生成りで語る

第2回 
平成14年1月26日
アイビープラザ
テーマ:「癒し手としての自然」「人と緑はなぜ疎遠になったか」ほか

*本文の次に参加者からのメッセージを転載してあります。(^_^)v



●自己治癒                                     精神に障害を持つ人たちの、林の中における医療についてもっと知りたいという声が2  ,3あったので、前回、林の中の医療に関する話しをドクター・Tに頼んでいた。ドクタ ー・Tはジェームズ・スワンの「自然のおしえ自然の癒し」(日本教文社)から「癒し手 としての自然」の章をコピーしてきてくれた。そして、それを約15分で音読。     当日は、こんな資料をもちよった。  そのものズバリ、「癒し手としての自然」。人間が本来持っている自己治癒の力を自然が 引き出すというのは、わたし自身も思い始めたことだった。医療の助けを求める病人の9 0%が、本来人間の身体がもっている自己治癒力の範囲内で治る程度の不調で悩んでいる のだという(ノーマン・カズンズ「死の淵からの生還」講談社)。自然はそんな自己治癒 力をサポートする。これはとても納まりのいい結論である。だから、自然ともっとつきあ おう。また、つきあいやすい緑的自然をもっと身近でアクセスしやすいところに探し求め 必要ならば築こう…、ということになる。そしてまず、自分の心身に自己治癒の力がひそ んでいることを気づかなければならない。                       現代医学は対症療法的なアプローチの仕方をとるという。これとは対照的に自然治療の アプローチは、「病原組織をねらい打ちしたり症状を抑制することよりも、患者がもって いる病気への抵抗力とホメオスタシス(恒常性)を強化することに、より多くの注意を向 けている。よく行われている自然治療の戦略には、器官や組織を強化する強壮剤の使用や 体からの毒素をとるための下剤、そして潜在的な自己治癒力を生化学的に活性化させるた めに、あえて諸症状の進行を促す同種療法的な処方がある。ここではまた、休息とリラク ゼーションと適切な運動が、有機食品やマッサージとともに処方される。癒しのプロセス は概してゆるやかであるが、治癒効果はより深く、永続的なものになる,と考えられてい る。」                                       またこの章では3つの治癒例が示されている。それはデータというより、事実の「逸話 (いつわ)」であるが、3人の治癒に共通したパターンは、「現代社会のパターンや要求を ときはなし、自然環境(そこでは我々は予定表から解放される)へ没入して、否定的な感 情を吐き出すこと、そして直感の導くままに、自然のリズムや本能的欲求と調和した生活を 送る」ことだとされる。                              ●データによる検証と逸話(いつわ)                        では、自己治癒力は測れるのか、という話題になった。人に対する自然の癒し効果が数字 で検証がむずかしいのと同様、それはできないだろうということだが、ドクター・Tは「逸 話(いつわ)」としてなら可能だという。実際、西洋医学のほかの医学、漢方や針灸、スピ リッチャルヒーリング(手かざし療法)、それからクナイプ療法など代替医療の多くは、症 例の改善データによって支持されているのではなく、逸話の蓄積というデータによって歴史 的に支持されているのではないかと思う。                      わたしは、なんか「わかった」ような気がしてくる。温泉が、何の成分があるから健康 にどの程度いいなどという手続きをふまないで、単純に「温泉はいい」「温泉は気持ちい い」というある程度の合意ができているように、「林を歩くと気持ちいい」となればいい のである。ただ、他人任せながら、どこかで誰かに地道なメカニズムの研究はしておいて もらいたいと願うものだ。                              また、数年前の冬に北欧を訪れた際、向こうの人たちに「あなたが快適だと思う室温は 何度か」と訪ねると、全員21度、または21度プラスマイナス1度と明快に答えたのを 忘れられない。快適な空間を創り出す歴史、これは社会合意であり、もとは自己の中にひ そむ快適感覚の目覚めや気づきが支えるのだと思う。                  つまり、林の癒し効果は、「温泉のようなありふれた逸話」と「快適室温のような快適 さの気づき」によって見直されていくのではないか。                  行政のとりくみをSさんが紹介してくれた中に、単一の癒し効果に定量的に注目して行 った場合、たとえばフィトンチッドが心身にいいからこの物質を多く発散させる林をつく りなさい、というオーダーがでかねない、しかしそれはしたくない、するべきではないと いう話があった。わかったような、わからないような、しかし全体として間違いなく効果 があるというファジーな状態を認めておくのはとても大事だ。自然と心身について、未知 は素直に未知でいい。                                また、緑に関する教育活動は、とかく知識先行型の博物学的なゴールになってしまいが ちだが、道東の環境庁(現在、省)の自然体験施設が目指しはじめたように、知育と並行 して「感じ取るゾーン」、例えば、林の景観を額縁効果的に切り取ってぼんやりながめる イスのコーナー、ほんものの薪ストーブとそこでなごむゾーン、とかは注目すべき環境教 育のアプローチだ。教えられたことは力が弱いが、感じ取ったことはエネルギーになるか らである。                                    アイビープラザの和室はのんびりムード。座って3時間はちょっと疲れる。 ●ターミナルケアと精神世界における森、林、緑                   わたしはターミナルケアと林の逸話のようなものをふたつした。ひとつは、7,8年前に 知人がガンで亡くなる前に「健ちゃん(わたしのこと)、なにか緑の写真をみたいなあ 」と言われたのであった。朝、早速数冊の雑木林の写真集を届けてもらったのだが、なん と夕方、見舞いにいった別の知人に託されて写真集が戻ってきた。「死にそうな周りの人 たちがこの写真集を見つけて見たがり、たらい回しになったら健ちゃんに悪い」と言った そうだ。わたしはなんと思慮のない届け方をしたのかと後悔した。安くない本ではあった が、なぜあげる、と言えなかったか…。                        全共闘運動が下火になった頃、「邪宗門」などを書いた作家の高橋和己が亡くなった。 夫人の作家・高橋たか子さんの手記によると、高橋和己は亡くなる直前のベッドの中で雑 誌「山と渓谷」を見ながら、病気が治ったらもう小説なんか書かないでこんな緑の自然の 中でのんびりやるんだ、としみじみ語っていたと言うのだ。               このエピソードと背反するかも知れないが、人と緑が離れつつあると考えてきたわたし にとって、なぜそうなったかを探ることはこれからのアクションを見定める上で意味があ る。これに関連して、わたしはある技術者が書いたレポートの中にヒントがありそうなの で用意し配った。そこには、木が大事にされないいくつかの理由のひとつとして、「樹木 のもつなにかしら精神的な雰囲気」ではないかというのである。今の子供達、あるいは大 人達が、林に対して、何か精神的な、あるいはもっとおどろおどろしい霊的なものを感じ 取って忌避しているのだろうか、と直感したのである。                 しかし、それは本州の鎮守の森などではよくあるが、北海道でそんなことはないのでは ないか、という意見が多かった。むしろ、クマへの恐れ=畏れではないか、という仮説も あり得る。富士山の麓、青木ヶ原での自殺者があとを絶たないという報道も、ターミナル 状態まで思い詰めた人たちが最後の安住の地を深い緑に求めるのか、霊的なものを感じて ひきこまれていくのか、それはわからないが、ことその辺の話にいたってますます混沌と してきた。                                     ただ、畏れのような感覚はどうも奥山的なゾーンに一般的に感じるもので、昔の里山的 なゾーンは、恐れ=畏れや精神的なおどろおどろしさとは大分離れていたのではないかと 相成った。しかし、そんな手入れのされた快適な里山があるかと自らに問いただすと「な い」と言わざるを得ないだろう。ということは、身の回りの緑はなべて「奥山的」だとい うことになる。                                   さらにさらに、ということは、わたしの毎週の林の手入れは、放置されて奥山的になっ た林を、もう一度里山的に衣装替えする作業と位置づけられる。道はうんとうんと遠い。 *今回もとても面白い話になった。勉強になる。生成りの語り、これは「聞き」「語り」 ながら、自分で癒されているような気になるから不思議だ。            







                     「林とこころ」第2回に参加しての「独り言」

今日(1/26)の勉強会はいろいろとインパクトがあった。             ○滝沢さんの資料 第六章「癒し手としての自然」から           “現代医学の対症療法についての結果患者の50%もの人々が他の治療法による副作 用からの病気のために治療を受けている“という記述に驚いた。「自分の歌を歌いた い人」のみ、本来人に備わっているはずの自然治癒力が働くということである。そう であればこれはいったい何を意味するのであろうか?               生きようとする力が治癒力につながるというがなんと難しい課題であろう、じっと ベッドに転がっているだけではことははじまらないのである。          造化の神から生きるという意味を突きつけられる思いがした。人はよく、善く、良 く、佳く生きなければならないのだ。                      滝沢さんがおっしゃったところの、精神科にこられる患者さんたちは森に対して何  か特別な感性を持っているということに深くうなづきたい。           今の社会に対応できないからこそ心にひずみを負ったということは人が本来持ってい るやさしさをうまく扱えなかったということではないか?何かの拍子にうまく周囲に 適応できない自分を見たときの不安感が積もったのではないか?誰でも多かれ少なか れ日々の隙間にそういう自分を見出しなんとか説得して周りに適応させていく。そう いう術が組み込まれていない人は別な術、例えば「森林に感性が働く」を組み込んで いるのだとしたらすばらしいことであるが社会的な評価の場には適さない。これらの 人々が生きやすい場がひろがるといいな。                     それを研究している人がいることがとてもうれしく思われる。エールを送りたい。   ○ 佐藤さんの資料から                           丁寧にまとめてあって編集者の心が伝わる。その教育活動への応用を詳細にお聞き したわけではないのでよくわからないが、これによる理科課目の学習活動と森そのも のの持つ息遣いを同時にどの程度感じ取れるものであるか気になるが、実際に花など 現物を手で触れたり木を削ったり、火を起こしたりする経験は後年森を慈しむ布石に はなるであろうし、原始なるものに親近感を持つかもしれない、多くの子供が何かを 開眼するのを期待したい。                           ○ 草苅さんの資料から                          木を畏怖するという観念がそんなに看過することではないなと思った。私はいろいろ なタブーが生活範囲の中で生きていたことを幼児体験として持っている最後の世代で はなかろうか。私の中では赤頭巾ちゃんの歩いた森と九州山脈にもこもこ盛り上がっ ている照葉樹林や深い杉木立の森は別物であった。前者はヨーロッパ系の架空の森と 思っていた。後者は日もささず昼なお暗い人を歓迎しないある種のまがまがしさと何 らかの意志を持った生命体として心理的に覆いかぶさる物体と認識していた。    だから不思議の国のアリスやウサギの洋服屋が今そこで走り回っていても何も不思議 ではないごとく森の中を曲がったり遠くへ続いている樽前の林道を見たとき私は感涙 にむせんだのである。この林道は裾野を縦横に巡っていて半端な距離でないことが驚 きであった。                                 だれでもかれでも森を大歓迎というわけにはいかないらしいので、森作りにはなにが しかのテクニックが必要ということらしい。                  


草苅様



前回の集まりで悟ったのは、私達も同じです。

発言こそしませんでしたが、頭の中は高回転で回っていました。

あまり発言しなかった点については、

自分達の発言によって、話題が逸れてしまったり、

また逸れている時間が長くなることを考慮してでのことです。

確かに、アイビープラザでの語りよりも、ログで薪ストーブを囲んでの語りの方が、

話も自然に沸いてくると思う面もあります。

しかし何よりも、数値にこだわっている点が、

私達素人にとっては???という思いです。

「林と癒し」の関係については、誰も否定しないと思います。

例えばα波測定装置を100人に付けて、個々の林においてデータをとれば

数値化は可能かもしれません。

しかし、はっきりと医学学会で発表するような治療法として確立する目的以外は

あまり必要でもなければ、好ましい手段でもないと思います。



 フィトンチットが話題になりましたが、特に癒し効果のある林とは、

絵画でいえば、その絵を見た人がその絵の中に入りたい、

あるいは入ってしまっているような気持ちになるのと似ていると思います。

優れた絵画は、それぞれ個性を持っていて、点数評価は不可能、

唯一数値的なものとして値段が存在するが、

プレミアや知名度により値段がその絵の価値を表しているとはいえない。

林も同じだと思います。

草苅さんが苫東の雑木林が一番いい、一番落着くと思えば、

そこが一番だと思います。



 滝澤先生が用意してくれた資料の中に、”癒し手としての自然”という資料があり

ましたが、そこに私達の知っている2人が登場していました。

1人は、H.D.ソロー、もう1人はセオドア・ルーズベルト。

草苅さんも知ってのとおり、ソローは1845年にコンコードの町はずれにある

ウォールデンの池の畔に小屋を建て、2年間にわたる「森の生活」を体験していま

す。

町はずれの小さな森の中での生活体験を通して、

師エマソンの自然思想をシュミレイションしたといわれています。

当時のボストニアンたちは、架空の自然を語り、実際本物の自然を理解していなかっ

た中で、彼は別だったといえます。



一方、ルーズベルトは8年間の在任期間中に、5つの国立公園と13の国立記念物を

指定しています。

注目したいのは後者の国立記念物です。

これは大統領の発令で指定でき、議会で否決された国立公園候補地を

国立記念物に指定することで救っています。

後に国立公園に昇格した国立記念物は多く、グランドキャニオン国立公園もこの例で

す。



 私達が最も尊敬する人物、ジョン・ミューアは彼らと同年代に生きており、

ルーズベルトが大統領時代に2人で3泊の野外キャンプをヨセミテで行っています。

また、ソローの師、エマソンとも交流がありました。

エマソンもやはりヨセミテを訪れています。

ジョン・ミューアは、シエラネバダという本物の原生自然の中で生活することによっ

て、エマソンの思想を、ソローの実験結果を踏まえて、

より具体的に実現する役割を担っています。

私達は、そのような彼に惹かれて、シエラネバダを訪れました。

美しい景色を見るたび、およそ100年前、彼もこの景色を見ていたのだろうか?と

思いました。

深緑の針葉樹と黄葉の広葉樹、そして湖。

シエラ晴れといわれるどこまでも続く青い空。

穏やかなそよ風。

静寂の中にかすかに聞こえる風音と葉のゆれる音。

鳥のさえずり。

人間の五感すべてで感じられる心地良さ。

これが私達の、あえていうなら「癒しの林」です。



 アメリカの国立公園で行われるレンジャーによるインタープリターは、

経験がありません。

指定の時間と場所に集合というのが一般的だと思いますが、

私達は勝って気ままに動き回りたいもので・・・。

時間に縛られたくない、気に入った場所に長くとどまり、

逆に興味を感じないところは早くパスしたいというB型的行動者には

向かないようです。

それよりもトレイルで出会うバックパッカー達との会話の方が、

私達にとっては遥かに魅力です。



 私(NUKE)の昨年からのテーマは、”自己と自然の波長を合わせる”というもので

す。これは、”自然に癒され、α波を発する”と置き換えることができるかもしれま

せん。昨年は自然と接するたびにこの試みをしました。

そこで少しだけ感じたことを述べると、

1)海の波が一番波長を合わせやすい。

2)雑念(イライラ、落着かない)があると自然の波長をつかめない。

3)同じ自然でも、デスバレーのように人が生きていけないようなところでは”無”

しか感じない。



1)については、当然といえば当然かな?と思います。

波長が波音として聞こえるわけですから。

当然、その音を聴いているうちにリラックスします。

海岸ののどかな風景もリラックスさせてくれます。



2)については、意外によくあります。

自然の中にいても、TVで観たことや仕事のことが、頭の中に残っています。

身体は自然の中ですが、頭の中は忙しい現代社会の中のままです。

しかし、そのまま帰宅するとスッキリしているのは、やはり自然治癒力のおかげだろ

うか?

イライラする時に心を落着かせる方法は、”気”の世界にもあります。

静座呼吸法といい、座禅に似ています。”禅”でもいいのかもしれません。

つまりは、自然の中で心を落着かせることが肝心なのでしょう。



3)これは昨年のアメリカ旅行中に試みたものです。

デスバレーという灼熱で不毛の地(厳密には植物、生物は存在します)では、

いくら心を落着かせてアンテナを張っても、”無”しか感じられませんでした。

潤いがあり、動植物が存在できるようなところでなければダメなのか?

それともまだ自分が未熟なのか?



 以上が昨年からのテーマですが、草苅さんは週末林で過ごしているせいか、

身体から発するものが他の人と違います。

とても穏やかな雰囲気で、草苅さん自身が林の一部のような感じがします。

もしかしたら、このテーマをすでに修得なさっているのかもしれません。

ジョン・ミューアは「自然はお互い関係し合っていて、人間も自然に含まれる。」と

述べています。

しかし、多くの人間は、非自然的な生活に慣れ過ぎたのかもしれません。

本来の人間の姿は、自然の中にあるべきなのでしょう。

逆にそうなると自然と癒しについて、あえて考えることもなくなるのかもしれませ

ん。



 掲示板でもよく見る言葉に”里山”があります。

先日の集まりでも”里山”が登場しました。

この半自然で半人工的な山は、アメリカの国立公園でいえば、

”フロントカントリー”にあたると思います。

そして”奥山”が、”バックカントリー”です。

フロントカントリーは、誰でも気軽に立ち入ることのできるエリアで、

車で乗り入れでき、店や宿泊施設が存在し、多くの人が訪れます。

対して、バックカントリーは、雄大な原生自然が広がり、

原生自然を保護するために立入許可証が必要だったり、

レギュレーションがあったりします。また、バックカントリーへは、

徒歩かホースバック・ライディングでなければ入ることができません。



日本の場合は、フロントカントリー、バックカントリーの概念がなく、

その区別もあいまいだと思います。

その結果、無知な人間が4WD車やスノーモービルなどで、

貴重な自然を踏み荒らしたりします。

登山ブームによる山岳における糞尿問題、生態系破壊、盗掘なども、

結局のところこの辺に問題があるように思います。

ひとことでマナーの問題と決めつけることはできません。

利用者の無知は、個人のレベルの問題ではないからです。

日本国として、国立公園に対する明確な管理方法と教育活動が必要だと思います。

残念ながら、この分野において日本は後進国でしょう。



今後は、日本でもレンジャーによるインタープリターや積極的なボーイスカウト活動

が、必要になってくるかもしれません。

小規模な活動は、かなり以前から存在していたと思いますが、

活動のたびにTVや新聞のローカルニュースで取り上げられるようではいけません。

活動が繰り返し継続されて、自然に対し正しい知識を持つ人が増えていくことが

なによりでしょう。

自然は素晴らしいもので、人間は自然の中で自然と共に生きるのが本来の姿であると

思います。



たいへん長いメールになりました。

最後に、i−motasは、眼のコンディションが良くなく、

パソコンに向かうことを控えていることをお知らせします。

しかし、このメールは、意見を聞きながら作成しています。

また随時、プリントアウトしてチェックしていますので、

このメールは、二人からのメールとしてお受け取りいただけたら幸いです。





●参加者から届いた声 B



そしてドクター・Tさんからもこんなメッセージが届いた。



草苅様

 こんばんは。本当にお疲れさまでした。でもこの会意外と楽しいですね。

わたしにとってはとても面白くて、次の会も楽しみになってきました。

また話題を探しておきます。 今後とも宜しくおねがいいたします。





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