晴林雨読願望
take /草苅 健のホームページ

 


勇払原野のコナラ主体の雑木林。ここは中下層をウシコロシの黄色が占めている


一燈照隅
雑木林だより

 新里山からの日常発信

地域活動15年の歩みとこれから

 勇払原野の風土を共有する

  



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●日々の迷想 2023 & 2024& 2025
2021
first upload: Nov. 29 , 1998
last upload: May 15 ,
2025

日々の迷想

■4/15 断捨離とデスクの整頓



長い休暇の間に豊川町の実家の食器棚や洗面所などひととおり断捨した長女の最後のターゲットはわたしのデスクとあいなった。ニレの集成材の厚い一枚板を特注して作ったシンプルな机だが、雑多なものが積み上がっていて、わたしには重宝で便利なスペースだったが、家人や娘には不評だった。デスク整頓と言えるが実質的な気分は断捨離に近い。いわく運気があがるという前評判を作業を見、手伝っていて実感した。

わたしも断捨離のようなことをまったくしていない訳ではないのだが、重点的に本気でするのは限定的で、庭と里山の雑木林、それとたまに車、そして今年はようやく物置に着手したばかりだった。つまるところ、断捨離とは胸の膨らむ空間を創ることである。つまりイヤシロチである。身近な机、居間、庭、隣近所、家庭、コミュニティ、所属する組織やグループと対象は限りなく広がる。人間関係まで含めばその難しさがわかるというもの。したがって、近年のわたしはイヤシロチ創造が人それぞれの抱える人生の目的ではないか、とさえ考えるようになった。

■4/12 新緑のはじまりに



待ちに待った春の到来。目とこころの保養に、雑木林を歩く。3代にわたって手入れされた若い林(林道左)はなんとも清々しい。育林コンペのスタートエリアの1代めは平成9年から苫小牧のレクリエーション協会、2代目は12年からしばらくの間をわたし、3代目は25年からoyama さん。



家人と娘の3人で、大島山林でスドキ、静川小屋譜方面に移ってコシアブラ。2025年春の山菜ピークがついに来た。長い休暇を終えてビル街に戻る心境はわたしにはわからないが、今年は山菜採りと料理を楽しみ、薪仕事に打ち込んでくれ、家の断捨離を進めてくれた。ちょっと申訳ないほど手伝ってくれたので、わたしにも新鮮な2週間だった。

■5/9 自宅薪の搬入と薪積みという手仕事の意味



連休の晴れの日を利用して今年の薪の準備をほぼ完了した。単純な手仕事を安全に着実にこなしながら、頭を空っぽにする営みはいいなあ、とあらためて思う。娘や家人との語らいも増える。「晴林雨読」の実践でもあるから、晴れた日のいい光景だけが頭に残る。

■5/7 連休は薪づくり

今日は4月下旬から続く山仕事、薪づくりの骨休め。家人と娘が手伝ってくれるムードが自然に出来上がっているのはうれしいが、娘にはせっかくの連休を、父親の薪仕事に使ってしまい申し訳ないという気持ちもある。ただ、心のどこかにデスクワークや映像現場での仕事に従事する東京の日常では、結構なのリフレッシュにもなるはず、というわたしの勝手な思い込みと甘えもある。研究林での山アソビや山登り、キャンプ、カヌーなど、アウトドアのたしなみは幼少のころからさせてきた(いや、親の趣味につき合わせてきた)から野外は嫌いではなさそうだ。家人の方は昔、山おんなだった(今や都会志向で、デパート巡りなどは大好きだ)。それに一般に言われることだが意外と山仕事、林の散歩、薪割り、薪積みは心を癒すのである。本当のところの精神医学的効果はわからないが、非日常的な環境のもとで繰り返しの多い単純作業を、桜咲く広い緑のヤードでできたことは何かの思い出になってくれればよいな、と思う。そういえば、と思い出して去年の連休の「雑木林だより」を開いたら、まあ、似たようなことをしていた。

■5/6 歴史の中の北海道風景

明治期以前の日本の歴史を眺め渡すと、その中心は近畿であったり九州であったり、15世紀以降にようやく関東あたりが顔を出すような感じで、わが北海道ははるか遠くに人口密度の極めて低い未開地という歴史的位置にある。この歳になって、ようやく実像のようなものがぼんやりと感じ始めた感がある。先日、武光誠著『渡来人とは何者だったか』を読んでいた時など、朝鮮半島を経由する大陸との文化と人の往来を俯瞰するうちに、その変化の速さ、滅亡と存続のスピードに振り回されて訳が分からないほどで、かえって混沌としてしまった。武力集団や豪族あるいは国家という観点に立てば、北海道は霞の向こうであるが、蝦夷地を別の視点でみれば別の歴史ストーリーもあり得よう。幕末明治に至って、ロシアの侵略に備えた国防意識のようなものが芽生えて対応が始めるが、しかしその後の開拓から開発に至る150年は激動の変化を遂げることは、わずか1世紀の間に500万の人口を数えた世界史の稀有な事実を想っても夢のようでピンとこない。日本という国家はここに至って薩長土肥の維新活躍集団が、縦横に活躍するのだが、これも試行錯誤のイキアタリバッタリのヒヤヒヤもののようだったことも時の緊急性を偲ばせる。あまり格好のいい話ではなかった。

■5/4 旅の願望



旅は最小限の荷物しか持たないために所有物を切り離すことになり、そして自分の言葉を単純化することになり、かつ様々な人間関係を生ずるために自分を変化させる、のだという。なるほど、それは旅の魅力の一面を端的に言い表している。さらに旅先にはパワーアップする風景やモノもある。高い山、広大な海や川、巨木、巨岩は、古来、神々しいものの代表である。特に巨岩は地質年代の遠い時間が神々の依り代を感じさせるのだろうか。近くでは支笏湖の苔の洞門が隠れた人気スポットだった。

今日新聞の歌壇で読んだ「磐座(いわくら)に降りくる神に囀れる」という俳句に、広島厳島神社の弥山(2016 写真右)の大岩や沖縄の斎場御嶽(2011 セーファーウタキ=左)を思い出した。異界のような存在に驚嘆して我を忘れた。いずれも再訪したいパワースポットである。と同時に、股関節痛で登れなかった熊野古道のゴトビキ岩が頭に浮かんだ。是非動けるうちにリベンジしたいと心に誓ったのだが、家族はみんなやめておいた方がいいと冷たい。秋には奈良の山の辺の道の北ルート(昨秋は南ルート35km)を歩くので、桜井市の磐座(いわくら)神社を拝みたいと思っている。旅への期待、その期待そのものが生きるうえで大きな希望と励みなっている。

■5/2 浜ボーフウ



先日、帰省したばかりの長女と家人とで前浜に浜ボーフウ採りに出かけた。4月半ばには見つけられなかったのに、小さいものでももう左の写真ほどになっていた。畳1,2畳の広さに群生しているところもあるなどから推して、地域の人は浜ボーフウをもう食していないのかもしれない。40数年前、泊りに来た義父に写真右のように酢味噌あえにしてご馳走したことがあった。日本海沿いの岩内の人だったが浜ボーフウは初めて食べたといい、「うまいもんだな」とちょっとお世辞のように感想を語ったのを思い出した。舌の肥えた長女は「うまい!」とひと声。小一時間ボーフウを採った後は、海岸から山に向かいついでにアイヌネギもひと掴み採った。すき焼き用の牛肉が用意してあり「アイヌネギの肉巻き」にする、と彼女は言っていたのだが出てきた料理はシンプルでとても上品な「アイヌネギの牛肉炒め」だった。材料を見て方針変更したのだという。素朴に炒めただけで双方のうまみが良く出ていた。

■4/30 偉大なる林、生える木、そして木材や薪

物置の床と足回りの一部が腐ってしまい、基礎を持ち上げてちょっとしたリフォームを施した。腐れの原因は物置の壁に掛けたハンギングバスケットへの水やりだった。確かに実に長い年月、6月から10月上旬まであふれるほど水をやったので水浸しになったのは事実だが、乾くものと信じていたのが無知だった。だが逆の方に考えれば、水の処理を間違わなければ35年を優に無傷でこなせるわけだ。



静川のカラマツログは28年経過で途中15年ほど前にログエンドの処理をして昨年は防腐剤を塗ったので、あと30年以上はいけるだろう。昨年、法隆寺を参観した折、南大門の千数百年前の太い支柱の根元がつぎはぎされていて、学芸員のような宿の専属ガイドによると、地面に触れる部分だけ腐ったので集成材のように継ぎ足してあるという。確かに陶器の金継ぎのように宮大工の腕によるのか、精巧に補強されていた。

木の生えた林は美しく四季を彩り、生える木は適宜利用され、木材となれば処理を誤らねば1000年ももつ。万が一倒れて腐った場合はバクテリアに分解され、土に還る。その途中、薪として熱をとれば貴重な暖房となって二酸化炭素となって大気に戻る。林や木や木材との日常的な付き合いを改めて振り返ることとなった2025年の冬から春。薪ストーブの小道具類を物置に仕舞った。明日から5月、春モードに代えていこう。

■4/28 人生相談

実に様々な悩み相談である。お悔やみ欄とともに、毎朝読むのを欠かせなくなった。今や重点的に目を通す個人的なポイント。新聞紙面内の位置づけにおいてこの人生相談はいつの間にか急上昇してきたのである。その一方で政治や行政、経済の記事の重みランクが少しずつ下がった。世間から少しずつフェードアウトする歳のせいだろうか。それとも、政治や国際関係などはネットですませているからだろうか。

ところで新聞の相談で意外と多いのは夫婦、兄弟、親子という家族間の問題である。好きで一緒になった夫婦間の乖離もすごい。当然ながら離婚が増え、子供たちの犠牲はむごい。お互いの人格を無視したような事例に果たして自分なら耐えられるだろうか、と自問するときもある。横暴な夫がおしとやかで従順な妻の性格を蹂躙する…、人格破壊もでてくるのである。その逆もある。夫と妻、親と子、兄弟姉妹同士が、折り合いよく付き合うのはかくも難しいものかと溜息が出る。確かに、一度ひびが入ってしまった関係は戻りにくいから、お互いどう身を立てておくかが決め手になる。

恐らく、修養という言葉が縁遠くなった今日、この手の揉め事は減ることはなく増える一方だろう。挙句、裁判沙汰になって、事件発生時に罪を犯した側のこころの状態を調べるのに膨大な時間をかけるようなって久しいが、多くの人が病んでいると言えばそもそもことごとく病んでいると言わざるを得ない。

人の生きる道というのは、意識して求めていないとたどり着かない。明治期前の家制度というのも窮屈ではあったが秩序ではあった。英語のhomeを家庭と訳した明治後、変遷があり、今日の夫婦別姓の議論に繋がっている。大東亜戦争後、GHQは忌まわしく強い日本を崩壊させるためには家という仕組みをこわすために「核家族」を埋め込む必要があると考えた、とどこかで読んだ。親子だけがすむユニットを想定して集合団地の歴史は出来上がった。かつて人としての十全の感性は、基本ユニットとしての多世代同居の家で育まれた、ということか。残念ながらそこに自由はなかったということだろう。わたしたちの悩みは根深い。さて、どうするニッポン。




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