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2023年、日々の迷想

■5/10 歌に見る庶民の共感 18
季節が規則正しく巡ってくることは慶事ではないだろうか。太陽も月も天体すべてが大きなリズムで確実に動いてくれることに、底知れない安堵を覚えるのは、裏返すとそれほどまでに日常が事件や天変地異に見舞われている証かもしれない。

そんななか、先日は『勇払原野のspirit』なる広報誌をリリースした。受信した購読者は数10名で、読んでくれる人はその中の一部。しかしこれでも、固定の読者が数名いてくれる。それだけで充分だ。
 庶民の歌と共有感覚はどうもそれに近いような気がする。確かな共有、不思議な連帯、そこに安心と喜びがある。

◎孫娘はわれに眼鏡かけさせて「この本読んで」と隣に座る   藤沢市・Hさん
…この愛らしい光景はわたしにも経験がある。既視感を覚えた方も多いはず。この頃のSNSでは、ハイハイする赤ちゃんに、愛犬がハイハイをして見せたりするから、頼る、ねだる、教え教えられるというのは、哺乳動物として身に着けている遺伝的な素質なのか。このような素直な情動を、あたたかく育ててあげれば、人は大きく外れないはずなのだが。

◎蚕(こ)しぐれという音おもい冨岡のみやげに求む桑の葉のお茶    狭山市・Fさん
…子供のころ、実家でも副業として養蚕をやっていて、蚕へ桑の葉を食べさせる仕事は小さな子供でもできるからよく手伝った。桑畑で桑の葉を採るのも桑の木は低く枝が柔らかいのでこれも手伝えた。食べ残しと緑の糞はサイロで発酵させヤギや羊に食べさせた。その蚕が葉を食む、いわゆる蚕食時は、たしかに「しぐれ」のようなシャーシャーという音がした。しかしお茶は知らない。新幹線のこだまがデビュウした時、その先頭車両の姿が、蚕の頭部とそっくりでびっくりした。

◎「拉致」は保護、「侵略」は解放なりといふプーチン監修きらきら語辞典   結城市・Fさん
…嘘を言うことに慣れていないし、言いこめる訓練もしないから、われら庶民はとんと自己宣伝合戦には弱い。ことここに至って、世界はプロパガンダの饗宴になって来た。特に痛ましいのは、命令ひとつで命を落とさせる独裁者と、その下に、騙されてか信じてか、死んでしまう父や息子らが数多いること。操られたその集団が押し寄せないとも限らない経験や初。そんなことはあるわけがないと信じて疑わない「お花畑」という表現が生れて久しい。

◎匿名は善行のとき使うもの他者を攻撃するときではなく   上尾市・Sさん
…まさに。匿名性の情報通信の極致がAI、あるいはチャットGPT。この人、インチキかもしれない、この話は作り事かも、と最初から疑って付き合うなんて面倒だ。匿名だからと安心して自分より社会的立場の高い人を罵っても、実際の自分の値打ちまで上がるわけもない。この勘違いは止まらない。朝には太陽が昇るように、春には緑が萌え、寒い冬も来るように、生き物は生まれていつか死ぬように、自分という存在と、発するものに責任がある。頻発する前代未聞の事件の裏に、この匿名という表出方法がデンとある。

■5/07 薪運びと薪積み

毎年の恒例家族行事、薪運び、薪積みがほぼ完了。2トントラックで運びきれなかったものが若干有ったので、昨年秋に育林コンペのマイエリアで間伐した丸太を 5/9 に割って運べば完結。だから実はまだ先がある。一年の区切り感覚というものが薪の動向で大きく左右されるのだ。それと、この風土に自生する季節の山菜をしっかりと食べたのかどうか。川エビやホッキや、苫小牧沖のトシラズを十分堪能したか・・・。ひとつひとつこなしていって、つまり季節を五感で味わって、時間を過ごしていく・・・。今月は樽前の前浜で、サクラマスをねらってフライロッドを振るという儀式がある。

インターロッキングに散らばっている黄砂のような粉は、昆虫などによる薪の食べくず。これというのも丸2年乾燥したもののせいだが、おかげで薪同志がぶつかるとカランカランと金属のような音がする。物置前に積んだ薪(写真右)を見て、わたしは、色々な広葉樹を適当に混ぜ合わせたこの雑木の薪が、つくづく好ましく思える。カラマツがほんの少し混じっているのも愛嬌である。色々なサイズの雑木が個性ある凸凹丸出しで活用されているから、積む技術だけでない暴れ方をしている。それならばと、雑に積んでいったら益々アソビの多い棚が出来上がった。こういうことで、いちいち満足と幸福感を感じる自分を、心底祝福したい気分だ。

■5/04 サクラ植樹への反発は正しかったのか
旧苫東の時代に、道道と国道234号の交差部の修景に、若手スタッフのプロジェクトとして関わったことがありました。採草放棄地に木が生えだした荒れ地だったので、工業基地・苫東らしい景観創出をめざしました。時あたかも「苫東の景観形成」という有識者会議に関わっていた前後です。広々とした草地の向こうにオレンジ色のTOMATOH ロゴが目に入り、接続するランプ両側は緩やかな法面で法肩には造林地から樹高5m以上のアカエゾマツを移植し、並木状に仕立ててナラの成木をシンボルツリーとしてドカンと移植しました。
 この修景は法面にワイルドフラワーを混ぜたりして一定以上の評価がありましたが、その後、社長が何代か変わった中で、ある社長が「この広場は殺風景だからサクラでも植えなさい」というトップダウンを下し、高さ2m程のサクラの木が何10本か植えられてしまいました。これには大いにがっかりしてしまいましたが、もう部外者なのだからあきらめるしかありません。
 ところがそれから20年近く経った数日前、毎年通るこのアクセスの桜がようやく見られる程度に満開になり、「あれ、結構いいじゃないか」と、初めて見直しました。何かと言えばサクラを植えたがるワンパターンに反発を抱いてきた自分を少し恥じるような思いがしました。サクラの植樹と時間を経た評価。どうも日本人としての感性に響く独特のものを持っているようです。

■5/02 アイヌネギの底力
4月の中旬、久々にアイヌネギを採ってから、あらためてアイヌネギの力に目覚めた。それも調理などしないで、強くもんで醤油で食べるのだ。とてつもなくパンチがあり、肚に染みわたった。来訪した在京の女性らにも拙宅の夕食に振る舞ったら、絶賛された。かつてなら、匂いがすごいから、などと敬遠されていたものが夢のような扱いである。どうも高級レストランで蘊蓄付きで振る舞われたことと、アニメのゴールデンカムイで、アイヌ食の逸品としてでも紹介されたような噂を聞く。

と思っていたところ、おとといのラジオ深夜便のトップが料理研究家・土井善晴氏が、いまだけの季節の食をいただこうと、かなり熱く語っていた。筆頭はタケノコだったが、アイヌネギも負けないと思う。スプラウトのような「芽」にパワーがあるのだという。臭いと言われてもいいからアイヌネギの出始めは、毎年いただこうと決意した。

■4/30
将(おく)らず、迎えず、応じて、蔵(おさ)めず
この荘子の言葉に時々たどり着くという人は結構いらっしゃる。過ぎ去ったことにくよくよし、これから来ることに思い悩み(杞憂)、その時々に臨機応変に対応できず、怨恨を引きずってしまう…。我ら凡人はしばしばその苦境にはまる。そうならないよう、自ら心がけようというマジナイだ。渡部昇一氏は、去るものは追わず、来るものはことさらに迎えようとせず、だれかれとなく同じに応接して、心にとめることをしない、と訳している。自然に心が動くことをさしているが、実はこれができない。10代の早い時期に論語に接して以来、箴言のようなものへの興味は尽きなかったが、多少の心がけに反して、人間としての中身はほとんど進歩していないのがわたし個人の実態だったと白状する。しかし、しばしば共有されるということは、ご同輩は少なからず、という証拠か。ただマジナイは強い。ある程度、利くのだ。

■4/28 エゾミソハギの発芽試験
断捨離のつもりで本棚を片づけていて、ふた昔も前に入手したエゾミソハギの種が出てきた。白老のサリカリア(ミソハギの学名)の会の新岡さんにもらったのか、はたまた自生地で自分で採取したのか、もう覚えていない。ずっと気になっていたので年明けに容器に播いて発芽を待ってみた。牧草などは1年で発芽率が1/2になるというから、この年月を考えると期待もできなかったが、ひとつぐらいは、と毎日観察していた。1か月待っても音沙汰はなく、断念した。そのかわり、新岡さんがイザベラバードの会の事務局あるいは代表みたいなことをしていたのが思い出され、バードが弁天浜を歩いて平取に向かったこと、その際にさびしい原野を「本当に荒れた景観でさびしい」という意味の述懐したことなどが思い出される。両方の会とも故辻井達一先生が関係していたものである。同時に、新岡さんが亡くなる1年ほど前あたり、なにか折り入って相談があると相談されたことがあって、氏が亡くなってからあれが会の後継のことだったのではないか、という想像をしていた。そう想像をしていたことが、サリカリアの種をきっかけに思い浮かんでくる。

■4/25 人のこころは

昔は表ざたにならなかったのか、少なかったのか、報道のフィルターやカバー範囲の影響なのか、随分と人心崩壊を思わせる珍事件が続く。鬱屈したものがあり、それを押さえる自制心が乏しく、興味半分の自己表現を受け流す情報システムも整っている。一方、行政の無謬性は怪しいし多くの政治家も言うに及ばず。なにが正しいのか、自らアンテナを伸ばして、耳目をそばだてるしかない。内憂外患、これほど真剣に広く世間をみまわしているのは、きっと生れて初めてである。古来、隠居とはよく言ったもの。岡目八目を地でいき、勉強の時間に事欠かなく、直接の利害関係からもかなり距離を置いているから、こころが濁らないで済むのか。

4/23 今週でかけた二つの林

左は樽前の麓の牧場の間にある小河川。北海道らしい、使われない土地、林(5/20)。右は千歳のキウス周提墓、世界文化遺産である。勇払原野の萌芽再生の2次林とはひと味ふた味、異なる、ミズナラを中心とした広葉樹林(5/21)。どちらも味がある。

■4/19 歌に見る庶民の共感17
樽前山の雪が急激に消えたのが、黄砂のカスミの向こうに見える。今日は24節気の「穀雨」。早春の山菜をひとつずつ食し始めたが、胆振の春はまだまだ。

古い歴史ものを呼んでいると短歌は切り離せない。そのうち、短歌は日本人にとって欠かせない文化だったという言説もやっとわかりかけてきた。大事にしたいもの、と思う身には、新聞の歌壇俳壇(この際、俳句も日々を謳いあげる歌のうちとして)は、毎朝の楽しみとして欠かせないものになって来た。

◎ つぎつぎと同級生が世を去りぬシーラカンスは淋しからずや  北上市 Sさん
…長生きすると寂しくなる、とよく聞く。この光景を俯瞰してみると、人生の大きな出番は過ぎて舞台のそでに引き込んでお茶で和むような図がある。その出番も山あり谷あり、喜びと後悔が混然一体となって、しかし、ここまで来れたのは生かしてくれた周囲に感謝しかない、などと。

◎ ルリビタキ山の小道で待っていた幸せなんてこんなものかな  高砂市 I さん
…そう思えることそのものが幸せな感性か。その切り替えはなかなか簡単そうでできないもの。茶柱などもそう。その点、流れ星は確率的に低いので超ラッキーとなる。その時々の出会いに右往左往することなく、自然心で泰然とありたい。ルリビタキのような出会いを大切にしつつ。

◎ 半世紀レットイットビーを口遊(ずさ)み愚直に生きて古希迎へをり  東京都 I さん
…きっと折々の短歌にも凝縮されたのではないか。「愚直に」という言葉には、われら庶民の実感がこもる。自然と共感も生まれ、ささやかな連帯までも。そうしてみるとこの曲名は、人生一回りしてたどり着く、小さな悟りだった、と思い至る。

今回の「共感」は図らずも似た雰囲気の歌になった。

■4/17 後醍醐天皇の時代
年前から読んでいた吉川英治の太平記がようやく4巻目に入った。後醍醐天皇が隠岐の島に配流になった時代の、足利高氏(尊氏になる前)と楠正成が別々の筋書きで行ったり来たりするが、区分では鎌倉時代の後半であり足利尊氏が将軍になる南北朝の直前あたりに読み進んでいる。豊富な時代考証に裏打ちされるかのように、微細に描かれているから、時代音痴のわたしにも少しだけ伝わってくるものがある。そんな中に、吉田兼好が時々顔を出すというのが面白い。武家集団と公家方の綱引きと各勢力内のせめぎあいが延々と続くが、武家側が天皇家を滅ぼすという意図がないことが読み取れる。それから約700年近く、電気や車やAIの世界になって、暮らしは便利で豊かになったが、世界各地で争いは続き、国ごとの覇権争いも終わりが見えない…。このように総括して、さて、今日の日常に戻ろう。

■4/15 山仕事の区切り


昨年秋に本格的に手掛けたフットパス沿いの除間伐が一段落して、材の搬出も終わった。薪に加工される作業も、すでに割った先から積まれて、ヤードの風景も刻々と代わる。

■4/14 山野河海の幸、4番手

各地で桜の開花が10日以上早いというニュースが続く。昨日は裏山のフキノトウを採りに行ったところ、案の定、ほとんどが花をつけていて、そこから手頃なものを選んでフキ味噌を作った。となれば、アイヌネギももういいころかも、と出かけたら、こちらはちょっと早いかわいい盛りだった。沢山は食べないからこれで丁度いい。家人と二人10分ほど採って戻る。その帰りの牧場の真ん中で、大きなシカの群れがふたつ、若草をはんでいた。この風景を眺めていた家人は、奈良公園のシカより幸せそうに見える、と呟く。さあ、どうかな、とわたし。

■4/13 樹木、それも古木の神格化について
生き物は歳を重ね大型化すると、畏れられる。霊を備えると見られるためか、狐、狸、猪、猫、犬、そのほか人間をだましたり襲ったり、祟(たたっ)たりするする動物がらみの民話はよく聞く。樹木もそうで、大木は威厳を備えてくるために祈りの対象になっていく。「ネパール・インドの聖なる植物」は話題満載だ。また、自分より齢がはるかに超えた生き物との対面は、人をして下座業の修行者にしてみせるような力があり、時として人は謙虚になるのではないか。

その点、明治神宮外苑の樹木伐採の問題では、樹木が開発反対のシンボルのようになってしまい、樹木の持つ一面を垣間見た。樹木はしばしば砦になるのである。これらを含む自然保護原理主義はあちこちで散見されて信奉する人は少なくない。つい敏感に反応して時に冷たい対応をしてしまう自分だが、明治神宮の森の方には尊崇の念で向き合う。都知事や不動産業との駆け引きや著名なミュージシャンがコメントしたりというニュースを取り除いて、真相をみつけ納得するのにするのにひと手間を要してしまう。

■4/10 山の幸、川の幸

山仕事の帰りに川に寄ってみると、魚肉ソーセージの餌で結構な川エビが採れた。帰宅が遅かったので次の日の夜、冷蔵庫の容器をあけると、まだ半分はピヨンピヨン生きていた。それを無慈悲にも天婦羅にしていただくのである。
こうして起承転結、自らの手仕事で完結してみると、この勇払原野という風土に生かされている実感がわく。雑木林の除間伐をして薪に加工し暖を採ることと、きわめて近い。「そんなことしなくても、市場で売っているものを食べたら?」という人も居よう。しかし、土地の生き物とリアルにつながることで、初めて生の意味を感じる人たちもいる。わたしは明らかに後者だ。

■4/09 雑木林に出来上がった図書コーナー

なかなかいい図書コーナーが出来上がった。雑木林の魅力を発見し、志ある人の力と技術を束ねて保育する、スピリットとテクニックを紐解くにはいい場所だと思う。昨夏生れた窓辺で本を開くと、それは今は70歳を超えたオジサンたちの、かつての憧れの世界がよみがえってくる。


■4/07 紙おむつは必需品で意外と快適だ!?
先週の旅行で山仲間と過ごした時間の何分の一かは、高齢者としての紙おむつ使用の話題だった。3/17 のブログで、吉本隆明氏の紙おむつの思想家の話に言及したばかりだったので驚いた。高速道路で運転する場合などは必携だというのである。かれらは渋滞に巻き込まれて身動きが出来なくなることがあったのが紙おむつ対策の動機だった。そして今も体験談の交換はメールで進行中。だが、「なんだ、そうなのか」、と少し気が楽になったころから、こちらにもニーズが移って、尿漏れの緊張がゆるくなってしまったような気がするのは困ったものだ。高齢者である自らができるだけ身内や他人の世話にならないで済む方法を考案し実践しなくては。

■4/05 フキノトウが出始めた

山仕事の帰り、勇払川の土手をみると、待望のフキノトウの緑がやや控えめに目に入ってきた。山ワサビに次いで今季2品目の山の野菜。さっそく、家人に連絡を取り、ホッキを用意してもらった。帰宅後、ほどなくビールを片手に「ホッキとフキノトウのかき揚げ」に取り掛かった。

頃は24節気の「清明」。花々が咲き始めるといっても、勇払原野は春一番のナニワズの開花はあと数日待たねばならない。フキノトウの苦みとホッキの甘さが微妙にコラボする季節の逸品。ことしも春が巡って来た。


■4/03 「スポンタネ」のオーラ
一見、無鉄砲にも見える捨て身の料理人生、旅行の合間に引き込まれるように興味深く読んだ。

大分昔のことだが、四谷のオテル・ドゥ・ミクニのオフィスに、留萌で行うあるイベントの打ち合わせに出かけたりして2、3度お会いしたが、なるほど、オーラがあるなあ、と思った。打ち合わせの時に、秘書の若い女性から、シェフのフランス料理はその日与えられた素材を見て即興で作るもので、料理イベントではその即興部分をあらかじめ四谷の厨房で一度作ってみて、それをアシスタントがメモをして、料理のレシピはそこから生れる、ということを知った。そこでイベントに備え、留萌界隈のエビやら白身魚やら牛肉やら野菜やらを、レシピづくりのために早々に送った記憶がある。

三国さんも、その日市場から届いた素材を見て即座にメニュウを考える「スポンタネ」をフランス修行中の三ツ星レストランで知ったという。それまでは、言われたことをやりレシピが示すとおり料理するだけで、それだけでは彼の血が踊らないことを前段の文章では感じ取れた。和食の豚汁とかすき焼きとか、その他もろもろの内外の定番料理のように、すでに出来上がった料理の名称を持たず、フランス料理はいつも、〇〇のなんとか和え、などと書かれているのはそのせいで、レシピはあとからついて来るものだと言うのである。弟子にはきつく、いつもたたいたり蹴とばしたり怒鳴ったりしていたと漏れ聞いたが、この「スポンタネ」のイライラと創造の苦しみがそうさせるのだとわかった。指示を待つ弟子たちこそ、いい迷惑だったろう。指示などないのを知らなかったのだから。

これからはレストラン業をやめてやりたいことをやるという。きっと札幌のNさんらとなにか新しいことを始めそうな気がする。北海道には素材があるから、そして、開拓するジャンルも残っているから。マッカリーナのような驚きの日は近そうだ。


■4/01 勇払原野の高級ブランド「おの割り雑木薪」

実に美しい薪棚が出来上がった。コモンズのメンバーが朝から斧で割って、積んだものである。薪は、薪割り機でシャニムニ割ると、かなりささくれ立つものだが、マサカリで割ると、薪は割れたい、割れやすいところで割れるので、自然な感じの薪になる。これまでも、かなりの薪をマサカリで割って作ってきたが、それは薪割り機の薪と混在させて積んでいた。

しかし、今回は違う。オール・ハンドメイド。この美しい薪は、インテリアにも使えるので、雑木薪のブランド品として付加価値を表現したい。ここで1年半乾燥させて使用する。そこでわたしの案は、表記タイトルとなったがどうだろう。


■3/31 武蔵野陵(みささぎ)にて

3/27~/31まで、靖国神社~八王子~武蔵野陵墓地~山梨の甲斐市にある別荘~神代桜~県立美術館~箱根の岡田美術館、という旅行をしました。写真日記はこちらへ。

■3/25 薪づくりを始める

林に入って行う除間伐をほぼ終わって、今日からは薪ヤードで薪割りを開始した。試しに、そのすぐ隣で、パレットに薪を積み始めてみた。薪にカビなどが生える前に早々に積み上げるのは爽快で、壮観ですらある。それに丸太というボリュームが薪という製品にどのような歩留まりでできていくか、ヤードのストックすべてを片づけるのに、このような作業が何日必要か、などがピンとくる。これは面白い、と思った。

(明日から週末まで、更新を休みます。)


■3/23 息切れサインと養生訓
去年の年の瀬の頃からまた不整脈が始まり、この頃は動くと息切れすることに気づいた。山仕事でソリや一輪車に道具を積んで牽引しながら車に戻るときなど、休み休みになってしまった。もちろん、いっしょに戻るメンバーがいれば当然追い抜かれる。昨日、半年ぶりに札幌へ出て古巣の職場の理事会に出た折は、かつての通勤路だった、わずか7,800mを歩きとおすのがつらく、帰りはさすがに途中のとあるホールに逃げ入りソファに掛けた。当然、あらゆる通行人に追い抜かれた。何ということだ。

晴林雨読などと言って、読書三昧にかこつけて座ってばかりの生活が続いてしまったのか、歩くのが嫌で、すぐ腰が重く感じつらい。これを健康上のサインと見た結論のひとつは、いうまでもなく運動不足だ。もう一つは動脈硬化に伴う呼吸不全。まずは運動不足解消の処方を試そう。心肺機能を使う動作など、ほとんどしないで来たツケが回ったと思う。山仕事はそこそこ体を使うが、心肺機能とはやや違う。心身との対話、特に身体との養生問答に少し軸足を置いて体が発する声に耳を傾けてみよう。


■3/21 流れ星とシマエナガ

昨日、気温は14℃、今日の春分の日は10℃、さすがに庭の雪も先週すべて消えたが、山の方は、一見早春の風景だが、土は凍ったままだ。昨夜は久々に大きな流れ星を見ることができた。今年二つ目、そして今日、雑木林に着くや否や顔を見せたのは、ヤマガラ、そしてキバシリ、さらにシマエナガである。何とはなしに春らしい出会いである。シジュウカラも活発に鳴き続けていたが、こちらはチェンソー用のイアマフを装着していて、終日、鳥たちの生ライブにはならなかった。残念。写真は遠浅から静川に移動した際のケアセンター、雪が落ち葉に替わったが、この落ち葉はお盆のころまで腐らないで、突如、消える。

■3/19 山菜のトップバッター「山わさび」を忘れていた

わたしは北海道、特に苫小牧に来るまで、山わさびを食べたことがなくて、昭和51年、苫小牧の会社に赴任してあてがってもらった下宿で食したのが初めてだった。最初はイカの刺身などで味わったと思うが、下宿のオバサンは今頃の季節になるとよく食卓に出し、醤油をかけてご飯に乗せてもおいしかった。その後、自宅の庭にも植えたが殖えて大変だった。勇払原野の春の山菜といえば、フキノトウやアイヌネギの前に、実はこの山わさびがあったことをうっかり忘れていた。そもそも、田んぼの畔など、農家が片手間に植えたものがほとんどだから、厳密に山菜採りに興じるという対象とはちょっと違う。さらに剣先スコップやツルハシで凍った土を掘って取ったような記憶がある。それだけをとっても、いわゆる山菜取りの先駆けにあたるだろう。しかし、思い立ったら吉日、山仕事のあと厚真を訪れてふたつみつ入手した。一日おいた今晩、イカを用意していただく予定だ。

■3/17 吉本隆明の老い指南(吉本メモの3)
読み終えたつもりの『家族のゆくえ』だったが、備忘録として残しておきたい文章がまだまだある。尿漏れに備えた紙おむつをしながら、80歳を超えた思想家は呟くように、こんなふうに書く。

(老人の心身の機能の衰えについて)

「実感で言えば、老齢者の身体の機能はちょうどそれ(注;赤ん坊から以降の発達期の人)と逆の反応をする。病気が回復するところまではいっしょだが、回復するごとに必ずどこか元にもどっていないし、もうもどらない箇所が増えてくる。これが老年期の身体の衰え方の実感だ。」
「精神的能力はどうか。はっきり変化する。精神は発達し、視野は狭く直線的になるといえば、おおよその特徴は把握しているとおもう。」
「老齢になると、衰える部分と拡張される部分がある。身体の運動性は衰える。しかし長い年月を生きてきて、それを使うことに慣れている想像力とか空想力、あるいは思い込み、妄想と言った機能は拡張されるとおもう。」

(時代病の根源について)

「我慢に我慢を重ねていれば、一足飛びに殺し合い・・・家出、放浪…離婚や近親争いも起こりうる。」
「何がむずかしいのか。かつての自然産業優位の牧歌的な社会では黙っていても親しい者のあいだに暗黙の了解と意思が疎通していたのに、現在ではこの暗黙の理解は肉親、辺縁の人間の自然な関係でも不可能に近くなっているからだ。」
「根本的にいえば、配慮の難しさはかえって近親、近縁ほど複雑になるという逆説的な関係が深まってゆくことによっているとおもえる。もっと社会的視野の関係で言えば、現在の大都市では、時間の流れ方は二十年ほど前と比べて二倍か三倍になっており、その影響は全産業の五〇%を超えている。(農村、漁村、林業の自然産業も生産の速度は増しているが)それでも大都市地域の循環速度に比べて格差は大きくひらくばかり・・・」。
「これは大都市周辺の近隣地域で、親子、近縁、子供同士、または先生と教え子の関係などが険悪、苛立ち、突発の事件としてあらわれる大きな根拠だとおもう。時代病的な精神異常といってしまえばそれまでだが、いまのところ根本的に防護する方法は見つかって(おらず、政治家や識者らがおよそ見当違いなことを騒ぎ立てている)・・・。」・・・
「現在の地域世界の社会状態に、歴史的根拠のある流れをもたらせられるかどうか、その方途を見つけ出すほかに根本的な解決はあり得ないとおもう。」


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いつも里山のなごみ、などと現代社会から見ればあさってのようなことを書く当迷想ブログだが、手仕事でゆっくり体得する人としての営みと、猛スピードで変化する文明社会との間で生まれるズレを、辛うじて補正する手立ては、こういう環境と都市生活の間を意図的に行ったり来たりする日常を創り出すことが意外と威力がある。そんな感想だけメモしておきたい。その結果失ってしまうモノも得るものもいろいろある。そこには諦めとか覚悟とか、これまた世間ではあまり喜ばれない心の動きが横たわっているようだ。


■3/15 今日の里山の風景

今日も朝から快晴、山仕事には絶好の陽気である。そしてようやくハクチョウやガンの上空飛来がにぎやかになった。斜面の枯れ木とツルを片づけて、ふと振り返った風景がこれだった。陽ざしと言い、雪解け具合と言い、いくつか積まれた丸太とやや乱雑に積まれた枝と言い、ああ、これが里山風景だよな、里山らしいなごみだなあ、としみじみ思った。窃盗や人殺し、政局をねらった国会質疑、領土侵略の危機すら報じられる内憂外患の今日、このひととき、この風景は何を意味するのか。世界の末端にある些末な日常、ごくごく小さな幸福のような、なごみがここにはある。

■3/14 嘘臭くなってしまった言葉たち
癒しの森づくりフォーラムでも話題になった「癒し」という言葉について、造園関係の先輩とメールのやり取りをしていて、妙なことに気づいた。本心では嘘くさい、というニュアンスの言葉群があるのである。というか、うすうす感じていたことだが、この機会にもうすこし突っ込んで考えてみると、それは実は日常使っている中にたくさんあった。そしてそれらは時々、キーワードだった。わたしのカバー範囲で言えば、緑、恵み、自然、森林なども、いわゆる「これが目に入らぬか」、とでもいうような正義の言葉になっていないか。小学生が作文発表で、「生命(いのち)」という言葉を発する(先生のアドバイスなのだろうけど)ときなどはその極みであろうか。これを言っておけば文句は出ない、的なデファクトスタンダードと呼ばれるものか。

しかし、これらは限りなく怪しくて、自由、平和、民主主義、平等、人権、などが連想されていく。煎じ詰めて言えば、これらはイデオロギー的に使い古されて錆びてしまった、しかし極めて便利な言葉だったのだ。ポリコレ(politically correctness)を批判的に追いかけてきたものとして、どれも同一線上に見える。これらの言葉をうまく迂回して表現するのが難しい時もたまにあるが、それらはしばしば括弧書きとなってしまい、そのままだとどうにも読みにくい文章が出来上がる。


■3/11 手仕事の精神文化(吉本家族論のつづき)
人類などというものはさほど進歩などしていない、進歩したのはマシンなど文明だけで、だからこそ人の生き方を教え考える人間学は不可欠だと思ってきた。一見、何の意味もなさそうな山仕事のように、工夫しながらする手仕事の意味を、しばしば満足感をもって反芻することができる。「思い込める」強みか。加齢とともにその思いが強くなってきている。そんな思いに通ずる文言を、吉本隆明の『家族のゆくえ』に見つけた。

曰く、「(先進地、後進地、西欧・非西欧などの比較のあと)イエスとか釈迦とか孔子、そういった聖人君子がいっていることはいまでも凄いなとおもうが、そのあとの時代は精神性が下がる一方なのではないか。確かに細かいことをいうようにはなったけれど、言っていることはくだらないことばかりだ。・・・すると、後進地域のほうが家族問題や個人の親愛の問題、さらには食べるための生活もうまくやっていたのではないかとおもえてきた。いまから見るとたしかに、なにか幼稚なことをやっているように見えるが、当時の人は精いっぱいそうやっていたわけで、じつは彼らのほうが幸福だったのではないか。時代を経るにしたがってどんどん複雑な要素がからんできて、悪くなってきたのではないか。日本人は常に先進国に統合していこうと考えてきたわけだが、どうもそれは間違いだったんじゃないかとおもうようになった」。・・・これはすとんと落ちてよくわかる。多くをはしょって予言者風だが、わかりやすい言葉とは本来そういうものかもしれない。


■3/9 ママレードを作る

熊本から送ってもらったデコポンで、大好きなママレードを作ってみた。大好きなのに、なぜ、毎年作らないで果肉だけを食べてしまったのか。近年、朝食にトーストを少々食するようになったためか。ネットでレシピをいくつか眺めてから、本番。分量はいつもどおりテキトーにやってみたが、味は申し分なかった。Mサイズのデコポン2個でできる量もわかった。まもなく、川エビ漁をして、ホッキとフキノトウのかき揚げ、アイヌネギと、令和5年の風土の食の世界に突入する。

■3/7 吉本隆明の家族論
年明けのころから、平家物語の現代語訳と、吉川英治の『私本 太平記』(全8巻)を並行して読んできた。12世紀の話と14世紀を同時に感じられるとは、さすがに読書の世界だが、こうやって読むのはなかなか古い日本を肌で感じるにはいいと思う。太平記は、わたしのはなはだしい欠陥が、この時期を全くと言ってよいほど知らないこと、とりわけ楠正成がとんと想像がつかない。それを補うには、と探したのが太平記だった。しかし、これほどの大河物語となると、人脈、系譜が複雑すぎてついていけないことがわかった。源氏物語の如く、ときどき、系譜が描かれるのでホッとする。
 
このごろは、これらに並行して吉本隆明氏の『家族のゆくえ』を紐解いている。子育ての反省や夫婦の間柄、そしてそもそも家族ってなんだ、というような基本的なことを考えてみたくなったのだ。吉本氏が80歳を超えてからの本で、強引な筆運びも惜しまず、自分の最も不得意な分野と断りながら、とつとつと本気で言説を述べる姿に、すこし衰えも感じさせ、そこのところがなおさら良い。わたしの家族もごく普通、と納得できるから安心した。人生、いろいろあるんだから、という共感を得るだけでも、なんだか元気がでるではないか。


■3/5 SDGsと薪

昨日、最後の除間伐材ともいえる立ち枯れの丸太を運びながら、一緒にスノモに載ったメンバーと、「これがオジサンたちのSDGsだよねえ」と笑った。2月の最終日、これ(上の画像)が本番の除間伐丸太の最終便だった。大小さまざま、ご愛敬で若干、長さもまちまちである。そして、もったいないからこれも積もう、とフットパス脇の丸太を拾う。高いビルと公共交通網の発達した都会では想像もつかないだろう、ほとんど手仕事の世界。グローバリゼーションと市場第一主義、環境負荷増大の日常から折り返して、落ち着く先が実は SDGsだと思われる。

■3/3 春の山の歌

スケッチブックの余白には、1980年5月とある。いまから40数年前、定宿にしていた町営白樺荘(だったと思う)のそばの瀟洒なホテルと、山は美瑛富士岳。5月の山は心が浮き立ち、ドイツの「5月の山 An Den Mai」は、小屋やテントで、時には結婚披露宴のステージなどではもハモりながらよく歌った。3月弥生の声を聴いたばかりなのに、気分は5月のような高揚感がある。きっと夜明けが早まり、陽ざしが強くなったせいか。それで、この歌と、このスケッチをペアで思い出した。

Mozart作曲。歌詞は、「うるわし五月みどりは萌え/小川のほとり、スミレ花咲く/スミレひともと手折りてみれば/野に満つ春のゆかし香り」と3番まで続く。まさに春祭りを祝う気分にさせる。明るく季節を歌う習慣はこのころにできたようだ。苫小牧から白金温泉まで250km。あの時はどの山に登って、どこを滑ったのだろう、記憶が定かでない。take/草苅のミニギャラリーはこちら


■2/28 サリカリアのタネを播く
今年は桜やコブシの枝を切り取って水に差すという、春先取りの儀式をしなかった。ハスカップの実を培地に押し付けて発芽を待つという毎年の営みもせずに、もう明日は3月、弥生である。なんだか心残りに思っていた矢先、山の本を積んだ棚にサリカリア(エゾミソハギ)の種の入った袋があったことに気付いた。さっそく、皿に水を張って発芽試験を試みることにした。もう20年も前に、今は亡き白老のNさんにもらったものか、どこかで種を見つけて保存したものか、忘れてしまった。もし、まだ使えそうなら、かつてはアヤメが咲いていたという現場の湿地に播こうかと考えている。






PS:facebookから10年前に私が投稿したこんな居間の桜の写真が届いて、われながら見惚れた。除間伐の仕事で山で見つけたサクラの枝を花瓶に差して、2月に咲いた画像。正面の奥のモノクロ写真は、林学先輩の坂東さんによる、農学部正面の階段、その左は、八木健三先生の描いた日高山脈を、ワンゲルOBがパノラマにしてくれたので額にいれたもの。サクラは格別。


■2/26 勇払原野と女性のかかわり
女性史『勇払原野の女たち』をひもとく。
図書館で借りたもので、平成4年の発行。発見がうれしく、受付の女性に「こんな本がちゃんと残されているなんてさすが市の図書館ですね」と言わずもがなのことを語りかけてしまった。

土地土地の文化はじつは女性たちが大きく貢献していることを、財団研究所時代のソーシャルキャピタルの取材調査で気づいた経験もあってのよろこびだった。きつい開拓は男の仕事と見られる裏で、子育て、炊事洗濯そのほか家事全般に加え、開拓や野良仕事にも精を出す実情が読み取れた。寒さと貧しさの中にも礼節を保つ女性たちの姿に胸が熱くなる思いだった。

弁天、静川、柏原の開拓生活も昭和46年に苫東プロジェクトのスタートで開拓団などは解団となり、その後のインフラで勇払原野の東半分の今日がある。その経過の中に、大島山林や平木沼緑地、つた森山林などの緑地が温存され、さまざまな形で営まれている。

NPOのコモンズが令和元年にだしたハスカップ市民史『ハスカップとわたし』の冒頭の1章は、その開拓団の足どりを郷土史家として調査フォローしていた山本融定さんと、開発サイドでハスカップを扱ったわたし、その間に行政側の地域自然に詳しい女性の小玉愛子さんが加わって座談会形式でまとめたが、この女性史をめくりながら多様な利害関係者の顔が浮かんできて、ああ、地域に根を下ろすとはこういうことなんだと納得した。

■2/24 折節の「先生」

高知にある横倉山という山が、吉田類氏の低山巡りの番組で紹介されていて、そこは植物学者・牧野富太郎博士に縁の深い土地であり、博士はここで自然を学び植物学の研鑽を積んだとのことだった。そのため博士は、「ここはわたしの先生だ」と語っていたと聞いた。小さい時、牧野博士はわたしの恩師の影響もあって比較的身近に感じていたため、自分の場合はどうなんだろうとすぐ連想した。

そういえば、山、川、森、海など山野河海は、おびただしい時間を費やしてきたおかげで自然界にきわめて多くを学び、師と言える関係を自覚なしに築いていることに気づく。学問としてではなく、登山やカヌーや fishing という趣味領域が多かったが、のめりこめば、そこは研究と紙一重の観察と思考と実践があるのは世の常である。この勇払原野とも半世紀にわたって付き合いが続くとは思ってもみなかったが、わたしにとってはこの原野と周辺の風土が、まぎれもない先生である、と今なら自信をもって言える。また、鏡のようにして自分を律してくれたから、尊崇の念も深いと感じる。

■2/22 季節先取り、早春の雑木林

次に来る季節を祝う春祭りのつもりで、昨日は早春の匂う快晴の雑木林を歩いた。独占するのが申訳ないような好条件だが、胆振の雑木林は、このような手自然が本来の姿である。これほど平坦な雑木林風景は、奇跡である。それも半世紀前は炭を作るために伐られたエネルギー調達の跡の薮だった。





■2/20 薪ストーブの焚き付け達

勇払原野の雑木林保育で発生する薪。その
焚き付けひとつにも、ちょっとした発見と工夫がある。この蘊蓄を共有する楽しみというのも捨てがたい。もうすぐ24節気の啓蟄だから、この冬の薪暖房もあと1か月余りか。

■2/18 屋久杉の香り

熊本の古い山仲間からデコポンが届いて、その中には彼の街でデコポンを開発した先人の伝記と、一片の木材が入っていた。40年以上前に屋久島に登った折、河原でテントを張ったら、そこに畳一畳以上もある屋久杉の朽ちた材が落ちていて、彼は記念に鋸で切って持ち帰ったものらしい。縦15cm。横23cm、厚さ4cmある。緻密な年輪が読み取れ、木口に鼻を近づけると、柑橘系の香りの奥にかすかに杉の匂いがする。十分味わったから謹呈する、というのが彼の言葉だった。机の上のペン皿にしたら、存在感がある。縄文杉の末裔としてそのパワーにあやかることにしようと思う。

■2/16 雑木林のガーデニング


平日は天気の良さそうな日を選んで、一人の山仕事に出かける。この一週間も2,3日、じっくり読書をしたので、昨日は、まさしく晴林雨読の見本のような日だった。

仕事の終わりにあらためて今シーズンの手入れ跡地を眺める。ここ土場Aに携わったメンバーには色々な感じ方や目的があるだろうと思うので、何も響かない人もいるかもしれない。わたしはといえば、早春のこのような日の、この風景に出会うため、勇払原野の雑木林に通ってきたようなものだ。

わたしにとってのイヤシロチ、パワースポット的風景。北海道の冬山を経験してきた山友達などは絶賛すること間違いなしである。山登りとは、そもそも未知の風景への感動も動機だったのかもしれない。ここは里山の丘に過ぎないが、初めて出会う雪山風景と似ている。心あるもの達が創る林の風景、これ以上のガーデニングはない、と思う。一冬の山仕事でここまで風景を変えるのだから。


■2/14 時代を読む視点
国内外を問わず、これほど世の中が混沌としてくると、なんとか自分の座標や道しるべが欲しくなる。そこで先達の知恵を借りるべく読書したり話を聞いたりということになる。時代を自分なりに読み込めないと安心ができないのである。こう書いて思い出す一人は故・山崎正和氏だった。『柔らかい個人主義の誕生』あたりから特に、氏の論説やコラムをよく手にした。近年は佐伯啓思氏のものに注目している。月刊『正論』3月号の対談では、日本における保守について論じている。日本の伝統的な文化とはなにか、などに触れ、その核心は自由や民主主義というような理想ではない、とほぼ断言している。藤原正彦氏はかつて、それは惻隠だ、と言っていたように思う。西洋の尺度に合わせて世界の本流は資本主義やグローバリゼーションに進んだが、どうも欠点や不具合が見えてきたが、西洋的解決策には著しく限界がありそうだ。本来、「自由や民主主義の原理は、良心をもった道徳的人間を主権者として」イメージしているというから、道徳教育が欠かせなくなるが、そこはまた自由や人権が邪魔をして進捗を期待などできないのが世の構図である。ただ、こういうのって、今に始まったことではなく、いつも試行錯誤してきたのが世界の歴史でもあると考えた方がよさそうだ。

■2/12 イヤシロチの地形と植生

雑木林だより121の2/8 ブログでは、最近平日に取り組んでいる薮やツル、枯れ木の一帯をケガレチ(気枯れ地)とみなして、表現した。この摩訶不思議な世界を探訪していたころのことを思い出すうち、そういえば一般的に沢の地形はケガレチの要素を持っているとされてきたことに気付いた。その意味で、反対の典型的なイヤシロチ((弥盛地)的な地形として思い出したのが、白老の堀尾博義さんの「仙人の森」である。尾根筋はまるでパワースポットであり、広葉樹の密度も手ごろで林床はよく刈り払われていた。子供たちを集めて環境教育の場として提供しており、たしか役場の部長さんを務められたと記憶しているが、人生の先輩として実に素晴らし自己実現だろうと感動した記憶がある。平成26年春のコモンズの研修地である。

■2/10 野生とマチの交錯 
~ついにウチにもシカがやって来た~

数日前、細街路に面した家の前のレンギョウの根元にシカの足跡があり、今朝は、ついに出窓の前のオンコの木が食べられた。おそらく夜中のことだ。去年、初めて近所の庭や公園・緑道の植え込みが食べられ始めたが、これは大雪の特別な年だから、とやや大目にみていたら、違った。一昨年の晩秋から去年の1月までの数か月間に、錦岡から沼ノ端に至る10数キロの道道で、約300のシカの死体処理が行われたというから、もう尋常でない。明らかな越境だ。食べられすぎて植え込みの形がこわれ、根元から切ってしまった、という人もいる。さて、どう自衛したらいいのか。

■2/8 山折哲雄氏の瞑想
各人がどんな作法の瞑想をしているのか、少なからず興味があって、瞑想する人と極たまにお互いの状況を話し合うのは意外と忘れられない思い出になっている。山折さんは永平寺のスタイルで未明の刻に線香を凝視する、と書いている(『老いと孤独の作法』中公新書クラレ)。わたしがびっくりして、かつ、ニンマリしたのは、わたしと似て雑念は湧くがそれを厭わず、むしろ瞑想中に講演の中身や対談の内容、前日読んだ資料のことなど、あれこれ考える、というのである。

いやむしろ、人間は「無」になれない、と気付いて、瞑想中に積極的に仕事をするのである。確かにこういう方はわたしの周りにもいらっしゃる。わたしも瞑想中につい仕事をしてしまうのだが、座禅の極意は「心身脱落」だという基本に忠実であろうとするから、実にいい構想ができたのに、なんとなくインチキ瞑想をやったような後ろめたさを引きずってきたのだ。

しかし、わたしと20歳も離れた著名な宗教学者・山折さんがこんなに開放された自由な瞑想をしておられるなら、見習わない手はない。「これでいいのだ」、このメッセージの意味は小さくない。いや、これは大きな読書の収穫だ。ただ、「無」を目指していろいろ試みをしている間にたどり着いたわたしなりの作法も捨てがたい効用があって、何も考えない何十秒かと波のようなその繰り返しは、それまでの執着を離れている間に肩の力がとれ頭も軽くなっていくのは事実だ。雑念が湧くたびに、それをうっちゃっていく方法も、体得してきたから、要はこれらをうまく組み合わせればよい、ということになろうか。読書による対話、侮るべからず。

■2/7 薪を中心にした暮らし
2月4日は立春だった。実に「もう立春」、である。24節気では次に「雨水」、3月初めには「啓蟄」である。24節気は北海道の季節を占うのに良くあっていると驚くのだが、大寒が終わったころ、陽ざしは急に春のものに替わるように感じる。

このところ、週末は、雪に埋もれた長い丸太を大きなトビでもちあげ、薪の長さ35cmに伐っては積む仕事を繰り返している。夕方は、自宅の窓の下から室内にふた抱え程の薪を取り入れ、夜12時過ぎまで燃やし、夜明け頃、一日の薪ストーブライフのために再び点火する。一日中、火の様子を見ながら調整しているから、文字通り、薪を中心にした生活のようにも見える。

その薪は実に人々に注力を促すものだ。立っている樹木を倒すのもそうだが、写真のように薪サイズにチェンソーで裁断するのにも、しこたま手間がかかる。これだけで1時間半はかかった。スノーシューをはいての作業だから、手間がかかることこの上ない。

しかし、オジサンたちはお互いに何10mも離れて、黙々、コツコツと孤独で少し危険な山仕事に打ち込む。何かを象徴しているように思えるのだが、それが日常というものなのか、平和なのか、あるいは循環型社会の実践なのか、家族への貢献なのか、よくわからない。ただ、訳が分からないのにも関わらず、そして単純な手仕事なのに、したたかに手応えだけはある、という事実だけがある。

■2/5 小川糸さんと穂村弘さんのエッセーを読みつつ
居間のテーブルに置いてある家内の借りたエッセーをよく読む。今回は小川さんと穂村さん。小川さんのは『たそがれビール』で、毎日の日記風である。ごくごく身近なことばかりで旅行を挟みつつ、寝転がって読むに最適だが、例えてみるとフットパスの気持ちの良いスポットに置いてあるベンチみたいな感じだった。同郷、山形市の出身とある。

一方、穂村さんは、札幌の出身で、短歌やエッセー界では売れっ子に属するだろうか。『君がいない夜のごはん』は、パラパラめくっただけで、これは是非読もうと動機づけられた。食べ物エッセイは格別だ。ラジオ深夜便でもおなじみである。
(追記:彼は北大ワンダーフォーゲル部の後輩にあたることを発見。そのWV部のもう一人の若き後輩・野村さんは植村直己賞を受賞。これは2/6のニュース)。

 文章はこんな風に書きたいものだと、と好きな作家の文章を読むたびに思うが思うだけで、少しも上達はしなかったから、まあ、このままで終わるだろうことは間違いない。ただ、言葉や文章で思いや考えがうまく伝わるということはやはり素晴らしい。書いて伝えるということに含まれる自律性とか創作の機微は、わたしには生きていくための永遠の修業のようにも思えてならない。政治性やメッセージ性など意図しないこれらのエッセイは今のところ、わたしにとっての異空間でもありほっとする。ということは日常、ネットを含めて結構息苦しいような文を見ているということか。でもこれらはできればビールでも手にして読みたいところで、まさにエッセイーは楽園だ。

■2/2 野外における排便のすすめ
自然の中でする野ウンチ、お下品なオヤジたちが良く言ういわゆる「野〇ソ」、であるが、これが日本人の自然観に結構つながって左右してきたのではないかと思う。SDGsがいうような循環型社会である。水洗トイレになって、下手したらほとんどがお尻を洗うご時世に替わって、自分の排泄したものをシゲシゲと見たり、匂いを嗅いだりする機会は激減したから、突然もよおして林などでする排泄は、現代人にはハードルは高いがかなり新鮮なはずだ。しかし実際には、そういう状況になることさえ、恐怖でストレスになり、従って自然には行かない、ということになる。不快昆虫の存在が林へのアクセスにブレーキをかけるのと同様である。

また、肉を食べるために動物を屠畜したりニワトリを〆たりする現場に居あわせなくなったのと同様、食べたものが体内を通って排泄される「自然」すら、人々は忌避するようになった。体内でも野外でも微生物によって土に還っていく循環、そして跡形もなくなる無常の感覚は、自然とどう付き合うかという考え方とも密接不可分だ。だから、自然理解と自然体感の重要なステップとして、時々は野外で排泄し、それを五感(ただし味覚はパス)で味わうことを勧めたい。あくまで、たま~に。子供たちにもっと野ウンチをさせておけばよかった…。自分の身体そのものがとてつもない自然で、その仕組みはまさに神業であることを自覚すると、自然観、世界観が変わるというのは本当だとわたしも思う。

■1/31 地元金融機関の地味な貢献「郷土文庫」


地元の金融機関「とましん」がCSR(企業貢献)で発刊している2冊の冊子「とましん郷土文庫」を読んでいる。通巻30号は「ハスカップ~勇払原野の恵み~」、31号は「鮭~生命をつなぐもの~」で後者は昨年末12月に発刊されたばかりである。地元紙の記者だった新沼友啓さんと山田香織さんが文と写真を担当している。苫小牧と近隣の歴史をしっかりと取材して書いているので、この風土理解には欠かせない逸品である。これを長い間発刊してきた「とましん」の企業力もさすがだと思う。

「ハスカップ」を見れば、ハスカップが色々なステークホルダーが折々にいて、ここ苫小牧の独特のソールフードになっていくさまが、静かに描かれている。「鮭」は、千歳川のサケをアイヌ民族の人が勇払まで運び、場所請負が間に入って本州に移出していた様子がうかがい知れる。同時に、勇払川で捕獲してきた鮭が、工業開発で捕獲と養殖の候補からはずれ、錦多峰川など西の方に移っていく時間経過を知ることができる。これらが、信金の店頭で無料でもらえることに素直に感動する。勇払原野の風土に関心を持つ方なら、是非、入手されてはどうかと思う。「ハスカップ」では苫東コモンズも保全調査に関わる一機関として紹介されている。

■01/29 雑木林で、立春前の春の日差しを感じて


この時期、ここに来る人だけがもらえる幸せ。個々の山仕事は、ひとりひとりの孤独なものだが、ささやかな連帯もすこしある。

1/27 ネズミの奥地放獣(リロケーション)
だいぶ昔のことになるが、北米大陸では街に出没したクマを檻で捕獲してクマスプレーなどで脅して二度と出てこないよう山奥で放すという、奥地放獣(リロケーション)を行っていて、それを中国地方の山の中で実践した人の話を聞いた。山奥とは言っても本州では稜線をまたいだすぐ隣町には迷惑な話でクレームが出るとのことだった。

先週、自宅の物置のタイヤを包んでいるポリエチレンの袋と木灰のレジ袋が破かれたので、もしやと思ってオーソドックスなネズミ捕り器をかけたら、朝、一匹がかかっていて暴れていた。またもや、怯えるネズミと目があってしまった。早く凍死してくれるのがいちばんいい、などといろいろ考えた結果、これまでのように裏山に「リロケーション」するのが一番、と決断した。案の定、ネズミは夕方になっても元気に生きていて、車にのせて数キロ離れた民家のない雪山で放獣した。自由の身になったネズミは一瞬たじろいだ後、一目散に新雪に飛び込んでモグラのように雪のもっこりを残して離れていった。

驚いたのは実は昨シーズン使ったままのネズミ捕り器である。今回の捕獲のために取り出したら、覚えのないネズミのような死骸が毛皮と骨が別々になって残っていたのだ。餌もないのに、かごの上から入り込んで出られなくなったのである。この夏、物置には腐臭があって、何かの死体があるとふんで床にあるほとんどすべての荷物を移動させ中身も点検したのである。腐臭もうすれ放置しているうちに冬になって忘れていた。その際に昨冬空にしたこの捕獲器にはまったく気付かなかった。が、これで謎が解けた。これからは定期的に捕獲器をかけ、物置の穴という穴はすべて塞いでしまわなくては。そして使わないネズミ捕り器は餌がなくてもネズミが間違って入ることのないよう、手立てしなくては。

それにしてもほとんどのものが解けてしまう生物界の見事さ。自然はホメオスタシスが差配する。それはまさに神わざである。

■01/24 勇払原野の雑木林(萌芽再生林)は薪生産に向いている

苫東コモンズの現場では今、除間伐材の藪だしと搬出が盛んに行われている。個人的には、仕事でここの雑木林の除間伐を手掛けたのが平成2年だったから、もう足かけ33年になる。農家などかつての土地所有者が薪炭を採った後の萌芽再生林を、現在は伐採から40年後と70年後あたりの間伐、それからもう一度100年後頃の皆伐というの3段階の収穫モデルを想定して実践している途中であるが、潮風や霧など勇払原野特有の気象と、火山灰土の地味だけでも、いわゆる林業を行うには道内のほかの各地に生育条件はかなり劣るとされる土地柄だ。

だが、平坦であるため、手間を惜しまず抜き切りをして写真のようにスノーモービルを駆使することによって、林を傷めないで薪炭林として利用するのが、勇払原野の「適地・適木・適作業」であることがわかってきた。

薪炭のうちの「炭」づくりはやや特殊な装置産業だが、「薪」づくりはわたしたち素人でも、採算など度外視すれば作ることができ、かつ潜在的、継続的需要が高い。むしろよそに比べ飛びぬけて恵まれている土地だろうと思う。地域にはいわば見捨てられた、不動産として二束三文で取引されたヤブ山が、手入れによって林が美しく生れ変わり、地域の人が遊びに来るようになり、そして癒され、かたやでは暖房用の燃料も取り出せるから、一石3丁、4丁、あるいはそれ以上になる。時にはそれがリゾートにもなるという皮肉な事例も生まれている。

そして最終段階で皆伐によってよって萌芽更新を促すと、造林のための投資が要らない。夢のようなプロジェクトだが、この全体像が地域のコンセンサスに達するまでには、あと数十年待たなければならないような気がする。当然、コモンズの概念の成熟も待たれる。

■01/23 七〇ころからの how to もの
年の瀬に娘からポルトガル料理のレシピ本などをもらった。ついでのように添えられていたのが高齢者用の心身の健康みたいなものだった。ひとつは和田秀樹著『70歳が老化の分かれ道』、もう一冊は綾小路きみまろ著『人生は70代で決まる』。前者は昨年上半期のベストセラー第一位、後者はわたしより一つ年上の人気の漫談家、老化を笑いに昇華する芸風で一世を風靡している。これは正月、寝転んで楽しみながら読んだ。昨日からは、五木寛之著『捨てない生き方』を手にして、昨晩は布団の中で開いた。氏は以前から林住期や白秋期など、高齢者こそ人生の本質がわかる時だ、実りの時間だ、などと年寄讃歌を連発している。わたしはその都度、いい読者だった。

人生後半は登山で言えば下山の時間で、人生を俯瞰できる貴重な時間で、「人生の下山で大切なのは回想と想像」だから、愛着のあるガラクタは人生の宝として捨てるべきでない、とのたまう。おお、とわたしは少し元気が出てきた。今年は断捨離の年にしようかと迷っていたのでちょっと踏みとどまったのである。断捨離やシンプルライフが象徴するミニマライズの逆、表題の通り捨てない生き方を提唱しているのである。4章まで読み進むと、ここで法然と親鸞が出てきて、彼らが捨てたのは「知識」と「教養」だったといい、うすい人間関係は続けた方が良い、などと、さすが、一般によく言われる教訓話とだいぶ違う話しになる。ガラクタに囲まれて回想の世界に住んだ方が認知症になりにくい、などというご高説もあった。なるほど、これは一理ある。が、庶民には、ガラクタに厳しい配偶者というものも居る。こういう本は、その人その人の人生の極意と本音が聞けて、実に楽しい。五木寛之氏はわたしと同じB型だということも知って、ナントナクうれしい気がしたのも、正直、かなりアリガタイレベルにきたということか。。

■01/22 今年は日高山脈の年か
今朝の日曜美術館は十勝の原野で開拓生活を送った山岳画家・坂本直行さんの特集だった。NHKの総合テレビでも前宣伝として断片的に紹介していたので久々に日高の山並みと原野が思い起こされていたところだった。見落としたが昨夜は、大学のワンダーフォーゲル部の後輩にあたる野村さんが、北海道縦断をしたドキュメンタリー番組だったようだが、予告で見たシーンでは日高山脈の冬の稜線を歩く彼を空撮していた。どうも、この頃日高山脈が近い・・・と思っていたら、そうだ、ひょっとして今年は日高山脈国定公園が国立に格上げされる年だった、と気付いた。直行さんには、若いころにずいぶん励まされたような気がするし、山々や自然の淡彩スケッチを始めるきっかけともなった。自然と向き合う自然体とたくましさが凛としていて、かくありたしと思った人は少なくないはずだ。山に登る人でわたし世代前後の人は、この坂本直行さんと言えば日高山脈、日高と言えば直行さん、という連想が強いのではないだろうか。書棚から直行さんの有名な画文集『雪原のあしあと』と『原野から見た山』を取り出してみよう。

■01/19 ケプロンを驚かせた銭函の小屋
薪ストーブを自宅で使うようになってから、特に北欧など欧州北部との比較をすることが多くなったような気がする。昔、フィンランドに森林を歩いたことや森と語るメンタリティなどは、ドイツ人の森への憧れとともに頭から離れない。結果、大きい彼我の差を探るエンドレスの旅のような自然観、風土観を意識するようになった。

かたやには、北海道の寒冷で湿原の多い開拓前風土が、頭の中で思い起こされる。特に、開拓期早々、国防と開拓のために勇払に入植した八王子千人同心が冬を越せず、多くが亡くなった話や、明治30年頃、和歌山は十津川村の災害で、北海道に移住した約2500人のうち100人はその冬に肺炎などで亡くなったという事実などに如実に現れている。

同じころ、国木田独歩が空知川のほとりに新天地を求めて約2週間の旅をしたときに見つけた現地役人が駐留する開拓事務所の、余りの粗末さに驚き、役人からはヤメタホーガイイ、という意味の嘲笑ともアドバイスともつかない言葉をかけられたのも、軛(軛)をひとつにするエピソードだった。

要は北海道開拓は、本州において弥生式の農耕が行われていたころの家屋とほとんど同じ高温多湿対応の住まい様式がそのまま北上して持ち込まれ、内地文化を維持しようとしたものだった。そしてそれは昭和あたりまで続き、暖房を重視した北方型住宅や断熱工法の本格的研究は戦後のようだ。

司馬遼太郎の『街道をゆく 15』の「北海道諸道」を読むと、司馬は、明治4年、北海道開拓計画に関わった米国人ケプロンが、小樽に上陸し札幌に向かう途中、銭函の小屋に一泊した際に、その余りの粗末さに驚いている様を紹介している。悲惨である。ケプロンは南北戦争の兵隊ですらこんなひどいところはなかった、と述べたという。一方、開拓行政トップの黒田長官は当時薪ストーブの存在を知って試作させたが根付かなかったと司馬は書いている。我慢と根性だけでは生き延びられない、過酷でもある風土を持つのがわが北海道であり、自然との関わりや精神的なこと、快適さの感性など、フロンティア期を本当に過ぎているのか、わたしは自問することがある。

■01/17 待望のFM誕生か?!
苫小牧の小さなミニコミ誌「ひらく」が、新年早々うれしい特集をしている。人口の割にFM局がないのはおかしい、などと他人事のように言う人もいたが、遊び気分とは違ってビジネスだから、何かと立ち上げが難しいのだろううなあと思ってみていた。その実、なんどか開局の試みはなされたようで、これまで結実に至らなかったものだ。たかがFMなどという人もいようけれど、わたしは街の民度を示すような重要なツールだと思っていて、チャンスがあれば是非応援したいと思っていた。『ハスカップとわたし』を発刊する際にも、街づくりのプロジェクトとしてハスカップ・イニシアチブを想定し、ハスカップを真ん中に置いて、市民の集うプラットホームのようなものを標榜していたから、スキームとしてはゴールの一つに、当然のようにFM局を掲げていた。

ただ、無責任のようだがこれに関わる人たちは次の世代のように感じていたために、聞き耳をたてつつ地域FM開局の事例調べなどをしながら、地域FMの研究者などと交流を持った時期があった。記事の写真で見る限り、スタッフも若々しい。今年6月ころの開局を目途にしているというから、実に楽しみだ。番組制作講座も開設されるので顔を出してみたいと思う。山田香織さんの、この「ひらく」といい、FMといい、新しい世代のエネルギーをギンギンと感じる。

■01/15 象徴的な山の仕事

山の手入れ、などというと聞こえがいい免罪符ではないのか、本当はどうなのと疑問を持つ人がいる。わたしはいちいち、反論はしないが、昨日、現場を巡っているときに見つけた、あるメンバーのこのような枝片付けを見てもらえばおよそ察しが付くのではないか。地域の人が気持ちよく歩けるように、除間伐で生れる散らばった枝をこんな風にていねいに寄せて片づけるのである。パフォーマンスではない、自然に向かう姿勢がひとつひとつの作業風景に表現されるのはうれしいことではないか。ただ薪が欲しい、という人はこんなことはしない。

■01/13 あの世に行くまで自由時間、という強み
年末からパソコンの作動が急に重くなりとても使用に堪えない状態になった。年末年始には過去にもトラブルになったことがあったが、時にはパソコンを初期化したり、それはそれはストレスの多い難事だった。ところが今回は少しもあわてなかった。考えられることを一つずつ探り原因を絞って、CPUやメモリーの使用率やウイルスソフトの負荷などもチェックした。慌てず、ゆっくり、数日で復旧したのだが、かつての狼狽と今回のこの差は何かと言えば、まぎれもなく高齢者のアドバンテージではなかろうか。あの世に召されるまで自由時間だ、という余裕である。締め切りや約束がない、誰にも迷惑をかけない、だから慌てることはないという信号がやってくるのだ。これは実にありがたいことだ。数日前から、寒中見舞いに一言ずつ書き添える楽しい作業を始めたところだが、この余裕のおかげで、一人ずつ顔を思い出して個別のフレーズを綴っていくことができる。ありがたい話しである。

■01/11 山登りの間に巡る思いの差
もう半世紀の前の話しですが、たしか女性で初めてヒマラヤの8000m峰のマナスルに登頂したMさんに、「登りながら何を考えているんですか?」と伺ったことがある。うろ覚えの記憶になったが、おそらくは彼女の山の会の山行に客人として参加した石狩岳のシュナイダーコースだったような気がする。残雪のステップを切りながら、Mさんは「これから先のことかなあ」と静かに応えられた。「先のこと」、山の登りはいつもロッコンショウジョウのような思いだったわたしとは真逆の答えに、さすが、と思うと同時にちょっとびっくりした記憶がある。70歳を超えて一年、やっとその境地に来れたような2023年、1月。

■01/08 歌に見る庶民の共感 16
先の1/4 に紹介した短歌集で、この項の対象とした庶民ではないが、歌人のさすがと思える印象的なものを幾つかあげておきたいと思います

◎海なりし昔おもひぬ湿原を蘆くねらせて風わたるとき     奥泉一子作
……7000年ほど前は海だった湿原というものを見慣れていると、つい海だったことを忘れがちだが、この殺風景なヨシの揺れる姿はたしかに大昔を懐古するきっかけになるかも。もう50年ほども前のころ、野ネズミの殺鼠剤を播くために、毎年2回、ヘリコプターに乗った。ある年、若いパイロットは播き終えて帰るとき、このヨシ原をうねるように飛んで,、ヨシが左右に揺れるさまを楽しんで遊んだ。湿原にシカの足跡が無数にあった。いい時代だった。

◎縄文土器掘りたる跡に水溜まり映れる空を今日の雲行く     石山朝次郎作
……これも縄文時代を見晴るかすきれいな歌だ。一万年も前の縄文人も見た雲だが、今日のオリジナルだ。この一足飛び感覚がさすがと思う。

◎屯田兵三世我等痛恨の決算沃野をリゾートとなす     那須愛子作
……農家の奥さんだろうか。痛恨の、が痛い。土地を売る痛み、悔やみ、無念さ。短い歌だけに、伝わる「痛恨」がさぞやと呼び起こされた。

◎アイヌの血受け継ぐ人らと踊りつつふつふつと湧く哀しみのあり    菅原恵子作
……偶然なのか、この歌も古に思いを馳せる作品だった。風土と人々と思いを表現する短歌という芸術の底チカラだろうか。そこには歴史を見る目と人々への共感や思いやりがある。

■01/05 渡辺京二さんと龍村仁さん
昨年末は、愛読した渡辺京二さんが鬼籍に入られた。『逝きし世の面影』で古き良き日本人の原型のような姿にふれ、自虐的な方にブレがちな流れの対極にある、大いなるインパクトを感じたのが今は懐かしく思い出す。日本人が戦後、米国の洗脳に気付かないまま国の根幹を失いかねない現状まで来ている今、氏は日本人の素顔を、来日した外国人の観察記録で再現して見せた。『黒船前夜』では、和人がアイヌから略奪し虐待したとする松浦武四郎のアイヌ史観とはまた違った風景を描いた。わたしは松浦武四郎の生地・三重県松阪市に武四郎の博物館を訪れて少しニュートラルな武四郎像に少しでも触れることができたのは良かった。渡辺さんが支援した石牟礼道子氏の『苦海浄土』は勇払原野の雑木林に敷衍して、開拓の歴史と自分の地域活動を重ねてみる静かで熱い機会となったのは記憶に新しい。

今朝の朝刊では、ガイアシンフォニーの龍村仁監督のご逝去を知った。ガイアシンフォニーは全国の自主興行に支えられ、過去の9作品欠かさず見て、苫小牧での上映では王子製紙の成志会館で行われたスタッフの懇親会でツーショットを撮らせてもらったが、写真は見つからなかった。自然とスピリチャルな交流を、これほど丁寧に追いかけた監督は知らない。共感することも多かった。ヨガや冥想をたしなむようになったのも、監督が追い風を吹かせてくれたような気がする。お二人ともわたしにとって輝く巨星だった。 合掌

■01/04 短歌が謳う北海道の風土
正月2日のラジオ深夜便のトップ「ほむほむのふむふむ」は、歌人・穂村弘と俵万智のスペシャル対談で、深夜の約2時間、興味深く聞いた。驚いたことに2022年は短歌ブームだった、というのである。わたしはそんなこととはつゆ知らず、読売新聞が毎週月曜日に掲載するの歌壇俳壇の作品のうちから、毎日早朝10~20を声を出して読むことを、早起きして通勤しなくてもよくなってからの日課にしてきた。ボケ防止も意図した「早朝音読」である。

その一方で、定年後の最大の愉しみは歴史を探ることで、最近は特に、開拓前後の北海道の風土と基盤整備(インフラ)の様子、そこで人々は目の前の手つかずの自然をどう見ていたのかという精神史のようなものに興味が湧いていた。開墾の前に立ちはだかった原始の自然に、人は生半可な精神で立ち向かえないはずで、それを先人はどう乗り越えたのか、心のよりどころは何だったのか。しかし、「風土」などと、やや情緒を交えた描写などとはそうそう出くわすわけもなかった。

それもそのはず、わたしが紐解いていたのは、いわゆる開拓の歴史のような文献が主だったからである。年末の師走になって偶然のように写真の本に出合ったのである。これはもう30年近く前に出版されたもので、開拓最前線と言えるものではないが、大正と昭和初期生まれの歌人らが見た旅の風景や生活景、さらに農業者の歌も網羅されて、かつ意外にも勇払原野や近隣を題材にしたものも非常に多かった。わたしの干支・ウサギ年、今年も実り多い良い年になりそうだ。

そして自然や風土が、深く濃縮されて短歌という短い作品に結実されていることに気づいた。概観すると、荒涼とした北海道の風土に立ち向かおうとしているのは、主に男性であり、女性は「風土にくぐもらせ」人の心理などを風土の中に歌いこんでいるようだ。寒冷地、原野の荒涼、そうでありながら四季の移り変わりに潤いを感じて生活を折り合わせるような営みを彷彿とさせるものが多く、重みのある記念すべき読書だった。

■2023/01/02 年が明けて
昨年、義兄が鬼籍に入られたため、年頭のご挨拶を失礼しました。穏やかな年越しを今年も読書で過ごしました。年が改まる前に、その年に読んだ本や旅行や出来事などを拾い上げて振り返るのがルーチンになりましたが、こうして列記したものをポイと忘れ去って、さて来年は何をしようと、気分を一新できるチャンスというのは、なかなかあるものではありません。たとえそれが長続きしなくても、思いひとつで年忘れになると言う巡りあわせはささやかな発見。うさぎ年生まれなので今年は年男(この歳でもそう呼ぶの?)なのだそうですが、晴林雨読を軸にしていろいろ旅行もしてみたいと思います。ところで、旅、これの企てがこころをウキウキさせることを知りました。と同時に、それは旅だけではなく、前向きな計画そのものに潜んでいる、というのも事実のようです。これは意外と役にたつかも。


2022年、日々の迷想