晴林雨読願望
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勇払原野のコナラ主体の雑木林。ここは中層をウシコロシの黄色が占めている
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●日々の迷想 2021& 2022 & 2023 & 2024

2021
first upload: Nov. 29 , 1998
last upload: Oct 02
, 2024

日々の迷想

10/1 林を歩く愉しみ



林の散歩はなんだか希望に見えるときがある。幸せ感に溢れるときもある。
日曜日は森林公園を家人と7km歩いた。紅葉はもうすぐだが、雪が降る冬至頃まであと100日ほどは愉しめると思うと嬉しい。このなじみの公園が自宅から4.5kmというのは有難い。1週間前に歩いた錦大沼の森林公園は家から7km、静かで人のいないそこと、近くて池の周りには人がいるここ高丘とどちらを選ぶか、となると総合的に近い方となりそうだ。距離ばかりでなく、ソロ・ウォーキングのもしかの時やレスキュウも考えれば、「人里」という選択肢が浮かび上がってくる。

■9/29 老い方の指南

新聞の新刊広告で目立つのは、上手な年の取り方に関するものではないだろうか。いわゆる老い方の指南であり、これだけ目に付くということはそれだけ多くの高齢者を中心にニーズがあるということである。昨日手にしたのは、樋口恵子著『老いの地平線』、もっともよく見るのは佐藤愛子さんの手になるものか。字が大きくて豪快で元気が出ると聞く。先日は幸田文著『老いの身じたく』を読んでその平易な老い方を垣間見た。練られた文章で老いを描けば、老いもひと味違って見えるのを知った。五木寛之著『白秋期』や『林住期』などもそうだが氏が近年書いているものはおしなべて、心穏やかに人生いかに老いるかに焦点があるみたいに見える。渡部昇一著に『実践・快老生活』もそうだった。老い方に一般解はなく、色々な先達の指南に「なるほど、なるほど」と我が身を重ねてみると、遅からぬうちに訪れる未知の死とその手前の老いる時間に対していささかでも気休めのような、安心が味わえるのである。

■9/26 SDGs とヤマグワの気

昨日は夕方、市の職員会館で北大苫小牧研究林と苫小牧市の連携プロジェクトにあたる小さな講演会が行われ、わたしは最後の5番目のプレゼンターとして『勇払原野の風土理解と感性』と題してプレゼンを行った。持ち時間は20分。前段3名のプレゼンターは北大の研究者で森林資源、炭素のみえる化、SDGs などについて、4番手は苫東コモンズにも数回訪問した東大の齊藤さんがひとと森をつなぐ制度や文化について語った。わたしは感性による自然との付き合いと、その一例としてヤマグワのパワーという個人的なエピソードを紹介した。

■9/23 尾根筋のパワースポット



森林公園を歩く。晴れた日の尾根筋は胸が膨らむ。帯状疱疹の症状がいっこうに収まらないが、運動不足が嫌で出かけてきた。正解だった。

■9/21 微熱続く

先日9/18 の小屋番のあと、翌朝から右前頭部の痛痒さがとれず保冷材で冷やしたが局所熱は下がらず、ついに体全体が微熱状態となって、ゆうべはロキソニンを飲んではやばやと横になる羽目になった。朝だけ診療の皮膚科に駆けこんで相談してみると、虫刺されはあり得るが、ぶつぶつとただれが広がってリンパも腫れているから帯状疱疹の疑いがある、という診断。倦怠感も続き、ギターの練習ももちろん散歩も今日は気乗りしない。しめた、読書三昧、と喜んだが頭に入ってこない。(-_-;)

■9/19 日の出を見に行く



朝4時半、外は薄明かりの快晴、無風。なんとなく海に日の出を見に行こうという気になって、うすいダウンジャケットを羽織って車に乗って5分、穏やかな海岸に着いた。歩く人、走る人、数名とあったが、散歩の人は祈りや修行のようなの歩みに見えてしまう。なるほど、早朝の太陽は祈り、参拝の対象だ。なにげなく手を合わせていると、音もなく年配のオバサンが通り過ぎて行った。やばい、見られた!。時々出かける京都では、街の随所にお地蔵さんや小さな社があって街の人が熱心に拝んでいる。それに加えて丁寧で祈りの時間が長い。そんな印象につながる海辺の光景、苫小牧版か。

今朝から右の前頭部が痛痒い。鏡を見るとブヨにかまれたような跡があって、赤く大きくはれている。何ということだ。今年は昨年同様、ドクガにやられたのを皮切りに、クロスズメバチに襲われてのち、林に出れば足全体は蚊に刺されてかゆみが消えない。これは雑木林の現場ばかりでなく、夜半の星の観察によるものもある。加齢のせいか、刺されたあとのかさぶたもなくならない。医者にもらった軟膏はまったく効かないので仕方なく市販のものと交代に気休めでぬっている。暑いので長靴を掃くのを怠っているうちに食われた自業自得だが、さらにくるぶしあたりがウルシにかぶれた。実にかゆいかゆい2024年である。蚊は霜が降りるまでが勝負だろうか。

■9/17 母親の躾

読書で満たされて親を思い出すという滅多にない経験を、宮本常一著『家郷の訓』で味わっている。氏は瀬戸内の周防大島の生まれだから一般論ではなくその小さな島のコミュニティと家族を、民俗学の原点のような視点で克明に描写している。「母親の躾」「父親の躾」と節が並ぶが、特に母親の項では、立ち止まってわたしを産んでくれた母親の一生はどうだったのだろうと思い出さざるを得なかった。孝行が出来なかった悔いに彩られるからほろ苦さが残るのがすこし辛い。

昨日は快晴、高丘の森林公園を歩いた。もう五日目になる。

■9/15 加齢と認知症を考える 1


歳とともに身体の機能は衰えるが心の満足感はむしろ上昇するというのが、林住期や白秋期のとらえ方だと思われる。社会的人間としての制約を解かれそこに忘却も加わって、人は(個人感覚としての)人生の黄金期を迎えるらしい。しかしこの開放と同時に気働きのネジも抜け始めて、余命を食いつぶしていく…。どうも認知症というのはそんな気がする。使うことをやめてしまった回路が急速に劣化して動きが悪くなったり、停止したり。わたしの場合は難聴の進行によって会話や音声で入る情報が文脈を失うことがある。しかし、一言一句緊張して聞き届ければ、つまり傾聴すればそうでもないから、特に退職後から聞き流すことに慣れてしまったのだ。

身体だって同じだと気づいた。人工股関節にしてから大きな負荷をかけないよう、踏ん張ることしないで、階段などは手すりを多用したが、これは補助のし過ぎで、もっとバランスを保ちながら踏ん張ることで回復すべきだと感じる。ゆり戻して攻めへ。こんな心構えでに日を過ごせば、少しはボケは押さえることができるのではないか。男性の平均寿命までざっとあと10年、この抗いにチャレンジしてみよう。

■9/12 焚き火とキノコ


静川の小屋で車のドアを開けると、またもや煙のように蚊がやってくる。やれやれである。数時間いる間に、ジャージの作業着と軍手の上からも容赦なく刺された。一秒でも止まるのを許したら勝負あり、被害を受けて直ぐかゆくなる。さすがに今日は顔は防虫ネットをかぶって防御した。顔は守らないと「戦意喪失」する。むき出しの自然と付き合うには、ちょっとファイトの心構えも要る。



テラスの掘り込み炉をあけて焚き火する。炎と煙の正面は蚊を避けれても背中は別だ。焚き火と煙は蚊取り線香代わりにいぶしておく、というぐらいの気休めにしかならない。幸い、焚き木はふんだんに転がっているから、いつでも林の時間をあきらめて帰れるように適量を集めて燃やした。かつ、帰り際には炎や煙を残してはいけない。水をかけて消すのはできれば避けたい。

外はかようにいぶしておいて自分は小屋に入って読書をするという願ってもない選択肢がある。暗い窓辺で小さな電池スタンドの明かりで本を読むと集中度がまるで違うのである。雑木林のライブラリー、正解だったと思う。今日はハーバード大学のラムザイヤー教授の国際シンポジウムにおける慰安婦問題の講演録など、少し重たいものを数編読んだ。



小屋の階段を上る人の音がしてガラス窓に顔を表したのは oyama さん。すぐそばでアカヤマドリが見つかったので、ひとつ分けてくれる、という。はじめて食べる、イグチの仲間だ。

9/09 過ぎ去るか、夏



夏と言えば、郷里のブランド「こなす」の朝漬け。郷里の義姉が亡くなる以前から、もうこの名物は届かなくなったが時折札幌のデパートで手に入る。これは家人が今年7月4日に購入した逸品。あれは夏の走りだったが、あれからもう2か月。まだ猛暑が続く。「こなす」が食べたい。

9/08 令和6年読書の旅

『司馬遼太郎の風景 全11巻』(NHK出版)を全巻読み終えたのは先月の8月27日だった。晴林雨読の積極的実践は見事に成功し、週2,3日の山仕事と読書が習慣化して、まさにリタイヤ後の夢の実現だ。

読書は旅である。居ながらにして世界中の事物と哲学を学び魂が喜ぶ体験ができる。現在も数冊同時に読み進んでいる。「冥想ヨガ入門」(沖正弘著、再々々・・読)、「森林未来会議(熊崎実ら共著)、「北欧の森林」(舘脇操著)、「地域政策の新たな潮流」(小磯修二著)、「あたらしい家中華」(酒徒著)、「びんぼう草」(群ようこ著)、「ケルト紀行」(松島駿二郎著)、「沈黙の作法」(山折哲雄・柳美里対談)、そしておととい、「CARPE DIEM 今この瞬間を生きて」(ヤマザキマリ)を読み始めた。このほかに定期購読の月刊誌を3つ読み進めるから、当然座りっぱなしになってしまう。だから腰と気晴らしのためせっせと歩かざるを得ない。

9/06 公園のマップを持って家人と歩く



先日来、夕食のときなど森林公園の walking の話をしていたせいか、今日の散歩には一緒に行こうかな、と家人が言う。毎日、買い物と散歩を兼ねて6,7km歩く人だから、わたしの walking など笑われそうだったが、成果は5km、案の定、鼻で小さく笑われた。しかし、個人的には収穫があった。径沿いの伐倒され朽ちた木々たちの風景もいいかなと、ごく自然に思えてきたのである。

9/03 森林公園を歩く

自宅を起点とゴールにする散歩にほとほと飽きて、最近は錦大沼や北大研究林、ふるさと護岸の海辺をルートにしている。このところは久々に金太郎御池や高丘の森林公園を選んでいる。この日は4.7km、山坂を含み1時間半ほど。

金太郎の池周辺は市民の憩いの場で、老若男女が憩う。サンガーデンのある中央公園が苫小牧の「セントラルパーク」とすれば、高丘森林公園は、「ウィーンの森」か。高校生らのジョギングから犬の散歩、車いすなど様々。駅かいわいに若者が居らず、どこへいったあ、といぶかるムキには是非、金太郎の池あたりを訪れてほしい。運動公園87ha、森林公園216haだから一帯だけで約300haある。苫小牧市ならではのさすがのインフラだ。市民一人当たりの都市公園面積はたしか62平方mで全国16位、北海道では6位。

マカバの広場、展望広場をめぐった。簡易舗装にマカバの落ち葉が目立ったころに到着。出会った人はゼロ、シカは6,7頭。

展望広場へは歩きやすいフットパスになっていて雑草はほとんどない。ヒグマを怖がるから市民の足が遠のくかもしれないがヒトの足跡はかなりある。結構、本格的な山道歩きになる。翌9/4 は大島山林をほぼ同じ距離歩いたが、NPOが維持する公園とは管理レベルが大分違う。その差は仕方がない。

■9/02 NHKの受診料支払いに待った

NHK国際ニュースの中国語放送で、日本の歴史と国益に反する発言をした事実に対する処理に不満である。なんとか受診料契約を破棄したくて調べてみたが妙案がない。正面からNHKあてに実名でメールを出すのが当面の方法かと思っているが、肚の虫が納まらない。埋蔵金たっぷりなのに前期150億の赤字と決算処理したり、職員の平均年俸が1800万とは高すぎる。報道内容も偏りを感じる。スクランブルになってほしいと願う昨今は、やたらと災害ニュースで延々と頑張って見せている。やはりなんとも肚の虫が納まらない。

■8/31 苫小牧の生物多様性戦略

8/30 は4回目の戦略策定員会に出席して、午前はヒグマ勉強会、午後は委員会本番の検討会議だった。研究者や地域活動に参加される多くの方々と行政の事務局の方々のやりとりに耳を傾けながら、約半世紀、ここ勇払原野の風土に身を置いている住民として議論のところどころで思うところを述べさせてもらった。街づくりや緑化などいろいろな委員会に呼ばれて参加したことがあるが、生物多様性戦略は都市計画も包含する非常に総括的なテーマであるだけに興味は尽きない。わたしの来し方と重なるところが大きいせいであろう。この機会に少し明るい未来が描けないものか。

■8/28 究極のアウトドア「庭の掃き掃除」と「草むしり」

庭に落ちた園芸植物の花びらなどを掃く早朝の「掃き掃除」は、まるで古刹の雲水がつとめる作務ににて、心静まる特別な時間である。これを夕方まで一日3,4回行う日もある。また、カンカン照りの昼日中、ニーパッドをつけて這いつくばりながら行う「草むしり」も、清める楽しみとともに苦行のような自虐的快感みたいなものがある。今年もこれでずいぶん蚊やブヨに刺された。もう出かけることも無くなったせいもあり、これらは最後まで続く究極のアウトドアライフになるのではないか。



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