| 晴林雨読願望 take /草苅 健のホームページ ![]() ![]() 勇払原野のコナラ主体の雑木林。ここは中下層をウシコロシの黄色が占めている |
| 一燈照隅 雑木林だより 新里山からの日常発信 |
地域活動15年の歩みとこれから 勇払原野の風土を共有する |
| ●コンテンツ一覧 ●日々の迷想 2023 & 2024 & 2025 2021 |
first upload: Nov. 29 , 1998 last upload: Dec 28, 2025 |
| 日々迷想 ■12/28 50年前の山 このところ、半世紀も前の山仲間との交流が続いている。年の瀬もあるけれども、そればかりでなくどうも因縁が深いのだろうか。さきおとといは、先週まで北京の大学で半月の間講義していたという同期の先生が一升瓶をもってきてくれて、日本の歴史やら日中のことなどが話題になった。お互いに山は遠ざかったが、山仲間の話も尽きない。多感な一時期を、テントや小屋で寝食を共にするというのは、こういう余韻のような付き合いを生むのだろうか。 ■12/27 冬の支笏湖 ![]() 昨夜は久々に支笏湖畔の宿に泊まった。いつもながら冬の支笏湖は湖面を渡る風が日本海よりも寒く、フライフィッシングの仲間は身も心も凍りそうとよく言った。しばしば、洞爺湖温泉に比べて何もなく淋しいと評する人は今も多いようだが、長年、フライフィッシングで支笏湖と付き合った身は、そういう表面的な観光の目線ではないところで見てきたのは当然である。 一晩中、宿の湖岸に押し寄せる波の音はうるさいほどで、朝方までおさまらなかった。わたしは時々目を覚まし支笏湖での、釣れなかった思い出をたどりつつ、波の音を聴いて愉しんでいた。こんな時間はたまらなく優雅ですらある。老いの特権だ。 この夜のイタリアン料理の食事時、昔の巨大魚が話題になったため、娘が「支笏湖、巨大魚」で検索したら「お父さんのホームページ(「森のフライフィッシング」)のブログが2番目に引っかかった」、というのである。あとで確かめると2002年の4月7日のことだった。この年の6月1日のブログでは、もう一人の山仲間 aoike シェフのアメマス釣りをガイドしていた。今は遠い昔の話。 (編集が追い付かずフォントが小さいので、もしご訪問の際は150%あたりに拡大してご覧ください)(-_-;) ■12/26 歌に見る庶民の共感 43 若い山仲間のT君(と言っても古希あたり)が、有名な新聞などの歌壇俳壇でしばしば入選しているらしい。ヒマラヤにもよくでかけ、自宅の多年草のガーデニングもうまく、釣りもする。そんな共通する趣味の分野もある一方、決定的にこちらはとうに山を下りてぐうたらな「ウラヤマニスト」でしかない。加えて短歌も俳句も当方は客として見るだけ。ちなみに、人気の若手歌人のH氏は、山のクラブの後輩であることがわかった。道楽などで何か共有するものがあれば、細くてもつながりが見いだせて勝手に近くなる。さて、今回は… ◎捕まりて檻の錆噛む月の輪熊 川越市・Oさん …今年はあちこちでこの光景があっただろう。捕獲と駆除数は約1万頭弱だというからすごい。歯を向いたこんな画像もみた。お互いの身のため是非棲み分けを、と祈りたい。 ◎熊除に柿の木剪って栗剪って 埼玉県・O さん …本当にリンゴやカキの木を伐った話を聞いた。かと思えば11月の奈良は山の辺の道で熟した柿の実がたわわになって、採る人もなく落ちるところだった。里山に守り手がいるのが崩れてきている。 ◎豪快にこんにゃくをちぎる芋煮鍋 山形市・Kさん …堅めのこんにゃくが大きめにちぎってあると特にうまい。この秋も何回か夕餉を飾った。ふんだんな牛肉が濃い目の醤油味とよくあう。 ◎我も又大地に還る枯葉かな 東京都・I さん …こう大きく描かれると循環の図が見える。人間もその循環の構成員だ。あくせく、くよくよせずに身を任せよう。楽あれば苦あり、繰り返しこそ世の習い。 ◎猪鍋に招ばれるほどに馴染みけり 葛城市・Hさん …移住して〇年、ようやく仲間入りできた。出会ってみれば、みんないい人ばかり。酒を注がれてすっかり土地の人になっていく。これはうれしいお呼ばれだ。こうして土地に根が生える。 ◎小三のわれ教室でヨイトマケの唄をうたえば鬼の師も泣けり 東京都・Aさん …この光景にこそ泣ける。ヨイトマケを小学生が歌うのだから年月は大きくさかのぼる。紅白で美輪明宏氏が歌ったこの歌も鬼気迫り驚いた。鬼のように拳骨をふる先生は確かにいた。 ◎届くのに三日かかったその文字の重さをそっと手のひらに置く 大阪市・Hさん …葉書き、手紙はいいなあ。ここぞという時はお礼などは葉書き、手紙に限る。メールの数倍、思いがこもる。と、我が机のはしっこにはこの数か月中に届いたそれらが無造作に立てかけてある。時々、思い出したようにまた読む。 ◎世の愁ひなべて己に負ふごときブラームス聴く夜の落ち葉探し 静岡県・Hさん …濃厚で重い旋律、チェロの低温が効いた一節など思い浮かべ。落ち葉を探す夜というシチュエーションもピッタリ。風が愁いをかきたてて。 ◎ここの人あそこの人もいなくなり散歩の道に咲くアカマンマ 浜松市・Fさん …地方のマチの縮図、常風景となりつつある。ススキなども生え始めていよいよ、ますます虫の声も大きく響く。しかし嘆いていても仕方がない。畑に利用するなり、リフォームして住み直すなり、動きがあってほしい。 ◎城を見て寺見て縄文土器も見て脈絡もなき一人旅かな 会津若松市・Sさん …このごろは家人と別行程で一人旅をすることもある、まさに歌のとおり。寺や神社や博物館と居酒屋を巡るだけでも人生のご褒美のようなひと時だ。 ■12/25 難聴が進む 難聴が進んだのか? この頃とみに音声を正確に聞き取れない。したがって意味がわからない。極論すれば、アナウンサーのような言語明瞭な語り以外は聞き取りが無理になりつつある。補聴器を使ってもやはり解決しない。特にテレビドラマのつぶやき、そこに方言を使われると完全にアウト。聞こえるか聞こえないか、そして言葉を正確にキャッチできているか、結果、意味が分かるか。 一口に難聴というが、理解まで段階があることが体験的にわかった。解決策としては、聞き耳を立てる、途切れないように集中する、この二つが必要であって、漫然と聞いていてはコミュニケーションというのが成立しないことが今頃になって痛烈にわかる。ことは認知能力の維持継続、ひいては認知症への道筋に直結すると思われる。これはツンボさじきの世界が近いことを意味する…。日常生活に支障があると本人が訴えるのにも関わらず、医師は問題ないレベルだという。さあ、どうする (-_-;) ■12/24 時節柄、一年をふり返り始める 2025年、令和7年も残すところわずかとなった。折からの温暖さと雨で、苫小牧の雪はほぼ消えた。と、どんよりした天気に、この一年はと振り返れば思いは多々。忘れたいことよりも、慈しみたいことの方がずっと多いような感覚は良しとしたい。これも老化の恩恵か。なにより大過なく来れたことにまず感謝せねば。そして足らざることを省みてこれからの踏み台にしたい。 おとといの22日は冬至。季節はもうそろそろ折り返すが、このところの朝の薄暗さはちょっと滅入る。ああ日が長くなったという、あの明転の感じを早く迎えたいもの。厚い雲の上はいつも青空であることに思いをいたして。 そういえば、かつてはこの時期といえば小屋で「冬まつり」と称するひとり飲み泊をしていた。春まつり、秋まつりも節目らしく思い出深かった。冬至とクリスマス前後というのは季節の変わり目としては特に明白で、希望や再生と親和性が高い。古来、年始にかけて心機一転を誓うのも実に良くわかる。しばらくはこの情緒にどっぷりと漬かる。お酒もややゆるく。 ■12/23 「人生フルーツ」、「家はくらしの宝石箱でなければならない」(コルビジェ)」、雑木林と農のある日々 ![]() 昨夜は札幌の小さな映画館で家人と映画『人生フルーツ』を観た。10年くらい前の作品だがパンフレットを見ると第91回キネマ旬報ベストテン文化映画第一位など、いくつかの賞を得ている。日本住宅公団のエースだったという主人公が、理想とする緑の多いニュータウン計画を自分で思い描いたマスタープランのようには実現がかなわず、その傍らの住宅地に300坪の裸地を買って、挫折した緑の代替のように一から雑木林と畑を作っていく。 ナレーションでは「風が吹けば、枯れ葉が落ちる。枯れ葉が落ちれば、土が肥える。土が肥えれば、果実が実る。こつこつ、ゆっくり。人生、フルーツ。」というフレーズが繰り返し流れる。 林と緑、そして農のある日常の暮らしが、静かに流れるように描かれていて、人生の豊かさという視線で追いかけているようだった。日本人に限らず、きっと人間の根源的な欲求に沿ったものなのだろう。ゆっくりとしか進まない人の日常をそのまま受け入れて、果実の実りのように歩もうと語り掛けるかのようだ。静かで満足感に満ち、人生かくありたし、という共感を呼ぶ。卒寿の主人公はこんなある日、庭仕事の後の午睡から目を覚ますことはなく旅立つ。 潜在的にシンパシーを感じる人はおそらく非常に多いはずだ。自主上映のような形で各地で上映が続いているのもうなづける。静かだが余韻が残る映画だった。あるいは雑木林や原野とむきあう当方とは同じ地平を見ているような感覚もあって、だからこそというのか、わたしは遊びに来た友人知人のようなつもりで、主人公夫妻の淡々とした庭づくりと日常風景を覗き見た思いだ。 ■12/22 それにつけても、シナ(致知の続き) 四書五経など、日本はシナの古典で生き方を学んだ長い歴史がある。紀元前の周の時代あたりか。それがなぜ、いつから、武力による勢力拡大をめざすようになったのか。毛沢東の文化大革命のころに、儒教批判が行われ有識者までも迫害を受け抹殺された、といくつかの歴史書で読んだ記憶がある。確かにあのころから、歴史を曲げてしまい、すべての時代を中国と呼ぶようになってしまったが、かの大陸はおびただしい頻度で国が生れ滅亡したので、正しい呼び名はエリア名としてシナが正しいようだ。中国という国はついこの前できた新興国・中華人民共和国であり、日本人が国づくりや人の道を学んだのは、2000年以上前のシナのある国だった、というのは感慨深い。 ■12/21 「致知」の人間学 人としてどうあるべきか、人生の目的は自分という人間を高めることである、と雑誌「致知」は謳っていて、特集では各界の日本人が各々が到達した境地について語りあい、述べている。著名な方々のこれらの弁も目を通すが、「致知随想」という毎号の平易なエッセー数編を読むと、世の中には持ち場持ち場で不遇にめげず努力している人の姿が浮かんで励まされる。と同時に、我がふりをなおす契機にもなっている。また、かつてはもっと身近だった論語など、修身に欠かせない四書五経という古典の文言もあちこちに散らばっていて、つど身を正すことになる。今号では安岡正篤師の「一番の辺境(低開発地)は実は自分なのではないか」「社会の悪を責めたり、他人の責任を咎めたりすることは易いが、自己の心術を吟味したり、自己の義務を尽くすことは実に難しい」という一文が目に留まり傍線をひいた。 真偽を暴き意図的に分断して互いに相手を批判したり非難するやりとりが目立つ報道界、言論界だが、しばし深呼吸でもして居ずまいを正してみたら、と思うシーンが多い。人としてどうなのか、という人間学にしばし踏みとどまる時間を持てば、自身の心持も、ひいては社会ももう少しましな風景に変わるのだろうと思うがいかに。かたやには今が正念場だという危機感もあるから、当分緊張は解けないだろうことは承知のうえでのことである。 ■12/20 今年出会った畏敬の大木 ![]() 年の瀬は一年を振り返るいい時間だ。ふと、今年出会った大木は、と思い出すと、やはり京都は鞍馬寺の門前にそびえるこの杉である。樹齢800年、樹高53mと書かれていた。山道をたどり小さな峠を越えて参拝した貴船神社とともに忘れられない光景であった。 ■12/19 秀逸!!今朝の時事川柳 「よみうり時事川柳」が面白かった。以下一部。 ☆この次は漢字を返せと言われそう …笑った~。それにしても報復が嘘と見当はずればかり。世界中の嫌われ者になるのは仕方がないと言われる。一帯一路からの離脱や貿易相手国変更で各国はリスク回避に成功している。国連でも即反論、良し。 ☆勝ち目なくやめるのやめたガソリン車 …一連の地球温暖化対策は何だったのか、だ。メガソーラーもそうだし、そもそもディーゼル車廃止あたりが発端か。EV車がCO2対策になどならないのは自明だったのに。原発もヨーロッパがまず「やめるのやめた」。 ☆悪意ある「吊り目」には目が吊り上がる …あれはかの国では有名な人気キャラクターの服装と態度だ、と事情通の話し。あそこまで、するか?という恥の上塗りの始まりだった。→ これは45のメガネをかけた中国の外交担当のことかと思っていたが、どうやらフィンランド人の話しのようだ。東洋人は確かに目は細いが日本人はこれほど吊り上がっているかな?垂れ目も多いし。 ☆やる気見せ素振りで終わらす削減案 …あれよあれよと進みそうで、まさか、と見た国民は多いはず。そんな簡単でいいのですか、と。 (川柳はよく時事問題を見ていないとわからないことが多い。NHKの「ぼやき川柳」は、その点身近でやさしいかも。) ■12/18 新しい練習曲に挑む 10代の終わりから20代前半にかけて使っていたクラシックギターのカルカッシの練習曲集を久しぶりに開いている。これまで使っていた別の2冊の楽曲集が少しマンネリしたように感じるからでもあるが、それでも現在中級からやや上級クラスの小品30曲程度はレパートリーとしてあるので、その感覚を維持するために義務的に弾くことが多くなってしまった。 一方、今なら you tube で演奏を聴けるから、見知らぬ楽譜を自分のものにするのは昔とは比較にならないほど容易になって練習がぐんと身近になっているのだが、新しい曲にチャレンジするのはもう確かに面倒ではある。ギシギシと心のブレーキがかかるのだ。 が、反面、新局面を開くウキウキ感は否定できない。誰にも迷惑をかけない内なる冒険である。チャレンジ特有のもやっとした不安とワクワク感、この歳にしては意外といいものかもしれない。このごろは、毎日の練習が嫌で毎日辛うじて少なくとも30分はギターを持つが、そこに新しい練習曲や小品が加わり愉しみとなって1時間以上も没頭する、なんてこともまたあるかもしれない。雪のため山仕事をしばし休もうとしているこの時期こそ、その適期か。 ■12/17 寄贈図書のリストづくり 先日来、梅田安治先生から頂いた書籍を、雑木林センターのライブラリーであらためてリストにしている。今回のリスト化作業で、先生の読書遍歴のようなものを垣間見る思いだった。さらに、わたしが興味を覚えそうなジャンルに絞って贈与してくれたせいか、いずれも手に取って読みたくなるものがそろっている。この2年の間にもすでに20から30冊はすでに読み終えた。 そうして僭越ながら先生とは波長がかさなりやすいものを覚えるのだが、しかし、なぜ先生がわたしのような出来損ないを学科も違うにもかかわらず目をかけて下さったのかは、実は今もってよくわからない。田園、里山、雑木林、景観、そして西洋の歴史文化、というキーワードを共有していたからか。得難い、身近な先達だったと今もって感謝しかない。 |