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2011/April 23 開店
きままな Links

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ちょっと思いついて、長らく休んでいたリンクの部屋を作りました。その名は「北の森カフェ」。あるところで素敵な「森カフェ」に出会ってから、いつか使ってみたい名前だったのです。意外と早くチャンスが来ました。 自然、林、里、林業、こころと体、これらについて日ごろ、感銘を受けているヒラメキと継続の方々のお仕事を、森カフェのちょっとした「メニュー」として少しずつ、勝手に紹介し、足していこうと思います。アカデミックな論文からエッセー、ポエム、スケッチあたりまで、カバーできれば幸いです。 2011/4/24(草苅) 上のような林とこころ系に加えて日本の歴史を加えます。2016/02/07(草苅) |
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雑木林 & 薪ストーブのエッセー 2022年から、これまで公表された関係者の雑木林と薪ストーブに関するエッセーをこのコーナーにリンクします。また募集もいたします。日頃、感じている、雑木林や薪、そして薪ストーブのある暮らしなどについて、言葉にして投稿してください。既存分から順次張り付けていきます。 ●ペチカで薪を焚く …船木 幹也 2020/4/5 ●薪とコモンズ …草 苅 健 2020/5/21 ●苫東の雑木林からの発信 …(草苅 編著) 2022/1/4 折々の「雑木林だより」から 1~5 の抄 読書メモ & 日々の雑感 ◎2026/05/22 & 7/11 明治天皇(上下巻) ドナルド・キーン著の本書上巻を読み終えた。ぐんぐん読み進める本ではないので550pに2か月ほど要した。しかしこれまで読んだ明治維新前後の書籍の中で群を抜く精緻さと天皇および皇室側からみた時代の急変化の描写がリアルで肉薄した。資料に基づく引用がほとんどで、しかし読みにくさはない客観描写で貫かれている。 病気といえば漢方と祈祷という対応がもっぱらだった時代から西洋の医学を学び始めた。また、ちょんまげから洋装へ、武家国家から立憲君主制へ、この間実にしばしば欧米に留学してまず憲法から見本を探していくという急流の大河のごとき時間の流れ。これが2,30年の間に起きるのである。若き祐宮(さちのみや)が明治天皇になっていく人間としての描き方が、明治という時代を知るのにこれほど素晴らしい教科書とは知らなかった。 それにしてもと版籍奉還で藩がなくなり幕府から天皇に政権が移り、方や武士は職を失うのである。暴動が起きないわけがない。いったんすべての権力が天皇に収束しなければこの革命は成功しなかったのは明白だ。またキーン博士は「明治天皇紀」などの文献資料をとことん読み込んで英語で本書を書いたのは「角地幸男訳」とあることからうかがい知れる。難解な感じの語句がおびただしく出てくるこの本の深みがそのあたりからも生まれているのだろうか。実に驚きの日々だった。今日から折り返して下巻にはいる。 今年3月に読み始めてから4か月、約1100ページ、長いが充実した読書時間だった(奇しくも皇室典範の区切りの翌朝だった)。そればかりでなく、読書生活としては『源氏物語』を読み切った時の達成感にどこか似ているが、こちらはそこに日本の激動の歴史が凝縮されているという特徴があった。歴史関係の本読みとしては、渡辺京二著『私の幕末維新史』に引き続いた。 今、手元に5枚の小さな読書メモがあり、感想をしたためる時に使おうと思っていた。が、メモ内容の詳細をいちいち書くのはもうやめた。大雑把にいえば、司馬遼太郎氏などによる歴史物語と違ってほとんどが著者の思い入れや情緒表現がなく、「明治天皇紀」をはじめとする文献の引用で延々と占められていることが、形の上の大きな相違点だった。日本語の文献を読んだ著者はまず英語で本作品を書いて、「友人」と称する角地幸男氏が再び日本語に訳している。その面倒さが不明だった。が、あとがきで著者は、「英語国民にも明治天皇のことを知ってもらいたい」とねらいを述べていた。ということは英語でも出版されたということだろうか。 それにしても明治維新前後、そして明治という時代がいかにめまぐるしい激動期だったかを知るには十分すぎるものだった。大政奉還後、嫌が応にも歴史の表に立たざるを得なくなった天皇を、あがめながら利用しようとする政府や軍の様相が史実の中でもいよいよ見えてくる。その裏腹か、天皇が国を家族のように憂慮しこまごまと心悩ますさまは痛々しいほどだった。質素を旨とする日々の姿、信条など、天皇の人間臭さをここまでにじませてくれた(資料からにじんだ)おかげで、納得できる新たな維新像がわたしのなかでできつつある。 下巻の中ほどでは、「日本人はいったん国が危険にさらされるや見解の相違など吹き飛ばしてしまうような強烈な愛国心をもつ」(珍しく著者の日本人観めいて興味深い)という意味の記述が目に留まった。だが、これは明治までではないのだろうか。昨日皇室典範改正案が衆院を通過したばかりの今朝の報道では、これまで保守系と目されてきた新聞が一面に「男系維持に固執した法改正」という趣旨の批判を編集委員記名のうえでしているように、伝統的なメディア各社は逆方向へバイアスを掛けることに懸命のようである。いまや、国民の多くは既存メディアから離れてSNSに真相情報を求めているとしばしば言われるようになったが、視聴率、購読数の増に向かった既存メディアの巧妙な言辞にどこまで独立していられるか、人気投票ではない「国民の理解」なるものの真相度合も知りたいものだ。 ◎2026/07/04 森の生活 色々な訳で読んできたヘンリー・デービッド・ソローの『森の生活』を、今回は漫画版の原書と日本語版で読み返した。原書は訳を照合する程度だったが大変わかりやすかった。秀逸だと思ったのは、漫画に挿入された言葉がソローの漏らす箴言、アフォリズムの詩のような効果を持ち、これまでとは違った直接性をもって伝わってきたことだ。読みやすさの原因はまず言葉選びの巧みさが何割か、しかし、共感を呼ぶそもそもはソローの森におけるひとりの内観だ。森と心の対話内容である。 ちょうどこの日は、20日前にこの本を借りたO教授家族が雑木林センターに遊びにきて、タイミングよく返却することになった。そして、森や林がこころに及ぼす話にも及んだ。もう忘れ去られたかのような領域だが、5月にスドキ採りで来られたKさんと瞑想の話題になった時と同様、人にとっての森林やみどりが取りざたされることになったのは、さすが雑木林センターだ、と思う。 ◎2025/08/30 開墾の記 (坂本直行著) ~これが人生の遍歴による成長という変化か~ 8/27の書き込みで記した『開墾の記』をあらためて読み直してみる。 1975年、茗渓堂からの出版だから今から半世紀前。ほぼその頃に読んだはずで、それからそれ以降の50年間はわたしの仕事人生活にあたる。 驚いたのはその昔は覚えなかったであろう、開墾に挑んだ著者への新鮮な共感のようなものが湧いたことだ。50年近くの勤めを経なければきっと覚えることのなかった感慨に違いない。 勤めを終えて結構元気な隠居のような73歳の今、琴線がふれているのである。それは感傷でもなく、達成感というものでもなく、小さな山もあり谷もあった自分のフロンティアへの振り返りであり、愚直に向き合いあがいてきた己れと勝手に重ねているのだ。世代は違うが日高山脈を挟んで東と西でとおり過ぎてきた山や原野の北海道の風土感覚も少し重なるところがあるのだろう。 著者直行さん特有の、感傷を排した男らしい開拓者のような気骨が淡々と描かれた文章に、かくありたしと心が揺さぶられているのがわかる。ヘンリー・デービッド・ソローの『森の生活』に匹敵する、いやそれ以上の名著だと思う。きっとこの間にそう評価した人がたくさんいたはずである。そう思えばかすかにそんな記憶も戻ってくる。わたしの周りではかつて注目の作品だったのである。 ◎2025/07/08 庭とエスキース ちょっと不思議な、かつ、たいへん面白い、人情味と自然味が溢れる本を読んだ。場所は北海道の新十津川町の山あい、そこで繰り広げられるユーモアとペーソスが入り混じった自給自足の暮らしを、岩手の雫石に住む映像クリエーターのような若手写真家が15年近く四季折々に訪れ素顔と言葉を北海道弁そのままで描写していく。 井上弁造さんのゴミ屋敷のような小さな丸太小屋は、完成しないエスキースが主のアトリエになっている。庭は手放すと原野や荒れ地に戻るという開拓時代が匂う林と畑(いや、北海道は今でもどこでも昔に戻りたがっている)。そこで行われる営みに若いクリエーターは興味津々で向き合い、やがて北海道弁の年配者・弁造さんは亡くなる。 丁寧に北海道弁を切り取り、リアリティがあり、それらは機知にとんだ真理、アフォリズムと呼べるものに仕上がっている。例えば、ボンヤリをからかったら「年寄りからボンヤリをとったら何も残らん」「年寄りとはボンヤリ座っとる生き物だ」などと返す。「ユーモアはぺーソスを越える」など、意味深な言葉の数々を発見しつつたどる楽しみも多々ある。ある薪づくりのシーンでは、手伝ってもらった薪の山をみて「ああ、これでまた薪の暮らしを続けられるなあ」…。これはわたしの毎年の薪暮らしのシーンや感慨とも似る。 庭といい、人といい、そして薪といい、とにかく北海道に住み開拓や風景に関心を強く持つ者にとって共感するところが多い。だから並ぶように歩き、読んだ。ところでなぜ、若いクリエーターは、北海道弁で粗野な言葉づかいを隠さない老人のところに通い詰めたのか。老人の言葉に象徴されるアフォリズムは何を意味するのか。最後までしっかりした答えが見つからなかった。 だが読み終えて、わかった。人はきっと常によりよく生きるためのヒントを探して生きていくからだ。人の日常という足元には、メモを採りたくなるほどのアフォリズムが転がっていて、それらを丁寧に拾い集めている他者は、あるものにとってはヒントの山に見えるのである。ヒントは、抽象化し普遍化し磨いていくうちに音色良く響くようになるのだろう。聞く耳を持つものにのみに響く。まさに啐啄同時であろうか。 ◎2025/4/29 響き潤う感性 ~藤沢周平の世界~ 急に涙もろくなったわけではないが、今朝、サンドイッチマンの「病院ラジオ」をみてこころに湿り気がよみがえったような気がして、それが藤沢周平の読書感想に繋がった。うるおい、琴線に響く感性ゆらぎ。正体はうまく説明できないけれども、top-page の「日々の迷想」に下記を書いた。実に久々の書き込みになったが、柳田国男の森と山に続く記念碑的出会いをここにも残しておこう。 《藤沢周平の手記を読んでいる。氏の『白き瓶 小説長塚節』 を読んだ時もなぜか親和性が高い感性だと勝手に感じてきたが、『藤沢周平 遺された手帳』で確信に変わった。まるで寒さで固くなった心を温もりで融かすような雰囲気があった。しかし、それは万民が持つ感想かと問われれば、否である。地域固有の民謡への共感のような、郷土・山形の風土につちかわれた、貧しさとまじめさと、つましさなど諸々の、どちらかというともの悲しさにも通ずる因習のようなものの共有だ。自分を殺して生きざるを得ない、近親縁者に忖度しながら生きねばならない風土にちかいだろうか。「出る釘は打たれる」というのがわたしの土地の戒めとしてよく口にされたのだった。 『…手帳』は娘の遠藤展子氏によるが、実の娘だけに父・藤沢の心のひだを実に良くほどいてみせ、小説家として独り立ちしていく、遅咲きの父の足取りを描いていくのだが、手帳に書かれた本音のその描写が時に痛々しくわたしの琴線に響く。そうして読み進むうちに、上に書いた寒さで固くなったわたし自身の感性が再生したような思いがした。「詩人の方が文学的に純粋かもしれない」「詩人は”表れない”ことを前提にしないと書けない」「(詩は)知的で情熱的な作業だから」などとも書いている。これはわかるような気がする。そしてもうひとつ、藤沢周平氏は血液型がわたしと同じB型だとわかった。科学的根拠はわからないが、これはある、とうれしくなった。 ともかくいつのまにか寒さで固まっていた塊を、藤沢周平の手帳は融かしてくれたようだ。それによってわたしが郷里の桎梏を紐解くことをしないで来たある種の我慢が、一挙に決壊して思い出の洪水となった。そのおかげで、生活と人間関係の絶望的な貧困と歪みを正しく認識することとなった。とりまく桎梏とは家庭、世間、そして土地の風土であるが、自然はあくまで無言で囲むだけだった。近年まれにみる読書収穫である。》 ◎2022/08/16日本人の森と山 ~柳田国男の『山の人生』から見える世界~ ■『遠野物語」と『山の人生』 表記、柳田国男の『山の人生』は、『民藝の日本』や『手仕事の日本』(いずれも柳宗悦著)を読み込んでいるうち、偶然いもづる式に手にした本だった。が、読み進んでいるうちに目からうろこの経験をしたので、是非、少しでも要点をメモをしてみたくなった。 これは日本人の森林観のルーツを正しく掘り起こすうえでも、わたしにとって避けて通れない核心部分に思えた。柳田国男の『遠野物語』はつとに有名であり、東北は遠野の界隈の不思議な現象や霊にまつわる物語の起源に踏み込んで、「歴史の闇に顔を出す異類異形のコトバのなぞを解き明か」そうと、この『山の人生』という大きなテーマに大正14年に取り掛かった、と、宗教哲学者の山折哲雄は解説している。そして、その両著作の関係性は、『古事記』と、江戸時代にようやく解読した本居宣長の『古事記伝』に酷似しているとしている。 ■鬼、天狗、山姥、そして狐と狸 ここに登場するのは鬼、天狗、山姥、そして人に取り憑いたり化かしたりする狐と狸・・・であり、イメージされてくるのは、古来、日本人の山(≒森)は異界、隠れ家、逃げ込む場であった、ということだった。 端折って言ってしまえば、この本で描かれている山は、そもそも、科学的に多様な自然でもなく、快適な緑環境などでもない。精神に異常をきたした人間が、自ら世間から隠れるように入っていく別世界であり、鬼も天狗も山姥もいる魔の世界、社会の闇のようなおどろおどろしい場であった。それが古来、日本の山、森であった。 描かれている内容は、言い伝えられた、あるいは村々で人々が聞いた神隠しやたたりの話、あるいはそこに住む「山人」達のエピソードである。柳田は『古事記』における太安万侶のように『遠野物語』を聞き書きし、本居宣長のようにその背後にある世界を『山の人生』として解読した、ということになるらしい。 だから、そこに日本人の自然を見る感性DNAの起源が潜んでいるはずだ、読み始めての直感はこれだった。しかし、描かれているものは余りの闇、地底のような別世界だ。近年、学問や報道が喧伝する緑とは大違いである。 もしこれがわたしたち日本人のベースにあるのであれば、わたしたちはありのままの森を、「快」という感性で受け止めることはないであろう。そして現実はまさにそのとおりにあるのではないか。そこに西洋的な概念、あるいは科学の常識や価値観が混濁しているから混乱し、わかりにくいだけだ。 ■モンスーンの森は暮らすには不適で不快、里山の手自然こそ「日本的緑」 さらに一跨ぎして結論を急ぐと、上のセミ表題のようになるのではないか。 繁茂するモンスーンの森は放置すると森になるほど、豊穣である。しかしそこは、暮らすには不適で不快ですらあり、人々は西洋と同じく集落やマチをつくり、やがてもっと高度な都会を目指して今日の賑わいと利便を産み出し受け継がれてきた。 ようやく心地よさを見つけたのは、人の手のかかった里山、別の言い方をすれば「手自然」であった。これがどうも「日本的緑」の最善の形だったようだ。緑は、経済的に資源であり林業という産業のもとである。以上は、林業というジャンルを無視したかのように見えるかもしれないが、林業が日本のGDPに占める割合が極めて低いように、今の状態でビジネスに転化できる緑は、生産原価のうえでは競争に勝てるものではないように見える。少なくとも今のところは、そういう尺度には合いにくい代物、と言えないだろうか。 ~~~~~~~ 以上、駆け足で『山の人生』の読後感を、自分の通う雑木林の方向を頭に描きながらメモした。そういえば、哲学者・内山節氏の著作に『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか(講談社現代新書)』があるように、民俗学の対象となる民話的な話は、日本各地につい最近までごろごろとあったのである。 そして『山の人生』に一つの解決策のようなものを見たのは、精神に異常をきたした人が森に隠れたという多くのエピソードであった。今日、人間苦とでもいうような生きづらさを、精神のあり方の窮屈さとともに病に落ち行く人も、先天的に病理を抱え不適応になっていく人も跡を絶たない。縁もゆかりもない人を道連れにする拡大自殺などは特に深刻だ。 ここにはかつて、神隠しなどという安全弁がはさまれてあったのではないか。そこを差配する妙が、「山」「森」にあったのではないか。そこは逃げ込み場であり、ノーサイドの空間、すなわち赤十字が目指すアジールだったのではないか。こころと体と癒し、処方箋は一向に蓄積されているように見えない。 ◎2022/2/08 土地に根をはった生き方「石牟礼道子」 わたしの周りでは作家・石牟礼道子を特別視する方が少なからずいらっしゃる。石牟礼さんと言えば代表作は『苦海浄土』であるが、わたしはいつか必ず読もうと思いつつ先延ばしにして来た作品だった。何だかとても重たい気がしていたのだ。プロフィールを調べていると、山仲間の住む住所で代用教員をやっていて、ほとんどその界隈で暮らしていたことがわかった。さらに肉声に触れるべく、まずエッセー集「蝉和郎」を読んだ。苦海浄土の足ならしである。読んでよかった。熊本の田舎の描写がリアルでさすがに詩的でもあり、人間の生き様(この言葉はふだんは好きではないが石牟礼さんの描写はぴったり)の根っこにはどうしようもない業のようなものがあり、人の心のどこかには必ず良心のかけらのようなものがある、というような視点があるように感じる。人が生きるも死ぬも、生き物全ても淡々と低め安定の語りで、それが妙に落ち着く。数々の生き死に、幸不幸をくぐって来た人特有のものにも見える。そしてこの低め安定がわたし本来のテンションででもあるのか。石牟礼氏はこの土地に定住しながらやがて水俣病と闘っていく。エッセーは「土地に根ざす」という生き方を垣間見る思いだった。土地に根ざせばグローバリゼーションの影はたちどころに消えそうになる。それでいいのだ、という声が聞こえる。 ◎2022/1/30 賢治の自然観 宮城一男著『宮沢賢治と自然』(1983 玉川大学出版部)を読了。日本人は自然をどうとらえてきたのか、そして自然観がどう移り変わってきたのか、改めて考えてみたい衝動にかられ、『山と詩人』を読み、それに続く二冊目の自然観探訪となった。賢治の童話がどこかエキゾチックな趣があったのは、地質や岩石の専門用語とラテン語めいたものがちりばめられていたせいだった。たとえば落葉松に学名で属を表わすラリックスというカタカナでルビを振るなど、だ。そしてそれら不可思議な文字が作品の中に宇宙的な広さを感じさせる元だった。が、岩石学の専門家である著者のワンポイント解説で、大分親しみが持てるようになったのは意外な収穫だった。 また、初めてエッセーのような文章を目にしてやっと賢治の口蓋に触れた気がした。迷信や無知蒙昧に近かった農民・農村を、科学によって明るみにだそうとするような慈愛に満ちた独特な使命感をエネルギーにして、森羅万象を博物学的な視点から紐解き、多くの童話や詩で心を表現した賢治作品であるが、著者は賢治がそこに科学と宗教の接点を求めていた、と考えている。 その見方に、わたしはもっとも親和性を感じる。自然は神性を備えた超越した存在であり、科学で分解や分類はできないあるもの。「虔十公園林」は懐かしく熟読し、伐採をするときに村人が「少し木貰っていいかあ」と聞く「狐森と笊(ざる)森、盗人森」には、自然との関わりの根幹を表わす普遍的な思いが込められている、と改めて感じる。こうして振り返ってみると、自然=森羅万象は、宗教のような立場にたって付き合い眺めるのが、もっとも「自然」なように見えてきた。『山と詩人』では花鳥風月をとらえる感性がまずあり、その後ろに社会があった。人間も自然のなかのひとつの生き物、という賢治の慈しみに近い視点は多くなかったように思う。 ちなみに、この本は前の職場のライブラリーを処分する際に、放出されたものの中から頂いた。ありがたい拾い物、だった。 ◎2022/01/24 金子勇先生の論考「二酸化炭素地球温暖化と脱炭素社会の機能分析」へ雑感寄せる (返信要約、長すぎました(-_-;) ) (前略)…先生の連載『二酸化炭素地球温暖化と脱炭素社会の機能分析』計7回分、興味深く読ませていただきました。すべて目を通してからの返信、と考えているうちについメールが遅くなりました。 表記は国政に関心を寄せる国民の間でも、一体何が正解なのか、一体何のことやら、キツネにつままれたような状態で、世界と日本国政府の動向を注視している現在かと思います。先生の論考の肝である原発や火発と再エネの「機能的等価性」というキーワードを手に入れると、天秤の判定に似たわかりやすさに達することができる、ということがわかります。 エネルギー、とりわけ電気はどのように調達すればよいのかは、まさに国益に直結する国の産業や民生とも関わる根幹ですが、CO2の温暖化や再エネのように確たる根拠が乏しいものは、その動かし方によっては色々な損得を生じやすい、ある意味では一方に富の源泉になっている構図が見えます。IPCCやCOPも再エネもひいては国連の掲げるSDGsもビジネスと直結しているということを、国民はうすうす見抜いており、新聞が募集したSDGs川柳の中には、「SDGsと言うやつみんな金めあて」などというものがあったり、歌壇俳壇の投稿欄にすら、「声高にSDGsと言わねども農夫は還す根は葉は土に えすでーじーず」などがあり、市井の人々からも大いなる共感を得ているというのは、どこかケツが割れている芝居の、お手並み拝見といった様相も感じられます。 やや直感的な話になってしまうのは恐縮ですが、科学的根拠を示すことの難しい気候原理については、ジェームズ・ラブロック博士のガイヤ理論と、赤祖父博士のいう北極海の海水移動などが、的を得た見解ではないかという予感がします。行きくところ、地球という惑星の恒常性ホメオスタシスに依存していて、温暖化も寒冷化もそのブレの一つでしかない、ということでしょうか。ホメオスタシスの上の極小のブレを、つるんでビジネスに奉る、あるいは便乗していくナガレのようなものが厳然としてあるのではないでしょうか。 道内あちこちの再エネ施設のうち、…(中略)メガソーラーは、勇払原野の、あまり樹木がないエリアを選んで建てられていますが、関係者からは「1・2・3の法則?」なるもの を聞いたことがあります。 この法則は、再エネ1ギガワット?を作るのに必要な土地の面積は2ヘクタールで、その建設費はざっと3億円、というものでした。プロジェクトはFITによってビジネスライクに粛々と進められ成立するので、土地の貸借契約の方からみると、20年間の借地料は、売買した際に得られる分譲代金と同じになり、つまり土地代は2回以上回収できる、という仕組みのようです。 話は飛びますが、原発はやめたかに見えたスウェーデンやドイツは災害による民生不安やエネルギー安全保障で「脱原発をとり止める」ような動きが見えたり、国も小規模原子炉の共同開発に踏み込んだり、フランスとの核融合研究に再び?取り組んだりするニュースが目に入ります。(中略)「もんじゅ」にも取り組んできた友人が、「原子力はベストではなく必要悪」と以前から言っていたように、頼り過ぎてはいけない効率ではありながら、ムードに流されて廃止してよいか。ドイツのように再エネ(FIT)のつけを国民が税金で延々と補てんする愚は、日本でも早々に止めてほしいと願うものです。 長くなりました。先生の時宜を得た論考のおかげで少し遠望ができるような錯覚をしています。またボキャブラリービルディングの大いなるサポートになりました。ありがとうございました。以上、お見舞いの御礼と、力作論考読後の思い付き感想をしたためてみました。…(後略) ◎2022/01/02 新年2日目 年の瀬の本 明けましておめでとうございます。年が改まる都度、来し方、特に去った一年を振り返ると、一年前の年頭に心に浮かんだ希望の道筋のようなものが、大なり小なりトレースされ、いくつかは成就している跡が見て取れます。ということは、年が替わるのを機会に「念じてみる」ことの意味が知れるというものではないでしょうか。 ところで、この年末年始はさしたる雪かきもせず読書三昧でした。懸案の古典で言えば、高樹のぶ子の解説になる『伊勢物語」で足ならしをしました。昨年読破した『源氏物語』の下地になっていることは初めて知りました。つまり、在原業平が光源氏のモデルではないか、ということですね。朧気ながら聞いたこともあるような…。それから、山の先輩Tさんによる『北海道の鉄道開拓者』。技師大村卓一の功績を追ったものですが、全般に展開される北海道開拓に関与した開拓史など明治政府関係者をはじめ、内地の人たちの多様さとエネルギー、そして国防と新天地建設への高い意志、人脈にはあらためて圧倒されます。近現代の北海道における地域開発の礎部分に当たります。 さらに『北海道ジビエ物語』。岩崎寿次著の、エゾシカの駆除から食肉ブランド化へのクラスター形成の取り組み(小史)が描かれ、コモンズの特別顧問の小磯修二教授が釧路公立大学学長時代に、「30年かかるつもりで」とアドバイスしたことがバックグラウンドとなって、丁寧なネットワークと研鑽を積んできたことがわかります。 歴史としてみてみれば、開拓も鉄道も遥か彼方の出来事のようにかすんで見えますが、それらがジビエプロジェクトのように、コツコツ丁寧に編み込まれていることを知るのは、懸命に今を生きる人々の元気につながるのではないか。 このほか、時事問題のレポートや人間学の雑誌にも目を通していましたら、二宮尊徳応翁の「積小為大」という言葉に出会いました。「小さなことの積み重ねが大きなことになる。大きなことを成し遂げようと思うならば、小さなことを疎かにしてはいけない」の意とか。年頭にふさわしい句として有難く読みました。 ◎2021/12/19 「ウラヤマニスト」辻まことで『山と詩人』は終わった 田中清光著『山と詩人』約700page を2か月もかかってやっと読み終えました。日本の文化に大きな影響を与えてきた「自然」、この自然なるものはいつも同じような自然なのに扱われ方が時代とともに変質し、かつ明治以降の近代の世相を映しながらなので足取りは重く、なかなか読み進むことができないという事情もありました。ここでいう「山」は、しばしばイコール「自然」であったために、わたしたちが今こだわる自然なるものが、どうとらえられてきたか、とても興味があったのですが、読了後の今も実は結局のところ結論めいたものは残らず、依然として混沌の中にあります。ただうれしいことに、霧の中の自然観を探る巻末に、ウラヤマニスト「辻まこと」が、これからの「人間の思想に新しい地平を開く可能性」を秘めたものとして締められているのが個人的に好印象でした。自然は、鏡であり、風であり、神であり、逃避場所であり、仏でもある…。この本が高価だったために、読み始めのころは読後は売り飛ばそうとメモや傍線なしで読み進んだのでしたが、、、途中からやめました。 ◎2021/9/18 薪と万葉集 外部社会とはネット等でしっかり繋がっているとはいえ、どこかモノトーンな日々であり、これは毎日同じメニューの食事をしているに似ています。そこでおとといから、持参した2年前のサライ「万葉集を旅する」を見始めています。今朝、早々の回診を終えてからは、ノルウェーの名著『薪を焚く』を再読始めました。これらは2020/3/26迷想、雑木林だより110の6/22、〃111の7/14 と折りに触れて書き込んでいるのがわかりました。思えば、雑木林と薪は天に召される直前までの関心事になるのかも。万葉集といい薪の本といい、ルーチンとは別世界を瞬時にして形作る魔法を持っていて、こんな至福を味わえるのも、白秋期の養生生活のおかげでした。(^_-)-☆ ◎2021/9/17 「8050」の物語 結婚も就職もできないまま50代になった子供が、80代の親の年金を頼って生きていくという現実の社会問題、「8050」。昨日もまさにこの構図の親族殺人事件が報道されたばかりです。入院生活はリハビリを始め押すな押すなのスケジュールのため、何冊かの本を読破するというわけにはいかなかったのですが、合間を縫って唯一読み終えたのが、林真理子著『小説8050』。いじめが原因で引きこもりになってしまった二十歳の青年と父親、そして弁護士が、7年前の加害者を相手に裁判を起こし、最後は満身創痍のような状態で有罪を勝ち取るという筋立て。加害者3人を含むいじめる側の心理、身勝手な忘却と変身、被害者青年の屈折と息子を持つ父親の葛藤、そして凄惨な家庭崩壊の過程をそれぞれリアルに描いており、他人事とは思えない描写に引き込まれました。息子と父親の軋轢描写も身をつまされる思いがしました。最終ページに近くなって、アレッ、何かに似ている、と思い出したのが、村上龍著『希望の国のエクソダス』でした。あれも主人公は中学生で、恵庭の病院の窓からすぐそこに見える「ノホロ」(野幌)が架空の国のラストステージだったことも、妙な既視感を呼び起こしました。あえて言えばかすかな光が見えたのが救い。とはいえ、生きにくい閉塞した世の中だ、という重苦しさはいや増すのでした。 ◎2021/6/7 コモンズの追い風 混迷の時代を読み未来を展望するために 久々に衝撃の本に出合いました。マルクス(本気で読んだことはありませんが)の晩年の到達点と資本主義、SDGs、そして次の時代のキーワードのひとつとしてコモンズを論じています。帯のコメントがすごい。博覧強記の松岡正剛氏が、「気候、マルクス、人新世。これらを横断する経済思想が、ついに出現したね。日本はそんな才能を待っていた」。佐藤優氏は「斎藤はピケティを超えた。これぞ、真の「21世紀の資本論」である」・・・。スケールの大きな経済と環境の懸案を包み込み総括する展望を提示しているように見えます。晩年のマルクスが「資本論」本編とはまるで真逆に近い論(特に地球環境からの搾取)を展開していたことを膨大なノート資料で明かしてみせ、目からうろこの展開でした。資本主義が原因の地球への過剰な負荷とそれを乗り越えるための脱成長、そしてグリーンニューディール。その道としてコモンズの仕組みとアソシエーションが重要としている視点があるため、世界の過去、現在、未来を論ずる高邁な思想が、わたしたちの日常にもつながる身近さを感じさせる一冊だったと思います。いや~、びっくりした、が読後感。![]() 2019年以前はこっちに若干 |