生成りで語る

第9回

■テーマ   アイヌの人が森に入る時 ■日時と場所   10月26日土曜日 am10:30---pm01:30 苫東・雑木林ケアセンター 



*以下は、勉強会で話された内容の一部を、  キーワードで大まかにつないでみたものです。 ●森で挨拶                                     森林や自然と人、そしてこころを語るこの会では、自分のそれの根っこを探すように、 ネーティブの人たちや、中世など歴史的な人々の自然観などに折々話が及んできた。北海 道に住むわたしたちであれば、それは迷わずアイヌの人たちのエピソードとなり、各々が それなりにこれまで見聞きした、あるいは体験したことどもを披瀝しあったものだった。 それが今回はSさんの計らいで白老の大須賀るえ子さんを勉強会にお呼びしてお話を伺え ることになった。大須賀さんは、NHKラジオに出られたり、アイヌ語教室をやっておら れたりという活躍をされている。                          落ち葉が道にたまり、秋深まる。  9時前に小屋についたわたしはまずストーブを焚いてお茶のお湯をわかす準備を始める。 そしてキノコを見てから刈り込み道歩いてみる。コナラはまだ完全な紅葉の色合いになっ ていないが週のはじめには初霜があったからおそらく今週あたりが紅葉のピークだろう。 道できれいなボリボリ(ナラタケ)を見つけて、いただく。先客のLさんに薪割りの斧を 渡してもう一度道をまわると定刻の10時半前に、Sさんと大須賀さんがやってきた。  「ここはいいところですねえ」と大須賀さん。                    「そうでしょう?こんな平らで来やすいところってあまりないですからね」       もう古い知己のように話が始まる。さっきとってきたボリボリをお見せし、       「きれいでしょう?ボリボリの終わりハツモノ」                   「あら、ほんと。これから何でしょね」                       「ほだ木ではエノキタケですね。ユキノシタ。美味しいですよね」とわたし。      「そうそう。石突きのところが折れにくいので小さなナイフでそっと切って。うちはハン ノキの切り株によくでてくる」                           「そうですそうです。ハンノキを伐採すると必ず出ますね。雪のふるころ、ズボンを濡ら しながらとりますよ」                               「そう。乾かない湿ったところでないと」                      と話は尽きない。ナメコはサクラのほだ木というと、サクラの木が倒れたのでナメコの菌 を打ちたいと思っていたところだという話になり種菌の入手先に話が及ぶ。        と、今日は風もないので外でしようか、と相成る。では、たき火をしようということに なってイスづくりとたき火の準備が始まる。ドクターから携帯に電話が来て、間違って市 内の公民館に行ってしまいこれからUターンするという。なにやら、あわただしく、シナ リオのない手作り勉強会はもたもたとスタートする。                 ●林とこころとアイヌの人たち                            先に書いたように、林とこころの勉強会では、ネイティブの人たちがもっている自然観 や自然とのつきあい方などに話が及ぶことが多い。また、縄文時代やその後の民族学的な 話題も混じってくるのだけど、やはり身近なところでは、それについてアイヌの人たちは どんな風に考えたのだろうか、どういうつきあい方をしていたのだろうかということだ。 そこに自然神との深いつきあいと洞察、知恵を感じ取りたいといつも思うのである。ドク ターもSさんも実際にアイヌの方のお知り合いをもっていたのだが、今回はSさんが日頃 つきあいのある大須賀さんにお話を伺う機会ができた。ここではお話の一部とアウトライ ンのみ記しておこうと思う。                             大須賀さんはあとでアイヌとして堂々と生きていこうと決心したのは50を過ぎてから だとおっしゃる。現在は白老でアイヌ語教室を開かれたり、アイヌ文化の架け橋として活 躍していらっしゃる方だ。今日は、アイヌの人が森に入るときの身の処し方、振る舞い、 その元になる自然観、考え方などを直接おききして普段書物を通じて知る概念を、もっと 生活や個人にひきよせて考える契機になればと思う。人と自然の関わりは、これは人類の テーマでもあるしこれからもたびたび話題になるから、まとまった話にならなくても一向 にかまわないのがうれしいところだ。                          ●イヨマンテのこと                                 大須賀さんはまずアイヌの人の男女が写った写真を出して話を始めてくれた。それは大 須賀さんの祖父母で、ふたりとも民族衣装を付けて、動物の骸骨を棒に射して林立させた ものが背後にある。一見、儀式か墓場のようにみえたが、これはイヨマンテの儀式を行っ た場所だということだった。そもそもイヨマンテというのは何か。アイヌの神であるクマ を天上へ送る儀式、というのが漠然とした知識だったが、大須賀さんによると、それは飼 いグマを送る儀式だということになる。なぜ、飼いグマか。              大須賀さんが写真で祖父母やイヨマンテのお話をする。  これはアイヌの人たちがクマを射止めたとき、必ず子グマを連れ帰ることに起因する。 子グマはクマの毛皮を来た大事なお客さんとして扱われ、決して残飯などでは育てず、人 間より上等な食物で養うものらしい。大須賀さんのおばあさんはこうして25頭もの子グ マを育てたと言っており、生活の中で一緒に暮らす様子を細かく表現して下さるのでとて もイメージしやすい。写真の背後にある頭蓋骨はそれらの飼いグマがイヨマンテで送られ たものだったのである。                               クマ送りの儀式は、これからも地上にたくさんの恵みがあるように、肉はいただき霊を 天上へお返しするもの。里は良かったと言ってくれ、また次の恵みを降ろしてくれ、そう いう願いが込められている。アイヌの人の考え方には、あらゆるものは神様からのいただ きもの、という考え方が随所にある。この感謝やへりくだりは、現在とても着目されてい る循環型社会のキーワードであり、かつ、とてもわかりやすいキャッチコピーになってい る。これがまだまだ知識のレベルにとどまっているけれども、わたしたちが環境を痛めず 資源を使いすぎない減速生活へ揺れ戻っていくとき、この観念は生き方としてクローズア ップされるものだ。そう見直される時代が早く呼び込まなくては。           ●シラカバと入れ墨                              「そうそう、さっきシラカバの薪の話出てたけど、シラカバの薪を燃やして出るスス、 あれは入れ墨に使ったの」と大須賀さん。近く、石油ストーブを止めて薪ストーブに替え たいなと思っているIさんが、シラカバの薪としての資質をわたしに聞いた折り、わたし は、「ナラに比べれば早く燃え尽きる。火もちは良くないみたいね」と話しており、それ を受けたものだった。いろいろな知恵を身につけ結婚してもいい成人女性を表す入れ墨は 実は10歳の頃から少しずつ、このシラカバのススを使って鼻の下等に入れ込んだものら しい。ナイフで傷を付けてヨモギで止血しながらすり込んでいく訳だ。それをしないとあ の世で仲間に入れてもらえない。だから、未婚の時から少しずつ、春秋の暇なときにやっ たものらしい。                                   仲間に入れてもらえない、とか、これをやると悪いことが起きるとか、こういった「タ ブー」をもって身を律してきた社会はわたしが生まれた戦後もまだまだあってなじみのあ るものだ。親のしつけもタブーもごっちゃになっていたし、何か訳のわからないまま、恐 ろしがっていたものもある。幽霊や霊といったものも自然と暗闇の中で恐れとして覚えて きたし、今でも恐くないかと聞かれれば、小さな声でだが「恐い」と答えたい。こんな感 覚は宗教とは言えないものの、宗教を「おおもとの教え」と理解すると、これをしてはい けない、こうすべきだという方向をこの恐れが導いていく点では自分の中に住み着いた宗 教だったのだと理解できる。                             わたしはこのタブーとたたりというものに内心縛られて生きてきたが、加齢とともに縛 り感覚が伴わなくとも、良い自分でいられるようになるらしい。規をこえず、というわけ である。                                     ●森に行く時                                    5歳の頃おばあさんと薪とりに行ったことを覚えているという大須賀さんは、森は神の 領域なので、例えばアイヌネギをとりに行く時でも「とらして下さい」「食べる分だけい ただきます」「悪いことはしません」と、ひれ伏した状態で入るのだと語る。このような へりくだる態度をアイヌ語でオリパクと言うらしい。このような考え方は所有という感覚 を持たない。自分のものという観念がないアイヌ民族に対し、和人は無主地は官有にする という一方的な法律をつくり結果的に伝統的なアイヌの生活の場を奪ってきた歴史は、今 明らかにされている。これらは国際先住民年などの国際的なキャンペーンが功を奏したり あるいは平取の萱野茂さんらの運動により、サケの捕獲が一部認められるなどの動きとな って少しずつ改善の兆しが見え始めてきたのは、遅まきながらとはいえ、少し気持ちを明 るくさせる話だ。                                 一同、落ち葉に埋もれるようにして。 ●アイヌの人の知恵  コタンの問題は長老に相談し、どれが一番理に適っているかはチャーランケという合議 で決められた。わたしが初めて聞いたときのチャーランケはチャランケと縮めて発音され て、いわゆるイチャモンをつけることを指していた。これがとんでもない間違いだとあと になって知った。また村には巫女さんやシャーマンなど、病気を治す人など能力のある人 がいっぱいいたという。それらの人たちは神様と人間のちょうど中間にいて、さまざまな 分野で知恵を授けることになった。                          「ウパシクマ」という本で紹介されている産婆さんの青木愛子さんは、産婆さん(イコ インカルクル)であり千里眼(ウエインカラ)をもち、降霊能力者(ツスクル)であり薬 の処方をする薬剤師で整体を含める各種療術士であった。この春だったかに、河合隼雄さ んがアメリカインディアンのナバホ族などを訪ねた旅行記のような著作が出ているが、そ こで描かれているメディスンマンがちょうどこれにあたる。ジェームズ・Aスワンの「自 然のおしえ自然の癒し」の中にも、超常現象を含むさまざまなメディスンマンの働きの実 例が紹介されており、病気の治療はもとより天候をかえる行為までがくわしく記述されて 驚く。                                       少なくと医療の世界では、西洋医学の患部除去や症状への薬物投与という医療では治癒 できない部分が見えてきて、人々は東洋医学や、あるいは従来の医学ではまだ説明が付い ていない分野に入ってきている。それはホリステック医学の源流ともなって、とても注目 されているところだ。これらの流れを見ていると、人々の見極めや悟り、現実対応という のは賢いという印象を強く持つところだ。                       気功の研究家・津村喬さんは、アイヌの人たちの自然医学に注目し薬膳料理のような食 事などについて研究しており、アイヌの人の薬草は体系として確立されている、と書いて いる。また、森全体がメディスンストアになっているとしており、そこでは、子供のおし ゃぶりにはある木を彫って与えると精神安定にいいというエピソードも語られている。 何かとても宝のような知恵をいっぱい持っているアイヌ文化の中に、わたしが求めている 「人にとっての森の入り口」がたくさん備わっている感を強くするのである。       大須賀さんも実際シコロの実(シケレペ)を拾ってご飯に混ぜたりして食したらしい。 ボウナ、ドングイ、アマニュウなども食用として供された。ヨモギは虫除けやその他いろ いろな薬効があって使った。そして、森に入るとき恐くなかったか、という問いに大須賀 さんは「祈っていくので恐怖は感じない」「敬虔な気持ちだから」と答えた。燃料の薪は まずは海に押し寄せた寄り木、山では実はたくさんの枝が落ちており不自由しないという 答えだった。まさしく広葉樹もよく枝を落とし、切らずとも薪として足りるのは、雑木林 を歩いてよくわかる。                               ●カムイユーカラ                                  外のたき火をいじりながら、背中が結構寒くなってきた。1時間半もこうして外にじっ としていると確かに冷えてくる。気温は10度前後だと思う。思いがけないことに、大須 賀さんはカムイユーカラを歌ってくれると言う。そして晴れ着の民族衣装を羽織り、額に バンダナを巻いた。サケヘと呼ぶ繰り返しがあって、ホテナオーとピートントンという合 いの手が歌の1フレーズごとに挿入される。                     カムイユーカラが林にとけ込む。  今回歌って下さったのは「エゾオオカミの小神の自叙伝」。知里幸恵「アイヌ神謡集」 第6話にある。自分の正体を知りたい女神がやってきて素性のあてっこをしようと言う。 エゾオオカミの小神はそれを見抜いて「昔、コタンカラカムイが村をお作りになったとき ハンノキの炉縁が火に当たって反り返ってしまったので、お捨てになったのですが、神の 手作りのものがそのまま朽ちてしまうのは勿体ないと、魚にされたのがあなたなのです  よ」と教えてあげる話である(「カムイユーカラ」上野ムイテクン)。          ウェペケレという別のかすかな旋律をもつ歌のようなものは何回か聞いたが、実際にラ イブでカムイユーカラを聞くのは初めてでないかと思う。反響のない外だから、大須賀さ んの声は林の空間に消え入るのだが、晩秋の寒ざむとした空気に、歌声はよく似合った。 前世や素性を知りたい、という内容は、生き物は生まれ変わるという観念を表していて、 掘り下げていくと深い意味に行き当たりそうだ。                    わたしは残念ながらその辺の蓄えがないので素通りするしかないが、アングラーのわた しをとらえたのは、ハンノキがなりかわったという炉縁魚(ロブチウオ)の和名だった。 長くて頭がつぶれて、いつか漁師の人がもってきてくれたというが、雑木林のあのステー ジでは大須賀さんはガンズとかナガツカと言われたが正式な和名は不明だった。ハンノキ だから、陸の淡水魚だと思いこんだわたしは、ナマズとウナギを連想したがどうも海の魚 だと言うから違う。とすれば、ウツボか。というように、1週間気にしてきたが解明しな い。ついに大須賀さんに電話してもう一度聞いてみることにした。           「大須賀さん、あの炉縁魚って、ウツボのことじゃないんですか?」          「和名はわからなんですが、地元の漁師の人はガンズとかナガツカと呼んでますね。とき おり、網にかかるらしくて一度もってきてくれたんですよ」              「大きさは?」                                  「70cm位でした。茶色で、実は白くて美味しかったですよ」             ううむ。漁師に聞くか、図書館で北海道事典で調べるか。半ばあきらめながら、近くの コミセンの図書館の小さな図鑑を見るとあった。「ナガズカ」。漁師の呼び名とはわずか ツとズの違いで、これそのものが和名である。ニシキギンポ科で北海道にもいる。ガジと か似たような方言もある。なるほど、ギンポは知っている。ウツボやナマズやウナギと形 は結構似ており、炉縁魚の命名は言われてみれば、という追認はできる。しかし、ハンノ キがどういう理由で決してポピュラーとは言えないこの魚になったか、なおアンテナをた てたまま諸賢の情報を待つことにしよう。                      ●考えるヒント                                   わたしはお話を伺いながら、考えるヒントをやはりいくつかもらったなあと感じていた。 例えば「精神の悪い人は収穫にあわない…」。生業を持たせるため精進を促す戒めであろ うか。わたしは直感的にピグミー族のエピソードを思い出した。彼らは絶妙な呼吸法で、 動物に感付かれないよう、あるいは殺気を感じさせないように近づいて獲物を捕る、その 極意が呼吸だというのだ。その伝で行けば、精神の悪い人というのは呼吸法が悪い人とつ なげることになるが、事実、呼吸が正しくないと病気にもなりやすかったり、第一活力の ある暮らしが営めないように書かれている呼吸の本が多い。これはどう理解しても興味深 い。                                          「今は霊力が弱まっている」「神の居並ぶ岬とイナウの並ぶ岬」…。深い淵を持ちなが ら波をたてて流れる大河は強い霊力を持つが、波去る川は霊力が弱い。護岸された浅い河 などがこれにあたるのだという。ああ、霊力というのは解るような気がする。その点、高 い山並みや深い森の中の大木などはどうだろうか。風水の捉え方の中に、このような雰囲 気があるように思う。いつのまにか、骨太な風土の骨が規模の大小取り混ぜて破壊されて 風土の勢いがそがれていく様だ。今は、というのはこれから先があると言うことになるが それは風土がいつか元気を取り戻すこと、人間になにか画期的な気づきの時代が来ると言 うことだろうか。                                 もうすぐ、この林にも雪が来る。  感謝とオリパク。わたしはこのふたつの言葉を胸に納めただけでも十分幸せな気分にな った。感謝の気持ちと敬虔さ。梵我一如というように、万物をつくった神様(宇宙)と自 分に流れているエネルギーが本質的につながっており同じだという悟りがアイヌの教えの 中に流れているような気がする。だから神は上にいるのではなく、生き物すべての中に宿 っているというのである。自分の身体というのも自然であって、身体という自然を借りて 自我がすみ、それらを包み込むようにより高次の見えない真我・ハイヤーセルフが存在す る。生き物すべてに宿った神=ハイヤーセルフとわたしのハイヤーセルフが交信できるか どうか、それが課題である。                             自然との関わりを探っていくとそんなところに行き着くのだが、それは宗教といっても いいし民族が固有に持つ哲理といってもいい。これはかなり普遍的なものだということが 少しずつわかりかけてきた。                           



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