林で詩が生まれる
NO.47
2008/01/05〜


2008年を迎えました。この歳で高望みも何もありませんが、せめて
一歩一歩駆け上がって行くような積み重ねはしたいと思うわけでして…。
齢に応じて、充実感のある日々を重ねたいという願望は高くなり、
そのために自分に課すテーマも純粋で大きなものになります。


折りしも、体力にモノをいわせた作業は難しくなってきました。
言葉や考えで林と付き合うことになって行くようです。長い間、
夢見てきた、林を言葉でつむぐ世界へ、これから入るのかもしれません。


山辺のあっちとこっち  2月23日(土) 雪

北海道洞爺湖サミットの1ヶ月前に田園系の別の国内向けミニサミットが用意されていて、数日前その関係者が集まって事前打ち合わせがあった。田園の特に耕作地側が主催するもので、わたしの関与は、田園に密接につながっている林の側から短い講演をすること。いくつかの資料を拝見すると、田園側は整然と組織立った食料生産のシステムが出来ているのに対して、森林法側は、公益的機能が喧伝されるほどには管理の手が伸びておらず、経済がくっついてこない、つまり生活の足しにならないために、放置、放棄されたままであることにあらためて気づく。その対比は鮮やかなほど見覚えがある。それはまた、樹木が長い時間の間、放置して育てうることにもよっている。時にそこに甘えもでる。

端的な例が、田園と林の境界やその奥が往々にしてゴミ捨て場になっている。もっと詳しく言ってしまえば、境界の、しかも「林に食い込んだ部分=一見無主地」が捨て場になっている。その境界あたりが山辺の中心であり、古来、山を背負った山辺は暮らしの立地には好適とされた場である。山辺は気持ちが良い。山を背中に背負っている安心も魅力だ。

山辺で見る「あっち」と「こっち」。さあ、どういうストーリーをそこで書こうか。不安でもあり、楽しみでもあり。

 
林の中の快適な手自然


田園から見たら林はあっち

あっちに林がある

山の縁1

山の縁2



雪に煙って暗い雑木林。墨絵の
世界だ


なかなか温まらないストーブ。
時々公開するときもあるが、
しかし、炎を眺めてチャラにする


薪に雪、降り積む

幹に雪が積もる

大雪の小屋にて 2月16日(土) 雪 外0℃

実に気持ちよいぐらいにシンシンと雪が降り積む。高速道路が不通になっていて、道内は大荒れ。国道235号も視界は50mほどだった。それでもフンワリ積もった深雪だから、誰かの車のわだちを使って、よいしょっと小屋の前まで車は行けた。

いやあ、降る降る。スキーに行く気になんかなれない。ストーブを囲んでただただ読書だ。これはこれで大変うれしい時間だ。あいにく、ストーブはまず鋳物に熱をとられ、次には小屋の天井部分に暖気が集まり、ジワーッと降りてくるまで快適温度にならない。今日はマイナス5度がプラス20℃になるまで一時間半かかった。この間、薪をいじりいじり、やや注意力散漫なままの読書と相成る。

40cmほどの積雪になっている。来週こそ林道に入れないかもしれない。小屋日誌を書き、ちょいの間の晴れ間に、長靴でわだちを散歩し、でもやっぱりつまらないからやめてしまった。同じ狭い場所の365日を見ている不思議。雪景色に合掌。

  
入り口のカラマツは雪を載せて美しい装い。小屋のまわりは
ようやくササが消えて冬らしいたたずまいになった














待ってました、とスキーが言う


影が面白い


これはキツネのようだ


これも出番を待っていたようだ

歩くスキーを出す 2月9日 晴れ 外気=3℃ 小屋は−9℃

思ったほど雪がなかった。大寒のころから自宅周辺はいい雪が降ったので、もう林道には入れない、となかばたかをくくって足を向けないでいたのだが、どうも20km離れたこのあたりは雪があまり降らなかったようだ。しかし、つぼ足では疲れる、という微妙な深さ。

ベランダに立つと、春の日差しが心を浮き立たせるのがわかる。こういう日は歩くスキーだ。薪ストーブに火をつけてから、小屋の2階にあるロシニョールの歩くスキーを取り出した。スパッツをつけてフットパスに飛び出した。不思議なことにシカとウサギがフットパスを歩いている。なぜなんだろう。いつも刈り込まれた跡を歩いている。歩きやすいのか、動物たちがルートどりをしそうなところをわたしが導かれるように刈り込んだか…。まさかそんなことはないだろうが、お互い、気持ちのいいルート、というのはあるかも知れない。

ベランダに戻ると、春のような日差しに胸が膨らむことがわかる。胸が膨らむといえば音楽、ここでの音楽といえばリコーダーだ。壁にかけてあるカエデのアルトリコーダーで山の歌を吹く。曲目は↓。(かつて山で歌ったドイツの学生歌。カメラーデン・リードなどとも呼んでいた)

たたえよ春を Freut euch des lebens
5月の歌 An den Mai
5月の山に Im Maie
緑うるわし O belle verdure (これは仏語でした)

など。久々だ。気分が浮き立つとき、「5月」「みどり」「歌」「山」が
自然と浮かんでくるのは面白い気がする。音は、林にすっと飛び込んで瞬間戻ってくる。その微妙なこだま。思わず、体がスイングしていた。











広葉樹と針葉樹の混交。水辺は
凍っている


道は未知。雪道はなおさら

幌内川。流れは油のよう。

樹木園の踏み跡

木立の中のみち毎日、だれか
がつけないと維持できない

冬の林をこんなに歩く人が居る  22() −3℃ 晴れ

ガソリン代が高いから、恐らく走行は無理だろうと踏んだ苫東の雑木林へは今日も足を向けなかった。ここのところは専ら演習林などで週末の林を楽しんでいる。今日も、好天の演習林を歩いてから、患者さんが毎日歩いているという自作フットパスのU病院にいってみることにした。

−3℃の演習林は、カモの池に4,5台の車が止まっており、奥の駐車場には6,7台見えた。駐車場には人影は見えなかったのだが、庁舎の裏の池まで行くと、いくつかのパーティが散策や写真撮影をしているのが見えた。わたしは幌内川に沿ってずんずん踏み跡を進んでいった。誰も居ないが踏み跡はしっかりしている。かなりの数の市民が歩いている証拠だ。観察塔を越えたあたりから大木の風倒木が目立つ。もったいない限りだが、風倒木の処理はしないでエコミュージアムにするつもりのようだ。雪道はその風倒木を迂回しながら、取水口まで続いていたが、さらにその先もあった。

このあたりに来ても、シュッシュッと音を鳴らすと小鳥たちは集まり、手に乗る。ゴジュウカラは爪がちょっと痛いことに気づいた。木の幹をさかさまでも縦横に上り下りする鳥だけにグリップも強く爪先も鋭いのだろう。で、時折、わたしの小指をかむ。これには参る。最初は驚いたがもう慣れてきた。

人とほとんど合わない林の散策は素敵だ。と、思っていた矢先、派手なスキーウェアを着た人が離れた林道を登っていった。駐車場に近くなってからは、高齢のご夫婦に見える方が、ノルディックのポールを持って川の方へ向かっていった。なるほど、ノルディックウォークもいいな。

U病院へ行ってみた。患者さんにフットパスのファンがいて毎日歩いている、とT先生からの連絡があったからである。なるほど、かなり踏み固められた雪道の跡がある。わたしは普通、反時計回りだが足跡を見ると時計回りのものもある。女性のものと思われる小さな靴跡もあったところをみると、ここも演習林同様、冬の散策ファンがいるということのようだ。


演習林には大木が散在。
























林は冥想なのか  1月26日()はれ 

大雪のあとで、雑木林には入れない。セダンで入り込むための許容積雪は25cmほどだから、雑木林はどうもそれを超えている。万が一、入り込めたとしても、はまる。脱出に半日費やすなどは避けたい。さらに、エゾシカの猟が閉じたから、RVに乗ったハンターももう来ない。したがって轍がない。で、今日は出かけないほうがいい…。

うまく出来たもので、今日26日は「林とこころU」の勉強会のヤマ場。「林は冥想である」という提言を瀧澤さんがし、わたしは冥想のあれこれをちょっと整理し、どこの部分を林が代替できているのか、を語り合った。

出応えはズシリ。瀧澤さんもわたしも整理途上だが、意見を交わしている間にわたしは個々数ヶ月思い描いてきたテーマの答えについて、温めてきた芽がふくらみ、大きな気づきに達していた。つまり、

冥想で人は内側に羅針盤を得る気づきで人が変わる社会やコミュニティが進化する

この「冥想で内側に羅針盤を得る」と言う段階は「内観」状態と言えるが、「林の環境」が時に内観を誘導するのである。そこに働くのが実は「林が持つ霊性(スピリチャリティ)」なのだ。林が本来持っている霊性が、磁場のように内観を誘うのである。このなじみのない霊性に一人で出会うと、人はしばしば拒絶したい恐怖感を覚える。だから、林と付き合うイントロの部分は数人やグループで訪れるのがいいのである。そうして、未知を既知に変えると、自然はぐんと近くなり心を開放できる。ヨガなどでいう「放下」である。

また、こうも言える。林は普段なじみのない人にとって、一種、おどろおどろしい場である。物の怪のようなものを感じるから、藪の中でゴソと物音がしたり、梢が音を立てたりしただけで、コワイモノを連想して、五感は研ぎ澄まされる。と、この状態ですでに日常を引きずった自分は居ない。物の怪にリアルタイムで反応している自分が居るだけである。あくまで「今、ここ」に集中している。無になっている。ここで内観がスパークする。

無になっている、というのはロッククライミングにそっくりだ。ロックは足の指先、手の指先を使って少なくとも3点で確保しないと岩から落ちるので、全神経を集中して登りつめるのだが、そのあとには妙な清浄感があるのだ。恐らく、「今、ここ」の典型として、「我」が消えているからだと思う。それほど、リフレッシュされる。ということは、わたしたちはそれほど日常の荷物を背負って生きているという裏返しかもしれない。

そこで、わたし的結論。

「だから、社会は身近なところに親しみやすい緑(樹木のある公園やさとやま)を持たなければならない」。そうすることによって、人は内観の契機を得、自分が本来持っていた良心というものに出会う。良心は、わたしたちのさまざまな欲望や邪心を正しく導くから、社会は落ち着き進化しようとする。

そして現実の社会は、小さな成功と度重なる失敗の連続、さらに反省の繰り返しだったのではないか。社会犯罪、病、不正、争いなどはこの、ほんのちょっとした環境が獲得されていたのかどうか、人がそのような「場」(アジール)を持ちえたのかどうかに、しっかりと裏打ちされてきたのではないか。

このほんのちょっとしたもの。現代人が「そんなもの、なくたって十分豊かに生きていける」と内心うそぶいているもの。それが実は「霊性を備えた林」ではなかったのか…。冥想はそこにかかっている。冥想の行き着く先の「三昧」。宇宙と一体であるという感覚の途中駅に、「林」はあるのだと思う。








屋根は薄氷

ストーブを焚くと融け始めた

フットパスはキツネも歩いて
いた

冬の小屋と風邪引き 1月19日(土)快晴 外−10℃、中−13℃

寒い。実に寒い。快晴の空に霧氷のついた枝がまぶしい。9時過ぎ、小屋の室内温度計を見てなおさら寒さを感じる。薪ストーブがなかなか暖かくならない。フットパスを歩いて戻った最初の小一時間で10℃までしかあがらなかった。そのうち、火勢も少し落ちたりして、だんだん自信がなくなる。長老宅に所要があり、11時半に小屋を出るときにようやく17℃あたりだった。

毎年、冬の小屋で過ごすと鼻やのどの粘膜がおかしくなる。湿度の全くない、低温の小屋を急激に加熱して乾燥するせいではないかと思う。案の定、午後から異常を覚え、塩水で鼻とのどのうがいをし、殺菌力のあるロイヤルゼリーをふた匙なめた。夕方、銭湯にでかけゆっくりフロとサウナに入って早く寝た。




 
茨城の岳友・武田氏から頂いたホシイモ。右は長老宅の前からみた日高の主峰・幌尻岳。



道が一目瞭然

小動物の足跡がある

お香を焚いたら煙が光る

ケモノ道となる   1月12() はれ マイナス4 

室温マイナス8度。おそらく、窓が小さく、日が射さないので夜冷えた室内がほとんど日
中暖まらず、また冷やされるという繰り返しのため、寒さが蓄積されるのだろう。寒い、
本当に寒い。だから、ストーブを焚いてまず外に出る。今日はササ道フットパスをトレ
ースした。

獣がフットパスを歩いている。犬ではないかと思う。狐の足跡ではなく、アライグマにし
ては大きい。シカとウサギは横断、部分的にリスのような二足ずつの小さな足跡が見つか
る。積雪は
5cmほどか。

ストーブの前で植苗のコブシの枝を削る。あたらしいカッターの刃に代えたがあまり切れ
味は変わらないものだ。削った切片をストーブにくべたが、意外にもあの独特の香りがしない。

帰途、長老宅により新年の挨拶。ソニーのサイバーショットで小鳥の写真を見せていたら、
「それ、買って来てくれや」とお金を渡された。土産に自家製棒ダラをいただき、夕方、
ハンマーでたたいてむしり、ごま油をたらして晩酌の肴となった。



クラフトは遅々としてすすまないが、時間がいい。日めくりは週一回めくる


薪の燃えるにおいはいいものだ

ストックを持つ散策

薪ストーブはすっかり友達

ノルディックウォークをしてみる  20年15日 晴れ 2℃

街中にはほとんど雪がなく、林に入ってようやく硬くなった積雪が10cmほどあろうか。植
苗の山仕事も年前に一段落したし、苫東の小屋の周辺も差し当たっての作業を計画してい
ない。寂しいような、うれしいような。

手順どおりに薪ストーブをセットしてから、ストックを2本持って、「奥のささみち」フ
ットパスを歩いてみる。なかなか、安定がよい。安定がこれで助けられるとは、わたし自
身の老化を認めるようなものだが、それもいいではないか。そのまま、「まほろば」も覗
いてみた。デジカメを操っていると、携帯が振動する。札幌の先輩釣友・高橋さんからで、
3月、アメマスのフライフィッシングの約束をする。がんの手術後、寒いのだという。昨
年は尻別川周辺で尺やまめを数本あげたという。それでは、と、そちらの釣行も約束。

薪ストーブの前で「ウィーンの森」を読む。秋、訪れる予習だ。前半は音楽、芸術関係、
5章以降から、四季の移り変わり、環境などの話に入る。思えば、構成がいい。森の詩人
・シュティフターの項をよみながら、わたしも林との心の往来をポエムの世界に託したい
と夢見ていたことに気づいた。


写真は、昨年の師走から精を出すことにした展望台と小鳥とのつきあい。

  
左)ウィーンの本を少しずつ読んでいる。 中)丘の上から 右)おととい、ニシキギの
赤い実は食べなかった


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