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2023年、日々の迷想
■12/31 藤沢周平 『白き瓶』 読了 白埴の瓶こそよけれ霧ながら朝は冷たき水くみにけり (長塚 節) 昨日やっと500pを読み終えた。長塚節を主人公にした、短歌同人のつながりや内部対立を淡々と心理描写していくながれに最初はどうなることやらと不安もあったが、次第に引き込まれて自分を重ねたりした。松岡子規や漱石、牧水、齋藤茂吉など著名な作家が絡んでいき各人の短歌や小説の評価に、褒められて舞い上がり、酷評されて傷つくという高揚と落胆の繰り返し。そして結核などの重い不治の病と借金苦。明治の終わりから大正初期にかけて、日本は貧しく自然だらけ、農業中心の時代だったが風物描写の意味が問われて心の動きや作歌動機の伏線として挿話されていた。 藤沢周平は一般には描きにくい長塚節という人物を正攻法で書いた、と新聞の書評(昭和60年発刊のころかと思う)が出されている。心理描写の基はおびただしく交信された手紙、葉書をていねいにフォローしていく藤沢の執拗な作業量に驚かされる。現在なら電子メールやSNSで済まされるだろうが約100年前の当時でも、言葉の綾で心を乱し誹謗中傷も文学者ゆえか、きついものがあった。好きな歌だった「白埴の……」がどんなシチュエーションで謳われたのかをこの藤沢本で知った。「ひとり」という静謐を清冽に謳いあげた気品ある作品は愛唱する数少ないひとつだが、日本の寂寥、無常、清貧など多くが盛られていて益々忘れられない一首となってきた。 *追記 読みながら抱いた疑問が二つ。ひとつは、この地味な本となぜ波長が合うのか。二つ目はこの本の製本がよれるほどなぜ高頻度で図書館から借り出されるのか。 この一つ目の考察は興味深いところに行きついた。自分が同人誌的な志向が強く、高校、大学、社会人の各ステージで、クラブの会誌、ニュースレター、交歓日誌、新聞など、執筆と編集と発刊に極めて執心し、内部対立はなかったにしてもかなり緊張感をもってあたっていたことである。心理的なやり取りや自己主張の流儀などについて、藤沢周平が「白き瓶」で描いた内容が、自分がいつか通って来た道に感じられたのだろう。 二つ目の、苫小牧市民の人気についてはよくわからない。一連の藤沢作品のファンが非常に多い事実はあろうがそれだけだろうか。 ■12/29 乾いた薪の音 形ばかりの薪小屋の残りが少なくなったので、物置前に積んだ一団のもの1立方弱を移動させた。大雪に見舞われてからアクセクするのは避けたい。移動といっても放り投げるだけだが、カランカランという乾いた衝突音が家の周りにとどろいて心地よい。それにしても薪の素材が多種でありさすが雑木林の除間伐の成果品であることがわかる。そして乾燥具合も自慢できる代物で、たしか2年半。この頃改めて気づいたことは、薪小屋をどうして見つけるのか、雑木林でもよく見かけるシジュウカラとヤマガラがやってくるのである。一度だけゴジュウカラも見た。野生と混在するのはシカだけではないのだ。野鳥の餌付けは近所の目を憚ってやめたけれども、薪小屋の虫を食べに来てくれるのは撤去の代償のようで何ともありがたい。そしてこの些細な薪自給の営みはいつまで続けられるかが目下の関心事。その実施可能性は自身の生命ののフェイドアウトが並行するような気がする。ならば逆に薪づくり、山仕事はシニアワークとして続けようか、仕事の質と生産量はともかくとして、である。 ■12/27 最近見た映画と読書 先月から珍しく映画づいている。『沈黙の艦隊』の噂を読んで映画館に出向いた。難聴の身には大音響は心地よい。漫画が原作というが内容は濃かった。映像の迫力も満点だった。次いで英国のドラマ『ザ・クラウン』を7話まで見た。故安倍総理が英国のジョンソン首相と雑談した時、「英王室のドラマの内容は本当なのか」と聞いたところ、「自分の立場では答えられない」と言ったというほど、内容はひどく下世話な話が満載だ。ただ、英国王室と政治の構図などが飲み込めなくて最初は多少てこずった。家人と娘はわたしが「Vivant」を見ていないことが信じられないというので、次はこれをNETFLIX で見ることになりそうだ。 読書は目下のところ、藤沢周平の『白い瓶』(500ページもある)、曽野綾子のショートノベルとエッセー『人生の決算書』、国民文化研究会編『歴代天皇の御製集』、安岡正篤の「日本精神の研究』、それと近世北海道山林史を並行して読んでいる。一冊ずつ読みこなすより、わたしにはこのほうが性にあっているようだ。そして内容は全体的に偏りがあって、いわばこれが日本の歴史勉強の成果でもあると思う。遅れてやってきたとは言え当然の帰結だ。 年の瀬になって、玄関ドアのガデリウスが不調になって簡単な手直しをしたり、来春の屋根の張替えの見積もりをとって発注したり、DVDプレーヤーが瀕死の症状を呈したりと小さな雑務が続いた。だから頭の中は何かとあわただしい状態だったが、当面約束事はないし当分山仕事は休むつもりだから、気分は年末らしく穏やかに過ごせる。読書三昧は実に有難いことである。 ■12/24 「人生とはなにか」 朝方ふっと目を覚まして思いついた。曰く、「加齢は面白い」。歳をとるにつれ、このような小さな悟りがポツポツと訪れるのである。悟りというのが大袈裟ならば、残された時間を自覚する度合いによって、過ぎ去った後悔や一方の幸福感や達成感の意味合いが形とボリュームを変える、と言えるかもしれない。だから自由になるのだろう。古希を越えた頃から顕著になった。もうじたばたしても仕方ないというあきらめが土台にあり、残り時間とのバランスから肯定せざるをえないなあ、という方向に傾いていくのが自分でもわかる。それに忘れることも多くなって、要はどうでもよく思えてくる。うまくできたものだ。 ところで過去の失敗や不義理や不誠実など数々を神様は許してくれるのかという、ちょっとクリスチャン的な懺悔と神様に問うような構図が思い浮かぶが、多くの日本人はすこし違った印象を持つのではないか。わたしは色即是空を思い浮かべてしまう。どうせ無常の世の中だ、妄想も多い、結局「それでいいのだ」…。赤塚不二夫はずいぶんと深いことを漫画で描いたものだ。人生、肯定しないと始まらないのも確かだ。 ■12/22 冬至 日に日に寒くなって今日は本格的冬宣言、冬至。面白いもので十分に暑い夏を味わったせいか、冬が怖くない、というか余裕があると言ったところか。幸い雪がないので苫小牧らしい冬到来だ。薪は2棚の1/3 ほど使い切った。この1週間は朝から晩まで焚いたので木灰は今朝もその間の分を袋に詰めた。家人は冷凍していたカボチャを取り出して調理、まったくどうして、美味しくいただいた。 夜明けが遅いから薪ストーブの点火は薄暗いなかで行われ、家人が起きるずっと前にひとりの儀式のような時間が流れる。今年の薪はナラが少なく、かつ、小割が多い。2年以上乾燥しているので火力は抜群で、バラエティも申し分ない。それでこそ、コモンズ謹製の「雑木薪」だ。あと正味3か月、と思えばなんだかあっという間に春が来るような気がしてくる。薪ストーブの存在を忘れた頃に火をみると、時折オーロラのような炎になっていることがある。 ■12/20 助ソウのタチの天婦羅 スーパーにスケソウダラの「たち」が並ぶようになって、夕餉の味噌汁や鍋に顔を出したが、好みを言えばモミジオロシで天婦羅を食べたくなる。もう30年も前の話しだが、札幌駅の地下には立ち飲みの店が2軒あって、そのうちの一つで抜群に美味しいタチの天婦羅を出すのだった。季節のものだったと思われるが、驚くほど安い。真ダチに比べて低く見られているのだろう。これが初めての強烈な出会いだったかも知れない。早速やってみたのだが、油がが跳ねてすこぶる評判が悪く、たま~に許しを得てやる程度になったが、今年になって油跳ねを押さえる団扇のようなふたを入手したので、思い出してタチの天婦羅をカムバックさせた。家人が嫌がらないよう、少し小さめにして、かつ跳ねないよう丁寧にキッチンタオルで水気を取ったところ、跳ねはゼロ、味はさすがであった。家人もいくつかを「おいしい」と言って箸を伸ばした。年越しに子供らが来たら振る舞ってやるつもり。ただ強烈な生臭さで、水きりをしている間、台所から玄関まで匂った。 ■12/18 久留米絣のはんてん 先日九州から北海道に戻る日、最後に寄ったアクロス福岡で、重要無形文化財に指定されている久留米絣のはんてんに出会いました。肌触り、風合い、デザイン、いずれもピピピっと来ました。わたしの年代は特に東北生れであれば幼少のころからはんてんはなじみのあるもの。これを来て炬燵に入ったり囲炉裏に座ったり。久留米絣は化繊とはまるで違う感触と重量感があり、着るほどに体になじんでいくのがわかります。一種の民藝というジャンルかと思います。奄美の大島紬の現場で丁寧な工程を見学しましたが、それに共通する手づくり感がたまりません。未明の読書や薪ストーブの点火時など、不可欠になってきました。 (写真は宮田織物のホームページから) ■12/16 流れ星 日々の些細な悩みをどうしても飛び越えたいと思うようなとき、日常の尺度を超える別世界に飛び立つことは方法としてかなりいい。その身近な一つは星である。天空を差配する科学や不思議に思いを馳せるだけでも、些末な日常のしがらみを束の間離れることができるのだろう。そんな、科学と離れた花鳥風月のポエムの世界もある。月をも含む夜空にあって、とりわけメルヘンを思わせるのが流れ星であり、その確率の低さからか幸運の象徴にもなった。 正確には日常見る流れ星は「散在流星」というらしいが、わたしはこれを眺めるのが趣味で、凍死を覚悟しつつ四季を通じて就寝前の夜空をただただ眺め、今年は12月初めまで11個の流れ星を発見して、今年はこれで満足と決めていた。ところが13日の夜から、ふたご座流星群の到来を聞いて折からの濃い雪雲の切れ間を諦めつつ眺めていると、なんと次々と現れて10個以上に上り、今年の累計は23に達した。こうなると幸運の祈りどころではなく、単なる天体の科学でしかなくなってくる。數の多さはとてもうれしい反面、乙女心が壊されたような寂しさも禁じ得ない微妙な感覚が残ることになった。。 ■12/14 大関貴景勝のプロ魂 大相撲は個人的に大関「貴景勝」から目が離せない。ヒヤヒヤドキドキの全取り組みはナントカしてほしいところだが、先日のNHKの「プロフェッショナル」ではその思いが赤裸々に語られた。何故好感を持つかと言えば、彼の相撲にかける「道」への構えである。175cmで大柄な力士と闘うためには重量をあげてぶつかるしかない。そして、彼の体全体の絶えない故障。頸椎間板ヘルニアを圧して戦うのは限度があるのではないか。同じヘルニアを患うわたしには、あのぶつかりがどんなに体を傷めて危険で闘志をそぐか、すこ~しだけわかるような気がするのだ。 11月下旬の九州場所、比較的いい席が取れて土俵を見守った。家人は「熱海富士」の応援タオルを掲げ、わたしはあえて「朝の山」を用意して挙げた。命を縮める稽古を繰り返しつつ、淡々と取り組みが流れるように過ぎていく光景は感動である。人の一生もこんなもの。ひとつひとつ、日々こなして、わずかでも己を磨いて道半ばを知りつつ消え去る。限界など知りつつ、決して笑みを見せることなく愚直に高みと終わりに向かう関取・貴景勝、どんな物語をつくるのか、これからも興味をもってみていきたい。 ■12/11 樹齢100年のカラマツ つた森山林は昔苫小牧市森林組合長をしていた蔦森春明氏が所有・管理していたところで、山林で作った木炭は今のJR室蘭本線の遠浅駅から本州に送っていた。先祖は明治の終わりころ入植、以来、「里山」として利用してきた道内では珍しい有名な山である。昭和51年、苫東の仕事に関わり出した当時、わたしが手で触れているカラマツは、地域でも珍しい樹齢50年と言われていたもの。あれからざっと50年だから、ほぼ100年ということになる。直径は80cmあまりで、まだ順調に成長している。静川小屋の隣で枯れ始めたカラマツとは数百mしか立地は違わないが、樹勢に雲泥の差がある。 100年経っても変わらないものが存在する、というのは人生に物差しを当てるみたいで楽しい。わたしの苫東での25年は、この「つた森山林」とともにあった。ひとつの山を重点的に管理するというのは、実に勉強になるものだ。台風の復旧造林で余ったシラカバ苗木を斜面の林道沿いに植えたが、数十年後、現在の上皇陛下と上皇后がここに植樹会でお見えになった際は、シラカバ並木として沿道を飾った。 ■12/09 山の神参拝 12/8 昨日はちょっと危ない半枯死木を片づけて今年の雑木林の除間伐を終えた。そして今日は山仕事をするNPOの山の神参拝。と言ってもエリアのシンボルツリーとなっているドロノキの大木に注連縄をはってお参りし地区の神社にもあわせて参拝するもの。林業を本業とする組織ではないため、12月11,12日を軸にするのは無理があって直近の土曜日をこれに充てるのが習わしだ。古巣に当たるつた森山林の山の神にも参拝していくつもり。 こちらでは作業部隊も持っていたから、ちゃんと毎年注連縄を捧げ、お昼時役員も一緒に一升瓶を数本持参して焚火して立ち飲みした。臨場感は抜群で、文字通り一年の節目だった。話はいつも大いに盛り上がった。その頃、国道わきの排水路には遅いサケの遡上が見られた。職員に神主さんがいて同行してもらったが、その年配の方も酒が大好きだった。 ■12/07 二十四節気は「大雪」 雑木林の初冬の風景はまだ茶色である。今日は二十四節気の大雪ということだから、季節感の視覚としてはすこしばかりギャップがある。だが、毎年白銀の世界はいつも突如としてやってくる。ロシア極東のサハ州ではこのところマイナス50度を下回ったというニュースを見たから寒気はすぐそこにある。が、今朝などは薪ストーブを焚くのをやめるほどの温かさだ。この一進一退、ところ変われば気象もマチマチ、それと戦争と平和が地球上にちりばめられて、それを思うと気候どころでなく何とも穏やかでない。 ■12/04 歌に見る市民の共感 23 山仕事が本格化したせいもあるのか、悠々自適のはずが少しあわただしく感じるこの頃。はて、と胸に手を当てると、読むべしと決めた本が山積みなのだった。新聞の歌壇俳壇も毎日10首10句ずつ朗詠しても未読が1週間分以上が出番を待っている。「しなければ」と思う気持ちが勝手に急がせる。自戒せねば。 ◎借景に大和三山大根干す 東大阪市 Tさん …はじめて大和を旅した時、あまりの小ぶりな風景に驚いた。国の始まりの風土がこんなにヒューマンスケールだったのかと。畝傍山などは丘ではないのか、と。まほろば、のイメージがこの句にも漂う。 ◎淋しき日淋しき声の小鳥来る 東京都 Yさん …ありますね、そういう時。なぜか、花鳥風月にこころが通じる日が。小鳥、風の音、月、星などなど。 ◎「道徳」で認知症学びし十二歳ばあちゃんなるなと我に抱きつく 西条市 Yさん …なんと気持ちのやさしいお孫さんか。思えば幼い子らはみんなこの気持ちを持っている。年寄を労わる玉のこころである。自立せねば、と思う年寄ごころと、こんな風にあったらなあ、という甘えが人はみな錯綜するだろう。家庭、コミュニティ、行政、国と、途は様々だがそれぞれが機能する余地がある。 ◎人減りて里山荒れて熊増えて柿や栗の木捜し民家へ 長野市 Mさん …野生生物管理の失策と言えば簡単だが、思えばいつも後手に回るのが我が国の常だ。先進国はLGBTは行き過ぎだ、移民政策は失敗だったと方針を転換して逆戻りするときに我が国は立法化して実行に突き進む。しかし熊やシカやイノシシや猿の頭数管理は、我が国が殺生を良しとしない精神風土にも根ざしているだろう。そうであれば限界まで被害が及ばないとブレーキがかからない。昨日も道ばたの法面の草を食むシカの群れとすれ違った。根っこには食料が横たわる。今日はこれから庭のイチイをシカの食害から守るために防獣ネットを張るところ。 ■12/03 安野光雅の世界 先日、萩の松陰神社を訪問した際のもう一つのねらいは、津和野の安野光雅美術館を訪れることだった。わたしのつたない水彩画の恩師(まったく個人的な私淑だが)は、原野と日高山脈の坂本直行さんと、今回の旅行先となった安野光雅氏である。なんとなく、タッチを模倣してみたかったがとても手の届く域でないのはもちろんで、いつの間にかスケッチブックの余白や裏に書き込みをして自分なりの画文集に仕上がっていくのが楽しみになった。今年からは、安野光雅氏の何冊かある画文集のタッチを実際に真似て、タッチの極意を学ぼうと決めた。72歳の一念発起である。直行さんの文章の迫力とユーモアはなかなかまねできないし、安野氏の博識、精緻さ、醸し出す旅情とかも、余人の追随を許さないもの。それでもいい、学びが大切なんだ。 ■11/29 家人と薪仕事して すでに造ってあった薪2立方m程を自宅に運んだ。年間約7立方m消費する薪の予備で2往復した。また11月に間伐し現場においた丸太の半分を薪ヤードに運んだ。後半は家人に手伝ってもらったが、重く繰り返しの多い薪づくりは、つくづく男の仕事だと思う。家人は「原始人になったみたいだ」などとぼやきながら、それでもずいぶん助かった。残りの丸太は、雪が積もってから、ソリで林道まで運ぼうかと思う。ひとりの奴隷のように、鼻水を垂らしながら黙々とやるしかない。 ■11/27 欧米の自然と人のつながりとコモンズはどうなっているか 日本では人々の生活と、自然とか緑環境がつながりを失って久しいと思われる。緑などなくても生きていけると豪語する人もいる。メディアが自然環境の重要性を強調し少なくない人が「自然は大切だ」と唱えるのとは裏腹の現象だ。 森林や造園を通じて長年緑と関わって来たひとりとして、この理由を見定める作業は今も続いているが、先日たいへん参考になる本を読んだ。三俣学さん編著の『自然アクセス~みんなの自然をめぐる旅~』(日本評論社)である。欧米ではどのような仕組みや文化的背景によって人と自然がつながっているかを、旅人の目で考察したものである。その背景に人々が自然を共有するコモンズの伝統も大きく取り扱っている。 わたしがコモンズを学ぶ際に熟読した平松紘氏と短い交流もあったと書かれ、勝手に親近感をもった。平松氏は英国のコモンズが緑の権利獲得の歴史と法律の運用で出来上がっていることをわかりやすく提示して見せた。現代の自然共有は、古来の入会的なものではなく新しいタイプになっていくだろうことは間違いないが、自然の共有は、法律で整理するにも文化に頼るのも大変な年月がかかる歴史的テーマのようだ。ただし日本文化の底流には、欧米とはひと味違う底流があるのではないか。メディアに誘導されてきた自然の見方を一旦脇に置かないとこれは見えてこない。わたしは実体験の日常の中でこのテーマを再構成したいと思っている。 ■11/26 萩の松陰神社などたずねて 先週月曜からしばらく留守にしました。歴史探訪の一ページとして萩の松陰神社、萩博物館などを訪れました。写真は有名な松下村塾、ここに若者を中心に何十人も学び、両親も門下生になった場所。松陰先生(萩では「先生」をつける由、呼び捨てにしない)は、西の長崎はもちろん、東は津軽、会津、水戸のほか幕府に内緒で海外と取引をしていた港々で要人にあい、海外事情を聴いて歩いたと博物館の学芸員に聞きました。「津軽は船ですか?」と聞いたわたしに学芸員は「徒歩です」と即答しトレースマップに案内してくれました。 『発動の機は周遊の益なり』(旅の良いところは心が活動する機会を与えてくれることだ)。当方は雑木林の散歩だけでも十分満足できるのに、時折、こうして関心のひもをたどって旅ができることはありがたいこと。激動期の日本、先生が生きていれば、どう道を示したか。 ■11/19 補聴器に続いて新しい老眼鏡を入手 このごろ認知症予防のために難聴を補聴器で補うべし、という記事をよく見る。今年、高額な補聴器を使い始めた経験者としては、この説は正しいと思う。難聴を放置すると、外界から引きこもったような状態になって感性も閉じてしまうのである。 次いで、本を読むのに少し不便を感じて老眼鏡についてもちゃんと調整したものを入手することにした。随分活字は読むのに、遠近両用と100均の極安メガネで済ませてきたのが愚かだったようだ。乱視も左右の視力も考慮した今度の老眼鏡で、読書もぐんとはかどる…、かどうかはまだわからない。 ■11/16 未明、星を眺める「ひとり」感覚 おとといの朝、樽前山が真っ白だった。こうなると胆振は晴天が続く。寝る前とトイレに起きた未明などは、満天の星に見入ってしまう。空は臨海地区のコンビナートのせいか、空が明るすぎるがそれでも今年、散在流星、いわゆる流れ星を昨日まで9つ出会った。未明の星空を、窓の水滴をタオルで拭ってぼーっとする時間、孤独でも寂寞でもない、なんというか仏教的「ひとり」とでもいう時が流れる。→ 11/19 朝4時からしし座流星群を観ようと窓辺に立ったが、見えず。 ■11/11 石の上に3年以上、歴史ややつながる 歴史の素養がまるでないことを猛省して、リタイヤ後は古典と歴史の世界に踏み込んだのだが、先日京都を歩いているときに、太平記にしるされた地名や事件がちょっとつながり始めた。そして、京都という町がその重厚な歴史に耐え抜いて今日があることに、路地裏や小さな神社で庶民の祈る姿や言葉でじわじわと感じられるようになった。勉強してきてよかった。学ぶとはこういうことなんだ、と気付かされた。こういうことが京都だけでなくしばしばおこるようになった。遅く目覚めると、人生、先の愉しみが増える。 ■11/9 追悼の日を送る 昨日はルーチンの山仕事。 ひとり雑木林の間伐に出かける前に、小屋の薪ストーブを点火して、火を眺める。火は、しばしば追悼のこころを呼び込む。この日は、umeda 先生を失って初めての日であり、献本の列を見ながら、未だ気持ちが泳いでいる。 伐倒作業の合間も、どこかうら寂しい風が吹く。そして今日、告別式で奥さまにご挨拶すると、「夫は、草苅くんの山仕事と小屋生活がうらやましい」といつも言っていたとおっしゃる。20年近く前、奥さまもいらしたことのあるフットパスや小屋で薪ストーブの火を見つめると、これからもそんなこんなが走馬灯のように巡るだろう。 ■11/07 梅田先生からの献本 「君にあげたい本があるんだ」と連絡があったのは10月の末でした。静川の小屋を「森と自然のライブラリー」にしようと準備してきた当方にとっては、願ってもないことなので 11/2 にマイカーを駆って札幌に向かい、北大に近い先生のオフィスで7箱の蔵書を頂戴しました。先生は折り悪しく体調が悪くオフィスには来られませんでしたので、容体が改善した頃にお礼のコンタクトをとろう、と考えていたところ、夜になって明らかにあまり元気のない声で電話があり、容体が良くないことを直感しました。それでもしばらく、お体や献本のことなど話をし、近々またお邪魔することにして交信は終わったのですが、11/4 に小屋に本を運び、梅田文庫、abe文庫、kusa 文庫あわせて520冊の風変わりのライブラリーの写真を撮った翌々日、先生のオフィスから先生が朝亡くなった、との訃報が入りました。…… 余りに突然のことで茫然自失の状態で、気持ちを落ち着け状況を整理するのが精一杯でした。 『林とこころ』の出版(2004)を強く後押ししていただき、小屋にも奥さまと一度おいでになって、コモンズの会員にもなってくださいました。2000年にドイツの田園地帯と「わが村は美しく」の村々をいっしょに訪れたことも懐かしく思い出されます。またわたしの「雑木林だより」をご覧になって、「早くまとめて出しなさい」と目次案まで口にされて再び背中を押されたのはつい先日のことでした。安らかなご冥福を心からお祈りいたします。合掌 ■11/05 明るい落ち葉浄土 雑木林は紅葉のピークが過ぎて、地面はこのように雪の前に葉っぱが積もるのが里山の特長だ。静かで長いこの時間を好む人がいる。 ■11/3 ハスカップ本、健在か 久々に札幌に出かけたので本屋さんによって、北海道関係の本棚を見ていたら、目の前に見覚えのある活字が目に入った。おお、コモンズのハスカップ本だ。もう出版していたことも忘れがちだっただけに、ちょっと新鮮な驚きだった。もうあれから4年半が経った。さらに驚いたのは、右隣には、わたしが札幌のある財団に努めていた時の上司の本が並んでいたこと、それも手に取ってみると、本の内容が氏には門外漢の分野に当たる北海道の山林史であり、実によく調べて書いてあったことだ。もっとも氏は新篠津などの農業開発の歴史などを、たしかトレースしていたはずだから、開発史を紐解くことはお手の物だったのかもしれない。約4000円もする高価なものだったが、空知の開発や、柳田国男や宮本常一が論評する山人の姿をフォローしていたので、早速購入を決めた。 ■11/1 紅葉とクリタケ 10月の最終日10/31 雑木林の間伐を開始した。紅葉は例年よりも1週間近く遅れて、ほぼピークに差し掛かった。いつもと見劣りはしない。林道沿線は素通りするのが惜しいので、ゆっくりEV走行して進む。小屋のテラス前の切り株に美しいクリタケがごっそり生えていた。この切り株にとってはニガクリタケ、ボリボリと続いて今季3つ目のキノコだ。あまり美味しいと思ったことはなかったので、収穫はほんの少しだけにしたが、夜、豚バラや大根、養殖マイタケ、白菜などといっしょに塩味のキノコ鍋にしたら、今日は素晴らしい出汁が出ていた。歯ごたえはいつもどおり良し。もっと採っておけばよかった。 ■10/30 家庭の力 思想家・安岡正篤氏の「活学一言」の中に家庭の力という一言を見つけた。至言なり。 「家庭を失いますと、人は群衆の中にさ迷わねばなりません。群衆の世界は、非人間的世界です。人は群衆の中でかえって孤独に襲われ、癒されることのない疲労を得るのです。これに反して良い家庭ほど人を落ち着かせ、人を救うものはありません。」 世の中には世界観の基礎にある家族や、伝統的な文化や体制を破壊しないと理想的な社会は作れないという論理で、至る所に破壊論理が蔓延するという。皇室を天皇制と呼び替えて崩壊を唱える声も言論界やリベラルな政治の世界では仄聞する。この歳になって、ゆるぎない家族愛、家庭があるということの重要性にわたしは激しく同意する。 ■10/28 山仕事の着手前に念入りな伐倒イメージトレーニング 来月4日から、今季の雑木林除間伐が始まる。その1週間前の10/28、この半年の間で忘れかけていたチェンソーワークのイメージを復活させる自主研修を行った。個々の伐倒はひとつとして同じことはなく、常にケースとして新しい。その伐倒の成否は如実に切り株に残される。それを写真のように議論しつつ、各々が胸に収めるのだ。枯死木、腐れが多いから、どの程度腐っているかという読みもかなり難しい。 ■10/28 鴨長明の庵跡 愛読する『方丈記』の著者鴨長明が住んだ庵跡を訪ねた。大都会京都の南東のはずれ、日野にある。いわゆる観光地ではなくマニアックな人が行くだけのところだ。どれほどの森の奥に隠遁したのか、という素朴な疑問が動機だった。結果、結構な坂道の奥にあって、「ひのやくし」で有名な法界寺から歩いても小1時間近くかかる山の中。スギ林が放置されて広葉樹が混じり倒木が転がる坂道を登った。隠れ家の風情十分だ。チャラチャラしたひとりキャンプどころでない。3m四方の庵で、炊事もし琵琶の音曲の演奏(稽古)と短歌のたしなみ、さらに仏道を探求した。脇に沢が流れていて周辺は燃料になる落ち枝も事欠かないから、生活に困らないと書かれていたはず。庵の場所は急斜面の踊り場のようなところだった。写真は露光調整されているから明るく見えるが、実は暗~い森だった。1000年前は雑木だったのではないか。 ■10/21 チャナメツムタケ 14年目のNPOの総会のあと、3人連れ立って道のないナチュラルコース「まほろば」を歩く。紅葉には数日早く、これからが本番。見つけた山菜はチャナメツムタケ。4kmあまりをゆっくり約一時間、というのはわたしにはぴったり。いろいろな話をしながら歩くのは格別だ。 ■10/19 コクワと出会う 林道にかかった風倒木を整理したら、先端にはコクワが絡んでいて、思いがけない収穫となった。林の中はいろいろなキノコが目白押しで、ドングリもここは豊作に見える。ドングリ好きというクマの足跡に注意しているがその気配はない。山のものの恵みという実感は変わって、飽食の今となっては春の山菜やキノコがメインになって、コクワや山ぶどう、栗などををご馳走と思う感性はわたしだけでなく乏しい時代だけれども、昔の人やクマたちはこれらをこの上ないご馳走に見ただろう。しかし年齢とともに、恵み野見え方も昔風に戻りつつあるような気がする。食ではなく、本当の恵みに。今回のコクワは、ジャムにした。デコポン、イチゴ、そしてここにコクワが加わったが、令和5年秋の、暮らしのアクセントとして忘れがたいものになった。 ■10/17 押し寄せる謎の正体と移動の解明 秋も更けてくると毎年押し寄せるイネ科草本の穂(左)。今年は、発生場所と移動経路を突き止めた。 まず、本体は近所の空き地に生えているオヒシバ。横にランナーを出して伸びるメヒシバと違って単体でたくさん生える。踏み跡にも耐える。それが50m西の空き地に生えていた。 しかし、これが飛んでくるのは転がってくるのか、見たことがなかった。隣のうちにも向いのうちにも押し寄せる気配がなく、奇妙に我が家の庭に一杯集まる。 今朝、ゴミ出しで発生場所近くに行って戻る時に、歩道を転がっている穂をついに見つけた。追い風で結構な速さで転がって、うちの前の花のコンテナで、なんと左に曲がってコンテナの根元に絡みついた。ハハア、こういう移動をするのか・・・。しかし何故うちの前で左折するのだ。平坦なインターロッキングが広がっていて、南からの風が通りやすいのか。ひょっとして、インターロッキングで上昇気流が起きていて庭に吸い込まれるのか。 百聞は一見にしかず。ともかく謎の正体がわかって爽快だ。あとは、ミラクル落ち枝が、樹木から落ちて地面に刺さる様を目撃すれば、要するに落ちる頻度と確率の問題だと納得がいく。 ■10/15 捨てて生まれ変わる 10日ほど前から、 かつてないほどの断捨離を続けている。もう使わないだろうと思われるもの、すべてを廃棄の対象にした。使わない、ということは実際に道具に用いることばかりでなく、もちろんその内容をもとに何かを書く、ということも含めるから、おおかたの過去を清算するようなことになってしまう。一瞬、一抹の寂しさを覚えるが、過去とおさらばするとは、生まれ変わることに似て新しい清々しさも押し寄せてくる。 我にかえればあと2週間ほどで72歳だ。この歳になると過去のことを克明に語る人もいると聞くが、過去のいいこと都合の悪いことまとめて忘却の彼方に押しやることも可能だ。そうすれば、いやでも re-birth の境地付近に立てるようで嬉しい。ガーデニングのの会を運営していたころの、市内外のガーデナーの庭や人の画像も、思い出しながら廃棄用にくくった。 ■10/13 人との距離を縮める野生 この一か月で、シカと小屋の距離が4,50m近づいた。折角だから、乾草で餌付けしたいところだがそうも行かないので、青リンゴの食べ残しと、小鳥用の餌をテラスにばらまいてきた。明日の結果が楽しみ。 ■10/11 寒露の侯、季節を遊ぶ おととい10/8 は寒露だった。さすがに日に日に朝の冷え込みが厳しくなって、実は5日から朝だけ石油ストーブを点けている。昨日、遅い夏休みで帰省していた娘と家人の3人連れ立って、久々に雑木林を案内しながら、遅いかもしれないボリボリを探した。静川でふたりはカラカサタケとタマゴタケの姿に感動して画像に収めるのに熱心で、たくさん残っていたボリボリは二の次になっていた。大島山林では、NPOのみんなが先週から採っている薪小屋の裏に、写真ようなとんでもない大きなボリボリの株立ちが残っていて、わたしだけ記念撮影した。驚くことに、エノキタケ(右)も出始めていて、今年は期待できるかもと思った。注意点、大きなボリボリは色変わりが早いから調理は遅からずに。 ■10/08 里山は道楽 里山で過ごす時間は、山仕事も散策も山菜もひっくるめて、どういう言葉で言い現わせばいいか、考えてみたが、どうも「里山道楽」が良いようだ。昨日、山仕事の後に林を縫っていて、なんだか希望のようなかおりがして立ち止まったのだった。さて、これをなんと呼ぼうか、と思ったとたん浮かんだのがこれだった。。「里山道楽」は、長崎の畏友「まつをさん」の山アソビの表現と同じだ。わたしの山仕事は道楽と呼ぶには危険過ぎるし、小屋の時間は静かな内観のひと時だから、道楽とはちょっと異質だ。しかし俯瞰すれば大きな意味で「晴林雨読」で「悠々自適」の道楽であることに間違いない。かように彼我での道楽の中身はだいぶ違うが、社会に直接何のコミットもしない自己満足という点で、道楽は実はピッタリだ。 ■10/06 柳田国男『山の人生』と宮本常一の『山に生きる人々』 山と森と人を考えることは、自分にとっては知的好奇心を満たす最たるもので、一面、もしかするとわたしのライフワークのようなスポットに当たっている。昨年8月、民俗学者・柳田国男の『山の人生』を読んで、膝を打つような知的興奮を体験した。それらは雑木林だよりの「日本人の山と森」に短い感想を書いた。先月からは宮本常一著『山に生きる人々』を読み進んで、今朝、ようやく読了した。常に何冊かの本と雑誌を並行して読む癖のためになかなか進まないけれども、読書人の常か、心躍る読書は「このまま終えたくない」という願望を禁じ得ないもの。この2冊と出会えたことは幸運だったと思う。よくぞ日本に生まれけり、といえば大げさだが、日本の国柄を思い、国土、風土に思いをいたす最良の時間だったような気がする。探求する碩学の長大な論文に触れている間、喜びに満たされた。早速、宮本論文の感想メモも雑木林だよりに簡単にまとめることにした。 ■10/04 里山冥利 この夏の猛暑が色々なことに影響を与えている中、待望のボリボリ(ナラタケ)が急に出てきた。おとといの朝の低温あたりが引き金になったのか。ただ、今回の多くは、しばしば出会うところの地面から出る傘の薄いキノコ。あまり出汁は出ないヤツ。それでも6,7年前の切り株にはしっかりとオーソドックスな株立ちボリボリが出ていた。果たしてこれからもう少し期待できるのか。かつては山仕事が浮足立つこともあった。黄金ではもないのに、なんかオカシイ。幸福感がなんとなくあるんだよね(-_-;) ■10/03 歌に見る庶民の共感 22 秋分を過ぎて、次は24節気の「寒露」。見るからに秋深まるという印象だが、今朝一番、待望のボリボリが出たぞ~と一報が入った。季節のこのダイナミック性が好きだな~。おとといから、町内の防災スピーカーで、自宅から1kmあたりの山沿いの道路に親子熊3頭が現れたと放送している。私の見る限り、ドングリは極めて少ない。 ◎補聴器を付けても台詞聴き取れず次第に世から遠のいていく 町田氏 I さん …恐らくメリハリ発音の演劇なら聞き取れるだろうと思うほど、確かにテレビドラマのつぶやきなどは聞こえなくなった。先日終了したNHKの朝ドラなんか、それに土佐弁が混じるから「遠のいていく」ことおびただしかった。原因としては話し手の活舌の悪さも、早口のせいもあるから、アナウンサーの声なら大丈夫と言う人が周りの高齢者には何人かいる。わたしも高価な補聴器にして4か月がたったが、外して気づく世の中の静けさも、捨てがたい。 ◎頻尿に苦労したとのエピソードありて茂吉も親しかりけり 東京都 Nさん …夜のトイレ回数と病気自慢、薬談義、これらは70代あたりの憩いと気休めのビッグテーマだ。なるほど、有名人の同じ悩みは励ましになる。わたしもビールを飲まなければ、あるいは晩酌をやめれば、夜にトイレは不要になることを、体験上、知ってはいる。だが、わたしはビールと晩酌をとる。 ◎回転の遅き頭に赤とんぼ 砺波市 Nさん …頭の回転が遅くなったという声には強く共感を覚える。恐らく認知症とは違いそうだ。パソコンのCPUのようなもので、力や形あるものはみないずれ衰える、と一般化してうっちゃるしかない。回転が遅くなると殺気も無くなるのか、良寛和尚のように鳥が頭に乗る、なんてある種、理想じゃないのか。小鳥が手に乗ると、別世界を感じるのだろう。人に止まるもっとも身近な昆虫は、蚊とトンボだ。 ◎同じこと何度も思ふ夜長かな 八王子市 Uさん …よくある話だが、この頃は大人になった。われ思う、ゆえにわれあり、と想念を楽しめるようになったのである。あれこれ思いめぐらすことが無駄でないどころか、楽しみでもある。人間、心底スケジュールに追われなくなると、思い煩って睡眠時間が減ってもなんの影響もないから、そう思うと、思い悩むことがいとおしくなる。それが生きている証だ、人生だ…。小さな悟りがあきらめと一緒にやってくることもある。しばしば、メモしたくなる妙案も湧く。生きている証、夜長も大好きなんて、歳とったもんだ。 ■10/01 見せる景観街道 ~わたしが見た庭と緑 7 南ドイツ・アルゴイ地方~ オーストリアにほど近い南ドイツのボーデン湖からヒュッセンに向かう牧場地帯。ガイドのKOY 和子さんと山の歌に出てくる美しいエンメンタールの話しをしたのを覚えているが、地名は確かアルゴイ地方。こんな風景が50km以上続いた。北海道の景観道路に比べればスケール感の差があり過ぎる。マップを開いたら、ドイツでも指折りの景観街道だった。日本人のスイスやヨーロッパへの憧れの典型のような風景だ。スイスでは子供たちが乾草の収穫を手伝っているのが印象的だった。そしてこの風景が、便利さや文化や人生の満足度、幸せの尺度など、いろいろなことを思い出させる。 ■9/28 人を正直にさせる環境と状態を醸すらしい「樹木と焚火」 いま、ある講演録をパワーポイントの資料をもとに再現している。数年前に自分が数百人のお客さんのまえで行ったものである。なんだかこの講演がこれまでの風土と緑の体験についてもっとも総括的に語れた気がして、主催者に記録の有無を聞いたらテープも活字もないとのことだったので、思い出しながらのひとり作業となっている。 この中で、仏陀が悟りを開いた菩提樹(インドではピパールと言っていたと思う)の話をしたのだが、わたしが気を感じる身近なヤマグワがこれに相当するのではないかというわたしだけの経験から仮説を考えだして述べた。と思っていると、昨日、「火のそばだと人は正直になる」というフレーズが目に飛び込んだ。ある薪ストーブの会社のポエム風広報であった。焚火の前でタレントなどが能弁に語る番組が近年見たのだが、わたしには肌合いが合わなかった。テンションが上がり過ぎていて、正直という雰囲気には見えなかったのだ。自分に正直になる、自分を見つめる、という時間は恐らく独りの時に訪れる。昨今のような犯罪過多の世の中に、焚火や薪ストーブ、ある種の樹木、あるいは林が、なにかしら人らしい気を送れないものか、と思う。今こそ出番だ。 ■9/26 森林で療養するとは? ~わたしが見た庭と緑 6 南ドイツ・ヒュッセン~ 札幌のはまなす財団で街道研究会の事務局をしていたころ、ドイツの複数の観光街道を巡る機会があった。ここはロマンチック街道の南の終点であるフュッセンにあった森林療法の散歩道。森に囲まれて小さな澄んだ湖があり、10月なのに水を浴びる療法もなされていた。医師の処方に従い森を歩く運動療法「クナイプ療法」がまだ盛んだったころで、わたしもずいぶん北海道で森と心と体の勉強もしていたから、森でリラックスする「環境」がピンときた。その2年後の2002年、ちょうど50歳の時、このクナイプ療法の発祥地である同じ南ドイツのバートウェーリスホーヘンに単身でかけることになる。あのころは、療法ができる環境としくみの「採集」に実に熱心に取り組んでいた。それらが現在わたしの「みどり観」の血肉になっている。ここぞというビューポイントにはたいていベンチが置いてある。このような緑の中で、不安を忘れ緊張を解き続けたら、リフレッシュは当然のこと、病気も治っていくような気になった。こういったグレードの高い「みどり」をわたしたちは求めている。 ■9/24 続々・試している大地 上田さんは北海道と苫小牧にさほど長い期間住むことにはならなかったが、風土や社会の見方が是々非々で偏りがあまり感じさせず、切れ味のいい表現をして見せたが、北海道への視線は正直で、つまるところ悲観的で寂しい印象だった。きっと本心はもっときびしかったのではないか。国木田独歩の章では、「…北海道生まれの多くの作家は出て行き、来た作家もとどまらなかった」と書く。そして「北海道は人をどっと吸い込み、、移動させてしまう大地だった」と結論付ける。どういう訳か、夢に満ち溢れた北海道というような、知事がPRするような北海道観では当然なくて、、歴史が浅く風景もどこか寂しく、ビンボーったらしい北海道に共感するような著者の方が、わたしには親しみがある。それを描ける方が一冊の本を残してここにいない、ということがわたしはとても寂しく思う。 ■9/21 続・試している大地 なんだか気になってところどころを再び読み始めた。本人の本職は編集ではなくマーケティングだった。東京で病気になって白老に療養に来たのがきっかけで67歳で苫小牧に移り住んだと書いてあった。北海道への視点は深く鋭い。そして少し悲しい。北海道の女性のことや国木田独歩の空知のことなども章を起こしている。昨日も小屋のテラスである章を読んだ。「はじめに」でこんなことが書かれている。 「…半都市化した街のマンションに住み、消費だけの生活では何が改まるでもなかった。私は道内のあちこちを歩き始め、自分が目を逸していたことが多すぎると思った。北海道のことばかりでなく、人間の力と営みや自然の大きさについてである。広い区画のうねる農地や酪農場、高い山の間に走る電線や鉄塔、深い森を越えたところに見える集落の灯、寒風の漁港に舫っている漁船、もう根が尽きて手が出せないとでもいうように残っている原野や湿原。北海道が人を魅了するのは自然ばかりではなく人間の力と文明を考えさせてくれるからである、と思った」。 原野や湿原の目線はわたしも同じだ。だが、確かな目と筆の力でこうまで読者を立ち止まらせ考えさせる方が、もう他界されたことにが残念でならない。 ■9/19 試している大地 初めて出した拙著の書評をいくつか見ている間に、本の片付けも一緒だったからだろう、表題のなつかしい本にであった。上田榮子氏の、副題は「北海道視記」、帯には「日本で唯一の殖民地だった北海道」とある。東京で編集関係の仕事をして何かの縁で晩年に苫小牧の住民になったと聞いた。コモンズの現場にも足を運んでくれて、雑木林のフットパスを歩きビールでBBQを楽しんだ記憶がある。道新文化センターで文学系の講師をされていたとおり、優れた文芸の才に恵まれた方だったと思う。かつて忘れた頃にメールを出したら、目もよく見えなくなった年寄にメールなどよこすんじゃない、と怒られた。そしてしばらくして亡くなったと聞いた。飲み会などだけでももっとお付き合いして薫陶を受けておくべきだったと、『試している大地』をめくりながら思った。まさに、試されているという思いは共有するからガツンときた。言葉にパンチがあった。いずれあらためて筆を起こそうと思う。しばしば、怒っていた上田さんに、今は合掌するのみ。 ■9/17 歌に見る庶民の共感 21 朝、家人に声を聴かれないようにドアを閉めて俳句と短歌を声を出して読む。なんという健全、なんという庶民のこころ。ここには右も左もない世界がある。いや、当欄は読売新聞だから世間では真ん中よりやや右寄りか?それであってもここだけはノーサイドのこころだ。今日は俳句のみ拾ってみる。 ◎父の日てふ面映ゆき日の暮れにけり 町田氏 Tさん …もっとも、ツーランク上の扱いを受けるのが母の日だとおもっていたら、母の日以外は全部父の日だと思っていた御仁もいたそうだ。確かに面映ゆいこれには古希を迎えた時に、もう気を使わないでいいよ、ありがとう、と子らへラインに書いたことがある。 ◎おほかたは妻に分があり冷やし酒 国分寺市 Nさん …夫婦円満の秘訣はカカア殿下とか、妻の言うことはすべて正しいと思うこと、なんてことが夫側から言われる。これはなかなか意味が深いことが、歳を経ることにわかってくる。少し悔しいが、というところが酒に出た。 ◎水鉄砲おれには本気らしい妻 下妻市 Kさん …夫というのは妻にとって時々憎たらしい存在のようだ、と感じる時がある。奥さんの思いと自己抑制のバランス。絶妙で座布団2枚。 ◎忌に集ひ父似母似と鰻食ぶ 深谷市 Oさん …生々流転、日が経てば失われた人たちも笑顔の中で語られる。妙に、鰻は思い出深い。どこで誰とどんな気持で食べたかまで思い出すことができる。北海道ならとりわけ滅多に食べる機会がないだけに、本州や九州に出向けば名店を探す。そしてさすがだ、と庶民の声をあげる。 ■9/14 生きた記録がホームページに記憶されて 1998年にスタートした当ホームページは、花の Green Thumb Club 、北大の青年寄宿舎、NPO苫東コモンズを枝分かれさせ、この研究室が辛うじて骨格となって細々と生き残っている。レポートや報道記録のPDFなど容量をまとめると膨大だから、外部のサーバーにも便乗していたところが、もう不要だとして外部ドメインの更新をしなかったために、結構重い容量のリンク先がかなりストップしてしまった。1週間ほど前に気づいて、少しずつ修復している。 修復作業の中身は時々の記録だが、目を通してみると随分いろいろなことがあったなあ、と感慨深い。記録によって、記憶がよみがえる。アルバムとは少し違うのは、そこに自分の概念が言葉で受け継がれ、自問自答が描かれ、曲折とちょっとした苦悩を経て現在にに至ったことが見える。年齢的には人生の収穫期と言われる今、仮にわたししか見ないページだったとしても、満足感は薄まらずにある。記録、記憶とはそういうものだと知った。感謝、合掌。 ■9/11 病院の安らぎ、歳をとった人の勝手な仲間意識 人工股関節の手術から2年。定期健診に出かけた先の待合ロビーは、同年配かそれ以上の人で一杯だった。膝や腰や腕、いずれも辛そうである。若くない娘や息子に付き添われている人もかなりいる。眺めているだけで、なにか同朋意識が芽生えるような気がする。これは外科的外来の場だが、事務や会計受付の方を見ると診察料はすべて自動支払機になっているから、扱いに困っている高齢者も多い。しかし、うまくできたもので周りの人がみんな手伝ってあげている。中には看護士や事務員に大きな声でゆっくり説明されても飲み込めないでいる人もいる。小さな声では聞こえないし、早口ではついていけない。高価な補聴器をつけるようになった当方には、いまでも、この早口の説明(特にコンビニ紋切型)にはお手上げだ。病院はそんなわけでスローでかなり安らぐ非日常空間でもある。わたしには残念ながら友達はあまりいないが、勝手な仲間意識みたいな、高齢社会の支えあいを垣間見たような気がして、束の間とはいえ勝手に安らいだ。 ■9/09 ポルチーニか? 小雨の降る中、小屋を起点とするフットパスに入ったら、素晴らしいキノコに出会った。ヤマドリタケモドキ、いわゆるポルチーニではないかと直感した。でも違うかもしれない。イグチにもいろいろあるので、採って食べたりしないが、このアングルで風景を眺めるだけで胸が踊った。 ■9/06 日本人の緑願望は借り物でないか ~わたしが見た庭と緑 5~ 日本人は身の周りの緑に対して、欧米人とはかなり違った感性を持っているのではないかと思う。例えば、上の写真は、緑被率40%と言われるオークランドの住宅街だが、歩いてみるとなんだか緑が多すぎ圧迫感がある。わたしの住む近隣では白老に「林に囲まれたこと」で特徴づける温泉付き住宅地があるが、ここもうっとおしい。霧がかかり冬は寒いところで、緑の過多は良しあし微妙なのだ。友人の先生の協力で帯広三条高校で生徒数百人にアンケートをしたら、通勤時の田園景観など緑には充足している彼らは、ことさら緑の公園など期待していなかった。 しかし日本では、住民一人当たりの公園面積を欧米に並ぶべく、努力してきたし、明治以降、欧米でビックリ仰天した公園のありさまに、追いつき追い越せの精神で懸命に模倣してきたようだ。だが、どうも日本人の公園感覚は、それら都市計画的なものと違う。英国が産業革命による環境劣悪化に、労働者が緑やオープンスペースを求めて暴動を起こした渇望とは、ほぼ無縁なのだ。神社仏閣の境内や、花見の行楽や、土手の花火と、とかく緑への渇望の向きやベクトルが違う。国立公園もアメリカがモデルのようだし、欧米化は喫緊の目標だった。先日、、ひさびさに厚真のニュータウンに行ってみたが、わたしにはやはり暗くて圧迫感を感じた。「緑豊かなマチ」は行政や有識者の喧伝に刷り込まされた結果なのではないか。 ただ待てよと思う。インドの田舎では菩提樹の根元に牛たちが占領して憩っていたし、上のオークランドも陽ざしが強くて日光を遮りたい願望は確かにあった。つまるところ、胸に手をあてて、自分は何を「快」と思うのか、もういちど考えてみて、コツコツと実現に向かうしかない。その思いが都市計画にどう反映されるかだ。白幡洋三郎・飯沼二郎の共著『日本文化としての公園』を読みながら、我が意を得たりといっしょに考えた。日本各地の緑は、近代・現代を経てもうひとつ成熟して次のステージに向かうのではないか。 |
■9/04 青年寄宿舎ホームページの終了に付随して 1898年から2005年まで続いた北大の完全自治寮「青年寄宿舎」のホームページが終了した。ドメインの更新を行わないで自然消滅の方法を採った。縁あって立ち上げと管理人をしていたので一抹の寂しさは残ったが、跡を継ぐ人もいないしその必要もなくなった。北大出版会から発刊した『宮部金吾と舎生たち』が厚みある記録としてあるから心配はない。 ただサーバーの容量の関係で、舎といっしょに保存した当ホームページのリンクも停止してしまった。昨日から修復の作業を始めたら、これが半端な手間ではない。思い出を掘り返しながら、コツコツやるしかない。72歳を前に目前の雑事に熱中することの効用も計り知れない。 ■9/02 雑木林セラピーと読書の小屋 先日から2回に分けて雑木林の小屋に本を運んだ。今回は、坂本直行さんや辻まこと氏らの画文集とフライフィッシング、薪ストーブの本など。あらためて見てみると古い「アルプ」同人の本が圧倒的に多い。山に登りながらスケッチをする、というのは当たり前のたしなみのように日常化していたから、かなり傾斜していたのだろうと思う。 昨年から累計すると森林と林業関係、そして今回合わせて230冊あまり、当時の購入価格を累計してみたら、たったの50万円。ずいぶんとこころと頭の足しになった割に、何と安いものか、と驚いた。廃棄したスライド記録の旅費、フィルム代に比べたら実にわずかだと知った。小屋の位置づけに合わせ寄贈してもおかしくないものに、あとコモンズ関係と森林美学関係が残っているが、いかんせん、小屋のスペースがなくなった。 それはともかく、林を歩き、ひとり読書する場所として、結構いい感じになって来た。読書環境ばかり書いてきたが、里山の手入れの作業小屋として維持するのはもちろんである。それが本命。今日は、道具収納のメッシュパネルなどを取り付けたから、環境はまた少し改善された。 ■8/30 初めてホヤをさばく 雑木林の帰り、近くのスーパーで宮城産のホヤを見つけた。税抜きで一個298円、店から家人にホヤをさばけるか聞いたら、出来ないし全くやる気もないとの冷たい返事。ではと通り過ぎようと思ったが、思い直してかごに入れた。風評被害のホタテの助けにはならないが、近隣の県の海産物はなんとか購入して応援したい、という気もある。何より、いまが旬だ。そしてオイシイからやらない手はない。意外と簡単で、you tube のレシピにあったホヤのカラの出し汁も試してみて、なるほど、これがホヤの持ち味か、と納得した。 ■8/28 日々、疎くなるもの 仕事を終えた頃からの白秋期は人生の下り坂をかつてなくのんびり優雅に過ごす日々とされる。事実、そう実感する。できるだけ周りに迷惑をかけずに、と願えばこそ、要らなくなったもの、例えばの順で、衣服、本、趣味の道具などなど数えれば限りない。数年前から本は整理を始めかなり廃棄して残した一部を寄贈したりしている。記録のスライドもほぼ完了したから、人生下り坂の整理は着々と言うべきか。年賀状の簡便化もしてきたから、人付き合いも無理のない範囲でそれなりに関係の整理も進んだというべきか。そして最後に何を残していけばいいのか。捨てまくった最後には肉親、そしてお金ということになるのだろうか。新聞の人生相談はそのあたりが実に多い。そこを、ぎすぎすしないで清々しく行くには人生最後の知恵比べになるのだろうか。 ■8/26 8月のいい出来事 毎日、熱さと健康に気を向けるせいだろうか、8月が異様に長く感じている方はおいででないだろうか?それはある意味、豊かな日常にもつながりそうな、とにかく悪い感じではなかった。記念すべき良いことは、70年近く体内に棲んでいたかもしれないピロリ菌がきれいに撲滅されたこと。 そして加えて、寝苦しい夜にも焦らず、いろいろ思案することに喜びを見つけたこと。「どうせ、いつでも眠れる」という高齢者の余裕である。迷想や思案を熟慮の一過程と読み替えることもできれば、立派な生産的活動である。8月はこのおかげで、ある原稿を書き上げる決心がついた。原稿が束になれば本になる可能性も出てきた。ひょっとして忘れがたい8月になる。 ■8/24 日記が何故読まれるのか 昨日の雑木林の小屋も、少しも避暑にならなかった。とは言いながら、薪の積み直しなどの手仕事を終えて帰ろうとしたら、テラスの上に微妙に涼やかな風が通った。これはいけるかも、と椅子に座ると、1時間半も読書してしまった。自宅居間の扇風機よりいい。写真のように時折、陽が射すので、椅子ごと、少しずつ移動する。余りの暑さに蚊もアブもトンボもいないので、意外なくらい平穏な読書環境があった。 このところ、メイ・サートンの『終盤戦 79歳の日記』を読んでいる。訳者が言うには「老いと病に負けて生きる意欲を喪失するのではなく、さりとて必要以上に楽観的になるのでもない、著者の等身大の姿だ」。なぜ、つぶやきのような些細な日常描写が「読まさるのか」自分でもよくわからない。しかし、読み続けたい願望が募る。 あわせて吉川英治の随筆も読んでいる。こちらは歴史小説の行間に潜むエピソードと著者の創作、肉声が届いて本編理解の助けになる。やや平板に見えた小説や人物描写が立体感を増すのがわかる。いずれにしても日記や随筆という肩の凝らない読み物は、これからの時間を埋める可能性は大きそうだ。 ■8/22 先人の言葉 何となく自分に自信がないまま歳をとったせいか、先人の言葉を振り返る。安岡正篤、中村天風、佐藤一斉、渡部昇一、沖正弘などの各氏だが、万葉集なども入れての話しだから、かなりいい加減だ。が、虚心坦懐、人としてニュートラルになる時間がやってくる。このところ、しみじみ「いいなあ」と思っていたのは、松下幸之助氏の、「誰よりも熱心にやれば道は開ける」・・・。老人の域に達した人なら結構言いそうな言葉だが、幸之助氏ともなればひと味違うし、さすが、とても励みになるではないか。是非そうありたいものだ。 ■8/20 わたしが見た庭と緑 4 ~薪と花の相性~ 薪は暖房の熱源として生活を支える必需品だが、エクステリアにもはたまたインテリアにも使える小道具である。いまから30年前、オランダの花博「フロリアード」を見に行った際に、フランスはサンフランボーという人口1000人足らずの村で見た薪棚ガーデニングは、素朴さと色合いの両面から、忘れられない目標にもなった。 薪ストーブを使うようになってから、当然のようにわたしも似たようなことをすることになった。飾るという作為でなく、お互いが自然に映える、そんな世界だ。雑木林と花は遠いようで近いが、このようなアングルだと奇しくも本ホームページのタイトルにどうにか近づいたかもしれない。写真は今朝早くの雨上がりに。 ■8/18 注意力散漫と闘え! 老いの兆候をあげればきりがないが、補聴器を使いだしてから「要は注意力散漫に甘えていたのではないか」と思いついた。聞き取れないことをいいことに、聞き流していたのだ。相手の言うことにしっかりと聞き耳を当て続ければ、フォローできるはずなのに緊張の糸を意図的に断ち切って、「聞き流す」癖がついていたのではないか。補聴器ですべて聞こえるようになることはないが、改善はする。しかし、実はこれも無理ないはずで、聞き流しても結構困らないことが多いのである。(-_-;) だが、このたびは少し反省。病院の看護士の話を聞き流して、説明を繰り返されて我にかえった。旅行で道に迷うのも焦る。注意力が散漫な余り、いわゆる「勘」が鈍ってしまっている。アルツハイマーや認知症の予備軍だと思うと笑ってばかりいられないが、老いは病気でない。川柳でも作りながら寄る年波を笑い飛ばして生きたいものだ。 ■8/16 いよいよスライドの大量処分 昨年から書籍や資料の処分を手掛け始めて、今年はためらっていたスライド(リバーサルフィルム)の廃棄に着手した。いわゆる終活圧力のような周辺事情を忖度しての、自己防衛みたいなものか。アソビと趣味半分だから知れたものだが、それでも国内外の山、森林景観や植物、公園、庭などのスライドケースが約25ケースほどあった。 ほとんどがプライベートに属するものだが調査のような旅を伴うものも多かったから、経済的にも結構無理して蓄積されたので、根っからの貧乏性で処分をずっと引き延ばしてきたのだ。が、もういいだろう。レポートや講演などで随分役だったし、あとは気持ちの切り替えだ。なにしろ、ライフワークの記録を捨てるに等しい。これからは、か細くなった脳という記憶にだけそっとしまっておこう。これもそのうち風化してきれいに忘れるのだろう。 プラゴミで捨てる朝、スライドのファイルを窓にかざすとまたぞろ、記憶がよみがえってしまい、小一時間、作業が滞ってしまった。絵にかくような執着と未練である。人生のフェイドアウト対応はかくも静かなものだが、ひとりの充実した時間だ。 ■8/14 私が見た庭と緑 3 理想的な人と緑を連想するときに、講演などで良く使った写真で、場所はベルギーのブルージュのオープンカフェ、1992年だから30年ほど前になる。花飾りだけでなく水のきれいなマチだったから、人々の憩い風景と合わせ、こうありたいと思う緑のモデルとなって来た。 先日、苫東の緩衝緑地の40年の荒廃のような緑の風景を巡って、彼我の差を思い知った。こちらの写真はその点、古都と呼ぶべき歴史と美であり、コモンズのある土地は「開拓期」、あるいは「北海道型開発期」にあたり、自然は目的の土地利用で埋められるまで使いきれないで放置される。緑、あるいは緑地、公園は何だったのか、これからどうあるべきなのか、この機会にじっくり考えてみたい。 ■8/12 育てられるものからのリアクションが、「気」に変わるのか 記録的猛暑だと実感した。朝、10時の庭先の気温が35℃をさしたのだ。午前8時に、この日1回目の水やりをして、お昼にはもう水切れを起こしていたので、夕方も含めて一日に3回、ハンギングとコンテナに水やりをしたことになる。ヘッポコガーデナーになって30年、水やり3回は 初めてのことである。 前日はすこし風があって、随分と花弁が落ちた。大体一日3回は花柄を摘み、掃き、必要な水やりを欠かさないが、昨日だったか、コンテナの花が一段と輝いて見えた。まるで、育ててくれてありがとう、と言われているような、電波のチューニングが合ったような、一瞬があった。不思議なもので、庭先で花柄を摘んでいると、この日は散歩がてらに立ち止まって声をかけて行く人がいつになく多かった。 ■8/10 私が見た庭と緑 2 ~緑の公園のありがたみ~ クライストチャーチは庭と緑に関心を持つ人にとっては、見どころだらけだった。ここは街の中心にあるハグレー公園。大きな病院が隣接しており、車いすの入院患者たちも市民の憩いに交じって過ごしていた。こんな身近な公園に出入り出来たら入院生活も少しは張りがでる。ひょっとして症状も改善されるのではないか。 芝生を挟んで向かい側にあるボーダー花壇。数百mもある長いボーダーだから、自然と歩く速さもゆっくりとなる。苫小牧のイコロの森のボーダー花壇を延々と長くして、大木の森に囲まれた感じ。その大木が、灌木と草本のカンタベリー平原に植えて100年余りなのに、直径がほとんど1mを超えている。地下水脈があり、台風がないからだと、あるガーデナーが教えてくれた。 ■8/8 「日本の50年先の未来」 酷暑だ、台風だと言っている間に、今日は、なんと立秋である。月刊誌「致知」から立秋のそんなたよりが届いた。その致知9月号で東大名誉教授の月尾嘉男氏とJFEホールディングス名誉顧問の數土文夫氏が上のような対談をしていた。かなり悲観的な見方をまず数字で示して、日本はもう世界の三流国になってしまったと述べている。産業の力を示す経済だけでなく国を守る気概やインテリジェンス競争にも疑問を投げている。 數土氏はかねてから古典と歴史に学べと唱え、月尾氏は狩猟、農耕、工業、情報という社会の変遷の次は情緒社会だと述べて、人間学に通じる情緒社会に日本の優位性があると期待も寄せる。月尾氏は以前から、スチュワーデスなどが情緒産業で、日本の特異性が出ていると言っていた。経済の競争から一歩価値観を変えた「定常化社会」とも微妙に違う、まだいわく言い難い世界だ。 その対談を読んだ夜、NHKBSで、今注目のドイツの哲学者・マルクス・ガブリエルの特集を観た。彼の最近の主張は「倫理資本主義」という新しい概念だ。情緒社会とどこか通底したものを感じるのは、計れないソフトだと思わせるからだ。日本はナンバーワンだ、などとおだてられる風評言説はまやかしだったと思われるが、価値観の変化によって日本人のもつ資質にもういちどトップランナーのような位置が転がり込むのかどうか、もうちょっと真剣に耳を傾けたいと思う。 ■8/6 「韓国人」はなぜ日本を憎むのか 上の表題は、呉善花(オ・ソンファ)氏の10年近く前の著作『侮日論』(2014文芸春秋刊)の副題である。過去最悪と言う日韓関係は少し良い方に向かっているという見方もあるが、依然としてその根は深い。氏の指摘は現在も大いに活きている。すなわち、 『韓国人の歴史認識の根本には、「先祖の功績も罪責も子孫に受け継ぐ」という根強い発想があります。そのため、先祖(過去)が受けた被害を根に持つ意識が強いのです。ただ、それが日本人に向けられるのは、歴史の華夷秩序の世界観がもたらした日本蔑視があるためなのです。』 華夷思想が残存し中華帝国への事大主義が残存するので、庶民感覚では中国を父、日本を弟とみなし、弟が兄の韓国に対して犯す不義は許さない、という感覚がある、と生々しく書いている。主として北海道でお会いする韓国からの留学生や先生とはいい印象でお付き合いしたのに、国同士では深い溝が埋められないギャップがずっと気になっていた。「恨」も巷間、よく聞いた。氏の描く中で一つだけ気になったのは、中国大陸の各時代の表現をすべて「中国」と称していること。中国理解を誤らないために、それは「シナ」と呼ぶべきで、時代時代、色々な国が起きては滅ぶ歴史の繰り返しだったことを想いつつ、シナ、China と置き換えて読んだ。 ■8/4 私が見た庭と緑 1 なでしこジャパンが合宿しているクライストチャーチは、美しい庭で有名で、ガーデンシティの異名がある。郊外は、港や工業でにぎわい、住宅地のうるおいは別天地だというこの構図は自分の住む地域のモデルでもあると夢見て、1996年の1月ひとりで見に行った。 毎日、レンタル自転車を借りてピンクのヘルメットをかぶりさ迷っていたら、偶然出会ったのがこの庭だった。たしかクライストチャーチ高校のすぐそばだった。ここで写真を撮っていたら、老婦人が、”Pretty, isn't it?"と声をかけてくれ、主は地元の garden 協会の会長だと教えてくれた。圧倒的な立体感と飾り過ぎないギリギリの彩色。近くにはラドバーン方式の街区コンテストで高名なエリアもあり、美しい街づくりの歴史の深さを教えられた。 ■8/2 豊かさとはなにか 最近、豊かさについて書生っぽい議論を聞くことがない。豊かさや幸せとはなんどろうか、と考えることもたまには必要で、足元を見るいい時間だ。ブータンのGNH(国民総幸福?)もこのところ成りをひそめ、もっぱらGDPである。 ところで、コモンズの森林公園づくりでは、除間伐した材を再生可能エネの雄「薪」として拾い出して利用するが、昨年11月に着手した一連の作業が、7月下旬にようやく終わった。毎年繰り返される大変な手作業だが、お金が動かないまま自家用に利用するので、国のGDPには反映されない。先週はログハウスの防腐剤塗りを3日がかり延べ10人ほどで終えた。これも自家労働だが外注工事費として試算すると、100万円弱ほどの手間ではないかと思う。 基本、家事や奉仕活動は国の経済にカウントされないが、暮らしの潤いには不可欠な存在だ。お金に換算できないモノやコトは他にも多々あるし、友人や近所との関係の中にも同様の恵みが眠る。ルールや自然風土なども、社会関係資本と呼ぶように、市場経済とは異なる勘定の中で扱われる。と、書いていて、なんだ、色即是空の悟りに通じるのかな、とふと思いがめぐる。創り上げる良識が途切れると、意外とはかなく、壊れやすい関係だからだろうか。 ■7/31 満月を眺めて 猛暑の中、時々雨の降る蒸し暑い一日だったが、夜半から満月が顔を出した。今朝、吉川英治の『私本太平記全8巻』を読み終えたばかりだが、南北朝時代前後の楠木正成、新田義貞、足利尊氏、後醍醐天皇などと、同じ月を見ているという共有感に気付いた。実に悩み多い、合戦ばかりの時代を、悩みぬいて生きてきた先人らにこうして思いをはせる時間体験は実は初めてのような気がする。第1巻を手にしてから約半年であるせいか。650年ほど前の世界に、毎日少しずつ浸っていた。決して平和が無条件に与えられる訳でもない時代が続き、人々は戦さに巻き込まれて家や家族を失いさんざんな日々を生きていたと言える。先日訪問した福岡の太宰府天満宮が、大陸からの襲来に備えた防人達の守護府だったことを考えると、何かと難問だらけの令和という時代の年号が、実は偶然ではない縁のある命名だったのではないかとふと思いをいたした。国のかじ取りに不安を覚える今日などはまだいい方で、日本はこの方内憂外患の世情をくぐって辛うじてやりくりしてきたように見えてくる。 ■7/29 伸び伸びと育てること ここ数日は一日2回、水やりをする。歩道とインターロッキングの打ち水は3回ほど。コンテナやハンギングバスケットは、簡単に水切れを起こすから手を抜けないのだ。ただ栄養と水を過不足なく与えることで、かくも伸び伸び育ってくれることを思う都度、自分の子供たちには十分なことをしてやれたのか、反省することがままある。今更、仕方がないのだけど、気休めに思うことは、人間の場合は花と違って自分で修正ができることだ。結局、あとは自分でがんばれ、とエールを送るだけとなる。 ■7/27 真夏の緑 真夏の緑は遠見には黒々として、さしたる感動はないものだが、林道などで木漏れ日に透けて見える葉っぱの涼やかな表情は、紅葉や新緑とタイをはる。そよ風が吹かなくても、涼風の味がする。(静川のログハウスの防腐剤塗布の帰り道に) ■7/25 自然と身近になるきっかけ、さまざま 自然との付き合いは、どうも幼児体験やある種の引率によって始まるようである。親が子供をキャンプなどに連れ出して遊ばせる効用は計り知れないというし、キャンプなどを多く経験している子供たちは、柔軟な考え方や思いやりに比較的優れるというレポートを読んだことがある。 精神科の瀧澤紫織ドクターと、ある時期、「こころの森フォーラム」という小さなイベントを続けていたが、2年にわたって、ナチュラルアートセラピーという英国発祥のメソッドを苫小牧の北大研究林や白老のポロト休養林で開催していたことがある。このセラピーというかアソビは在京の講師・西川直子さんから現地の自然の中で簡単なレクを受けてから、自然素材を使って思い思いのアートを創作するものだった。 写真はポロト湖の沢沿いのフットパスでわたしが創ったアートで、「せせらぎを昇る気の川」という題をつけた。小川にかかった枯れ木の苔のうえに、アマドコロやカニコウモリの葉を並べたものであったが、消えてなくなる瞬間芸のようなものだ。が、これが実に面白かった。魚や昆虫や花だけでなく、こんな自然の入口があることに驚いた。
■7/23 ちりめん山椒 6月の終わりに裏山で採取した山椒で、このところ「ちりめん山椒」づくりをしている。ちょっとしたお土産として喜ばれることで、すっかり気を良くしている。ただ、ちりめんじゃこは結構高いから、スーパーなどで安売りや割安なものを選ぶ必要がある。写真のものは賞味期限ギリギリの半額商品を4パック購入して作った。正規の値段で買えば2、000円近い。山椒は、通常はたっぷり入れて麻婆豆腐や麻婆茄子にするが醤油漬けもある。 平成の初めころ、日本百名山をほぼ登り終えそうだった会社の役員を日高ポロシリ岳に案内した折、山荘の宴でこの上司がザックから取り出してお酒のウケにしたのが、氏が銀座の店で買ったという、瓶詰のちりめん山椒だった。聞けば2,000円ほどだというので、随分するものだなあ、と思った記憶がある。しかし、自分で作るようになってみると、山椒の採取手間など含め、銀座価格が決して高くないことを知った。(写真は冷蔵庫から取り出して直ぐだったため瓶の表面に水滴がついている) ■7/21 樹木の気 近所のカフェのアジサイが盛りだ。毎年、今どきは旺盛な気を発する。樹木の気について良く学び体験していた10年近く前、こんなことを書いていた。今も思いはかわらず、失っていく気をなんとか補いたいなどと、時々思う。 「俗に花鳥風月と言われる。作家・松岡正剛(せいごう)によれば、これは自然のパワーを感取するアンテナだという。わたしはこの説に痛く感動したことがある。「しかり」。 西行は4000の和歌を詠んだが、そのほとんどは自然風景の描写だった。西行にとって風景を謳うことは、お経を唱えるに等しかったという。日本の国土そのものが仏土だということに基づいている。 森羅万象のなかで人は生かされているがいま、人々はアンテナを失い、自然を謳うことの頻度は著しく落ちたのではないか。でも、わたしを含むごく一部の人々の間では、花鳥風月から、加齢とともに失せてきた気をもらい、かつ理性ばかりでなく感性で見ようとしている。 どうもそれが自然体というもののようだ、と割り切った。そうか、それならばこれから先は流れに任せよう、と相成った。」 ■7/4 ハスカップの元気がない、サンクチュアリも人気が消えた かつて、ながらくフォローしてきた勇払原野のハスカップ自生地、通称サンクチュアリに行ってみたところ、経験したことのないほど踏み分け道は灌木と雑草が繁茂し、歩くこともできない。これでは、地域の慣習だった市民のコモンズ的アクセスなどとても受け入れない状態だった。しかも、枯死も目立ち、ようやく実を見つけたのがこの写真。実は一粒、しかも10mm程の小さいものだった。ハスカップ自生地は大きく改変していないか?自然現象か、社会的事情か。(2023/07/04 道新「卓上四季」の関連記事) ■7/3 歌に見る庶民の共感 20 人生がなんとなく意味ありげで深く見えるトキやコトやモノがある。その一つは、歌壇俳壇であり、よその土地への旅行であり、そしてわたしには今、「駅ピアノ、街角ピアノ、空港ピアノ」。今日は歌壇俳壇の20回目で一言献上。 ◎テレビでは好きで良く見た時代劇台詞聞こえぬ身となりて止む 竜ヶ崎市・Kさん …TVのドラマで、ボソボソ語られる台詞がわたしも聞こえずボリュームを上げてきたので超共感。が、ついに断念して先月、高価な補聴器を買った。「聞こえないのでやめてしまった」のはもったいない。先日古い時代劇を見てみたら、最近のトレンディドラマと違い、結構音声が大きい。これも聞こえないとなると生活も不便だ。きっとお困りだろう。聴覚障害の3ではサイレンの音も聞こえないという。是非、改善を。 ◎じいちゃんの帽子にトンボが止まってる優しい人を知っているのだ 守谷市・Kさん …そうだよねえ、トンボが止まると嬉しかったもの。小鳥が止まるともっと嬉しくて、冬になる良く試して、冬、遠方からお客さんが来ると手乗りスポットに連れて行った。みんな、心のどこかで良寛和尚のようになりたいのだ。あるとき、別の場所でわたしの頭に小鳥が止まったのを見た人はびっくりしていたっけ。解脱した仙人のように他言されたか。 ◎閉店を告げる貼り紙よく見れば小さな文字の寄せ書きがある 可児市・Aさん …コミュニティのつながりを感じます。こういうマチに住みたいな、とも。また、こういう商いをしたいものです。店主の人徳とも言え、きっと店主はこの寄せ書きを額縁に入れて記念にしただろうと思わせます。 ◎芋虫が春には蝶になるというこの信じがたきこの世の仕組み 宮崎市・Nさん …仕組みの基には万物をつかさどる神様のような存在がいて、生命科学研究者・村上信雄氏はそれを something-great と呼んだ。言いえて妙だ。地球全体もホメオスタシスと呼ばれる恒常性によって保たれ、源はガイアと呼ばれる。森羅万象の中で何もしないで集中すると、自分もその中の一つの生き物として生かされていることを感じる、ことがある。合掌 ■7/2 新緑からひと月の夏緑本番 数日、パソコンの調子が悪く原因調べで更新が途絶えました。原因は結局 wifi ルーターの寿命でしたが、買い替えに至るまでネット関係各所のオペレーターやロボットに相談し、これだ、とこぎつけたのは昨日の午後でした。フー (-_-;) でも、さすが70代、少しも慌てる必要がなくひとつひとつ駄目をつぶして得心のいくところへ。ITの故障は往々にしてストレスなのですが、時間に追われなければ、そこそこ頭の体操として楽しめます。 さて土曜日は朝方までの大雨のあと、静川の小屋へ。やり残した薪を割り、まだ終わっていないフットパスをブッシュカッターで刈りこみました。ササのほとんどないところなので、落葉を蹴散らしながら、しかしなかなか良い径です。もう深い夏の緑ですが、気持ちのいい時間が過ごせます。 ■6/28 ドクガ、恐るべし! ドクガ事件から1週間、6/27 今度はお腹が赤くはれてまた皮膚科へ。昨夜は猛烈なかゆみで眠れなかった。なぜ再発したのか思い当たるところを探したが、土曜日の刈り払いでウルシのつゆが当たったかと推測もした。しかしそれなら手や顔にだって症状は出るはず。 そこでドクガのことをもっと調べてみると、毒針毛は服に残るとあり、活力も何日も落ちないので、洗濯してもアイロンをかけるか、50℃以上のお湯でで洗え、となっている。わたしの場合、愚かにも、発疹が出た日の作業ズボン(1時間半の作業、発疹は上半身だったから)を土曜日の山仕事ではいた。これがいけなかった。毒針毛がしっかり残っていたのだ、と思う。だとすれば、すごい威力だ。 ■6/25 デビュー待つ花たちの勢い 6/1 に盛り付けベランダ内で養生していたハンギング・バスケットの花たちが大分盛り上がってきた。一鉢100円以下の花ばかり、それも店頭では白い花などすでに抜かれたあとで、店主は入荷の予定はない、などと冷たくそっけないものだから、赤とピンクが圧倒的に多くなった。しかし、結果オーライ、静かな町内では圧倒的に派手なインパクトが出る。 「いい歳こいて、派手過ぎないか」「ワンパターンでないか」など色々、ご感想が浮かびそうだが、花々がもつ「咲く力」を目いっぱいに引き出して見せることは、この年の天候を占う意味でもわたしは十分楽しい。「気」を計るような意味でも。 さて、満を持していつ表に吊るすか?ハンギングの教科書的にはコンテナのエッジが花で見えなくなるころを目安にしているようだが、今日の好天でこれはカバーできそうだ。それにハンギングは吊るした方がモリモリと円くなるスピードが速いように感じる。だから、デビューは明日か明後日あたり。 ■6/22 足利尊氏と時代 吉川英治の『私本太平記』の第6巻目を感動のうちに読み終えた。西暦1300年前後の武将たちと天皇の歴史を垣間見たいと読み始めたシリーズだったが、楠木正成、新田義貞、そして足利尊氏の絡みや背景がなんとなくつかめるようになった。 とは言え、あまたいる各地の武将と天皇と親王の系図などとても頭でイメージできるわけもなく、その辺は不問でとにかく読み進んでの話。ただ、「私本太平記」はもととなる軍記物語『太平記』が1370年頃に書かれたと歴史関係書に記載されているから、風物や戦のありよう、民の暮らしなどは、ノンフィクションと見ていいようで、その観点で驚くのは戦の様子である。勝ち馬乗りよろしく、寝返る武将も実に多く、生きる糧のため、職業的な雑兵として塊で右往左往する。ウクライナと露の戦争の職業軍人を連想した。 また戦の途中、同じところに何日も滞留すれば食料にも困り糞尿とともに暮らさねばならないという。第7巻はいよいよ南北朝に入り、尊氏が征夷大将軍になると、別の歴史年表にはある。これら、詳細な史実の記録のおかげで、歴史上の人物が少しずつ太い点線でつながり始めるのが何ともうれしい。歴史に無知な余りの、古希以後の思いがけない収穫である。ただ、この本は軍記物語であるせいか、源氏物語と違って、花鳥風月、風土描写がほとんどないのがやや味気なく感じている。 ■6/20 ドクガにやられる 昨日からお腹、背中、脇腹、腕、腰と所かまわずボツボツと腫れて赤い斑点が出て、上半身が猛烈なかゆみに襲われている。日曜日は朝からチョウセンレンギョウを電動トリマーで剪定して、カリンズとイボタも刈りこんだので、その間にヌカカにやられたと思っていた。かゆみが市販のかゆみ止めでは止まらず、古老のMさんご推奨のなんでも効く万能薬・塩をすりつけたが、これでも睡眠が中断するほど。予定を変更して朝一番に皮膚科に診てもらったところ、ドクガだった。ドクターは一瞥するなり言ってのけた。今年の苫小牧は早くから発生しているようだ。剪定の前後に十分点検して毛虫などまったく見当たらなかったのに、恐るべし。わずかの毛虫の毒針は風に飛んで服の上からでも刺さるらしい。今年、大発生なら、フットパスの刈り払いなど要注意だ。 ■6/17 無為のセラピー 今日からしばらく、フットパスの刈り払いを続ける。といっても、もう若くはないから休みやすみだ。刈り始めて15分、見上げると枯れ始めたカラマツに混じって大きく葉を広げ日射を遮っているホオノキがあった。刈り払いは行動的冥想に似た作務である。心身の疲れをとるのに持って来いである。 休み時、小屋に戻ってテラスの椅子に座って目をつむると、折からの蝉しぐれと、林を渡る風の音、さらに小鳥たちの声が一帯に満ち満ちて、それらに引き込まれるようになる。何もしない、何も考えない無為の世界。この無為というのも、齢白秋期に達した高齢者に与えられたセラピーのようなものか。追われるものもなく、意識すれば無為のままいくらでも時間が過ごせる。無為自然とは言いえて妙だが、若いころは決して容易に入り込めない世界だ。 ■6/14 歌に見る庶民の共感 19 ここ1週間、霧か雨か曇りが続く。木々や花を見ていると、まんざらこんな季節が嫌ではなさそうでむしろ緑は濃くなったようだ。今回は最近の俳句から。 ◎補聴器に澄む鳥声や夏来る 海老名市・Yさん …当方も本格的に補聴器使用者となった。この利器は、先日の探鳥の時に威力を発揮した。5月の新緑のころ、大きな鳥の声の背後に無数の星のような小鳥の声が充満していた。「澄む」に実感籠る。ようやくわかった。 ◎葉桜や子等に友達出来る頃 松戸市・Wさん …一年生にとってあっという間のできごとだろう。目に浮かぶ光景だ。希望に満ち満ちて、光っている。それを見ている親はもちろん、オジサンオバサン達も元気が湧いてくるような季節。巷では「子供の貧困」などという言葉が徘徊する今日、社会の片隅で胸を痛めている大人たちも少なくない。どうすればよいのか。 ◎母の日や長子包丁研ぎに来る 川崎市・Nさん …やさしい長男、手づくりのプレゼントだ。出刃包丁も研いで、アジか何かを軽くさばいて行ったりして。親子、兄弟、つまりは家庭や家族がこのごろ軽んじられていないか。LGBT理解などというポリコレまがいの妖怪が跋扈していることと、家庭崩壊はどこか同根に見えないか。この歳になって、親の気持ちが本当にわかるのも皮肉だが、親のこころ子知らずと呟いて遅まきながら天国の親に感謝。 ◎抽斗(ひきだし)に詩集隠しぬ新社員 相模原市・Hさん …あるある。仕事と文学の間にはきっと大きな裂け目が見えているのか。引き裂かれるのか、詩を編むような仕事に仕立てていけるのか。昔、仲間内では「道楽でないといい仕事はできない」などと放言していた人もいて、その言葉に憧れている人も少なからずいた。今も、そうありたいと思う。 ■6/12 シカの食害と植生変化 北大の苫小牧研究林でみた実験施設。シカはここのミヤコザサを食べ尽くし、かなりのところでオシダが残るだけになった。かつて見たドイツやフランスの広葉樹林のように、林床植物がシンプルになる。それもいよいよとなると、オシダも樹皮も食べられる。獲って食べる習慣が余りない日本人とは言え、かくも植生を蹂躙させて良いものだろうか。苫東緑地も課題は一緒だ。 ■6/9 オーラルヒストリー『安倍晋三回顧録』 近年、安倍元総理ほどマスコミからの非難と集中砲火を浴びた人はいない。そして一般国民の声を装った誹謗中傷をこうむった人もいないのではないか。つまり新聞とテレビという既存メディアを見ている限り、日本全体が反対しているような風景があった。わたしの周りでも、アベが・・と呼び捨てにして批判というかマスコミの言うことのオウム返をしする人は多くいたが、マスコミはそれを増幅させ、著しく均衡を書いた偏向報道で世論をリードしていた。 加計学園の問題で国会に参考人として出席した加戸守行元愛媛県知事の答弁を最後まで見ていて、なるほど、現代日本のマスコミはこうして民意を誘導するのかとあらためて唖然とした。当事者として当時の事実を伝えた元知事の発言を完全に黙殺して報道せず、一方的に前川喜平氏の言い分だけを報道されたことにより、民は「やっぱりか~」とアベを酷評することに自信を得たはずだ。加計さんは元首相と同じ大学の友人だったというだけでかくも争点を捻出されるのであった。森友の方も注意深く探らないとそのアヤはなかなか見破られなかった。悪意の当事者は巧妙な嘘をつく、少し面倒な「劇」だった。 ところで何かと話題になったこの本は、暗殺の結果として世に出たのは皮肉であったが、日本の政治状況を内から外から見つめるのに大変興味深い、稀有で貴重な一冊だった。日本の置かれた現状を感じ取るにも別格のものだった。内外の情報の渦のなか、外交、経済、安全保障、教育などなど、想像を絶する難問の懸案を、現状では最良と思える国益を目指して、よくもその激務をこなされたとみるのは、衆人考えることと同じである。オバマやトランプ大統領と個人的なリアルなやり取りは特に面目躍如だった。だから、ゆっくりと少しずつ読み進んだためにもう初夏を迎えてしまった。そしてこれは世界中が激動の今、政治の感覚をハイにしておく意味で便利でもあった。 ただわたしは安倍元総理が現職だった当時から、この総理がどうしてこの選択をするのか、疑問を抱いていた政策があった。それは移民政策である。「これは移民政策ではない」と公言しながら、実は促進する方に進むのが目に見えた。難民申請の問題、入管法改正など知れば知るほど国益を損なう。日本はいつも世界の流れから1周も2周も遅れるのである。ベストセラー『西洋の自死』で暴かれたように、ヨーロッパは難民の受け入れと移民政策の失敗で、大混乱と治安の悪化で悲劇が起こっている。過剰に労働移民を受け入れて深刻な社会問題に直面している。それなのに、日本は移民政策に似た策に邁進している。世界はLGBT理解推進の誤りに気づいて法案など作らなかったのに、日本は与野党ともに国会に上程しているのも同じだ。G7各国は法案があるというウソまでまことしやかに用意された。グローバリゼーションと称する人と経済の国境の撤廃でめざすのは経済難民であり、自国を捨てた経済文化タダ乗り移民ではないか。自分の国は自分が守るという鉄則が近年はまぶしく見えるのである。 ■6/7 昨日は二十四節気の芒種 本州ではジュンサイ採りが始まったようだ。今年こそ、季節の山菜として身近な海跡湖で自生するそのジュンサイを採取するつもり。カヌーや船は今手元にないので、釣り用のウェイダーをはいて岸辺で試してみる予定だ。 昨日は芒種。芒種とはタネを播くという意味とは言っても、どうも季節感がいまひとつ湧かない。田んぼを直播きしていたころの話だろうか。郊外はそろそろ田植えのころか。天候がこのところ不安定で、本州以南では大雨の被害が出ているけれども、北海道は実はは正月から、穏やかな気候が続いていて、海霧の発生も大人しくて良い。 ■6/6 100円以下の花で作る庭 ガーデニングのブームは、わたしが苫小牧で Green Thumb Club の代表をしていたころ(1992年から約10年)に比べれば、ずいぶん下火になったような気がする。わたしの周りでは庭づくりについて少なくとも派手やかな風景というか、雰囲気はなく、野菜づくりと並ぶようなものなったと思う。従って、残念ながら、町内を散歩しても意欲的で胸躍るようなガーデニングに出会うことはあまりなくなった。ただ、前のめりなブームに踊らない感じは、悪くないと思って見ている。かつてのガーデニングにはちょっと社交界的な面もあったような気がする。こうなった背景には、給料は上がらないし、ガーデニングの主役となる女性に、時間の余裕もないのだろうか。 そんななか、古希を超えた年金生活のオジサンは、今年も6月1日にハンギングバスケットを大小4つつくり、今日はコンテナなど10個あまり仕上げた。使った花は100円以下のものを約100個、土は昨年使用したピートモスをふるいにかけて再利用したので、15,000円ほどで済んだ。モットーは、「安い素材」を「モリモリに仕上げる」こと。わたしが顔を出すお店は、品数も量も豊富だが、近年の花は品種改良などで多品種で、かつ、高価だ。年金生活者にはちょっと贅沢に見えるものばかりだ。目新しいものより、花苗そのものの持つモリモリ感を かつて Green Thumb をもつガーデナーをめざした一人として、育ててみるだけである。だから恥ずかしいほどクラシックである。これから20日ほどはベランダの内側で養生し、バスケットのヘリが花で隠れてバランスが良くなったら、カーポートに吊るしたり、壁に掛けたりして表に出す予定。 公道に開かれた庭は、自分が住むコミュニティへの welcome のメッセージであると同時に、美しいマチにしたいという希望の表現でもある。日本の森づくりの多くは依然として欧州がモデルとなる庭づくりが主流で、たしかに彼の地を見て歩くと、個人の庭や街並みのグレードは高く、さりげないセンスも高いように感じられる。「こんなマチに住みたいな」と思わせるマチに花や造園の役割は感じられた。 一方で、日本庭園の落ち着きや朝顔などに代表される庶民の庭は格別の趣がある。近年多くなった本州以南の旅行では、各地で古刹名刹を訪れることはしばしばである。手入れされた野菜の庭なども好きなひとつだ。庭づくりは、雑木林の森づくりや里山の景色と同様、身の周りを気持ちの良いイヤシロチにしようという祈りが込められる。 今日は小さな庭のちょっとした作業なのに、フー、非常に疲れた。まるで山仕事より疲れた気がする。3時ころに、ひとり打ち上げのビールを手にしたところ、いつのまにかまどろんでしまった。ガーデニングの、コマネズミのように動くあの動作は、結構の負荷がかかるのだろうか。今日は早々に寝ようと思う。 ■6/3 雨の小屋 遠浅での朝一番の打ち合わせを終えてから、単身、静川の小屋へ。途中だった丸太の運搬を終えて数本割ったころに雨足が強くなった。ちょうど12時で、午後は雨が上がる予定だった。 しかし、延々と雨雲は押し寄せ、仕方なく、雨脚が弱まるまで、窓のそばにいた。もちろん、薪ストーブを焚いてであるから、小屋生活そのものである。こんな時、ヒュッテンレーベンに切り替えられるところが、作業用テントと大違いだ。室温は26℃になって、眠気を催したりしているうちに、結局、雨は止まず、3時ころ、小屋を後にした。雨の小屋も実にいい。苔が生えた屋根のスレートは雨音がしない。ただ、灯り採りのため昨夏新設した窓は、このような薄暗い日には、読書するにまだ不十分だった。 *薪の分譲について 朝のミーティングで、薪の自賄い分に若干余裕が出てきたことがわかりました。勇払原野の雑木林を除間伐して創り出した「雑木薪」(令和4年春割り積み、乾燥十分)を、現地引き渡しですが対応できます。ご本人、または周りの方でご希望の方がいらっしゃれば、是非、わたしか、または苫東コモンズの掲示板 ↑ にご一報ください。 ■6/1 早朝のベランダ冥想 庭にまだ朝日が射さない時刻に、ベランダにヨガマットを敷いて小一時間、冥想した。気温は10℃前後だから、暑からず寒からずというにはちょっと寒いので、もちろん、パジャマの上にいろいろ着込んだ。空は快晴、虫も騒音も気にならない格好の朝である。 外で行う冥想は格別で、地面に近いこと、外気に直接触れていることのせいか、土地との往来感覚がある。その結果、自分という存在の、宇宙と時間の中の位置みたいなものがなんとなく感じられる。換言すれば、自分の絶対値、のようなものか。 森林療法が縁で、かつては森林の中のセラピーのフォーラムなどをともに手掛けてきたことがある精神科医のTさんは、現在のこころの病理から人々を救うには、精神医療の段階ではなく、もはや冥想しかないという意味の発言をされて、瞑想の普及に力を傾注しておられるようだ。たしかに、日々報道される犯罪のほとんどは、楽な金儲けか、人間としてのこころのあり方、なんらかの病理性が動機としてからんでいるように見える。自分のころろでありながら、ほとんど持て余している状態かもしれない。そもそも人のこころというのは、脆弱にできており簡単に折れるようだ。そこに教育も世間も親も、本当のコミットをしなくなったから、当然の帰結のようにも見える。冥想のメソッドはそこになんらかの救いの手を提供するように思うが、社会が認め到達する道のりは現状では遠すぎる。 ■5/30 ご当地ラーメン 旅先でその土地ならではの名物料理をいただくのは旅行の愉しみの大事な要素。昼食はその点、比較的安く庶民も付き合える逸品である。そのためには多少並ぼうが、遠かろうが、手間を惜しまず付き合う。 今回の旅行では博多でまず「shin-shin」 の列に入った。前後は台湾人のような人もいた。「長崎ちゃんぽん」は長崎駅そばで、左下の熊本ラーメンは土地の人にすすめられ山の中の「若竹食堂」。熊本の山仲間が連れて行ってくれた。家人が卓に置かれていた梅干を褒めたら、オバサンが袋に分けてくれ、調理していた息子さんは「ついでに借金と婆さんも持っていって」などと冗談を飛ばした。最後は博多空港の搭乗ゲート内で見つけた「一蘭」。東京は有楽町で食べた「中蘭」の絶妙さに唸った時、修行元はこの「一蘭」と聞いてマークしていたが、博多の中心街の本店には訪問できなかったので実にラッキーだった。さすが、うまい。 ■5/28 出島の余韻 苫東緑地計画の背景にあった公害、特に水俣病資料館を最終目的地にして九州を旅行した。水俣の話は「雑木林だより」に書くことにして、ここでは特に印象に残った長崎は出島について。長崎は雑木林をテーマにしたホームぺージやSNSで長崎在住の「まつを」さんと知り合い、当地の文化レベルの高さを拝察していた(今回は畏友まつをさんには連絡を取らずに駆け足訪問)。長崎の原爆資料館を含め、初めてみる長崎を「体感」した。振り返ってとりわけ印象深かったのは出島。奥行60m横の長さ200mという、ちっぽけな離れの島に、世界の情報と文化と物資を集中し凝縮させ、ここから日本の発信もしていた。世界地図と日本と北海道をも繋ぐネットワークのかなめ、出島。開拓が始まって150年、自然優先の北海道にいて、聞き覚えて出来上がった想像を越える世界が見えて、まだあまり頭の整理がついていない。一つ言えることは、己が井の中の蛙そのものだということ。ガツンとやられた感じ。 ■5/21 新緑冥想 5/20 朝、探鳥会を終えてから単身フットパスの枝拾いに出かける。間もなく開始する刈り払いに備え、事前に落ち枝を径から除いておくのである。そうすると、ワイヤーや鋸刃の支障にならないし、時に刈り払い動作を中断して拾う必要がない。奥のベンチに差し掛かると、いよいよ新緑は本番を見せていた。数日前はウグイス色だった。 この時期の新緑冥想は格別である。座って冥想の態勢をとると、小鳥たちのさえずりのシャワーと新緑の「気」のようなものが降ってきて、虫や風などがなんら邪魔しない。土地の風土をつかさどる神のようなもの、産土(うぶすな)がいらっしゃれば、こちらの真我とつながる格好の条件となる。人の幸せは様々だが、土地とつながっていると感じることの幸福感をわたしは一番にあげる。一年、365日は数多の時間だが、出会いのチャンスはそうそうないもの。 そして今日は24節気の小満。朝からの雨で気温は上がらないことを想定して、今季最後になるだろう、薪を焚いた。 *あすから週末まで、当ブログの更新をお休みします。 ■5/19 樽前の浜 自然海岸、樽前の浜へ。気象図 windy で見ると、久々にフライを振るには都合の良い北風だったから。それに弁天浜でサクラマスやアメマスが釣れるなら、ここだって可能性はあるはず、と実は初めて来てみた。冬や春先の日本海なら完全装備は必須だが、5月のここは、軽装、車横付け、足元は長靴のまま、そして家から15分あまり。 しかし、そばでカレイ釣りをしていたおじさんは、「サクラマス釣った人なんか見たことないよ」と自信をもって言う。アキアジのころはもう錦多布の河口に行くというこの方は、ささやかな焚火をしていた。確かに焚火をしに来るだけでもいい。打ち上げられたゴミだらけの砂浜だが、写真のように水際はさすが自然の砂浜風景で、ボーフーは内陸のゴミのなかにポツポツ、そこそこある。が、弁天浜ほどではない。ボーフーは絶滅、なんてことはないことはわかった。 ■5/18 健康で至る老いという身体の自然 一昨日から昨日今日はさながらメディカル・デイと言ったところか。このところ我慢してきた首と肩の痛みが、整形外科のMRI検査で、正式に頸椎椎間板ヘルニアと診断された。昨日は歯の治療をし、おととい、耳鼻咽喉科で聴力検査を経て今日は午前に補聴器専門店に装着の最終的な相談に行く。午後は、首と肩を揉みほぐしに。 いずれの検査、治療も、歳相応と思われる。かくなる上は、この態様を理解して養生の段階と理解すべし、という内なる声が聞こえる。これは身体が歳を経て少しずつ機能を失ってきた結果であり、病名はつけられたが病ではない。そんな身体という「自然」にもそれなりに付き合おうと思う。 ■5/16 霧の中の新緑 霧の苫小牧を嘆いていたころ、「苫小牧や釧路の霧の日もいいね、光線が柔らかくて気持ちが休まる」とある年配者に言われた。たしかにそうだ。霧雨に濡れても、心を洗濯するような趣がある。今日は家人と山菜採り。この時期の山菜は、一期一会と思うせいか、毎日食べても飽きない。。 ■5/14 人の行かない秘蔵の風景 はるか昔、苫東の平木沼緑地の広葉樹林を保育するようになって数年後のこと、一帯がどうなっているか踏査しているとき見つけた名もなきルート。折角だから、それに名前を付けた。その名も「まほろばコース」。ヒグマの出没が多くなったり、股関節の手術をしたりでトレースするのを控えていたが、ちょっとした時間ができ天候も良いのでおそるおそる独りで出かけてみた。土地の買収前後から何十年も人が訪れていない秘蔵の風景で、かつて目印につけたテープがひとつも見つからなかった。劣化するに十分な時間が過ぎていたことを意味する。 ■5/12 スドキとコシアブラ 素晴らしい雑木林の季節になった。ただ駆け足で過ぎるから、こちらも散策だけでなくいろいろ方策を組み立てて様々な方法で堪能する。わたしにとっての山菜の女王・スドキはこれからようやく本番。明るくなった除間伐跡地でもしっかり出ているのを確認して、小さなかごに少しだけ採って帰って、家庭菜園の野菜を分けてくれる隣のご夫婦に1回分を茹でてから差し上げた。スドキは毎日、朝昼晩続けて食べても飽きないが、昨年、茎が中空であることに気付いて、空心菜のような中国料理に仕上げてみたところ、なかなかよろしかった。 昨日はコシアブラも見つけたから、ごま油と醤油で炒めて昨夜の晩酌時に少々味見してから、今日のお昼ご飯にオニギリにしていただいた。天かすを少々混ぜた。やはり絶品だ。北海道では幸か不幸か無名だが、コシアブラの混ぜご飯は、ネットでも有名なレシピになっており、地元の古老もノーマークだったのは北海道らしくて面白い。木の芽の天婦羅と言えばタランボなのだ。 ■5/10 歌に見る庶民の共感 18 季節が規則正しく巡ってくることは慶事ではないだろうか。太陽も月も天体すべてが大きなリズムで確実に動いてくれることに、底知れない安堵を覚えるのは、裏返すとそれほどまでに日常が事件や天変地異に見舞われている証かもしれない。 そんななか、先日は『勇払原野のspirit』なる広報誌をリリースした。受信した購読者は数10名で、読んでくれる人はその中の一部。しかしこれでも、固定の読者が数名いてくれる。それだけで充分だ。 庶民の歌と共有感覚はどうもそれに近いような気がする。確かな共有、不思議な連帯、そこに安心と喜びがある。 ◎孫娘はわれに眼鏡かけさせて「この本読んで」と隣に座る 藤沢市・Hさん …この愛らしい光景はわたしにも経験がある。既視感を覚えた方も多いはず。この頃のSNSでは、ハイハイする赤ちゃんに、愛犬がハイハイをして見せたりするから、頼る、ねだる、教え教えられるというのは、哺乳動物として身に着けている遺伝的な素質なのか。このような素直な情動を、あたたかく育ててあげれば、人は大きく外れないはずなのだが。 ◎蚕(こ)しぐれという音おもい冨岡のみやげに求む桑の葉のお茶 狭山市・Fさん …子供のころ、実家でも副業として養蚕をやっていて、蚕へ桑の葉を食べさせる仕事は小さな子供でもできるからよく手伝った。桑畑で桑の葉を採るのも桑の木は低く枝が柔らかいのでこれも手伝えた。食べ残しと緑の糞はサイロで発酵させヤギや羊に食べさせた。その蚕が葉を食む、いわゆる蚕食時は、たしかに「しぐれ」のようなシャーシャーという音がした。しかしお茶は知らない。新幹線のこだまがデビュウした時、その先頭車両の姿が、蚕の頭部とそっくりでびっくりした。 ◎「拉致」は保護、「侵略」は解放なりといふプーチン監修きらきら語辞典 結城市・Fさん …嘘を言うことに慣れていないし、言いこめる訓練もしないから、われら庶民はとんと自己宣伝合戦には弱い。ことここに至って、世界はプロパガンダの饗宴になって来た。特に痛ましいのは、命令ひとつで命を落とさせる独裁者と、その下に、騙されてか信じてか、死んでしまう父や息子らが数多いること。操られたその集団が押し寄せないとも限らない経験や初。そんなことはあるわけがないと信じて疑わない「お花畑」という表現が生れて久しい。 ◎匿名は善行のとき使うもの他者を攻撃するときではなく 上尾市・Sさん …まさに。匿名性の情報通信の極致がAI、あるいはチャットGPT。この人、インチキかもしれない、この話は作り事かも、と最初から疑って付き合うなんて面倒だ。匿名だからと安心して自分より社会的立場の高い人を罵っても、実際の自分の値打ちまで上がるわけもない。この勘違いは止まらない。朝には太陽が昇るように、春には緑が萌え、寒い冬も来るように、生き物は生まれていつか死ぬように、自分という存在と、発するものに責任がある。頻発する前代未聞の事件の裏に、この匿名という表出方法がデンとある。 ■5/07 薪運びと薪積み 毎年の恒例家族行事、薪運び、薪積みがほぼ完了。2トントラックで運びきれなかったものが若干有ったので、昨年秋に育林コンペのマイエリアで間伐した丸太を 5/9 に割って運べば完結。だから実はまだ先がある。一年の区切り感覚というものが薪の動向で大きく左右されるのだ。それと、この風土に自生する季節の山菜をしっかりと食べたのかどうか。川エビやホッキや、苫小牧沖のトシラズを十分堪能したか・・・。ひとつひとつこなしていって、つまり季節を五感で味わって、時間を過ごしていく・・・。今月は樽前の前浜で、サクラマスをねらってフライロッドを振るという儀式がある。 インターロッキングに散らばっている黄砂のような粉は、昆虫などによる薪の食べくず。これというのも丸2年乾燥したもののせいだが、おかげで薪同志がぶつかるとカランカランと金属のような音がする。物置前に積んだ薪(写真右)を見て、わたしは、色々な広葉樹を適当に混ぜ合わせたこの雑木の薪が、つくづく好ましく思える。カラマツがほんの少し混じっているのも愛嬌である。色々なサイズの雑木が個性ある凸凹丸出しで活用されているから、積む技術だけでない暴れ方をしている。それならばと、雑に積んでいったら益々アソビの多い棚が出来上がった。こういうことで、いちいち満足と幸福感を感じる自分を、心底祝福したい気分だ。 ■5/04 サクラ植樹への反発は正しかったのか 旧苫東の時代に、道道と国道234号の交差部の修景に、若手スタッフのプロジェクトとして関わったことがありました。採草放棄地に木が生えだした荒れ地だったので、工業基地・苫東らしい景観創出をめざしました。時あたかも「苫東の景観形成」という有識者会議に関わっていた前後です。広々とした草地の向こうにオレンジ色のTOMATOH ロゴが目に入り、接続するランプ両側は緩やかな法面で法肩には造林地から樹高5m以上のアカエゾマツを移植し、並木状に仕立ててナラの成木をシンボルツリーとしてドカンと移植しました。 この修景は法面にワイルドフラワーを混ぜたりして一定以上の評価がありましたが、その後、社長が何代か変わった中で、ある社長が「この広場は殺風景だからサクラでも植えなさい」というトップダウンを下し、高さ2m程のサクラの木が何10本か植えられてしまいました。これには大いにがっかりしてしまいましたが、もう部外者なのだからあきらめるしかありません。 ところがそれから20年近く経った数日前、毎年通るこのアクセスの桜がようやく見られる程度に満開になり、「あれ、結構いいじゃないか」と、初めて見直しました。何かと言えばサクラを植えたがるワンパターンに反発を抱いてきた自分を少し恥じるような思いがしました。サクラの植樹と時間を経た評価。どうも日本人としての感性に響く独特のものを持っているようです。 ■5/02 アイヌネギの底力 4月の中旬、久々にアイヌネギを採ってから、あらためてアイヌネギの力に目覚めた。それも調理などしないで、強くもんで醤油で食べるのだ。とてつもなくパンチがあり、肚に染みわたった。来訪した在京の女性らにも拙宅の夕食に振る舞ったら、絶賛された。かつてなら、匂いがすごいから、などと敬遠されていたものが夢のような扱いである。どうも高級レストランで蘊蓄付きで振る舞われたことと、アニメのゴールデンカムイで、アイヌ食の逸品としてでも紹介されたような噂を聞く。 と思っていたところ、おとといのラジオ深夜便のトップが料理研究家・土井善晴氏が、いまだけの季節の食をいただこうと、かなり熱く語っていた。筆頭はタケノコだったが、アイヌネギも負けないと思う。スプラウトのような「芽」にパワーがあるのだという。臭いと言われてもいいからアイヌネギの出始めは、毎年いただこうと決意した。 ■4/30 将(おく)らず、迎えず、応じて、蔵(おさ)めず この荘子の言葉に時々たどり着くという人は結構いらっしゃる。過ぎ去ったことにくよくよし、これから来ることに思い悩み(杞憂)、その時々に臨機応変に対応できず、怨恨を引きずってしまう…。我ら凡人はしばしばその苦境にはまる。そうならないよう、自ら心がけようというマジナイだ。渡部昇一氏は、去るものは追わず、来るものはことさらに迎えようとせず、だれかれとなく同じに応接して、心にとめることをしない、と訳している。自然に心が動くことをさしているが、実はこれができない。10代の早い時期に論語に接して以来、箴言のようなものへの興味は尽きなかったが、多少の心がけに反して、人間としての中身はほとんど進歩していないのがわたし個人の実態だったと白状する。しかし、しばしば共有されるということは、ご同輩は少なからず、という証拠か。ただマジナイは強い。ある程度、利くのだ。 ■4/28 エゾミソハギの発芽試験 断捨離のつもりで本棚を片づけていて、ふた昔も前に入手したエゾミソハギの種が出てきた。白老のサリカリア(ミソハギの学名)の会の新岡さんにもらったのか、はたまた自生地で自分で採取したのか、もう覚えていない。ずっと気になっていたので年明けに容器に播いて発芽を待ってみた。牧草などは1年で発芽率が1/2になるというから、この年月を考えると期待もできなかったが、ひとつぐらいは、と毎日観察していた。1か月待っても音沙汰はなく、断念した。そのかわり、新岡さんがイザベラバードの会の事務局あるいは代表みたいなことをしていたのが思い出され、バードが弁天浜を歩いて平取に向かったこと、その際にさびしい原野を「本当に荒れた景観でさびしい」という意味の述懐したことなどが思い出される。両方の会とも故辻井達一先生が関係していたものである。同時に、新岡さんが亡くなる1年ほど前あたり、なにか折り入って相談があると相談されたことがあって、氏が亡くなってからあれが会の後継のことだったのではないか、という想像をしていた。そう想像をしていたことが、サリカリアの種をきっかけに思い浮かんでくる。 ■4/25 人のこころは 昔は表ざたにならなかったのか、少なかったのか、報道のフィルターやカバー範囲の影響なのか、随分と人心崩壊を思わせる珍事件が続く。鬱屈したものがあり、それを押さえる自制心が乏しく、興味半分の自己表現を受け流す情報システムも整っている。一方、行政の無謬性は怪しいし多くの政治家も言うに及ばず。なにが正しいのか、自らアンテナを伸ばして、耳目をそばだてるしかない。内憂外患、これほど真剣に広く世間をみまわしているのは、きっと生れて初めてである。古来、隠居とはよく言ったもの。岡目八目を地でいき、勉強の時間に事欠かなく、直接の利害関係からもかなり距離を置いているから、こころが濁らないで済むのか。 ■4/23 今週でかけた二つの林 左は樽前の麓の牧場の間にある小河川。北海道らしい、使われない土地、林(5/20)。右は千歳のキウス周提墓、世界文化遺産である。勇払原野の萌芽再生の2次林とはひと味ふた味、異なる、ミズナラを中心とした広葉樹林(5/21)。どちらも味がある。 ■4/19 歌に見る庶民の共感17 樽前山の雪が急激に消えたのが、黄砂のカスミの向こうに見える。今日は24節気の「穀雨」。早春の山菜をひとつずつ食し始めたが、胆振の春はまだまだ。 古い歴史ものを呼んでいると短歌は切り離せない。そのうち、短歌は日本人にとって欠かせない文化だったという言説もやっとわかりかけてきた。大事にしたいもの、と思う身には、新聞の歌壇俳壇(この際、俳句も日々を謳いあげる歌のうちとして)は、毎朝の楽しみとして欠かせないものになって来た。 ◎ つぎつぎと同級生が世を去りぬシーラカンスは淋しからずや 北上市 Sさん …長生きすると寂しくなる、とよく聞く。この光景を俯瞰してみると、人生の大きな出番は過ぎて舞台のそでに引き込んでお茶で和むような図がある。その出番も山あり谷あり、喜びと後悔が混然一体となって、しかし、ここまで来れたのは生かしてくれた周囲に感謝しかない、などと。 ◎ ルリビタキ山の小道で待っていた幸せなんてこんなものかな 高砂市 I さん …そう思えることそのものが幸せな感性か。その切り替えはなかなか簡単そうでできないもの。茶柱などもそう。その点、流れ星は確率的に低いので超ラッキーとなる。その時々の出会いに右往左往することなく、自然心で泰然とありたい。ルリビタキのような出会いを大切にしつつ。 ◎ 半世紀レットイットビーを口遊(ずさ)み愚直に生きて古希迎へをり 東京都 I さん …きっと折々の短歌にも凝縮されたのではないか。「愚直に」という言葉には、われら庶民の実感がこもる。自然と共感も生まれ、ささやかな連帯までも。そうしてみるとこの曲名は、人生一回りしてたどり着く、小さな悟りだった、と思い至る。 今回の「共感」は図らずも似た雰囲気の歌になった。 ■4/17 後醍醐天皇の時代 年前から読んでいた吉川英治の太平記がようやく4巻目に入った。後醍醐天皇が隠岐の島に配流になった時代の、足利高氏(尊氏になる前)と楠正成が別々の筋書きで行ったり来たりするが、区分では鎌倉時代の後半であり足利尊氏が将軍になる南北朝の直前あたりに読み進んでいる。豊富な時代考証に裏打ちされるかのように、微細に描かれているから、時代音痴のわたしにも少しだけ伝わってくるものがある。そんな中に、吉田兼好が時々顔を出すというのが面白い。武家集団と公家方の綱引きと各勢力内のせめぎあいが延々と続くが、武家側が天皇家を滅ぼすという意図がないことが読み取れる。それから約700年近く、電気や車やAIの世界になって、暮らしは便利で豊かになったが、世界各地で争いは続き、国ごとの覇権争いも終わりが見えない…。このように総括して、さて、今日の日常に戻ろう。 ■4/15 山仕事の区切り 昨年秋に本格的に手掛けたフットパス沿いの除間伐が一段落して、材の搬出も終わった。薪に加工される作業も、すでに割った先から積まれて、ヤードの風景も刻々と代わる。 ■4/14 山野河海の幸、4番手 各地で桜の開花が10日以上早いというニュースが続く。昨日は裏山のフキノトウを採りに行ったところ、案の定、ほとんどが花をつけていて、そこから手頃なものを選んでフキ味噌を作った。となれば、アイヌネギももういいころかも、と出かけたら、こちらはちょっと早いかわいい盛りだった。沢山は食べないからこれで丁度いい。家人と二人10分ほど採って戻る。その帰りの牧場の真ん中で、大きなシカの群れがふたつ、若草をはんでいた。この風景を眺めていた家人は、奈良公園のシカより幸せそうに見える、と呟く。さあ、どうかな、とわたし。 ■4/13 樹木、それも古木の神格化について 生き物は歳を重ね大型化すると、畏れられる。霊を備えると見られるためか、狐、狸、猪、猫、犬、そのほか人間をだましたり襲ったり、祟(たたっ)たりするする動物がらみの民話はよく聞く。樹木もそうで、大木は威厳を備えてくるために祈りの対象になっていく。「ネパール・インドの聖なる植物」は話題満載だ。また、自分より齢がはるかに超えた生き物との対面は、人をして下座業の修行者にしてみせるような力があり、時として人は謙虚になるのではないか。 その点、明治神宮外苑の樹木伐採の問題では、樹木が開発反対のシンボルのようになってしまい、樹木の持つ一面を垣間見た。樹木はしばしば砦になるのである。これらを含む自然保護原理主義はあちこちで散見されて信奉する人は少なくない。つい敏感に反応して時に冷たい対応をしてしまう自分だが、明治神宮の森の方には尊崇の念で向き合う。都知事や不動産業との駆け引きや著名なミュージシャンがコメントしたりというニュースを取り除いて、真相をみつけ納得するのにするのにひと手間を要してしまう。 ■4/10 山の幸、川の幸 山仕事の帰りに川に寄ってみると、魚肉ソーセージの餌で結構な川エビが採れた。帰宅が遅かったので次の日の夜、冷蔵庫の容器をあけると、まだ半分はピヨンピヨン生きていた。それを無慈悲にも天婦羅にしていただくのである。 こうして起承転結、自らの手仕事で完結してみると、この勇払原野という風土に生かされている実感がわく。雑木林の除間伐をして薪に加工し暖を採ることと、きわめて近い。「そんなことしなくても、市場で売っているものを食べたら?」という人も居よう。しかし、土地の生き物とリアルにつながることで、初めて生の意味を感じる人たちもいる。わたしは明らかに後者だ。 ■4/09 雑木林に出来上がった図書コーナー なかなかいい図書コーナーが出来上がった。雑木林の魅力を発見し、志ある人の力と技術を束ねて保育する、スピリットとテクニックを紐解くにはいい場所だと思う。昨夏生れた窓辺で本を開くと、それは今は70歳を超えたオジサンたちの、かつての憧れの世界がよみがえってくる。 |
■4/07 紙おむつは必需品で意外と快適だ!? 先週の旅行で山仲間と過ごした時間の何分の一かは、高齢者としての紙おむつ使用の話題だった。3/17 のブログで、吉本隆明氏の紙おむつの思想家の話に言及したばかりだったので驚いた。高速道路で運転する場合などは必携だというのである。かれらは渋滞に巻き込まれて身動きが出来なくなることがあったのが紙おむつ対策の動機だった。そして今も体験談の交換はメールで進行中。だが、「なんだ、そうなのか」、と少し気が楽になったころから、こちらにもニーズが移って、尿漏れの緊張がゆるくなってしまったような気がするのは困ったものだ。高齢者である自らができるだけ身内や他人の世話にならないで済む方法を考案し実践しなくては。 ■4/05 フキノトウが出始めた 山仕事の帰り、勇払川の土手をみると、待望のフキノトウの緑がやや控えめに目に入ってきた。山ワサビに次いで今季2品目の山の野菜。さっそく、家人に連絡を取り、ホッキを用意してもらった。帰宅後、ほどなくビールを片手に「ホッキとフキノトウのかき揚げ」に取り掛かった。 頃は24節気の「清明」。花々が咲き始めるといっても、勇払原野は春一番のナニワズの開花はあと数日待たねばならない。フキノトウの苦みとホッキの甘さが微妙にコラボする季節の逸品。ことしも春が巡って来た。 ■4/03 「スポンタネ」のオーラ 一見、無鉄砲にも見える捨て身の料理人生、旅行の合間に引き込まれるように興味深く読んだ。 大分昔のことだが、四谷のオテル・ドゥ・ミクニのオフィスに、留萌で行うあるイベントの打ち合わせに出かけたりして2、3度お会いしたが、なるほど、オーラがあるなあ、と思った。打ち合わせの時に、秘書の若い女性から、シェフのフランス料理はその日与えられた素材を見て即興で作るもので、料理イベントではその即興部分をあらかじめ四谷の厨房で一度作ってみて、それをアシスタントがメモをして、料理のレシピはそこから生れる、ということを知った。そこでイベントに備え、留萌界隈のエビやら白身魚やら牛肉やら野菜やらを、レシピづくりのために早々に送った記憶がある。 三国さんも、その日市場から届いた素材を見て即座にメニュウを考える「スポンタネ」をフランス修行中の三ツ星レストランで知ったという。それまでは、言われたことをやりレシピが示すとおり料理するだけで、それだけでは彼の血が踊らないことを前段の文章では感じ取れた。和食の豚汁とかすき焼きとか、その他もろもろの内外の定番料理のように、すでに出来上がった料理の名称を持たず、フランス料理はいつも、〇〇のなんとか和え、などと書かれているのはそのせいで、レシピはあとからついて来るものだと言うのである。弟子にはきつく、いつもたたいたり蹴とばしたり怒鳴ったりしていたと漏れ聞いたが、この「スポンタネ」のイライラと創造の苦しみがそうさせるのだとわかった。指示を待つ弟子たちこそ、いい迷惑だったろう。指示などないのを知らなかったのだから。 これからはレストラン業をやめてやりたいことをやるという。きっと札幌のNさんらとなにか新しいことを始めそうな気がする。北海道には素材があるから、そして、開拓するジャンルも残っているから。マッカリーナのような驚きの日は近そうだ。 ■4/01 勇払原野の高級ブランド「おの割り雑木薪」 実に美しい薪棚が出来上がった。コモンズのメンバーが朝から斧で割って、積んだものである。薪は、薪割り機でシャニムニ割ると、かなりささくれ立つものだが、マサカリで割ると、薪は割れたい、割れやすいところで割れるので、自然な感じの薪になる。これまでも、かなりの薪をマサカリで割って作ってきたが、それは薪割り機の薪と混在させて積んでいた。 しかし、今回は違う。オール・ハンドメイド。この美しい薪は、インテリアにも使えるので、雑木薪のブランド品として付加価値を表現したい。ここで1年半乾燥させて使用する。そこでわたしの案は、表記タイトルとなったがどうだろう。 ■3/31 武蔵野陵(みささぎ)にて 3/27~/31まで、靖国神社~八王子~武蔵野陵墓地~山梨の甲斐市にある別荘~神代桜~県立美術館~箱根の岡田美術館、という旅行をしました。写真日記はこちらへ。 ■3/25 薪づくりを始める 林に入って行う除間伐をほぼ終わって、今日からは薪ヤードで薪割りを開始した。試しに、そのすぐ隣で、パレットに薪を積み始めてみた。薪にカビなどが生える前に早々に積み上げるのは爽快で、壮観ですらある。それに丸太というボリュームが薪という製品にどのような歩留まりでできていくか、ヤードのストックすべてを片づけるのに、このような作業が何日必要か、などがピンとくる。これは面白い、と思った。 (明日から週末まで、更新を休みます。) ■3/23 息切れサインと養生訓 去年の年の瀬の頃からまた不整脈が始まり、この頃は動くと息切れすることに気づいた。山仕事でソリや一輪車に道具を積んで牽引しながら車に戻るときなど、休み休みになってしまった。もちろん、いっしょに戻るメンバーがいれば当然追い抜かれる。昨日、半年ぶりに札幌へ出て古巣の職場の理事会に出た折は、かつての通勤路だった、わずか7,800mを歩きとおすのがつらく、帰りはさすがに途中のとあるホールに逃げ入りソファに掛けた。当然、あらゆる通行人に追い抜かれた。何ということだ。 晴林雨読などと言って、読書三昧にかこつけて座ってばかりの生活が続いてしまったのか、歩くのが嫌で、すぐ腰が重く感じつらい。これを健康上のサインと見た結論のひとつは、いうまでもなく運動不足だ。もう一つは動脈硬化に伴う呼吸不全。まずは運動不足解消の処方を試そう。心肺機能を使う動作など、ほとんどしないで来たツケが回ったと思う。山仕事はそこそこ体を使うが、心肺機能とはやや違う。心身との対話、特に身体との養生問答に少し軸足を置いて体が発する声に耳を傾けてみよう。 ■3/21 流れ星とシマエナガ 昨日、気温は14℃、今日の春分の日は10℃、さすがに庭の雪も先週すべて消えたが、山の方は、一見早春の風景だが、土は凍ったままだ。昨夜は久々に大きな流れ星を見ることができた。今年二つ目、そして今日、雑木林に着くや否や顔を見せたのは、ヤマガラ、そしてキバシリ、さらにシマエナガである。何とはなしに春らしい出会いである。シジュウカラも活発に鳴き続けていたが、こちらはチェンソー用のイアマフを装着していて、終日、鳥たちの生ライブにはならなかった。残念。写真は遠浅から静川に移動した際のケアセンター、雪が落ち葉に替わったが、この落ち葉はお盆のころまで腐らないで、突如、消える。 ■3/19 山菜のトップバッター「山わさび」を忘れていた わたしは北海道、特に苫小牧に来るまで、山わさびを食べたことがなくて、昭和51年、苫小牧の会社に赴任してあてがってもらった下宿で食したのが初めてだった。最初はイカの刺身などで味わったと思うが、下宿のオバサンは今頃の季節になるとよく食卓に出し、醤油をかけてご飯に乗せてもおいしかった。その後、自宅の庭にも植えたが殖えて大変だった。勇払原野の春の山菜といえば、フキノトウやアイヌネギの前に、実はこの山わさびがあったことをうっかり忘れていた。そもそも、田んぼの畔など、農家が片手間に植えたものがほとんどだから、厳密に山菜採りに興じるという対象とはちょっと違う。さらに剣先スコップやツルハシで凍った土を掘って取ったような記憶がある。それだけをとっても、いわゆる山菜取りの先駆けにあたるだろう。しかし、思い立ったら吉日、山仕事のあと厚真を訪れてふたつみつ入手した。一日おいた今晩、イカを用意していただく予定だ。 ■3/17 吉本隆明の老い指南(吉本メモの3) 読み終えたつもりの『家族のゆくえ』だったが、備忘録として残しておきたい文章がまだまだある。尿漏れに備えた紙おむつをしながら、80歳を超えた思想家は呟くように、こんなふうに書く。 (老人の心身の機能の衰えについて) 「実感で言えば、老齢者の身体の機能はちょうどそれ(注;赤ん坊から以降の発達期の人)と逆の反応をする。病気が回復するところまではいっしょだが、回復するごとに必ずどこか元にもどっていないし、もうもどらない箇所が増えてくる。これが老年期の身体の衰え方の実感だ。」 「精神的能力はどうか。はっきり変化する。精神は発達し、視野は狭く直線的になるといえば、おおよその特徴は把握しているとおもう。」 「老齢になると、衰える部分と拡張される部分がある。身体の運動性は衰える。しかし長い年月を生きてきて、それを使うことに慣れている想像力とか空想力、あるいは思い込み、妄想と言った機能は拡張されるとおもう。」 (時代病の根源について) 「我慢に我慢を重ねていれば、一足飛びに殺し合い・・・家出、放浪…離婚や近親争いも起こりうる。」 「何がむずかしいのか。かつての自然産業優位の牧歌的な社会では黙っていても親しい者のあいだに暗黙の了解と意思が疎通していたのに、現在ではこの暗黙の理解は肉親、辺縁の人間の自然な関係でも不可能に近くなっているからだ。」 「根本的にいえば、配慮の難しさはかえって近親、近縁ほど複雑になるという逆説的な関係が深まってゆくことによっているとおもえる。もっと社会的視野の関係で言えば、現在の大都市では、時間の流れ方は二十年ほど前と比べて二倍か三倍になっており、その影響は全産業の五〇%を超えている。(農村、漁村、林業の自然産業も生産の速度は増しているが)それでも大都市地域の循環速度に比べて格差は大きくひらくばかり・・・」。 「これは大都市周辺の近隣地域で、親子、近縁、子供同士、または先生と教え子の関係などが険悪、苛立ち、突発の事件としてあらわれる大きな根拠だとおもう。時代病的な精神異常といってしまえばそれまでだが、いまのところ根本的に防護する方法は見つかって(おらず、政治家や識者らがおよそ見当違いなことを騒ぎ立てている)・・・。」・・・ 「現在の地域世界の社会状態に、歴史的根拠のある流れをもたらせられるかどうか、その方途を見つけ出すほかに根本的な解決はあり得ないとおもう。」 ~~~~~ いつも里山のなごみ、などと現代社会から見ればあさってのようなことを書く当迷想ブログだが、手仕事でゆっくり体得する人としての営みと、猛スピードで変化する文明社会との間で生まれるズレを、辛うじて補正する手立ては、こういう環境と都市生活の間を意図的に行ったり来たりする日常を創り出すことが意外と威力がある。そんな感想だけメモしておきたい。その結果失ってしまうモノも得るものもいろいろある。そこには諦めとか覚悟とか、これまた世間ではあまり喜ばれない心の動きが横たわっているようだ。 ■3/15 今日の里山の風景 今日も朝から快晴、山仕事には絶好の陽気である。そしてようやくハクチョウやガンの上空飛来がにぎやかになった。斜面の枯れ木とツルを片づけて、ふと振り返った風景がこれだった。陽ざしと言い、雪解け具合と言い、いくつか積まれた丸太とやや乱雑に積まれた枝と言い、ああ、これが里山風景だよな、里山らしいなごみだなあ、としみじみ思った。窃盗や人殺し、政局をねらった国会質疑、領土侵略の危機すら報じられる内憂外患の今日、このひととき、この風景は何を意味するのか。世界の末端にある些末な日常、ごくごく小さな幸福のような、なごみがここにはある。 ■3/14 嘘臭くなってしまった言葉たち 癒しの森づくりフォーラムでも話題になった「癒し」という言葉について、造園関係の先輩とメールのやり取りをしていて、妙なことに気づいた。本心では嘘くさい、というニュアンスの言葉群があるのである。というか、うすうす感じていたことだが、この機会にもうすこし突っ込んで考えてみると、それは実は日常使っている中にたくさんあった。そしてそれらは時々、キーワードだった。わたしのカバー範囲で言えば、緑、恵み、自然、森林なども、いわゆる「これが目に入らぬか」、とでもいうような正義の言葉になっていないか。小学生が作文発表で、「生命(いのち)」という言葉を発する(先生のアドバイスなのだろうけど)ときなどはその極みであろうか。これを言っておけば文句は出ない、的なデファクトスタンダードと呼ばれるものか。 しかし、これらは限りなく怪しくて、自由、平和、民主主義、平等、人権、などが連想されていく。煎じ詰めて言えば、これらはイデオロギー的に使い古されて錆びてしまった、しかし極めて便利な言葉だったのだ。ポリコレ(politically correctness)を批判的に追いかけてきたものとして、どれも同一線上に見える。これらの言葉をうまく迂回して表現するのが難しい時もたまにあるが、それらはしばしば括弧書きとなってしまい、そのままだとどうにも読みにくい文章が出来上がる。 ■3/11 手仕事の精神文化(吉本家族論のつづき) 人類などというものはさほど進歩などしていない、進歩したのはマシンなど文明だけで、だからこそ人の生き方を教え考える人間学は不可欠だと思ってきた。一見、何の意味もなさそうな山仕事のように、工夫しながらする手仕事の意味を、しばしば満足感をもって反芻することができる。「思い込める」強みか。加齢とともにその思いが強くなってきている。そんな思いに通ずる文言を、吉本隆明の『家族のゆくえ』に見つけた。 曰く、「(先進地、後進地、西欧・非西欧などの比較のあと)イエスとか釈迦とか孔子、そういった聖人君子がいっていることはいまでも凄いなとおもうが、そのあとの時代は精神性が下がる一方なのではないか。確かに細かいことをいうようにはなったけれど、言っていることはくだらないことばかりだ。・・・すると、後進地域のほうが家族問題や個人の親愛の問題、さらには食べるための生活もうまくやっていたのではないかとおもえてきた。いまから見るとたしかに、なにか幼稚なことをやっているように見えるが、当時の人は精いっぱいそうやっていたわけで、じつは彼らのほうが幸福だったのではないか。時代を経るにしたがってどんどん複雑な要素がからんできて、悪くなってきたのではないか。日本人は常に先進国に統合していこうと考えてきたわけだが、どうもそれは間違いだったんじゃないかとおもうようになった」。・・・これはすとんと落ちてよくわかる。多くをはしょって予言者風だが、わかりやすい言葉とは本来そういうものかもしれない。 ■3/9 ママレードを作る 熊本から送ってもらったデコポンで、大好きなママレードを作ってみた。大好きなのに、なぜ、毎年作らないで果肉だけを食べてしまったのか。近年、朝食にトーストを少々食するようになったためか。ネットでレシピをいくつか眺めてから、本番。分量はいつもどおりテキトーにやってみたが、味は申し分なかった。Mサイズのデコポン2個でできる量もわかった。まもなく、川エビ漁をして、ホッキとフキノトウのかき揚げ、アイヌネギと、令和5年の風土の食の世界に突入する。 ■3/7 吉本隆明の家族論 年明けのころから、平家物語の現代語訳と、吉川英治の『私本 太平記』(全8巻)を並行して読んできた。12世紀の話と14世紀を同時に感じられるとは、さすがに読書の世界だが、こうやって読むのはなかなか古い日本を肌で感じるにはいいと思う。太平記は、わたしのはなはだしい欠陥が、この時期を全くと言ってよいほど知らないこと、とりわけ楠正成がとんと想像がつかない。それを補うには、と探したのが太平記だった。しかし、これほどの大河物語となると、人脈、系譜が複雑すぎてついていけないことがわかった。源氏物語の如く、ときどき、系譜が描かれるのでホッとする。 このごろは、これらに並行して吉本隆明氏の『家族のゆくえ』を紐解いている。子育ての反省や夫婦の間柄、そしてそもそも家族ってなんだ、というような基本的なことを考えてみたくなったのだ。吉本氏が80歳を超えてからの本で、強引な筆運びも惜しまず、自分の最も不得意な分野と断りながら、とつとつと本気で言説を述べる姿に、すこし衰えも感じさせ、そこのところがなおさら良い。わたしの家族もごく普通、と納得できるから安心した。人生、いろいろあるんだから、という共感を得るだけでも、なんだか元気がでるではないか。 ■3/5 SDGsと薪 昨日、最後の除間伐材ともいえる立ち枯れの丸太を運びながら、一緒にスノモに載ったメンバーと、「これがオジサンたちのSDGsだよねえ」と笑った。2月の最終日、これ(上の画像)が本番の除間伐丸太の最終便だった。大小さまざま、ご愛敬で若干、長さもまちまちである。そして、もったいないからこれも積もう、とフットパス脇の丸太を拾う。高いビルと公共交通網の発達した都会では想像もつかないだろう、ほとんど手仕事の世界。グローバリゼーションと市場第一主義、環境負荷増大の日常から折り返して、落ち着く先が実は SDGsだと思われる。 ■3/3 春の山の歌 スケッチブックの余白には、1980年5月とある。いまから40数年前、定宿にしていた町営白樺荘(だったと思う)のそばの瀟洒なホテルと、山は美瑛富士岳。5月の山は心が浮き立ち、ドイツの「5月の山 An Den Mai」は、小屋やテントで、時には結婚披露宴のステージなどではもハモりながらよく歌った。3月弥生の声を聴いたばかりなのに、気分は5月のような高揚感がある。きっと夜明けが早まり、陽ざしが強くなったせいか。それで、この歌と、このスケッチをペアで思い出した。 Mozart作曲。歌詞は、「うるわし五月みどりは萌え/小川のほとり、スミレ花咲く/スミレひともと手折りてみれば/野に満つ春のゆかし香り」と3番まで続く。まさに春祭りを祝う気分にさせる。明るく季節を歌う習慣はこのころにできたようだ。苫小牧から白金温泉まで250km。あの時はどの山に登って、どこを滑ったのだろう、記憶が定かでない。take/草苅のミニギャラリーはこちら。 ■2/28 サリカリアのタネを播く 今年は桜やコブシの枝を切り取って水に差すという、春先取りの儀式をしなかった。ハスカップの実を培地に押し付けて発芽を待つという毎年の営みもせずに、もう明日は3月、弥生である。なんだか心残りに思っていた矢先、山の本を積んだ棚にサリカリア(エゾミソハギ)の種の入った袋があったことに気付いた。さっそく、皿に水を張って発芽試験を試みることにした。もう20年も前に、今は亡き白老のNさんにもらったものか、どこかで種を見つけて保存したものか、忘れてしまった。もし、まだ使えそうなら、かつてはアヤメが咲いていたという現場の湿地に播こうかと考えている。 PS:facebookから10年前に私が投稿したこんな居間の桜の写真が届いて、われながら見惚れた。除間伐の仕事で山で見つけたサクラの枝を花瓶に差して、2月に咲いた画像。正面の奥のモノクロ写真は、林学先輩の坂東さんによる、農学部正面の階段、その左は、八木健三先生の描いた日高山脈を、ワンゲルOBがパノラマにしてくれたので額にいれたもの。サクラは格別。 ■2/26 勇払原野と女性のかかわり 女性史『勇払原野の女たち』をひもとく。 図書館で借りたもので、平成4年の発行。発見がうれしく、受付の女性に「こんな本がちゃんと残されているなんてさすが市の図書館ですね」と言わずもがなのことを語りかけてしまった。 土地土地の文化はじつは女性たちが大きく貢献していることを、財団研究所時代のソーシャルキャピタルの取材調査で気づいた経験もあってのよろこびだった。きつい開拓は男の仕事と見られる裏で、子育て、炊事洗濯そのほか家事全般に加え、開拓や野良仕事にも精を出す実情が読み取れた。寒さと貧しさの中にも礼節を保つ女性たちの姿に胸が熱くなる思いだった。 弁天、静川、柏原の開拓生活も昭和46年に苫東プロジェクトのスタートで開拓団などは解団となり、その後のインフラで勇払原野の東半分の今日がある。その経過の中に、大島山林や平木沼緑地、つた森山林などの緑地が温存され、さまざまな形で営まれている。 NPOのコモンズが令和元年にだしたハスカップ市民史『ハスカップとわたし』の冒頭の1章は、その開拓団の足どりを郷土史家として調査フォローしていた山本融定さんと、開発サイドでハスカップを扱ったわたし、その間に行政側の地域自然に詳しい女性の小玉愛子さんが加わって座談会形式でまとめたが、この女性史をめくりながら多様な利害関係者の顔が浮かんできて、ああ、地域に根を下ろすとはこういうことなんだと納得した。 ■2/24 折節の「先生」 高知にある横倉山という山が、吉田類氏の低山巡りの番組で紹介されていて、そこは植物学者・牧野富太郎博士に縁の深い土地であり、博士はここで自然を学び植物学の研鑽を積んだとのことだった。そのため博士は、「ここはわたしの先生だ」と語っていたと聞いた。小さい時、牧野博士はわたしの恩師の影響もあって比較的身近に感じていたため、自分の場合はどうなんだろうとすぐ連想した。 そういえば、山、川、森、海など山野河海は、おびただしい時間を費やしてきたおかげで自然界にきわめて多くを学び、師と言える関係を自覚なしに築いていることに気づく。学問としてではなく、登山やカヌーや fishing という趣味領域が多かったが、のめりこめば、そこは研究と紙一重の観察と思考と実践があるのは世の常である。この勇払原野とも半世紀にわたって付き合いが続くとは思ってもみなかったが、わたしにとってはこの原野と周辺の風土が、まぎれもない先生である、と今なら自信をもって言える。また、鏡のようにして自分を律してくれたから、尊崇の念も深いと感じる。 ■2/22 季節先取り、早春の雑木林 次に来る季節を祝う春祭りのつもりで、昨日は早春の匂う快晴の雑木林を歩いた。独占するのが申訳ないような好条件だが、胆振の雑木林は、このような手自然が本来の姿である。これほど平坦な雑木林風景は、奇跡である。それも半世紀前は炭を作るために伐られたエネルギー調達の跡の薮だった。 ■2/20 薪ストーブの焚き付け達 勇払原野の雑木林保育で発生する薪。その焚き付けひとつにも、ちょっとした発見と工夫がある。この蘊蓄を共有する楽しみというのも捨てがたい。もうすぐ24節気の啓蟄だから、この冬の薪暖房もあと1か月余りか。 ■2/18 屋久杉の香り 熊本の古い山仲間からデコポンが届いて、その中には彼の街でデコポンを開発した先人の伝記と、一片の木材が入っていた。40年以上前に屋久島に登った折、河原でテントを張ったら、そこに畳一畳以上もある屋久杉の朽ちた材が落ちていて、彼は記念に鋸で切って持ち帰ったものらしい。縦15cm。横23cm、厚さ4cmある。緻密な年輪が読み取れ、木口に鼻を近づけると、柑橘系の香りの奥にかすかに杉の匂いがする。十分味わったから謹呈する、というのが彼の言葉だった。机の上のペン皿にしたら、存在感がある。縄文杉の末裔としてそのパワーにあやかることにしようと思う。 ■2/16 雑木林のガーデニング 平日は天気の良さそうな日を選んで、一人の山仕事に出かける。この一週間も2,3日、じっくり読書をしたので、昨日は、まさしく晴林雨読の見本のような日だった。 仕事の終わりにあらためて今シーズンの手入れ跡地を眺める。ここ土場Aに携わったメンバーには色々な感じ方や目的があるだろうと思うので、何も響かない人もいるかもしれない。わたしはといえば、早春のこのような日の、この風景に出会うため、勇払原野の雑木林に通ってきたようなものだ。 わたしにとってのイヤシロチ、パワースポット的風景。北海道の冬山を経験してきた山友達などは絶賛すること間違いなしである。山登りとは、そもそも未知の風景への感動も動機だったのかもしれない。ここは里山の丘に過ぎないが、初めて出会う雪山風景と似ている。心あるもの達が創る林の風景、これ以上のガーデニングはない、と思う。一冬の山仕事でここまで風景を変えるのだから。 ■2/14 時代を読む視点 国内外を問わず、これほど世の中が混沌としてくると、なんとか自分の座標や道しるべが欲しくなる。そこで先達の知恵を借りるべく読書したり話を聞いたりということになる。時代を自分なりに読み込めないと安心ができないのである。こう書いて思い出す一人は故・山崎正和氏だった。『柔らかい個人主義の誕生』あたりから特に、氏の論説やコラムをよく手にした。近年は佐伯啓思氏のものに注目している。月刊『正論』3月号の対談では、日本における保守について論じている。日本の伝統的な文化とはなにか、などに触れ、その核心は自由や民主主義というような理想ではない、とほぼ断言している。藤原正彦氏はかつて、それは惻隠だ、と言っていたように思う。西洋の尺度に合わせて世界の本流は資本主義やグローバリゼーションに進んだが、どうも欠点や不具合が見えてきたが、西洋的解決策には著しく限界がありそうだ。本来、「自由や民主主義の原理は、良心をもった道徳的人間を主権者として」イメージしているというから、道徳教育が欠かせなくなるが、そこはまた自由や人権が邪魔をして進捗を期待などできないのが世の構図である。ただ、こういうのって、今に始まったことではなく、いつも試行錯誤してきたのが世界の歴史でもあると考えた方がよさそうだ。 ■2/12 イヤシロチの地形と植生 雑木林だより121の2/8 ブログでは、最近平日に取り組んでいる薮やツル、枯れ木の一帯をケガレチ(気枯れ地)とみなして、表現した。この摩訶不思議な世界を探訪していたころのことを思い出すうち、そういえば一般的に沢の地形はケガレチの要素を持っているとされてきたことに気付いた。その意味で、反対の典型的なイヤシロチ((弥盛地)的な地形として思い出したのが、白老の堀尾博義さんの「仙人の森」である。尾根筋はまるでパワースポットであり、広葉樹の密度も手ごろで林床はよく刈り払われていた。子供たちを集めて環境教育の場として提供しており、たしか役場の部長さんを務められたと記憶しているが、人生の先輩として実に素晴らし自己実現だろうと感動した記憶がある。平成26年春のコモンズの研修地である。 ■2/10 野生とマチの交錯 ~ついにウチにもシカがやって来た~ 数日前、細街路に面した家の前のレンギョウの根元にシカの足跡があり、今朝は、ついに出窓の前のオンコの木が食べられた。おそらく夜中のことだ。去年、初めて近所の庭や公園・緑道の植え込みが食べられ始めたが、これは大雪の特別な年だから、とやや大目にみていたら、違った。一昨年の晩秋から去年の1月までの数か月間に、錦岡から沼ノ端に至る10数キロの道道で、約300のシカの死体処理が行われたというから、もう尋常でない。明らかな越境だ。食べられすぎて植え込みの形がこわれ、根元から切ってしまった、という人もいる。さて、どう自衛したらいいのか。 ■2/8 山折哲雄氏の瞑想 各人がどんな作法の瞑想をしているのか、少なからず興味があって、瞑想する人と極たまにお互いの状況を話し合うのは意外と忘れられない思い出になっている。山折さんは永平寺のスタイルで未明の刻に線香を凝視する、と書いている(『老いと孤独の作法』中公新書クラレ)。わたしがびっくりして、かつ、ニンマリしたのは、わたしと似て雑念は湧くがそれを厭わず、むしろ瞑想中に講演の中身や対談の内容、前日読んだ資料のことなど、あれこれ考える、というのである。 いやむしろ、人間は「無」になれない、と気付いて、瞑想中に積極的に仕事をするのである。確かにこういう方はわたしの周りにもいらっしゃる。わたしも瞑想中につい仕事をしてしまうのだが、座禅の極意は「心身脱落」だという基本に忠実であろうとするから、実にいい構想ができたのに、なんとなくインチキ瞑想をやったような後ろめたさを引きずってきたのだ。 しかし、わたしと20歳も離れた著名な宗教学者・山折さんがこんなに開放された自由な瞑想をしておられるなら、見習わない手はない。「これでいいのだ」、このメッセージの意味は小さくない。いや、これは大きな読書の収穫だ。ただ、「無」を目指していろいろ試みをしている間にたどり着いたわたしなりの作法も捨てがたい効用があって、何も考えない何十秒かと波のようなその繰り返しは、それまでの執着を離れている間に肩の力がとれ頭も軽くなっていくのは事実だ。雑念が湧くたびに、それをうっちゃっていく方法も、体得してきたから、要はこれらをうまく組み合わせればよい、ということになろうか。読書による対話、侮るべからず。 ■2/7 薪を中心にした暮らし 2月4日は立春だった。実に「もう立春」、である。24節気では次に「雨水」、3月初めには「啓蟄」である。24節気は北海道の季節を占うのに良くあっていると驚くのだが、大寒が終わったころ、陽ざしは急に春のものに替わるように感じる。 このところ、週末は、雪に埋もれた長い丸太を大きなトビでもちあげ、薪の長さ35cmに伐っては積む仕事を繰り返している。夕方は、自宅の窓の下から室内にふた抱え程の薪を取り入れ、夜12時過ぎまで燃やし、夜明け頃、一日の薪ストーブライフのために再び点火する。一日中、火の様子を見ながら調整しているから、文字通り、薪を中心にした生活のようにも見える。 その薪は実に人々に注力を促すものだ。立っている樹木を倒すのもそうだが、写真のように薪サイズにチェンソーで裁断するのにも、しこたま手間がかかる。これだけで1時間半はかかった。スノーシューをはいての作業だから、手間がかかることこの上ない。 しかし、オジサンたちはお互いに何10mも離れて、黙々、コツコツと孤独で少し危険な山仕事に打ち込む。何かを象徴しているように思えるのだが、それが日常というものなのか、平和なのか、あるいは循環型社会の実践なのか、家族への貢献なのか、よくわからない。ただ、訳が分からないのにも関わらず、そして単純な手仕事なのに、したたかに手応えだけはある、という事実だけがある。 ■2/5 小川糸さんと穂村弘さんのエッセーを読みつつ 居間のテーブルに置いてある家内の借りたエッセーをよく読む。今回は小川さんと穂村さん。小川さんのは『たそがれビール』で、毎日の日記風である。ごくごく身近なことばかりで旅行を挟みつつ、寝転がって読むに最適だが、例えてみるとフットパスの気持ちの良いスポットに置いてあるベンチみたいな感じだった。同郷、山形市の出身とある。 一方、穂村さんは、札幌の出身で、短歌やエッセー界では売れっ子に属するだろうか。『君がいない夜のごはん』は、パラパラめくっただけで、これは是非読もうと動機づけられた。食べ物エッセイは格別だ。ラジオ深夜便でもおなじみである。 (追記:彼は北大ワンダーフォーゲル部の後輩にあたることを発見。そのWV部のもう一人の若き後輩・野村さんは植村直己賞を受賞。これは2/6のニュース)。 文章はこんな風に書きたいものだと、と好きな作家の文章を読むたびに思うが思うだけで、少しも上達はしなかったから、まあ、このままで終わるだろうことは間違いない。ただ、言葉や文章で思いや考えがうまく伝わるということはやはり素晴らしい。書いて伝えるということに含まれる自律性とか創作の機微は、わたしには生きていくための永遠の修業のようにも思えてならない。政治性やメッセージ性など意図しないこれらのエッセイは今のところ、わたしにとっての異空間でもありほっとする。ということは日常、ネットを含めて結構息苦しいような文を見ているということか。でもこれらはできればビールでも手にして読みたいところで、まさにエッセイーは楽園だ。 ■2/2 野外における排便のすすめ 自然の中でする野ウンチ、お下品なオヤジたちが良く言ういわゆる「野〇ソ」、であるが、これが日本人の自然観に結構つながって左右してきたのではないかと思う。SDGsがいうような循環型社会である。水洗トイレになって、下手したらほとんどがお尻を洗うご時世に替わって、自分の排泄したものをシゲシゲと見たり、匂いを嗅いだりする機会は激減したから、突然もよおして林などでする排泄は、現代人にはハードルは高いがかなり新鮮なはずだ。しかし実際には、そういう状況になることさえ、恐怖でストレスになり、従って自然には行かない、ということになる。不快昆虫の存在が林へのアクセスにブレーキをかけるのと同様である。 また、肉を食べるために動物を屠畜したりニワトリを〆たりする現場に居あわせなくなったのと同様、食べたものが体内を通って排泄される「自然」すら、人々は忌避するようになった。体内でも野外でも微生物によって土に還っていく循環、そして跡形もなくなる無常の感覚は、自然とどう付き合うかという考え方とも密接不可分だ。だから、自然理解と自然体感の重要なステップとして、時々は野外で排泄し、それを五感(ただし味覚はパス)で味わうことを勧めたい。あくまで、たま~に。子供たちにもっと野ウンチをさせておけばよかった…。自分の身体そのものがとてつもない自然で、その仕組みはまさに神業であることを自覚すると、自然観、世界観が変わるというのは本当だとわたしも思う。 ■1/31 地元金融機関の地味な貢献「郷土文庫」 地元の金融機関「とましん」がCSR(企業貢献)で発刊している2冊の冊子「とましん郷土文庫」を読んでいる。通巻30号は「ハスカップ~勇払原野の恵み~」、31号は「鮭~生命をつなぐもの~」で後者は昨年末12月に発刊されたばかりである。地元紙の記者だった新沼友啓さんと山田香織さんが文と写真を担当している。苫小牧と近隣の歴史をしっかりと取材して書いているので、この風土理解には欠かせない逸品である。これを長い間発刊してきた「とましん」の企業力もさすがだと思う。 「ハスカップ」を見れば、ハスカップが色々なステークホルダーが折々にいて、ここ苫小牧の独特のソールフードになっていくさまが、静かに描かれている。「鮭」は、千歳川のサケをアイヌ民族の人が勇払まで運び、場所請負が間に入って本州に移出していた様子がうかがい知れる。同時に、勇払川で捕獲してきた鮭が、工業開発で捕獲と養殖の候補からはずれ、錦多峰川など西の方に移っていく時間経過を知ることができる。これらが、信金の店頭で無料でもらえることに素直に感動する。勇払原野の風土に関心を持つ方なら、是非、入手されてはどうかと思う。「ハスカップ」では苫東コモンズも保全調査に関わる一機関として紹介されている。 ■01/29 雑木林で、立春前の春の日差しを感じて この時期、ここに来る人だけがもらえる幸せ。個々の山仕事は、ひとりひとりの孤独なものだが、ささやかな連帯もすこしある。 1/27 ネズミの奥地放獣(リロケーション) だいぶ昔のことになるが、北米大陸では街に出没したクマを檻で捕獲してクマスプレーなどで脅して二度と出てこないよう山奥で放すという、奥地放獣(リロケーション)を行っていて、それを中国地方の山の中で実践した人の話を聞いた。山奥とは言っても本州では稜線をまたいだすぐ隣町には迷惑な話でクレームが出るとのことだった。 先週、自宅の物置のタイヤを包んでいるポリエチレンの袋と木灰のレジ袋が破かれたので、もしやと思ってオーソドックスなネズミ捕り器をかけたら、朝、一匹がかかっていて暴れていた。またもや、怯えるネズミと目があってしまった。早く凍死してくれるのがいちばんいい、などといろいろ考えた結果、これまでのように裏山に「リロケーション」するのが一番、と決断した。案の定、ネズミは夕方になっても元気に生きていて、車にのせて数キロ離れた民家のない雪山で放獣した。自由の身になったネズミは一瞬たじろいだ後、一目散に新雪に飛び込んでモグラのように雪のもっこりを残して離れていった。 驚いたのは実は昨シーズン使ったままのネズミ捕り器である。今回の捕獲のために取り出したら、覚えのないネズミのような死骸が毛皮と骨が別々になって残っていたのだ。餌もないのに、かごの上から入り込んで出られなくなったのである。この夏、物置には腐臭があって、何かの死体があるとふんで床にあるほとんどすべての荷物を移動させ中身も点検したのである。腐臭もうすれ放置しているうちに冬になって忘れていた。その際に昨冬空にしたこの捕獲器にはまったく気付かなかった。が、これで謎が解けた。これからは定期的に捕獲器をかけ、物置の穴という穴はすべて塞いでしまわなくては。そして使わないネズミ捕り器は餌がなくてもネズミが間違って入ることのないよう、手立てしなくては。 それにしてもほとんどのものが解けてしまう生物界の見事さ。自然はホメオスタシスが差配する。それはまさに神わざである。 ■01/24 勇払原野の雑木林(萌芽再生林)は薪生産に向いている 苫東コモンズの現場では今、除間伐材の藪だしと搬出が盛んに行われている。個人的には、仕事でここの雑木林の除間伐を手掛けたのが平成2年だったから、もう足かけ33年になる。農家などかつての土地所有者が薪炭を採った後の萌芽再生林を、現在は伐採から40年後と70年後あたりの間伐、それからもう一度100年後頃の皆伐というの3段階の収穫モデルを想定して実践している途中であるが、潮風や霧など勇払原野特有の気象と、火山灰土の地味だけでも、いわゆる林業を行うには道内のほかの各地に生育条件はかなり劣るとされる土地柄だ。 だが、平坦であるため、手間を惜しまず抜き切りをして写真のようにスノーモービルを駆使することによって、林を傷めないで薪炭林として利用するのが、勇払原野の「適地・適木・適作業」であることがわかってきた。 薪炭のうちの「炭」づくりはやや特殊な装置産業だが、「薪」づくりはわたしたち素人でも、採算など度外視すれば作ることができ、かつ潜在的、継続的需要が高い。むしろよそに比べ飛びぬけて恵まれている土地だろうと思う。地域にはいわば見捨てられた、不動産として二束三文で取引されたヤブ山が、手入れによって林が美しく生れ変わり、地域の人が遊びに来るようになり、そして癒され、かたやでは暖房用の燃料も取り出せるから、一石3丁、4丁、あるいはそれ以上になる。時にはそれがリゾートにもなるという皮肉な事例も生まれている。 そして最終段階で皆伐によってよって萌芽更新を促すと、造林のための投資が要らない。夢のようなプロジェクトだが、この全体像が地域のコンセンサスに達するまでには、あと数十年待たなければならないような気がする。当然、コモンズの概念の成熟も待たれる。 ■01/23 七〇ころからの how to もの 年の瀬に娘からポルトガル料理のレシピ本などをもらった。ついでのように添えられていたのが高齢者用の心身の健康みたいなものだった。ひとつは和田秀樹著『70歳が老化の分かれ道』、もう一冊は綾小路きみまろ著『人生は70代で決まる』。前者は昨年上半期のベストセラー第一位、後者はわたしより一つ年上の人気の漫談家、老化を笑いに昇華する芸風で一世を風靡している。これは正月、寝転んで楽しみながら読んだ。昨日からは、五木寛之著『捨てない生き方』を手にして、昨晩は布団の中で開いた。氏は以前から林住期や白秋期など、高齢者こそ人生の本質がわかる時だ、実りの時間だ、などと年寄讃歌を連発している。わたしはその都度、いい読者だった。 人生後半は登山で言えば下山の時間で、人生を俯瞰できる貴重な時間で、「人生の下山で大切なのは回想と想像」だから、愛着のあるガラクタは人生の宝として捨てるべきでない、とのたまう。おお、とわたしは少し元気が出てきた。今年は断捨離の年にしようかと迷っていたのでちょっと踏みとどまったのである。断捨離やシンプルライフが象徴するミニマライズの逆、表題の通り捨てない生き方を提唱しているのである。4章まで読み進むと、ここで法然と親鸞が出てきて、彼らが捨てたのは「知識」と「教養」だったといい、うすい人間関係は続けた方が良い、などと、さすが、一般によく言われる教訓話とだいぶ違う話しになる。ガラクタに囲まれて回想の世界に住んだ方が認知症になりにくい、などというご高説もあった。なるほど、これは一理ある。が、庶民には、ガラクタに厳しい配偶者というものも居る。こういう本は、その人その人の人生の極意と本音が聞けて、実に楽しい。五木寛之氏はわたしと同じB型だということも知って、ナントナクうれしい気がしたのも、正直、かなりアリガタイレベルにきたということか。。 ■01/22 今年は日高山脈の年か 今朝の日曜美術館は十勝の原野で開拓生活を送った山岳画家・坂本直行さんの特集だった。NHKの総合テレビでも前宣伝として断片的に紹介していたので久々に日高の山並みと原野が思い起こされていたところだった。見落としたが昨夜は、大学のワンダーフォーゲル部の後輩にあたる野村さんが、北海道縦断をしたドキュメンタリー番組だったようだが、予告で見たシーンでは日高山脈の冬の稜線を歩く彼を空撮していた。どうも、この頃日高山脈が近い・・・と思っていたら、そうだ、ひょっとして今年は日高山脈国定公園が国立に格上げされる年だった、と気付いた。直行さんには、若いころにずいぶん励まされたような気がするし、山々や自然の淡彩スケッチを始めるきっかけともなった。自然と向き合う自然体とたくましさが凛としていて、かくありたしと思った人は少なくないはずだ。山に登る人でわたし世代前後の人は、この坂本直行さんと言えば日高山脈、日高と言えば直行さん、という連想が強いのではないだろうか。書棚から直行さんの有名な画文集『雪原のあしあと』と『原野から見た山』を取り出してみよう。 ■01/19 ケプロンを驚かせた銭函の小屋 薪ストーブを自宅で使うようになってから、特に北欧など欧州北部との比較をすることが多くなったような気がする。昔、フィンランドに森林を歩いたことや森と語るメンタリティなどは、ドイツ人の森への憧れとともに頭から離れない。結果、大きい彼我の差を探るエンドレスの旅のような自然観、風土観を意識するようになった。 かたやには、北海道の寒冷で湿原の多い開拓前風土が、頭の中で思い起こされる。特に、開拓期早々、国防と開拓のために勇払に入植した八王子千人同心が冬を越せず、多くが亡くなった話や、明治30年頃、和歌山は十津川村の災害で、北海道に移住した約2500人のうち100人はその冬に肺炎などで亡くなったという事実などに如実に現れている。 同じころ、国木田独歩が空知川のほとりに新天地を求めて約2週間の旅をしたときに見つけた現地役人が駐留する開拓事務所の、余りの粗末さに驚き、役人からはヤメタホーガイイ、という意味の嘲笑ともアドバイスともつかない言葉をかけられたのも、軛(軛)をひとつにするエピソードだった。 要は北海道開拓は、本州において弥生式の農耕が行われていたころの家屋とほとんど同じ高温多湿対応の住まい様式がそのまま北上して持ち込まれ、内地文化を維持しようとしたものだった。そしてそれは昭和あたりまで続き、暖房を重視した北方型住宅や断熱工法の本格的研究は戦後のようだ。 司馬遼太郎の『街道をゆく 15』の「北海道諸道」を読むと、司馬は、明治4年、北海道開拓計画に関わった米国人ケプロンが、小樽に上陸し札幌に向かう途中、銭函の小屋に一泊した際に、その余りの粗末さに驚いている様を紹介している。悲惨である。ケプロンは南北戦争の兵隊ですらこんなひどいところはなかった、と述べたという。一方、開拓行政トップの黒田長官は当時薪ストーブの存在を知って試作させたが根付かなかったと司馬は書いている。我慢と根性だけでは生き延びられない、過酷でもある風土を持つのがわが北海道であり、自然との関わりや精神的なこと、快適さの感性など、フロンティア期を本当に過ぎているのか、わたしは自問することがある。 ■01/17 待望のFM誕生か?! 苫小牧の小さなミニコミ誌「ひらく」が、新年早々うれしい特集をしている。人口の割にFM局がないのはおかしい、などと他人事のように言う人もいたが、遊び気分とは違ってビジネスだから、何かと立ち上げが難しいのだろううなあと思ってみていた。その実、なんどか開局の試みはなされたようで、これまで結実に至らなかったものだ。たかがFMなどという人もいようけれど、わたしは街の民度を示すような重要なツールだと思っていて、チャンスがあれば是非応援したいと思っていた。『ハスカップとわたし』を発刊する際にも、街づくりのプロジェクトとしてハスカップ・イニシアチブを想定し、ハスカップを真ん中に置いて、市民の集うプラットホームのようなものを標榜していたから、スキームとしてはゴールの一つに、当然のようにFM局を掲げていた。 ただ、無責任のようだがこれに関わる人たちは次の世代のように感じていたために、聞き耳をたてつつ地域FM開局の事例調べなどをしながら、地域FMの研究者などと交流を持った時期があった。記事の写真で見る限り、スタッフも若々しい。今年6月ころの開局を目途にしているというから、実に楽しみだ。番組制作講座も開設されるので顔を出してみたいと思う。山田香織さんの、この「ひらく」といい、FMといい、新しい世代のエネルギーをギンギンと感じる。 ■01/15 象徴的な山の仕事 山の手入れ、などというと聞こえがいい免罪符ではないのか、本当はどうなのと疑問を持つ人がいる。わたしはいちいち、反論はしないが、昨日、現場を巡っているときに見つけた、あるメンバーのこのような枝片付けを見てもらえばおよそ察しが付くのではないか。地域の人が気持ちよく歩けるように、除間伐で生れる散らばった枝をこんな風にていねいに寄せて片づけるのである。パフォーマンスではない、自然に向かう姿勢がひとつひとつの作業風景に表現されるのはうれしいことではないか。ただ薪が欲しい、という人はこんなことはしない。 ■01/13 あの世に行くまで自由時間、という強み 年末からパソコンの作動が急に重くなりとても使用に堪えない状態になった。年末年始には過去にもトラブルになったことがあったが、時にはパソコンを初期化したり、それはそれはストレスの多い難事だった。ところが今回は少しもあわてなかった。考えられることを一つずつ探り原因を絞って、CPUやメモリーの使用率やウイルスソフトの負荷などもチェックした。慌てず、ゆっくり、数日で復旧したのだが、かつての狼狽と今回のこの差は何かと言えば、まぎれもなく高齢者のアドバンテージではなかろうか。あの世に召されるまで自由時間だ、という余裕である。締め切りや約束がない、誰にも迷惑をかけない、だから慌てることはないという信号がやってくるのだ。これは実にありがたいことだ。数日前から、寒中見舞いに一言ずつ書き添える楽しい作業を始めたところだが、この余裕のおかげで、一人ずつ顔を思い出して個別のフレーズを綴っていくことができる。ありがたい話しである。 ■01/11 山登りの間に巡る思いの差 もう半世紀の前の話しですが、たしか女性で初めてヒマラヤの8000m峰のマナスルに登頂したMさんに、「登りながら何を考えているんですか?」と伺ったことがある。うろ覚えの記憶になったが、おそらくは彼女の山の会の山行に客人として参加した石狩岳のシュナイダーコースだったような気がする。残雪のステップを切りながら、Mさんは「これから先のことかなあ」と静かに応えられた。「先のこと」、山の登りはいつもロッコンショウジョウのような思いだったわたしとは真逆の答えに、さすが、と思うと同時にちょっとびっくりした記憶がある。70歳を超えて一年、やっとその境地に来れたような2023年、1月。 ■01/08 歌に見る庶民の共感 16 先の1/4 に紹介した短歌集で、この項の対象とした庶民ではないが、歌人のさすがと思える印象的なものを幾つかあげておきたいと思います 。 ◎海なりし昔おもひぬ湿原を蘆くねらせて風わたるとき 奥泉一子作 ……7000年ほど前は海だった湿原というものを見慣れていると、つい海だったことを忘れがちだが、この殺風景なヨシの揺れる姿はたしかに大昔を懐古するきっかけになるかも。もう50年ほども前のころ、野ネズミの殺鼠剤を播くために、毎年2回、ヘリコプターに乗った。ある年、若いパイロットは播き終えて帰るとき、このヨシ原をうねるように飛んで,、ヨシが左右に揺れるさまを楽しんで遊んだ。湿原にシカの足跡が無数にあった。いい時代だった。 ◎縄文土器掘りたる跡に水溜まり映れる空を今日の雲行く 石山朝次郎作 ……これも縄文時代を見晴るかすきれいな歌だ。一万年も前の縄文人も見た雲だが、今日のオリジナルだ。この一足飛び感覚がさすがと思う。 ◎屯田兵三世我等痛恨の決算沃野をリゾートとなす 那須愛子作 ……農家の奥さんだろうか。痛恨の、が痛い。土地を売る痛み、悔やみ、無念さ。短い歌だけに、伝わる「痛恨」がさぞやと呼び起こされた。 ◎アイヌの血受け継ぐ人らと踊りつつふつふつと湧く哀しみのあり 菅原恵子作 ……偶然なのか、この歌も古に思いを馳せる作品だった。風土と人々と思いを表現する短歌という芸術の底チカラだろうか。そこには歴史を見る目と人々への共感や思いやりがある。 ■01/05 渡辺京二さんと龍村仁さん 昨年末は、愛読した渡辺京二さんが鬼籍に入られた。『逝きし世の面影』で古き良き日本人の原型のような姿にふれ、自虐的な方にブレがちな流れの対極にある、大いなるインパクトを感じたのが今は懐かしく思い出す。日本人が戦後、米国の洗脳に気付かないまま国の根幹を失いかねない現状まで来ている今、氏は日本人の素顔を、来日した外国人の観察記録で再現して見せた。『黒船前夜』では、和人がアイヌから略奪し虐待したとする松浦武四郎のアイヌ史観とはまた違った風景を描いた。わたしは松浦武四郎の生地・三重県松阪市に武四郎の博物館を訪れて少しニュートラルな武四郎像に少しでも触れることができたのは良かった。渡辺さんが支援した石牟礼道子氏の『苦海浄土』は勇払原野の雑木林に敷衍して、開拓の歴史と自分の地域活動を重ねてみる静かで熱い機会となったのは記憶に新しい。 今朝の朝刊では、ガイアシンフォニーの龍村仁監督のご逝去を知った。ガイアシンフォニーは全国の自主興行に支えられ、過去の9作品欠かさず見て、苫小牧での上映では王子製紙の成志会館で行われたスタッフの懇親会でツーショットを撮らせてもらったが、写真は見つからなかった。自然とスピリチャルな交流を、これほど丁寧に追いかけた監督は知らない。共感することも多かった。ヨガや冥想をたしなむようになったのも、監督が追い風を吹かせてくれたような気がする。お二人ともわたしにとって輝く巨星だった。 合掌 ■01/04 短歌が謳う北海道の風土 正月2日のラジオ深夜便のトップ「ほむほむのふむふむ」は、歌人・穂村弘と俵万智のスペシャル対談で、深夜の約2時間、興味深く聞いた。驚いたことに2022年は短歌ブームだった、というのである。わたしはそんなこととはつゆ知らず、読売新聞が毎週月曜日に掲載するの歌壇俳壇の作品のうちから、毎日早朝10~20を声を出して読むことを、早起きして通勤しなくてもよくなってからの日課にしてきた。ボケ防止も意図した「早朝音読」である。 その一方で、定年後の最大の愉しみは歴史を探ることで、最近は特に、開拓前後の北海道の風土と基盤整備(インフラ)の様子、そこで人々は目の前の手つかずの自然をどう見ていたのかという精神史のようなものに興味が湧いていた。開墾の前に立ちはだかった原始の自然に、人は生半可な精神で立ち向かえないはずで、それを先人はどう乗り越えたのか、心のよりどころは何だったのか。しかし、「風土」などと、やや情緒を交えた描写などとはそうそう出くわすわけもなかった。 それもそのはず、わたしが紐解いていたのは、いわゆる開拓の歴史のような文献が主だったからである。年末の師走になって偶然のように写真の本に出合ったのである。これはもう30年近く前に出版されたもので、開拓最前線と言えるものではないが、大正と昭和初期生まれの歌人らが見た旅の風景や生活景、さらに農業者の歌も網羅されて、かつ意外にも勇払原野や近隣を題材にしたものも非常に多かった。わたしの干支・ウサギ年、今年も実り多い良い年になりそうだ。 そして自然や風土が、深く濃縮されて短歌という短い作品に結実されていることに気づいた。概観すると、荒涼とした北海道の風土に立ち向かおうとしているのは、主に男性であり、女性は「風土にくぐもらせ」人の心理などを風土の中に歌いこんでいるようだ。寒冷地、原野の荒涼、そうでありながら四季の移り変わりに潤いを感じて生活を折り合わせるような営みを彷彿とさせるものが多く、重みのある記念すべき読書だった。 ■2023/01/02 年が明けて 昨年、義兄が鬼籍に入られたため、年頭のご挨拶を失礼しました。穏やかな年越しを今年も読書で過ごしました。年が改まる前に、その年に読んだ本や旅行や出来事などを拾い上げて振り返るのがルーチンになりましたが、こうして列記したものをポイと忘れ去って、さて来年は何をしようと、気分を一新できるチャンスというのは、なかなかあるものではありません。たとえそれが長続きしなくても、思いひとつで年忘れになると言う巡りあわせはささやかな発見。うさぎ年生まれなので今年は年男(この歳でもそう呼ぶの?)なのだそうですが、晴林雨読を軸にしていろいろ旅行もしてみたいと思います。ところで、旅、これの企てがこころをウキウキさせることを知りました。と同時に、それは旅だけではなく、前向きな計画そのものに潜んでいる、というのも事実のようです。これは意外と役にたつかも。 |