2009年の扉は開く
NO.53
2009/01/01〜

年末になって、石城先生の新著『森林と人間』がだされました。
内容は、北海道の人口17万人の工業都市「苫小牧」で
異色の都市林づくりを続けてきた足取りと、科学者の座標軸でした。

これはわたしにとってもとても貴重な羅針盤であり、
これからの道しるべともなるものと瞠目しました。
折りしも、2009年は勇払原野の保全と利活用に向けた
成熟と新展開の年のように見えます。

方々で行われた営みがバーストする、そんな社会的な核に
この本はなるのだろうと思います。


昨年までに終えた手入れ地

込むと枝先がぶつかる

その枝先を比べる。右はのびのび、左は枯れ始めている

今日の一仕事。春先に整理を手伝ってくれる人のために、玉切りする

病院の新しい作業地で  2月28日(土)晴れ

病院のアクセス路。右は終了済み、これから左。

雪はまだ深くてどこも難儀しそうだ。苫東はやめて植苗にしたが、それでも50cmはあるだろう。病院でいつも雪道をラッセルしてくれていた男性の患者さんが退院されたとのことでその後フットパスはどうなっただろう。ちょっと覗いて見るとフットパスの入り口あたりが土木工事中で立ち入ることができなかった。

先日、札幌ウッディーズの方々が手伝いに来てくれたが、実は昨年から手伝いたいとおっしゃる方が待っている。お一人はガンと闘病中の女性の方、もうお一人は退院されたこの森の番人さん。何回か参加希望の声を寄せられており、どうも本当に手伝いたいという気持ちでおられるようだ。わたしもお断りする理由もないから手ごろな作業地を探していたのだが、病院へのアプローチの右側の林がまだ残っている。T先生を通じて打診したら病院事務局が地権者の許可を得てくれたので、まず枯れ木とツルの処理をまずしようと思う。それだけでも大分変わる。

これから手入れする区画

また3月末に京都で行われる日本森林学会で発表する際のパワーポイント用の画像もよういしなくてはならない。枝が触れてしまったために伸びがとまって枯れ始めた芽と枝の写真だ。少し日が傾いて寒くなった。そんな作業の終わる頃、倒した一本のナラの枝を選び数枚の撮影をした。



実家の前庭から裏の畑

畑のハウス

薬師さまとクスノキ

クスノキは枝を詰められ、周辺は除草剤もまかれているらしい。閉塞がわずかであることを祈って。

子供のころの相談相手「クスノキ」 2月15日(日)

14日のバレンタインデーに郷里山形で若い人の婚礼があって帰省しました。90歳を超え歩くのも聞くのもままならなくなった、大分痛々しい母が年末からようやく施設に入ることになり、その激励と様子伺いもありました。老いた兄弟たちなどと飲みながら、この歳だから初めて聞く貧しく暗い頃の家の事情とかは、50年あまりの人生の無意識部分に光をあて酸素を送り込むような面がありました。

三日目の帰る朝、裏の畑から分家との境にある薬師さまに顔を出してみました。玄関からの直線距離などわずかなのですが、小屋をぐるりと回っていくちょっとした別世界です。植え込みや盆栽があるのが前庭だとすると、こちらは少しばかりおどろおどろしい裏庭。

薬師さまの石組みの脇にはクスノキがあり、わたしの幼少の頃、このクスノキは自分の癒やしの樹木だっったと回想しました。祖父母がおらず親には怒られるばかりでほったらかしにされた当時、どこかいつか物悲しい自分を慰めてくれるのがこのクスノキの役割だったようです。石組みからクスノキに乗り移ることができ、クスノキは小さなツリーハウスならぬツリーベンチのようでした。

老いて人生を終える50台後半にさしかかって、ようやく見えてくる幼児期に刷り込まれた潜在的な郷土感覚、ふるさと意識。クスノキは氏神様の住む里山的な象徴で、アイデンテティの中心部分がどうもこのあたりだと知りました。畑の土をみているとそれはやはり土地の神様である「産土(うぶすな)」のにおいがします。これらの神々に守られてわたしの北海道ライフはあるのだなあ、と今回の帰省は妙に懐古的な時間に仕立てあがりました。

貴船川の土手(2年前の5月)

寺の境内の大ケヤキと月山(同上)



窓辺で小屋のノートを広げる



見慣れた窓の外は


ぬくもり

山仕事つながりは冥想つながりか 2月11日(水)曇り 3℃

自ら課していた山仕事のノルマのようなものから解放されて、随分と気が楽だがどこか物足りない。縛るようにして凍てつく小屋を根城に作業していた時期が猛烈に懐かしい。その懐かしさの分だけ、小屋を中心とした作業の優先順位はいまのところ落ちたかもしれない。しかし、ここの小屋はケルト族ドルイドのネメトン(小さな森、聖地)のような依り代であり、依然として林を発想して行く基点であるという点はゆるがない。

午前中に雑事を終えて今日は純然たるつかの間のヒュッテン・レーベンを楽しむ。林道の入り口に車はおいて10数分林道を歩いてくる。通いなれた道だが、よく見ると、入口部分の送電線のオブジェは文明と自然の関係において象徴的だ。

先日小屋においでになったばかりのウッディーズ面々の書き込みをストーブのまえで拝見した。こういう時間が、実は小屋らしい時間だ。思い出すと、寒いベランダで、「ブッシュカッターなどの集中した仕事は行動的冥想にそっくりだと思うんです」と個人的感想を述べたのだが、なにも刈り払いだけではない。一人で黙々と木と向き合い山仕事をすることに無常の喜びを感じている面々は、冥想の実践者といえないか。

そこで妙なことを思い起こした。ある有名な実践者は、100人のうちに一人の冥想実践者がいるとそのコミュニティは良い方向に変化して行くというのだが、面々との時間に流れているものは、山仕事仲間ということと共に冥想でつながって行くあるものかも知れない、と思い始めたのである。ということは、林や森に山仕事をするまで深い付き合い(仕事でなくともよいが)をするようになると、社会は変って行くということになる。そうか、人と林の付き合いは、そこへいくのか、と冥想ならぬ妄想が浮かんできた。でもこれはしばらく温めてみたい構想だ。

面々の書き込みは次のとおり。
(慣習として、書き込みは支障のない範囲を勝手にきめて時々HPに掲載させてもらってきた。今回も本人の了解は得ていませんので、匿名のまま以下へ。)

「今はくもり。焚き火を囲んで楽しい時間を過ごしました。いいにおいです。今日はフットパスを歩くことができませんでしたが、次回にはゆっくり歩いてみたいです。どの季節がいいのでしょうか…。 N」
「憧れの人にお会いできて幸せ気分です。雑木林も草苅さんもとても心地よい。A」
「草苅さんは木から気をもらうのだそうです。俺は草苅さんからやる気をもらいました。森づくりに向けてやる気がでてきました。ありがとうございました。T」



作業前の現場

大分片付いた頃に
















手入れの跡が残る
ツルも細かくしていただいた


苫東の林道を歩いて小屋へ


歓談の場

山仕事仲間の共感 2月7日(土) 晴れ 1℃

森づくりをサポートする集団「札幌ウッディーズ」の面々が、モーリー12月号に掲載された里山特集(表紙とグラビアの写真と中の文章を苫東からの発信)をご覧になった関係からか、苫東のフィールドにお邪魔したいというオファーが、先方の事務局のTさんからあった。わたしより丁度ひとまわり先輩にあたるK代表とTさんだけど、毎月送っていただく「森林人(もりびと)通信」を拝見していると、会の行動も林への愛着もすごいものがある、といつも感服させられてきた。

一応、ここの雑木林がもっともそれらしい表情を見せてかつアクセスしやすい時期をと考え、4月の中旬から5月と申し上げ訪問日を一応設定した。しかし、どうもお尻がむずむずする感じがある。なんとなく、メールの文面では、冬でもいいからすぐ行きたい、というニュアンスがにおってくるのだ。それでもう一度交信し、今週か再来週ならOKです、としたため、悪乗りして、今季はU病院の林の手入れ中だからお手伝いしてくれますか、という伺いも立てた。そうして、腕のなる集団らしい返事は案の定、間髪いれずに「合点(がってん)だあ!」と相成った。

作業前に裏のフットパスへ

午前十時、Tさん、そして山仕事のプロのAさん、女性のNさんの3人と病院の駐車場で落ち合い、まず、患者さんが歩くやや雪をかぶったフットパスを案内した。そうして、おもむろに作業の準備に入り坂を下って現場へ。現場というのは病院へのアクセスする坂の右手で、ずっと前からツルに絡めとられていた。それがまさに病院へ右折した正面に壁のように広がっていた。樹木たちは呻いているような表情で、手入れもされないまま放置されていたものだ。


Aさんが真ん中の処理を担当

わたしは気になって仕方がなかったが、土地の所有者の了解を得なければならないなど面倒な前裁きもあったのでそのままにしてきたが、それが、T医師から土地の所有者が了解しているというニュースが入ってきた。林の手入れも庭造りも一種のイヤシロチづくりだと考える当方だから、そんなわけでこの春は、是非、片付けようと思っていた場所だった。そこへ「腕の鳴るウッディーズ」だ。ツル切りや風倒木処理は結構熟練を要するから、今日の面々のような方々なら安心して作業ができるし、わたしも独りでやるよりずっと気分が滅入らないでやれる。一人のツル切りはうんざりするのだ。

作業開始から一時間あまり。斜面のぬかる雪にやや難儀しながら(といったら積雪1.5mのTさんに笑われた)斜面の「呻吟」は霧散した。ひとつだけ、ツルが枝に絡まったままのものが残ったが、ツルが枯れたらまもなく風で落ちるはずだ。

それから苫東の現場に向かった。入り口の土手状の段差はやはり越えられないので、歩いて行くことにした。小屋の中は外より寒いからランダの反割りドラム缶で焚き火しながら昼食をとった。そして山仕事の積もる話が延々と続いた。驚いたことに、本当に林と、樹木と、そして山仕事をこよなく「愛する」人たちだった。いかに愛するかを、他のいろいろな趣味と比べて、山仕事をいずれもの上位におく。3人ともそうで、もう一人のわたしもいつからかそうなったのだと白状した。だから、全く普通の山登りや山スキーに出かけなくなった。できれば日がな山にいて、できれば山仕事をしていたい…。できればあまり人のいないところにいたい…。これがぴったりと一致する共感、そしてそこに生まれる同胞感覚。当然ながらうれしい時間が流れる。

反割りドラム缶の底が腐り始めているために盛大な焚き火にしなかったのが悔やまれるが、それでも日がやや傾きかけるころまで林に向き合って歓談した。Nさんは林道を戻りながら「これからがいい時間ね」と嬉しいことをおっしゃる。「そう、マジック・アワーですね」とわたし。

もう冬の日が傾きかけて頃合というのは、寒さもジンジンと感じ始めるのだが、「どうです?小鳥を手にのせてみませんか?」というわたしの誘いは当然のように受け入れられて、向かった先では小さな歓喜の声があがった。



ここでスキーを履く

↑以上は柏原



広場は既に動物の足跡

清掃されたシイタケ小屋

ここも宴の後の落ち枝

快晴強風の林へ 21日(日) 快晴 −3℃?

午前の雑務を片付けて柏原方面に出てみる。もう、新雪はなくて堅雪状態だからスキーにスパッツは要らない。林道の交差点に車をおいてすぐスキー靴をはきスキーをアジャストする。この間1分。晴れているのにすごい風。南東に畑を突っ切るときは風を背に受けて快調だったが、ぐるっと防風林を一周する頃、まともに受ける風は、まさに空っ風だった。ウサギ、キツネ、イヌなどと思しき足跡が雪原を縦横斜めに横断している。

ウサギの宴 雪原にて

強風の雪原を後にして、つた森山林に移動する。ハルニレの広場の方へ入ると人の形跡がなく、何となく思いついて池へ向かって左に曲がった。やや行くと急にザザザと音がして4頭のメスジカが凍った池の上を一目散にはしって行った。池の面する陽だまりは雪が解けていて彼らの溜まり場になっていたようだ。白っぽいタカが太い枝から飛んでいった。ノスリのようだった。

林道に大枝が落ちていて、動物の足跡が無数にある。サクラの枝が風で落ちその新芽を、シカとウサギがむさぼったような跡に見える。サクラのふくらみをこぞって食べたのだろう。それほど冬の食料というのは真剣勝負ということか。ウサギがタラノメの先を根こそぎ食べている。

誰とも会わない、雑木林の陽だまり散策。休日のちょっとした外出だけれども、30分圏内にこんなフィールドがあればやはり幸運といわねばならない。身近な緑と散策のフィールドは、「自分だけの」と思えるほどに精通してくると、相手が別の横顔を見せてくれる。帰宅してから小一時間も立たないうちに風雪に変わった。これも超ラッキー。

  






新月と炭の意味  130日(金) 〜31日(土)                    

先月の「森の学校」で、「炭とイヤシロチ」のことがオーナーのSさんとの間でちょっと話題になり、1月の例会の前夜、お邪魔することになった。植苗のT先生を誘ったところ丁度都合があったので、札幌の職場を定刻で出てから、T先生と森にお邪魔したのが午後7時前。

ゆっくりビールなどをいただきつつ、月のこと、新月伐採のこと、木炭とチーズ作りのことなどに話が及んだ。新得のあるチーズ作りのエピソードと炭の興味深い関係を聞いた。地域の森林に関心を寄せる人がさまざまな観点で間口の広い環境を語る。その機会を得て、夜遅くまでゆったりした会話が続く。若いスタッフも加わり、静かで活発な会話が弾んだ。

それはこれまであまり本気で評価されたことのない勇払原野が、新しい価値基準で真骨頂を見直される会話にちょっと似ていた。わたしは35年、これといった評価も発信できなかったが、ここへきて急旋回している感を持つ。B級自然「勇払原野」。わたしはそう呼びながら、このどこにでもありそうで、ない、原野の実像をこれからも見つめたいと思う。


泊めてもらった部屋の広い窓から果てがないほど続く雑木林の全貌が見え、これは圧巻だった。寝る前の、闇の中の木々。そして朝まずめのひと時も、雑木林は圧倒的な静かな表情で迫った。冥想は窓越しの林からシャワーのような波動を感じた。なにか、独特だった。





(ガルミッシュにて)

(ガルミッシュにて)



(ベートーベンも歩いたバーデン
のヘレーネ渓谷)






























風邪の中の「森と健康を考えるツアー報告会」 
125日(日)はれ

金曜日は朝から、ひさびさの風邪症状だったので、この日に出すべきメールなど雑務を片付けて午後一番に早退して帰宅し、横になった。翌土曜日1/24に「欧州の森で森と健康を考えるツアー」の報告会と、苫小牧で懇意にしていただいている方々との新年会がダブルであるからだ。おそらく、風邪は土曜の朝まで快癒しなければもう一度ぶり返すだろうと少し悲しく覚悟したのだが、まったく予想どおりの展開となった。

     

ツアー報告会(札幌駅前の佐藤水産ホール)は、昨年7月に米コロラド州でボードウォークツアーに参加したHさんと欧州の2部構成。Hさんは、一歩踏みこむアメリカらしいチャレンジングなプログラムとボランティアが活躍するボードウォークについて紹介した。林そのものはサボテンも混じる植生であり、スプルースの大木のある光景とは一味違った場所だった。

2部のヨーロッパでは、阿寒の森を管理する財団のNさんが、ウィーンの森と阿寒を比較してみた表など、意欲的な内容の画像含め100枚を30分弱で紹介。道職員で今回個人的に参加したSさんは、子供の環境教育や散策の際に目に付く小道具に着目して紹介した。3番手に登場した中頓別の医師・SUさんは、医療の立場からわかりやすく興味深い話を披露。

そのあとは、参加者全員とフロアが車座になって意見交換。ビールの味、味覚など身近な話題から、地域の緑の話などとリンク。いきたくなる森はどうやってできるのか、日本人に森を歩く習慣はあるのか、など大きなテーマも提示された。

      

森のアクセサビリティは、身体にハンディのある方には特にボードウォークやバリアフリーなどのインフラがどうしても必要になってくる。ハンディのない市民にとってのアクセサビリティは、身近であることとその「質」であろう。そういう意味では、里山など最も直近の林をどう生活の中に活かすかの工夫は大きい意味がある。また、身近な森を森林法のわくぐみではなく都市計画法という法律のなかで再考するべき課題になってくるだろうと思う。

また、身近なところに林があっても、いきたくなるイヤシロチのような林かどうか、質の問題も大きい。手入れのされていない暗い陰鬱な林にはそうそう行きたくはない。

さらに林は内観を促すリラックスの場なんだと思う。しかし、自分と向き合う時間というのは慌しい日常でなじみのないひと時に代わり、向き合うことそのものを拒む時代ではないのだろうか。悲喜こもごも、自分と向き合う最も手ごろな空間が、光線の弱い林の中にあることに気づけば、林や森に行きたいと思う「習慣は育つ」と思う。あり方論で言えば、それは都市林あるいは大きな都市公園と言えるのではないか。今、仲間と勉強中のコミュニティ・フォレストもまさにこれからわたしたちの周りに在って欲しい緑の理想のような気がする。

土曜日はそんなわけで森の画像をたくさん見て、深夜まで会合をこなした。声は割れて日曜もずっとのども気管支も痛んだが、どこか、養生できなくても仕方がないと素直に認める行動だった。さいわい、今日の改めての養生でリカバーできた。






ウサギ、キツネ、エゾシカの
足跡は多数


白銀の雑木林を歩く  1月18日(日) 外−1℃ 中−6℃

息抜きに雑木林にきた。林道はもう40cmも雪が積もって、セダンで安心して入る状況ではなくなっている。迷わず車を入り口に捨てて長靴を履き、15分歩いた。陽射しはもう春かと思うほどまぶしい。雑木林もすこぶる明るい。シジュウカラ、ゴジュウカラ、コゲラがさえずりながら、枝や幹をついばんでいる。やはり来てよかった。


室温は−6℃。ストーブに薪を焚いてからノルディックを2階から出して出かける。雑木林はいつも美しいが、笹が隠れた平坦な風景も乙なものだ。昨年、イタヤカエデの樹液をとり、同じ記の枝を削って栓をした跡を点検したら、もう跡がわからない。傷らしいものも樹液の滴りもなく癒合したようだ。安心した。ぐるりと一周して小屋に戻る。
傷口は埋まった

室温は16度にあがっていた。何をするわけでなく、外の風景を見ている。そして薪をくべる。無為の、音のない独りの時間。よし、来週も来るべし。作業がなくて楽ちん。









週に1回は林へ   2009/01/12 MON 2℃

3連休はのんびりしました。天気も悪くどこへも出かけず、アンケートの整理とメールの
書き込み&返事と読書。といっても3日目の今日、合間をみて研究林へ。10数台の
車が駐車場にいて、見えるところに何人かの家族連れがみえました。野鳥を手にのせ
ているおばさんもいましたが、わたしはあんまり人前でしない。神社の前とか、ずーと
離れた山のなかとか。

しかし、人と会いすぎるので、ちょっと落ち着けなかった。散策とはわがままなのです。
きむずかしさを無防備に外へ出してしまう、散歩というやつ。














病院から遠浅へ  2009/01/04 sun

9連休は休み応えがあるけれど、結局雑用に埋もれて予定した本を読みきれなかった。
現場の仕事も29日にちょっとしただけに終わった。しかし、なんとなく、満足感はある。

昼前、U病院から現場に向けて出かけてみる。フットパスはいつもどおり、着々と踏み固
められ歩くのには最適だ。ぐるりと回ってみる。結局、U病院と遠浅の神社を巡って終わ
った。

それでも十分である。



           


















石城先生の新著『森林と人間』で思い起こすこと  2009/01/01

もと苫小牧演習林の林長だった石城謙吉先生が岩波新書から『森林と人間』という本を出
版されました。この小さな本には、従来の森林観や自然観と一味違う斬新な視点があり、
それは恐らく20年以上にわたって人々の憩う都市林を自ら手がけた経験、試行錯誤、思考
に裏打ちされているからだと思います。2008年の最後の月に綺羅星のようにフィナーレを飾
ってくれたこの著作に、ネット上で出版のお祝いを述べ、少しだけ思い出を重ねてみたいと
思いたちました。

というのも、ひとと林がどうすればもっと近づくことができるのかは、わたし個人にとっ
て自分のフィールドを越えた人の生き方の面で長い間懐いてきたテーマであり、今回の著
作はそこの部分にかなり大胆に座標を与えてくれる記念すべきものでもあったからです。
森づくり・都市林づくりで編み出されたその哲学も、既成概念や大学というわくぐみと厳
しく戦った経過もともに描かれていて、わたしにとっては緊張を解けない静かな静かな展
開の連続でした。

先生は1973年に苫小牧に40歳前後で演習林長に赴任。わたしは遅れること3年の1976年
に24歳で苫小牧に学卒で赴任し、工業基地の緩衝緑地の森づくりに従事したのですが、先生
は当時、わたしが従事していた開発プロジェクトに反対する市民運動のリーダー的存在で
もありましたので、敬して近寄れず、の関係で居ました。まるで敵味方の陣営の開きだっ
たのです。

ところがややして、小さな町だから当然なのですが、どうしてもお会いする機会があり、
そのとき先生は「反対賛成のイデオロギー的なものはこの際離れて森を語ろう」という意
味の発言をされ、それ以来、現場で発想するという森づくりのステージ上で、よくアドバ
イスをもらったり、こちらも生意気にも経験上から考えを述べたり、という往来がありま
した。苫小牧で森づくりというプラットホームを持つことができる、わかいわたしにとっ
てこれは大変ありがたいことでした。

先生には、既存の枠組みではなくフィールドで発想することを学びましたが、実行するこ
とは生易しくありません。そんなもがきに似た話も、親身に耳を傾けてもらいました。先
生はどんなわたしの考えも否定せずに補完しながらその先の課題を開いて見せました。
わたしはそのつど、とても動機付けされ、フィールドで考えながらキャンバスに絵を描くよ
うな営みを続けることになりました。それに子供たちは3〜6歳前後の頃はずっと、週末
は演習林でお昼ご飯を食べてきたので、演習林の存在は日々の生活の中で占める位置
は小さくなかったようです。身近なところに現在のような演習林がある幸運というものも市民
がよく感じていることだと思います。

それから20年余り、演習林の森づくり・都市林づくりを観察しながら自分のフィールドで
考え緑と向き合ってきましたから、この本はわたしにとって、自分の足取りに重なるもの
があり、格別の意味があります。そしてあるときから、苫東でわたしが取り組んでいたこ
ともひとつの都市林だね、と都市林づくりの範疇にいれて話されるようになりました。ま
た、森林風致のささやかな実験をしていたころ、レポートを見ていただいた際は、もっと
時間をかけて研究に取り組んではどうか、とご助言をくださいました。民間の職場でもあ
り実現の可能性が乏しかったので辞退することになりましたが、これもとても感謝せずに
はおれない出来事でした。

そして、こともあろうに、先生が『森林と人間』を書かれる4年前の2004年にわたしは
『林とこころ』を世に出しました。森林ではなく里山的な林というフィールドであり、
人間や人類ではなく、市井のひとりの庶民が林との付き合いでみつけたごく主観的な
「こころ」を扱って、それを素直に驚きをこめて書いたのが拙著でした。今になって
思えば、山仕事はかなりスピリチャルな部分を誘発し、その発見が背景にあるために、
サイエンスとはかけ離れた代物でした。しかし、そこに、人と林が乖離してしまった原因
を探る鍵もあると思えるのでした。先生はこれをご覧になって、遂にこういうのが出るよ
うになったか、という意味のことを静かにおっしゃったのを覚えています。

先生はすでにずっと以前から「森林と人間」という壮大なテーマでことにあたられ、構想
を練っておられたことが今回の著作で明確に知ることができました。昨年春頃、「都市と
人間をテーマにして原稿を書いているのだが、これがなかなか書けないんだ」とおっしゃ
っていたのが実はこれだったのだと思います。

年末の押し迫ったクリスマスの日、紀伊国屋でこの本を見つけ、列車内で食い入るように
読みました。家に着くと食卓の上に署名入りの同名の赤い本が届いていました。望外の
喜びを感じたのは言うまでもありません。             










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