定点から風土を眺める

NO.128

2024/10/02

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NPO苫東コモンズ トップ


このところの山仕事はグループで行うものから離れて「ひとり」のシニアメニュウをこなしている。思い起こせば、平成9年、静川に雑木林のための山小屋が建って、その翌年に勤務先の経営破たんで職場が札幌に代わったが、小屋を根城にした山仕事はひとりで続けていたから、いわば、昔に戻ったような感じだ。なんとなく今の雑木林生活が懐かしいのはそのせいだろう。

と同時に、のっぺらぼう状態で続くただの広葉樹二次林ともいわれる林の真っただ中にこの小屋が建ってから、周りがやがて小さな里山風の光景に変わっていくさまを、おそらくわたし以外に鮮やかに刻印した人はいない。開拓が始まって100年ちょっとだから、林の多くは人跡未踏に近く、道のない林の中を歩くようなときは、「この場所はほとんどだれも訪れたことのないところではないか」と思う時がある。

見方を変えてかっこよくいえば、数十年、ここから勇払原野を定点観測していたことになる。眺める、というよりは木を切って風土を感じていた。こんな経験をさせてもらえたことは、一生の宝だと思える、そんな歳になった。この一帯の自称「勝手な後見人」だ。




清掃の極み、「掃く」そして「拭く」

2024/10/2 wed くもり 22℃

■掃除の徳

小さな自宅の庭のインターロッキング約30㎡には、ハンギングバスケットやコンテナから落ちる花びらや枯れ葉がおびただしく落ちるので、早朝4時半から6時の間にその日一日の始まりとしてほうきと塵取りをもって掃き掃除をする。そうした静かな誰にも邪魔されない時間をくぐると、掃き掃除とは、寺の雲水の作務、修行に似ているのではないかと思うようになった。雑木林も庭も、清めながら胸の膨らむ空間「イヤシロチ」を目指したかったのだから、この発見はひとしおであった。

数日前の煙突掃除で、小屋の床を煤で汚してしまったので、今日はマイナスをゼロにする、お詫びのような小屋掃除が待っていた。まず、掃いて、バケツに水を入れて雑巾で拭いた。拭きながら、跪いて拭くという動作は、どこか祈りにも似て、先週実は、すごいな、と思ったのだった。所作が小さな気づきを呼ぶ。



そんなわたしの思いに水をかけるように、小屋のベランダでは、アライグマと思われる動物が糞を2か所落として、今頃になってスズメバチの巣をこわしてあさっていた。糞は未だ柔らかかったので今朝か昨日のしわざだろう。立派な狼藉である。

■山椒の秋の実



先日の日曜に家人と高丘の森林公園を歩いているときに、秋の山椒の実を見つけた。赤い果肉が割れて、中は黒い硬い実だった。自宅裏の山も山椒がよく目につくが、高丘も普通に見つかる。

6月末頃収穫する実はだいたい冷凍して1年で食べきるが、このごろ中華料理屋の麻婆豆腐とどうもひと味違うと思って調べて突き当たったのが「花椒」だった。山椒だけではまだあの深みが出ないのである。




林との付き合いいろいろ、研修

2024/10/05 sat~06 sun 快晴 22℃

恒例になった苫東コモンズの森づくり研修、今年は旭川。10/5は「もりねっと」の山本さん、10/6 は「ペーパン木炭?」の大橋さんにガイドしてもらった。



縁あって「もりねっと」は平成25年(2013)に一度お邪魔しているので2回目になるが、メンバーはわたし以外は初めてでここでも世代交代の時間経過が垣間見える。指定管理の突哨山と、山本さんの持ち山を案内してもらい、現地では熱心な質疑が相次いだ。密度の濃いやり取りに山本氏は「こんなことなら勉強のためにスタッフも連れて来ればよかった」と言っていた。終わったのは午後5時半、山の斜面や棚田は黄昏ていた。



翌日は炭焼きの大橋さんを訪問。どのようにして炭を作るのかのイロハから始まり、製品化、流通、採算まで具体的な質疑がこの日も続いた。

地域の樹木をどう収穫し、保全し、利用するか、その付加価値化の度合いが高いほどビジネスとして成功率が高いが、その辺は実に微妙であり、今のところ地元の「旭川家具」を超える付加価値創出のモデルはないと思われるが、森づくりという川上から超エリートの川下の家具製造まで地元でつながりがある、というのは旭川の大きな特徴である。

色々なアプローチで樹木を活用できればカスケード利用とも呼ばれる多角化につながるが、その仕組み、制度作りは依然として道半ばである。今のところ、ベンチャーのエネルギーを持った志ある人が各地でゲリラ的につながって足跡をしるしている。

日本各地で森に限らないが自然や農の魅力に憑りつかれ心折れそうになりながらもがんばっている人を何人も見てきたので、内心応援しながら打開の芽が出るよう折るようにみている。何かにしがみついて志に燃えている若者、それを支援し応援している家族や関係者を知るのはこちらもうれしくなるものだ。

ちなみに林学には、「適地・適木・適作業」という、土地土地の立地に見合った森づくりがあるという大原則があるが、そこに「人」というファクターが大きく関与するということが、今回の研修でも明らかだった。




この秋、初めて薪ストーブを焚く

2024/10/09 wed くもり 外18℃、中10℃

■秋は近いか




キノコが出るにはまだ十分な刺激がないのだろうか。少なくともボリボリが出ないし、シメジが出るような寒気もない。上二つは、数日前に旭川の林でみたもので、左はチャナメツムタケのような感じだが、ナメコのようなぬめりが強かった。上右はカバに出ていたヌメリスギタケモドキか。

10/9 静川で見て食指が動いたのは下左、カノシタのようなもの。列をなしていた。郷里でカノコと呼んで納豆汁に欠かせないとしてよく入れていたと思う。右は定番のボリボリ(手前4個)だが、フットパスを一回りしてもこんなものだった。

■初焚き


先週、煙突掃除を終えている。吸い込みは十分。初焚きは秋を迎える儀式に近い。室温10℃。

のぞき窓の煤も落としているので、とりあえずはいい感じ。

ルーチンとして、テラスの炉は、周りの枝を拾って数時間燃やし続ける。炉のヘリに座って枝をくべ、無為の時間を過ごす。


雑木林だより NO127 のタイトルは「無為のしあわせ、来し方の受容」だったが、来し方など何も考えずにただ無心、放心である。思えば、何かをすることにずっと追われていたのだろう。シニアの里山時間は「自由」であり、何もしない、考えない、計らない。これは歳が引き寄せてくれる能力みたいなものか。引き寄せてくれる環境は、静かさ、林のスピリチャリティ、炎、そして循環の感覚だろうか。




来シーズンの薪のための20本選木

2024/10/12 sat 晴れ 18℃、中10℃



朝の最低気温が10度を下回って来た。そろそろ霜が降りて紅葉がピークを迎えるはずだが、まだ緑はほとんど変色せず林は緑である。なるほど、フットパスはようやく去年の落ち葉が朽ちる直前だ。

今日は来シーズン(来年2025年秋から翌年)の薪用に、掛かり木や除間伐を要する樹木約20本にマーキングした。何度も下見した結果の最終選木だが、驚くほどあっという間に終わった。言い換えれば、里山、裏山のような十分広い面積をもしを持てば、自宅用燃料などはいともたやすく調達できるということである。おそらく、除間伐のあとはどこがどう保育されたのもかわからないほど軽微なはずだ。

11月からの平日、一人でこの作業をできると思うと、幸福感が湧いてくる。そしてこれもあっという間に終わるだろう。わたしのなまくら根性がこの時間を引き延ばしたくて、ダラダラと引きずるだけである。といっても、もうなにも急ぐ必要もない。敏捷性とバランスを失った身体の不自由さは、もう決して急がせないようにできている。





栗の大木連なる尾根筋を歩く

2024/10/13 sun 快晴 18℃

苫小牧市の森林の公園を集中して立て続けに歩いて9日か10日になる。前回、入口をわからず歩けなかった錦大沼公園の樹木園の入り方が見つかったので、温浴施設「ゆのみの湯」に駐車して樹木園に入り、柵の出口から沼を巡る尾根径に出た。



シカの食害を防ぐネット内は1ヘクタール余りでその外周を巡っていくと高台がある。そこの下り階段はカツラの並木になって楽しませてくれる。残念ながら並木はヒョロヒョロして少し貧弱である。



樹木園の裏木戸を抜けるように柵をあけて大沼を1周するフットパスに出ると、そこは4km近い周回路でちょうど尾根筋だった。しかし樹木が茂っていて湖面はほとんど眺めることはできない。ただ尾根筋はなんと直径が60~70cmもある栗の大木がデンデンと立ち並んでいる。久々に手をかざしてみると、かすかに気を感じるようだった。20年近く前、英国のコッツウォルズのフットパスを歩いた折に、径沿いのブナの大木に感動したのを思い出したので画像を探してみた。



確か5月の末だったから緑がまぶしく優しいが、錦大沼も同じ時期なら緑滴ること疑いなしだ。ただ海外と日本、そして北海道は空気の色が微妙に違う。特に英国はいつも曇っていて庭や木々のトーンが実に美しい。ガーデニングの写真は曇り空で撮るべき、とあの時強烈に叩き込まれた。



やはり大木はいい。あることだけで嬉しい。



となにやら見覚えのあるキノコが群生していた。とっさに夜の鍋を思い浮かべたが、どうも毒のあるツチスギタケモドキのようだった。家に持ち帰ってあらためて検索してみるとやはり食べられないことを確認してちょっと助かったような残念なような気がしたが、立ち止まって良かった。



舗装道路に降りるとそこはオートキャンプ場になっているから、尾根筋とは別世界だ。連休の中日のせいか、車と大型テントがびっしり並んで、子供たちは跳ねあそび大人はのんびり寛いでいる。音は静かだが相当な人出だ。さすがに日本屈指のオートキャンプ場である。

こうして集中的に地元の森林公園を歩きながら、ずいぶん手をかけた、グレードの高い緑地を苫小牧市民は持っていることがわかる。欧州で見てきた憧れの森と、もちろん、質は違うがコンパクトで変化に富んでいる点など遜色がないのではないだろうか。1周しても2,3時間あれば戻ってこれることやサインが完備されて道に迷う危険が少ないこと、路面が良く歩きやすい点など、数え上げればいくつも出てくるだろう。唯一、支笏湖の森林地帯と地続きだから、時々ヒグマが出没することは気が抜けない。

一方、わたしは歩きながら、行政の担当者や設計者や管理に携わってきた人々の顔を想像していた。快適なまちの環境のためには、公園や郊外の森林などの緑は不可欠と認識される今日だが、欧米の都市計画を見習って日本の都市公園の施策は実に急激に進んできたのではないか。それに緑を大切に思い位置付ける教育も発達してきた。

さらに、胸の膨らむ尾根筋を忠実に径をつけてくれたことに感謝もし、仕事とはいえ、組織として人から人へと交代しながら淡々粛々と業務として携わった人びとの流れを思い浮かべずにおれない。プロジェクトの主体の顔は見えないが、いつのまにか積み重ねられて宝のようなものが出来上がっている。たとえ利用する市民が今は多くなくて行楽の賑わいはなくても哲学をするような寂しい山道が出来上がっていることは、やはり恵まれた環境の一つだと、称賛の意味も込めて挙げざるを得ないと思う。




待望の五目キノコ採り

2024/10/16 wed 晴れ 18℃

■紅葉は遅い



気温は朝でもさほど下がっていないから、風景は夏の終わりに似ている。しかし週末から寒気が来るというから紅葉のピークは来週末ころとなって、なんだいつもと同じでないか、ということになりそう。

■6種のキノコ採る



ただ、キノコの方が寒さの刺激を待ちきれないのだろう、歩いてみると合計6種の食用キノコを見つけ、採取した。最も群生していたのは、上のクリタケ。残念ながらさほど美味ではない。見た目と歯触りがいい程度だ。とはいっても群生する様は、なんだか宝物を見つけたように派手目なパフォーマンスである。



うれしいのはエノキタケだ。古いナラに地味に出始めた。これは朗報だ。収穫期が比較的長いから来月まで切り株めぐりを楽しめる。



このほか、ハタケシメジ、カノシタ、ナメコ、そしてナラタケの6種を採ったが、家人と二人の食卓で食べきる量となると、大したことはない。豚バラ、豆腐、しらたき、白菜などとお酒と塩味を利かして白銀なべにした。混然一体となった2024年秋のキノコ味覚は申し分ない。




朽ちていく美、傾く陽ざし、秋の魅力

2024/10/20 sun 10℃ 晴れ

手術前後の運動不可による機能を回復するために、今できるだけ歩く努力を続けている。しかし、近所だけではもうほとほと飽きてしまったから、今年は晴れた日は10km圏内の森林に足を延ばしている。今日はやや範囲を広げて隣の白老町のポロト湖自然休養林に来てみた。



バンガローとキャンプサイトのあるエリアを見ながら奥(北)の方へひとり歩く。一帯は国有林だから、インフラもしっかりしているが道有林や私有林とも微妙に異なる雰囲気がある。ともかく誰もいないキャンプサイトはどこも悪くない。沢の向こうでオスジカと思われる鳴き声がずっと聞こえている。ヒヨドリが群れていた辺りは、植樹会でコブシを植えたあたりで、赤い実が異様に目立っていた。樹高は5m程だが、コブシはこの高さでかくも実をつけるものだったか。



森林の散策のいいところは、身体の運動だけでなく、目と感性がよく働きひょっとすると無意識に「気」が充実するのではないか、というメンタル、スピリチャルな一面もあるような気がする。どこにもない、ここだけの植生と風景、そして空気感。針葉樹の木漏れ日など、思わず深呼吸をしたくなるのである。



湿原をめぐる径に入って目につくのは、朽ちていく倒木、倒れかけた幹、枝、そして一面の落ち葉である。いずれも朽ちて土に還ろうとしている、解ける直前の姿だ。萌える春のエネルギッシュな林ももちろん感動的であるけれども、下り坂のような秋の風景にはとてつもない和み、親しみ、そしてなにがしかの哀しみのようなものがある。消えるもの、弱弱しいもの、夕方の斜め光線そのものがこの季節独特のもので、それが情緒を少しダウンさせるのだろうか。だが懐かしい日本的な情感ではないか。



直径1.5mほどのナラの大木がフットパスに面している。ここは国有林の遊歩100選に選ばれた場所で、このナラは東胆振では最も太いナラではないかと思う。北大苫小牧研究林にもほぼ近いサイズのナラを見かけるが、さすがにいずれも寄って触れたい衝動が起きる。

賑わいなど全くない森を歩いて1時間半。寂しい径ではあるがそれだけに忘れがたい時間になる。途中、埼玉から来たという若い女性二人とワンちゃんに会った。ポロト湖までいきたいというのだが、往復6kmもあるから帰りには暗くなるよ、と車に戻る近道を教えてあげた。紅葉はまだだったが、これから大滝に抜けるというその峠はよく紅葉しているはず、と付け足したら喜んでいた。気温は10℃、フリースのマフラーをして丁度良かった。





勇払原野の「雑木林」から発信する意味

2024/10/25 fri 快晴 朝5℃ 

■秋の渡りについて

ここ数日、白鳥とガンが高い高度で南に渡っている。今年の渡りで鳴き声が小さく聞こえるのは、高気圧が続くためか飛行高度が非常に高いせいだろう。秋の実なりがよかった反面、キノコの収穫は地味だった、紅葉は1週間以上遅く、渡りは分散してあまり聞こえず、したがって視認の頻度は落ちた。こんな風なこの秋の評価をしつつ、間もなく薪ストーブを焚く晩秋へと移り変わる。

■山小屋、里山、雑木林、そしてウラヤマニストについて



青春を山にかける若者にとって、山小屋生活は特別なものだった。語らい、歌のハーモニー、質素だがボリュームのある食事、深雪の滑り、その時間の重要な部分に、焚き火と薪ストーブの炎が同居していた。Hさんのこの版画は、そのあたりをズバリ描いている。

山の先輩でもあるHさんは版画と文芸をたしなむアルピニストであった。左の写真はHさんからいただいた版画で、14/30 とナンバーが打ってある。その画像を、平成9年に始めた育林コンペの初回の総括集(平成12年)の表紙に使わせてもらって以来、すっかり原図を持っていたのを忘れていた。

*かつての苫東の雑木林紹介

奇しくも、今朝は、勇払原野の雑木林の背景と未来について、依頼されて短いコラムを書いていたところだった。蔑まされたように地域の隅に置かれていた「ゾーキノヤマ」が、実は市民にも、そして行政からも全くのように価値を見出されていない間に、雑木林環境のリゾートができてしまった、というのが地域の現状で、ある計画が持ち上がって、カジノの場所に開発されてしまったら市民がギャンブル依存症になるから反対だ、から始まり、ウトナイ湖の水源に当たるから反対だ、そして保全緑地に隣接するから、さらにヒグマのコリドーだから、ととってつけたように反対理由が次から次と出てきたが、「雑木林は美しい」「気持ちよい」「多様性の宝だ」「好きだ」などという雑木林そのものへの讃歌はまるで出てこなかった。



苫東の雑木林をインダストリアルパークの魅力発信に有意義だとみて、雑木林の手入れに着手し内外に発信し始めたのが平成2年だから、わたしが雑木林からの発信を開始して34年になろうとしている。較差の大きいところにエネルギーが湧くのだとすれば、勇払原野の雑木林の実力と地域の評価の間にもエネルギーを傾斜すべきギャップがある。わたしの地域におけるポジションは、これからもどうやらそのあたりの発信にあるようだという気がして来た。

コラムなども書いてみるものだ。書きながらおぼろげなテーマの輪郭が、次第に明確になってくるのである。知るは楽しみなり、の伝でいえば、書くは確信への一歩なり、である。もともとアルピニストと言える山登りはしなかったが、やがては平坦な裏山などで憩うだろうと、「辻まこと」のいうウラヤマニストを自称していたのだ。が、どうもこれは人生数少ない言行一致、自己実現のようになってきた。