晴林雨読願望
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●コンテンツ一覧

●日々の迷想 2021& 2022
2021
first upload: Nov. 29 , 1998
last upload: Jun 28
, 2022


日々の迷想

■6/28 森づくり研修で道北を旅する

NPO苫東コモンズの森づくり研修で、6/25 朱鞠内湖の近くにある北大雨竜研究林にお邪魔した。苫小牧から往復650kmで、その沿線を眺めながら、つくづく北海道は農業と林業が圧倒的大部分を占める大地なのだと再認識した。これは延々とドライブしてみないと伝わらない感覚である。写真は幌加内のそば畑で、これから8月にかけて急激に伸びて実をならせるとあらば、なんという成長であろうか。さらに朱鞠内湖にかけては、開拓から手を引いた後の耕作放棄地のような光景が続き、ところどころは開拓時代もかくありなんという風情がしのばれた。

■6/23 資本主義の隘路からどう脱出するか? 『さらば、欲望』
時代を俯瞰する羅針盤的存在として、わたしは山崎正和氏、渡部昇一氏などに特に襟を正し耳を澄ましてきたのですが、世代が近い存在では佐伯啓思氏がいます。その佐伯氏が先日『さらば、欲望』というちょっと奇妙なタイトルの新書を幻冬舎から出しました。ものの本によれば、氏は、グローバリズム経済は欲望を原動力とするもので、世界を精神荒廃と倫理的堕落の淵に立たせていると警鐘を鳴らし続けている、などと評されていますが、わたしはこれらに関する論評を新聞のコラムや雑誌で読むだけでした。それが時折、切り抜きやコピーに替わり、ついに一冊の本を買うに至りました。

どうやら、疫病や戦争や社会の分断、領土侵略など、この激動が半端でない、と実感されるにつれ、アンテナを一段と高く伸ばす必要に駆られた感があります。長い間国民全体に蔓延していたというお花畑的な平和主義に対する批判も高まっている昨今、今度の参院選では、防衛に本気度を感じさせない政党は票を落とすのではないかと見られてもいます。そのあたりの視点が、資本主義という欲望の源泉から語られている、と言えるでしょうか。

氏は最後の章で、明治時代の福沢諭吉の「和魂洋才」を、日本近代のジレンマとして焼き直して提示しており、なるほどと思いました。わたしたちの資本主義認識が、古典的な一般向け経済書にやっと追いついた格好だ、と評する点にもうなづきました。

■6/21 苫小牧のミニ美瑛

紙の街の小さな新聞「ひらく」5月号では、美沢の田園風景のことが記されている。千歳川放水路が浮上して40年が経つことを契機にした特集で、牧場を営む農家の人に、記者が放水路計画が中止になって残されたものは何かと聞く。農家の方はそれに対して「景観」と答えたというくだりがある。

実はこの風景に好感を寄せている人は少なくない。苫小牧は自然保護運動が盛んで、貴重種や群落を学術的な意味で保全すべきという識者の声が前に出るけれども、市民でも発信できる風景の保全という価値観は奇妙に聞こえなかった。わたしは風景をさらに敷衍して「風土保全」こそ、より大きな概念だと思いつつ、原野や雑木林や湿原というものを、動植物の希少性以外の方法でスポットライトが当たる方法はないのか、行政の都市計画の大事な部分にこの視点が入り込む隙間はないのか、長い間、気になっていた。

千歳川放水路計画が実行されていたらこの風景はなくなっていた・・・。ここに入り込む説得力ある、効果的な考えや決め言葉を、まだわたしは持っていない(写真は10年近く前のもので、晴れた日の風景画像が見つからなかったのが残念)。

■6/19 いまどきの野生生物
今朝の新聞のコラムでも使われていたが、森林の伐採によって棲み処を奪われた野生生物が街に出てくる、という意味の常套句が、あまり疑問に思われることもなく使われている。はてな、とわたしは常々思う。熊やシカやキツネやアライグマなどは、人間が文明社会を目指して棲みやすい環境を構築してきたそのアガリを、彼らも生存に有利なものとして使おうと気づいたのではないかと思う。つまり人間社会は野生や異民族から自分たちを守るために城壁を構え、多すぎる自然を野生ととらえ隔絶する生活を創りあげたが、城壁のない今、今度は野生がヒトの社会に侵入しようとしている。文明はおいしく便利だからだ。

エゾシカは、わたしたちが創ったフットパスを歩くし、冬はラッセルしたりツボ足でつくった踏み跡を利用する。雑木林に身を隠し採草地でやわらかい草を食べるのが最大の好みだとシカの研究者も言う。ヒグマはどうやら河川の河畔林や川の中をコリドーとして使うことを日常化しているように見える。蟻の巣もいいけれど、養蜂家のミツバチの蜂箱にもっとも貴重な、禁断のご馳走があることを知った。

これらの様相はまるで、餌を見せびらかしておいて、来てはいけない、と叫んでいるような構図だ。だが、野生が好む動物王国を別途つくってあげることは容易でない。これを動物王国になりかけている苫東コモンズに身をおいて考えている。

■6/17 散歩の使い途
「喧嘩はこのくらいにして、森に散歩に行こう!」と言うらしい。これはドイツの夫婦の話しだが、森や林の散策の効能をよく示しているエピソードである。お客さんが来た時、近くの林に案内するとか。わたしは喧嘩ではないが、地域での活動の打ち合わせをする際、二人で北大演習林を歩きながらスタッフミーティングのようなことをした。話しは間違いなく進展するような気がする。そして過不足ない。


左の写真は10月のウィーンの森。ブナ林が紅葉(黄葉)して沢山の市民がポツリぽつりと散歩をしていた。ウィーンの森は地下鉄やバスの終点が森の入口になっていて、いわゆる市民のアクセサビリティが抜群だった。右は森林セラピーのメッカ、ドイツのバートウェーリスホーヘンで、ヨーロッパトウヒがつくる日陰の径から、老夫婦や家族連れが街の方の戻るシーンである。

林はしばしば、人に内観を誘う。悩む人には時に自己肯定感を感じさせるともいう。端的に言えば本当の自分に出会う、ということか。お釈迦様が菩提樹(シナノキではなくクワ科)の下で悟りを開いたのは偶然ではない、と心から思っている自分は、間違いなく森林ウォーキング信者だ。

■6/13 神様の木に会おうとする心
少し前のBS再放送で「神様の木に会う」を観た。もう何日も前だったので、改めて画像を拾って思い出した。クス、杉、サクラ、イチョウ、カツラなどで、人々が会いに行く生活風景が実に好ましく、同じ民族性を自分も共有していると感じる。

一部は枯れ、折れ、満身創痍で、それでも人の生命をはるかに超える年月を生き続ける姿に、人は癒され励まされるらしい。わたしもまったく同じ動機で、各地の大木に会いに出かけ、撫で、抱きついたり記録を撮ったりしてきたが、神性の宿る巨木は、高い山、大きな川、宇宙、朝日、夕日などと相通ずる力を確かに宿しているのは、わたしもいつも感じて忘れがたい思い出を作っている。なにか、波動のようなものか。

スイスの山の上で氷河を見たときの鳥肌のように、身体と感性が呼応する不思議体験は、たとえ観光という形であってもやはり時々出会いたいものだ。それが茫漠とした原野であるときもあるし、雨の雑木林であったりするのが面白い。

■6/11 雨の雑木林を歩く

予想外のしっかりした雨だったが、長らく手入れを怠ってきたフットパスで、アクセス路を確保し、風倒木を片づけ、刈り払いをして軽トラックの走行が可能なところまで3人で復活させた。この山林で、わたしが最も好きなルートである。開設して10年近くなるだろうか。

■6/10 濃厚な地域風景が観光の資源に生まれ変わる

先日、ポロト湖畔のリゾートホテルに泊まってみた。

ポロト湖の湖面から樽前山に至る森林地帯が一望できる部屋は、近くのアイヌ関係の博物館の存在と相まって、一種独特の異国情緒に似た雰囲気があり、隣接自治体に住むわたしでも、パワースポットと見まがう風景を楽しむことができた。

かつてここにはポロト温泉という、小さい湯船で洗い場も幾つもない、実にひなびたマニアックな田舎温泉があって、一部で熱烈なファンがいたが、このホテルは同じロケーションを現代風にリゾートに置き換えてみせた、象徴的なビジネス展開のように映る。

施設が湖水と連続しており、幾何学的デザインの露天風呂から見えるのは美しい庭ではなく、なんと、小さいヤチハンノキとイヌコリヤナギがポヤポヤと顔を出した、あの寂しげなヤブであり、わたしはこの異空間を思わせるだろう植生という小道具の選択はうまいと思った。地元の人が見慣れた風景が、高価なリゾートホテルのインセンティブになる好例だと言える。白老のもう一つのホテル「ふる川」も、見下ろす太平洋の荒涼たる風景が創るパワースポットだ。経営コンサルタント・故船井幸雄氏が世界の売れている観光地はパワースポットだという意味の発言をしていたが、その伝で行けば、ここも海のそれも、当分の隆盛は間違いないかもしれない。

一見殺伐とした苫小牧の工業地帯と、いかにも殺風景な風景を逆手に取った白老のリゾート。アイヌの暮らしと歴史を彷彿とイメージさせる構成に、ここだけの話しでなく北海道の歴史も二重にダブって感じられたが、その理由は自分でもよくわからない。

■6/09 洗脳され続ける民族?!
目まぐるしく変わる社会の動きを的確に見通すことは難しい。日本の近現代史を紐解いただけでも、習ってきた世界と新たに学び直した世界の違いは驚くほど多く複雑だ。そして日本はこのままで大丈夫かと思わせる事案の数々が目の前に展開している。

作家・新田次郎のご子息で『国家の品格』などを書いた藤原正彦氏は、雑誌「致知」6月号の特集「これでいいのか」で、日本の近代史は欧米の論理に染まってきた、と語っている。その変遷とは、ロシア革命が起きると日本のインテリたちは共産主義に染まり、昭和は今度はファシズムに、戦後はGHQがつくった嘘っぱちの歴史観に、そしてここ20年はグローバリズムに染まり続けている、と。

フェイク、プロバガンダを含むあまたの情報をかき分けながら本当のことにたどり着くのは容易でなかったが、ようやくことの真相はすこし嗅ぎ分けられるようになった。歳のおかげだ。特に驚くのはGHQの洗脳である。日本が二度と立ち上がれないように播いた自虐的な史観の芽は脈々と受け継がれて今も花盛りで、米国ですらここまで効力があったことにびっくりしているはずだ、という識者の論評を読んだことがある。先に書いたポリ・コレもそうだったが、グローバル・スタンダード的な価値観みたいなものに日本人は弱い。

しかし、そんな世界標準を追いまわさなくてもいいではないか。日本には日本人特有の積み重ねられた感性と価値観がある。それをもっと見つめて大事にしたいものだ。ちなみに、その基礎は国語教育だと、氏はながらく力説している。

■6/06 花のコンテナをこしらえ、オンコ刈りこむ
5/6は立夏、5/21に命が次第に満ちる小満、そして今日は穀類などの種をまく芒種。24節気は植物との暮らしの大事な暦です。先週の2日から少しずつハンギングバスケットに小さな花苗を植えこみ、昨日はいくつかのコンテナに満たしました。いわば夏を楽しむ仕込みみたいなものでしょうか。今日は窓の下のオンコと道ばたのレンギョウとボケモドキを刈りこんで、準備完了。これからは植えたものの勢いを見ながら花柄を摘むのが楽しみになります。

花の苗は、HB定番のツリフネソウ科インパティエンスを柱にシソ科のラミウムやトウダイグサ科のユーフォルビアなど、コンテナには、ヒルガオ科エボルブルス、コンボルブルズ、ミソハギ科クフェア、キク科のシャインボールとメランポディウム、ナス科のカリブラコアとミリオンベル、クサトベラ科のサンク・エール、タデ科のワイヤープランツ、スベリヒユ科のマツバボタンなど。初めて手にするものも少なくありませんが、こうして科や属を確かめながら山野に見かける同科同属の植物を思い浮かべます。

と言っても、わたしの庭の趣味は、そのバラエティや色彩よりも、扱った植物がどんなふうにもりもりになってくれるかを見届けることで、そこにある栄養診断などで植物との距離や関係を計るのが一番の興味。結果的に庭全体がイヤシロチに感じられればしめたもの、そうなれば町内会をステージにしたちょっとした地域貢献です。

■6/03 径を創る

仮称「コナラの沢フットパス」が完成した。写真はそのスタート地点にあるコナラ。恐らく苫東で一番太いコナラが、苫東の最北端にあるということになる。薪ヤードの東に隣接するヤブ山が、この2シーズンであらかたの保育作業を終えたのを記念して、このエリアを囲むフットパスを設けたもの。

■6/01 ポリコレの正体
10年近く前、この言葉 political correctness に出会ってから、まさかここまで世界を変えるとは思ってもいませんでした。ルーツを探れば、「カメラマン」や「スチュワーデス」という慣れ親しんだ呼称を、性差を表わさない別の言葉で呼び始めたことと同根でしょうから、とすれば歴史は30年近く遡るのかも知れません。新語ポリコレを耳にした一昔前の当時の直感は、こんなことになったら大変なことになる、というものでしたが、世の中はその危惧する方向に流れています。

最も強い潮流は米国のトレンドにあると言われます。大統領選の暴力的騒動なども、LGBTが象徴する、人権、マイノリティ、多様性、差別、など、まことしやかに流布するキーワードが実に根深く仕組まれていることがわかります。その根っこにある文化マルクス主義という言葉は初耳でしたが、ブラック・ライブズ・マター BLM 運動の背後に潜む、マグマのようなエネルギーには正直言って驚かされます。そして、このあたりをよく見定めておくために、自由な言論界にアンテナを張っておく必要を感じます。

まさに世界を席巻するポリコレの正体を考えるには好適の一冊でした。

■5/28 径を拓きサインをつける

大島山林のフットパスでサインを追加、更新。詳細はこちら

■5/26 弁天浜で初めてロッド振る

わざわざ日本海に行かなくても、苫小牧の前浜でサクラマスやアメマスを釣っているアングラーが少なからずいることを知り、5/26 に初めてフライロッドを持ってでかけました。そこで、物干し竿のようなダブルハンドをあやつり小一時間。人生初の弁天浜での肩慣らしでしたが、たったそれだけでも、今日は肩と首が張っています。

この日を選んだのは、王子製紙の煙突の煙で南風が弱いことがわかったから。アゲインストにならない日は滅多にないのです。浜の現地は東北東の風で、キャスティングはまずまずでした。見渡す限り、アングラーは遠くにパラパラと7,8人。

その足で柏原によって、今は使っていない「かしわばらフットパス」の防風林沿いに歩いてみました。山ウドの探索です。まだ早いのか、収穫はなし。かつての農地が、あまり大事に使われていないのが気がかりな、いつものコモンズ休暇ソロ。

■5/25 米国BELL社製シカ警報器 Deer Warning を装着
先月、苫小牧の住宅街の道道で、夜、エゾシカと衝突した物損事故は、保険で車両の修理をしましたが、工事費はなんと50万円。数年前は30万円といずれも軽くなかったことから、ついに写真の警報器を取り付けました。

大分昔、野外活動で蚊に刺されないために高周波の新器具ササレーヌにいち早く飛びつき、全く用をなさなかった反省と、シカ警報器なるものが発売された時、「効かない」という噂を聞いたために買い控えしていたものです。

このたび販売の代理店に聞くところでは、当時、ニセモノが登場しこれらはほとんど効かなかったようだ、との説明を聞いて装着を決意。車両の両側に1個ずつ取り付けた小さな筒状のものから、異なった周波数の音が出て、その周波数の差から生れるウナリのようなものに野生生物が立ち止まることを利用したもののようです。

これによってシカ等の野生生物との衝突リスクを低減させる、と取説にあります。シカが住宅街の庭木まで食べ始めた胆振地方では、もはや必携のアイテムだと思われます。効くかどうかはまだ半信半疑ですが。

■5/23 山の忘れ物は奇妙に見つかる
春の到来は勇払原野の中でも微妙に時間差がある。東北のある地域でもコシアブラご飯が定番だと知って、無性にまたしつこく食べたくなって、近くのいつもの穴場にいってみたら、ラッキー、まだ間に合った。今年2回目のコシアブラ炒め(ご飯にまぶす)をつくるところ。
 山とか林は地方ではかくも身近である。そしてこの頃のしみじみとした実感、それは「山の忘れ物はよく見つかる」こと。トングや手トビ、カメラなど。先日は冬のスノモで落とした魔法瓶を、見つけてくれた人が届けてくれた。それでは、と2年前になくしたハンマーを探してみるつもり。伐倒する際にクサビを打つためのもので、ひょんなことから見失ったままだった。何故だろう、山の神が導いてくれるのか。山の道具は愛着という念力が届くのか。下草が出る前の今週あたりがリミットか。

■5/21 鳥を聞き、見歩いて

復活した大島山林の探鳥会。山林の利用促進という目的どおり、町内からも10人以上、合計20人余りの会となった。身の回りの鳥を知りたいという潜在的な願望があるようだ。

■5/19 雑木林の新緑

林道沿いの、気になる掛かり木を片づけに行く。道すがらの雑木林の新緑は、今シーズンのピークを思わせた。心が洗われる、とはこのことだ。言葉を失う感じで軽トラックを運転した。裏山的付き合いのしあわせ。


●日々の迷想 2021& 2022