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2023年、日々の迷想

■2/26 勇払原野と女性のかかわり
女性史『勇払原野の女たち』をひもとく。
図書館で借りたもので、平成4年の発行。発見がうれしく、受付の女性に「こんな本がちゃんと残されているなんてさすが市の図書館ですね」と言わずもがなのことを語りかけてしまった。

土地土地の文化はじつは女性たちが大きく貢献していることを、財団研究所時代のソーシャルキャピタルの取材調査で気づいた経験もあってのよろこびだった。きつい開拓は男の仕事と見られる裏で、子育て、炊事洗濯そのほか家事全般に加え、開拓や野良仕事にも精を出す実情が読み取れた。寒さと貧しさの中にも礼節を保つ女性たちの姿に胸が熱くなる思いだった。

弁天、静川、柏原の開拓生活も昭和46年に苫東プロジェクトのスタートで開拓団などは解団となり、その後のインフラで勇払原野の東半分の今日がある。その経過の中に、大島山林や平木沼緑地、つた森山林などの緑地が温存され、さまざまな形で営まれている。

NPOのコモンズが令和元年にだしたハスカップ市民史『ハスカップとわたし』の冒頭の1章は、その開拓団の足どりを郷土史家として調査フォローしていた山本融定さんと、開発サイドでハスカップを扱ったわたし、その間に行政側の地域自然に詳しい女性の小玉愛子さんが加わって座談会形式でまとめたが、この女性史をめくりながら多様な利害関係者の顔が浮かんできて、ああ、地域に根を下ろすとはこういうことなんだと納得した。

■2/24 折節の「先生」

高知にある横倉山という山が、吉田類氏の低山巡りの番組で紹介されていて、そこは植物学者・牧野富太郎博士に縁の深い土地であり、博士はここで自然を学び植物学の研鑽を積んだとのことだった。そのため博士は、「ここはわたしの先生だ」と語っていたと聞いた。小さい時、牧野博士はわたしの恩師の影響もあって比較的身近に感じていたため、自分の場合はどうなんだろうとすぐ連想した。

そういえば、山、川、森、海など山野河海は、おびただしい時間を費やしてきたおかげで自然界にきわめて多くを学び、師と言える関係を自覚なしに築いていることに気づく。学問としてではなく、登山やカヌーや fishing という趣味領域が多かったが、のめりこめば、そこは研究と紙一重の観察と思考と実践があるのは世の常である。この勇払原野とも半世紀にわたって付き合いが続くとは思ってもみなかったが、わたしにとってはこの原野と周辺の風土が、まぎれもない先生である、と今なら自信をもって言える。また、鏡のようにして自分を律してくれたから、尊崇の念も深いと感じる。

■2/22 季節先取り、早春の雑木林

次に来る季節を祝う春祭りのつもりで、昨日は早春の匂う快晴の雑木林を歩いた。独占するのが申訳ないような好条件だが、胆振の雑木林は、このような手自然が本来の姿である。これほど平坦な雑木林風景は、奇跡である。それも半世紀前は炭を作るために伐られたエネルギー調達の跡の薮だった。





■2/20 薪ストーブの焚き付け達

勇払原野の雑木林保育で発生する薪。その
焚き付けひとつにも、ちょっとした発見と工夫がある。この蘊蓄を共有する楽しみというのも捨てがたい。もうすぐ24節気の啓蟄だから、この冬の薪暖房もあと1か月余りか。

■2/18 屋久杉の香り

熊本の古い山仲間からデコポンが届いて、その中には彼の街でデコポンを開発した先人の伝記と、一片の木材が入っていた。40年以上前に屋久島に登った折、河原でテントを張ったら、そこに畳一畳以上もある屋久杉の朽ちた材が落ちていて、彼は記念に鋸で切って持ち帰ったものらしい。縦15cm。横23cm、厚さ4cmある。緻密な年輪が読み取れ、木口に鼻を近づけると、柑橘系の香りの奥にかすかに杉の匂いがする。十分味わったから謹呈する、というのが彼の言葉だった。机の上のペン皿にしたら、存在感がある。縄文杉の末裔としてそのパワーにあやかることにしようと思う。

■2/16 雑木林のガーデニング


平日は天気の良さそうな日を選んで、一人の山仕事に出かける。この一週間も2,3日、じっくり読書をしたので、昨日は、まさしく晴林雨読の見本のような日だった。

仕事の終わりにあらためて今シーズンの手入れ跡地を眺める。ここ土場Aに携わったメンバーには色々な感じ方や目的があるだろうと思うので、何も響かない人もいるかもしれない。わたしはといえば、早春のこのような日の、この風景に出会うため、勇払原野の雑木林に通ってきたようなものだ。

わたしにとってのイヤシロチ、パワースポット的風景。北海道の冬山を経験してきた山友達などは絶賛すること間違いなしである。山登りとは、そもそも未知の風景への感動も動機だったのかもしれない。ここは里山の丘に過ぎないが、初めて出会う雪山風景と似ている。心あるもの達が創る林の風景、これ以上のガーデニングはない、と思う。一冬の山仕事でここまで風景を変えるのだから。


■2/14 時代を読む視点
国内外を問わず、これほど世の中が混沌としてくると、なんとか自分の座標や道しるべが欲しくなる。そこで先達の知恵を借りるべく読書したり話を聞いたりということになる。時代を自分なりに読み込めないと安心ができないのである。こう書いて思い出す一人は故・山崎正和氏だった。『柔らかい個人主義の誕生』あたりから特に、氏の論説やコラムをよく手にした。近年は佐伯啓思氏のものに注目している。月刊『正論』3月号の対談では、日本における保守について論じている。日本の伝統的な文化とはなにか、などに触れ、その核心は自由や民主主義というような理想ではない、とほぼ断言している。藤原正彦氏はかつて、それは惻隠だ、と言っていたように思う。西洋の尺度に合わせて世界の本流は資本主義やグローバリゼーションに進んだが、どうも欠点や不具合が見えてきたが、西洋的解決策には著しく限界がありそうだ。本来、「自由や民主主義の原理は、良心をもった道徳的人間を主権者として」イメージしているというから、道徳教育が欠かせなくなるが、そこはまた自由や人権が邪魔をして進捗を期待などできないのが世の構図である。ただ、こういうのって、今に始まったことではなく、いつも試行錯誤してきたのが世界の歴史でもあると考えた方がよさそうだ。

■2/12 イヤシロチの地形と植生

雑木林だより121の2/8 ブログでは、最近平日に取り組んでいる薮やツル、枯れ木の一帯をケガレチ(気枯れ地)とみなして、表現した。この摩訶不思議な世界を探訪していたころのことを思い出すうち、そういえば一般的に沢の地形はケガレチの要素を持っているとされてきたことに気付いた。その意味で、反対の典型的なイヤシロチ((弥盛地)的な地形として思い出したのが、白老の堀尾博義さんの「仙人の森」である。尾根筋はまるでパワースポットであり、広葉樹の密度も手ごろで林床はよく刈り払われていた。子供たちを集めて環境教育の場として提供しており、たしか役場の部長さんを務められたと記憶しているが、人生の先輩として実に素晴らし自己実現だろうと感動した記憶がある。平成26年春のコモンズの研修地である。

■2/10 野生とマチの交錯 
~ついにウチにもシカがやって来た~

数日前、細街路に面した家の前のレンギョウの根元にシカの足跡があり、今朝は、ついに出窓の前のオンコの木が食べられた。おそらく夜中のことだ。去年、初めて近所の庭や公園・緑道の植え込みが食べられ始めたが、これは大雪の特別な年だから、とやや大目にみていたら、違った。一昨年の晩秋から去年の1月までの数か月間に、錦岡から沼ノ端に至る10数キロの道道で、約300のシカの死体処理が行われたというから、もう尋常でない。明らかな越境だ。食べられすぎて植え込みの形がこわれ、根元から切ってしまった、という人もいる。さて、どう自衛したらいいのか。

■2/8 山折哲雄氏の瞑想
各人がどんな作法の瞑想をしているのか、少なからず興味があって、瞑想する人と極たまにお互いの状況を話し合うのは意外と忘れられない思い出になっている。山折さんは永平寺のスタイルで未明の刻に線香を凝視する、と書いている(『老いと孤独の作法』中公新書クラレ)。わたしがびっくりして、かつ、ニンマリしたのは、わたしと似て雑念は湧くがそれを厭わず、むしろ瞑想中に講演の中身や対談の内容、前日読んだ資料のことなど、あれこれ考える、というのである。

いやむしろ、人間は「無」になれない、と気付いて、瞑想中に積極的に仕事をするのである。確かにこういう方はわたしの周りにもいらっしゃる。わたしも瞑想中につい仕事をしてしまうのだが、座禅の極意は「心身脱落」だという基本に忠実であろうとするから、実にいい構想ができたのに、なんとなくインチキ瞑想をやったような後ろめたさを引きずってきたのだ。

しかし、わたしと20歳も離れた著名な宗教学者・山折さんがこんなに開放された自由な瞑想をしておられるなら、見習わない手はない。「これでいいのだ」、このメッセージの意味は小さくない。いや、これは大きな読書の収穫だ。ただ、「無」を目指していろいろ試みをしている間にたどり着いたわたしなりの作法も捨てがたい効用があって、何も考えない何十秒かと波のようなその繰り返しは、それまでの執着を離れている間に肩の力がとれ頭も軽くなっていくのは事実だ。雑念が湧くたびに、それをうっちゃっていく方法も、体得してきたから、要はこれらをうまく組み合わせればよい、ということになろうか。読書による対話、侮るべからず。

■2/7 薪を中心にした暮らし
2月4日は立春だった。実に「もう立春」、である。24節気では次に「雨水」、3月初めには「啓蟄」である。24節気は北海道の季節を占うのに良くあっていると驚くのだが、大寒が終わったころ、陽ざしは急に春のものに替わるように感じる。

このところ、週末は、雪に埋もれた長い丸太を大きなトビでもちあげ、薪の長さ35cmに伐っては積む仕事を繰り返している。夕方は、自宅の窓の下から室内にふた抱え程の薪を取り入れ、夜12時過ぎまで燃やし、夜明け頃、一日の薪ストーブライフのために再び点火する。一日中、火の様子を見ながら調整しているから、文字通り、薪を中心にした生活のようにも見える。

その薪は実に人々に注力を促すものだ。立っている樹木を倒すのもそうだが、写真のように薪サイズにチェンソーで裁断するのにも、しこたま手間がかかる。これだけで1時間半はかかった。スノーシューをはいての作業だから、手間がかかることこの上ない。

しかし、オジサンたちはお互いに何10mも離れて、黙々、コツコツと孤独で少し危険な山仕事に打ち込む。何かを象徴しているように思えるのだが、それが日常というものなのか、平和なのか、あるいは循環型社会の実践なのか、家族への貢献なのか、よくわからない。ただ、訳が分からないのにも関わらず、そして単純な手仕事なのに、したたかに手応えだけはある、という事実だけがある。

■2/5 小川糸さんと穂村弘さんのエッセーを読みつつ
居間のテーブルに置いてある家内の借りたエッセーをよく読む。今回は小川さんと穂村さん。小川さんのは『たそがれビール』で、毎日の日記風である。ごくごく身近なことばかりで旅行を挟みつつ、寝転がって読むに最適だが、例えてみるとフットパスの気持ちの良いスポットに置いてあるベンチみたいな感じだった。同郷、山形市の出身とある。

一方、穂村さんは、札幌の出身で、短歌やエッセー界では売れっ子に属するだろうか。『君がいない夜のごはん』は、パラパラめくっただけで、これは是非読もうと動機づけられた。食べ物エッセイは格別だ。ラジオ深夜便でもおなじみである。
(追記:彼は北大ワンダーフォーゲル部の後輩にあたることを発見。そのWV部のもう一人の若き後輩・野村さんは植村直己賞を受賞。これは2/6のニュース)。

 文章はこんな風に書きたいものだと、と好きな作家の文章を読むたびに思うが思うだけで、少しも上達はしなかったから、まあ、このままで終わるだろうことは間違いない。ただ、言葉や文章で思いや考えがうまく伝わるということはやはり素晴らしい。書いて伝えるということに含まれる自律性とか創作の機微は、わたしには生きていくための永遠の修業のようにも思えてならない。政治性やメッセージ性など意図しないこれらのエッセイは今のところ、わたしにとっての異空間でもありほっとする。ということは日常、ネットを含めて結構息苦しいような文を見ているということか。でもこれらはできればビールでも手にして読みたいところで、まさにエッセイーは楽園だ。

■2/2 野外における排便のすすめ
自然の中でする野ウンチ、お下品なオヤジたちが良く言ういわゆる「野〇ソ」、であるが、これが日本人の自然観に結構つながって左右してきたのではないかと思う。SDGsがいうような循環型社会である。水洗トイレになって、下手したらほとんどがお尻を洗うご時世に替わって、自分の排泄したものをシゲシゲと見たり、匂いを嗅いだりする機会は激減したから、突然もよおして林などでする排泄は、現代人にはハードルは高いがかなり新鮮なはずだ。しかし実際には、そういう状況になることさえ、恐怖でストレスになり、従って自然には行かない、ということになる。不快昆虫の存在が林へのアクセスにブレーキをかけるのと同様である。

また、肉を食べるために動物を屠畜したりニワトリを〆たりする現場に居あわせなくなったのと同様、食べたものが体内を通って排泄される「自然」すら、人々は忌避するようになった。体内でも野外でも微生物によって土に還っていく循環、そして跡形もなくなる無常の感覚は、自然とどう付き合うかという考え方とも密接不可分だ。だから、自然理解と自然体感の重要なステップとして、時々は野外で排泄し、それを五感(ただし味覚はパス)で味わうことを勧めたい。あくまで、たま~に。子供たちにもっと野ウンチをさせておけばよかった…。自分の身体そのものがとてつもない自然で、その仕組みはまさに神業であることを自覚すると、自然観、世界観が変わるというのは本当だとわたしも思う。

■1/31 地元金融機関の地味な貢献「郷土文庫」


地元の金融機関「とましん」がCSR(企業貢献)で発刊している2冊の冊子「とましん郷土文庫」を読んでいる。通巻30号は「ハスカップ~勇払原野の恵み~」、31号は「鮭~生命をつなぐもの~」で後者は昨年末12月に発刊されたばかりである。地元紙の記者だった新沼友啓さんと山田香織さんが文と写真を担当している。苫小牧と近隣の歴史をしっかりと取材して書いているので、この風土理解には欠かせない逸品である。これを長い間発刊してきた「とましん」の企業力もさすがだと思う。

「ハスカップ」を見れば、ハスカップが色々なステークホルダーが折々にいて、ここ苫小牧の独特のソールフードになっていくさまが、静かに描かれている。「鮭」は、千歳川のサケをアイヌ民族の人が勇払まで運び、場所請負が間に入って本州に移出していた様子がうかがい知れる。同時に、勇払川で捕獲してきた鮭が、工業開発で捕獲と養殖の候補からはずれ、錦多峰川など西の方に移っていく時間経過を知ることができる。これらが、信金の店頭で無料でもらえることに素直に感動する。勇払原野の風土に関心を持つ方なら、是非、入手されてはどうかと思う。「ハスカップ」では苫東コモンズも保全調査に関わる一機関として紹介されている。

■01/29 雑木林で、立春前の春の日差しを感じて


この時期、ここに来る人だけがもらえる幸せ。個々の山仕事は、ひとりひとりの孤独なものだが、ささやかな連帯もすこしある。

1/27 ネズミの奥地放獣(リロケーション)
だいぶ昔のことになるが、北米大陸では街に出没したクマを檻で捕獲してクマスプレーなどで脅して二度と出てこないよう山奥で放すという、奥地放獣(リロケーション)を行っていて、それを中国地方の山の中で実践した人の話を聞いた。山奥とは言っても本州では稜線をまたいだすぐ隣町には迷惑な話でクレームが出るとのことだった。

先週、自宅の物置のタイヤを包んでいるポリエチレンの袋と木灰のレジ袋が破かれたので、もしやと思ってオーソドックスなネズミ捕り器をかけたら、朝、一匹がかかっていて暴れていた。またもや、怯えるネズミと目があってしまった。早く凍死してくれるのがいちばんいい、などといろいろ考えた結果、これまでのように裏山に「リロケーション」するのが一番、と決断した。案の定、ネズミは夕方になっても元気に生きていて、車にのせて数キロ離れた民家のない雪山で放獣した。自由の身になったネズミは一瞬たじろいだ後、一目散に新雪に飛び込んでモグラのように雪のもっこりを残して離れていった。

驚いたのは実は昨シーズン使ったままのネズミ捕り器である。今回の捕獲のために取り出したら、覚えのないネズミのような死骸が毛皮と骨が別々になって残っていたのだ。餌もないのに、かごの上から入り込んで出られなくなったのである。この夏、物置には腐臭があって、何かの死体があるとふんで床にあるほとんどすべての荷物を移動させ中身も点検したのである。腐臭もうすれ放置しているうちに冬になって忘れていた。その際に昨冬空にしたこの捕獲器にはまったく気付かなかった。が、これで謎が解けた。これからは定期的に捕獲器をかけ、物置の穴という穴はすべて塞いでしまわなくては。そして使わないネズミ捕り器は餌がなくてもネズミが間違って入ることのないよう、手立てしなくては。

それにしてもほとんどのものが解けてしまう生物界の見事さ。自然はホメオスタシスが差配する。それはまさに神わざである。

■01/24 勇払原野の雑木林(萌芽再生林)は薪生産に向いている

苫東コモンズの現場では今、除間伐材の藪だしと搬出が盛んに行われている。個人的には、仕事でここの雑木林の除間伐を手掛けたのが平成2年だったから、もう足かけ33年になる。農家などかつての土地所有者が薪炭を採った後の萌芽再生林を、現在は伐採から40年後と70年後あたりの間伐、それからもう一度100年後頃の皆伐というの3段階の収穫モデルを想定して実践している途中であるが、潮風や霧など勇払原野特有の気象と、火山灰土の地味だけでも、いわゆる林業を行うには道内のほかの各地に生育条件はかなり劣るとされる土地柄だ。

だが、平坦であるため、手間を惜しまず抜き切りをして写真のようにスノーモービルを駆使することによって、林を傷めないで薪炭林として利用するのが、勇払原野の「適地・適木・適作業」であることがわかってきた。

薪炭のうちの「炭」づくりはやや特殊な装置産業だが、「薪」づくりはわたしたち素人でも、採算など度外視すれば作ることができ、かつ潜在的、継続的需要が高い。むしろよそに比べ飛びぬけて恵まれている土地だろうと思う。地域にはいわば見捨てられた、不動産として二束三文で取引されたヤブ山が、手入れによって林が美しく生れ変わり、地域の人が遊びに来るようになり、そして癒され、かたやでは暖房用の燃料も取り出せるから、一石3丁、4丁、あるいはそれ以上になる。時にはそれがリゾートにもなるという皮肉な事例も生まれている。

そして最終段階で皆伐によってよって萌芽更新を促すと、造林のための投資が要らない。夢のようなプロジェクトだが、この全体像が地域のコンセンサスに達するまでには、あと数十年待たなければならないような気がする。当然、コモンズの概念の成熟も待たれる。

■01/23 七〇ころからの how to もの
年の瀬に娘からポルトガル料理のレシピ本などをもらった。ついでのように添えられていたのが高齢者用の心身の健康みたいなものだった。ひとつは和田秀樹著『70歳が老化の分かれ道』、もう一冊は綾小路きみまろ著『人生は70代で決まる』。前者は昨年上半期のベストセラー第一位、後者はわたしより一つ年上の人気の漫談家、老化を笑いに昇華する芸風で一世を風靡している。これは正月、寝転んで楽しみながら読んだ。昨日からは、五木寛之著『捨てない生き方』を手にして、昨晩は布団の中で開いた。氏は以前から林住期や白秋期など、高齢者こそ人生の本質がわかる時だ、実りの時間だ、などと年寄讃歌を連発している。わたしはその都度、いい読者だった。

人生後半は登山で言えば下山の時間で、人生を俯瞰できる貴重な時間で、「人生の下山で大切なのは回想と想像」だから、愛着のあるガラクタは人生の宝として捨てるべきでない、とのたまう。おお、とわたしは少し元気が出てきた。今年は断捨離の年にしようかと迷っていたのでちょっと踏みとどまったのである。断捨離やシンプルライフが象徴するミニマライズの逆、表題の通り捨てない生き方を提唱しているのである。4章まで読み進むと、ここで法然と親鸞が出てきて、彼らが捨てたのは「知識」と「教養」だったといい、うすい人間関係は続けた方が良い、などと、さすが、一般によく言われる教訓話とだいぶ違う話しになる。ガラクタに囲まれて回想の世界に住んだ方が認知症になりにくい、などというご高説もあった。なるほど、これは一理ある。が、庶民には、ガラクタに厳しい配偶者というものも居る。こういう本は、その人その人の人生の極意と本音が聞けて、実に楽しい。五木寛之氏はわたしと同じB型だということも知って、ナントナクうれしい気がしたのも、正直、かなりアリガタイレベルにきたということか。。

■01/22 今年は日高山脈の年か
今朝の日曜美術館は十勝の原野で開拓生活を送った山岳画家・坂本直行さんの特集だった。NHKの総合テレビでも前宣伝として断片的に紹介していたので久々に日高の山並みと原野が思い起こされていたところだった。見落としたが昨夜は、大学のワンダーフォーゲル部の後輩にあたる野村さんが、北海道縦断をしたドキュメンタリー番組だったようだが、予告で見たシーンでは日高山脈の冬の稜線を歩く彼を空撮していた。どうも、この頃日高山脈が近い・・・と思っていたら、そうだ、ひょっとして今年は日高山脈国定公園が国立に格上げされる年だった、と気付いた。直行さんには、若いころにずいぶん励まされたような気がするし、山々や自然の淡彩スケッチを始めるきっかけともなった。自然と向き合う自然体とたくましさが凛としていて、かくありたしと思った人は少なくないはずだ。山に登る人でわたし世代前後の人は、この坂本直行さんと言えば日高山脈、日高と言えば直行さん、という連想が強いのではないだろうか。書棚から直行さんの有名な画文集『雪原のあしあと』と『原野から見た山』を取り出してみよう。

■01/19 ケプロンを驚かせた銭函の小屋
薪ストーブを自宅で使うようになってから、特に北欧など欧州北部との比較をすることが多くなったような気がする。昔、フィンランドに森林を歩いたことや森と語るメンタリティなどは、ドイツ人の森への憧れとともに頭から離れない。結果、大きい彼我の差を探るエンドレスの旅のような自然観、風土観を意識するようになった。

かたやには、北海道の寒冷で湿原の多い開拓前風土が、頭の中で思い起こされる。特に、開拓期早々、国防と開拓のために勇払に入植した八王子千人同心が冬を越せず、多くが亡くなった話や、明治30年頃、和歌山は十津川村の災害で、北海道に移住した約2500人のうち100人はその冬に肺炎などで亡くなったという事実などに如実に現れている。

同じころ、国木田独歩が空知川のほとりに新天地を求めて約2週間の旅をしたときに見つけた現地役人が駐留する開拓事務所の、余りの粗末さに驚き、役人からはヤメタホーガイイ、という意味の嘲笑ともアドバイスともつかない言葉をかけられたのも、軛(軛)をひとつにするエピソードだった。

要は北海道開拓は、本州において弥生式の農耕が行われていたころの家屋とほとんど同じ高温多湿対応の住まい様式がそのまま北上して持ち込まれ、内地文化を維持しようとしたものだった。そしてそれは昭和あたりまで続き、暖房を重視した北方型住宅や断熱工法の本格的研究は戦後のようだ。

司馬遼太郎の『街道をゆく 15』の「北海道諸道」を読むと、司馬は、明治4年、北海道開拓計画に関わった米国人ケプロンが、小樽に上陸し札幌に向かう途中、銭函の小屋に一泊した際に、その余りの粗末さに驚いている様を紹介している。悲惨である。ケプロンは南北戦争の兵隊ですらこんなひどいところはなかった、と述べたという。一方、開拓行政トップの黒田長官は当時薪ストーブの存在を知って試作させたが根付かなかったと司馬は書いている。我慢と根性だけでは生き延びられない、過酷でもある風土を持つのがわが北海道であり、自然との関わりや精神的なこと、快適さの感性など、フロンティア期を本当に過ぎているのか、わたしは自問することがある。

■01/17 待望のFM誕生か?!
苫小牧の小さなミニコミ誌「ひらく」が、新年早々うれしい特集をしている。人口の割にFM局がないのはおかしい、などと他人事のように言う人もいたが、遊び気分とは違ってビジネスだから、何かと立ち上げが難しいのだろううなあと思ってみていた。その実、なんどか開局の試みはなされたようで、これまで結実に至らなかったものだ。たかがFMなどという人もいようけれど、わたしは街の民度を示すような重要なツールだと思っていて、チャンスがあれば是非応援したいと思っていた。『ハスカップとわたし』を発刊する際にも、街づくりのプロジェクトとしてハスカップ・イニシアチブを想定し、ハスカップを真ん中に置いて、市民の集うプラットホームのようなものを標榜していたから、スキームとしてはゴールの一つに、当然のようにFM局を掲げていた。

ただ、無責任のようだがこれに関わる人たちは次の世代のように感じていたために、聞き耳をたてつつ地域FM開局の事例調べなどをしながら、地域FMの研究者などと交流を持った時期があった。記事の写真で見る限り、スタッフも若々しい。今年6月ころの開局を目途にしているというから、実に楽しみだ。番組制作講座も開設されるので顔を出してみたいと思う。山田香織さんの、この「ひらく」といい、FMといい、新しい世代のエネルギーをギンギンと感じる。

■01/15 象徴的な山の仕事

山の手入れ、などというと聞こえがいい免罪符ではないのか、本当はどうなのと疑問を持つ人がいる。わたしはいちいち、反論はしないが、昨日、現場を巡っているときに見つけた、あるメンバーのこのような枝片付けを見てもらえばおよそ察しが付くのではないか。地域の人が気持ちよく歩けるように、除間伐で生れる散らばった枝をこんな風にていねいに寄せて片づけるのである。パフォーマンスではない、自然に向かう姿勢がひとつひとつの作業風景に表現されるのはうれしいことではないか。ただ薪が欲しい、という人はこんなことはしない。

■01/13 あの世に行くまで自由時間、という強み
年末からパソコンの作動が急に重くなりとても使用に堪えない状態になった。年末年始には過去にもトラブルになったことがあったが、時にはパソコンを初期化したり、それはそれはストレスの多い難事だった。ところが今回は少しもあわてなかった。考えられることを一つずつ探り原因を絞って、CPUやメモリーの使用率やウイルスソフトの負荷などもチェックした。慌てず、ゆっくり、数日で復旧したのだが、かつての狼狽と今回のこの差は何かと言えば、まぎれもなく高齢者のアドバンテージではなかろうか。あの世に召されるまで自由時間だ、という余裕である。締め切りや約束がない、誰にも迷惑をかけない、だから慌てることはないという信号がやってくるのだ。これは実にありがたいことだ。数日前から、寒中見舞いに一言ずつ書き添える楽しい作業を始めたところだが、この余裕のおかげで、一人ずつ顔を思い出して個別のフレーズを綴っていくことができる。ありがたい話しである。

■01/11 山登りの間に巡る思いの差
もう半世紀の前の話しですが、たしか女性で初めてヒマラヤの8000m峰のマナスルに登頂したMさんに、「登りながら何を考えているんですか?」と伺ったことがある。うろ覚えの記憶になったが、おそらくは彼女の山の会の山行に客人として参加した石狩岳のシュナイダーコースだったような気がする。残雪のステップを切りながら、Mさんは「これから先のことかなあ」と静かに応えられた。「先のこと」、山の登りはいつもロッコンショウジョウのような思いだったわたしとは真逆の答えに、さすが、と思うと同時にちょっとびっくりした記憶がある。70歳を超えて一年、やっとその境地に来れたような2023年、1月。

■01/08 歌に見る庶民の共感 16
先の1/4 に紹介した短歌集で、この項の対象とした庶民ではないが、歌人のさすがと思える印象的なものを幾つかあげておきたいと思います

◎海なりし昔おもひぬ湿原を蘆くねらせて風わたるとき     奥泉一子作
……7000年ほど前は海だった湿原というものを見慣れていると、つい海だったことを忘れがちだが、この殺風景なヨシの揺れる姿はたしかに大昔を懐古するきっかけになるかも。もう50年ほども前のころ、野ネズミの殺鼠剤を播くために、毎年2回、ヘリコプターに乗った。ある年、若いパイロットは播き終えて帰るとき、このヨシ原をうねるように飛んで,、ヨシが左右に揺れるさまを楽しんで遊んだ。湿原にシカの足跡が無数にあった。いい時代だった。

◎縄文土器掘りたる跡に水溜まり映れる空を今日の雲行く     石山朝次郎作
……これも縄文時代を見晴るかすきれいな歌だ。一万年も前の縄文人も見た雲だが、今日のオリジナルだ。この一足飛び感覚がさすがと思う。

◎屯田兵三世我等痛恨の決算沃野をリゾートとなす     那須愛子作
……農家の奥さんだろうか。痛恨の、が痛い。土地を売る痛み、悔やみ、無念さ。短い歌だけに、伝わる「痛恨」がさぞやと呼び起こされた。

◎アイヌの血受け継ぐ人らと踊りつつふつふつと湧く哀しみのあり    菅原恵子作
……偶然なのか、この歌も古に思いを馳せる作品だった。風土と人々と思いを表現する短歌という芸術の底チカラだろうか。そこには歴史を見る目と人々への共感や思いやりがある。

■01/05 渡辺京二さんと龍村仁さん
昨年末は、愛読した渡辺京二さんが鬼籍に入られた。『逝きし世の面影』で古き良き日本人の原型のような姿にふれ、自虐的な方にブレがちな流れの対極にある、大いなるインパクトを感じたのが今は懐かしく思い出す。日本人が戦後、米国の洗脳に気付かないまま国の根幹を失いかねない現状まで来ている今、氏は日本人の素顔を、来日した外国人の観察記録で再現して見せた。『黒船前夜』では、和人がアイヌから略奪し虐待したとする松浦武四郎のアイヌ史観とはまた違った風景を描いた。わたしは松浦武四郎の生地・三重県松阪市に武四郎の博物館を訪れて少しニュートラルな武四郎像に少しでも触れることができたのは良かった。渡辺さんが支援した石牟礼道子氏の『苦海浄土』は勇払原野の雑木林に敷衍して、開拓の歴史と自分の地域活動を重ねてみる静かで熱い機会となったのは記憶に新しい。

今朝の朝刊では、ガイアシンフォニーの龍村仁監督のご逝去を知った。ガイアシンフォニーは全国の自主興行に支えられ、過去の9作品欠かさず見て、苫小牧での上映では王子製紙の成志会館で行われたスタッフの懇親会でツーショットを撮らせてもらったが、写真は見つからなかった。自然とスピリチャルな交流を、これほど丁寧に追いかけた監督は知らない。共感することも多かった。ヨガや冥想をたしなむようになったのも、監督が追い風を吹かせてくれたような気がする。お二人ともわたしにとって輝く巨星だった。 合掌

■01/04 短歌が謳う北海道の風土
正月2日のラジオ深夜便のトップ「ほむほむのふむふむ」は、歌人・穂村弘と俵万智のスペシャル対談で、深夜の約2時間、興味深く聞いた。驚いたことに2022年は短歌ブームだった、というのである。わたしはそんなこととはつゆ知らず、読売新聞が毎週月曜日に掲載するの歌壇俳壇の作品のうちから、毎日早朝10~20を声を出して読むことを、早起きして通勤しなくてもよくなってからの日課にしてきた。ボケ防止も意図した「早朝音読」である。

その一方で、定年後の最大の愉しみは歴史を探ることで、最近は特に、開拓前後の北海道の風土と基盤整備(インフラ)の様子、そこで人々は目の前の手つかずの自然をどう見ていたのかという精神史のようなものに興味が湧いていた。開墾の前に立ちはだかった原始の自然に、人は生半可な精神で立ち向かえないはずで、それを先人はどう乗り越えたのか、心のよりどころは何だったのか。しかし、「風土」などと、やや情緒を交えた描写などとはそうそう出くわすわけもなかった。

それもそのはず、わたしが紐解いていたのは、いわゆる開拓の歴史のような文献が主だったからである。年末の師走になって偶然のように写真の本に出合ったのである。これはもう30年近く前に出版されたもので、開拓最前線と言えるものではないが、大正と昭和初期生まれの歌人らが見た旅の風景や生活景、さらに農業者の歌も網羅されて、かつ意外にも勇払原野や近隣を題材にしたものも非常に多かった。わたしの干支・ウサギ年、今年も実り多い良い年になりそうだ。

そして自然や風土が、深く濃縮されて短歌という短い作品に結実されていることに気づいた。概観すると、荒涼とした北海道の風土に立ち向かおうとしているのは、主に男性であり、女性は「風土にくぐもらせ」人の心理などを風土の中に歌いこんでいるようだ。寒冷地、原野の荒涼、そうでありながら四季の移り変わりに潤いを感じて生活を折り合わせるような営みを彷彿とさせるものが多く、重みのある記念すべき読書だった。

■2023/01/02 年が明けて
昨年、義兄が鬼籍に入られたため、年頭のご挨拶を失礼しました。穏やかな年越しを今年も読書で過ごしました。年が改まる前に、その年に読んだ本や旅行や出来事などを拾い上げて振り返るのがルーチンになりましたが、こうして列記したものをポイと忘れ去って、さて来年は何をしようと、気分を一新できるチャンスというのは、なかなかあるものではありません。たとえそれが長続きしなくても、思いひとつで年忘れになると言う巡りあわせはささやかな発見。うさぎ年生まれなので今年は年男(この歳でもそう呼ぶの?)なのだそうですが、晴林雨読を軸にしていろいろ旅行もしてみたいと思います。ところで、旅、これの企てがこころをウキウキさせることを知りました。と同時に、それは旅だけではなく、前向きな計画そのものに潜んでいる、というのも事実のようです。これは意外と役にたつかも。


2022年、日々の迷想