晴林雨読願望
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勇払原野のコナラ主体の雑木林。ここは中層をウシコロシの黄色が占めている
一燈照隅
雑木林だより

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●日々の迷想 2021& 2022 & 2023 & 2024

2021
first upload: Nov. 29 , 1998
last upload: Oct 21
, 2024

日々の迷想

■10/20 なぜ、秋の林はなごむのか



林を歩くには絶好の日和だったので、午後から白老のポロト湖に足を延ばした。ウォーカーはふたり。気温10℃、5km。

10/20 歌に見る庶民の共感 29

夏の暑さが長引いてキノコのリズムはいつもと少し違う気がするが、農作物、山のものなどは豊作のようだ。昆虫まで豊富で小動物も喜んでいるらしい。ただ暑さが温暖につながって、昆虫が成虫越冬したりすると、翌年の大発生や食害が懸念される。自然界のつながりは予測がむずかしいよう。ともあれ、間違いなく秋に突入。札幌は今朝初雪を記録。うちの庭はおととい10/18 花のコンテナをほぼ片づけた。霜が降りる前に。

◎琉球朝顔のさらに校舎の校舎の三階へ     熊谷市・Kさん
…思わず光景が目に浮かぶ一句。そして不思議。拙宅も初めて朝顔の鉢を塀下において二本伸ばした。しかし、上まで伸ばしきることができないうちに、茎が丸まって壁を作れずちっとも朝顔らしくできなかった。だが毎日眺めて応援する楽しみはあった。

◎秋の蝉鳴くだけ鳴いて落ちにけり   東京都・Nさん
…これも情景リアル、記憶にある方も多いのではないか。数年前はユキムシが大発生し、さらにいつだったかは蝉が大発生して野外で携帯の会話が妨げられた。今年のドングリもそうだったが、一見無駄や無意味に見える大発生というのも、神の采配のうちか、とその裏側の真実のからくりを見つめる。

◎冗談の言へる主治医の居て涼し   東京都・Oさん
…こんな主治医がいてほしい、というのは庶民の共感がもっとも得られるところ。高額医療などそこそこ諦めてのんびりあの世へいこうよ、と言ってくれそうな、ホスピスのようなドクター。人間が与えられた自然治癒力の範囲内でがんばろう、ということかも。

◎唐突に「優しかったね」と夫言いて吾の亡母の事誉めてくれたり  東京都・Tさん
…ある先輩は身内の評価で夫婦げんかになる、と呟いたことがあった。所詮、あいかたの身内の真の姿などカウンターパートにはわからないから無闇に口走るのは避けたいところ。当方も家人の実家の母親に婿殿よろしくよくしてもらったのでしばしば料理も思い出して話題になる。実家に帰省した折、わが母が「(近くに住む)孫に囲まれて幸せだ」、というのを二,三回聞いた。貧しく決して幸福な模様を描きにくい日々をくぐってこう言ってもらえたのは遠くに住む愚息としてすまなさで一杯になった。

◎こんな日があるから長生きしたのだと老婆二人が木かげに憩う   群馬県・Mさん
…人生、時に逆風も吹く。いい時ばかりではないのに、これだよね、これ、と老婆の会話、目に浮かぶ。無心の幸せ、飾らないで済む会話、そうゆったりさせる緑陰。こんな緑陰の林をわたしは創りたい。そうだ、今日は気を発するヤマグワの木に挨拶してこよう。

◎危険水域を越えたとアラート鳴る夜の川辺のわが家に青年団来る   島根県・Sさん
…地域では損得を抜きにした青年団はたくましかった記憶がある。地響きをたてて走り抜ける消防団などはスーパーマンのようだった。この歌で告げられた方の青年を見直すまなざしが浮かぶ。

◎エッセーを四十編読んだ心地して歌壇を閉じて冷めた茶を飲む   堺市・Yさん
…よくわかります、このお気持ち。想像力をフル回転させて読む俳句と短歌は背景や情景を想えば十分ショートエッセーに近い。わたしは朝一番に十編近くを音読してみる。先日、茨木のりこ氏と石垣りん氏の詩集を読んだ。詩歌の自由な意味と音律の世界が永らく忘れていた好きな領域であることをも思い出させた。ただ、四十編を一気に読むのはちょっともったいなくないか、と書いてわたしはぬるいお茶を飲んだ。

■10/18 日本改造計画

表題は平成5年(1993)に出版された小沢一郎の著書名だが、月刊『正論』がここ数回、この計画の勉強会で内容をつめた学者などを集めて当時の背景や設計図について議論している。企画の骨子はこの勉強会が肉付けしたようだが、小沢氏の著作と呼んでいいとされている。

国民は当時そこで議論されたような国のグランドデザイン、あるいは議論を、実は求めている。それに比べると、現在の政治はカネの倫理と当確に絡む権謀術数ばかりが横溢し、かつ外交、安全保障への不安は尽きずその答えもないように見える。メディアもほとんど機能していない。なにより、30年も給料が上がらない経済対策の失敗に反省も聞こえない。国民は相対的に貧乏になって若者は将来に希望が持てないから結婚にも踏み込めないし、とうぜん少子化が進む。

かたやで歴史を反芻していると、海外に学び始めた遣唐使、国の体制が大きく変貌した戦国時代、欧米に負けないために血を流す制度改革をした明治維新という時代はとてつもない冒険と発展の契機だったのがわかる。維新に至っては、土地も身分も革命と呼べる変革だった。言葉も文化も変えた。思えば、日本は平穏で楽な時代などなかったのかもしれない、と思ってみると、逆に乗り切ることにあまり悲観的でなくなるような気がしてくる。ここはちょっと不思議だ。 

■10/16 はずかしそうに出てきて6種のキノコ鍋へ




雑木林はまだ夏の終わりのような風景だ。それでも食べられるキノコ6種を採取した。写真のクリタケのほか、ハタケシメジ、エノキタケ、ナラタケ、ナメコ、カノシタ。たっぷりのお酒を使って塩味の鍋でいただく。

10/13 宮本常一の視点

小屋の薪ストーブ初焚きの翌日 10/11 は夜半に白鳥の編隊が海に向かって飛んで行った。12日は玄関前を雪虫が飛んでいた。しかし、恒例の季節を知らせるきのこ「ボリボリ」がほとんど出ていない。暦ではもう初霜が降りてもいいころだが、秋はまだ中途半端だ。

このところ、読書の柱は宮本常一である。『家郷の訓』に続いて『塩の径』を読み終えた。司馬遼太郎は、朝鮮から人がなんとなく押し寄せたのではなく、製鉄の技術をを持った職人が、再生するふんだんな燃料の樹木を求めて日本に渡り定住した、と書いている。宮本の仮説もこの種の大胆なものがまことにふんだんであり、倭人の騎馬民族説など、ホントかなあと首をかしげながら仮説をたどるのもいつしか楽しみとなった。

以前に読んだ『山に生きる人々』では播磨、灘界隈の酒造は、江戸に船で移出されて大繁栄をもたらし、吉野杉を利用した樽づくりと素材生産林業が支えた関係を明らかにしたが、『塩の道』では、その樽が近畿に戻されることはなく、練馬大根の漬物樽や、野田の醤油醸造につながったと書く。南部で作られた鉄は主に牛で運ばれ、集荷のゴールだった川口にやがて鋳物業が栄えたこと、新潟の三条も塩の終着と交易から刃物業が誕生したことなどが、宮本民俗学の視点でつまびらかにされる。民間伝承のまとめと仮説を読み進めると、民衆の、個々の民の中に集団の知恵と歴史が濃縮されていることを知らされる。彼はそれらをコツコツと拾い集めつないでストーリーに仕上げることをライフワークにした。読みつつ、しばしば、民藝の柳宗悦を思い浮かべた。

10/10 この秋初めて薪ストーブを焚く



静川の小屋の室温は10度だった。もう初焚きをするには十分な低温だ。初霜まであと少し、20日過ぎころから紅葉が始まるだろう。薪ストーブ、焚き火の炎には心が洗われる。

10/07 森あるいは樹木という資源の付加価値



NPO苫東コモンズの旭川研修に合わせ一日前に家人と旭川に出かけ、古い友人と旧交を温めた翌日、旭川デザインセンターで家具を見て歩いた。思わず欲しくなったのがこの丸テーブル、直径が1m50cmほど、材はブナとミズナラ、値段は約100万円であった。

普段は薪にしたり炭にしたりパルプや建築材にしたりの木材だが、この手のデザイン加工家具は付加価値化の度合いは100倍、1000倍になるのではないだろうか。新築前に出会っていたら大いに迷っただろう。現在使っている食卓テーブルは飛騨の木工家具で、数年前、高山のセンターでその社長さんと偶然お会いして楽しく会話したのを思い出した。

10/1 林を歩く愉しみ



林の散歩はなんだか希望に見えるときがある。幸せ感に溢れるときもある。
日曜日は森林公園を家人と7km歩いた。紅葉はもうすぐだが、雪が降る冬至頃まであと100日ほどは愉しめると思うと嬉しい。このなじみの公園が自宅から4.5kmというのは有難い。1週間前に歩いた錦大沼の森林公園は家から7km、静かで人のいないそこと、近くて池の周りには人がいるここ高丘とどちらを選ぶか、となると総合的に近い方となりそうだ。距離ばかりでなく、ソロ・ウォーキングのもしかの時やレスキュウも考えれば、「人里」という選択肢が浮かび上がってくる。

■9/29 老い方の指南

新聞の新刊広告で目立つのは、上手な年の取り方に関するものではないだろうか。いわゆる老い方の指南であり、これだけ目に付くということはそれだけ多くの高齢者を中心にニーズがあるということである。昨日手にしたのは、樋口恵子著『老いの地平線』、もっともよく見るのは佐藤愛子さんの手になるものか。字が大きくて豪快で元気が出ると聞く。先日は幸田文著『老いの身じたく』を読んでその平易な老い方を垣間見た。練られた文章で老いを描けば、老いもひと味違って見えるのを知った。五木寛之著『白秋期』や『林住期』などもそうだが氏が近年書いているものはおしなべて、心穏やかに人生いかに老いるかに焦点があるみたいに見える。渡部昇一著に『実践・快老生活』もそうだった。老い方に一般解はなく、色々な先達の指南に「なるほど、なるほど」と我が身を重ねてみると、遅からぬうちに訪れる未知の死とその手前の老いる時間に対していささかでも気休めのような、安心が味わえるのである。

■9/26 SDGs とヤマグワの気

昨日は夕方、市の職員会館で北大苫小牧研究林と苫小牧市の連携プロジェクトにあたる小さな講演会が行われ、わたしは最後の5番目のプレゼンターとして『勇払原野の風土理解と感性』と題してプレゼンを行った。持ち時間は20分。前段3名のプレゼンターは北大の研究者で森林資源、炭素のみえる化、SDGs などについて、4番手は苫東コモンズにも数回訪問した東大の齊藤さんがひとと森をつなぐ制度や文化について語った。わたしは感性による自然との付き合いと、その一例としてヤマグワのパワーという個人的なエピソードを紹介した。

■9/23 尾根筋のパワースポット



森林公園を歩く。晴れた日の尾根筋は胸が膨らむ。帯状疱疹の症状がいっこうに収まらないが、運動不足が嫌で出かけてきた。正解だった。

■9/21 微熱続く

先日9/18 の小屋番のあと、翌朝から右前頭部の痛痒さがとれず保冷材で冷やしたが局所熱は下がらず、ついに体全体が微熱状態となって、ゆうべはロキソニンを飲んではやばやと横になる羽目になった。朝だけ診療の皮膚科に駆けこんで相談してみると、虫刺されはあり得るが、ぶつぶつとただれが広がってリンパも腫れているから帯状疱疹の疑いがある、という診断。倦怠感も続き、ギターの練習ももちろん散歩も今日は気乗りしない。しめた、読書三昧、と喜んだが頭に入ってこない。(-_-;)

■9/19 日の出を見に行く



朝4時半、外は薄明かりの快晴、無風。なんとなく海に日の出を見に行こうという気になって、うすいダウンジャケットを羽織って車に乗って5分、穏やかな海岸に着いた。歩く人、走る人、数名とあったが、散歩の人は祈りや修行のようなの歩みに見えてしまう。なるほど、早朝の太陽は祈り、参拝の対象だ。なにげなく手を合わせていると、音もなく年配のオバサンが通り過ぎて行った。やばい、見られた!。時々出かける京都では、街の随所にお地蔵さんや小さな社があって街の人が熱心に拝んでいる。それに加えて丁寧で祈りの時間が長い。そんな印象につながる海辺の光景、苫小牧版か。

今朝から右の前頭部が痛痒い。鏡を見るとブヨにかまれたような跡があって、赤く大きくはれている。何ということだ。今年は昨年同様、ドクガにやられたのを皮切りに、クロスズメバチに襲われてのち、林に出れば足全体は蚊に刺されてかゆみが消えない。これは雑木林の現場ばかりでなく、夜半の星の観察によるものもある。加齢のせいか、刺されたあとのかさぶたもなくならない。医者にもらった軟膏はまったく効かないので仕方なく市販のものと交代に気休めでぬっている。暑いので長靴を掃くのを怠っているうちに食われた自業自得だが、さらにくるぶしあたりがウルシにかぶれた。実にかゆいかゆい2024年である。蚊は霜が降りるまでが勝負だろうか。

■9/17 母親の躾

読書で満たされて親を思い出すという滅多にない経験を、宮本常一著『家郷の訓』で味わっている。氏は瀬戸内の周防大島の生まれだから一般論ではなくその小さな島のコミュニティと家族を、民俗学の原点のような視点で克明に描写している。「母親の躾」「父親の躾」と節が並ぶが、特に母親の項では、立ち止まってわたしを産んでくれた母親の一生はどうだったのだろうと思い出さざるを得なかった。孝行が出来なかった悔いに彩られるからほろ苦さが残るのがすこし辛い。

昨日は快晴、高丘の森林公園を歩いた。もう五日目になる。

■9/15 加齢と認知症を考える 1


歳とともに身体の機能は衰えるが心の満足感はむしろ上昇するというのが、林住期や白秋期のとらえ方だと思われる。社会的人間としての制約を解かれそこに忘却も加わって、人は(個人感覚としての)人生の黄金期を迎えるらしい。しかしこの開放と同時に気働きのネジも抜け始めて、余命を食いつぶしていく…。どうも認知症というのはそんな気がする。使うことをやめてしまった回路が急速に劣化して動きが悪くなったり、停止したり。わたしの場合は難聴の進行によって会話や音声で入る情報が文脈を失うことがある。しかし、一言一句緊張して聞き届ければ、つまり傾聴すればそうでもないから、特に退職後から聞き流すことに慣れてしまったのだ。

身体だって同じだと気づいた。人工股関節にしてから大きな負荷をかけないよう、踏ん張ることしないで、階段などは手すりを多用したが、これは補助のし過ぎで、もっとバランスを保ちながら踏ん張ることで回復すべきだと感じる。ゆり戻して攻めへ。こんな心構えでに日を過ごせば、少しはボケは押さえることができるのではないか。男性の平均寿命までざっとあと10年、この抗いにチャレンジしてみよう。

■9/12 焚き火とキノコ


静川の小屋で車のドアを開けると、またもや煙のように蚊がやってくる。やれやれである。数時間いる間に、ジャージの作業着と軍手の上からも容赦なく刺された。一秒でも止まるのを許したら勝負あり、被害を受けて直ぐかゆくなる。さすがに今日は顔は防虫ネットをかぶって防御した。顔は守らないと「戦意喪失」する。むき出しの自然と付き合うには、ちょっとファイトの心構えも要る。



テラスの掘り込み炉をあけて焚き火する。炎と煙の正面は蚊を避けれても背中は別だ。焚き火と煙は蚊取り線香代わりにいぶしておく、というぐらいの気休めにしかならない。幸い、焚き木はふんだんに転がっているから、いつでも林の時間をあきらめて帰れるように適量を集めて燃やした。かつ、帰り際には炎や煙を残してはいけない。水をかけて消すのはできれば避けたい。

外はかようにいぶしておいて自分は小屋に入って読書をするという願ってもない選択肢がある。暗い窓辺で小さな電池スタンドの明かりで本を読むと集中度がまるで違うのである。雑木林のライブラリー、正解だったと思う。今日はハーバード大学のラムザイヤー教授の国際シンポジウムにおける慰安婦問題の講演録など、少し重たいものを数編読んだ。



小屋の階段を上る人の音がしてガラス窓に顔を表したのは oyama さん。すぐそばでアカヤマドリが見つかったので、ひとつ分けてくれる、という。はじめて食べる、イグチの仲間だ。




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