晴林雨読願望
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勇払原野のコナラ主体の雑木林。ここは中下層をウシコロシの黄色が占めている
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●日々の迷想 2021& 2022 & 2023 & 2024

2021
first upload: Nov. 29 , 1998
last upload: Jan 20,
,2025

日々の迷想

■1/20 老後の一人住まいをどう生きるか

季節は今日の大寒で折り返すのだろうか。昨日からの暖気で、雪はまたほとんど解けてしまった。ひょっとして一月末までまとまった積雪のない年になるのか。そしてこのまま春に向かうのか?まさかそんなことはない、と思うけど、そう思わせる苫小牧のこのごろ。

正月2日の朝7時過ぎ、うちの台所から3,4mしか離れていない、まさに目の前の独居老人のアパートの換気扇からボヤで真っ黒な煙が出た。やがて窓サッシを外したところからも黒煙が出始め、放水も始まった。その直前、酸素マスクをした消防士に、「歩けないおばあさんが一人で住んでいます!」と大声で教えたら隊員は意を決して飛び込んでいって、おばあさんの悲鳴のような声が聞こえて間もなく、無事運び出された。元旦の夜から朝にかけ隣が焼ける夢を見たから、まさに正夢だったのである。

そんな年明けだったが、「月刊ひらく」を見ると苫小牧の高齢者ひとり世帯は17,910世帯、夫婦世帯は11,479世帯と、なんと独居の方が多いらしい(2022年)。町内で家族の代わりをする人も高齢化したり、行政もそこまではとても手が出ないから、備えがなかったら実に目の前真っ暗の高齢社会になってしまう。ついわが足元を見つめてみるのだった。はたしてうちは本当に大丈夫か、と。

実は先日も、隣町で独居老人のクレーマーにあることが元で理不尽な因縁を付けられ、独居老人のこころに思いを致したばかりだった。行政の支援も拒絶し、キレて孤立する人のようだった。今、わたしたちのコミュニティには、歩けなくなった人、認知症がかった方、難病にかかった方、もろもろ枚挙にいとまがない。人さまざま、上手に老いて死ぬのも楽でない。上でリンクした坂村真民の言葉のようにいかないものか。

■1/18 エゾシカを動画でキャッチ(コモンズを野生と共有)



ライオンは寝ている、という曲があったと思う。その言い回しを借りれば、今回の感知カメラでは「エゾシカは寝ていない」ことがわかった。真夜中にしきりに何か食べている。トレイルカメラは生き生きとした野生を完全に盗撮?していて興味深い。本当に小屋周りをねぐらにしていないのか、まだ結論はだせないが降雪後までもう少し観察したい。YOUTUBE にアップした動画はこちら

■1/16 「ひとり」の哲学

山折哲雄著の本書は現代の精神病理を解き明かすうえでも、示唆的な論考があった。かねてからいくつかの著作で、西洋的自我(西洋流の「個人」)と日本古来の、例えば親鸞や道元の「ひとり」とを比べる論考は興味深かったが、実はよくわからないことが依然として多かった。ただ、夏目漱石や石川啄木の屈折が、この個の認識と把握に由来するというところは、明治期の歴史ものを続けざまに読んでいるせいか、少しわかるような気がしてきた。

また、ハイデッガーやデカルトの唱える「個や自我」と、日本人の「こころ」の間に、やはり、そこはかとない違いがあることに気づいた。拙著のタイトルを『林とこころ』(2004年)とひらがなで決めたことに、ちょっとホッとした。「心」と「こころ」は違うと山折氏は書いていて、簡単に言ってしまうと「こころ」は煩悩系、「心」は観念世界を志向する信ずる中国由来の心ととしている。この辺は日本という歴史と精神を考えるときにとても興味深い。

■1/14 日本の伝統的家族を崩壊させるWGIPの洗脳と浸透、そしてその先にあるもの

これまでも何度か書いてきた、米占領軍GHQ の WGIP (WAR GUILTY INFORMATION PROGRAM)。今や、静かに議論の舞台にのぼっている夫婦別姓法案や、すでに成案となったLGBT法案の、その根っこを探ると、マルクス・レーニンらが描いた「自由と平等」に由来するようだ。既存の秩序という悪しき因習が根源で人々が解放されないから、家族や社会の仕組み、国の在り方を一度壊滅して壊してやり直す、というのが基本原理。そこに向かう力は「造反有理」とした毛沢東の思想に象徴されるように、平等になった人々は国家・党の基ではじめて平等になれる、とした。リベラルな人たちに大いに支持されている。

激しく抵抗した太平洋戦争の日本の、恐るべき戦闘の執念の根は、神国日本という根強い国の見方、儒教に根付いた倫理観、歴史観、先祖崇拝などバックボーンになる精神性があると見た占領軍GHQが、日本がこれらの精神を捨てとことん自虐的となって壊滅するよう仕組んだのがこのWGIPの戦略だった。教育制度も指導者層も官僚大学の要人20万人を切り、憲法まで変えた。

しかしもう遠い話だ、戦後80年だよ、などと思っていたら、GHQの呪縛は効きすぎて今もなお、すべて平等、個人の権利、自由などの声(ポリティカリー・コレクトネス)のもと、LGBT法案が通り、夫婦別姓の問題が取りざたされている今にしっかり繋がっている。これらは家族の在り方に関わっており、つまるところ日本人のこころの根源的な在り方に繋がっている。ここを誤ると、親子のきずななどは分断され、男女夫婦はバラバラになり、結果、コミュニティや社会が不安定に傾きやがて崩壊する…。実はもうかなり進行していたのだ。

結末まで予想はできないが、今の流れはそんな風にとらえられないか。江戸時代まで強固に守られたかに見えた身分制度や家長制度のほか、儒教に支えられたであろう長幼の序など、先祖を敬い目上の人たちの考えを大事にした(押しつぶされそうになりながらもがいた)のは、大戦の執拗な戦闘意識を支えた精神風土として徹底的につぶす、なくすとの考えが先のプルグラムだった。これがしっかりとまだ生きている、と感じられ指摘することができるとは驚きだ。身の周りの色々な事柄と関連させて考えてみたときに、思い当たることがこんなにあるのかと。

日本史上の最も大きな革命的出来事から150年余り、何とも命名しがたい苦悶の時代にいるようだ。そういう実感は強まっている。

■1/12 居残った白鳥



小屋の帰りに厚真の田んぼを見るとハクチョウの群れが畔に沿って並んでいて、一瞬目を疑った。地元の人に聞くと、秋まき小麦の芽を食べているのだという。農家には立派な農業被害だが、風土watcher の当方としては、申訳ないけれどもそれはそれで珍しい正月明けの風景に見えた。居続けるのか、雪が降り積もれば南下するのか。日高山脈のはるか前の丘もまだ雪をかぶっていない。珍しい1月の光景かもしれない。

■1/10 ハスカップ・サンクチュアリ



「明日」という日は「今日」の続きなのに、新年というのはどこか前と違う抱負のようなものを抱かせ、夢も見る。とてもいい時間であり、わたしの場合、抱いた抱負のうちかなりのものは現実のものになっているようだ。というより、実現のハードルが低い出来そうなものを夢の枠に入れ予定に組み込んでいるからだろう。今年は数ある抱負の中に、ハスカップ自生地の扱いがあった。

■1/08 司馬遼太郎著『胡蝶の夢』全5巻を読んで

明治の初めにかけての西洋医学の導入期を、尊王攘夷派と佐幕派の対立、オランダ人など西洋人と日本人の考え方の落差と共感、各藩の制度と人びとの気質、そこに独特の身分制度を絡め、維新前後のあわただしさ、命がけの確執などが目まぐるしく展開した労作だった。その分、時代の感覚というものが大いに感じられたが、270ページものが5巻となればさすがに結構な長さだ。時々、ふと「源氏物語」を思い出しながら読んだ。当然、登場人物の多様、大人数は関係図を思い描かねばついていけないのも「源氏」と同じであった。

それにしても著者の下調べは想像を絶する膨大なものだったろう。全体を通じて顔を出す蘭学(医学、工学、兵学、航海学)の中に、オランダの「市民社会のにおい」を嗅ぎつつ、医学は殿様や藩主など上位の者が独占するものではなく「公」である、という主張は日本人医者にはとてつもないカルチャーショックでなかなか理解できなかった。黒沢監督の「赤ひげ」につながるものだ。

また日本の伝統的な諸技芸が秘伝や「…道」にしたがるのに対し、「世間に公開する」という作法の違いには個人的にすこし納得するところもあった。わたしがフライフィッシングを始めた時、ある人が「どうして日本古来のテンカラ釣りをしないのか」と詰問するように聞いたことがあった。答えは簡単で、古来のテンカラの入門書は当時目につかなかったのに英米のフライフィッシングの教書は、より取り見取り状態だったのである。

司馬さんはあとがきに書いている。「(かれらは)社会という巨大な、容易に動きようもない無名の生命体の上にとまったかすかな胡蝶(蠅でもよい)に過ぎないのではないか」、と。風雲急を告げる時代の先端で蠢いた彼ら、いわば国士が身分制度を越えた農民上りが多かったようだ。そんなかれらが胡蝶なら、現代の市井の市民などどう表現すればいいのだろう。やはり容易に踏みつぶされて命を絶える昆虫だろうか。

■1/06 自分でやる楽しみ、その背後にある「減速生活」気分

「米国やカナダでは D I Y が普通で家だって自分で建てるんだ」と聞いて驚いたことがあった。現在では隆盛を誇るホームセンター産業ができ始めるころだから、もう半世紀も前の、日本上陸したばかりの新トレンドだったのではないだろうか。その前後、丸太小屋づくりがブームになって、わたしもログビルダーの講習を受けてダグラスファーの丸太小屋を数人で建てたことがある。当時はアウトドアの男の夢は丸太小屋だった。さらに小さなカラマツバス停も作って今も残っているが、その時はほとんど、ひとりだった。仕事との両立が難しくみんな去ったのだ。そのログビルの前後にチェンソーワークを覚えたので、その後の林の保育に必要な樹木の伐採技術に割とスムーズに入ることができた。

リタイヤした後、このなんでも自分でやる、という習慣が割とスムーズに抵抗がなくなったが、心の動きをたどって気づいたのは、D I Y の世界が「減速生活」、英語でいうダウンシフターの生き方、と表現するとしっくりいくことだ。庭仕事、畑仕事、そして山仕事はそれに通ずるものがある。時間に追われない、マイペースでできる、そしてかつてと大違いなのは YOU TUBE というかなり多種多様のハウツー動画があってハウツーを自分で習得できることだ。料理は素材を入力すると付き合いきれないくらいのレシピが出てくる。下手したら、自分の体の不調など、医者に聞くよりネットであたりを付ける方がしっくりいく、ということもあるくらいだ。

身近なことでは、年末にはカタログの取説を見ながらお風呂のバスタブ脇のエプロンを外して、大量の水アカ落としをした。また、昨日今日は読書の合間に、アルミのブラインドのコードが切れそうになったのを修理しようと試みており、現在、WEB で部品や交換方法を調べているところだ。生活に必要なたいがいを自分でやる、あるいは周りの手伝いを得てやる、というのは今の貨幣経済やサービスの仕組みを古い方へ引き戻す感じだが、そこに助け合いやコミュニティ存続のオーソドックスな知恵が潜んでいるように思う。

■1/03 庶民感覚

年賀状じまいの賀状が増える一方で、一筆書きのメッセージが入れ込まれた賀状の割合が増えた。その中にK先輩の「専門家より庶民感覚の方が正しいのではないでしょうか」という一文を発見。これは慶事である。丁度、自然や環境認識の点でそんなことを考えていて、雑木林だより129のリードに書いたばかりだった。自然や環境を根拠の不確かな数値やバイアスでとらえるのではなく、勘あるいは感性でとらえるのもあながち間違っていない。松岡正剛がいう「花鳥風月」というアンテナで掴むのだ。

それに加え、ドクターたちの診断とは裏腹に、体の不具合が知らぬ間に改善している部位と症状がある。これは不遜なことだが、本当の医者、あるいはケアマネージャーは自分しかいないという思いもあながち間違っていないような気がする。かと思えば、先般の大腸憩室炎診断の若い女医さんは、血液検査の数値とわたしの既往症の情報をもとに実に明快な養生の処方箋を出してくれた。まったく久々の納得。そんなこともある。

■2025/01/01
太平洋からの初日の出、献上  明けましておめでとうございます。”



朝、6時40分、まずめ時に目を覚ますと天窓から見える上空は意外にも晴れていた。これはひょっとして行けるかもしれない…。パジャマ姿にダウンコートだけ羽織ってまず車の雪を撥ねて、南へ1km余りの有明海岸へ。そこは、市民が海岸の堤防で列をなして並んでいた。かつて見たこともない光景であり、人びとはこれほど新しい年に希望を託すのかと、少しジンと来てしまった。国内も世界の情勢も、混迷と戦乱に悩む時代は過去にもあったにせよ、世界中が近年ほどうれしくない情報を共有したことはなかっただろう。「今年こそ争いのないいい年にしよう」、年はじめに初日の出を見ながら自然と誓いを立てた人も多いのではないか。 

■12/31 今年の山菜生活の締め「山椒ごはん」



今年も勇払原野からたくさん山菜をいただいた。山菜のない食生活はもう考えられないところまで満開だ。今日は、そんな山菜生活の締めにあたる「山椒ごはん」。何の焚き合わせもない素朴なもので、今朝の担当は山椒大好きの長女である。わたしが採った山椒を毎年送ってあげるので冷凍して食しているらしい。おかげでわが家のストックももう残りわずかになって来た。

味付けは白だしと醤油だけだった。何か神々しいような味と雰囲気だ。ちなみに、わたしの勇払原野レパートリーの中で今年採取できなかった山菜は「ジュンサイ」。明くる年は、フライで釣る樽前浜サクラマスと、このジュンサイをぜひ食しよう。実はジュンサイを夏にひとりで、ウェーダーをはいてトライしたが思いのほか沼が深くて断念したのだった。採取の船で転覆したりで、結構ヤバイのだ。で、次期はゴムボートを手配しようかと思う。川エビは昨年の調べでやはり4月中旬がピークだとわかった。その前でも後でもあまり獲れないのである。山菜など風土の恵みを日常的に手にするためには、少しだけだが努力も必要なのだった。

■12/29 日本人優先

外国人旅行者が多い傾向は続いている。コロナ後、いよいよ復活というところか。

先日、札幌駅の混雑の中では、聞こえてくる会話は中国語ばかりだった。登別の♨でも館内で聞こえてくるのは中国語(中国人か台湾人かシンガポール人か)ばかりだったが、全17室しかないこの温泉旅館では、会話が物静かだったから台湾人かと推測した。なじみになっているフロアの人に聞くとこの数日は5,6割が外国籍の客だと言っていた。

しかし宿の方針としては普段は日本人を優先していると聞いて、内心ホッとした。外国人の国内犯罪や不法移民問題などで眉を顰める事案が続くなか、個人的にはジャパン・ファースト的な考えに傾いている。自分のことは自分でする、国が立ちいかないのならばそこの国民の力で何とか勇気をしぼって汗を流して立て直す…。

いつのまにか、そんな理想論は通用しないほど独裁者による国家運営と弾圧がポピュラーになってしまった。国民が国を捨てて逃げるのである。かつて列強が武力で殖民地から搾取したのが、今は低開発国から合法違法取り交ぜて逆に先進国へ移るのが、現代の殖民地化だという。ざまあみろ、というところか。

日本そして世界は、これからどこをめざすのか、どこに行けるのか。先月からの読書は、幕末から明治に向けての日本の維新という激動の価値変化をトレースしているが、国民同士の殺し合いも最小限に済ませてやはり奇跡的なことだったのだと反芻せざるを得ない。あの時に近い変革の今のように感じるが、国民が動く兆しはない。

■12/27 繰り返しの功罪

繰り返し、反復はリラックスの引き金だと聞く。右左、右左も、ひょっとすると呼吸そのものもそうかもしれない。そんなことを考えたのは、高校時代に始めた趣味のクラシックギターの練習のさなか、もう何度も弾いてきた曲のさなかに、その時々最も気になっていることを思い出してたどっていることに気づいたからだった。弾きなれたということは、もう暗譜ができていて空でも弾けるという、いわば放心、慢心の状態なのかもしれなかった。そしてまったく別のことを考えている。よそ見運転だ、これはまずい。

そこで先日、結構難しいとされる、F・ソルのある練習曲に本格着手してみた。運指も指幅も確認しながら難儀しながらで、全身全霊で挑まないとらちがあかない。とてもよそ見どころでなく、かなり疲れる。リフレインというのは、つまるところ「休み」「停滞」とも言える。それは甘い誘いで必要なことでもあるが、進歩とはちょっと違う世界ということになるのだろう。チャレンジ、これは魅力と怖れを感じる行動でありながら、「もう停滞と休息で行こうよ」、という内なる声も、いやそれでは駄目だ、というまじめな叱咤の声も聞こえる。

■12/25 シカのねぐら



冬になると、まるで落葉を食べているのかと思われるような落葉荒らしが見えるのだが、小屋の周りに急に増えたこの跡をひとつずつ見て歩いて気づいた。シカが寝ているのだ。ではなぜ、今年はこれほど小屋周りに出現したのか。林床がきれいで寝やすいからか。雑木林の手入れがシカに評価された?





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