〜サラリーマンの新「森の暮らし」〜 林とかかわる動機 コナラの雑木林は四季の見え方に折々感動することが多い。このコナラの雑木林と付き 合っているうちに、もう10年以上もたった。もっと手入れをしたらどんなにいい林にな るのだろうという、ごく普通の動機でなにかにと手入れを続けてきたのだ。その行為は 北海道にはあまり見かけない、新しい「里山づくり」だったような気がする。もともと 厚真の農家の薪炭林であったから所有者は代わったが、萌芽再生林を受け継いで新しい ニーズを探りながらという意味では、里山ニューフェイスのちょっとした船出でもあっ たわけだ。 そんな作業のなかで、わたしは雑木林にいることやそこで何か作業をすること自体に 森林浴という言葉では表せ切れていないもっと別の恵みがあると感じ始めていた。それ は何であり、どういうことだろう。そしてその恵みと付き合っていくとどうなるのだろ う。そんな多少胸躍る探究心をどこかに感じながら、わたしは流れに身を任せた。自分 を実験台にして、林とのやり取りのうちに感じる変化を克明に記録していこうと思うよ うになった。そしてそのつど、それが主として何によってくるのかを文献などに探って いったのである。 「flow with it」。流れとともにやっているうち、思わぬところにたどり着いた。ヨ ガ、冥想、気功の世界である。そして冥想と免疫の関連分野も目を離せない勉強の対象 となっていったのだった。林の中に従来の林学や森林科学で扱ってこなかった、ものす ごく多くの未開拓分野とテーマがあり、発見があるのである。今その入り口のドアをた たき中へ少し入り込んだところだろうか。 林の作業メニュー この何年か、晩秋から雑木林の間伐を始め早春3月末頃に終える、というサイクルを 繰り返してきた。サイクルはそれで終わらずに、現場からトラックを使い小屋の前まで 運ぶため、ある時は作業を応援してくれた仲間、ある時は前の勤めのOB、またある時 は薪を必要とするグループなどが、それぞれ材の運搬の手伝いにくる。そのあとは、再 びわたしが薪のサイズにチェンソーで伐っていく。かたわら、たまり次第少しずつ割っ て積んでいくという作業が、これはほとんど夏前後まで、遅い年には新しい間伐が始ま る直前まで続くのである。その日の作業が薪切りか、薪割りかはその日の気分次第で、 チェンソーは気乗りしないときは手にしない。雑草刈りだけは気分しだいとは行かず、 毎朝の髭剃りのように、小屋周り、フットパスなど毎回少しずつ手がけることにしてい る。 もっとも、わたしはしがないサラリーマンであるから、もちろん、林の作業は週末の 土曜日か、日曜日かどちらかで、日常化できるのは週末だけに限られる。しかし、願望 としては毎日日常的につきあいたいのが本音だ。そのジレンマをこめて、わたしの週末 の日々は「週末日常」と呼び始めた。日常、という以上、雨でも吹雪でも原則的に出か けるから、年間を通じると50日から60日、この林に入ることになる。サラリーマンの苦 肉の策だが、週末日常を家から車で30分以内に設ける、ということがミソである。こ れ以上は日常化するのがだんだんと難しくなっていくのだ。 さて、2002年の秋からのシーズンは、小屋の東のカラマツの保安林1haを借り、11月 末に間伐を開始した。保安林だから、伐採など保安林内の行為について許可を取る必要 があるが、これは林を所有する会社の方が手続きをしてくれた。「なにか、申し訳ない ね」とオーナーは言ったそうだが、これは所有者トップから聞いた保育への初めての反 応であった。だがそのせいか、やっとどこかで行為と所有がつながった気がした。人が 林を所有することなしに手入れを行う場合、このつながりはとても大切だ。 カラマツの間伐の作業は、これまでやってきた雑木林のそれとは違って、樹高15m前 後の混んだ林から少しずつ抜いていくもので、この場合なかなか伐った木が倒れない。 密度が高い分だけ枝がからんでおり、また従って林が暗い。かたや、選木がわかりやす いという気安さや、間伐を終えた箇所の風景の変わり方がはっきりしているなどやりや すい面もある。規則正しく並んでいるその分だけ、ノルマ的な意識はカラマツの方がは っきり強い。だから、先が見えるまでは仕事に追われるといってよい。前半はだからち ょっとつらいプレッシャーがある。 林への気づき 雑木林やカラマツの林を、チェンソーを使いながら手入れしていく過程で気がついた ことが3つある。ひとつは、「樹木個体」とのつきあいが生まれること。顔の表情まで は見て取れないが、体勢がゆがんでいたり、ほかの木に押さえられていたり、枝先がこ すれて枯れ始めていたり、ほかの木と交差していたり、はたまた、古い太い枝を枯れさ せ上の方へと伸び始めていたりするその様々な表情を見て取る。それらを一本一本見定 めて、印をつけたりしながら抜いていくのだ。だから、どうしても木を見る。 シーズン最初の作業の前に林に手を合わせ、もちろん山の神への参りも欠かせない。威 風堂々としたやや太い木を切らざるを得ないときは、思わぬ事故に遭わないようあらた めてお祈りしてから気を込めてチェンソーを入れる。いずれも、漠然と木を見ていたス テージとは大きく違っており、横倒しした樹木は枝を落としながらじっくりそのプロフ ィールを観察したりもする。こんなとき、ツルに巻き付かれた梢が息もできないように からめ取られているのを目の当たりにするのだが、これなかなか痛々しい。林の中の作 業は、このようにいやが応にも漠然とした林の雰囲気とのつきあいから、よりもっと具 体化し、より個別化する。そこに群れとして付き合っていたときとは違う新たな「出会 い」が生じるわけだ。これは樹木個々と触れあわないと出てこない心の動きだ。こうし た日々が重なると、散策するときも木の一本一本に目をやり触れたりするようになって くる。 もう一つは、「作業後の達成感」だ。一般的に仕事というものは大なり小なりのやり 遂げた満足感を伴うものだと思いこんでいたが、意外に徒労感だけが残る、ということ もままあり、仕事の区切りも満足感も覚えないまま次のステージに移っていることも少 なくない。そう言う点で間伐は、やってきた場所を振り返ると足跡が一目瞭然で、幾分 開けた風景の変化も見て取れるから、毎度の仕事の積み重ねが手に取るようにわかる。 些細な達成感に違いないにもかかわらず、日常の業務では味わえない単純な爽快感を伴 っている。それはブッシュカッターなどを使った草刈りも同じだ。 さらに毎シーズンの間伐の作業で気付いたことの3つめは、達成感とは別な気持ちよ さである。「生命が喜ぶような」と表現したい爽快な充実感である。個人的な感覚でい えば、雑木林を間伐していたときは、身体反応はどちらかといえば単にフィジカルな、 肉体そのものの、きつい、やすらぎ、といったものだった。ところがカラマツではそう でなく、もっとメリハリがあり、リラックス感を持っている。仕事の合間に深呼吸する とカタから余計な力が抜けていくような感覚があり、肉体はクタクタに疲れているのに 爽快感がある、といった具合だ。作業を終えて車で林を離れるとき、フーッと息をつい て「今日も元気をもらった」と述懐したくなるのである。 カラマツ林の「まほろば的空間」と不思議な「気」 わたしはこの理由をずーっと考えていた。そして2つのことに思い当たった。 1番目はカラマツの樹形がもたらす印象である。冬、墨絵の世界のようなカラマツ林は バーチカルな樹幹の林立が時として荘厳なカテドラルのような構造物にみえることがあ る。林というよりもいわばステンドグラスのまぶしい教会のようなもの。そう、手入れ を待っている冬のカラマツ林は暗いのである。そこに陽光が射しこむ。2003年のシーズ ンもこのカラマツ林を手がけているが、今シーズンはさらに「まほろば的空間」を感じ 取るようになった。 いや、不思議な感覚は以前から感じてはいたのだが言葉をもたなかったのだ。そこは 40年生ほどの普通のカラマツだが、小さく緩やかな尾根筋に囲まれた平坦地なのであ る。外界と遮断され別天地に区切られていた。晩秋のある日、数年ぶりに踏み込んだ瞬 間にわたしは息を飲んで、「あ、まほろばだ」と心の中で叫んだのである。むろん、「 まほろば」とは何なのか、厳密に定義はできないのだが、そもそも極楽のような、とい う形容を使うこと自体、最初から曖昧さは含まれてしまうのだ。極楽を見たのかといわ れると答えが詰まるのは道理。だから、ただなんとなく、フィーリングというやつ。 そして過日。風雪のある日、カラマツの冷たく暗く一見さびしい林に憩いのスポットを 感じたのである。林がゴーッとうなっており、ヘルメットのイアマフ越しにもしっかり と聞こえるほどの日だった。幹は横殴りに張り付いた雪で白く見え、視点を移動すると 少しずつ黒い幹が見え始める。 暗くて頬に当たる雪が冷たい。作業を休むと体も冷え込む。メガネは雪とおがくずで 見えにくくなる。メガネの汚れをふき取りながら、ふと残りの間伐予定地を回ってみる ことにした。ゆっくり墨絵を味わっていると、バーチカルなカラマツが妙に神々しいア ートに見えてくる。そんな時林は墨絵の世界に変わり、まるで劇場や美術館にいるみた いである。。暗く冷たい独りだけのカラマツ林だが、小さな低みに立ってカラマツたち に囲まれてみるとその位置と林を見るアングルがとても落ち着くことに気がついた。あ あ、ここにも「まほろば」がある。カラマツに囲まれた低みはどうしてこんなに人を和 ませるのだろうか。真冬のカムイミンタラのようなものをカラマツ林に見たような気が したのである。 カラマツの間伐をしながら気づいたもうひとつの理由は、カラマツの発する「気」で ある。この「気」が、作業するわたしを元気にしているのではないか。ある日わたしは 作業をする前に山ノ神のある林に出向いてからマツの大木何本かと対面し、手をかざし ながら深呼吸をしていた。トドマツやカラマツ、コナラなどで感触の違いはないだろう かと、ちょっと試しにやってみたのである。比較的カラマツに惹かれていたので、直径 70cmほどの数本の前で念入りに呼吸していた。ちょうど気功のタントウコウのような ものである。ただしこのときのわたしは深呼吸と手をかざしただけで、樹木と一体化し たいというイメージはもっていなかった。 このあと作業場所に移っていつもの間伐を始めたところへ、Nさんが手伝いにきた。 二人で昼遅くまで仕事をして遅い昼食をとった。帰るとき、わたしは随分体が軽く心身 とも元気になったような気がしていた。運転しながら呼吸はかなり深く、満足感にみな ぎり気分が爽快であった。あまりに明快な心身の変化だったので、家からNさんにメー ルして彼の心身の変化を聞いたのである。それまで2,3回の時とまったく変わらない という返事だった。 わずかな体験であるが、この時からわたしは、カラマツはわたしにとって相性がよく 、目に見えないエネルギーの出入りが存在するのではないかと思い始めていた。そして 今なお、手入れ作業のつどそう感じ、その感覚が否定された日がない。 カラマツという植生と低みのランドスケープが創りだす「場」、そしてカラマツが持っ ているエネルギーのようなもの、ここでは「気」と呼んで見たが、それらがあの小さな 現場にはあると感じている。 *上の写真はフィールド内のものですが本文との脈絡は特にありません。