晴林雨読願望
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勇払原野のコナラ主体の雑木林。ここは中層をウシコロシの黄色が占めている

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●日々の迷想 2021& 2022 & 2023

2021
first upload: Nov. 29 , 1998
last upload: Nov 27
, 2023

日々の迷想

■11/27 欧米の自然と人のつながりとコモンズはどうなっているか

日本では人々の生活と、自然とか緑環境がつながりを失って久しいと思われる。緑などなくても生きていけると豪語する人もいる。メディアが自然環境の重要性を強調し少なくない人が「自然は大切だ」と唱えるのとは裏腹の現象だ。

森林や造園を通じて長年緑と関わって来たひとりとして、この理由を見定める作業は今も続いているが、先日たいへん参考になる本を読んだ。三俣学さん編著の『自然アクセス~みんなの自然をめぐる旅~』(日本評論社)である。欧米ではどのような仕組みや文化的背景によって人と自然がつながっているかを、旅人の目で考察したものである。その背景に人々が自然を共有するコモンズの伝統も大きく取り扱っている。

わたしがコモンズを学ぶ際に熟読した平松紘氏と短い交流もあったと書かれ、勝手に親近感をもった。平松氏は英国のコモンズが緑の権利獲得の歴史と法律の運用で出来上がっていることをわかりやすく提示して見せた。現代の自然共有は、古来の入会的なものではなく新しいタイプになっていくだろうことは間違いないが、自然の共有は、法律で整理するにも文化に頼るのも大変な年月がかかる歴史的テーマのようだ。ただし日本文化の底流には、欧米とはひと味違う底流があるのではないか。メディアに誘導されてきた自然の見方を一旦脇に置かないとこれは見えてこない。わたしは実体験の日常の中でこのテーマを再構成したいと思っている。 




■11/26 萩の松陰神社などたずねて




先週月曜からしばらく留守にしました。歴史探訪の一ページとして萩の松陰神社、萩博物館などを訪れました。写真は有名な松下村塾、ここに若者を中心に何十人も学び、両親も門下生になった場所。松陰先生(萩では「先生」をつける由、呼び捨てにしない)は、西の長崎はもちろん、東は津軽、会津、水戸のほか幕府に内緒で海外と取引をしていた港々で要人にあい、海外事情を聴いて歩いたと博物館の学芸員に聞きました。「津軽は船ですか?」と聞いたわたしに学芸員は「徒歩です」と即答しトレースマップに案内してくれました。

『発動の機は周遊の益なり』(旅の良いところは心が活動する機会を与えてくれることだ)。当方は雑木林の散歩だけでも十分満足できるのに、時折、こうして関心のひもをたどって旅ができることはありがたいこと。激動期の日本、先生が生きていれば、どう道を示したか。

■11/19 補聴器に続いて新しい老眼鏡を入手
このごろ認知症予防のために難聴を補聴器で補うべし、という記事をよく見る。今年、高額な補聴器を使い始めた経験者としては、この説は正しいと思う。難聴を放置すると、外界から引きこもったような状態になって感性も閉じてしまうのである。
次いで、本を読むのに少し不便を感じて老眼鏡についてもちゃんと調整したものを入手することにした。随分活字は読むのに、遠近両用と100均の極安メガネで済ませてきたのが愚かだったようだ。乱視も左右の視力も考慮した今度の老眼鏡で、読書もぐんとはかどる…、かどうかはまだわからない。

■11/16 未明、星を眺める「ひとり」感覚
おとといの朝、樽前山が真っ白だった。こうなると胆振は晴天が続く。寝る前とトイレに起きた未明などは、満天の星に見入ってしまう。空は臨海地区のコンビナートのせいか、空が明るすぎるがそれでも今年、散在流星、いわゆる流れ星を昨日まで9つ出会った。未明の星空を、窓の水滴をタオルで拭ってぼーっとする時間、孤独でも寂寞でもない、なんというか仏教的「ひとり」とでもいう時が流れる。
→ 11/19 朝4時からしし座流星群を観ようと窓辺に立ったが、見えず。

■11/11 石の上に3年以上、歴史ややつながる


歴史の素養がまるでないことを猛省して、リタイヤ後は古典と歴史の世界に踏み込んだのだが、先日京都を歩いているときに、太平記にしるされた地名や事件がちょっとつながり始めた。そして、京都という町がその重厚な歴史に耐え抜いて今日があることに、路地裏や小さな神社で庶民の祈る姿や言葉でじわじわと感じられるようになった。勉強してきてよかった。学ぶとはこういうことなんだ、と気付かされた。こういうことが京都だけでなくしばしばおこるようになった。遅く目覚めると、人生、先の愉しみが増える。

■11/9 追悼の日を送る



昨日はルーチンの山仕事。
ひとり雑木林の間伐に出かける前に、小屋の薪ストーブを点火して、火を眺める。火は、しばしば追悼のこころを呼び込む。この日は、umeda 先生を失って初めての日であり、献本の列を見ながら、未だ気持ちが泳いでいる。
伐倒作業の合間も、どこかうら寂しい風が吹く。そして今日、告別式で奥さまにご挨拶すると、「夫は、草苅くんの山仕事と小屋生活がうらやましい」といつも言っていたとおっしゃる。20年近く前、奥さまもいらしたことのあるフットパスや小屋で薪ストーブの火を見つめると、これからもそんなこんなが走馬灯のように巡るだろう。

■11/07 梅田先生からの献本



「君にあげたい本があるんだ」と連絡があったのは10月の末でした。静川の小屋を「森と自然のライブラリー」にしようと準備してきた当方にとっては、願ってもないことなので 11/2  にマイカーを駆って札幌に向かい、北大に近い先生のオフィスで7箱の蔵書を頂戴しました。先生は折り悪しく体調が悪くオフィスには来られませんでしたので、容体が改善した頃にお礼のコンタクトをとろう、と考えていたところ、夜になって明らかにあまり元気のない声で電話があり、容体が良くないことを直感しました。それでもしばらく、お体や献本のことなど話をし、近々またお邪魔することにして交信は終わったのですが、11/4 に小屋に本を運び、梅田文庫、abe文庫、kusa 文庫あわせて520冊の風変わりのライブラリーの写真を撮った翌々日、先生のオフィスから先生が朝亡くなった、との訃報が入りました。…… 余りに突然のことで茫然自失の状態で、気持ちを落ち着け状況を整理するのが精一杯でした。

『林とこころ』の出版(2004)を強く後押ししていただき、小屋にも奥さまと一度おいでになって、コモンズの会員にもなってくださいました。2000年にドイツの田園地帯と「わが村は美しく」の村々をいっしょに訪れたことも懐かしく思い出されます。またわたしの「雑木林だより」をご覧になって、「早くまとめて出しなさい」と目次案まで口にされて再び背中を押されたのはつい先日のことでした。安らかなご冥福を心からお祈りいたします。合掌

■11/05 明るい落ち葉浄土



雑木林は紅葉のピークが過ぎて、地面はこのように雪の前に葉っぱが積もるのが里山の特長だ。静かで長いこの時間を好む人がいる。

■11/3 ハスカップ本、健在か



久々に札幌に出かけたので本屋さんによって、北海道関係の本棚を見ていたら、目の前に見覚えのある活字が目に入った。おお、コモンズのハスカップ本だ。もう出版していたことも忘れがちだっただけに、ちょっと新鮮な驚きだった。もうあれから4年半が経った。さらに驚いたのは、右隣には、わたしが札幌のある財団に努めていた時の上司の本が並んでいたこと、それも手に取ってみると、本の内容が氏には門外漢の分野に当たる北海道の山林史であり、実によく調べて書いてあったことだ。もっとも氏は新篠津などの農業開発の歴史などを、たしかトレースしていたはずだから、開発史を紐解くことはお手の物だったのかもしれない。約4000円もする高価なものだったが、空知の開発や、柳田国男や宮本常一が論評する山人の姿をフォローしていたので、早速購入を決めた。

11/1 紅葉とクリタケ





10月の最終日10/31 雑木林の間伐を開始した。紅葉は例年よりも1週間近く遅れて、ほぼピークに差し掛かった。いつもと見劣りはしない。林道沿線は素通りするのが惜しいので、ゆっくりEV走行して進む。小屋のテラス前の切り株に美しいクリタケがごっそり生えていた。この切り株にとってはニガクリタケ、ボリボリと続いて今季3つ目のキノコだ。あまり美味しいと思ったことはなかったので、収穫はほんの少しだけにしたが、夜、豚バラや大根、養殖マイタケ、白菜などといっしょに塩味のキノコ鍋にしたら、今日は素晴らしい出汁が出ていた。歯ごたえはいつもどおり良し。もっと採っておけばよかった。

10/30 家庭の力

思想家・安岡正篤氏の「活学一言」の中に家庭の力という一言を見つけた。至言なり。

「家庭を失いますと、人は群衆の中にさ迷わねばなりません。群衆の世界は、非人間的世界です。人は群衆の中でかえって孤独に襲われ、癒されることのない疲労を得るのです。これに反して良い家庭ほど人を落ち着かせ、人を救うものはありません。」

世の中には世界観の基礎にある家族や、伝統的な文化や体制を破壊しないと理想的な社会は作れないという論理で、至る所に破壊論理が蔓延するという。皇室を天皇制と呼び替えて崩壊を唱える声も言論界やリベラルな政治の世界では仄聞する。この歳になって、ゆるぎない家族愛、家庭があるということの重要性にわたしは激しく同意する。

10/28 山仕事の着手前に念入りな伐倒イメージトレーニング



来月4日から、今季の雑木林除間伐が始まる。その1週間前の10/28、この半年の間で忘れかけていたチェンソーワークのイメージを復活させる自主研修を行った。個々の伐倒はひとつとして同じことはなく、常にケースとして新しい。その伐倒の成否は如実に切り株に残される。それを写真のように議論しつつ、各々が胸に収めるのだ。枯死木、腐れが多いから、どの程度腐っているかという読みもかなり難しい。

10/28 鴨長明の庵跡



愛読する『方丈記』の著者鴨長明が住んだ庵跡を訪ねた。大都会京都の南東のはずれ、日野にある。いわゆる観光地ではなくマニアックな人が行くだけのところだ。どれほどの森の奥に隠遁したのか、という素朴な疑問が動機だった。結果、結構な坂道の奥にあって、「ひのやくし」で有名な法界寺から歩いても小1時間近くかかる山の中。スギ林が放置されて広葉樹が混じり倒木が転がる坂道を登った。隠れ家の風情十分だ。チャラチャラしたひとりキャンプどころでない。3m四方の庵で、炊事もし琵琶の音曲の演奏(稽古)と短歌のたしなみ、さらに仏道を探求した。脇に沢が流れていて周辺は燃料になる落ち枝も事欠かないから、生活に困らないと書かれていたはず。庵の場所は急斜面の踊り場のようなところだった。写真は露光調整されているから明るく見えるが、実は暗~い森だった。1000年前は雑木だったのではないか。

10/21 チャナメツムタケ



14年目のNPOの総会のあと、3人連れ立って道のないナチュラルコース「まほろば」を歩く。紅葉には数日早く、これからが本番。見つけた山菜はチャナメツムタケ。4kmあまりをゆっくり約一時間、というのはわたしにはぴったり。いろいろな話をしながら歩くのは格別だ。

10/19 コクワと出会う



林道にかかった風倒木を整理したら、先端にはコクワが絡んでいて、思いがけない収穫となった。林の中はいろいろなキノコが目白押しで、ドングリもここは豊作に見える。ドングリ好きというクマの足跡に注意しているがその気配はない。山のものの恵みという実感は変わって、飽食の今となっては春の山菜やキノコがメインになって、コクワや山ぶどう、栗などををご馳走と思う感性はわたしだけでなく乏しい時代だけれども、昔の人やクマたちはこれらをこの上ないご馳走に見ただろう。しかし年齢とともに、恵み野見え方も昔風に戻りつつあるような気がする。食ではなく、本当の恵みに。今回のコクワは、ジャムにした。デコポン、イチゴ、そしてここにコクワが加わったが、令和5年秋の、暮らしのアクセントとして忘れがたいものになった。

10/17 押し寄せる謎の正体と移動の解明



秋も更けてくると毎年押し寄せるイネ科草本の穂(左)。今年は、発生場所と移動経路を突き止めた。
まず、本体は近所の空き地に生えているオヒシバ。横にランナーを出して伸びるメヒシバと違って単体でたくさん生える。踏み跡にも耐える。それが50m西の空き地に生えていた。
しかし、これが飛んでくるのは転がってくるのか、見たことがなかった。隣のうちにも向いのうちにも押し寄せる気配がなく、奇妙に我が家の庭に一杯集まる。

今朝、ゴミ出しで発生場所近くに行って戻る時に、歩道を転がっている穂をついに見つけた。追い風で結構な速さで転がって、うちの前の花のコンテナで、なんと左に曲がってコンテナの根元に絡みついた。ハハア、こういう移動をするのか・・・。しかし何故うちの前で左折するのだ。平坦なインターロッキングが広がっていて、南からの風が通りやすいのか。ひょっとして、インターロッキングで上昇気流が起きていて庭に吸い込まれるのか。

百聞は一見にしかず。ともかく謎の正体がわかって爽快だ。あとは、ミラクル落ち枝が、樹木から落ちて地面に刺さる様を目撃すれば、要するに落ちる頻度と確率の問題だと納得がいく。  

■10/15 捨てて生まれ変わる


10日ほど前から、 かつてないほどの断捨離を続けている。もう使わないだろうと思われるもの、すべてを廃棄の対象にした。使わない、ということは実際に道具に用いることばかりでなく、もちろんその内容をもとに何かを書く、ということも含めるから、おおかたの過去を清算するようなことになってしまう。一瞬、一抹の寂しさを覚えるが、過去とおさらばするとは、生まれ変わることに似て新しい清々しさも押し寄せてくる。
我にかえればあと2週間ほどで72歳だ。この歳になると過去のことを克明に語る人もいると聞くが、過去のいいこと都合の悪いことまとめて忘却の彼方に押しやることも可能だ。そうすれば、いやでも re-birth の境地付近に立てるようで嬉しい。ガーデニングのの会を運営していたころの、市内外のガーデナーの庭や人の画像も、思い出しながら廃棄用にくくった。

10/13 人との距離を縮める野生



この一か月で、シカと小屋の距離が4,50m近づいた。折角だから、乾草で餌付けしたいところだがそうも行かないので、青リンゴの食べ残しと、小鳥用の餌をテラスにばらまいてきた。明日の結果が楽しみ。

10/11 寒露の侯、季節を遊ぶ



おととい10/8 は寒露だった。さすがに日に日に朝の冷え込みが厳しくなって、実は5日から朝だけ石油ストーブを点けている。昨日、遅い夏休みで帰省していた娘と家人の3人連れ立って、久々に雑木林を案内しながら、遅いかもしれないボリボリを探した。静川でふたりはカラカサタケとタマゴタケの姿に感動して画像に収めるのに熱心で、たくさん残っていたボリボリは二の次になっていた。大島山林では、NPOのみんなが先週から採っている薪小屋の裏に、写真ようなとんでもない大きなボリボリの株立ちが残っていて、わたしだけ記念撮影した。驚くことに、エノキタケ(右)も出始めていて、今年は期待できるかもと思った。注意点、大きなボリボリは色変わりが早いから調理は遅からずに。

10/08 里山は道楽



里山で過ごす時間は、山仕事も散策も山菜もひっくるめて、どういう言葉で言い現わせばいいか、考えてみたが、どうも「里山道楽」が良いようだ。昨日、山仕事の後に林を縫っていて、なんだか希望のようなかおりがして立ち止まったのだった。さて、これをなんと呼ぼうか、と思ったとたん浮かんだのがこれだった。。「里山道楽」は、長崎の畏友「まつをさん」の山アソビの表現と同じだ。わたしの山仕事は道楽と呼ぶには危険過ぎるし、小屋の時間は静かな内観のひと時だから、道楽とはちょっと異質だ。しかし俯瞰すれば大きな意味で「晴林雨読」で「悠々自適」の道楽であることに間違いない。かように彼我での道楽の中身はだいぶ違うが、社会に直接何のコミットもしない自己満足という点で、道楽は実はピッタリだ。

10/06 柳田国男『山の人生』と宮本常一の『山に生きる人々』

山と森と人を考えることは、自分にとっては知的好奇心を満たす最たるもので、一面、もしかするとわたしのライフワークのようなスポットに当たっている。昨年8月、民俗学者・柳田国男の『山の人生』を読んで、膝を打つような知的興奮を体験した。それらは雑木林だよりの「日本人の山と森」に短い感想を書いた。先月からは宮本常一著『山に生きる人々』を読み進んで、今朝、ようやく読了した。常に何冊かの本と雑誌を並行して読む癖のためになかなか進まないけれども、読書人の常か、心躍る読書は「このまま終えたくない」という願望を禁じ得ないもの。この2冊と出会えたことは幸運だったと思う。よくぞ日本に生まれけり、といえば大げさだが、日本の国柄を思い、国土、風土に思いをいたす最良の時間だったような気がする。探求する碩学の長大な論文に触れている間、喜びに満たされた。早速、宮本論文の感想メモも雑木林だよりに簡単にまとめることにした。

10/04 里山冥利


この夏の猛暑が色々なことに影響を与えている中、待望のボリボリ(ナラタケ)が急に出てきた。おとといの朝の低温あたりが引き金になったのか。ただ、今回の多くは、しばしば出会うところの地面から出る傘の薄いキノコ。あまり出汁は出ないヤツ。それでも6,7年前の切り株にはしっかりとオーソドックスな株立ちボリボリが出ていた。果たしてこれからもう少し期待できるのか。かつては山仕事が浮足立つこともあった。黄金ではもないのに、なんかオカシイ。幸福感がなんとなくあるんだよね(-_-;)

10/03 歌に見る庶民の共感 22

秋分を過ぎて、次は24節気の「寒露」。見るからに秋深まるという印象だが、今朝一番、待望のボリボリが出たぞ~と一報が入った。季節のこのダイナミック性が好きだな~。おとといから、町内の防災スピーカーで、自宅から1kmあたりの山沿いの道路に親子熊3頭が現れたと放送している。私の見る限り、ドングリは極めて少ない。

◎補聴器を付けても台詞聴き取れず次第に世から遠のいていく   町田氏 I さん
…恐らくメリハリ発音の演劇なら聞き取れるだろうと思うほど、確かにテレビドラマのつぶやきなどは聞こえなくなった。先日終了したNHKの朝ドラなんか、それに土佐弁が混じるから「遠のいていく」ことおびただしかった。原因としては話し手の活舌の悪さも、早口のせいもあるから、アナウンサーの声なら大丈夫と言う人が周りの高齢者には何人かいる。わたしも高価な補聴器にして4か月がたったが、外して気づく世の中の静けさも、捨てがたい。

◎頻尿に苦労したとのエピソードありて茂吉も親しかりけり   東京都 Nさん
…夜のトイレ回数と病気自慢、薬談義、これらは70代あたりの憩いと気休めのビッグテーマだ。なるほど、有名人の同じ悩みは励ましになる。わたしもビールを飲まなければ、あるいは晩酌をやめれば、夜にトイレは不要になることを、体験上、知ってはいる。だが、わたしはビールと晩酌をとる。

◎回転の遅き頭に赤とんぼ    砺波市 Nさん
…頭の回転が遅くなったという声には強く共感を覚える。恐らく認知症とは違いそうだ。パソコンのCPUのようなもので、力や形あるものはみないずれ衰える、と一般化してうっちゃるしかない。回転が遅くなると殺気も無くなるのか、良寛和尚のように鳥が頭に乗る、なんてある種、理想じゃないのか。小鳥が手に乗ると、別世界を感じるのだろう。人に止まるもっとも身近な昆虫は、蚊とトンボだ。

◎同じこと何度も思ふ夜長かな   八王子市 Uさん
…よくある話だが、この頃は大人になった。われ思う、ゆえにわれあり、と想念を楽しめるようになったのである。あれこれ思いめぐらすことが無駄でないどころか、楽しみでもある。人間、心底スケジュールに追われなくなると、思い煩って睡眠時間が減ってもなんの影響もないから、そう思うと、思い悩むことがいとおしくなる。それが生きている証だ、人生だ…。小さな悟りがあきらめと一緒にやってくることもある。しばしば、メモしたくなる妙案も湧く。生きている証、夜長も大好きなんて、歳とったもんだ。





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