生成りで語る

第6回

●テーマ 森林公園利用者と森林散策 A PTSDとその治療 ●日時と場所 6月22日 土曜日 am10:30---pm2:00 場所 苫東・雑木林ケアセンター *本文中の林の写真は、内容と直接関係はありません。
以下のメモはいつもどおり勉強会の概要ではなく、日が経ってから ぼんやり思い出すことのできた話の糸をつないだものです。特に今 回はお茶を飲んだりお菓子などを食べたりと道草が多かったので、 随所で聞き漏らしも多かった。やはり勉強は「飲まず食わず」でな いといけないことがようくわかった。でもその道草もうんといい。 6回目のプロフィールとあらましは下記のごとし。        勉強会の前に立ち寄ったつた森山林。20年以上、この林の管理をした。  薪割りをして待っているとき小雨がほんのわずか落ちてくるときがあり、6回目の勉強 会ははじめて小屋の中ですることにした。あらかじめ、薪を2本焚いておいたので室温は 13度から22度に上がってきた。割った薪をネコに入れて薪を積み終わったそのときに ドクター・TとIさんらが到着、そして間もなく岩見沢からSさんが定刻で到着。札幌の Sさんは植樹会、白老のSさんは庭仕事のつかれで急遽お休みとなった。        まずはこんにちは、と                                  なま温かくちょっと寒い小屋で、ざわざわとその後の四方山話をかわしたり、もってき た本をお互いに貸しあったりした。コーヒーが振る舞われたりさくらんぼが出たり、薪を くべたりといろいろな前裁きというものがある。そんなやりとりの中の最初の話題は、ド クター・Tのバリ島で始まったような気がする。癒し系の島?バリ島で、ドクターは、何 にでも効くというマッサージのようなものを受けたという話。発端はなにだったか忘れて しまったけど、あんまり自然に始まったので益々発端がみえないが、30人ほどのお客が いて、それが結構いけたという話である。まったく、知らない世界なのだが、頭の中では 沖縄のゆったりした暮らしぶりやゴーギャンの絵などを思い浮かべてフムフムと聞く。沖 縄とか南国を想像するだけで、このごろはサゾヤと緊張のつっかえ棒が柔らかくなりそう だ。                                        あ、思い出した。発端はわたしが一気に読んだ河合隼雄さんの新刊「ナバホ族…」の話 だったかもしれない。アメリカの先住民族の間では、メディスンマンと呼ばれるシャーマ ンがいろいろな病を治すのだが、ナバホも例にもれず魂に関わるさまざまな話題が提供さ れる。河合さんはこの本の中で臨床心理の専門家として、知恵の宝庫・ナバホを訪れてい るのであった。サウナのようなスチームロッジを体験したルポがちょっとおもしろいのだ けど、それを読みながらわたしが週末行く銭湯のスチームサウナを思い出した。熱く薄暗 く静かで自己内観の空間なのである。ともかく、何人かのメディスンマンがいて、…とい う話に続いてバリ島がでてきたような気がする。ネットでおなじみの田口ランディさんも バリ島のことを書いていたから、癒し系の感じはわたしも予感していたところだった。   わたしは7月にふたつの長期滞在型の療養施設を訪れるのだけど、そのひとつ穂高のそ れは都会の健常者もよく訪れるらしく、朝はヨガに始まり鍼・灸やマッサージ、その他の 非保険医療とも言える代替医療を施すところである。玄米と土地の野菜を中心とした食を 日に2回そして森林系の散策がプログラムされる。わたしの本当のねらいはここにある。 岐阜の下呂温泉はこんなホリステック医療を取り込んだ健康リゾートに温泉の命運をかけ て転換し、伊豆のある温泉地でも人気の場所があるらしい。               こういった医療で思い出すのは、塩野七生(ななみ)さんが書いた「すべての道はロー マに通ずる」。実に多くの行政マンなどが読んだ隠れた(いや、堂々の?)ベストセラー で平積みにされていたからご存じの方も多いはず。この中で、塩野さんは古代ローマ人の 死生観、養生観を書いていて、要は古代ローマ人達は予防医学にはかなり熱心だった反面 いざ不治の病にかかったと悟ると従容として死を受け止め未練を捨てて死んでいった、よ うな内容である。教育も個人教師で、つまり古代ローマでは医療と教育は公共事業ではな かった、という話。この前半のところがみそであり、ここに自然治癒とか免疫力を高める いろいろな営みが当然生まれていただろうと想像するのである。まあ、この本の熱心な読 者の中には、公共事業がなぜ必要なのかと言う哲学を引きだそうという方や、やっぱり医 療と教育は個人負担がよかった、という国家財政論に導く方など、いろいろいらっしゃる ようだ。ま、それくらいおもしろく読めたのは事実である。               わたしが学生だったころ、スウェーデンが公園緑地を整備するのは、市民が緑の中で憩 うようになると結果的に医療費が安くなるからだ、と何かで読んで感動した。なんとわか りやすいロジックだろう。今なら、少なくともここにいるわたしたちは、そのことをもっ と実感している。10年ほど前の建設白書に同じような記述を見つけたときは、懐かしい ようなうれしいような気分になったのだった。                    人々は森林散策をしているか                           岩見沢から参加のSさんが「森林公園利用者と森林散策」の2回目を話題提供してくれ た。そのものずばり、「森林公園を訪れる利用者は、森林散策をしているか」がテーマで ある。森林公園を作ると必ず森林散策路が作られるが、閑古鳥は鳴いていないか、鳴いて いるとすればなぜなのかということを環境教育活動に同行して子供たちの行動を分析(前 回)したり、施設そのものの配置がこれでいいのかを「仕組み」と「つくり」の面から再 検討を加えようとしている。今回はトポロジーネットワークというなにやら難しそうな手 法で分析されていた。                               林の中の広場。わたしは落ち着くが、人によっては不安感があるかも。 時に林の向こうからエゾシカがこちらを見ていることがある。  要はエリア内にある道路の結節点や拠点としての建物など主要な施設をマップに落とし てグラフを作成していくものである。結論を急ぐと、散策路の利用者にとっては、自分が 滞在するキャンプ場など(駐車場も入ると思う)基準となる場所から散策路が近くにある かどうかをとても重視する結果になっている。つまり近接性(アクセサビリティー)が重 要だということである。ちなみに、はやっている森林公園というものの特徴はまず情報、 次に施設の整備グレード、そしてソフトの充実。3番目は、いけばなんとか遊ばせてくれ るあの仕掛けをさすんだろうと思う。                         一般的にはどこの森林をうたい文句にした公園も、受けをねらうあまりについ遊具や冒 険広場などを作ってしまうが、それは逆に子供たちをそこにとどめてしまうことになりか ねない。ドイツのバルトキンダーガルテンではなにも遊具がなく、子供たちは落ちている 枝や葉っぱや虫やそういったもので遊びを見つけていくと言われる。           話は戻ってアクセサビリティである。生活するものの側から言えば、森林公園はごく身 近なところにあって欲しいと、少なくともわたしは思う。こんな風に書くのは、木は虫が 来るからイヤだとか、鳥が朝さえずって眠れない、などという苦情があり、街路樹すらお ちおち植えられないと言う、これまた行政の泣き言も聞いたからだ。しかし、では車の音 はどうなのか。何が大事で、何が後回しにしたほうがいいのか。100%の合意形成など あり得ないが、おおかたの合意まででもまだまだぶれるかもしれない。          おっと、身近ということだった。身近というのは歩いて行ける、という風に考えたい。 歩いて10分以内に森林散策路の入り口があればこんなうれしいことはない。車ならどう か。例えば、北大の演習林は得難い散策コースだが車で20分。ちょっと遠いかな、とい う感じもする。                                   行きたいという動機がどれだけ深いかに関わっているのだが、日によって、気分によっ て、季節によって、それは様々である。ただ、欧米の各都市をみると、ダウンタウンに1 00ヘクタール単位の大きな公園、それも森林公園風に存在することは注目したい。ミュ ンヘンの英国式庭園、アムステルダムの人工の公園、クライストチャーチのハグレー公園 など。それが地方にいけばもっと至る所が森林散策のメッカであり、そこにルーラルパス とかフットパスのような田園の散歩道がつなぐ。                   どんな森林を歩きたいか                               とても残念なことは、今作られている大きな公園のいくつかは、都市にすんでいる市民 のアクセサビリティを考慮してのものでは必ずしもないことである。月形の道民の森は公 共交通機関がないし、札幌からでも1時間あまりのドライブが必要で、散策するのに半日 以上かかるのはちょっとツライ。場所の選定こそ最優先して検討しなければならないのに 補助事業との組み合わせの事情などで先に場所の選択肢がないところから、設計はスター トしてしまうのである。現場は、与えられた悪条件の中でそれでも最良の手法を探す。S さんの調査もそんな状況の中の労作だと見た。                     わたしが印象に残っている散策コースは南ドイツのフッセンである。岩壁のゲートを抜 けると別天地のような森林散策路が続いたが、マチの中心部から1kmほどのところだっ た。森林散策路を組み込んだクナイプ療法の保養施設であるが、ここはコースが1km、 2km、5kmという風にいつでも帰ってこれるようにUターンの周回コースができてい た。気楽に別の道をたどって戻れることが明示されていることは、利用者をとても安心さ せる。そして大事なことは奥にいくほど恐いという印象をあまり持たせないことである。 しっかりした自然風の林のどちらかが湖や芝地などで開けており、よく計算されていると 思った。                                     秋、何本かあったオオウバユリのタネをまいて、ウバユリの畑を作った。 アイヌの人はこの根を食料にした。自生の植生をコントロールするのは 面白い。ここでエゾシカを餌付けしたことがある。大成功だったが公表は できなかった。                            その点、わたしが道内で見てきた森林散策路の多くは、まず、本格的な林業の営みの中 に場所を割愛して施設を作ったものが多く、使う方の立場にあまりなっていない。使う方 からいえば、緑をふんだんに味わうために、拠点部分ではキャンパスのように見通しを良 くし樹木をできるだけ薄くしなければならないのである。緑を大事にする観点から、道路 工事でよく木を残して急勾配の切り土のり面を作るが、これもストーリーが逆で、ゆるや かな1:5程度の勾配にして吹き付け芝から早く郷土植生に置き換えることを考えるべき である。そうするとメンテナンスフリーになるうえに、そもそも自然である。木を切るこ とは悪いことだというドグマにはまりこむとメガネが曇ってしまうのである。        マチづくりのなかの公園と森林と散策を楽しむ感性              Sさんのこのような研究の蓄積と、利用するものの声と、こころが疲れたり病んだりし た人がどんな林を好むのかとかの気遣いと、子供が毎日出かけられるようなロケーション と、年寄りがベンチに座ってひなたぼっこもできる日だまりスペースと、鳥も昆虫も魚も 程々居着く環境と、できればわたしのような林の散歩好きが毎日通える2次自然、疑似自 然といってもいいそんな空間とをさまざまに混ぜ合わせた理想的なモデルを、マチの中に こそ作りたい。できれば、そこで薪や何かの素材を生産できるような仕組みまで入り込め ませられたらパーフェクトだ。                            散策とは健康のため行うものだという世の中のトレンドだけど、自分と対話してしまう あの反芻のひとときこそ散歩の神髄ではないかと思う。自らをカウンセリングするような あの時間。それが林になるとどうなるか。場の雰囲気はもっと厳かになり、社交的な自分 から浮ついた部分を脱ぎ去りすこしむき出しな素直な人にテンションが下がる。葉っぱが きれいだし、ひんやりする温度も吸気をおいしく感じさせる。鳥が鳴いている。向こうに 暗い林があるけど、クマはいないのだろうか、などと思いをいたす。とても忙しく五感を 働かせているようだ。                                しかし自分のことを考える時間というのは、テレビのこれでもかという退屈させない攻 勢の前にはとても太刀打ちできないという話になった。欧米で、夜、夫婦が出かける時、 子供はテレビをつけてさえおけば寂しがらずに寝る、という話を聞いたり、実際の育児で もビデオがあるととっても楽だという。子供は画像に釘付けになるからだ。そしてこうい う生活が日常化してくると、自我と向き合う時間というのが限りなく短くなっていくので はないかというのが、ま、場の仮説だったかも知れない。わたし流に付け加えるならば、 気持ちが常に外向きなままで流れていくと、「魂」というようなものにとても違和感とか 恐れを持つようになると考えられる。少なくともじめじめしたなじみのなさが居心地の悪 さにつながっていく。そして益々、乾いた感性は、時に分別のない非モラル的な行動にも なっていく。林や森林などという存在は、その点、霊的な畏れをにおわせる象徴であり、 そのままでは入っていく気になれないし、関わることもさけたい存在となる。従って、人 と林は益々乖離してしまう。                            ハルニレの大木と広場。シカはこんな風に入り口からの客を見ている。  自己内観から遠ざかった行動が身に付いた段階では、もう病気でもならない限り林には 入らない。森林散策になじまない、最も大きな原因は実はその辺にあるのだとわたしは思 う。スピリチャルな部分、ここがかぎではないか。逆にこころが疲れたり病んだりして癒 されたいと願ったとき、よく手入れされた森林と人は簡単に結びつくことができるのでは ないか想像するのである。                              ではそれ以外にもっと身近になる方法は身の回りにないのか。これに対して、親あるい は学校の先生が幼児や小学生の時代に林に連れ出すことだ、という意見も出されたように 思う。昔は子供同士の異年齢集団が林で遊んだものだった。あれも地域の教育だった。  必ずしもあずましさとか癒しだけが求めるものではなく、鳥だったりその他動物だったり (わたしは沢ガニとりが好きだった)、シカなどの大型哺乳動物だったりと、森林がもっ ている「うまみ」はさまざまであるから、そのどれかにパイプがつながればいいというの も、なるほど、そうだなあと思うのである。                      フランス人のJ・ブションは次のように言っている。「日本では森に行くことは地理的・ 時間的に難しく、森はしばしば立ち入りが禁止されている。…森林に対する教育も日本で は映像、学校、博物館など間接手段による場合が多い。レクリエーションの森の設置や年 一回の植樹祭などもあることはあるが、ほとんど形式的であるように思える。ヨーロッパ の状況は違う。なぜなら、森へ簡単に行けるから。教育としては森林火災に対する注意 程度であり、特にフランスでは何も行っていない。最も良い方法は、子供たちを森へつれ ていくことでありそれで十分だと思う。」(「森をみる心」四手井綱英、林知己夫編著) PTSDとその治療                                  林の散策は、わたしたちの関心の重要な部分を占めるから、あれこれこだわって上下左 右から語り合っていると時間がどんどん経っていく。ましてこのレポートを書く段になっ て思いついたことを書き連ねているうちにページが増えてしまった。           当日のもう一つの話題はドクター・TのPTSD(post traumatic stress disorder:外 傷後ストレス障害)である。阪神淡路の災害などでクローズアップされたが、ドクターの病 院では毎月の新患の一割がPTSDだというから、かなりポピュラーになっていると考え ていいようだ。必ずしも災害に限らず、交通事故や男女関係なども原因になるそうで、再 体験への恐怖、回避症状、不眠などが特徴とされる。                  さて、そのPTSDの治療に効果的だと注目されているのがEMDR(eye movement desensitaization and reprocessing)である。1989年、アメリカでFrnsine Shapiro という臨床心理学者が発表して以来、アメリカを中心に注目を集め、今日まで世界の 20,000人以上の心の専門家がこの方法のトレーニングを受けているという。この方法は眼 球運動が脳を直接的に刺激し、脳が本来もっている情報処理のプロセスを活性化できること を利用している。この話は以前から少しずつ聞いており、林に入ってキョロキョロと葉っぱ や鳥や花やその他何でも、とにかく目を動かしながら散策することで、ものすごい気晴らし になる、という風に話題として提供されてきた。                    また、林とのつきあいは自分で自分をコントロールするマステリー感覚を伸ばし一種の バランス感覚を培うようだ。バルトキンダーガルテン(屋根のない幼稚園)が心の病気の 抵抗力や免疫力を持つようだとされることとどこかつながっているようだ。ドクターが用 意してくれた資料のなかの「快復的な情緒体験の蓄積」では次のように記述されていて興 味深いので引用しておこう。 トラウマと林の活動                                「トラウマを受けた人の場合、トラウマ性記憶を再体験することと、その記憶を閉ざして しまうことが、心理的な活動の中心を占めるようになる。そのため過去の傷の快復を促し てくれる可能性のある新たな、満足のいくような経験のための余地はほとんど残っていな い。こういった患者にとっては、マステリーの感覚や喜びをもたらしてくれるような経験 に積極的に関わっていくことが必要になる。身体的な活動(例えばスポーツや野外活動な ど)やその他の身体に関わる活動(マッサージなど)、あるいは芸術的な創作活動といっ たものが、トラウマによって汚されることのない経験を患者に提供し、その結果、新たな 喜びの源となる可能性がある」。                            この日、前半に話してきた森林公園の散策とかキャンプという活動が、PTSDで苦し む人々にとってもとても有効だという話は、なにか、もっと真剣に取り組まないといけな いのではないか、という気にさせる。緑の話はこころと体の立場からこそもっとアプロー チされるべきだという由縁である。この辺の合意形成がわたしたちはとても遅れていると 実感するのだが、これは時間のかかる話だ。野生生物や貴重種に重心をおいた「緑および 自然観」を少し「ひとのこころ」に傾斜してみることができれば、大袈裟にいうと社会が 変わると思うのである。                              6回目を終えて                                  ストーブを囲んで。結構まじめにやってるなあ、と驚きつつやや照れる。  この日は、田口ランディさんの白目の話とか、若者や夫婦間の携帯電話、ヤマアラシジ レンマ、若者の達成感の不足など、いろいろな断片が飛び交ってとても細かく報告するこ とができない。だけど、どの辺が焦点なのかとか、それらがどうつながっていくのか、と いうあたりが少しずつ見えてきたと思う。                       わたしの最近の新しい発見は、養老猛氏の「人間科学」の中にあった。個人的に社会の 諸悪の根元が「都市化」にあるのではないか、とたどりついているのだが、養老氏は、都 市は自然を駆逐し人工的なもので占めてきた、今、もう一つの自然、つまり人間の身体を 追い出そうとしている、というのである。                       人間の身体が自然…。ああ、そうか。だから、深く呼吸し、土と一体になるヨガのよう な行為が懐かしい感覚をもっているのか。これにはちょっと目が覚めるような気がした。

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