生成りで語る

第5回

●テーマ 森林公園利用者と森林散策 セラピストとしての木、木のエネルギー 「田園へ、鎮守の森へと向かった庭の旅」から ●場所 5月25日 土曜日 am11:00---pm1:00 場所 苫東・雑木林ケアセンター このページは、勉強会で話された内容についてわたし (草苅)が勝手に連想したり咀嚼した事柄をこれまた 勝手につないでみた寄り道メモ。でも、こうやってメ モを書き連ねているうちにぼんやりと何かが見え始め ることってよくある。今回は、終了時刻があったので のんびりではなかったが、新緑の最も美しい日の野外 勉強会となった。                
 哲人は森から生まれる。哲人になれなくとも、わたしのような凡人でも森を散策すると いろいろな懸案に見切りをつけることができる。情緒的なバランスがよみがえってくるの で、林を歩いて入り口に戻る頃、どこか気持ちの整理が付いている、ということがよくあ った。                                       また、二日酔いで心身ともに打ちのめされているときも、林を散策する小一時間の間に、 メローな気分は大分復調することが多かった。散策ではないけれども、木を切って片づけ る作業でも同じような効果が見られた。これは自分が実験台だから主観的な表現にしかな らないが、それが事実だということは、まあ、わたしの「林通い」が休みなく延々と続い ているというあたりで感じ取ってもらうしかないかも知れない。             ドイツ人が毎日、あるいは毎週末森に散歩に行く、という現実にふたつの点でうらやま しさを覚える。ひとつは、毎日行ける距離にしっかりした森があること。もう一つは、こ れはうらやましがってはいけないのだろうが、森を散策の対象に選ぶことができる目利き や感受性。300年ほどの長い間の、いわば戦いの中で市民側に森が戻ってきたドイツの 歴史をみると、前者は後者の結果だというのがすぐわかる。               私たち日本人の遺伝子の中にも、森と親しむことのできる感性が眠っているはずだとい うのが、うすうす解ってきたのだが、さて、そのとっかかり、入り口がまだよくわからな い。STさんが持ち寄って話してくれた今回の1番目のテーマはこの辺の事情を振り返る のに、とてもいいきっかけを与えてくれた。また、もう一つのテーマ、わたしが出したセ ラピストとしての木とエネルギーについては、自然と人が1対1で向かい合う個人的で孤 独な林体験について考える契機となると思う。STさんの話がグループ行動を中心にして いるとすれば、まさにその対極といえるだろう。                   語る。聞く。語る。聞く。祈りのようなスタイルになる。 ●森林公園と森林散策(STさんのレポートから)                  「森林公園を訪れる利用者は、森林散策を行っているか?」。これがこのレポートの大テ ーマである。森林公園を作ったが、利用者は遊具や芝生にばかり集まり、散策する人など ほとんどいない…。何が、公園利用者を散策に誘い何が散策をじゃましているのか。これ まで、ヨーロッパの市民に比べ、森林を歩くことが少ない、とされてきたことの原因、実 状をずばり、調べたのがこの調査だ。当別町にある道民の森、江別・赤平・美唄の3市の 森林公園利用者へのアンケート(平成9年から11年)をもとにした。         結果をかいつまんで書いてみよう。                         @してみたいことは、芝生広場での休憩やスポーツ、そして森林散策。実際にしたことの  1番目か2番目が森林散策である。                        A森林散策をするときに重要視しているのは、キャンプサイトなどから近く「行きやすい  こと」と「森林の豊かさ」。                            Bふれあい活動は「動植物の観察と採集」「森林浴や散策」「川遊び」が多く、森林散策に  限れば、「したい」と思った割には「した」人は多くない。ふれあい活動の場所はやは  り、10分以内の場所に欲しい。                         C一泊2日のキャンプにあっては、森林散策などに使える自由時間は全滞在時間の20%  程度で約4時間半で結構忙しい。                         D森林散策は必ずしも散策路だけでなく、疎林、広場なども対象にしている。      などが挙げられる。                                 キャンプと日常生活は違うが、居場所から森林散策路が近いと散策に行く人が増える、 という点はかなり共通していることと言える。ただ、日常の方は町内のことは熟知してい るので散策の動機が深ければ多少離れていても散策に出かけるということになろう。行政 の場合は、折角整備したのになぜ人が利用しないのだろうと言うようなことが付いて回る から、どの程度離れているのが適切な配置かという配置計画に目がいくが、キャンプは非 日常的な典型みたいなものであり、わたしが意図するような日常的な緑の入り口探しとや や違う要素をもっていると思う。つまり、行政が森林散策路を作る場合、利用されるため にはテントのすぐそばに道があるといいという表現が一番ぴったりするのかもしれない。   語り手の向こうは春本番。  しかし考えなければいけないのは日常的に行ける森林散策のことである。遠くにある立 派な施設と、あまり整備がされていないし不備なんだけどそばにある森林と散策路。広い 立派な森林と散策路が身近にあるに越したことはないけれど、それがままならないという なら、後者の方がわたしは選びたい。つまり、「整備レベルが十分でなくともまず近くに あること」。そんな例が実はわたしの家から50mのところにある。これは「こもれびの 道」といい、高さ約10mのヤチダモの耕地防風林の一部にアンツーカー色の散策路を設 けたもので、緑道の幅は約20m、延長は2,3kmあるだろうか。片道3車線の幹線に 隣接しているから、自動車の騒音もかなりだし、もっと閑静な場所を散歩したいところだ が、どっこい、すごい数の市民が一日中往来している。                 この利用状態を見ながら考えなければいけないもうひとつのことは、これが必ずしも立 派な森林、多様な植生を持つ豊かな植生とは違うという点だ。間伐がやや遅かったせいも あり葉が木の先端に偏るものが多く樹形は良くないが、しかし単純で見通しがよい。動物 に襲われる危険もない、林床はササがなくマイヅルソウやコナスビ、シダなど低く刈られ ている。いわゆるキャンパスタイプの平地林だ。林の専門家たちは森林散策路といえば、 まず立派な森林を用意しなくてはいけない、と推論して行くが現実のニーズは違って、木 はできるだけ少なく、うっそうとしない、樹木ぱらぱらの中を歩く環境を人々は好むよう で、これはドイツのクナイプ療法のコースなどでもよく見た。                要は、奥山風とでも言うような一見ほんもの的な林やキャンパスや水辺など、さまざま なロケーションがあって選べるようだと申し分ない。わたしなら明るい開けたキャンパス を通り抜けて、やや薄暗い林をくぐるコースを選ぶかも知れない。ひとりで静かに歩きた いから、そしてちょっぴり、「もののけ」も感じたいからである。キャンパスなど「半自 然の緑」をわたしたち人間のためにもっと注目してあげなくてはいけないと言うのが、わ たしの近来のイヌの遠吠え的提案である。半自然、それもあっていいではないか。ヒグマ すむ林ばかりが本当の自然、本当の林ではない、という人は実はあんまりいない。                        道のうねり、新緑、歩きたいと心底思う。 ●散歩に関する日本人と欧州人の比較                         というわけでSTさんのレポートから、日常の散策路、とりわけ森林散策路のコースに ついて考えることとなったのは、面白かった。この辺の話が「林とこころ」の大事なテー マの一部だと思う。STさんは、自分が関わったこのレポートとは別に、もう一つの面白 いレポートを持参してくれた。これは日本造園学会誌にのった研究論文で、「ワンダリン グに関する日欧比較」(藤田均氏)。この論文は日本人よりずっと多くの時間を自然の中 で過ごす欧州人が、一体どういう意識で森などに出かけるのか、といった根本的な疑問に 対してアンケートをもとにして簡明に切り口を見せてくれる。              それに「林とこころ」をはじめる際のひとつの動機、すなわち「林の散策を覚えるとこ ころの病気がもっと減る、変にいらいらしなくなる、だから、身近な林をみつけて歩こう 」という個人的に抱いてきた提案ととても似た提案を、林床心理学者の河合雅雄さんが述 べており、冒頭でそれが紹介されているのも驚きとうれしさをもって読んだ。紹介されて いる河合さんの言葉は、「わが国には、散歩、散策、逍遙、そぞろ歩きなど、いい言葉が いくつもある。死語になりかけているこれらの言葉を、もう一度現代に甦らせたい」。そ うなのだ。今、流通のための道は一定程度整備を終え、これからは日常生活の中の、暮ら しの道を手に入れる時なのだ。ルーラルパスであったり、森のみちであったり、何より、 身近なところになくては仕方がない。                         ここでは結論的な、わたしが最も目を引いた2,3の点についてだけ述べよう。まずひ とつは成人が自然の中を歩きたい理由として欧州人があげた「孤独になれるから」。然り である。以前の「林とこころ」でも書いてきたとおり、群れては林の中の体験がこころに 響かない。そうなのだ。孤独にひたり引きこもらないで獲得できるものなど何もないのだ という趣旨のことばを吉本隆明がいっていたが、世は孤独で引きこもる人々をまるで病気 のようにみなし、ひきこもりを外に連れ出すボランティアがいるという。吉本隆明はそれ をよけいなお世話だと一蹴する。林のなかの孤独のすごいところは、実は、そのような孤 独な時間を過ごすことによって、自然という大きな輪のなかに自分の位置がある、その一 員だというもっともっと大きな喜びを得られることだが、これはまたいずれの機会にしよ う。ともかく、孤独になるために林にいくという動機を日本人はあまりもたないという傾 向は注目しておくべきだ。畏れを感じるから?怖いから?霊的な自分と向き合うのが恐い から?結局、ここへ来るのである。                          そしてもう一つの欧州人の答え、「考えがまとまる」。哲人が森から生まれるという言葉 と親戚の感想だ。ドイツ人が、知人との相談事を「森を歩きながら話そう」などといって 出かけるというのも、これと似ている。面対して話すより、同じ方向に向かって話す行為 はより密接な友好感が醸成されるともいう。悩み多いわたしたち日本人、悶々とした考え をすっきりまとめるために自然の中を歩こう…。まあ、こんな風になっていくといいが、 そのために通過しなくてはならない点がいくつかある。これはおいおいまとめていこう。  藤田氏は、日本人が自然に親しむため自然の中を歩くようになるのには、欧州人のよう にワンダリングが定着する必要があり、さらにそのためには子供の頃からの学校教育の場 における習慣化とインタープリターの存在が見逃せないと述べている。         ●ハイヤーセルフについて                              最後にわたしが用意した資料(「木のヒーリング」)を簡単に話した。著者のパトリス・ ブーシャルドンは、木の持つヒーリングエネルギーを研究し、ワークショップを開催して きたというという人で、この本の中では、木のエネルギーを感じとるためのエクセサイズ の方法について、細かく言及している。木からエネルギーをもらい、こころと体と魂の危 機を切り抜ける、ということに主眼が置かれている。従来、わたしたちは林という、樹木 の集合がもつフィトンチッドや緑の効用などについて云々してきたが、ここではそうでは なく樹木個体を相手にしている。そして個別の樹種ごとに癒しの特性があるとしている点 がちょっと驚きである。                               たとえば、シラカバは「やさしさ」という性質を持っており、ショック状態の手当に利 用することができ「過去と和解したり」「変化とうまくつきあう」手助けをしてくれると 言う。ブナが持つ「自信」というエネルギーの性質は、平静な心を呼び覚まし恐怖から開 放してくれる…。とまあ、いくつかの木についてこんな解説がある。わたしはこれらを一 気に読んだ後、ログハウスの周りの雑木林でひとつひとつのコナラやハリギリやイタヤカ エデを相手に彼らのエネルギーを感じられるか、ひそかにエクセサイズを展開した。また 朝の散歩時には、ヤチダモの木々に触れ同じように木々のエネルギーを感じられるか、試 してみた。まだ、継続中で何とも言えないが、ある程度、わかるような気がしてきた。そ れはまず自分の両手の間に、気を感じるような気がしてからだ。気がする、としか言えな いあたりがみそである。                               こんなアブナイところまできた、と実は振り返るのであるが、このアブナイとはなんで あるのか。コナラやヤチダモの木に触れ、幹を仰いで少しずつ手のヒラを話していく行為 は、確かに端から見ると異様である。「もしもし何してるんですか?」などと通りかかっ た知人に声を掛けられるものなら、いよいよどこかで変な噂が立つかも知れない。     だが、これは「林とこころ」を素直〜にトレースしてきた偽りのないわたしの興味とこ ころの足取りそのものであり、誰に勧められたものでも強制させられたものでもないこと が、まったくこころを曇らせないし、ひるませないところが面白い。おかげで、ヨガの理 解も深まったし、ガイアと呼ばれていたあの辺一帯のイメージも、木々とのつながりの中 で見えてきた。ううむ、なんて表現したらいいかわからない。が、事態は動いている。   「木のヒーリング」は、木をセラピストとして扱う新しさとともに、ハイヤーセルフと いう言葉に目が止まった。高次の霊的自我で、わたしたちの内なる知恵の源だというから 我執にとらわれる下世話な自我の一段上にある、と考えればいいのかも知れない。臨死体 験をした人が、肉体からすーと抜け出した自分が、横たわる肉体を高見から見ていた、と いう話をするが、これがハイヤーセルフでないかとわたしは想像した。           ●5回目を終わって                                林の保育はメガサイズのガーデニングだ。  このあと、白井隆さんのレポートを紹介した。現代農業が特集していた「新ガーデンラ イフのすすめ」にあったものである。白井さんは温紀(はるき)さんという女性ガーデナ ーのパートナーだが、ふたりの庭のトレンドが「洗濯物の似合う庭」など古い日本的なも のをしっかり評価しているので注目していた。今回、「庭、里山、鎮守の森」をサブタイ トルにしており、わがHP「雑木林&庭づくり研究室」のボキャブラリーとえらく重なっ て勝手に感動したのでそのお披露目もあったわけである。その中の白井さんのフレーズ、 「今、わたしたちが探している宝物の多くは、田園に眠っている…」にわたしは傍線をひ いた。                                       そんなこんなしてる間に、わたしの所用の定刻が来てしまったのだった。5回目もいろ いろ考えさせられた。そしてここのところ、意見交換のじっくりした時間がない。この話 も、NUKEさんが言うように万華鏡もデクノボーももっと語り合いをしなくちゃ勿体な い。そう、そのうちテーマなしでおさらいというのも手かもしれない。いやいや、それな らいっそのことビールを飲みながらがいいかもしれない。あんまりまじめに話してきたか ら。                                        

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