生成りで語る

第4回


4月20日 pm11:30 からピザ 2:00--5:30 勉強会など 場所 苫東のログハウスにて ●テーマ 「古代の森と人々」「森林教育とコミュニケーション分析」 「木を切ることの是非」「宮沢賢治のデクノボー精神」

このページは、会合で見聞きし語った内容を、わたしの
勝手な脈絡でつなぐ私的メモ。4回目の今回は、Sさんの
話を中心に本格的なテーマに関わりはじめた格好で、トレ
ースすると多くのテーマに寄り道することになった。その
ため、ちょっとアップするのが遅くなっってしまった。 



 近来あまりない地味な勉強会になるだろうと推測しつつ始まり回をかさねた「林とここ ろ」。どっこい、生成りの語りは刺激的で面白い。正面きって「林」だの「こころ」だの について話すのは正直照れるところもないわけでないのに意外と素直に話題は展開する。 話は右から左、たてよこ、固定されることなく自由に移動しながら、しかし、林と人のこ ころのあり方に戻ってくる。これは、現在の自然と人の関わり方に、参加している各人が どこか「いびつさ」を感じ取って問題意識を持ちながら日々を送っている証拠である。だ から、空論ではない、現実の「もだえ」や「ねじれ」が少しずつにじみ出る。その問題意 識に、互いが別の視点でコメントする。互いのコメントを聞きながら自分の温めてきた考 え方をもう一度心の中でぶつけて、確かめてみる…。語りながら聞きながら内なる声とも 対話する。この生成りの語りはそういう側面をもっているようだ。            4回目の今回から、雑木林のログでやることになった。本来、この勉強会は、薪ストー ブの会と称して、薪ストーブセラピーを実践する、そんな枠組みをもっていたのだから、 雪が解けてアクセスがしやすくなったためにやっとホームグラウンドに戻ってきたといえ る。そこでまず、薪で焼いたピザを何枚かつくって平らげ、そのまま外のテーブルで風を 感じながら楚々と始まった。新緑前のやや肌寒い風である。今回は、札幌で里山の世話を しているSONさんが加わった。                          ●古代の森と人々の間柄を考えてみる                         メンバーのひとり、白老のSさんは九州出身の方で、当初から「自然へのおそれ」につ いて興味と関心を持たれていた。わたしも、本州と北海道のおそれは根本的な違いがあると 思ってきた。本州は鎮守の森など人手がはいった歴史の中の「もののけ」「畏れ」であり、 自然度の高い北海道のおそれとは、「畏れ」ではなく「恐れ」、それもはっきり言ってヒグ マに対する恐怖でそれが先にたつ。それは現実的に襲われるかもしれない恐怖であると同時に 大自然の「脅威」を象徴している。                            Sさんは本州の古代の森と人々がどうつきあっていたのか、というあたりをちゃんと文 献(古典にあたられるのはさすが!)を読んで紹介してくれた。その際の調査レポートの 創作ノートを配ってくれてそのキーワードを拾いながら話は進んだ。           で、ここではそこで語られた何点かについて思い起こして見る。まず「刷り込み」。人 間のDNAのなかには、森で暮らした祖先の記憶が刻まれているという河合隼雄さん(臨 床心理学者)の話の引用から始まった。また、わたしの新しい記憶をたどると、4月はじ めの朝日新聞の森づくりの特集で河合雅雄さん(京大霊長類研究所長)が「緑の中にいれ ば落ち着く。なぜでしょう。わたしたちは高等なサルだからです」と言っている。DNA の話ではこちらの河合さんの方が専門でオリジナルかも知れないが、いずれにしろ、こん なに緑と関係ないような都市化の現代にあって、なおかつ、森の民の血が残っているんだ というわけだ。                                   それならば、とわたしは思うのである。その血がしたいようにさせてあげるのが社会で あり、本当にそうならばまさに社会合意のもっともとりやすい案件ではないのか。だが、 残念なことに実際はそうではない。自然を壊して総体としてはなんら痛痒を感じないとい う社会になっているし、日常的に緑や自然がなくて困っているという人があまりいない。 だから、わたしは実はこのお二人の言を半分は疑っているのである。本来そうなのだから そうあるべきだ…。しかし、これではあまり変わらない。                で、時々は別の道のことを考える。つまり、「本来、森の中でくつろげるようにできて いるのだが、都市化の文明のまっただ中に入り込んでDNAからの信号が途絶えつつあり 本能が眠っている」。だから、身近なところにいいなあ、と思える緑をみつけよう、そう すると本能が蘇ってくる、時々どころかいつも緑の中にいたいと思うようになる…。では 本能にいかにして近づくか、気づくか。そこで出てくるのがわたしがひそかにテーマにし てきた「緑の入り口探し」、イニシエーションだ。                  ●祈り                                       Sさんの論点を紹介する前に横道に入ってしまった。でも、本当にこの辺の仮説は話し 始めたら終わらないほど、いろいろなエピソードをわたしたちは持っている。それを「身 近な公園緑地の面積をもっと増やす」などという具体的な法律に形を変え、町内を市内を 変えていかなければいけないのである。それをするまではいつまでも、仮説の言いっぱな しが続くだけである。Sさんがつづった話はいろいろなテーマが盛りだくさんだったから いずれまた、折々に誰かのテーマとなってでてくるはずだ。               Sさんはここで仮説を立てて調べ、Sさんの結論へ導いている。仮説とは、古代人の最 大の願いは食料をコンスタントに手に入れることであり、まず自然神を創造し自然界から 得る産物は神からの賜物としてひたすら祈ることを戒律化し伝承したというものである。 そしてそのとき、森はどう位置づけられていたか、癒しの捉え方はどう展開したか、散策 に類する言葉はあったのか、などを探ろうとした訳である。               白老のチセ(アイヌ人の家)が焼けて再建したとき、新築の儀式チセノミに出席したこ とがあった。そこには、祈りを捧げられる人が近在にいなかったことから、確か静内のエ カシ(長老)が招かれて長い儀式をとり行った。厳かで、ああ、伝統的にこういう伝承を していくのかと感動した。疫病神が寄りつかないように、「この村には何もおもてなしす るようないいものはありませんから、ここに出した供物を食したら、どうぞどこかへ移っ て下さい」と呪文のような言葉を捧げるのだった。通夜の夜、禅宗の坊さんが劇のように 経文のような言葉で場を仕切るのもこれに似ている。祈り。ひたすら祈る。       ●山の神                                      Sさんは、柳田国男はじめ数件の文献を読み進み、山の神伝説とその実態に釘付けにな ったという。山の神は北海道でも伐採業の山仕事では欠かせない冬の祭事で、12月11 日、作業の安全などを祈願してお参りし、翌日は山に入らない。Sさんは、本州の例とし て農耕と狩猟の山の神にふれ、狩猟の場合は祟り(たたり)の神だったということを発見 する。山仕事でも12月12日に仕事をして大怪我をした話しを聞いたことがあるし、一 度祀ったら止めるわけにはいかなくなる、と山仕事の人に聞いたことがある。注意深く作 業した結果、無事で仕事をやり終えるとき、それは山の神のおかげであり、この御利益を また今年もと祈る。というわけで、祈りと祟りは背中合わせの格好になって見える。    エッセイストの高橋喜平(どろがめさんの兄)さんによると、山の神のご神体を見てし まった人たちが、病気になったり死んだりする祟りのエピソードをいくつか紹介していた のが約10年ほど前になる。古来、山の神は醜女(しこめ)だとされ、自分より醜いオコ ゼをみせると喜ぶという話は有名であり、山の神の話はいろいろな地域で調べられかつい ろいろな内容の山の神が書かれている。                        さて、Sさんは山の神を糸口に、古代人の魂と森が「同期した名残」を見つけるべく思 案していく。そして神坂次郎の「神仏に祈る(熊野街道を行く)」にたどりつく。ただス トイックに鍛えるだけなら都会の階段ですむが、森林とセットでないとこころは祈りの気 分にならない、と山奥における修行の理由を解きほぐす。いろいろな悩みを持つ貴族たち も訪れた熊野詣でを、自分を神の手に乗せた気分になったのではないか、という。「母な る守護神である山の神に漁の安全と収穫を願い祈る動作は、守護神に守られているという 事実確認」であり、ひるがえって、森林散策は「神の手に守られる心地よさの記憶」が復 活して、こころの中から良い気持ちになりうる、と結論する。             ●おそれ                                      畏れ、祈り、守護、そして一体感による満足と平穏。わたしはこんな図式を思い描いて いたので、Sさんの推論はとても好きである。もう一つ付け加えるとすれば、森の中の祈 りは敷衍化していくと八百万の神々につながり万物に宿る神々=大地ガイアというつなが っていく。ことは森で始まったが、山の頂であったり海岸であったり、宇宙であったりす るのだ。なにか、自分を生かしてくれている目に見えない意志とか力を感じ取ることがで きたときに、「ああ、そうか」とわたしたちは目覚める。超常現象との出会いなどもそう いったひらめきや気づきを助長するもののようだ。                   龍村仁さんのガイアシンフォニー(地球交響曲全4作)は、繰り返し繰り返し、この大 地ガイアとの交信を、さまざまな人を通じて描いてきた。祈りのような仕草こそ多くはな いが、全体が祈りに親和性が高いように思う。そのあたりは前回ちょっとふれた。     無宗教のわたしが、思わず手をあわせて拝んだ経験があるのは、山、大木、湿原、そし て海である。わたしの魂のようなものが、そこにわたしだけの神を感じ取ったのではない かと思う。ああ、もう一つ大事な神の経験をもらすところだった。拝んだ対象として書き 漏らしたのがもうひとつあった。「ヒグマ」である。平成8年、苫東でヒグマを捕獲し計 測して再び放つ現場に立ち会った時、わたしは初めて野生のヒグマ(麻酔で眠っていた) を目のあたりにし、体に触った。ヒグマは実に神のようだった。賢そうな顔立ちは限りな く人間に近く、手塚治がかつて「火の鳥」などで描いた顔立ちがクマのような人間とそっ くりである。人間界の土地利用をかいくぐって苫東を何度も行き来してミツバチの巣をこ とごとく平らげてきた森と湿原の主、ヒグマ。「野生生物との共生とは、わたしとお前が フィールドをともに分かち合って暮らすこと」。そんなことが果たしてできるものか、実 物を見てわたしの気分は重かった。「神」に拝んだのはもちろんだが、神と対等化のよう な自分たちの立ち居振る舞いを考えたときに、妙な居心地の悪さを覚えずにはおれなかっ た。                                       ●ヨガ                                       魂と自然・大地・森などと一体化することをSさんは「同期させる」と表現したが、も っと具体的に言ってしまえば波長を合わせると言うことだと思う。この波長は、参加者の Nさんが試しているテーマのようで、わたしはというとこの大地というか土というかそっ ちの波長と合わせる営みを探していたらヨガにたどりいた。               ヨガは、リラックスした身体を通じてゆっくりした呼吸のリズムに合わせて体の隅々の 筋と細胞を刺激するとき、身体からやや乖離した魂のような存在が大地を感じる、そんな マジナイ型ストレッチ体操だと考えて気楽に毎朝やる。ヨガのエッセンスだけを組み合わ せたセットなら、もう15年もやっているだろうか。最近、これにちゃんとしたメニュー も加えたらもっと気持ちよくなってきた。朝、太陽が昇る頃、板の間に位置取って15分 から20分、ゆっくりした呼吸とともに営みを済ませるひとときは、わがままをいう自我 の「ちょっと上の自分」のような存在になり、身の程を知った安定した自分の一日が始ま るような気がする。                                 今、世界中でヨガが大ブレークしているのだという。ジョン・レノンやマドンナなど有 名人がやっていた、などという情報を交換するメーリングリストもある。ホームページで 見るヨガのレッスンの中には、女性の美容効果もかなり書かれているけれど、もうひとつ は、ヨガの精神性と快適さに世界中が傾斜しつつある、と言えなくもない。        ヨガだけでなく実は東洋医学そのものが注目されているのだ。日本は医療とみなされな いそれらが欧米ではもっと注目度も認知度も高く、代替医療(alternative medicine) として定着しているのは初回に出た話のとおりだ。                   緑が人に及ぼすプラスの効果とは、計数で表現するのがとても困難だとして正当な評価 が足踏みするとすれば、それは緑は代替医療の位相とかなり近いのではないかと思ったり する。そうすると、ひとびとがまず先取りして暮らしの中にとりこみ、「林とこころ」の これまでのながれのようにエピソードの積み重ねを待つことになる。公園をつくると医療 費が安くなるから公園づくりのインフラは進めるべきだ、と近年の建設白書は書くように なってきていたが、これはスウェーデンで30年近く前にいっていたことだったと記憶す る。このように基本的な合意形成はゆるやかにでもやはり進む。それを待つのも仕方がな いが、せめて関係者で小さなエピソードを共有できれば何かの役に立つかも知れない。こ の勉強会がいつまで続くかはわからないけれども、仮にゴールを求めるとすればその辺な のかな、と思われる。別にゴールや着地点などなくてもいいけど…。          ●森の中の子供たちの反応                              子供たちが森の中に憩うことができると、いろいろなことが変わるのではないと思う。 森や緑が人のこころにさまざまな働きかけをするということは、ぼんやりと感じていたわ としとしては、これは切望でもあるのだが、S・Tさんは、森林教育活動を通じて、子供 たちと森のつながりを観察してまとめた面白いデータを紹介してくれる。今回は森林教室 のリーダーの説明と子供たちの反応をデータ化し分析したものだ。            方法などはすべて省略するが、道内各地の森林で20人未満の小学生を引率し、行動パ ターンと音声をもとにしたもので、その手法もわたしにはちょっと新鮮だ。結論としてお おむねこんなことが述べられた。                          @指導者が求心力を保ちコミュニケーションを活発に保つには、適切な体験場面が重要で あること。                                  A指導者が多様な言語で話しかけることにより、参加者も多様な言葉を使うこと。つまり 一方的な説明に終始する森林教育では参加者の「考える」活動が損なわれること。  B個別に話しかけていくと、子供たちは意見や質問など課題解決行動をすること。     これらには結構はっとさせられる。自分のことと照らしても、大人や指導者のちょっと した言葉がプラスにしろマイナスにしろ子供の記憶にしっかり跡を残すことは良くある。 ともかくなげかけは「気づき」「動機付け」になることは肝に銘じておこう。そして「学 び」のひとときを通り抜け、個人的な「気づき」の時間がもてるようになると、緑と人の こころの往来は本格的に展開していくのではないか。子供たちの情緒を形成していく上で 森の力を是非使って欲しいの願うひとりとして、そのイントロの部分の翻訳力と技術はも っと注目したい。                                 ●木を切ることは悪いことか                             ピザを焼いて遅く始まった今回の勉強会だが、盛りだくさんである。これはドクターT が持参してくれたある手紙のコピーを発端にした話で、テーマはそのものずばり、「木を 切ることの是非」。木を切ることは良いことなのか、悪いことなのかは、現在あまり議論 されないジャンルといっていいだろう。何か、解決済みというハンコが押されているとい うか、「木を切ることは悪いことだ」という常識が優勢である。             わたしは逆に折に触れて「育てるため」と「資源利用」のために外国ではなく身の回り の木を切るべし、林の再生力に目をむけてごらん、という話を展開する。先日も、NHK ラジオでそんな話をしたら、応対してくれたアナウンサーのお二人が興味をもって時間を 延長してつっこんでくれた(ような気がした)。そのうちのお一方は、朝7時のNHKT Vで三宅さんのオジサンとともにニュースを担当している高橋さんである。        それはいいとして、この辺の話は、現在の多勢に無勢の状況を反映してか、正面切って 伐採が必要だという論の影は薄いし、スポットライトはあたっていない。しかし、結論だ けをいうならば切るべきところと伐らない方がいいところがあり、そこを混同しないこと が大切だと思う。木をきることそのものを根本から否定するなら、紙や木材を使う暮らし そのものを否定しなくてはならない。浪費は戒めるにしても、紙も木材も使うライフスタ イルをこれからも続けざるをえないと考えるひとびとにとって、その方法を模索し思案す ることは大切なことだ。                               その答えは性急に求めないが、ここ苫東のフィールドでは、何も手入れをしない雑木林、 カラマツやアカエゾマツの造林地と対比させることにしている。北に向かって右は放置、 左手だけ人手を入れて、倒れた木や混みすぎた広葉樹を炭やほだ木用に切って利用してき た。どちらがいいのか、もう頭でっかちになってしまった人たちには、ここで春夏秋冬よ く見て比べ、どっちがいいのかなと考えて欲しいと思う。意外と答えは白黒ではないもの にいきつくのではないか。ツルにからめ取られて枯れそうなカラマツをクマゲラが穴をつ くっており、枯れた暁にはいずれ広葉樹が生え出てくる、そんな更新の状況をみるのも悪 くないからだ。現在は、わたしだけの道楽になっているが左手のゾーンはこつこつと順調 に間伐は進んで、発生した木材はログハウスの薪ストーブに利用しているわけだ。     正直なことをいうと、ここでわたしは大きな発見をした。まず、林は存在するだけで気 持ちいいのはもちろんだが、手入れをした林はもっといいこと。次に、薪ストーブを燃や して暖をとる行為はほとんどセラピーに近いこと。これらふたつは大体想像がつくことで ある。大きな発見とは、これを自分で毎年木を選ぶことからはじめ間伐して運んで割って 薪をつくり積んで冬に備えるそのこと、これはとてつもない充足感であることだ。生業を 得る今の仕事よりずっと達成感がある、といえば大袈裟かも知れないが限りなくそれに近 い。週末数時間のそんな作業が、ある面でウィークデイの仕事に勝つとはわれながら情け ないが、それは仕事を見下げるのではなく、林の作業の方をほめてあげたいのだ。    ●宮沢賢治のデクノボー精神                             実は今回のテーマのひとつにこれを入れていた。それはわたしのちょっとしたひらめき だったのだが、林との引っかかりをちょっと理論的に関連づけようとするとちょっとつら い。で、資料のコピーを渡すだけで話はやめてしまった。でも、なんか賢治はブームだ。 むしろ、毎年、日常的にだれかが賢治を語っているというのが正しいのかもしれない。   新しくできた賢治博物館の館長の話をラジオで聴いてからなおさらそんな気がする。わ ずか、2年あまりの教職の間の賢治の所業を、教え子たちが今でも語り継いでおり、エピ ソードは新鮮で面白い。いや、ほとんど奇行癖といっていいくらい。野外実習のときに生 徒は道を歩き先生(賢治)は「いぬころ」のように藪に入りながら蛇行して進んだこと。 時折、右手を急に振りつつ走り出しホッホーと叫んで天空に飛び上がったこと。わたしは これは賢治独特の自然との交信、Sさんの謂いを借りれば同期していたのではないか、と 思う。                                       ドクターTによると、奇行癖というより精神的に病をもっていたとみる研究もあるのだ そうだ。賢治は別にしても、大地と同期するとか、魂と自然の往来などと言い始めると、 それだけでもアブナイ世界と言われかねない。でも、精神世界というのはそこにしか安寧 がないとすれば恐れずそこへ行くもののようだ。                     ●第4回を振り返る                                  あれこれ考えつつ、思い出しつつ、楽しみながらキーを押していたら私的メモがこんな に長くなってしまった。森の中こそ厳かな祈りの場になりうる、というSさんの話からこ こまで来てしまったのだが、これも前回書いたケルト人のニメトンみたいなところがあっ て興味深い。土着の少数民族は大体このような交信の術をもっていた。そして征服したか もしれない近代人は、文明の中におぼれて交信のアンテナはずっと折れたままになってい る。                                       ユングは「新しい現代文明は、平和と健康の根元としての、自分が住んでいる場所と調 和することの意義を認め損なった」と言っている。こうした根元を持たないと、人々はそ の時々に支配的な気分によって様々な方向に流されがちになり…大地に根ざし身体の奥か ら発する英知に従って行動できない、というわけだ。                



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