、と語り、自分が何かに支えられていることを知るのが…、などとわたしのモヤモヤを晴らしてくれる。5億年前の隕石と、遥か昔の三葉虫の化石と5000年前の縄文時代のなにかと、ついこの前の肥えひしゃくが並べられた旧みかん小屋は、年月を濃縮した空間なのだ、とも。ここまでで10年かかり、5000年後に完成だという。なるほど、プロジェクトのスケール感がまるで違う。 ■7/0 今年のハスカップ事情とマメコバチのこと 今年もハスカップの成りは順調でなく、栽培農家のYさんに畑の様子をきいたら、これまでの40年で最悪という。早なりだった昨年は秋にハスカップはまた花が咲き実も着けたというから、今年の樹勢の衰えは止められなかった模様だ。そしてついに、受粉をつかさどる昆虫はマメコバチだとわかった、という話を聞いた。リンゴの受粉にも使われる小さなハチで、ハスカップの畑にネットを張ってみたら大量のマメコバチを補足したとのこと。今まで、明確には見つかっていなかったので、興味深い。余りに見つからないので、わたしは夜の蛾ではないかと、夜中に観察に行ったこともある。 厚真の帰途、K先生らと遠浅の「そば哲」に寄ると、大旦那の奥さまとハスカップの話になり、ねだったわけではないがデザートとして特別サービス・庭のハスカップを出してくれた。これに久々にグラニュウ糖を振りかけて食べてみたら、やはり、美味しい。昔、ハスカップはこうして食されていたというのもわかる。苦み、渋みと、砂糖のストレートな甘みがコラボする。 店はいつも大繁盛だ。今年のコテージガーデンの様子を奥さまに聞くと、忙しくて庭に手が回らない、とこぼしておられた。趣味と実益は必ずしも両立しないようだが、荒れてはいない。少しほったらかしで、カントリーガーデンの趣が引き立っている。雑草の刈込が送れている程度か。ハスカップの成りと似て、ジューンベリーのトンネルもまったく実が見えなかったが、その一角にウッドデッキが涼し気に置いてあった。大島山林のフットパスにもこんなベンチとテーブルが欲しいね、と話しにしていたところだ。 ■7/4 あっという間に夏来る このところ霧の日が多く、今月初めは朝、石油ストーブを点火したばかり。かと思うと、昨日は30度近くまで気温が上昇し、寝苦しい夜を過ごした。この急変が北海道の夏の始まりの特徴かもしれない。ただ、薪ストーブは5月で終わったけれども、コモンズの現場は、まだ薪割りも薪積みも終わっていない。さいわい、この冬の自宅の薪は薪小屋に積み終わったものの、まだ運びきれないでいる。まだまだ、冬を引きずったままだ。 そんな中から、ひとまとまりの薪をさらに小割して、本州の山仲間に焚き付けとして送ったのが約2週間前。ナラとシラカバ、ドロノキ、コブシ、サクラが混じっている。調子に乗って割っていると、箱がいやに重いので計量すると35kgもあった。これだと送料が高上りだし、運ぶ人に申し訳ないので、25kgまで落とすべく詰め直した。 昨年送った各種の焚き付けは、どうやら薪ストーブ本体にではなく、干しイモの乾燥用に使われたようだった。確かに火力は調整しやすい。これで冬の名残をすべて片付け、心置きなく夏モードへ。冬と春と夏が錯綜している。7月、さすがにフリースなどはタンスに仕舞ってステテコを出した。 ■7/3 山椒の実を採る 雨竜、旭川など道北の旅行から戻った翌日、昼頃から雨の予報だったのでその前のちょいの間、裏山の丘に山椒の実を採りに出かけた。収穫が遅すぎると皮や突起が堅くなるし、早すぎると実は当然小さすぎて採取に値しない。先週はまだ実の直径は2mmほどだったからちょどよい頃合いと踏んでのことだった。案の定、手ごろな大きさで、ヤマメ釣りをしていたころの魚籠に3分の一採取できた。さっとゆでてから水にさらし、家人と、実をつないでいる枝のような軸を除いた。ちりめん山椒や麻婆豆腐用に冷凍でストックして自家用の食に供する。近くの町内の年配者は、今年は実のなりが良くない、と言っていたが、どうしてどうして立派なものだ。 今年の春から夏の山菜は、あとジュンサイを残すのみ。 ■6/30 手仕事の国、手自然の里山 昨年の秋、東京は駒場にある日本民藝館に家人と初めて訪れ、民芸というかおり高い日本の文化に浸った。浸ったというより、文化的情報が東京や大阪から発信されることの多い今の世の中で、民芸という地方の文化をかくも拾い上げてきた柳宗悦らの仕事に圧倒された気分だった。それはちょっと大げさに言えば、日本に生まれて良かった、と実感させるに十分だった。『民藝の日本』(2017 筑摩書房)をこのたび手にしてもう一度丹念に見入ってみて、地方性、庶民性は益々衝撃的で美しく感じた。さっそく『手仕事の日本』を読み始めたが、さて、今や、日本の手仕事は健在なのか、と思い起こしてみた。高付加価値の地域おこし運動は盛んだが、「用の美」はとんとすたれて、なんでもヒャッキンで済ませられないか、物を探っている自分に驚く。 一方、山形の実家の囲炉裏端には、鉄瓶、自在鉤、灰ならし、火箸など、日常的に使うものの中に柳が民藝として選び出すようなものが山積していた。蓑、編み笠、屋号入りの唐傘、米櫃、味甕、脱穀機、数えだすときりがない。これらが柳らの眼鏡を通すと、意味のある作品としてとらえられるから、地方はちょっといい気分にさせられるのもある。 ちなみに『日本の民藝』に収録されている北海道関連は、アイヌのマキリだけだったような気がする。これも北海道の民藝の歴史、開拓時代の背景を彷彿とさせる。民藝まで成熟させるほどの時間がなかったかもしれない。北海道の開拓は、まず耕地をつくり生活を営むという、周回遅れのスタートだったこと思い起こさせる。 そんな中、愚直に、非効率な手仕事をしているのが雑木林の手入れだった。手仕事とはいえ民藝とは程遠いが、人間一馬力をフルにつかった、手仕事の力仕事である。機材など買えないがための、また、必要もなく間に合わせることができるための「手仕事」だったが、これによって絶えず人の手がかかった、アズマシイ「手自然」を手に入れている。この「手自然」が柳のいう「手仕事」の兄弟だと考えてみると、なんだか元気が出るような気がする。 ■6/28 森づくり研修で道北を旅する NPO苫東コモンズの森づくり研修で、6/25 朱鞠内湖の近くにある北大雨竜研究林にお邪魔した。苫小牧から往復650kmで、その沿線を眺めながら、つくづく北海道は農業と林業が圧倒的大部分を占める大地なのだと再認識した。これは延々とドライブしてみないと伝わらない感覚である。写真は幌加内のそば畑で、これから8月にかけて急激に伸びて実をならせるとあらば、なんという成長であろうか。さらに朱鞠内湖にかけては、開拓から手を引いた後の耕作放棄地のような光景が続き、ところどころは開拓時代もかくありなんという風情がしのばれた。 ■6/23 資本主義の隘路からどう脱出するか? 『さらば、欲望』 時代を俯瞰する羅針盤的存在として、わたしは山崎正和氏、渡部昇一氏などに特に襟を正し耳を澄ましてきたのですが、世代が近い存在では佐伯啓思氏がいます。その佐伯氏が先日『さらば、欲望』というちょっと奇妙なタイトルの新書を幻冬舎から出しました。ものの本によれば、氏は、グローバリズム経済は欲望を原動力とするもので、世界を精神荒廃と倫理的堕落の淵に立たせていると警鐘を鳴らし続けている、などと評されていますが、わたしはこれらに関する論評を新聞のコラムや雑誌で読むだけでした。それが時折、切り抜きやコピーに替わり、ついに一冊の本を買うに至りました。 どうやら、疫病や戦争や社会の分断、領土侵略など、この激動が半端でない、と実感されるにつれ、アンテナを一段と高く伸ばす必要に駆られた感があります。長い間国民全体に蔓延していたというお花畑的な平和主義に対する批判も高まっている昨今、今度の参院選では、防衛に本気度を感じさせない政党は票を落とすのではないかと見られてもいます。そのあたりの視点が、資本主義という欲望の源泉から語られている、と言えるでしょうか。 氏は最後の章で、明治時代の福沢諭吉の「和魂洋才」を、日本近代のジレンマとして焼き直して提示しており、なるほどと思いました。わたしたちの資本主義認識が、古典的な一般向け経済書にやっと追いついた格好だ、と評する点にもうなづきました。 ■6/21 苫小牧のミニ美瑛 紙の街の小さな新聞「ひらく」5月号では、美沢の田園風景のことが記されている。千歳川放水路が浮上して40年が経つことを契機にした特集で、牧場を営む農家の人に、記者が放水路計画が中止になって残されたものは何かと聞く。農家の方はそれに対して「景観」と答えたというくだりがある。 実はこの風景に好感を寄せている人は少なくない。苫小牧は自然保護運動が盛んで、貴重種や群落を学術的な意味で保全すべきという識者の声が前に出るけれども、市民でも発信できる風景の保全という価値観は奇妙に聞こえなかった。わたしは風景をさらに敷衍して「風土保全」こそ、より大きな概念だと思いつつ、原野や雑木林や湿原というものを、動植物の希少性以外の方法でスポットライトが当たる方法はないのか、行政の都市計画の大事な部分にこの視点が入り込む隙間はないのか、長い間、気になっていた。 千歳川放水路計画が実行されていたらこの風景はなくなっていた・・・。ここに入り込む説得力ある、効果的な考えや決め言葉を、まだわたしは持っていない(写真は10年近く前のもので、晴れた日の風景画像が見つからなかったのが残念)。 ■6/19 いまどきの野生生物 今朝の新聞のコラムでも使われていたが、森林の伐採によって棲み処を奪われた野生生物が街に出てくる、という意味の常套句が、あまり疑問に思われることもなく使われている。はてな、とわたしは常々思う。熊やシカやキツネやアライグマなどは、人間が文明社会を目指して棲みやすい環境を構築してきたそのアガリを、彼らも生存に有利なものとして使おうと気づいたのではないかと思う。つまり人間社会は野生や異民族から自分たちを守るために城壁を構え、多すぎる自然を野生ととらえ隔絶する生活を創りあげたが、城壁のない今、今度は野生がヒトの社会に侵入しようとしている。文明はおいしく便利だからだ。 エゾシカは、わたしたちが創ったフットパスを歩くし、冬はラッセルしたりツボ足でつくった踏み跡を利用する。雑木林に身を隠し採草地でやわらかい草を食べるのが最大の好みだとシカの研究者も言う。ヒグマはどうやら河川の河畔林や川の中をコリドーとして使うことを日常化しているように見える。蟻の巣もいいけれど、養蜂家のミツバチの蜂箱にもっとも貴重な、禁断のご馳走があることを知った。 これらの様相はまるで、餌を見せびらかしておいて、来てはいけない、と叫んでいるような構図だ。だが、野生が好む動物王国を別途つくってあげることは容易でない。これを動物王国になりかけている苫東コモンズに身をおいて考えている。 ■6/17 散歩の使い途 「喧嘩はこのくらいにして、森に散歩に行こう!」と言うらしい。これはドイツの夫婦の話しだが、森や林の散策の効能をよく示しているエピソードである。お客さんが来た時、近くの林に案内するとか。わたしは喧嘩ではないが、地域での活動の打ち合わせをする際、二人で北大演習林を歩きながらスタッフミーティングのようなことをした。話しは間違いなく進展するような気がする。そして過不足ない。 左の写真は10月のウィーンの森。ブナ林が紅葉(黄葉)して沢山の市民がポツリぽつりと散歩をしていた。ウィーンの森は地下鉄やバスの終点が森の入口になっていて、いわゆる市民のアクセサビリティが抜群だった。右は森林セラピーのメッカ、ドイツのバートウェーリスホーヘンで、ヨーロッパトウヒがつくる日陰の径から、老夫婦や家族連れが街の方に戻っていくシーンである。 林はしばしば、人に内観を誘う。悩む人には時に自己肯定感を感じさせるともいう。端的に言えば本当の自分に出会う、ということか。お釈迦様が菩提樹(シナノキではなくクワ科)の下で悟りを開いたのは偶然ではない、と心から思っている自分は、間違いなく森林ウォーキング信者だ。 ■6/13 神様の木に会おうとする心 少し前のBS再放送で「神様の木に会う」を観た。もう何日も前だったので、改めて画像を拾って思い出した。クス、杉、サクラ、イチョウ、カツラなどで、人々が会いに行く生活風景が実に好ましく、同じ民族性を自分も共有していると感じる。 一部は枯れ、折れ、満身創痍で、それでも人の生命をはるかに超える年月を生き続ける姿に、人は癒され励まされるらしい。わたしもまったく同じ動機で、各地の大木に会いに出かけ、撫で、抱きついたり記録を撮ったりしてきたが、神性の宿る巨木は、高い山、大きな川、宇宙、朝日、夕日などと相通ずる力を確かに宿しているのは、わたしもいつも感じて忘れがたい思い出を作っている。なにか、波動のようなものか。 スイスの山の上で氷河を見たときの鳥肌のように、身体と感性が呼応する不思議体験は、たとえ観光という形であってもやはり時々出会いたいものだ。それが茫漠とした原野であるときもあるし、雨の雑木林であったりするのが面白い。 ■6/11 雨の雑木林を歩く 予想外のしっかりした雨だったが、長らく手入れを怠ってきたフットパスで、アクセス路を確保し、風倒木を片づけ、刈り払いをして軽トラックの走行が可能なところまで3人で復活させた。この山林で、わたしが最も好きなルートである。開設して10年近くなるだろうか。 ■6/10 濃厚な地域風景が観光の資源に生まれ変わる 先日、ポロト湖畔のリゾートホテルに泊まってみた。 ポロト湖の湖面から樽前山に至る森林地帯が一望できる部屋は、近くのアイヌ関係の博物館の存在と相まって、一種独特の異国情緒に似た雰囲気があり、隣接自治体に住むわたしでも、パワースポットと見まがう風景を楽しむことができた。 かつてここにはポロト温泉という、小さい湯船で洗い場も幾つもない、実にひなびたマニアックな田舎温泉があって、一部で熱烈なファンがいたが、このホテルは同じロケーションを現代風にリゾートに置き換えてみせた、象徴的なビジネス展開のように映る。 施設が湖水と連続しており、幾何学的デザインの露天風呂から見えるのは美しい庭ではなく、なんと、小さいヤチハンノキとイヌコリヤナギがポヤポヤと顔を出した、あの寂しげなヤブであり、わたしはこの異空間を思わせるだろう植生という小道具の選択はうまいと思った。地元の人が見慣れた風景が、高価なリゾートホテルのインセンティブになる好例だと言える。白老のもう一つのホテル「ふる川」も、見下ろす太平洋の荒涼たる風景が創るパワースポットだ。経営コンサルタント・故船井幸雄氏が世界の売れている観光地はパワースポットだという意味の発言をしていたが、その伝で行けば、ここも海のそれも、当分の隆盛は間違いないかもしれない。 一見殺伐とした苫小牧の工業地帯と、いかにも殺風景な風景を逆手に取った白老のリゾート。アイヌの暮らしと歴史を彷彿とイメージさせる構成に、ここだけの話しでなく北海道の歴史も二重にダブって感じられたが、その理由は自分でもよくわからない。 ■6/09 洗脳され続ける民族?! 目まぐるしく変わる社会の動きを的確に見通すことは難しい。日本の近現代史を紐解いただけでも、習ってきた世界と新たに学び直した世界の違いは驚くほど多く複雑だ。そして日本はこのままで大丈夫かと思わせる事案の数々が目の前に展開している。 作家・新田次郎のご子息で『国家の品格』などを書いた藤原正彦氏は、雑誌「致知」6月号の特集「これでいいのか」で、日本の近代史は欧米の論理に染まってきた、と語っている。その変遷とは、ロシア革命が起きると日本のインテリたちは共産主義に染まり、昭和は今度はファシズムに、戦後はGHQがつくった嘘っぱちの歴史観に、そしてここ20年はグローバリズムに染まり続けている、と。 フェイク、プロバガンダを含むあまたの情報をかき分けながら本当のことにたどり着くのは容易でなかったが、ようやくことの真相はすこし嗅ぎ分けられるようになった。歳のおかげだ。特に驚くのはGHQの洗脳である。日本が二度と立ち上がれないように播いた自虐的な史観の芽は脈々と受け継がれて今も花盛りで、米国ですらここまで効力があったことにびっくりしているはずだ、という識者の論評を読んだことがある。先に書いたポリ・コレもそうだったが、グローバル・スタンダード的な価値観みたいなものに日本人は弱い。 しかし、そんな世界標準を追いまわさなくてもいいではないか。日本には日本人特有の積み重ねられた感性と価値観がある。それをもっと見つめて大事にしたいものだ。ちなみに、その基礎は国語教育だと、氏はながらく力説している。 ■6/06 花のコンテナをこしらえ、オンコ刈りこむ 5/6は立夏、5/21に命が次第に満ちる小満、そして今日は穀類などの種をまく芒種。24節気は植物との暮らしの大事な暦です。先週の2日から少しずつハンギングバスケットに小さな花苗を植えこみ、昨日はいくつかのコンテナに満たしました。いわば夏を楽しむ仕込みみたいなものでしょうか。今日は窓の下のオンコと道ばたのレンギョウとボケモドキを刈りこんで、準備完了。これからは植えたものの勢いを見ながら花柄を摘むのが楽しみになります。 花の苗は、HB定番のツリフネソウ科インパティエンスを柱にシソ科のラミウムやトウダイグサ科のユーフォルビアなど、コンテナには、ヒルガオ科エボルブルス、コンボルブルズ、ミソハギ科クフェア、キク科のシャインボールとメランポディウム、ナス科のカリブラコアとミリオンベル、クサトベラ科のサンク・エール、タデ科のワイヤープランツ、スベリヒユ科のマツバボタンなど。初めて手にするものも少なくありませんが、こうして科や属を確かめながら山野に見かける同科同属の植物を思い浮かべます。 と言っても、わたしの庭の趣味は、そのバラエティや色彩よりも、扱った植物がどんなふうにもりもりになってくれるかを見届けることで、そこにある栄養診断などで植物との距離や関係を計るのが一番の興味。結果的に庭全体がイヤシロチに感じられればしめたもの、そうなれば町内会をステージにしたちょっとした地域貢献です。 ■6/03 径を創る 仮称「コナラの沢フットパス」が完成した。写真はそのスタート地点にあるコナラ。恐らく苫東で一番太いコナラが、苫東の最北端にあるということになる。薪ヤードの東に隣接するヤブ山が、この2シーズンであらかたの保育作業を終えたのを記念して、このエリアを囲むフットパスを設けたもの。 ■6/01 ポリコレの正体 10年近く前、この言葉 political correctness に出会ってから、まさかここまで世界を変えるとは思ってもいませんでした。ルーツを探れば、「カメラマン」や「スチュワーデス」という慣れ親しんだ呼称を、性差を表わさない別の言葉で呼び始めたことと同根でしょうから、とすれば歴史は30年近く遡るのかも知れません。新語ポリコレを耳にした一昔前の当時の直感は、こんなことになったら大変なことになる、というものでしたが、世の中はその危惧する方向に流れています。 最も強い潮流は米国のトレンドにあると言われます。大統領選の暴力的騒動なども、LGBTが象徴する、人権、マイノリティ、多様性、差別、など、まことしやかに流布するキーワードが実に根深く仕組まれていることがわかります。その根っこにある文化マルクス主義という言葉は初耳でしたが、ブラック・ライブズ・マター BLM 運動の背後に潜む、マグマのようなエネルギーには正直言って驚かされます。そして、このあたりをよく見定めておくために、自由な言論界にアンテナを張っておく必要を感じます。 まさに世界を席巻するポリコレの正体を考えるには好適の一冊でした。 ■5/28 径を拓きサインをつける 大島山林のフットパスでサインを追加、更新。詳細はこちら。 ■5/26 弁天浜で初めてロッド振る わざわざ日本海に行かなくても、苫小牧の前浜でサクラマスやアメマスを釣っているアングラーが少なからずいることを知り、5/26 に初めてフライロッドを持ってでかけました。そこで、物干し竿のようなダブルハンドをあやつり小一時間。人生初の弁天浜での肩慣らしでしたが、たったそれだけでも、今日は肩と首が張っています。 この日を選んだのは、王子製紙の煙突の煙で南風が弱いことがわかったから。アゲインストにならない日は滅多にないのです。浜の現地は東北東の風で、キャスティングはまずまずでした。見渡す限り、アングラーは遠くにパラパラと7,8人。 その足で柏原によって、今は使っていない「かしわばらフットパス」の防風林沿いに歩いてみました。山ウドの探索です。まだ早いのか、収穫はなし。かつての農地が、あまり大事に使われていないのが気がかりな、いつものコモンズ休暇ソロ。 ■5/25 米国BELL社製シカ警報器 Deer Warning を装着 先月、苫小牧の住宅街の道道で、夜、エゾシカと衝突した物損事故は、保険で車両の修理をしましたが、工事費はなんと50万円。数年前は30万円といずれも軽くなかったことから、ついに写真の警報器を取り付けました。 大分昔、野外活動で蚊に刺されないために高周波の新器具ササレーヌにいち早く飛びつき、全く用をなさなかった反省と、シカ警報器なるものが発売された時、「効かない」という噂を聞いたために買い控えしていたものです。 このたび販売の代理店に聞くところでは、当時、ニセモノが登場しこれらはほとんど効かなかったようだ、との説明を聞いて装着を決意。車両の両側に1個ずつ取り付けた小さな筒状のものから、異なった周波数の音が出て、その周波数の差から生れるウナリのようなものに野生生物が立ち止まることを利用したもののようです。 これによってシカ等の野生生物との衝突リスクを低減させる、と取説にあります。シカが住宅街の庭木まで食べ始めた胆振地方では、もはや必携のアイテムだと思われます。効くかどうかはまだ半信半疑ですが。 ■5/23 山の忘れ物は奇妙に見つかる 春の到来は勇払原野の中でも微妙に時間差がある。東北のある地域でもコシアブラご飯が定番だと知って、無性にまたしつこく食べたくなって、近くのいつもの穴場にいってみたら、ラッキー、まだ間に合った。今年2回目のコシアブラ炒め(ご飯にまぶす)をつくるところ。 山とか林は地方ではかくも身近である。そしてこの頃のしみじみとした実感、それは「山の忘れ物はよく見つかる」こと。トングや手トビ、カメラなど。先日は冬のスノモで落とした魔法瓶を、見つけてくれた人が届けてくれた。それでは、と2年前になくしたハンマーを探してみるつもり。伐倒する際にクサビを打つためのもので、ひょんなことから見失ったままだった。何故だろう、山の神が導いてくれるのか。山の道具は愛着という念力が届くのか。下草が出る前の今週あたりがリミットか。 ■5/21 鳥を聞き、見歩いて 復活した大島山林の探鳥会。山林の利用促進という目的どおり、町内からも10人以上、合計20人余りの会となった。身の回りの鳥を知りたいという潜在的な願望があるようだ。 ■5/19 雑木林の新緑 林道沿いの、気になる掛かり木を片づけに行く。道すがらの雑木林の新緑は、今シーズンのピークを思わせた。心が洗われる、とはこのことだ。言葉を失う感じで軽トラックを運転した。裏山的付き合いのしあわせ。 ■5/17 司馬 ”体すら自分のものでない?” 作家の故・司馬遼太郎氏は、東北大学医学部同窓会の講演で、仏教の無我の論は臓器移植的な分野の中では、「自分の体のどの部分も、わが所有物ではない」との見方を示した。約30前に発刊された「春灯雑記』の冒頭にある。驚きである。氏はかねてから土地は誰のものか、と歴史や皇統と関連付けて考えを示し、わたしも、対談集『土地と日本人』などを通じて、碩学らの知見に触れ少なからず影響を受けた。「人間の迷いは”我”が固定的実体だと思い込むことから生ずる」「”我”も仮のもの」とする仏教の教えは、心が単なる条件反射であるとする「色即是空」の表現を替えたものだと思われる。冥想をすると、揺れ動く我、またの名を心というこのうえに、別の何かが存在することをうすらぼんやりと感じることができる。自分の体と心は、この何かに属しているのか。いわんや、土地は・・・と拡大すると土地の歴史の見え方が変わった。 ■5/15 スドキ、猛烈な速さで伸びる 日本野鳥の会のメンバーと来週の探鳥会の下見をしたあと、雑木林を歩いてみると、すでに伸び切ったスドキ群落も見つかる。昨日、スドキを採集したコモンズ休暇のメンバーは、来週中か週末がピークかな、と話していたのに、である。こんなことだから、少し気ぜわしくなるのだ。ちょっとうれしい誤算だ。 5/13 いよいよ山菜本番、気ぜわしい季節始まる あっという間に山菜の季節が来た。浜ボーフーはやや大きく、コシアブラも時期を逃すところだった。そう思っただけで気がせかされる。コゴミも少々採った。ボンナ、アズキナはパスした。スドキは葉の直径が1cmほどであと1週間から10日。写真上は昔、山で使ったカドタのピッケルで、ボーフーを茎と根の間で切り取る格好の採取道具だ。下は伸縮する高所用窓掃除用ポールでアタッチメントをL字の金具に代えて、背の高いコシアブラを引っ張って曲げる。こんな風にして海から山まで移動。 ■5/11 葉わさびとムール貝 小樽で身内の葬儀があった帰り、南樽市場で花わさびとムール貝と出会い、即、購入。花わさびは、小さなわさび根も刻んで熱湯をかけただけで、塩もみ。辛みや風味が出る前の苦みがメインだが、それも季節特有のものして有難くいただいた。ムール貝の産地は聞き漏らしたが、近年は寿都町あたりで養殖をしているような話も聞く。比較的安く、味もバッチリ。 50年以上前、北海道に着いたばかりの4月28日、オタモイ海岸の岩場で潜ってムール貝(通称、ニタリ貝)を採って、焚火をして食べた思い出がある。翌年も友人と連れ立ってオタモイに出かけたが、人はこの時期、防寒具を着ているのに、バカバカしいほど元気だったのが、おかしい。郷里の高校では、4月から体育の授業でプールで水泳をしていたことと関係があったのか、抵抗はなかった。 ■5/8 プロジェクト70年の風景 山仕事の帰りに、待ち合わせの時間調整に掘り込み港に寄ってみた。開発局が昭和26年に発足し、その翌年から苫小牧の掘り込み水路は工事が始まったと聞く。本州に比べて道民所得は大きな格差があり、このギャップを埋めるためには付加価値の高い製造業を誘致する必要がある、と当時の為政者は考えたらしい。そしてそれが今日、北海道の物流の5割以上を占める一帯に成長を遂げた。 昭和26年はわたしが生れた年でもあるから、苫小牧港はほぼ70年の歴史だ。あらためて港を眺めると、実に壮大な水路幅で、奥の勇払ふ頭は霧にかすんでぼやけているほど遠い。莫大なインフラのもとに、石油などのタンク群、あまたの煙突、工場、倉庫などが見える。 開拓や開発に、人知、資機材、資金を総動員してきた先人の歴史には頭が下がる。農地開拓、鉄道の敷設、その歴史を紐解いてみると、浪漫も技術革新も、あるいは悲劇を含む人間ドラマも満載だったことがわかる。人々の幸せを目指した、明治以来の北海道プロジェクトを、自分の存立基盤を別のところにおいて自然破壊という一点で批判するとすれば、天に唾をする行為であるばかりか、自己欺瞞と言ってもいいかもしれない。 薪の運搬で江別に赴いて、壊されて復元もされないという開拓記念塔を遠望し無念さを感じていたせいもあったのか、先人の営みに思いを馳せることになった。北海道開拓150年というけれど、道民としての歴史と言えばそれしかないわたしたちは、まだまだフロンティアの位相に置かれているのではないか、と本州以西を目の当たりにしながら思う。その道民の一人として、なにか米粒のような、いや、ちり芥のような何かになれているのかどうか。 ■5/05 里山と縦軸 このところ、早朝、NHKBSで里山の特別番組を放映している。偶然見つけて見始めた。今朝は阿蘇の草原の焼き入れだったが、その農家の母子が盆花採りをして先祖の墓参りに行くシーンがあった。この光景が、わたしのような、親や親せきと遠く離れた核家族の決定的に欠如した世界だ。 いや、北海道全体が比較的親戚が少ない世界なので、歴史ある本州に比べれば、子供たちにとっても代々しがらみや因習にとらわれない環境だったのではないのか。そしてそれは、普段の横のつながりとは違う、先祖や神様や、もうなくなった偉人など、侵しがたい畏れ、縦のつながり、縦軸のようなもので、これは人をして自律し自立させる助けにもなる一面を持っていると思う。一方、新天地・北海道は、人情の忖度などから離れ、どこか自由でアッケラカンとした気質を生みやすくなり、ある意味では暮らし易さもあるだろうと思う 個人的なことを言えば、子供たちにもう少しこの縦軸を経験させてやりたかった、と感じたことがあった。今となっては、子供たちが嫌がる関係かもしれないが。里山には、沖縄のウタキ、宮城のイグネのような、身近な先祖という神様を木々という叢で覆う、なつかしい囲い込みがある。やはり里山には日本人の故郷の原型がのこされていて、効率やIT世界との間には、浅くない溝がある。 ■5/03 巨岩のオーラ、石舞台古墳 仁徳天皇の古墳が見たい、そろそろ高野山も行きたい…。これが4月の旅行の発端だったのですが、どうも奈良市街まで欲張ってコースに入れると効率の良い回遊が計画できず、古墳はとりあえず、飛鳥の石舞台古墳でお茶を濁そうと、自転車で巡りました。土器などの遺物が出る遺跡のようなものは東北の郷里でも身近にありましたが、仁徳稜のような古墳や規模は、古代の大和を体感するうえで、この一帯に出向かないと決定的に体験が難しいことがわかります。で、今回の石舞台古墳は古墳という名の初の体験になりました。実に興味深い。 このような巨岩・巨石を移動させる技術は、イースター島や英国ストーンヘンジなど有名な場所で種々仮説が試みられました。わたしは広島・厳島神社の弥山(みせん)に登った際に巨岩パワーにとても感銘を受けたのですが、熊野三山を巡った折の憧れのゴトビキ岩は、股関節痛で断念したのでした。大きな岩はパワーがもらえる、という日本人だけでない、世界共通の信仰があるようです。これからは原生の自然よりも、人知を超える壮大な歴史や事物、もっぱらそういうものに出会いたい気がしています。 ■5/01 Maying、春を祝う 新聞のコラムで、英国にはMayingという言葉があり、「五月祭と呼ばれる作物の実りを祈る日に、花摘みに出かけること」だという。まるで日本の万葉の世界に通じるところが感じられる。実は当方も、冬祭りとか春祭りと銘打って、雑木林の小屋で、ひとり、焚火を焚いてワインをいただきつつ夜を過ごしたものだった。 今日は山仕事で風倒木を片づけたあと、沢地で若いフキを見つけたので、わずか10数本だったが採って夕餉の食卓を飾った。並んだ肉料理などと遜色がなく、凛としていて、どこかオーラのようなものも感じられた。 ■4/28 『蜻蛉日記』を読む 歌人・生方たつゑ著の『蜻蛉日記」を読みました。リタイヤ後にはなじんでみたいという歴史と古典とのふれあいの何弾目かにあたります。思えば目指した至福の時間を確実に得ている、といえます。 日記の内容は、正妻にはなれなかった才色兼備の女性が、夫・藤原兼家との間の愛憎、確執、憤怒、悲嘆などを克明に文字にしたものでした。解説の、とある名誉教授は「…気の強さ、すさまじい憎悪、エゴがこの日記を書く原動力」だ、と評するほどです。読み始めて間もなく、ははあ、これは源氏物語と相通じる情緒の世界を描いていると感じましたが、案の定、下敷きになっていることを知ることになります。おかげで平安時代の物事の運びと時代感覚が、ほんの少しだけ身近になったような気がするのは大きな収穫です。 年代を拾うと、蜻蛉日記は、日記の書き手であるこの「道綱の母」なる人の、西暦954年の結婚に始まり、995年に没したと推定され、一方、源氏物語が1001年ころに成立とみられていることから、この日記のような「散文精神が女流作家たちに受け継がれ」「源氏物語に見事に結晶している」とする解説者の話がすとんと納得できました。また、古来、日本では女性の人権が無視されてきたなどという批判とは全く別の世界が展開し、男女は現代にも通じる典型的な男女を演じているような感じに見えます。 特にわたしが目をとめたのは、女盛りを過ぎ、嫉妬に燃え狂うのにも疲れた筆者が、自然に慰められて述懐する下り。 「…人間がどんなに知謀を巡らしても、微動だにせぬこの自然は、傷だらけの私をあたたかく包容してくれた。私は、この自然の中に身を託して、余生を送ろうと思う。人を恨まず、妬たまず、ささやかながら、平穏の日々を過ごしたいと思う。この自然だけは、けっして人を裏切らないであろうから」。裏切らず、人を見守ってくれるのが自然、と謳われる。 花鳥風月にアンテナを伸ばす日本人的なDNAが、1000年の年月を超えて受け継がれているような気もしますが、アッケラカンとした現代は、意図的にかどこかにいつしか忘れられようとしているようにも見えます。もののあわれなど、情緒というのはある意味、湿っぽく面倒くさいからでしょうか。次は、和泉式部日記へ。 ■4/26 今も世話になる「杖言葉」 人の世にはつらい時、悲しい時、うれしい時、様々な日々があるものです。。わたしなどは、この歳になってもなお、後悔の波におぼれてしまいそうなことがあります。それほど、社会常識から外れた不心得をして来た証とも言えるわけで、そのつど、わたしのこころは萎えそうになってしまいます。そんな時、羅針盤のように支えてくれる言葉を「杖言葉」と呼ぶことを知り、わたしにとってそれはなんだろうか、と自問したことがあります。座右の銘を持っている方もよくいます。折々、ケースバイケースで、そのような言葉は複数、使い分けられるのでしょうが、わたしの場合、近年、しばしば「杖」になったのは荘子の言葉でした。 その言葉とは、『将(おく)らず、逆(むか)えず、応じて而して蔵(おさ)めず』。過ぎたことをくよくよ後悔をせず、これからやってくることに不安をいだかず、その時々に応じて、それでいつまでもこころに留めておかない…のように意訳されます。これをひとつの目標と考えると、自分はまだまだその遥か途上にポツンといるだけですが、そう努めようと心構えを新たにするだけで、気持ちが少しシャンとするものです。人生、実に山あり谷あり、大波小波が寄せてきて、懸案がスルスルと片付くときもあれば、逆風が吹くこともあるものです。荘子は、その中を足元をみつめ粛々と進め、と勧めます。 ■4/23 山菜シーズン、静かに開幕 今年は大雪で土壌凍結が甘かったのか、雪が遅くまで残り過ぎたか、春一番のナニワズの開花で始まる春のサインがつかみにくかった。マガンや白鳥の渡り風景もわたしには今一つピークが見えなかった。恒例のフキノトウとホッキのかき揚げも、ホッキが店頭にないとか、高いなどで足踏みしている間に、フキノトウは文字通り、薹(とう)が立ってしまった。 しかし少しも慌てず、フキ味噌を作るつもりで、トウも構わず採取して、使えそうなものはかき揚げにした。少量のアイヌネギも手に入ったので、数本素揚げにしていただいた。今季は、川エビから風土の食祭が始まって、もうすぐ、ミツバやスドキに移っていく。浜ボウフウ、ワラビもまじかだ。 今朝、旭川に住む古い山仲間の facebook を見ていたら、ホッキとフキノトウのかき揚げの写真と書き込みがあった。閲覧した別の山仲間が「これは誰のアイデア?」と聞いたのに対して、後輩の山仲間は「昔、草苅さんに聞いた。毎年いただく」と書いていた。美味しい組み合わせはかくして伝承すると納得。見た目は良くないが本当に美味しい。 ■4/22 柳生さんの雑木林 柳生博さんの訃報が届いた。もうだいぶ前に、雑木林を創る同志と勝手に連帯感を感じて、氏の八ヶ岳山麓にある雑木林を見に行ったことがあった。 ■4/20 奈良の旅行で得た直感 吉野山を歩いた4/5の午後、近鉄の飛鳥駅で自転車を借りて、飛鳥の有名なポイントをいくつかを家人と巡った。その一つはかの有名な高松塚古墳だった。写真はその近くの高台から見た風景。飛鳥と言えば、1000年以上前、聖徳太子が活躍した場所で、隣の橿原はさらに遡った神武天皇のゆかりの場所だけれど、その地のこじんまりしたヒュウマンスケールには驚かされる。 周りを小さな丘で囲まれた、小さな小さな盆地に見える。今自分が居住まう、大きな風景と自然が展開する北海道とは、明らかに世界観が異なる。日本の歴史の原初にこんな風景があったことを、わたしは不覚にも知らなかった。いや、感じ取ったことがなかった。 そうか、これはひょっとして日本人のDNAに宿っている「ものさし」ではないのか。他国へ領土を広げて侵略するなどという世界観とは程遠い、和みの里である。世界を席巻してきたグローバリゼーションなるものの構図は、やはり異常だ。そんな中で、国を守るということは、なんと大変なことか。日本はこのままではもう終わるかもしれない、などという声に、どう身をふればいいのか。 ■4/17 634人が作る里山の風景 写真は散会後の薪ヤードのたたずまい。西日がすでに傾いている。今年も、周りの雑木林から集められた間伐木が、ようやく薪に様変わりし整然と並べられ始めた。ツルと枯れ木の山から絞り出されるように産み出されたとは、想像もできないだろう。 昨年度、一帯で修景作業に携わった人の数は、累計で634人だという。 いままで、どこでも見たことのない整然とした里山風景だ。フラットであることが奇跡ですらある。そしてなお、林の中で片付けが進んでいる。 ■4/15 脱炭素とSDGsは終わったのではないか? ウクライナの戦争を巡って、世界がごろごろと変わっている。単純に、天然ガスを輸入し石炭エネルギーから転換することなどは、根底から見捨てられられざるをえなくなったのではないか。国連が主唱し各国と大手企業がキャンペーンを張ってきたSDGsももう影をひそめざるを得ないように見えるがどうだろうか。少なくとも庶民感覚的には、SDGsなどはすこしはしゃぎ過ぎで滑稽に見え始め、川柳などで茶化され始めていた。 折も折、開発協会の地域経済レポート特集「マルシェノルド」3月号は「脱炭素社会形成に向けた地域戦略」がテーマで、冒頭、小磯修二・北大公共政策大学院特任教授が、鈴木北海道知事へインタビューしている記事「「ゼロカーボン北海道」への挑戦」が載っていた。もう10年近く前になるだろうか、道は地球温暖化対策の道民啓蒙キャンペーンをしていて、それがクライメートゲート事件が発覚したややあと、いつの間にか声を聴かなくなった。そして、何年かたってからのこのインタビューでは、相変わらずのバラ色のキャンペーンを、あまり中身がないまま再び発せられていることに驚いた。大きな機関は一度選択し動き出したものは止められないのだろう。 さらに興味をそそられたのは、社会学の金子勇北大名誉教授が、言論プラットフォーム・アゴラ誌上で、『北海道「脱炭素社会形成」のアポリア』という論考を発表して、マルシェ・ノルドの特集記事を、粛々と科学的に批評分析したのである。先生からメールで紹介されたURLを上にリンクしてみた。関心のある方は、ウクライナで展開されていることと、これらの記事を読み合わせられることをおススメしたい。なんだか胡散臭いキャンペーンだと思っていた方には、そらみろ、ということになるのではないか。 ■4/12 吉野山の行楽 ちょうど1週間前は、吉野山でサクラを見ていました。近鉄高野線は平日にも拘らず座る席がなく、お昼どきの参道はもう行楽の三密状態。しかし、さすがです。高野山と言いここ吉野山といい、修験道の雰囲気を空想しながら、歴史に刻まれた長い年月を思い浮かべて、まるで古い日本の匂いを嗅ぐように、古えとつなぐ波に束の間身を任せたつもりになれる。 奈良県の公式ホームページにはこうあります。「・・・この桜は、役行者が金峯山寺を開くにあたり、桜の木に感得した蔵王権現を彫って本尊とし、御神木として保護され、相次ぐ寄進を受けたことを発端とする。桜の種類は約200種とされるが、多くがシロヤマザクラ。この地は宗教都市として修験者が集まり、また南北朝時代に南朝の都が置かれた場所でもある。」下千本から咲き上がるので ひと月近くも楽しめる。常緑樹の緑とのコントラストも新鮮だった。 ■4/11 平川克美著『共有地をつくる』を読んで タイトルに惹かれて興味本位で読んでみました。「地」と書いてあるものの、表紙が示すように人と人の空間、共同体のようなスペースとか空間を標榜しており、そこに貨幣価値などいろいろな理論的裏付けのようなものが挿話として書かれています。東京は中延の「隣町珈琲」というたまり場=コモンズを創った自伝的読み物とも言えます。ただ、1980円はちょっと高い、という感じ。 確かにあるころから、マンションのユーティリティや敷地の緑地も、あるいはリナックスのような共同開発するパソコンのOSなどもコモンズと呼ばれる流れが生れましたが、それよりさらに「人に寄っている」内容か。 わたしも嫌いではない世界ですが、大滝詠一が言ったという「流行るものは廃れる」の言い方に沿えば、この手のコモンズは流行ることがない代わりにいつも少しずつ固定のファンがいる、と言えるかもしれないなあ、と思った次第。筆者がこだわったり忌避したりした地縁共同体というのは、「しがらみ」ですから若い人ほど敬遠するイヤなものですが、反面、懐かしい琴線に触れるものもあるようです。 ■4/10 山仕事は保育作業を終了し、片付けと修景へ、そしてこの頃 2021年冬シーズンの雑木林保育作業は、4/2(写真)の藪だしで完了し、昨日からは枝や枯れ木、切り株の切り戻しや手入れなど後始末の手直しを始めた。単純だがたのしい山仕事だ。ちょうど薪ストーブの終わりの時期と重なり、薪を1立方メートルほど残してストーブのシーズンは幕を閉じそうだ。 今季は、新たに入手したドロノキを焚き付けに使ってみたが、写真のように火付きが良く、まさにマッチ一本でつくような便利さだった。高野山の護摩焚きをみながらこのドロノキ焚き付けを連想した。来シーズンは、薪は何かを祈願しながらくべてみようか。 話は代わって、高野山と飛鳥などへの旅行を終え、千歳空港から自宅への帰途午後9時半、苫小牧の街の中心部ともいえる住宅地で、突然暗がりから飛び込んできたメスのシカ成獣とぶつかった。商店が軒を連ねる街の中であり、町内にシカが出ている話はすでに聞いていたが、正直、驚きが隠せない。 なにか、おかしくないか。奈良公園のシカを見ながら「あまり幸せそうにみえないなあ」などと呟いたのが悪かったか、車も小さくないダメージを受けた。 →噂によると、道道双葉環状線は今年1月から3月に300頭のエゾシカ死体処理が行われたとの情報があります。だとすればトンデモナイ数字です。受託した〇〇興業の話とか。野生の空間と市民生活の核心部分が、なんの緩衝地帯もなく隣接してはいけないという都市計画のミス。そのことのツケがようやく回ってきた。自然とは、ガラス張りのエアコンの効いた部屋から眺めるものだ、という提言は一理ある。わたしは四季を通じて雑木林の山小屋生活を試みているうちに、自然の中に暮らす魅力は、ほとんど感じなくなってしまった。 1週間前、原野はまだ雪があったころ、すでに初物のフキノトウをいただいたが、昨日は勇払川の土手で小さなフキノトウを見つけたので、早速採って天婦羅に揚げていただいた。川エビのドウも仕掛けたので、いよいよ、繰り返し地物をいただく何年目かの風土探訪が再び始まる。 ■4/09 護摩木という薪 名刹古刹と歴史を巡る旅行にでかけ、1日目は高野山の宿坊に泊まった。朝の勤行のあとには護摩焚きを見せてもらった。願い事を書いた護摩木を僧侶に焼いてもらう。この護摩木も「薪」と呼ばれており、焚くことは煩悩や苦しみを解き放つのだという。冬の間、毎日焚いてきた日常の薪に、そんな思いまで込めることが出来たら、と考えると気が遠くなるほど薪の意味が膨らむ。 この行の間、僧侶は、真言密教の作法で、まじないのような所作を繰り返しつつマントラを唱え、薪を次々と焚き、背中ではもう一人の僧がリズム感のある太鼓をたたきながら、お経のようなものを唱え続けている。密教はマニュアルで身に着けるのではなく、不立文字の伝承の世界と聞く。つまり、ヨガと同様、実践して悟りつつ覚える。1000年以上続けられてきたその伝承、膨大な時間、その壮大な歴史と人々を想像して、ただただ圧倒される。何という人たちだ。 ■4/03 カヌーとフライ カヌーイスト野田知佑氏の訃報が届いた。彼の、肩の力が抜けたような、世界と日本の川旅エッセーに惹かれて、結局、シーカヤックのファルトボート1艘と、カナディアンカヌーを2艘、手にするようになって、腕を磨いたのが懐かしく思い出される。水面すれすれの川や海の視点には魅了された。ご冥福をお祈りしたい。 カヌーイストの訃報を目にした丁度その日、BSの釣り専門チャンネルで、「フライギャラリー」という番組が目についたので合わせてみると、かつてフライフィッシングの時代に一世を風靡し先導した岩井渓一郎、里見栄正、佐藤成史の3氏が少しくたびれた顔をして、上野村の管理釣り場で旧交を温めていた。ある時期、サクラマスの沢井賢一、焼き鳥屋の田辺兄弟、キャスティングの小野某、荒川一洋、薪ストーブと寒山の森フライフィッシャー田渕義雄の各氏など、たかがフライの釣りじゃないか、と言わせないくらいの黄金時代があった。いつもニコニコの故西山徹キャスターのルアー&フライの両刀使いなども釣りの新バージョンをけん引していた。 今はどうなったか。釣りの専門BSでもフライの番組はほとんどない。管理釣り場で遊ぶオネエサン達をBSでみて、ああ、やっぱりちゃんとした渓流や源流の本物のフライ、もちろん海のサーフフィッシングも釣り全体からみればマイナーすぎるんだろうなあ、とフライの衰退のように見える現状にちょっと納得した。そもそも、それでいいのだけど。 --このところ、編集モードにトラブルがあって、表示がやや不規則になっています。気長に治します(-_-;) そして、明日から数日、更新をお休みします。<m(__)m> |
■3/23 寒塩引きとエゾシカ生ハム 札幌で古巣の理事会があって久々に出かけましたが、駅の北側では4車線のうちの左右2車線が完全に除雪帯になっていて、いやはや大変な大雪だったことを肌で感じました。昼過ぎに訪問したU先生のオフィスでは、帰り際に、真空パックされた鮭の寒塩引きをいただきました。早速、帰宅後に日本酒のアテにして食してみましたところ、やはり寒風にさらされたようなエゾ地の風土の香りがしてきます。おもいついて、冷蔵庫に残っていた勇払原野のエゾシカの生ハムと並べて、今晩のおつまみをセットしてみました。自然も食も総動員して風土を共有する、というのが最近のモットーですが、意図するところ、いろいろと多様な物件が飛び込んでくるものです。今年ももうすぐ川エビのシーズンが始まりますが、夏はあらたにジュンサイを加える予定。弁天浜ではサクラマスも狙ってみるつもり。 ■3/21 春分の日を迎えて 雪の多い年だったせいでしょう、苫小牧豊川町の自宅上空をガンが編隊で戻ってくるのを見たのは、3月18日でした。本来なら3月の上旬ころには、雑木林の上空も乱舞がに目を上げ、見とれたものでしたが、今シーズンは昨日の3/20時点でもまだでした。 というまに、時は春分。さあ、これから春本番のサクラの開花や新緑までが実に長い。この際、長かったパンデミック対応は切り上げて、新しい気分で新年度を迎えたいもの。雑木林での春一番の山仕事、「晴林雨読」の日々をもう夢見ています。 雑木林の藪だし作業をほぼ完了して、気分はきれいに春分モード。 ■3/17 石牟礼道子著『苦海浄土』を読了 なんとなく畏れ多く近寄りがたいものとして遠ざけていた「苦海浄土」。読み終わってみて改めて書き手に対する特別な畏怖の念が残った。書かれた聞き取り風の語りは、石牟礼道子巫女説が存在するように、彼女が相手の心を読み取って書いたとされる私小説だとの見方もうなづける。その裏で、わたしの当初の生業としてあった緩衝緑地づくりというミッションのみなもとは、実は「苦海浄土」が描く水俣病をはじめとする四大公害にあり、市民生活と公害を遮断しなければならないという、昭和40年代の現実から生まれたものだった。年を経ても緑地概念は一向に計画論を超えず地域に根付かなかった、その結果の補てんとして実はコモンズの誕生がある、その流れをしばらくぶりに思い起こさせた。やはり不思議なご縁があったというしかない。計画緑地はパターナリズム(父性主義と言われる)という転ばぬ先の杖的な起源をもち、オープンスペースを求めて暴動が起きた英国や、森なしに生きられないという願望が伝統として語られるドイツとはまったく素性が違うものだったことにも思い至らざるを得ない。渇望されない緑はもともと生活に根付かない。このことは「雑木林だより」などに日をあらためて書き足しておきたいと思う。渡辺京二氏の巻末の解説も、風土の声を語る点で出色で2度読むことになった。 ■3/15 術後6か月検診で主治医に本当は伝えるべきだったこと 検診が終わって一週間。どうもドクターに伝えるべきだったことを言い逃してしまったと後悔しています。それは施術によって、生活の質QOLが著しく向上したこと。これをまず一番に伝えてお礼の気持ちを表現すべきだった。この欠落に気づいて、年甲斐もないこの思慮の浅さに愕然としました。この著しい向上があったからこそ、機能回復の上限を聞いてみたくなったのだから。QOLが医療によってあげてもらったことを、今、シンプルに感謝の気持ちで振り返っています。この未熟さに、「お前は一体いくつになったの?」と自問、赤面。分別ある大人として生きるにはまだまだ修業がたりない。(-_-;) ■3/13 ハスカップ、北海道遺産に?! 一昨年の7月に紫の実を土に押し付けて発芽させたハスカップが、緑のまま2年目を終わろうとしている。さすがに茶色の枯れ葉模様が見え始めたが新芽らしいものは見えない。生命力や生態は依然神秘性があって、要するにまだわからないことも多いように思う。 そんな折、厚真町の篤農家が「厚真のハスカップ」を北海道遺産に申請するというニュースが地元紙に出ていた。そもそも選抜育種されたハスカップが遺産にふさわしいかは意見の分かれるところ。その前に、「農地開発や宅地開発」、そしてとどめの工業開発によって苫東にのみコモンズのように残されたエリアこそ遺産と呼ぶべきだと発信してきたものとしては、ちょっと違和感を感じた。率直に言えば、ラムサール条約の追加登録見込みゾーンに「取り残された」遺産がある、というわかりやすさの方が好ましいと思う。こうなったのも地元苫小牧に真の後見人がいないからではないか。明確にしておくべきは、ハスカップをサンクチュアリ一帯に閉じ込めたのはまず、「農地開発や宅地開発」であり、厚真のそれは道内各地に里子に出された一部でしかないことである。ハスカップの歴史はこのように繰り返し語り継がれ、変節を重ねるのだろうか。 ■3/11 薪ストーブ休日に 昨日は快晴の陽気を見込んで、この冬初めて薪を焚くのをやめました。3月5日は啓蟄でしたから、さもあらんという時期ですが、こうして寒暖の波をいくつか越しているうちに、春は目前に迫ってくるのはいつものことです。戦争のニュースの陰でコロナ過は影も薄くなりつつある現状を俯瞰すれば、内憂外患と言えましょうか。防衛や外交でぬるま湯につかっていたお人好し民族はここで何かに気づいて方向を転換できるのか、否か。かつての先輩同僚は、果敢にもマイクをもって街頭に立ち始めました。市民活動であれ闘病、療養であれ、前向きに70代を生きようとするご同輩には励まされます。こうでなくてはいけません。 ■3/09 術後6か月の検診で冷水 「えにわ病院」を訪れ、主治医の6か月検診を受けました。レントゲン結果では骨と人工物はうまくついており異常なし、との診断は良かったのですが、手術部位の痛みはなくなったことからもう普通の活動に戻りたいと淡い期待を持っていったのは、まさしく甘かったようです。普通の身体とはもう違うのだからと、危険な動作はやはりタブーとされ、そろそろ健常者に戻りつつあると思い始めていた当方には、これは意外な冷水でした。そこにある、ギャップ。先週も実は、半日はスノモに乗って丸太運びをしてしまいました。 待合室でお会いした年配の女性は、数回の脱臼にあったとのことでまだ長く通院している様子で跛行していました。ドクターには、股関節手術を甘く見ないよう、やんわりたしなめられた格好です。浮かれて可動域の上限を極めようとする当方のこころのうちを見透かされたような感じでした。そこで思い直し、晴林雨読願望には、その頭に意識して「身障者の」という冠をつけることにしました。手続きさえすればもう身障者手帳をもらえるのです。(-_-;) 確かにレントゲンをみると、骨にネジくぎや金属のクサビが差し込んであり、それを見た瞬間、尋常な身体ではなかったことにあらためて気付かされて我にかえったのです。これからは、はやる心を押さえねば…。痛みが消えた途端に芽生える慢心とは怖いものです。 ■3/08 続・耄碌の恐怖 …自覚…、と淡々と描いた方の本心をもっと言えば、このまま底なし沼のような認知不能の世界に落ちていくのではないか、という大きな不安があります。入り組んだレトリックや早い話にはもう脳がついていけないのです。これは、高齢者の域に入り込んだ方々に大なり小なり共通する恐れではないかと想像します。わたしの場合、例えば「Aさんのオバサンの息子の嫁」というような表現でも、もうついていけません。そこに難聴も加わります。テレビドラマに特有な「つぶやき」は肝心なキーワードが聞き取り不能なため、始めから視聴を断念します。そうして一般の会話も、「カヤの外でOK」と割り切らざるを得ませんから、ますます個別の瞬時対応のスキルは落ちていくのではないか?そんなダウンのスパイラルを思い描いています。もっとも、聞こえなくて切実に損をしたという実体験には、余り出会わないのですけどね(-_-;) ■3/06 耄碌の自覚 聴力視力、筋力、知力、モロモロが衰えてきてこれをどう表現すればいいかといささか悩んできた。なかなか、すとんと落ちる適切な言葉が見つからなかったのだが、今朝、いい言葉を思いついた。矍鑠(かくしゃく)の反対語にあたる「耄碌(もうろく)」である。田舎では「あそこのじいさん、少し耄碌してきたな」などと陰で言ったものだが、ボケてきた、というより少し優しさとともにありがたさがこもるような気がするのだ。確かに身体と頭の能力が落ちたことを指すけれども、この言葉を発するどこかに、「みんなたどる道」というようないたわりと諦めのようなものを感じる。 パソコンに当てはめると、身体に相当するのはPCの本体のハードであり、知力は回転がCPU、記憶力はメモリーということになろうか。そのいずれもが落ち始めるのが高齢化であり、耄碌のスタートは実は本人にもいささか自覚症状が感じられ始める頃か。自分がその段階に達していることはとうに認識しているが、人とPCの違いは「魂」の存在であろうか。魂はそういった測定できる能力とはまた別の箱に収められていて、きっと老若男女、差がなく、かつ良心のようにあまねく与えられている。ここに至って万人、なんびとも命を全うして生きる意味がある、という結論に導かれる。与えられた能力を使い切る日は遠くないと思えば、耄碌すら有難く思う。ただ周りに迷惑をかけないよう、身を引く実践を始めている。 ■3/04 五月の山に(Im Maie) BSの「世界街歩き」がザルツブルグを放映していた。そのなかで、教会の鐘の演奏(カリヨン)に耳をそば立てた。山に登っていたころ、あるいはそのあと、テントや山小屋や札幌狸小路の居酒屋「ツル」で、山仲間とハモったあの美しい山の歌のメロディーが流れたからである。チロル地方の民謡で後半部分はヨーデルになる。同じく「五月の歌」(An den Mai)もよく合唱したが、こちらはザルツブルグが生んだモーツァルトの作曲である。……明るい日差し輝き、白雪解けて流れ、せせらぐ水も愉し、春の山よ、ヨホーリホーリホレリホ 愉し春の山よ…と3番まである。モーツァルト作の方は……うるわしさつき、みどりは萌え、小川のほとりすみれ花咲く…と3番まで続く。「春の小川」も里山をうたった日本の童謡も素晴らしく大好きだが、わたしはややバタ臭くとてつもなく5月の喜びを表現したこれらの歌もずいぶん歌った。いまはかつてハモった山仲間と離れ離れでかなわないが、カリヨンの1,2小節で強烈に当時を思い出した。残念なことに、もう高音で素早く声を裏返しつつ詠うヨーデルも声が出ないが、音域はやや復活できそうな気もするから、しばらく風呂場でやってみようか。ホーミーなら時々やるのだが…。 ■3/01 二人の知性が語る『死という最後の未来』 石原慎太郎と曽野綾子という長命の部類に入れていい聡明な保守の二人が語る死、宗教、未来、そして病と日常と生い立ち。それらが平易な会話のように展開する光景に引き込まれて、並行するように字ずらを追って散歩した。そして自らの末期というものもちらちら想像しながら、「流されているのがわたしの人生」(曽野)、「情熱をもって天寿を全うしたい」(石原)と個性を見せつつ、「生涯は単なる旅路に過ぎない」、「人生で出会った人たちを探してお礼を言いたい」、などと共に響きながら発せられる言葉に耳目を集中する。これらに読み手も共鳴して安らぐ。散歩だから、少しずつ時間をかけて休み休みであるが。(令和4年2月10日初版発行 幻冬舎) Amazon の紹介にはこんな風に書かれている。“キリストの信仰を生きる曽野綾子。法華経を哲学とする石原慎太郎。対極の死生観をもつふたりが「老い」や「死」について赤裸々に語る。死に向き合うことで見える、人が生きる意味とは。…歳はひとつ違い、家も近所で、昔からの友人。だが会う機会は多くはなかったという石原氏と曽野氏。そんなふたりが「人は死んだらどうなるのか」「目に見えない何か、はある」「コロナは単なる惨禍か警告か」「悲しみは人生を深くしてくれる」等々、老いや死、人生について語り合う。老境のふたりにとっての孤独や絶望、諦観や悲しみ、そして希望とは。…” これらを小さな文庫本で楽しむのはあまりに至福の時間で、つい死など忘れてしまいそうだ。 ■2/27 シウリザクラは開花 ついに花が開いて、花瓶を置いた窓の周りはまぎれもなくバラ科のにおいがする。ひとつひとつの花は3,4mmの小さなものだがみごとに総状につけるから、愉しみは格別だ。エゾヤマザクラもコブシももちろん開花を見守りつつ春を待つ気分は悪くないけれども、こういう変わり種を愛でるのもいいものだ。 大島山林では、木、金と地元の方によって除雪が進められ、土曜日にはNPOのみんなでテントの雪下ろしなどが行われた。積雪は1m以上あるが、あさってはもう3月弥生であるから、いよいよ雪解けを意識した山仕事になっていく。こんなふうにして特徴あるメリハリをもって季節が巡るのに合わせて、人の生活リズムもトントンと調子よく繰り返されていく。 ■2/24 道内が大雪に見舞われた朝、一年分の薪2棚を使い切る 天皇誕生日の休日、山小屋の点検に出かけた。スノーシューがあるから難儀することもない、と軽く考えていたが、人工股関節手術をしてリハビリ中の高齢者が挑むものではなかったようで、つらい思い出作りに行ったようなものでした。 この朝は、ストックした一年分の薪5.4立方をちょうど使い切り、軒下のストックに手をつけたところでした。勇払原野の雑木林はかつてない雪の多さは見るからに厳冬期ながら、時折見せた日差しはもう春のもので、今回の大雪を「無駄な降雪」「春を迎える前のいつもの悪あがきだ」と考えた人もきっと少なからずいるのでは、と思います。こんな冬があればこそ、春が待ち遠しいと思う心は高まりを見せるのです。 ■2/22 読書の先にあるもの 読書三昧が可能になり、晴林雨読の日々を送ることができるのは白秋期の醍醐味だ、と密かに豪語してひとり粋がっていたのですが、待てよ、もっと具体を探ればその先には何かありそうだと、朝、雑誌とミニコミ誌に目を通している間に気が付きました。本を紐解けば、自然、人、自分、日本という国、地域、世界、そして宇宙、神、さらに家族や世間、これらモロモロについて思索する時間が生れるが、最高の至福は何かと問えば、この「時間」ということになるのではないか。哲学者・内山節氏がエッセーを「試論」と意訳したひそみに倣えば、「思索」は「試論」に行きつく。そして各々の思いはそれぞれの「試論」に導かれる、というわけだ。「試論」は時に外に向かうこともある。そこに対話が発生し一定の緊張も生れる・・・。 ■2/20 二十四節気「雨水」のシウリザクラ 二月十九日、山仕事の日は二十四節気の雨水で翌二十日は朝から小雨が降った。雨水とは降る雪が雨に替わるころをいうから、本当にこの季節感覚は北海道によく合致しているといつも感心してしまう。一月の下旬に採取して水に挿したシウリザクラは一週間前は葉っぱしかないと思っていたところ、急に花のつぼみが現れ、もうすぐ総状花序が開く。これは儲けものだ。つぼみが細身だったから花芽ではないと諦めていたから。可愛くて楽しめる花だ。苫東コモンズのフィールドではしばしば群生し、立ち入ることも難しいほどの密度になる。本によっては、「北海道バードツリー」などと書いてあるものもあるから、やはり鳥たちの大好物で拡散されているのに違いない。 ■2/17 リタイヤと健康観察 健康診断の結果、なんだか色々な健康データが横ばいか改善されたような様子がうかがえます。最後に面接したドクターの所見が元気一杯だったせいだけでなく、やはり、往復4時間をかけていた札幌通勤から解放されて、生活のリズムが著しく改善されたせいではないか、と自己診断しました。晴林雨読の読書三昧生活が思った通りの充実だったことはむろんです。それに勤め人としての仕事は、決して心と体にいいなんてことはないのがふつうです。いいこともたくさん経験で来た反面、やはり抑圧された不健康も現実だっただろうなと振り返ります。こうした折角いただいた健康と活力を元手に、精力善用自他共栄へ向かいます。 ■2/15 本を読む幸せ、あるいはそんな日常を寿ぐ 読書する十分な時間が与えられているというのは格別だ。他人の経験や思い、そしてしばしば人生に触れ、物語に没頭する。限られた時間とは言え、心を動かされて別世界を漂う…。決して社交的でなく性格もいびつな自分が、毎日、数冊の本と同じ数ほどの雑誌の中の幾ページかを読み進み、高邁な情念にも出会いながら、新聞と複数のネットニュースに目を通せば、にわか社交上手のような忙しさになって、散歩の時間も無くなりそうになってしまう。もろもろ並行して読み進むので、ある時パタパタと読書が終わることもある。 今日は浅田次郎著『神坐す山の物語』が終わった。浅田作品は、かつて泣くまいと思っても実によく泣かされた。人情も計算した筆のちからに読者はまんまとやられる。山田詠美、村上春樹などさすがに読ませる書き手(職業作家)は枚挙にいとまなし。今、読み差しの石牟礼道子の代表作は、読み進むのさえ惜しく、巻末の渡辺京二氏の解説で立ち止まっていた。そこへ、熊本新聞の正月特集に、熊本在住の渡辺氏と詩人・伊藤比呂美さんが対談していたよ、と上下の対談がデコポンの隙間を埋めるように新聞2枚が送られてきて、珍しく雪深い苫小牧の読書生活が急ににぎやかになった。 ■2/13 一足先にシウリザクラ開く 1月半ばの2度の大雪で、もう山仕事も諦めている林を眺めているとき、前の週に伐倒されたというシウリザクラの小枝が目についたので、つぼみの比較的大きい枝を持ち帰り、花瓶に挿した。このあたりには、あいにく一目で花芽とわかるエゾヤマザクラのブリブリの桜がないのである。それが丁度3週間ほどして開き始めたが、案の定、花芽ではなく葉っぱであった。でも、いいではありませんか。強い日差しのせいもあって、一足先に春らしい気分が少ししてくる。このちょっとした上昇気分。雑木林では、イタヤの樹液採取も始まった。サラサラの積雪に苦しみながら、間伐木の藪だしが進む。 ■2/11 雪山のカムイミンタラ 今から20年ほど前の冬は、数年の間、写真のように一人でカラマツの間伐をしていた。樹齢が40年を超えた、一度も手入れのされていない保安林だった。そんなある日、粉雪の降る寒い日だったが、カラマツの木立を縫って射す陽の光がことのほかか細く、暗くなったり雪が光り輝いたり、それは美しい数分間だった。思わず仕事を忘れ、その光景に見入った。神々が遊ぶという庭・カムイミンタラは夏のお花畑だけではないことをその時知った。丁度その頃、アイヌ博物館のおひざ元である白老の人たちは、「白老にたくさんのカムイミンタラがある」と言っていて、いくつかを教えてもらった。中には海岸の崖下の浜辺などもあったような気がする。自然の造景や微気象は、神々を想像させるに足るものを、束の間、ごくごく一部の人たちに不思議な光景を見せるのだろう。不思議に、カメラも持たない一人の時である。 ■2/08 土地に根をはった生き方「石牟礼道子」 わたしの周りでは作家・石牟礼道子を特別視する方が少なからずいらっしゃる。石牟礼さんと言えば代表作は『苦海浄土』であるが、わたしはいつか必ず読もうと思いつつ先延ばしにして来た作品だった。何だかとても重たい気がしていたのだ。プロフィールを調べていると、山仲間の住む住所で代用教員をやっていて、ほとんどその界隈で暮らしていたことがわかった。さらに肉声に触れるべく、まずエッセー集「蝉和郎」を読んだ。苦海浄土の足ならしである。読んでよかった。熊本の田舎の描写がリアルでさすがに詩的でもあり、人間の生き様(この言葉はふだんは好きではないが石牟礼さんの描写はぴったり)の根っこにはどうしようもない業のようなものがあり、人の心のどこかには必ず良心のかけらのようなものがある、というような視点があるように感じる。人が生きるも死ぬも、生き物全ても淡々と低め安定の語りで、それが妙に落ち着く。数々の生き死に、幸不幸をくぐって来た人特有のものにも見える。そしてこの低め安定がわたし本来のテンションででもあるのか。石牟礼氏はこの土地に定住しながらやがて水俣病と闘っていく。エッセーは「土地に根ざす」という生き方を垣間見る思いだった。土地に根ざせばグローバリゼーションの影はたちどころに消えそうになる。それでいいのだ、という声が聞こえる。 ■2/06 スマイル・ジャパンのアイスホッケー シナ(中国)のやり口には賛同できないので、冬季五輪観戦は基本的に止めたのですが、ちょっと横目で女子アイスホッケーを見ているうち、向き直して正面から見てしまいました。「なんと、成長したことか!」。わたしは会社のチームで20年ほどアイスホッケーをしたので、国内外のゲームも良く観たものですが、国土の星野、西武の若林、王子の若狭、岩倉の桜井などがオリンピックにも出たころ、パスの通りが悪く、まことに歯がゆく思ったものです。が、スウェーデン戦やデンマーク戦のスマイル・ジャパンはあの頃の男子とほぼ同じくらいにパス回しがうまく、シュートなどの技術向上も素晴らしいように感じたのです。それで頭に浮かんだのが「成長」でした。当時すでに女子チームは苫小牧にもあって、練習でリンクで出会うこともしばしばでしたから、練習風景からみてオリンピックなど想像もつ来ませんでしたから尚更です。⇒ゲームの流れが良く見えるのは、女子は厳しいボディチェックが禁止されているせいでしょう。かつてNHLのゲーム運びが素晴らしく見えたのは、あまり止まらずハイスピードで攻守が転換されていたせいだと気付きました。2/7 今、苫小牧はコロナのためか、子供たちの町内リンクも用意されませんが、近所にカタカタと音のする家があって行ってみると、周囲と天井にネットを張った畳8畳ほどの個人リンクがあって、小学校高学年と思しき女子が、駒ネズミのようにパック操作とシュートの練習をしているのでした。あの子もきっと胸を膨らませてスマイルを応援しているはず。頑張れ、ニッポン! ■2/04 国の進む道と形 とうとう石原慎太郎氏が亡くなった。「日本人としての矜持と胆力」の象徴のようにも評された。わたしは氏が終戦間もない高校生の時に、市ヶ谷の旧陸軍士官学校で開かれた東京裁判に、毎日のように下駄をはいて出かけた(そして守衛に怒られた)というエピソードを聞いた頃から、東京裁判に興味を持って、遅まきながら日本の歴史をまじめに学び始めた。70年以上前にGHQが推し進めた日本人の心に贖罪意識を強く刻印し二度と米国に歯向かえないよう、周到に仕組まれた日本人改造戦略 WGIP(War Guilty Information Program)が今日に至るまで、かくも浸透し効力を発揮し続けるとは、さしものGHQも想像していなかっただろう。一部の識者が、もう日本は手遅れかもしれない、などとつぶやくような近年も、石原慎太郎氏は敢然と国家観を示してきた。心からご冥福をお祈りしたい。 合掌 ■2/02 グルクンとハチガラ このところ、石牟礼道子さんのエッセーを読んでいる。その中に、長崎の島原の方が、相手を様付けで呼び、それはそれは優雅だったという思い出が語られていた。石牟礼さんはわたしの山仲間が住む田原(八代市と水俣の中間あたり)の近くに住み代用教員をしていたなどから、何かと連想を膨らませて読み進んでいたのである。そこからわたしの連想はおととし別府の宿でいただいた、非常に美味しい初めての魚「グルクン」(写真左)を思い出した。給仕してくれた方はわざわざ板前さんに名前を聞きに行ってくれてわかったのだったが、忘れられない濃厚な味で、スマホですぐ調べると沖縄の県魚とある。そうか、九州の人たちはこんなおいしい魚を食していたのか…。正式な名前はタカサゴというらしい。 と、連想はさらに進むと日本海は島牧の宿でいただいたハチガラを思い出した。冬のアメマス釣りに行くときの定宿にしていた島牧の「高嶋旅館」(今は岩内に移転している)でアワビの石焼と刺身と一緒に必ず出してくれる小さな焼き魚だった(写真右)。これはスーパーや魚屋さんんでは見たことがない。きっと、かつての八角のように地元の人だけが食する雑魚扱いかもしれないが、ご当地ならではファンがいるはずだ。おかみさんは築地に行ってしまうようなことも言っていた。ついでにまた思い出したのが、噴火湾の八雲あたりで食する「どんとほっけ」である。どうもタコの内臓のようだったが、本来は捨てる部分をざっと湯がいたものらしかった。お酒にはよく合う、やわらかい食べ物だったが、海のそばを故郷に持つ人、数人に聞いたが、これを知っている人はいなかった。 ■1/31 『雨ニモ負ケズ』とヨガ ヨガの修行には8つの段階があるとされる。すなわち、禁戒、勧戒、アーサナ(体位)、調気、自己コントロール、統一、禅定、三昧である。これらをたどっているとき、2番目の勧戒で、『雨ニモ…』はこの勧戒そのものの宣言ではないかと思いいたったことがある。心を聖化し、積極化し平静に保つに必要なことを勧めるのが勧戒であり、殺生や盗みなどを禁じ貞潔などで自律させる第一段階の禁戒を超えて、あるべき道を前のめりで朗らかに指し示すものである、という意味が付される。清浄、満足、秩序、学道、念神が勧戒の初歩の5か条とされる。賢治の『雨ニモ…』の宣言は今でも吟唱してみたいフレーズに満ちている。ヨガを起源とする仏教などの教えの中には、必ず戒める禁戒の数々と、第2段階の勧戒の5か条が見受けられ、賢治の身近にあった概念であっただろうことは容易に想像できる。 ■1/30 賢治の自然観 宮城一男著『宮沢賢治と自然』(1983 玉川大学出版部)を読了。日本人は自然をどうとらえてきたのか、そして自然観がどう移り変わってきたのか、改めて考えてみたい衝動にかられ、『山と詩人』を読み、それに続く二冊目の自然観探訪となった。賢治の童話がどこかエキゾチックな趣があったのは、地質や岩石の専門用語とラテン語めいたものがちりばめられていたせいだった。たとえば落葉松に学名で属を表わすラリックスというカタカナでルビを振るなど、だ。そしてそれら不可思議な文字が作品の中に宇宙的な広さを感じさせる元だった。が、岩石学の専門家である著者のワンポイント解説で、大分親しみが持てるようになったのは意外な収穫だった。 また、初めてエッセーのような文章を目にしてやっと賢治の口蓋に触れた気がした。迷信や無知蒙昧に近かった農民・農村を、科学によって明るみにだそうとするような慈愛に満ちた独特な使命感をエネルギーにして、森羅万象を博物学的な視点から紐解き、多くの童話や詩で心を表現した賢治作品であるが、著者は賢治がそこに科学と宗教の接点を求めていた、と考えている。 その見方に、わたしはもっとも親和性を感じる。自然は神性を備えた超越した存在であり、科学で分解や分類はできないあるもの。「虔十公園林」は懐かしく熟読し、伐採をするときに村人が「少し木貰っていいかあ」と聞く「狐森と笊(ざる)森、盗人森」には、自然との関わりの根幹を表わす普遍的な思いが込められている、と改めて感じる。こうして振り返ってみると、自然=森羅万象は、宗教のような立場にたって付き合い眺めるのが、もっとも「自然」なように見えてきた。『山と詩人』では花鳥風月をとらえる感性がまずあり、その後ろに社会があった。人間も自然のなかのひとつの生き物、という賢治の慈しみに近い視点は多くなかったように思う。 ちなみに、この本は前の職場のライブラリーを処分する際に、放出されたものの中から頂いた。ありがたい拾い物、だった。 ■1/27 歌に見る庶民の共感 10 この頃、川柳が目や耳につく。すでに紹介した「声高にSDGsと言わねども農夫は還す根は葉は土に えすでーじーず」は共感する人、多々。そのあと、「SDGs言うやつみんな金めあて」、これは金子先生の地球温暖化の論考の感想にもお書きした。「オミクロン検査しなけりゃただの風邪」。然りである。この視点は政府や専門家の見解より、明快でわたしはこの陣地に一画を構えている。 さて、今日挙げる共感。 ◎「いち年を介護と家事と畑いじり すき間なき程老後は濃くて」 (深川市 M子さん) …無聊にかこつけて老後を送るのと真逆の日々。前向きな姿を想像して励まされるような歌。わたしも頑張ろう。 ◎「おでん炊き今日のことだけ考える」 (久喜市 Fさん) …目の前の足元に集中する。禅や冥想の教えに「今、ここ」という言葉があるが、思えば、過去も未来も、色即是空。意外なことに、迷いの「今」に腰を降ろせば、救いがそこにある。家事(仕事)は偉大だ。 ◎「徘徊の母を見つけて帰る道 空は夕焼けあしたも晴れだ」 (匝瑳市 Sさん) …認知症のお母さんを離れたところで見つけての帰途。民の営みへ思いを馳せ、亡き母を思う。何も恩返しできなかった…。 ◎「「パパはもっとかっこいいのに」 似顔絵を書き終えた児の小さき溜め息」 (徳島県 Iさん) …自然に育つ親子の情。子供には生まれながらにしてピカピカの感性がある。人にはもともと生れながらにして、穢れのない良識、いわゆる仏性(ぶっしょう)が備わっているように。この性に日々向き合う習慣を大切にしたい。 ■1/26 北海道のナラ材と枕木 学生時代の山のクラブの先輩が、北海道の鉄道の歴史について本を出したので読ませてもらった。北大の工学部を出て、JR東日本に就職され、近年はインドの高速道路プロジェクトに携わってインド滞在が長く続いていたのは知っていたが、その間に、このような緻密な文献研究もされていたとは知らなかった。道内の鉄道は、道路や河川などと違い、歴史や経緯を俯瞰し総括されたのを見たことがなかったので、わたしにはたいへん興味深かった。山仲間のOBのその後のネット会話では、本の中で紹介された新宮〇工のメイン業務は何だったか、などが話題にされ、木材貿易や薪ストーブ輸入販売なども云々されていた。わたしはあの会社が、設立された大正8年に、朝鮮半島の鉄路のためにナラの枕木30万本を輸出した、とされていることに興味を持った。仮に0.8mおきに敷かれたとすると、延長は270kmになる。一方、苫東の静川当たりのナラは、明治の終わりごろ皆伐され、イギリスの貴族用の棺材として輸出された、と苫小牧市史に記されているが、そのあと、ナラは枕木として大陸で使われ、やがて満鉄で使われたことになろう。満鉄の枕木が北海道産であることがわかって、当時、世界の3大ナラ(オーク)材産地は、一にチェコ、2,3番手にカナダと北海道が続いたと聞いたことがある。 ところでこの商社は薪も販売していて、苫東コモンズの薪単価を設定するときに参考までに調べたことがあった。当時はまさかと思うようなとても高価な印象で、当時は積丹の材だ、と聞いたような気がする。ナラの繋がりの小さなエピソードだ。 ■1/24 大相撲の伝統と新しさ 昨日は初場所の千秋楽で、関脇の御嶽海が横綱・照ノ富士を破って優勝した。そして相撲協会の理事会が招集されることとなり御嶽海の大関昇進が決まった。勝負がつくまでは解説者も憶測の域だったが、優勝して間をおかず速報が解説席にも届いた。「大関にふさわしいか」という親方衆の眼力に委ねられていて、実は昇進の目安というのも確たるものはないらしい。そこにあるのは客観的な基準でなく、角界独特の空気感だといい、新聞のコラムはそこが「新鮮」に映ると書いていた。 不文律、ルール不在などというのは、今日日、遅れたものの代表というのかと思えば、そうではない、と。明文化されない空気感というのは、逆に難しさをはらむ。コモンズという仕組みも、それを実験するNPOの運営も、どこかそこに似ていて、あえて明文化しないで現場対応とし臨機応変に対応を折々の理事らがジャッジし、右に左に蛇行して進めてきたことを思い起こした。「今や、最先端の交信技術はテレパシーだ」、という見方とちょっと似ていて、いささか励まされる気がした。 ■1/23 e-taxを準備 医療費控除とふるさと納税のために今年はe-tax で確定申告をしようと準備を始めた。ここ数年、政府だけでなく民間もデジタル化の波が急ピッチで押し寄せ、マイナンバー制度などはポイント稼ぎの損得勘定も後押しして、大変なプレッシャーである。経理的な素養も能力も皆無の当方にとって、これらは難関と呼ぶべき壁であり、e-tax にあってはゆっくり準備期間をセットしてストレスを生まないようにしたい。それにしても、この波はなんだ。できませ~ん、などと嘯いていると置いていかれる。時代の流れの本流はどうも明らかにここにあり、世代の交代もこうして進むのだろうか。きっとそうだ。後世の歴史にはそれらしく書き込まれることは間違いない。 ■1/20 地球温暖化の知識社会学からのアプローチ 財団の研究所に勤めていた際に、北大の金子勇先生の「エンパワーメント研究会」をサポートさせていただいた。先生は少子化、ソーシャル・キャピタルなど多様なジャンルに社会学の立場で精力的に取り組まれ、野外調査を含め門外漢のわたしもそばで大変勉強させていただいた。先生は10年ほど前から「環境問題の知識社会学」にも取り組んでおられて、先日は「昨年末から現今の「脱炭素社会」や「二酸化炭素地球温暖化論」を相対化すべく、国際環境経済研究所webに7回の連載をしています。本日が第6回目の掲載で、最終回は1月20日の予定です。」とのお便りをいただき、数日の間少しずつだが早速読ませてもらった。(実は科学論文はわたしにはもう辛い(-_-;)) 結論は、「再エネは原発や火発と機能的等価性はない」ということになりそうで、そこへ至る過程で、地球温暖化問題や再エネのからくりも明瞭にされる。関心のある方には是非お勧めしたい論考である。⇒雑感/北の森カフェ1/24 ■1/18 寒中見舞い 今年は寒中見舞いを出すことになったので、年末年始はかなりのんびりした流れで過ごしました。いただいた年賀状には、「体が言うことをきかなくなった」とか、体力の衰えを嘆くものが多々見られるようになっています。そんな訳で、ここはひとつ元気よく声を掛けよう、という思いが募り、人は加齢とともに気が目減りするから大地の気を山菜などから分けてもらおう、というメッセージを込めて、山菜の画像をいくつかはめ込んでみました。さすがにこんなのんきなことを書いている方はいなくて、そもそもが気なんて死語になっているようだし、山菜で補おうなどという発想は理解不能かもしれません。でもいいのです、わかる人はしみじみわかる、そんな世界ですから。アイヌネギ、スドキ、コシアブラ、ワラビ、サンショウの絵を選びましたが、そこに早春の川エビも加えました。今年の課題は、ここに弁天浜のサクラマスと川に上がった黒すけのシシャモを足すことが出来たら最高です。 ■1/16 「見ること」による動機付け かつて日本のアイスホッケーは世界の大会にも出場し、王子、岩倉、西武、国土などのチームがしのぎを削って、国内にファンも多かった。たしかBSがデビューする前でもNHKだったか民報だったかで北米のNHLのゲームが放映され、その迫力に魅了された。その後、BSで The Fry-Fishing という番組があり、北米大陸の川や湖でレギュラーの熟年夫婦などがフライフィッシングを披露した。これも非常に面白い、ワクワクする番組だった。海外事情などをこうやってマニアックに見せられるととても刺激が強く引き寄せられる。逆にあれらが消えてから、アイスホッケーは下火になり、道内のフライ人口だって増えているように見えない。 ところが最近のBS番組表で「BS釣りビジョン」なる番組があるのを知り、見てみた。「極北カナダ鱒釣り旅」なるものがあったからである。フライではなくルアーだったが、見知らぬ土地の釣り実況はさすがにワクワクした。「見る」は動機に繋がる。「よおし、今年はロッドを振ろう」という希望が湧いてくるのがわかった。 ■1/13 意外な優れもの「ストレッチ・ポール」 股関節の手術以後、足の長さが少し変わったのか、右肩と首筋が極度に凝って痛いと訴えていたら、年明けに娘が写真のストレッチ・ポールなるものを送ってくれました。このポールに仰向けに寝て背筋を伸ばし肩甲骨のあたりを15分ばかりリリースするだけですが、翌朝は揉み返し状態、その次の朝も同じ、そして3日目に痛みとコリが忽然と消えました。なんと不思議な器具でしょう。しかも使ったその晩から熟睡、快眠状態でしたから、痛みはいわゆる好転反応だな、と目星はつけていたのですが、大正解でした。同じような悩みをお持ちの方には、超おススメです。 ■1/11 住む土地から「気」をもらう山菜とジビエ 確か気功かヨガの本で読んだのですが、人は加齢とともに心身のエネルギーが減退する、免疫力などもまさにそうで、それを「気」を取り込んで補う、そのために「気場」に身を置くか、「風土の食」を口から取り入れる…、という主旨が書かれていた。その食のひとつが畑の野菜や山菜であり、時には野生鳥獣の肉、即ち「ジビエ」であります。この外に魚もあるでしょう。わたしの「山菜信仰」はこのあたりが起源といってもいいでしょう。(笑い) ところで、道内に住んでいるとしばしばシカ肉をもらうことがありますが、思わず絶賛するような按配とはいきません。が、先日届いたものは逸品でした。ひとつは生のシカのロース、2回目は時間をかけて塩分発酵させた自家製の生ハム。その昔、ジビエは生活そのものだったものが、欧州ではそのうち嗜好品や贅沢品となり、一方日本では、マニアを除けばまだまだ特別の扱いに至らず、捨てないで興味半分で食する程度の消極的な食材にとどまっています。食文化として定着していないという証明ですが、まあ欧米人に比べれば日本人はほとんどベジタリアンに近いので無理はありません。さて今年の「地のモノ」信仰はこうしてシカで幕を開けました。白老の浅羽ガレイの煮着けもそんな思いで調理し、食しました。早春には山菜の前にまず川エビの出番です。 ■1/09 野鳥と出会う賢い「しかけ」 人にはしばしば童心というものがあって、鳥たちの会話が聞こえる「聞き耳頭巾」があったらなあ、などと夢見るものです。そして、もっとそばで会いたい、手や頭に載せたい、庭に呼びたい…などなどとエスカレートします。餌付けはそこでかなり有効な手段ですが、餌依存を誘発し野生にはすべからず、という風潮が一般的になりました。北大苫小牧研究林は、伝統的に?野鳥の手乗せができる場でしたが、今年発見した「やぶ」は、このような願望と野生鳥獣保護を折衷した画期的な妙案と見ました。近くで要らなくなった灌木の根っこや枝を無造作に置いて、そこにどうやら、大学関係者か市民が餌を播いている模様。で、どうなるか。小鳥たちは、人間の餌付けに興味を示さず、外敵から守られたこの薮めがけてやってきては、枝に守られながらいささか悠々と採餌します。ヒトは、それを至近距離で観察できるというものです。これはなかなかのヒット作だと思いませんか? ■1/05 雑木林と薪のエッセー、集まれ~! いつか、北海道で雑木林や薪の話、、そして薪ストーブのある暮らしをしている人のエッセーを読んでみたいと思っていました。いろいろ探してみたのですが、どうも思い描くものが見当たりません。そこで、このホームページにコーナーを作って、友人知人らのエッセーから始めることにしました。リンク先は「北の森カフェ」、取り立てて大きな目標はありません。好きな人の、カフェのような、ただのたまり場です。 ■1/04 人付き合いの濃淡 届いた年賀状を一枚ずつめくり、相手を思い浮かべながらちびちびリとお酒をいただく、というのは正月の愉しみの一つでしたが、この歳になればもう年賀はやめました、というたよりもチラホラ出てきます。年賀状をいつ辞めるか、というのは、年に一度、旧交を温める付き合いの場合などはいささか微妙です。しかし、勤め人の場合、組織が大きいと、こちらがお世話になったと感じて出した場合でも返信が来ないこともしばしばだったことを思い出します。民間の小さな会社の場合は亡くなるまでとことん付き合ってしまうこともあるのに比べれば、特に官庁系は実にあっさりしているようです。考えてみれば、転勤や移動のつど、関わった人に出していたらキリがない、という当たり前の話。このごろようやくわかってきたのは、「去るものは日々に疎し」で、縁があれば再開の機会があるから、付き合いもお互いに断捨離が自然ではないか、ということ。年賀に限らず官庁系の縁切り、わきまえ、理にかなった割といいものだと見直して、「随流去(ずいりゅうこ)」の構えに入ります。残された時間が多くないことを実感するようになると、決断も歯切れを増すような。 ■1/02 新年、2日目 明けましておめでとうございます。年が改まる都度、来し方、特に去った一年を振り返ると、一年前の年頭に心に浮かんだ希望の道筋のようなものが、大なり小なりトレースされ、いくつかは成就している跡が見て取れます。ということは、年が替わるのを機会に「念じてみる」ことの意味が知れるというものではないでしょうか。 ところで、この年末年始はさしたる雪かきもせず読書三昧でした。懸案の古典で言えば、高樹のぶ子の解説になる『伊勢物語」で足ならしをしました。昨年読破した『源氏物語』の下地になっていることは初めて知りました。つまり、在原業平が光源氏のモデルではないか、ということですね。朧気ながら聞いたこともあるような…。それから、山の先輩Tさんによる『北海道の鉄道開拓者』。技師大村卓一の功績を追ったものですが、全般に展開される北海道開拓に関与した開拓史など明治政府関係者をはじめ、内地の人たちの多様さとエネルギー、そして国防と新天地建設への高い意志、人脈にはあらためて圧倒されます。近現代の北海道における地域開発の礎部分に当たります。 さらに『北海道ジビエ物語』。岩崎寿次著の、エゾシカの駆除から食肉ブランド化へのクラスター形成の取り組み(小史)が描かれ、コモンズの特別顧問の小磯修二教授が釧路公立大学学長時代に、「30年かかるつもりで」とアドバイスしたことがバックグラウンドとなって、丁寧なネットワークと研鑽を積んできたことがわかります。 歴史としてみてみれば、開拓も鉄道も遥か彼方の出来事のようにかすんで見えますが、それらがジビエプロジェクトのように、コツコツ丁寧に編み込まれていることを知るのは、懸命に今を生きる人々の元気につながるのではないか。 このほか、時事問題のレポートや人間学の雑誌にも目を通していましたら、二宮尊徳翁の「積小為大」という言葉に出会いました。「小さなことの積み重ねが大きなことになる。大きなことを成し遂げようと思うならば、小さなことを疎かにしてはいけない」の意とか。年頭にふさわしい句として有難く読みました。 |