関係を積み重ねる
「古い家のない街は想い出のない人間と同じである」。日本画家の東山魁夷が語った言葉になるほどと思ったものです。雑木林との付き合いも、古い家のように里山として扱われた地域との関係性と経過を大事に、折々に更新もしながら、そして時にはスクラップ・アンド・ビルドに遭遇しながら、揉まれて維持されて行きます。 世の中、そういうものだと思えば、何も怖くはないものです。山あり、谷あり、そして恐らく足跡はかすかにでも残るでしょう。冬の雑木林を歩くご夫婦と出会っての、ふとした感想。 |
山の見回り 2022/03/30 曇り 6℃ solo-work 雪解けが急激に進んでいる。この目まぐるしく変化するこの時期、林に丸太を残さないで保育シーズンを終えるために、手入れ個所を一回りしてみた。スノモの入りにくい奥にまだ結構残っている。 スノモの侵入ルートと出口を考えて作業をするのは、なかなか熟練を要するので高望みはできないが、これは軽トラックでの搬出でも同様に求められるから、おいおい、スキルアップする必要が見えてくるはず。 また、写真右のような作業途中の掛かり木もあるので、雪解け後もフォーローする必要が出てくる。目指す「美しい雑木林保育」は本当に手間がかかる。この手間は世間には理解不能の瑣事であることが、これまた興味深い。さらにこの手間、瑣事に、結構な充実感があることなど、わかってもらえるはずがないことも、現代の精神病理を連想させる、と言えば言い過ぎだろうか。 シカの食害試験地も裏側から回ってみた。どうやら全く食害の形跡はなく、3年前の伐採跡地は順調に、「立派なヤブ」になろうとしている。あいにくの曇天になってしまい、早春のあの、胸が膨らむ雑木林風景は素顔を見せなかったが、今日の山も一期一会、白秋期の晴林雨読の一コマである。合間に、「そば哲」さんの薪小屋を勝手に下見して、収めることのできる量を店主の息子さんと打ち合わせた。厚真の田園にマガンたちを見に行くつもりだったが、時間切れになってしまった。 石牟礼道子著『苦海浄土』からコモンズ緑地を考える 2022/03/29 tue 快晴 昨夜は、玄関先上空を半年ぶりに白鳥の編隊が北東の方角に飛んでいきました。いつもより、2週間ほど遅い春のたよりです。こういう明確な季節のサインを日々、目に入れることができる勇払原野。一面ではとても殺風景でもあるこの地に住んで本当に良かったと思う日です。昨日は、出始めた地物のホッキを刺身でいただきました。これからは勇払原野に自生するいろいろなものを次々と口に入れる機会がどんどん増えてきます。愉しみです。 さて、長らく敬して近寄らずに来た石牟礼道子著『苦海浄土』を、先日、ようやく読み終えました。熊本で水俣病に苦しんできた患者の姿を、熊本弁による一人語りとともに偲んでいくのは涙なしに読めない、そしてもちろん決して素早く読み過ぎることなどできないシーンの連続でした。 こうして少しずつ読み進みながら、学卒で縁あって入社した苫東という会社が関わるプロジェクトをすぐに思い起こしました。このプロジェクトが擁する、敷地1万ヘクタールの3分の一に及ぶ3400ヘクタールの緑地が、実は四大公害、とりわけ熊本の水俣病に始まる公害と、農業空間や市民生活空間を遮断する緩衝機能を目指したのが発端であったことを思い出したのです。この一点に思い至り、愛読した渡辺京二氏、詩人の谷川雁氏など、そして、山仲間や、寄宿舎時代に会った何人かの熊本生まれの舎生らにも、多少ともなにかの縁があったのだと思い至りました。 昭和20年代の後半から出始めた水俣病やイタイイタイ病、四日市ぜんそくの公害の悲惨な現実と反省に立って、昭和44年の国土計画「新全総」では大規模工業基地構想に、緩衝緑地という概念が取り込まれ(もう盛り込まざるを得なかったのでしょう)、苫東プロジェクトでは広大な緑地を外周と東西の中央部に張り巡らせることになったのでした。 《つまり、熊本で水俣病という惨事が発生していなければ、言い換えると石牟礼道子氏による『苦海浄土』がこの世に出なかったら、「苫東コモンズ」は現在、存在していなかったのではないか・・・。》 苫東という産業空間は、その後曲折を経て、その広大な緑地の管理に十分な手が回らないでいるうちに、そもそも緩衝する「公害」がないという、風変わりな産業基地に生まれ変わり、苫東コモンズは、その放置された雑木林やハスカップ原野を地域共有のゾーンとして地元が保育管理の手助けをしようと生れたのでした。緑地や林というのは、本州の里山のように誰かが後見人となって手入れして初めて「憩える緑」が生れますが、いち早く名乗りを上げた地元の後見人が、実はNPO苫東コモンズだったのでした。 しかしなぜ、所有者も地域も、勇払原野の風土や雑木林に多様な価値を見出さず、利用プログラムも立てず放置されてしまうのか。その理由が、計画された緑地というものが、魂のこもらない「上からのインフラ」、言わば「転ばぬ先の杖」、いわゆるパターナリズムのせいだとわたしは思っています。緊急性に迫られ、にわかづくりの計画緑地こそ、手づくり、手自然など及びもつかない官の得意な作法であり、コモンズの活動は、そこにある所有権という垣根を少しだけ横にずらし、地域が活用する補助策だったことになります。 四季を通じた苫東コモンズの現場の管理作業には、すき間だらけに陥りがちなパターナリズム緑地の内側、あるいは現場という立場からていねいに目張りをする、無私の手仕事のような一面があるようです。 今、わたしの手元には、小野寺浩著『世界遺産奄美』という本がありますが、北大農学部の先輩でもある小野寺さんは、環境省という国のガバナンスと、県庁というローカルガバナンスと、さらに現場という3つのステージを精力的に、しかも超人的にこなしながら、行き来し、パターナリズムに陥りかねない自然のガバナンスを、より地域に密着して進めるモデルづくりに邁進した数少ない「自然保護行政」マンのように見えています。地域のプレーヤーをうまく味方にするアジテーター的能力も抜群だという噂も聞きます。 そして机に置いてあるもう一冊は平川克己著『共有地をつくる』。帯には「私有財産なしで、機嫌よく生きていく」というキャッチが書かれていますが、目次をざっと見てもわかるのは、世の中は、共有から私有へと向かった資本主義から、再び、過剰な私有を脇において共有に向かいつつある、という雰囲気です。この方は、その流れを気楽に書いているように見えます。 《このような、共有地とガバナンスというテーマは、どこか非常に密接な関係があって、気がとおくなるほど難しい課題を含んでいることは、直感的にわかります。従って、この稿も引き続き考えを深めていければ幸いです。》 microsoft がwindows というOSを開発し、世界中がこれを使わないとITの生活ができないようになったころ(独り勝ちの私有です)、フィンランドでは時を同じくしてリナックスという共同開発型のOSが生れて、それぞれのモジュールをボランティアが開発して合体させ運用していく。出来上がるリナックスOSは無料で開放し自由に使う、それが今、コモンズと呼ばれているのはご承知のとおり。そんな共有の動きが進んでいることと、似た構図が見えています。 さあ、これからどうなるのでしょう。共有の考え方は、まさにどこまで「共有」されることになるのでしょうか。 保育の仕上がりをどうする? 2022/03/26 sat 曇りのち雨 7℃ abe-aki kawai kuri kusa tomi-k migita wada ya-taro seki = 9 persons ■伐倒してほったらかしは最悪だぞ~!の巻 大雪のおかげで作業ができなかった日があったかわり、その雪が林に残っているので、現場はまだ雪山状態で、スノモの藪だしと片づけをした。昨シーズンは3月20日はもう雪はなかった。一昨年は3月14日に、もう薪割りを始めていた。 数週間前に伐倒されたヤマモミジが数本、放置されているので、枝の片付けなどをした。モミジやイタヤは枝が多いことがあり、きれいに片づけるには手間がかかるので、嫌がる人もいる。うら木枝条を極力現場にたたんで片づけるというコモンズのこの流儀は、効率重視の林業の山ではやらない。だから、プロの林業現場は往々にして汚い荒れた状態になる。 こちらは山仕事の跡の荒れた状態をできるだけ見せないという、森林公園、正確には「雑木林の里山公園」みたいなものを目指しているから、伐倒した後は知らんぷりはできない。むしろ、伐倒後に気を配る。そして何事もなかったかのように、普通に見せる。 ややして薮出しに目途がついた3人が手伝ってくれ、目指す仕上がりにようやくなった。残っていた掛かり木の玉切りもすましてその伐倒に履歴として切り株を見ると、右側に弦(つる)を太目に残して倒れる方向を右側に修正して振った形跡が見られた。木は開けた空間に見事に倒れている。この程度の太さになると、ここまでうまく補正できるか、未知数だ。誰の仕事痕かな~と声をかけると wada 塾長のようだった。「すごいですねえ」と賛辞を送ると、「なに、勝手に倒れたんだ~」と謙遜した。 藪だしはkuri ちゃんに頼んだ。後部座席のサポートは今回初めて ya-taro さんのコンビ。ヤブに入るのに、最初はルートを見つけるのに難儀していたが、数人で誘導するコモンズの方法に慣れた頃、ようやくスムーズに運搬のサイクルが見えてきた。 一方、abe-akiさんが最近個人的に入手したポータブルウインチを試運転したいというので、奥の風倒木や掛かり木をスノモで案内し、作業してもらった。2年前の枝折れは、株が腐れ落ち、昼前に迎えに行ったときはさらに上部に残ってしまった枝にロープをかけるところだった。 太い枝でも折れてから2年ほど経つと、ほとんど見た目ではくっついているだけの状態となっている場合が多く、簡単な振動や引っ張りで落ちてくることがある。だから非常に危険だ。abe-aki さんはスパイクで幹に昇りロープをかけ、ウインチでけん引後、とどめはwadaさんのゆさぶりで落下した。 |
薮出し、ほぼ完了して年度末の理事会 2022/03/20 sun 曇り時々晴れ 3℃くらいか abe-e oyama kai kawamura kusa naka-f&s tomi-k&m migita wada ya-taro seki = 13persons ■早春の山仕事、終盤 春分の日の前日、作業日を一日順延しての本番。大雪と悪雪に悩まされて、本来なら林道の雪が解けて作業を終えている頃だが、3/20 、絶好の雪のコンディションとなって、大雪も幸いして十分な雪があり作業は大きくはかどった。 ところが、最後の現場は除伐がまだ完全に終わっておらず、丸太が細い藪の中にあったり、ツルがそのままぶら下がったり、そこに薮出しサポートのなれた経験者がいなかったことも重なって、侵入から脱出までルートの見極めが極めて面倒だった。 藪だしは、実は気配りの世界。伐採時に搬出ルートも考えておき、藪だし当日はエリアを担当した人本人が中心となって、スノモを誘導するサポートまでしてもらうと格段にスムーズになる。逆にそれがないと、進行はつまづいてばかりで藪だしのサイクルタイムは短縮できない。今日はドライバーも自らスノモに積んだチェンソーを出して除伐しながらの総力戦だったが、来シーズンには今年の経験者からのサポートが大いに期待できるはず。 それでも後半はなんとか順調に進んで、昼前にはドロノキそばのエリアに薮出し箇所を移した。フラットな搬出ルートなので、かつてのように山積みにしてみたのが、上の写真。いつだったか、満杯にした丸太重量を推定したら700kgとでた。それに近い状態だったが、数回目、ヤマモミジを一杯に積んだところ、やはりちょっとしたくぼみで簡単にスタックして、積み直す二度手間をくらい、時間をロスしてしまった。 今年最後の理事会を終えてから、散歩愛好者のサポートのため、フットパスの全ルートをスノモで廻った。手入れされた雑木林の3月はわたしには美しいの一語に尽きる。 テントのそばで、ya-taro さんの今日の伐倒の履歴を切り株で観察。上部が枯れて危ないというサクラを、二枚のクサビを使って、しっかりツル(弦)を残して思い取りの方向に倒せたのがわかる↑。先日のkawai さんの履歴↓とともに、素晴らしい痕跡だ。 参考追加:下は3/12のkawaiさんの履歴。クサビ一枚使用。 チェーンオイルのゆるさに春を感じて ~雪解け洪水のなか薮出しに目途つく~ 2022/03/12 sat くもりのち晴れ 5℃ abe-e urabe oyama kai kawai kawamura kuri kusa naka-f&s tomi-k&m migita wada ya-taro seki = 16 persons ■今季の藪出しに目途着く 大雪や悪雪で足止めを喰らう今年の藪だしの5回目。 スノモのドライバーは若手のurabe-kuri コンビ。ルートがうまく決まってからは順調に動き出し、午前と午後で合計20往復程度か。 尾根筋の最奥部に残されていたkawai-nakaf のエリアが無事終わった。ここはルート取りが難しく、勾配を避けてやや遠回りも辞さない作業で乗り切った。 来週は、広場東側の全域で積み残し分を拾い集め、ドロノキ界隈を集めて今季の藪だしはほぼ終了。 4日前の3月8日は、テントの床が融雪水で冠水し、migita-seki 両氏がポンプとスコップで買い出し作業を施す。現場がスムーズに動くよう、メンテナンスは日常的に発生し、誰かがそれをカバーしているが、卒寿のmigita 長老に負うところ大。今年はその労をねぎらうべく方策を用意している。 ■春の山仕事に胸膨らむ 手入れされた雑木林の、晴れた3月は最も美しいシーンを見ることができる。雪は腐って足元はまだスノーシューでも潜るけれども、その明るさだけでも疲れを忘れさせる。ya-taro さんは枝の豊富なカエデなど、oyama さんはハンノキなど手掛ける。 サングラスをかけないと雪目が心配されるこの頃、春のサインはヤマモミジの枝折れからも滴る樹液などにも見られる。ツルアジサイの残骸の散乱、チェーンオイルの柔らかさなどにも出ている。 雨よりも「枝が降る」のが怖くて山仕事を断念 2022/03/05 sat 曇りのちみぞれ 1℃ abe-a abe-e kai kawai kusa naka-f&s tomi-k&m migita wada seki = 12 persons ■藪だしの足止め、昼で切り上げ 年が替わってから、どうも天候が荒れる。JRが200本も運休になる日を何日も数えるのだからその荒れ模様がしのばれる。今日は午後から雨かみぞれの雲がやってくるようだったので覚悟はしていたが、いつも通り12人もやってきたので午前はいつも通り除間伐と藪だしに取り掛かった。 3月も上旬だし、どちらかというと気分は藪だしがメインだが、雪が落ち着かずなかなか進まないできた。藪だし作業の積み下ろしやルートを見つける手間を理解して先回りできる古いメンバーがあまりいなくなったので、このところ、また初期の手探り状態に戻りそうになっている。さすが理事のtomi-k さんが全面フォローしてくれ、abe-e さんと薮出しにあたった。 雪のおさまりが思ったほどではないので、ドロノキそばのエリアに的を絞って15往復位しただろうか。藪だしはこれまで雪解けとの勝負だったから、サイクルタイムをできるだけ短くするのに苦心してきた。短縮のためにはいかに効率的なルートを、スタックがなく早く回るかがカギになる。 昨シーズンからは夢のような近距離になったから、焦りは消えたが、今年は悪雪、多雪という伏兵がいた。積載する丸太の量も、かつての半分ほどと上品にしているから、薪ヤードの埋り方は遅い。 ■枝が降る危険は過熟「雑木林」の常 nomura 先生の奥さんが飲み物とお菓子を差し入れに来てくれた昼頃から、少しずつ風が強くなってきた。雨雲も遠くないが、今怖いのは強風で枝が落ちて、人にあたることだ。「ミラクル落ち枝」として、わたしだけは珍しがって重宝がっているけれど、人の頭や体に当たれば、半身不随などの事例もあるから要注意で、午後は、急遽、作業をやめて散会することにした。常々、風が強い時は林に行くな、と脅かし半分で呼びかけているところだ。 別に風がなくとも枝は林に落ち、シーンとした雑木林の中では時に、ボサッという落ち枝の音がすることがある。考えてみると、太目の枝が落ちる、というのは広葉樹に特に多いのではないか。それも放置されて老齢になった、いわゆる「過熟雑木林」に多いのではないか。 今、コモンズが手がけている林は林齢50~60年程度だが、ついこの前までは80年前に皆伐された萌芽再生林だったし、薪小屋の裏の林も同じような林齢である。ここの広葉樹に限ったことではないが、雑木林を構成するナラを中心とした樹木たちは、枝の先端部がこすれると伸びるのをやめ、その枝をあきらめ、上に主力を伸ばす。その過程で惜しげもなく枝を落とす、いや、腐れた枝が勝手に落ちる。老齢の広葉樹ほど、密度が高くなっているから落ち枝の確率は高くなるだろう。落ち枝は更新の証、勢いの印ともいえる。 特に気をつけなければならないのが、成長の良いドロノキである。直径30cmもある太枝を突如落とす。このためシンボルツリーのドロノキと、シカの食害試験地そばのドロノキグループについて、2回に渡り、ツリークライミングの講師に依頼して小径に懸かる太枝を落としてもらった。当方の事務スピードは牛歩の如くゆっくりだが、人身事故につながることはこれからも遅滞なく対応したいところ。 話は代わって、テント内は雪解け水などの浸透もあって、冬はいつも予想以上に湿度が高い。焚き付け用に用意した新聞紙は1週間もむき出しで放置すると湿ってしまう。レジ袋に仕舞って保管していたのだが、たまにストーブに火をつけてくれる人は新聞紙をその辺に無造作に置いてしまう。 数年前は大量の新聞紙が「濡れせんべい」状態になり駄目にした。しかしあの湿度、カビやらなにやら昆虫や小動物来とって快適らしいこともうすうす感じている。 ま、そんなありふれた失敗から、遅まきながら新聞やマッチなど着火材料すべてを補完するボックスを用意して明記した。不特定多数の人が共用する施設は、そんなわけで申し送りのために張り紙だらけになるらしい。 |
ルール化の新ステージに思う 「エリノア・オストロム」から「渋沢栄一」へ 2022/03/03 thu 雪 0℃ ■試行期間を過ぎて 苫東の緑地がどうも一種のコモンズに当たるような気がする、と気付いてNPO設立の準備を始めた頃、周辺には土地は誰のものか、という疑問が湧きだしていて、自然保護運動の盛んな勇払原野を焦点に、過激にも「自然はだれのものか」という、古くて新しい問いかけがなされていた。 そのあと、「地方の土地(ここでは各地の緑地等)の統治(ガバナンス)は中央より地方の土地土地に任せる方が良い」、という意味の言説を目にした。こう述べたのは、2009年にノーベル経済学賞を受賞したエリノア・オストロムだった。コモンズ論などとわざわざ難しいことを言わなくても、土地や風土は誰が守るのかを考えたときに、そこに住む人が中心になってやりくりするという、当たり前の話としても受け止められた。 オストロム女史は、世界各地のコモンズの事例を調べ、地域住民が自主的な統治ができることを立証したという功績を知ってわたしは目を見張った。それと時を同じくして、国内のコモンズに関する文献を可能な限り取り寄せて目を通し、サマリーのようなものにまとめて、日本のコモンズ研究を俯瞰できる資料を作った。これは職場だった研究所のコモンズ研究会の基礎資料としても活用した。 それらと苫東コモンズを符合してみた時、不遜な言い方だが、勇払原野のコモンズには提案の意味があり、そしてオストロムの説には我が意を得たり、と感じたものだった。というか、これは理論的な大きな支えになると直感したのである。 苫東コモンズの準備を始めてから約15年に及ぶ小さなグループが、ささやかでありながら地域にとっては地域の緑地の「所有」と「利用」と「管理」(森林管理と特化しても良い。関係者が多大なのでここでは統治と呼んでみたい)について、道内ではほかに余り例のない変わった動きをして来たかもしれない。そして土地利用が粗放で森林や原野がとかく放置されがちな北海道にあっては、とても大事な意味を含むことも徐々に明確になりつつある。 試行錯誤に似た長い「試行」の段階から、次のステップに移行しようとしている現在、次のステップを象徴するキーワードは「ルール」であろうか。ルールによって汎用化するのである。土地に関するものである以上、所有権が第一に挙げなければならないが、この土地を多様な関係者が重層的に利用するという点が、目新しいところであり、丁寧さが求められるそこの調整がまさに「試行」とも言えた。 その試行の緑地(森林と原野)は広大だったから、数人の「余暇」と「善意」と「私財」を投じるだけでは当然限界があり、理想の実現に向けて、補助金、会費そしてそれ以外の資金捻出も必要だったが、3番目の資金は、森林の手入れから生み出される余剰物を、薪という商品価値のあるものに変質させてしのげるようにしてきた。その結果、価値のある薪を目的化する人が現れてもおかしくない。そこにもルールが求められる大きな背景がある。 元々の発想では、そこに地域通貨「コモン」をかませることにして(わたしは一時期、地元の地域通貨の団体に入っていた)、「してあげること」と「してもらうこと」の貸借表を念頭に置いて運営していた。しかし、当時、地元の口コミで集まった人たちの善意は、地域通貨「コモン」を介在させなくても十分組織として機能することがわかり、地域通貨の存在を覚えている人はごく一部の会員だけとなった。 そんな中で時間が経過し、一時は70名ほどの会員数まで組織は拡大し、2年ほど前に約20名のスリムな会に変貌したものの、入会希望者がポツポツと後を絶たず、プロジェクトのステージが、「試行」から「ルール化」が求められるような「一般化した実践段階」に移行する途中であることが明らかになってきた。その現実対応として不可避な世代交代のためには、この「ルール化」のキーワードを、過去の試行の中から選び取って申し送りする段階だ、と強く認識されたのである。 換言すれば、地域に住む人が知恵と力を合わせて自主的な森づくりは可能であることを示すために必要なこと、、多種多様な人を受け入れて一般化し広げていくためには「ルール」が必要だということにたどり着いた段階と言えるだろうか。 勇払原野の雑木林の空気を五感で感じつつ風土を丸ごと感じたいという初期の願望は、やがてコミュニティの森林公園を創るべく除間伐とフットパスをゆっくり進める活動をおこさせ、ここにそもそもの原点があるのだが、五感で感じる風土よりも、「あがりとしての薪」のほうに魅力を感じる人が増えるのも、環境の時代という時節柄、自然な成り行きだったかもしれない。だからこそ、平等性を柱にしたルールが求められてと言えるようだ。 ■大谷翔平の成功逸話 コモンズが成立している地域の現実と、それを成り立たせている背景を紐解いた時、オストロムは、人々の協力行動を分析して、そこに内規とかルールのようなものを見つけたとされるが、そこに用いた手法がゲーム理論だったとされる。浅学にしてゲーム理論はまったく知らないけれども、そこに介在する謎解きのツールはは「所有」と「利用」の調整だったことは想像できる。 この辺の経緯の解説は、是非、小磯修二著『地方の論理』(2020/11岩波新書)をご覧いただきたい。この文庫の第3章「共生の思想」には世界のコモンズとオストロムの記述のほかに、「地方に根付く共生の知恵」と称して、当苫東コモンズの地域展開が8ページにわたって具体的に紹介されている。この中では、何故これからの時代にコモンズが注目されるのかが、地域の視点で論理的に、かつ、熱く語られている。 さてそうしているうちに、このルールの内容とルール化の方法を考えねばならなくなった。 試行の中で見つけて温めてきたキーワードをいざ言葉で表現しようとすると、これがなかなか効果的な妙案がない。善意とか道徳に依存してきた分だけ、不文律として運営してきたから当然(その代り臨機応変)なのだ。が、道徳という言葉を発してみてふと思いついたのが、道徳と経営の合一を目指した渋沢栄一の『論語と算盤』である。コモンズ運営や資金繰りを「経営」、ルールを「道徳」と置き換えると、何だか少し見えてくるものがあるのだ。 そこで、かつて読んで付箋が沢山貼ってある『論語と算盤』を本棚から取り出してみた。そこには、「日本の国富を増進」させるために、「論語を最も瑕瑾(きず)のないものと思ったから、論語の教訓を標準にして、一生商売をやってみようと決心」したとある。また、「生産殖利は必ず仁義道徳によらねばならぬ」とも書いている。意訳してしまうと、論語の示す人間学にのっとれば経営(運営)はきっと成功する、と読めるではないか。 『論語と算盤』といえば、日本ハムファイターズの栗山監督が入団したての大谷翔平に薦めた本でもあり、大谷は毎日この愛読書を手にするのだと、何かの本で読んだ。数々の欲望を押さえつつ、私利私欲とも戦って全体(国やチームや会社などの組織)に良かれと行動するとき、自ずと道が開ける、と示唆しているのかもしれない。個々のルールはその道徳に照らせば自ずと見えてくる、ということか。 これまで試行しながらもルールとして文言化するのを意図的に避けてきたが、それは条文化することによって逆の抜け道もできるし、細部の精神まで表現するのは難しいと考えたからだった。しかし、ルールは道徳で良い、というのであればそれはできる。大本を押さえ共有できればいいからだ。 それに、こういったことはメンバー全員が頭を使うことは必要ない。集まりの中には、木を伐ること自体が好きな人もいれば、人付き合いに引かれる人、動植物をこよなく愛する人、もちろん最終産物・薪ねらいの人もいる。今のステージが壊れればまたどこかに移動することもできる。嗜好のグラデーションは個々人微妙に違うのである。そこにはルールをまとめるリーダーシップとフォロアーシップという信頼関係のようなものがあれば、とりあえずは動くのであった。 なお、万人権 everyman's right としてコモンズ利用が行われているフィンランドでは、自由なアクセスが保証されている背後には、公的機関が創った細かいルール集がある。すべての権利はなにがしかの法令で担保されている。しかし、フィンランドに出かけて、ヘルシンキ大学等の研究者や、環境省の役人やアウトドア活動を運営する組織のトップや、はたまた通訳の女性の両親などにお会いするにつけ、コモンズの発想は基本的な素養として身についている空気感、あるいは一見オーラのようなものを感じた。 (コモンズ研究会の仕事で、この冊子の翻訳版「コモンズの資料」がある。スノモ作業に手伝いに来てくれる協会の sasaki さんと翻訳・編集したもの。著作権の関係でネットでは非公開の扱いなのでご希望の方はご一報ください。) 作業小屋の雪下ろし 2022/02/26 sat 晴れっ時々曇り 0℃ abe-e urabe oyama kawai kusa tomi-k&m migita wada ya-taro = 10 persons ■作業テントつぶれないでセーフ、一方床はまた浸水始まる 2/23 の大雪の風景。新たに1m以上の雪が降り、入口は閉ざされた もうすぐ卒寿を迎える migitaさんは2/24から除雪にあたってくれて、2/26もアクセス路と駐車場を確保してくれた。メンバーはまず作業テントと薪棚の雪下ろしで始まった。 雪の状態は依然としてよくなく、スノーモービルは埋まり、左右に大きく傾く。午後、雪は少し腐り始め、各人はそれぞれの細面にスノーシューででかけ、通常の山仕事をこなした。 融雪は進んで来週はアクセス路がもう土を出し始めているだろう。しかし当分暖気だから雪は少し落ち着いて、途中で中断した藪だしができるはず。昨年は2月20日に、テント内の床が水浸しになったが、今年はテントのすその補強で軽微にすんでいる。それでもテント地の劣化で上から水が滴るようになった。これも対策を講じなくては、と作業後の話題になった。 また、除雪による置き雪でヤードの入口が封鎖された件は、これから町内会から役場を通じ除雪業者に排雪をお願いしたいところ。それに合わせて、広場の入口である旨の立て看板も設置しようかとmigita さんと話す。 ■担い手が代わっていく araki さんの物置の前でそんな話をしていると、かつて会員(現在は会友)だった獣医師・Mさんとばったりお会いした。彼女は、「歳なので薪ストーブはつらくなってやめました。でもあの頃はいい記念になりました」と懐かしそうにお話された。コモンズ10年史のグラビアを開くと1ページ下段に顔を出されている方だ。 時は巡って、この頃の写真で今も山仕事をする人はわたしを除けば完全に入れ替わっている。NPO法人化する前の話だから人代わりも当然かもしれないが、こうやって人が交代していき、Mさんのように各々の想い出の中に納まっていくのだろう。世代交代しながら、勇払原野の大きな風土と雑木林が保全されていけば良いと願う。永久の土地の上を人が入れ替わり立ち代わり流れて行く、そんな風景が頭に浮かぶ。 山小屋の一期一会 2022/02/23 wed 雪のち曇り、時々晴れ -5℃ solo-walking ■静川の小屋を見に行く 建物というのは人が来ないと寂しがる、という。平成9年に建ててもらった静川の雑木林ケアセンターに対してもきっとそうだろうと考えるようになり、無雪期は言うに及ばず冬の小屋にも必ず訪れるようにして、時にはビールとワインを持って泊りに来た。 札幌や千歳などでは稀に見る大雪に見舞われJRが連日運休した2日目の朝、苫小牧の自宅は除雪もしないで済んだので早々に家を出た。沼ノ端まで路面は乾いていた。しかし勇払川を超えるあたりから雪は増え、とうとう雪雲の中に入った。 動物検疫所の前に車を置いて、雪が降る中をカナディアンのスノー・シューで歩き始めて10歩もしないうちに、これは手ごわいと思った。小屋までは1kmもない道のりだから、とたかをくくっていつもどおり歩きだしたが、待てよ、引き返そうか、と後悔し始めた。それが歩きだしてたった100mのあたりだった。林に入れば何とか雪の状態は変わるから、とだましだまし林の入口にたどり着くまで、すでに30分以上経過していた。そして林の中の林道も様子は変わらなかった。 余談だが、わたしはコンパスが短い割りに、冬山のラッセルがタフで早く、若いころの山仲間内でもちょっとは一目置かれていた。話はそれるが、北大山岳部のOBである坂本直行画伯は、若いころ、朝、定山渓の奥の薄別から無意根山に登り、尾根筋を余市岳、朝里岳とツアーして夕方は狸小路を歩いていたという逸話は有名である。冬だから、シールを付けてラッセルする。それをたったひとりでやってのけたという豪傑の由縁だ。 すでに当方も山のOBになっていたある日、山口県で木こりをしていた先輩が年末年始に遊びに来て、直行さんのトレースをしようと相成った。無意根と余市の間で夏テントで小屋掛けし一泊、クラブが管理していた奥手稲山の家でもおまけで一泊したが、木こり先輩は、行程のほとんどをたった一人でラッセルした。 (荷物を背負った冬山の深雪のラッセルは過酷である。静川の小屋へのこの日のラッセルはほぼ空身でスノーシューだったが、いやはや、冬山のラッセルを彷彿とさせた) 山の家の一泊は実は不要だったから、木こり先輩が直行さんの行程をほぼトレースした、と仲間内では話題になった。たしかマラソンの世界でいうサブスリー(フルマラソンを3時間切り)だったように記憶する。自転車に乗れば通常150kmを走るとかいうすごく小柄な、林学科の先輩でもあった。 話はもどって、人工股関節手術がもうすぐ6か月検診というわたしはセーブしつつスノーシューを進めたが、正直、こんなに情けなく、戻りたいと思ったことはない。帰りは楽だ、急ぐ日程ではない、と言い聞かせ、今日は昼ごはんはパスしようと決めたころから肚が座ってマイペースになることができた。 小屋にはなんと1時間半近くかかってへとへとになって着いた。屋根の雪は1m程積もっていて、テラスの境界は不明、小屋のベランダには階段を昇らずともほぼスノーシューのままアクセスできた。 ■ヒュッテン・レーベン(小屋暮らし) この小屋が建ってから気が付いたこと、それは小屋という依り代ができると、人々が次第に集うようになることだ。焚火をめあてにやって来たり泊まりたいという人も増え、それにあわせ薪も過不足なく用意するようにした。 コナラの雑木林は心のケアにもとてもいい、というわたしの経験なども発信しながらフットパスを創るようになってからは、うつ病に悩む人なども顔を出すようになった。 その結果、小屋の周りは同心円的に里山モードに代わっていったのだ。小屋は、数百ヘクタールに広がる萌芽再生林のっぺらぼうの林を、里山に替えたのだった。里山とは、気持ちのいい「手(のかかった)自然」のことである。その頃から、ドロボーが入らなくなった。 逆に、人が来なくなって数年もすれば、一帯は急速に荒れていくに違いない。 山小屋の暮らしは、仲間と過ごしても愉しいし、一人の時は独りの楽しみ方、過ごし方というものがある。とりわけクラブの小屋のように独占できれば格別である。しかし、いつでも来れる小屋とは言いながら、この日この時、雑木林と小屋を独り占めするのは一期一会と小さく悟ることになる。また山小屋に行けば必ず一度こっきりの忘れがたい思い出ができる。 そういえば誰だったろうか、60歳を超えてからの山はお別れの山だ、と語ったが、人も小屋も林も(いや林はまだまだ余裕あるか)二度とないめぐり逢い、と言えなくもない。ひとりの小屋は来し方を肯定する。「今のままでいいのだよ」と内なる声が祖父母のように囁く、と悩む人は林の一人の時間を振り返って言っていた。 そしてもうひとつ、ひとりの小屋の愉しみは冥想である。勇払原野の林や原野で座って行う冥想は、ここの原野の神様である産土(うぶすな)と出会う絶好のチャンスである。小屋の前の、枕木の初代のテラスは、そのためのテラスとして材を運んだものだ。虫のいない4月から連休のころまで、そして秋は霜が降りる頃が適期である。さすがに無心になれるのはわずかの期間だ。今日も、静謐きわまる小屋で小一時間、目をつむった。ハスカップの花が咲く原野のまんなかでのそれも素晴らしかった。 到着時、室温が-5℃だったが、中国製薪ストーブがプラス10℃を超えるあたりまでやっと加温した頃、帰途に着いた。帰りも、楽でなかった。デポした車の周りを除雪されて脱出できないマイカーを見つけたときはびっくりした。その足で遠浅の現場に向かったが、目に入る大雪の光景にもまたびっくりっした。その画像は2/24の掲示板に挙げたのでここでは省略することにしよう。 「グランパ」に長生きしてもらうために ~シンボルツリー・ドロノキのストレスを解消する~ 2022/02/19 sat マイナス2℃ abe-aki abe-e oyama kai kawamura kuri kusa naka-f&s tomi-k&m migita wada ya-taro seki = 15 persons (2/18 migita 除雪) ■シンボルツリー・ドロノキを守るためにまた一手 2021/12/11 山の神参拝の際のドロノキ 2022/2/19 左前方がドロノキ、手前テープがクルミ 左のドロノキの枝先が右のクルミと触れている 左のドロノキが中央のナラと触れている 除間伐エリアは次第にテントの南西側にあるドロノキのシンボルツリー方面に移動しつつある。ここでいうドロノキとは、苫東エリアで現在最も太い大木で、今から10年以上前のNPO設立前に、森の手入れを見守ってもらうシンボルになってもらった。 このドロノキは雌雄異株の雄(オス)であったが、「自分はまだ若いからシンボルなどにしないでくれ」というメッセージを出している、とここに訪問された「その道の方」にアドバイスされた。それは科学的にも理にかなった見解だったが、歳ではなく威風堂々としたその姿を是非ここの森づくりの象徴にしたい、と無理をいい、ある古老に頼んで原野のスゲで作ってもらった注連縄をつけさせてもらい、地元の神主さんにも来てもらい祝詞を挙げてもらって、当時の関係者数十人と門出を祝った。そう、コトはサイエンスを超えたスピリチャルなものだった。 2010年秋の画像。制作中のスゲの注連縄と、完成後の据え付け そのドロノキであるが、ナラなどの落葉広葉樹がそうであるように、枝先が触れるようになると伸びるのをやめ、さらに放置すると太枝全体を見捨てて枯らしてやがて地上に落としてしまう。苫東コモンズに多い「ミラクルな落ち枝」はその産物の一例で、そうしながらいわば樹木は生き永らえ成長し、林を更新をしているようなのだ。 前置きが長くなったが、もうひとつ、エピソードを付け加えると、このようなドロノキの門出の時に、参会者にアンケートを行い、なにかふさわしいネーミングがないか、募集したのである。わたしは、白老のおばあさんたちのなじみのレストラン「グランマ」にちなんで、「グランパ」にしたいと目論み下工作をしたのだったが、参会者はこの風景と趣旨に賛同するあまり、実に独創性に富んだオリジナルを勝手にバンバン出してきたために収集がつかず、ネーミングはあきらめざるを得なかった、というほろ苦い想い出がある 。 ⇒ 簡単に言ってしまえば「ドロノキ・ジイサン」とでも呼べばよかったが、当時、それではあんまりインパクトが無さすぎる、と思っていた(-_-;) さてそのような「グランパ」(ここでは敗れた自称を使わせてもらうが)(-_-;) であってみれば、延命を阻害するようなストレスはできるだけ排除してあげたい、という気持ちから、グランパの枝先が触れるそばの樹木をその時々に間伐させてもらってきた。この間もグランパは直径30cmクラスの太枝を2,3回落とし、昨年も一本片づけたのだが、2,3年前からクルミ(上の左下)とナラ(右下中央)とカツラが触れていて、機が熟したら疎開してあげようと考えていた。 きょう、間伐の本体がこのドロノキのエリアに移動したのを契機に、abe-aki さんにクルミの伐倒を頼んだ。カツラは池の周りに2本ほどしかないために残し、ナラは難しい伐倒になるため保留することにした。クルミの伐倒はうまく進んで、第一ステップはクリアした。 ■雪が落ち着かず薮出し変更 積雪は依然としてサラサラ状態である。腐った雪も困るが、いつまでもサラサラ状態だとスノーモービルが雪に潜り込んで立ち往生するのだ。先週も今週も、ゆるい坂道でスタックしてしまったソリから、プラスチックのソリに移し替えて人力で運んだ。埋もれた鉄のソリをいったん空にして脱出せざるを得ない。いやはや、なんとも手間のかかる仕事だ。だから、NPOの格安の薪を「高い」「そんなにするの?」などと言われると、こちらは崩れそうになるのである。 さて、ここで話は戻って朝一番にkawamura さんと偵察の結果、とっかかりは林の中の薮出しをあきらめ、tomi-k&m さんとnaka-f&s さんの沢の中(写真左)から始めた。臨機応変、雪のあるうちできるだけ効率の良い場所に優先順位をつけた。きょうの薮出しドライバーは若手kuri ちゃんで、昼過ぎにはここもほぼ運び終えてドロノキのエリア(写真右)に移った。 ■one for all, all for one 朝、テントに入っていくと、wada さんが屈んでなにやら作業をしていた。聞くと、チェーンオイルのジョッキにつけていた新聞紙を丸めた栓(北海道弁ではしばしばツッペという)が中に落ちてしまっていて、オイルを吸い込んでいるのを取り出している所だということがわかった。wada さんは目立たない細かいことによく気が付いて、ていねいに作業をサポートしてくれる。 ツッぺというのはジョッキに虫やごみが入らないように軽く差し込んでおけばいいのだが、几帳面な人や意味が分からない人は、きつく押し込んでしまうようだ。また、ツッぺをしたままオイルを注ぐと、ツッぺはやや中に引き込まれてついには浸ってしまう。 取り出してくれたのがこの写真で、「この辺の気づかいや生活の知恵はガッコでは教えてくれないんだよねえ」と笑いあった。夕方になってから他のゴミと一緒に豪快に燃やすしかなかった。 時期は今、冬季オリンピックのさなかで、チームプレーの競技では、しばしばチームの理想的な合言葉なのだろうか、「one for all, all for one」を耳にする。なにかの原因で生じる不具合を、migita さんやこのwada さんのように静かに、黙ってフォローするメンバー(どちらかというと古い人が多いかも)を良く目にし耳にするが、冬季五輪でしばしば聞くこの標語は、ここのちいさな森づくりチームにも当てはまる潤滑財のようである。 間伐した木の藪出し、2日目 2022/02/12 sat 晴れ -1℃くらいか abe-e urabe oyama kai kawai kawamura kusa naka-f&s tomi-k&m migita ya-taro = 13 persons (2/10 migita 除雪) (2/11 urabe oyama ya-taro wada tomi-k = 5 persons) ■不調のスノモをだましつつ藪出し進む 1月中旬の大雪は、スノモが走るにはまだ絶好条件には至っていない。おまけにスノモが運転時にガソリン臭くオイルも漏れているようだ。わずかの距離しか走行していないのに朝満タンにした20リットルが空になるほど、かつてなかったほどに効率が悪い。2013年の2月に買ったから丸8年になる。だましだまし、あと4回ほどは動いてほしい。いつものことだが、スノモの癖みたいなものに合わせつつ、当座をしのごうというのが、目下の方針。春になったら本格的に点検修理だ。 この機種のスノモの走行は雪が腐り始めてからの方がベターだが、そうなればそうなったで今度は雪解けとの競争が始まる。わたしの今の皮算用では間伐による発生材はみかけで15棚程度しかない(これが結構アタル)。メンバーは16棚が必要だからやっとで、活動費に充てる内部留保には至らない。まだ、材の出るエリアで精力的に間伐に注力している kawai naka-f tomi-k ya-taro wada さんらの双肩にかかっている。 ただ、これまではスノモの藪だしが終わるころには間伐も終了させてきたが、今年からは軽トラが2台動ける。だから、連休頃まで、間伐は進めて大丈夫だ。この辺は臨機応変に行けるのが今シーズンのゆとりだ。 ■イタヤの樹液上がる 2月も中旬になると、かつては誰彼となくシラカバやイタヤカエデの樹液採りを始めたものだが、近年はいたって低調だ。ことしはようやく今日、tomi-k&m さんが取り掛かった。すでにモミジの樹液がしたたっているのを見ていたから、時期としてはもう十分、いつもどおりだ。 薪の上には50cm近い雪が積もったままだ。融ける様も春特有の和みがほの見える。 ■山回り チェンソーマンを引退したわたしは、術後のリハビリもあって積み込み・積み下ろし班からも意識して遠ざかり(ゴメンネ)、これからの林の扱いを思案すべく、山回りをしている。スノモで駆け巡るだけではわからない、林の細かい感触や薮出しルートなどを頭に描きつつ、縦横に尾根筋や斜面にスノーシューを滑らせる。 惜しいことに、池のそばのコナラの風倒木(写真右)は3年以上も放置してしまったから、材としての利用はもう無理かもしれない、などという後悔も湧き上がる。直径70cmほどだから、この山林でも最も太いクラスで、太さでは恐らくこの辺がここのコナラの限界かと思う。 山回りは、実は「人回り」でもある。山仕事は、各人が担当するエリア(知人の山の人は細面?と呼んでいた)にずっと居着くから、わたしはそれぞれの現場に出向いて、細面の作業の様子を見てメンバーと進め方などを対話することも仕事の一つとわきまえている。 いわばチームワークの醸成にプラスなように、日常のコミュニケーションの隙間を、個々人の思い出、記憶、故事来歴、趣味の進捗、日常の近況なども混ぜ込んで埋める。寄せ集めの集まりは実は知らないことばかりで、個人情報の仕入れでもある。これは「もっとも長くコモンズに関わってきた役得と役割」、と割り切ることにした。 たまたま、夕方の団欒では、migita さんの最近のトレーニングの話から、氏が長い間取り組んできたトライアスロンの話になり、初めて聞いた新人メンバーは驚いていた。わたし同様、やや耳の遠いmigita さんも質問のキーワードさえ聞き取って理解できれば、そこはもうすぐ卒寿を迎える方だから、人生を語る素材に事欠くことはない。こんなわずかの時間を共有することで、将来に向けた山林の保育にとってなにがしかのプラスになる。 身近な林の育て方の要諦のひとつはもこの辺に潜んでいないか。 コミュニティ林業の足跡 2022/02/10 晴れ 朝−11℃ ■ポニーのいる風景 facebook というSNSは結構余計なお節介をする。「友達」の申請が来ているとか、10年前はこんな画像が投稿されていたとか。今朝はポニーで藪だしをしている画像が9年前の2013年(平成25年)に出てますよ~、と。 普段ならパスするところだけど、懐かしくなって「雑木林だより 77」と「78」を開いた。そこには、NPO初期の人力による山仕事の光景が余すところなく展開している。これだけでも、今募集している雑木林エッセーのネタになるほどである。 以下、ポニーによる運搬を数枚紹介しよう。 町内会の馬搬用ポニーが手伝いに駆けつけてくれて、みんなで薮出しに精を出したのである。おばさんたちも手伝いに来て、それはそれはにぎやかな春の日(2月と3月)だった。そして当時は最下右のように簡素で小さなテントが作業拠点だった。これを最短2時間で二人で積み上げるのである。骨材は、もちろん周りから調達だ。だから毎年の作業エリアが変われば、気軽に移動した。 スノーモービルはその年の冬に購入した。個人的には、「ポニーはあてにできないからなあ」、が本音だった。夏頃、コープさっぽろに助成金の申請をして、半額が資金として助成され、残りは内部資金を充てた。夏の終わりごろから、oyama 棟梁と kai 棟梁が腕を振るって、年明けにスノモの車庫を兼ねた薪小屋が完成した。そこは当時の「雑木林だより」に詳しい。薪小屋は確かコカ・コーラの補助をいただいた。 ■コミュニティ(町内会)との往来 「コミュニティ林業」などと謳えば、なにか地域活動がすんなり進んできたように見えてしまうが、実はそうでない。町内会長の交代が引き金になって、少し風通しが良くなったか、町内にくすぶっていたNPOへの疑問(「あのよそ者はこの頃、林で何をやっているんだ?」)が表に出てきた。 新しいN会長ともよく膝を突き合わせて打ち合わせて、真意を理解してもらったら、「一度、説明会を開きませんか?」と提案された。この説明会こそ、NPOが当初から誠意を尽くして町内会長に当方の代表名で「公書」を送って提案して来た案件で、これがある事情で実現しなかったのだ。 夜、町内の公民館で行われた2,30人ほどの大きな説明会の1回目は、瀧澤代表とわたし、2回目はわたしだけが乗り込み、2回目はよほど言いやすくなったのか、わたしが数人の町民に吊るし上げ状態となった。しかし、会が終わってある長老が、「こんなに活発に意見交換したことなどなかった」「悪かったのは町内会のほうだ」などと感想が述べられ、これが契機となってmigita さんとwada さんが参加された。 このような収束が見られた背景には、実は遠浅町内会という歴史ある町内のソーシャル・キャピタルがある、とわたしは考えた。小さな町内会だから、もちろん色々ある。しかし、よく話合われている小社会は揉め事の解決策を用意できる。それをわたしたち財団の専門家研究会では「地域力」と呼んでいた。 よその道内事例では、その礎になるのが神社の氏子の集まりがよくあり、本州でも氏子に替わる振興協議会なるものがあった。それがあれば行政の議会すら要らないほど機能していた。そこがああでもない、こうでもない、と語る場で、そのソサエティが活発だと、地域力が高い、という仮説を、わたしは『これからの選択 ソーシャル・キャピタル』(平成23年発刊・北海道開発協会)に書いた。 そしてそのキーワードは「ソーシャル・キャピタルとはオキのようなものである」(時々灰に隠れているが息を吹きかけると火種になり燃える、の意)と結論付けたら、ある社会学の先生に絶賛され、碩学のU先生には珍しく褒められた。 *雑木林だより 81 にはその頃のが細々と記録されている。 都市公園のコモンズ 2022/02/08 tue 晴れ 0℃程度か 「山と暮らしをつなぐメールマガジン第165号」を読んだ。横浜のNPOのメルマガで、会の正式名称は「特定非営利活動法人 よこはま里山研究所(NORA)」。 もう6,7年前になるが、この会で中心的な立場の松村正治さんが、苫東コモンズのヒアリングに来られたのがきっかけで時々目を通しているもの。松村さんはコモンズ研究もカバーしている方で、今回は「自然は誰でも受け入れるのに公共緑地が私物化される」というコラムを書いていた。 形の上では、公共緑地こそコモンズ的な運営が可能なはずだが、伐採したものを持ち帰るなどが公共物の財産管理などの点で禁止され(有価物や財産にあたるものはを私物化できない)、当然、火器の取り扱いもできないのが普通だ。 だから、苫東コモンズのフィールドのように自由度の高い、ゆるい利用が可能なところとは、基本、使い勝手のうえで実は雲泥の差がある。人口密集地と過疎地に近い地域の違いともいえる。さらにいえば、コモンズのルールなどについては、先方はかなりシビアな概念も求められているはずだ。 細かいところは本文を読んでいただくことにして、コモンズとしての公園緑地は誰のものか、という議論にたどり着く。そして運営はどうするのか。松村さんは行政が「経営的な観点からのみ緑資源の価値をとらえ、民間活力の導入を訴えるような潮流には警鐘を鳴らしたい」と結んでいる。これは寄せては返る波のように繰り返す動きであり、苫東コモンズの社会環境とも決して無縁ではない。頭の体操は常にしておき、ボキャブラリー・ビルディングも怠れないと感じる。 |
立春の翌日、陽光も春に替わる 2022/02/05 sat 晴れ -11℃⇒-3℃ 積雪60cm程度か abe-aki abe-e urabe oyama kai kawai kusa naka-f tomi-k&m migita wada ya-taro seki = 14 persons ■春の匂う林 暦の上でも春になった。陽光はまぶしくサングラスが必要に感じる。胆振にしては珍しい大雪を2回経験した後、いつものような暖気が来ないので、積雪はまだ60cm以上もあるだろうか。積もった雪の中は依然としてさらさらで、今日から始まったスノーモービルを使った藪出し(間伐した丸太の林外搬出)はやや難航していた。 チェンソーを使った伐倒作業から離れた当方(ロジスティック担当&世話役&カントク)は、分散して作業する13名の面々を訪ねて、スノーシューで午前と午後の2回、林間を巡った。大きめのカナディアンは浮力があるので快適ではあるが、歩けば現場は結構遠い。見える場所なのにスマホの万歩計は5.4kmを示していた。 ところで、2月、3月は胆振の雑木林で至福を感じるひとときである。陽光のもと、上昇気流が起きているらしく林の上空には数10羽のトビたちが鳥柱状態で、そこにオジロワシが混じっている。あとひと月もすれば、上空をマガン・ヒシクイが乱舞するようになる。 ■間伐を継続しながら藪出し始まる 今日から薮出しがスタート。ドライバーは昨シーズン後半からurabe さんにバトンタッチし、後部席には札幌から今年も手伝いに来てくれたsasakiさんが座った。午前の終了後、すでに疲れた様子がほの見えたが、夕方のアガリのころは、二人ともほとほと疲労困憊のようだった。積み込み、積み下ろしにエリア担当者が全力で手助けしてくれないと、スノモ搬出はかなり過酷になるのである。ハンドルが自由にならないから、木立を抜ける繊細な運転は腕も相当疲れる。手伝う方は、雪を漕いでその都度スノモに寄りつくのが面倒で、つい手薄になりがちなのだ。 方やでは粛々と除間伐は進んでいた。職人のように、工夫しながらの孤独な作業「伐倒」に、なぜメンバーは毎週末(平日も金曜まで働いているのに)、続けて出てくるのか。自分のことを振り返って思いつくのは、山仕事は孤独な「冥想」の時間だからではないか。岩登りで、指と足先に集中している間、頭が空っぽになっている、アレである。労働ではなく、解放、弛緩、再生の時間になることも多い。 ya-taro さんは満を持して太目のナラを伐倒したばかりだったので、聞くと、先週末にこの木を伐倒する予定を組んでおり、その取り組みをシミュレーションしていた、という。クサビ2枚を使ったオーソドックスな伐倒を、wada塾の師範の助言も受けつつ目指した方向に見事に倒した。それを見ていたわたしは、岡目八目、「今のは、倒したのではなく、倒れた、と謙虚に判断すべし」と横やりを入れた。2枚目のクサビを打つ前に、メシメシと倒れてしまったからであった。よくあることだ。ツルをもう少し厚めにすれば大丈夫だったろう、と3人で話した。 今朝は、遠浅の町内の若い方が、薪ストーブ用の薪を入手したいと顔を見せた。漏れ聞くところによれば、山仕事も経験したい由。調整すべきこともあるし、値段の折り合いも未だだったから少し時間をかけて対応することにした。 昼には毎年恒例になった、薪ヤードに隣接するaraki さんから差し入れがあった。豚汁とおにぎり、そして揚げドーナツである。夕方、食器などを返しに行く際、若手の事務局二人と連れ立って、お礼を兼ねてご挨拶した。 もう冬の終わりが見える 2021/01/29 sat 晴れ -4℃ urabe oyama kawamura kawai kuri kusa naka-f tomi-k&m migita ya-taro = 11 persons ■冬の山仕事の周辺 いつも画像収集は山仕事の作業本体になることが多いけれども、今日はその周辺の写真を2枚。 左上は、長老のmigita さんが除雪してくれた広場の駐車場。そこに、冬だというのに江別や札幌、恵庭、そして地元苫小牧から、10台ほどの車が集まる。 そして右上、これも作業を終えてからのくつろぎのひと時で、質素な薪ストーブに汚れた薪(紺屋の白袴風と自己評価)をくべて、団欒。今日は、migita さんから軽トラを使わせてもらえる正式決定をもらえたので、紹介したところ感謝の拍手がわく一幕があった。 山仕事は依然として、スノーシュウがないとなかなか大変。そんななか、薮を開き(下左)、掛かり木を片付け、関取のインタビューではないが、「一歩一歩、自分のやるべきことをやる」。振り返ると、下右のような風景がある。 ■オン・ザ・ジョッブの塾 通常、会員の山仕事経験は長くて10年ほど、短い人は今年初めてというくらいに開きがあって、年に一二度、チェンソーワークと伐倒のスキルアップの研修はするのだけれども、とてもそれだけではコモンズの一人前の山子(やまご)にはなれない。そこで、仕事の合間、昼休みなどに、ごく小規模な個人レッスンが開かれる。 動作と言葉で伝え、あとは見守り。わたしはそれを密かに「塾」と呼んでいる。wada塾、oyama塾、tominaga塾などが自然発生し、塾長は今は休んでいるプロの abe-b 技術顧問である。わたしの役目は、「できるだけ太いものを手掛けて」「いずれは難しいものにも挑戦してね」と後ろから応援すること。太い本物とのやりとりこそ、技術でも安全感覚でも、すべてが凝縮した何よりの師匠だから。今日はwada塾の師匠が休みで、生徒が自習して下のような風景が展開していた。 *左の画像は、塾生が自ら撮ったものを借用。 日差しが強くなり、雪も落ち着いてきた。来週から、スノーモービルによる材の搬出(薮だし)が始まる。雪が多いから3月上旬まで4,5回、搬出の機会がくるが、いかんせん、ツル伐りと除伐が多く、材はあまりない。 今日は昼食後の一時間余り、役員と事務局で運営に関するミーティング。おごらず、ひるまず、身の丈に合った一年のプランを吟味した。 2回目の大雪、しかし作業本格化 ~山仕事八景~ 2022/01/22 sat 晴れ -1℃ urabe oyama kawamura kusa naka-f tomi-k&m migita wada ya-taro = 10 persons ■山仕事を見直す時期が来た 昨年を振り返ると、四季を通じて山仕事はいつも好天に恵まれ、万が一朝ぐずついていても現場は雨が上がって快適な作業をすることができた。しかし今年は、一転して週末を迎える直前にいきなり30cm程の降雪が2週も続き、通常の効率は望むべくもなくなった。幸い、migita さんが早々に除雪を買って出てくれ、一方メンバーはこの大雪というのに毎回10名以上参集するなどして、一向に意気が下がることはなかった。 ただ、冬特有の除雪を、元気とは言え90歳近いmigita さんに頼りっぱなしというのも、そろそろ考え直す時が来た。これは理事会や古いメンバーが常々語ってきたことだ。それで理事会の総合的な従来の意向に沿って山仕事の方式を大きく転換する時が来ている。 一つは、除間伐のメイン作業の期間を、現在の12月~3月というのを、11月、12月という無雪期をメインとして繰り上げ、1月は可能であれば実施するというゆとりの期間、2月~3月上旬をスノモによる搬出期間とするもの。もちろん、1月でも作業可能なら、入口をママさんダンプなどで駐車場を確保して、これまで通りの雪山作業をすることができる。 もう一つは、無雪期の保育の成果材は運べるうちに軽トラックを駆使して運び出すこととし、このために現在お借りしている故障寸前の軽トラックのほかに、公道を走ることのできる軽トラックを探すことである。この二つ目の課題は鋭意検討中で、早ければ新年度早々には稼働できるよう体制を固めたい。これが実現すれば、育林コンペから薪ヤードまでの運搬も大幅に楽になり、個人の薪運搬のためにレンタルすることも可能になる。 ■大雪もものかわ、作業六景 (左)新しいエリアに移動したwadaさんとya-taroさん。wada親方と、伐倒の方向などについて打ち合わせ。 (右)wadaさんは、ナラと隣り合わせで競合していたヤマハンを伐倒。直径40cmオーバーである。空地があってラッキーだった。 (左)naka-fさんの午前の成果のひとつ。35cmの長さの丸太が3列。高さ1m余りに積まれ、見かけの層積がほぼ1立方m程度。苫東コモンズの「地域通貨コモン」と持ち帰りのベースは、一人前の作業ができれば、このサイズの山をひとつから3つ、作れるという当時の実績から、最低1立方mを生産するとして、その3分の一、つまり0.3立方m(1コモンと呼ぶ)を持ち帰ることができる、としたもの。 だから自分の作業量が1立方mにも満たない場合は、まだまだ一人前ではない、ということになる。もしこれができれば7日で2.1立方m、10日では3立方m、20日では6立方mの貯金(貯材?)がたまることになる、という仕組み。ちなみに北海道の一冬の1軒の平均薪消費量は2棚とされ、1棚は2.7立方mである。 (右)urabeさんの追いヅル伐り。ヤマモミジの傾斜木だ。この山は、サクラはこじれてしまうが、林の中間層を占めるこれらヤマモミジとイタヤは、比較的腐れがなく紅葉の見事さもあって重宝されてきた。いかんせん、大きくなると倒れそうになる。このモミジもその一つ。 (左)もっとも団地に近い、ツルの多いエリアを手掛けるoyama さん。沢筋の運搬路を探しつつ北進してきたゴールにあたり、スノモのフロントグラス左にoyamaさんが切り株の伐り返しをする姿が見える (右)同じエリアのkawamuraさん。電動ハスクバーナにも大分慣れてきたが、目立てがうまくいかず「切れない」とこぼしていた。 胆振にしてはたいへんな積雪あたる今週、スノーシューをつけた面々の作業はこんな風だった。tomi 夫妻も沢筋の入口で除間伐を終えた。 “里山の景観” 2022/01/20 thu 曇り -5℃ 昨夜は6時から事務局のリモート打ち合わせ、師走に続く2回目である。新年度の事業計画協議の内容などについての意見交換は1時間40分あまりに及んだ。練った案は月内に理事会で検討する。 その計画の中に現況利活用事業があって、雑木林の森林美と多様性の評価をするという一項をだいぶ前から入れている。苫東の雑木林は苫東の魅力でもあるから、もっと世に出せないものか、という思いと、国木田独歩などが描いた関東の雑木林景観にすこしも引けをとらない、という経験が背景にある。インダストリアルパークを標榜した産業空間で、働く人の憩える都市林的要素も十分秘めているからである。 このような意味を込めてわたしは、計画書に苫東との関係と保育目的をもう少し明確にするため、「苫東らしい里山景観の創出と維持」という言葉を追加した。 そのことで今から14年前のことを思い出した。(これまでも何かで書いてことだが) NPO苫東コモンズが設立される2年ほど前で、関係者に対して個別に設立の是非などについて打診している最中だった。ちょうど勤務する財団の開発協会に小磯先生や辻井先生が委員を務めるコモンズ研究会を設け、初会合を開いた年であった。その年の秋に「北海道新聞野生生物基金」が発行する「モーリー」編集局から、里山に関する寄稿依頼が届いたのだった。 わたしは楽しみながら『里山のフラジリティ』という拙稿を画像数枚とともに送ったのだが、編集局から折り返し連絡が来て、苫東の里山風景を表紙と特集の見開きに使いたいので、何枚か送ってほしいと依頼されたのだった。それがきっかけで掲載されたのが下記の写真である。 (*この特集は、道内でも名の知れた林と担い手のボランティアなどが名を連ね、さながら「里山ミニコンテスト」の様相を呈していました。勇払原野の苫東の里山あるいは雑木林が、他を差し置いてここで堂々とたくさんの画像をさらすことになったのは、関係者の一人として内心喜んだのはいうまでもありません。苫東コモンズ立ち上げの追い風でもありました。) いずれもどこかで見たことのありそうな画像で(だからこその里山なのだが)、ここに出ている「つた森山林」の入口付近は、わたしの知る限り約100年の歴史ある里の林で、もちろん人も住んでいた。 林業が行われ、馬小屋やシイタケ乾燥小屋の名残もある、時間を感じさせる場所だったのである。(わたしも25年近く、この山林のお守を担当し、様々な経験をさせてもらった場所だからほぼ隅々まで状況がわかる。) 編集局はいち早くそれを見抜いて表紙に取り上げることになったのだろう。辻井先生が編集委員長をされていたから、バックアップしてくれた可能性ももちろんある。 実は北海道には、当時も、本州のような人との往来の濃厚な「本当の里山」はない、と識者に断言され認識されてもいたから、その中では前に出しても良い里山だったと思う。道内にはそこを配慮してすでに「新里山」などという造語も生まれていた。 2008年当時は、すでにabe-b さんと遠浅の大島山林で林の手入れ(ツル伐りと除伐中心)は始めていたが、里山らしいこれといった景観づくりはまだだったので、モーリー編集部に送った画像の中には含めていなかったが、今なら何枚も提示することができるだろう。 ちなみに、道内の里山の典型でもある「つた森山林」は薪炭を作っていて、仕上がった炭は馬車に載せられ室蘭本線の遠浅駅に運ばれ、ここから本州方面に出荷されたと聞く。木炭が使われていた時代、苫小牧の静川や植苗、早来町の遠浅など勇払原野は日本の民生用エネルギーの一大生産地であったようだ。 里山景観は半人工の心和むもので、当然人の手が絶えずかからないと生れない。手つかずで放置するのも所有の一方法だが、かたやには里山として地域住民が手入れをするエリアがたまにある。それが苫東緑地には数%あって、苫東コモンズはその一翼を辛うじて担っているという訳だ。 事業計画を練りながら、そんなことを思い出した。 大雪に見舞われる 2022/01/15 sat 晴れ 0℃ urabe oyama kai kawai-h&f kusa migita tomi-k wada ya-taro = 10 persons ■近年にない大雪来たる 12日の夜から大雪に見舞われた。この日、苫小牧の国道にはもう雪はなかったが、遠浅にきたら様相が一変、migitaさんのトラクターで除雪された進入路は、高さ1m以上の雪の壁ができていた。地元のmigitaさん、wadaさんによれば、記憶のうちで2番目の大雪ではないか、とおっしゃる。わたしが関わる限りでは1番かも。 スノモのエンジンオイルを補てんしたついでに、林道を試運転してみると、たちまち後悔してしまった。いつもトラブってしまう新雪のコントロール不能状態だったからだ。しかし引き返すのはやめて、エーイ、ままよと最短のフットパスを回ろうとしたのが間違いだった。 コナラの大木手前で横転しそうになって態勢を直し、中広場の手前でもコントロール不能で木にぶつかりそうになり、スタックしてしまった。座席から角スコップを出して雪を掻きだすこと小一時間、ようやく脱出したが、後悔はますます募り、制御不能状態は増して、中広場へ出た途端、再び重症のスタック状態へ。 中広場はこれまでも何度も試練を与えられた難所であったが、今回は最悪だった。雪を掻きながら携帯で200m先にいるだろうメンバーに向けてレスキューを頼んだ。上の右下の写真は若いレスキュー隊がカンジキをはいて来てくれたところ。 YAMAHAのバイキング540ccは、春先などの堅雪での堆肥や融雪剤散布など農耕には適するが、新雪ではからきし役に立たないことは周知なのに本当に迂闊だった。若手スタッフ、urabe-kawai さんに申訳ないことをした。レスキューによりスタックを脱出した後も、二人の見ている前で2回行き止まりになってやっとテントに到着した。 広場に着いたらすでに7名が待っていてくれたが、即座にみんなで作業中止を一決。migitaさんのトラクター除雪を眺めながら、ミーティング状態となった。このまま、昼前に一応散会となる。 ■午後はミーティングに切り替え 一旦、万事休すがわかると人間は肝が据わるものだが、今日は腰も据わった。軽く食事をとった後は、折角の薪ストーブを囲んで団欒が始まった。毎週のようにこのテントに集結するにも拘らず、意外と雑談の時間は多くない。暗くなるのもあっという間だ。という訳で、腰を落ち着けると今まで聞かなかったような話題が次々と上ってきた。 昼前の外の話も、よもやま話というわけでなく、いつもの意見交換の様相があり、かつてはこのようなやり取りを運営会議と呼んでいた。運営に関する提案はおよそ3つあった。 ①今年以降の除雪態勢を考えると、いつまでも高齢のmigitaさんに一方的にオンブにダッコするわけにいかないから、主たる除間伐は2022年度から無雪期の11月、12月とし、1月は自由参加、運材は1月末から3月上旬に全員体制で進めてはどうか。→育林コンペは平日か日曜、または休日とする ②その延長線上で、「軽トラックによるコミュニティ林業」を目指すべく、格安の軽トラック入手を模索してはどうか。無雪期の風倒木処理を、すでに借りている軽トラックと兼用するが、現在使用しているものは電気系統が時々不具合が発生していて、バッテリーはもげ落ちる寸前。かつ公道の運転はできない状態。入手出来たら、静川方面の風倒木等の常時搬出が可能になり、メンバーの育林コンペからの材の搬入なども好都合となる。 ③今季、今のままでは発生材が少ないので、現体制で精力的に進めるほか、エリア完遂に近いwadaさんは、ドロノキのエリアに来週から移動してもらう。1月末からrabeさんがスノモ搬出を始める。 このほか、来週からの作業の段取り、事業計画などにも話は及んで、立派な運営会議、ないしは理事会にあたる打ち合わせとなった。20人余りのごく小さな所帯とはいえ、社会とのつながりも辛うじて持っているNPOには、それなりにだが、詰めておきたい、または詰めねばならない雑事が少なくないのである。 伐倒と祈り 2022/01/11 tue 曇り 0℃ ■山仕事で覚えた本当の祈り 木を伐る、という行為は色々なトーンでとらえられる。ある人は、ドッシーンと倒れる達成感とか爽快感を言うし、ある女子学生などは、そもそも除間伐木を選ぶ「選木作業が自分にはできない」と告白した。彼女の発言の根底には、きっと「伐ること」イコール「殺生」という図式がある。 わたしは幸か不幸か一人で山仕事をする年月が長く、内向きな内観とも呼べるその山仕事の結果、一冊の本をものするに至ったのだが、その頃のわたしは作業を終えて自宅で裸になると、あちこちに青アザができており、汗だくで一心に体を動かしている間にあちこちに打撲をしていたようだ。それだけでなく、怖い思いもしたし、忌まわしいトラブルや難しく危険な掛かり木が朝から続くこともあった。 その頃にわたしが気づいたのは、このようなことが続くのは、わたしが、樹木という命あるものを絶っているからではないか、道を外れた行為の仕返しを受けているのではないか、という因果関係だった。 これは決して心地よいものではなくて、心を落ち着かせる対策を考えざるを得ない。最終的に対策としたのは、伐倒という行為が、決して殺生ではないこと、むしろ雑木林にあっては樹木の殺生どころか群れとしての林の「再生」を助けているのだ、という語りかけと自らの反すうであった。いわば伐倒行為の積極的評価である。 具体的には、山仕事を始める前に手を合わせて、再生を念じるのである。だから、「安全に仕事をさせてください」、と祈るのである。一人の山仕事であれば、これができる。木の陰からシカやキツツキが見ていることはあったかもしれないが、もっとも面倒なことになる人間はいない。そういう儀式をするようになってから、妙な不安は次第と消えていった気がする。今になって想えば、こちらの伐倒技術もそれなりに上がっていたのだと思う。 話は代わって、コモンズの山仕事では陽気な仲間に囲まれながら丁々発止と仕事ははかどっていく。それを見るのは、ある種、快感のようなものもある。ただ、ふと思うことがある。このようなグループ作業では敬虔な「祈り」の契機は生まれないかもしれない、と。このテクノロジーやサイエンスが謳歌される今日、摩訶不思議な世界に用はない、と言われそうだが、果たしてどうだろうか。 珍しい大雪の中で初仕事 2022/01/08 sat 曇り -2℃ abe-e urabe oyama kai kawai kuri kusa tomi-k&m migita wada ya-taro = 12 persons ■令和4年の仕事始め 2,3日前、苫小牧で30cmほど雪が降ったことが、全国ニュースになったらしい。そのこと自体がちょっとしたニュースだ。とうとう来た、という感じで受け止めた人は多いようだ。 苫小牧とほど近い隣接の遠浅もほぼ同じような積雪で、このままでは乗用車で作業テントのある広場に入れないが、1月6日、会員のmigitaさんがトラクターできれいに除雪してくれたので、令和4年の仕事始めは何の支障もなかったように、新年のあいさつから開始された。 urabe さん(左)は根上りのコブシをうまく伐倒して玉切りをしていた。30m離れた場所でも、あたりにはすでに芳香が漂っていた。kuriちゃんがツルがらみで伐倒したトドマツ(右)も、一帯にテレペン油が漂い、テントに持ち帰ったチェンソーがその香りをテント中に発散させていた。 kawai さん(下左)は、傾斜方向にあった若いヤマモミジ2本を守るべく、伐倒方向を90度左にふって、クサビ2枚のセーブドエッジで倒すところだった。わざわざ難しい方法を選んで若木を守ろうとするその姿勢はさすが、そこにいささか感動して見守った。ツルをうまく調整でき伐倒はほぼ正確に左75度の方向に倒れた。 こうして少しずつ丸太が積み上がっていく。ツルや枝がところどころコンモリと積まれた林に、丸太のちいさな山が少しずつ積まれていく。 昼休み、新人ya-taroさんのチェンソーが回らなくなったというので、tomi-kさんなどがその原因を探ってカバーを外し、解体実習が始まった(右上)。いわば、on-the-job-training の様相である。 チェンソーワークに限ったことではないが、こうしてひとつずつ経験していくことでしか、スキルアップの方法はない。そこにもし運不運があるとすれば、良き指導者に巡りあえるかどうか。そして、危険な目にあってさらに真剣度が増す。できれば危険な経験はしないで済ませたいところだが、現実はそうはしてくれない。 ■冬の散歩を楽しむ人 半分身障者としてリハビリ中(ただし自己申告制)のわたしは、スノモのバッテリー充電と、散策する人のためのフットパス圧雪を兼ねて、数キロのルートを一周した。今日お会いしたKさんは町内の方で、来れる時は年間を通じてフットパスを利用されている。 ルートにはすでに沢山の足跡(写真右)があって、この深い雪の中をツボ足で歩く人が複数いらっしゃることは、山仕事の面々にも少しは励みになることだ。 |