林のこころを伝える
NO.46
2007/11/03〜

このひと月ほどは随分お客さんが多かった。大勢でおいでいただく場所なのか、
と気にもなるけれど、林の心が少しお伝えできたかも知れない。(詳細はNO.45で)

10月終わりには北大で林と心に関して講義する時間をもらった。手入れする意味、
木を切ることの善悪の考え方、樹木の本質、わたしがこの営みで知った祈り、
心とのかかわりなど…。

90分の講義のあとに、質問・意見はなかった…

いや、なかったのではなかった。教室では声で発せられなかっただけだった。
先生は感想と質問をペーパーに書かせることにしていたのだ。その30枚の
ペーパーを見せてもらって驚いた。まじめな質問と感想が満載だった。
自然との関わり方、心のあり方に関するスタンスがしっかりしていることを知
ってわたしはとても心強くうれしい気分になった。

わたしは30の質問と感想に、ひとつずつ返事を書いた。きっと顔はほころんでい
なかっただろうか。少なくとも心はニコニコだった。




こんな風にいけば満足

往々にして幹の先はこんな風に
止まっている


間伐の跡はとりあえずこんな風。
来年はササが繁茂するはず。


大木よ。さらにのびのび生きよ。

人と林の境界。

森づくりの仕事おさめ  12月30日(日) はれ 5℃

大荒れの29日とうって変わって今朝未明は星空だった。ふと、天候が悪いと予報される元
旦の代わりに、今日、日の出を見ておこうか、という誘惑がおきるほど、清清しい静かな朝だった。で、休みの
2日目、今日も積極的に早く起きた。U病院へは10時過ぎ到着。雨と暖気で雪はほとんど融けかかっており、駐車場はたっぷり水溜りが出来ていた。

駐車場前の林は今日でほぼ除間伐を完了できるのではないか。先週までは、株立ちと枯損木を中心に密度管理してきたが、今日は幹のてっぺんの枝の伸びをみながら、ふれあいの多いもの、伸びが止まってしまったものに重点を置くことにした。じっくり観察するとずいぶんこじれた樹木が多い。ワッシワッシと順調に抜き切りし、玉切る。ふと目を上げると年配の方が作業を覗きこんでいる。軽く挨拶して近寄ると話しかけられた。

「ホダギでも採るのかい?
「いえ、とりあえずの間伐です。患者さんが気持ちよく歩けるような」とわたし。
「ま、森林浴かね」
「ええ。森林浴というとこれまで中心は身体でしたが、それと心の健康のためにもね」
「この材はホダギにできるよ」
「はい。半分は腐れが入っているかもしれませんが、残りは使えます。」
5月、菌を植えてあげようかな」
「喜ばれると思いますよ」

上昇気流がおきているのか、トビが伐採跡地の上を旋回している。ヒヨドリのけたたましい声も聞こえる。間伐によって疎開された枝先をみるのはうれしい。霧が晴れて行くような気分だ。最後に直径30cm以上あるサクラの枯れ木を伐倒した。フットパス沿線のほとんどの手入れはこれで終えたから、3月末ころからは、病院裏の若く荒れた林を手がけることになる。

移動し苫東の小屋でいつもどおり遅い昼食となった。薪ストーブをつけると火の音に耳がダンボになる。で、片やで湯を沸かしながらストーブの扉をあけて炎の行方を観察した。今回も40分ほどで20℃弱になった。ノートで一年の来訪回数というか携わった日を数えると49だった。


病院から苫東へ行く途中の酪農学園の牧場。薪ストーブのガラスを
磨いたらこんなふうに。もちろん、磨きの材は灰汁。



室温45分で20以上へ 1222日(土)はれ 2

歯科医での治療を終えて、U病院へ直行する。雪の量こそ少ないが白銀の世界に様変わりし
、もう根雪だと思わせるような、寒さのあのボルテージを感じる。その雑木林を見て驚いた
。先日、笹を刈り払い周辺の間伐を始めたばかりのフットパスの短いルートが、エゾシカ、
ウサギなど数種類の動物たちの通路になっているのである。

特に驚いたのが、病院の患者さんやスタッフの方々が設置し直した切り株のサークルが、
実は動物たちのサークルにもなっていそうなこと。あの陽だまりが動物たちの集合場所に
もなっている、そんなことがフィールドのトレースから読めてくる。

10時半から1時まで、随分仕事ははかどった。そのわけは、前回まで片付けのパターンとい
うか見本を作ってきたと考えて、片付けは来春の人任せにすることにしたからだ。今日から
は、病院側の手ごろな療法の作業として、伐採木の丸太の片づけをすすめてもらえばいい。
すべての間伐木は
1.5mほどの長さに切ってあるから、運んだり片付けまとめるのは人海戦術
で楽しくやれるはずだ。小径を歩くとつい、片付けたくなる、しかも振り返るととっても達
成感が残る、そんなフィールドに来春はなるはず。

1時過ぎに苫東の小屋についてストーブを点け、遅い昼食をとろうとしたら、室温マイナス
6
℃のせいか、ブタンガスが気化しない。仕方なく、まず薪ストーブをたく。先週の反省か
ら、初期段階の焚きつけ=文化焚きつけ→新聞→小枝→中枝→薪の割ったヤツ→薪、の層を
ていねいに実行した。結果は大成功。点火時、室温がマイナス
6℃だったのがたった45分で
20
℃以上になった。これなら使える。

ブタンガスを薪ストーブに載せたりして暖め、おにぎりと「赤いきつね」を食した。今日か
らは、ここでは作業をせずに小屋生活(ヒュッテン・レーベン)を楽しむことにしたから、
アタフタしない。積雪のあるフットパスをつぼ足で歩くなんて無駄なことももうしない。今
日は、ぬくぬくとした鋳物ストーブの波動を背中に感じつつ、般若心経の解説書を読む。多
少、ウツラウツラして気づいたら
3時だった。…合掌。



平坦な林      左=苫東     右=植苗




わざわざ、選ばれている節あり

集いのサークルにも寄ってきて
いる


ここは動物のコミセン

かくして、通路となる

わたしの作業後。実はもっと
散らかっている


とうとう雪積もる    1216日(日)1度 雪

家のある苫小牧の西の方は雪が日陰にちょっと残るだけなのに、苫東の雑木林に着いたら、15cm以上の積雪だ。記念に数枚の写真を撮る。雪が少ないから、笹やブッシュがみえており、冬らしい清楚な美しさにはまだ遠い。

雑木林の手入れは、フットパスを中心にしてきたものがこの春で一段落し、あとは、風倒木やフットパスの障害になる丸太の除去などをするだけだ。となると、小屋の周辺では山仕事は当面ないことになる。ちょうど、腰の様子も芳しくなく、重いものを持った翌週は、かなり不調をひきずるようになった。こんなことから、この冬から来春までは、駐車場のそばで仕事が出来るU病院にしぼろうかと思う。そこで、体をすこし鍛えつつ軽い仕事をしていこう。凍てつく冬に、ばりばりと山仕事ができないのは残念で気がかりだが、56歳の今、もう若くもないのだから養生も大事だと思い始めた。遠浅町内会からはまだ作業の連絡がないが、いずれそっちも手をかけることになる。

となると、やっぱり小屋の周りでは今すぐやるべきことがなくなり、さしずめ、薪ストーブをたいて、小屋の生活「ヒュッテン・レーベン」そのものを楽しむことだ。食事、読書、薪割り、昼寝などなど。そう、それでいいのだ。思えば、晩秋から春まで、毎年毎年、追われるように汗まみれで山仕事をしてきたのだ。その間、薪ストーブとじっくり向き合うこともなかったような気がする。

つぼ足でフットパスを歩いてみる。30mほど行っただけで、歩き始めたのが失敗だったのではないか、と後悔した。重たいし、意外とぬかるのだ。歩き出した手前、意を決して前進した。カラ類の群れと遭遇したのでホーミーを送ったが、息が切れていて長く続かない。負荷がある。半分回ったあたりで腰が張ってきたのがわかる。

ストーブを焚く前の室温は0度だったが、戻ると5度になっていた。本当に加温が遅いストーブだ。やはり初期の焚き付けをもっと勢いを持たせなければならないのだろう。次回から気をつけよう。


ヒュッテンレーベンはこの薪の火を見ながら、ゴロゴロするのだ。
時折は、小屋日誌に駄文を書いて。かつてなら書き連ねただろう
若い憂鬱もいまはなく…。



シカ撃ちが通る

まだ、横付けができる

薪の木口が気持ちよい












人懐こいヤマガラ

逆さにも歩くゴジュウカラ

おおい、危ないよ!

一心不乱だ

わたしもこんな風に独りで歩く

小鳥と戯れる週末   129() 晴れ 4

年に数回、小鳥を手に乗せてみる。多少複雑な思いもあるのだが、神に少しわびつつここ数年続けている。長老に、米と玉蜀黍を砕いた餌を一掴みもらったのだ。昼前に北大の研究林に出かけてみた。車を降りて一人林道を歩いて大好きなミズナラの前にたつ。ヒヨドリのけたたましい鳴き声が随分遠くでしている。駐車場に車は数台見かけたが、誰も人はいない。きっとめいめい散策にでているのだ。

と、ハシブトガラがやってきた。おうおう、ちょっと待っててね、とほんの一つまみ、手のひらに載せると、ヤマガラとゴジュウカラとハシブトガラが交互にやってきた。7〜10gほどの重さだろうか。中にはわたしの頭や肩に止まるものもいる。はたから見れば異様な光景だろう。

芝生には枝打ちをしたばかりの枝が小さな山になっていて、そこにエゾリスが走り回っている。貯食の真っ最中なのだろうか。走行しているうちに、小鳥のやかましくなく音やってきて、バサバサと大型の鳥がかぶさろうとしている。鷹だ。小鳥を狙って追跡していたのである。小鳥は針葉樹の藪に逃げ込んだのだが、果たしてどうなっただろう。

陽だまりの林道を年配の方が歩いている。いくつかのコースで合計10人ほどにあっただろう。池の周りでは老夫婦がマガモにパンの餌をやっている。カモはなつきすぎて、帰ろうと車に乗る人をも追いかけ道路を横断するから、車はときにとおせんぼになる。手馴れたおじいさんが、車を降りてマガモたちを池に誘導する。「ほらほら、危ないっしょ」。のどかだが、確かに心配な光景でもある。だから犬の持ち込みはまずい。芝生には、シカの糞があちこちで見つかる。

こうして林道を巡っていると、生き物たちとシェアしているこの空間と自分とのあいだに、いつの間にか自然とつながりが生まれる。人々はこの感覚に浸るために時間を見つけてはここにやってくるのだろう。いや、この感覚に気づかなくともいい、何となくホノボノとした気分にはなれる。この感覚は、静かで満ち足りていて、こころの緊張も消えうせる。

1週間のうち、週末の数時間、身の回りのこんな林で過ごせるなら、人生はおのずと幸せな方向に傾斜していく。林はこんな風に、あるだけで意味がある。


野生動物との接近は人を魅了してやまない


病院の林から山ノ神参拝へ 128() 
             晴れ時々曇り 
2

この秋4回目の病院の林。風景はどんどん変わっていくのがわかる。5日、植苗病院の森林療法を支援している東京農大の上原巌先生がこの林の調査をされて、その夜、懇談した。そして2日後、早速調査結果の概要が送られてきた。やはり、わたしが今手がけている箇所の樹木の密度がヘクタールに換算すると15001700本程度だとおっしゃっていた。わたしはもともとそのあたりを目途にしていたから、納得のいく結果だと安心した。上原さんのメールによれば、1117日に長老と作ったフットパスのコースは既に患者さんとの利用を開始しており、評判も上々だとのことだった。

今日は、その楽しい手入れ作業を昼をはさんでタップリ二時間こなした。先々週、頑張りすぎて重いものも持ち、丁度一週間、腰の調子が悪く、もう重労働と長時間労働は、寿命を縮めるとつくづく思い知った。だから今日は軽くルンルン気分で終始した。特に、病院の駐車場に登っていく左側の見え方を、右とは全く違う形にしようと思うので、あのあたりを丹念に調整してみた。今、関係者でも気づいてくれる人はまずいないだろうが、来年の夏頃、意外にも写った画像で比較できるかもしれない。このあたりは、今のペースではあと3日ほどかかるだろう。

1時半ころ、つた森山林で、山ノ神に参拝する。一足早いが、1211日の恒例の日の参拝は無理だからこうなるのだが、長老との仕事も今年は休みになるので今回は独りで粛々と行うことにした。玄米、お塩、ビール、おつまみ、りんご、たらこなどをお供えに並べ写真撮影。お供えとは名ばかりのもので、すべて後の利用が決まっているのだ。ごめん、といいながら袋に入れ直した。お祈りは、公私にわたって丹念にとりおこなった。身の回りの幸せ、というのが一番の眼目になる。

長老に、今年一年お世話になったお礼に伺って、セルフでコーヒーをご馳走になる。最近手がけた窓の外のバードテーブルに、忙しいほど、今はスズメがやってきている。よく見えるように、こちら側に傾斜しているのがいかにも長老の仕事らしい。

 
つた森山林の山ノ神にて(左)   右は、今日小屋の前で気づいた黒いミズキの落ち葉。






病院前の林はいつしかこんな風に変わった。

小径もいい顔を見せる。

例えばこんな見え方が…

ウルシやブッシュの片づけでこうなる。

もっと徹底するとこうなる=植苗小中学校の庭の日差し。さすがにここまでしなくてもよい



コツコツ進む山仕事。

落ち葉はタオの妖精。

清めはイヤシロチの入り口。

中国産英国経由タップ。

風景を創る喜び  1124日(土)気温4度 曇り

U病院の林。落ち葉の下でざくざくと砕けるような音がする。霜柱である。気温が氷点下
でも雪がないこの時期は、山仕事はとってもしやすい。駐車場で着替えて、先週の続きを
始める。込みすぎているために、樹木らは自ら事切れるように朽ちていく。枯損木を整理


しながら、林のサイクルを感じる。腐っていないために薪に使えるものは、玉切りしてパ
スのそばに積んだが、使い道がないのはちょっともったいない。病院のセラピーの一環と
して、薪ストーブのセラピーがあったらいいのにと思う。

風土の息遣いを感じながら、風景を創っていく時間は無上の喜びである。それが誰の土地
であれそう思えるところが面白い。U病院の周りの林は、実にコブシとツリバナが多い。
驚くほどだ。これらは出来るだけ残している。

帰途、雑木林の小屋に寄る。落ち葉の道はとても美しい。いつものようにベランダを掃き
ながら、一番よく歩くあたりが、色が磨り減ってなんともいえない「ぬくもり色」を見せ
ている。この移ろった色合いは素敵だ。「奥のささみち」をちょっとめぐりながら、イタ
ヤカエデを探すが意外とない。

先日、英国の知人からカエデの樹液を採取するタップを送ってもらったのだ。その使い方
を相談に長老宅に立ち寄った。いろいろ話しているうちに樹液は春先下から上に上がるは
ず、という結論に達した。それまでわたしが何となく想像していた取り付けと逆方向だ。
薪のなかからわざわざイタヤカエデを選んで、それに10mmのドリルで穴をあけてタッ
プを差し込んだ。いい塩梅である。長老も、かつて植えたサトウカエデで試したいと考え
ていたようだった。札幌のシェフ・青池もそうだ。大人の遊び心である。これは
3月、楽
しみだねと語る。脇で聞いていた奥さんも子供のとき見たらしく、ポトリ、ポトリとしず
くが落ちるテンポを再現してみせた。



試行錯誤。大人の楽しみ。


U病院のフットパス開通  1117日(土)晴れのち曇り 4

今日はU病院の径作りである。病院のスタッフと打ち合わせして作業のつもりが、来た
のはわたしと長老だけだった。ま、いいや。大枠は告げてあるから、立会いはなくても
構わない。それに折角長老がブッシュカッターを持参しているのだからやらない手はな
い。長老と二人予定通り
9時から赤いテープをもって林に入る。どんなルートが最もス
ムーズかを考え議論しつつ、木にテープを付けていった。アウンの呼吸。この道筋の笹
を長老が刈り払い、両側の不要木・枯死木・ツルなどをわたしがチェンソーで切ってい
くのだ。

段取りもよろしくいよいよ開始。風倒木も切りながらだから長老には追いつけない。長
老は
11時頃に一周400mほどを軽く終えた。わたしが終えたのは12時ちょっと前だった。
なかなかのいい出来だ。二人の作業では随分早い。T先生から携帯に電話が来た。予定
変更のメールを出し忘れ、今、仕事で鹿児島にいるとのこと。

30分の昼食後、病院の正面の林に移って、わたしは間伐、長老は斜面沿いにもう一本の
径を刈り払った。ここもわたしが後ろからおさらいの手入れ伐をした。長老は一時間ほ
どして用事のため帰宅、わたしはさらに抜き切りに励む。もう止まらない感じだ。

風景がみるみる変わって行く。里山のにおいがしてきた。2時過ぎにやめて手入れして
きた跡と、療養の広場を歩いてみた。いい。実にいい。あと
23日あれば正面の林は
一帯全体が段落する。手入れの林は絵のキャンバスみたいなもので、わたしにとってみ
ると「憩いの林づくりの作品」にあたる。林の手仕事が教えてくれる人生、手仕事が与
えてくれる充実。雑木林の手入れに関わるようになってから、頭でっかちな発想が消え
た。手仕事のおかげだ。

作業を終える頃、一人の女性が療養の広場にやってきて
30分ほど深呼吸のようなことを
していた。こうやって使われているのなら、なおさら励みになる。
ここにもうひとつの
原点がある。

寒風が吹き始めた中で着替えをしていると、猫が2匹、ニャーと寄ってきた。黒猫と三
毛猫で、どうやら四阿(あずまや)にタバコを吸いにくる患者さんらが餌をあげてい
るようだ。それでしばしば林の中からやってくる。哀愁に帯びた声に、非日常を感じ
る。帰途、ウトナイ湖によってハクチョウを見た。これも少し切なげだった。


 
伐採跡地が素敵だ。空はこんな風になって。 鳥たちは無邪気だ(-_-;)   


病院の北東側の林。風倒木も随所に

長老がまず刈り込む。アウンのルート作り。

療法のステージ1

療法のステージ2


「エデンに寄せた語り」の余韻をメモする 1116日(金)
〜エデンからカムイミンタラ、イヤシロチ〜

休みへの願望は暦のサイクルに左右されない。体が欲する休息、こころが発する一息を求
める声、それらは週や月のリズムとは無関係にただ日常に積み重なる。今や休日だって本
当にプライベートな時間なんてあるのだろうか、なんて思うことも多い。そこへ、休める
契機が見えると突如「よし休もう」とあいなる。仕事の休暇願いを出して今日休んだのは
もうひとつ、一昨日のある会のやり取りを整理しておきたかったからだ。

それは、造景と造園、英語のランドスケープとガーデニングの世界の話だった。その世界
で生きていたわたしは、今もここが自分のもっとも関心の高いメジャーであることを痛感
した。もっとも執着するテーマとして、生業はどうあれライフワークとして関わるだろう
テーマを、HPのタイトルにしていたことに自分で思い出し、そして少し驚いた。

○第一幕

マチ計画の良心で北海道のあり方を提言するK教授、和洋のカリスマ造景家Tさん、今、
日本でもっとも刺激的な造園マガジンBを作り続けるY編集長、プロ・アマのガーデナー
と地域・行政をつなぐAプロモーター、道の風景で地域からの発信を支援するK事務局長。

「北海道の今、エデンとはなんだろう」

「山野草を特集すると必ず大きな反響がある」

「庭で自分の庭に客観性を持たせるようになると世の中変わるかもしれない」

「北海道は不景気というが、実は今、蓄積してきたいい面が、出始めている」

「イザベラ・バードが絶賛した赤湯の風景は世界標準から見てどうなんだろう」

「赤湯は閉じた景観。豊かさ、高齢、成熟の象徴」

「森でいうと、包まれるような、中に入れる森は意外と少ない」

「庭は、自然、田園、生業・産業部分との接点だから、特別な意味がある」

「庭を通じて人々の目は着実に肥えてきている。ローカルのアマ・ガーデナーを
超えてグローバルな感性が育ってきた」


「人間のエゴがやっちゃいけない景観の相場を崩してきた。ガードすべき園
=エデンの囲い方はいかに」


「釧路では、都市の造園から離れて自然を復元していくガーデニングが生まれて
きた」


「野の花回帰。読者のこころに響くキーワードになっていた」

「生活感覚が森をよくする」(庭と地域をかえるように)

「修景林施業」

「北海道に行くとこういうエデンに会える、とすればそれはなにか」

「自然の造景・風物・食との劇的&日常的出会い」

「デザート・サファリのような発想の転換もある」

「自然の心地よさ感覚には温度差がある。人工空間から大自然をみたい需要も
ある」


「北海道でしか感じられない里ごころはないか」

「年寄りの居場所はあるか」

「オーガニック。こころのオーガニック、それがエデンか」

わたしは傍観者として聞き耳をたてながらポツポツとメモをとった。「雑木林&庭づくり研
究室」を主宰するなどと表面上書くわたしだが、実は魂が震えるような共感があり、そん
言葉が続いた。風景や造園の仕事を離れてから、ほんの時折しかこのチャンスはなくて、

んな折には、わたしの使っていない脳の部分が興奮るのがわかるのだ。この日もアドレ
ナリ
ンが出っ放しだった。

○第2

場所を代えビールを傾けつつ話は続いた。わたしもそこへ誘われてご一緒し、カリスマた
のお話に入り込んだ。こちらはますます面白い展開になっていった。「北海道のエデンと

なにか」。この問いかけはとても気になるテーマだ。

わたしは、とてもローカルな林の手入れをしてきて、気づいたことをまとめた。ひとつは
風水的な心地よさが土地土地のプロフィールとしてあること。切土はそれをいじってしま
う。切り盛りのない美瑛や湿原に風土的な美を感じるのはそのせいではないか。風水は大
きなガーデニングをするときの、基本ではないか。決して風水を勉強したとはいえないが、
方角、傾斜、日当たり、植生、風の入り具合とで具合などは、心地よい安全な空間を設け
ようという森づくりの刹那刹那に脳裏に浮かんでくる要素なのだ。そんな話をした。

そうしたら、十勝で壮大な森のガーデニングを手がけてきたカリスマは、設計にあたって
台湾から風水家を呼んで参考にしたのだとエピソードを語ってくれた。なるほど、その森
はアセスなど科学的なwestern aroach と風水による eastern approach の両面から検討を試
みたとある紹介されているのを発見した。事実、わたしはその森が妙に独特の雰囲気
と心
地よさを持っていることを知っていた。そこで働く若い方々も元気がよくていい顔を
して
いる。
23日前もそこの若い女性スタッフに会ったばかりだった。

北海道のエデンの語るときに知床に代表される生の、野生生物との出会いも象徴的だ。ヒ
グマ、エゾシカ、オオワシ、サケなどをみながら、人間と同じほどの大きさの生き物と共
に生きている感覚に初めて驚く。そして大型の動物が自然に生かされているのをみて、ひ
ょっとして自分も、このわけのわからない自然の神様のようなものに、生かされているの
だろうか、とふと気づく。そこには初めて霊感のようなものが漂う…。知床というところ

は人々にとってそういう場所ではないのか。屋久島も白神山地もきっとそういう側面を併

せ持っているのではないか。

わたしは「風水」と「野生にみるスピリチャリティ」の話をちょっとずつしながら、本当
は先生の問いかける「エデンはなにか」に懸命に答えようとしていたのである。なぜなら
ば、わたしの週末日常における林の営みのテーマが、「気持ちのよい空間どどうつくるか」
「大スケールの林のガーデニング」だったからである。

その典型を、小屋のベランダの掃き掃除に見つけたのだった。小屋の入り口までのアプロ
ーチを刈り払う、あのなんでもない行為もそうだった。手入れ、あるいは清め。そうして
出来上がる空間というのは、「イヤシロチ」だった。そうだ、ガーデナーはイヤシロチを
指しているのではないか。風水テクノロジーも恐らくそこへいく。風景や空間のイヤシ
チとともに、実は人間関係のつくる「空気」も実はイヤシロチを求め続けている。こち
は、テクノロジーというより道(タオ)ではないか…。

わたしの連想はそんなふうに広がっていった。その先に何か見えるようだった。と思った
とたん、さまざまなことがまたつながりだすのである。「エデン」。この日はこの言葉で
、思いがけない発想の旅ができた。

そして再び「エデンはどこに」というK教授の言葉に戻るなら、今は、アイヌ民族が言う
カムイミンタラ(神々の遊ぶ庭)と答えたい。カムイミンタラは、大雪山のお花畑とか日
高山脈の主峰・幌尻岳の七つ沼カールのようなヒグマも大好きなあんな場を想像してしま
いがちだが、白老のアイヌの方々は、海岸や原野のお花畑なども、○○のカムイミンタラ
と呼び、どこにでもあるという意味のことを聞いた。つまり、カムイミンタラは場所と時
を越えて移ろうのだといえるのだ。もっとも美しい、アズマシイ、心地よい空間が移ろう
…。

わたしは冬のある日、カラマツの間伐をしているある瞬間に、そこはほんの小さなゆるい
くぼ地だったが、光線と地面と植生と空気が作り出した墨絵のような空間が生まれており、
これはまぎれもなくカムイミンタラだ、と確信したのだった。精霊たちが遊ぶ、そんな空
間。神々の妙に、人のちょっと手入れした林、そんな場にも神々は遊びに来る、わたしは
そう思うようになった。

そのみちに生きる先達たちの話に触発されて、こんなメモをしたためる羽目になったこと
は、望外の喜びである。



*画像と文の関係はありません






































































日高のフォーラムと“ヨガ”  111011日(土、日) 
               晴れ→曇り→雨

土曜の午後から日高ケンタッキーファーム(以下HKF)で、うてきあに環境共育事務所
主催のフォーラムにパネリストとして参加。世代的にはわたしより大分若い方々が中心。
皆さんは夕方まで分科会を行うが、わたしは日曜の
9時過ぎ、早めに退出した。フォーラ
ムのテーマは「自然と地域とひとのつながり」。基調講演は、「つながりの中で生きると
いうこと」(九州のNさん)、隠れたテーマは「つながり」のように見える。そしてわた
しがつくったパワーポイントの資料のタイトルは「地域で輝いて生きてみせる意味」。全
体になんか意味不明かもしれないが、簡単に言えば環境(自然、社会問わず)教育に関係
する先生、
NPO、その他さまざまな法人、個人などが集って共に育みあう、というもの。

HKFは雑木林から30分ほど。もう、カラマツが金色に輝いて、一般宿泊客はもういなか
った。手入れされた林と馬の居る光景、点在する建物、ロッジなど、ちょっと別天地であ
る。ここで語られる、現場(ローカル)に重心をおいた熱い話はなかなか迫力があった。
まだビジネスになりきってない部分も残るつらさはあるが、胎動期かもしれないという予
感もする。人見知りをし、社交的なセンスはない当方だが、この場に居合わせる必然性が
あると思わせるところが、このつながりの不思議なところだ。

意味がある出会いだったと思いながら、朝、会場を後にして雑木林へ戻った。冬の準備に
焚き付けを少々作ってから、フットパスに掛かっていた倒木と傾斜木を片付けた。
55年生
のカラマツ傾斜木はしかし、ナラノキに掛かったまま止まってしまった。ナラを切ったが
、これはさらに隣のカラマツに掛かったままでジ・エンド。直径
40cmのカラマツを傾斜
したまま5つに玉切りして、神経を使う作業をやめた。小屋に戻ってしばらくすると雨が
降り始めた。


人と人のつながりは愛と信頼。そして人と自然は?と考えていくとふと思い当たる。
ヨガである。風土と人、その人と宇宙が結ばれる、その結ばれることをヨガというらし
い。ということは、今回のフォーラムはかなりヨガっぽいことになるかもしれない。
事実、そんな香りは冒頭からあったのだった。


夜のセッションで獣医さんが
ミミズクを披露




さらに落ち葉でいっぱいになった。直径30cmのナラはここで動かず


鵡川でシシャモを購入


「乗ってよ、運動したいから。
負けとくよ」



HKFのコテージ群


センターロッジのベランダから
早朝はヨガ教室が行われた。

焚き付けを集める  113日(土)晴れ 10

この1週間で葉っぱが3分の2落ちた。おかげで雑木林はとても明るくなってきた。したがって、林道や小屋の前は枯葉に覆われ、地面が見えない。もちろん、冥想テラスも葉っぱが5cmほど積もっている。気温は10度。薪ストーブを点火するか実に悩ましい温度だが、明るくなった部屋でくつろぎながら日誌も書きたいから意を決して準備に入る。

カラマツの林で枯れ枝を拾う。これがもっとも簡単で火付きのいい焚き付けだ。去年までは雪が積もってから枝を拾ったから見つけやすかったが、今、笹の中にこれをやるのはちょっと難儀だ。それでもリヤカー半分になった。郷里に居たときは台風の直後などに、鎮守の森に母とでかけてたくさんの杉の葉を拾った。なつかしい思い出だ。実家では焚き付けに杉の葉を使っていたのだ。そして竈の燃料は、桃、りんご、クワの剪定された枝だった。完全にリサイクルされていた。

フットパスを歩き始めると、北の方で破裂音がした。恐らくライフルだ。ふたつ。林道でピックアップとランクルにあったが、ハンターだろう。しかし、猟期は15日からではないのか。密猟ということにならないか。

17日はU病院の林の手入れ、その次の週は遠浅で町内会の方と手入れのうちあわせの予定。こちらはまほろばの風倒木を片付けたい。今年は腰の無理をせずにゆっくりいこうと思う。

(デジカメを忘れ画像は携帯から)

リヤカーに枯れ枝を集め、ストーブを点火し半年振りの日差しで日誌を書く


一面の落ち葉だ

日差しに映える小屋

フットパスも

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雑木林だより  4
雑木林だより  4
雑木林だより  4
雑木林だより  42
雑木林だより  41
雑木林だより  40
雑木林だより  39
雑木林だより  38
雑木林だより  37
雑木林だより  36
雑木林だより  35
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